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   生 滅      春間 則廣  2017/10/18(Wed) 08:50 No.54420 [返信]


>> 原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。
>  原因を滅すると表現しますよね。

“表現” と “原因”  という語 を 選択することとは
表現の仕方 で 差が起きます

“表現” という語 を使用するとき “原因”  が起きます 
何故 “表現” という語 を使用するのか という 原因には 
既に 使用法に係る 結果の想定があります
 ( ないとするなら ないとする 論を組み  表現します  )
“ 結果 ” は “ 原因 ” の 行き着くところです

>  別に滅する必要はないのではないかと思うようになってきました。

なぜ必要か  という  哲学的 「論」 に
必要の 「因」 があります (  >  これを「行」という  ) 

「死」 という  「果」 が  起きるには
「生」  が ( 原因 = 諸行の 自らの 所行 として ) 起きなくてはなりません

考えても 生きている
考えなくても  生きている ( 生を問わない → 「 不生 」 です )

不生 とは 生きているかどうかを 問うことではなく、
問わぬことでもありませんが
問うから 問う主体と客体化される概念
 との “狭 ”間  に 「不生」 が 起き 認識の溝は広がっていく 、、、、

   滅する  という 語  が  ソゴ に あります

翻訳の 語  として  「滅」 を 受けるから
訳に対する 自らの解釈( 訳 = 選択上の気分 ) が 起きます
それに対して 「唯嫌揀択」 が 置かれます

「生」  とは  誰でも受けていることで
 受けさせるには  苦痛を伴うともいえますが
  ( 出産 あるいは それを支える 経済活動 ) 
  ( この場合 “経済” とは 少し 違う概念 だと知ってください 、、、、 )
  ( それぞれにある理財を維持する あるいは 経世済民  )
 受ける には 難を用いません ( 誰でも知らぬ  内  に 受けている )

「生」 を 受けない者は “存在” を持たない
 ( モノ   は 生を受けて
   承けられた モノから 存在を与えられ 生 と 共に一体としてある )


こういうことを 考察(考えること) をしなくとも
楽しんだり 苦しんだり 迷ったり  することに  (生滅を問う)必要性は 起きません


>  原因がわかればそれで終わり。

終わり  という語 を   「滅」する  と      する  と
悩みの  生起   を   「生」きる   とで    きる ( 「不生」 が 起きる )

悩むに足る事かどうかは  原因を知るときの 生きるにある
と  知る とき ( 原因を知ると )
 ( 滅する のは 生きること という そこの場所における 観念 ) 
原因ではなく  生起させる そこにおける 「生」 にあると知る 

「行」  が 
 「苦行」  と 理解されています 、、、、

唱えるときには 「 クギョウ 」  と めざすところ に つながります

クワバラ クワバラ

 無痴 の 口 →  口  に矢を 立てる=突き通す     春間 則廣  2017/10/17(Tue) 12:13 No.54416 [返信]


四角四面 は どこの面 ?

*************

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

これにて、寂滅しますね。


乗れた!

*************

聞く者と 語る者 とが 同時(同じ場=同じ∃)にあり
聞く  と 語る  とが 異時にある

これを

聞く者と 語る者 とが 異時(異なる場所)にあり
聞く  と 語る  とが 同時にある

としたとき
これは 異事 であるか  オナジ であるか ?

意地 でも 知ろうとする 時  時は 止まっている


Re:  噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分  No.54403     春間 則廣  2017/10/17(Tue) 08:38 No.54412 [返信]


       この思考は いかなる論理 の 裏付けを持っていますか ?

>  この思考法が、すでにブッダ論理ですね。
       この 思考 は  意下 の 論理 の   裏付けを持って
       その 思考 の  以下 の 記述上の  論理順に沿って 続きます
・・・
・・・
> 対話が成り立ってくるのは、仮説によります。

ブッダ の 提示する 論理は
順を 持ちません
あらゆるところで 成立する 正論  であるから 「真理」 と 呼ばれます

此処では 真理ではあるが
そこでは 真理ではない

これを 順を(順にある) 正しさ という   並び方における
    存在性として 認める 思考では 
順位並ぶと 真理 ではなくなる という実例とします
( 何が省略されているかで 後の意味が規定される )
( この場合 “間違った理解を基にする 時” が 挿入される とき   )
( トキ は 順を追って 違う 世界 = 場所  を 指し示す )
( 過去 は 独立して存在するから 今 という場所と 別の場所(時) を 持たされる )


わたしの 思考法(論理の組み立て方) は ブッダ論理 ではありません
わたしの 論理 です
( もっとも  わたし が    ブッダと並び
        その真ん中で  順を言われることなく 発言としてあるとき )  
論理は 後から言われたことである  と 言われる根拠 にありません
        ( その真ん中  という 真中は 前後左右に 囲まれ得ますか ? )

記述されていることが  “おぼろげ” でも  分かる者 を
クギョウシャ  と 呼びます
( 明確  と “ウツロ”  との間には 明確な区別はありません ) 
(  増え得ることを前提として       ましてや
     “おぼろげ”  と   “ウツロ”  との間を
      分ける空間  は  オボロゲ  です     ) 


もし 此処で あなたと 会話が 成り立っているのなら
あなたにある  仮定  で 始まっています 、、、、


( 論理が どう )あるか  どうか(ないか) は  仮定 に 始まる


( 独白  であろうと  聞く者が想定されていれば 会話の始まりです 、、、、 )



「『十二門論』研究」解題 9  spinobuddhist 2017/10/16(Mon) 20:25 No.54410 [返信]

 なお、私は先に、龍樹は、何かの恒常・無常の不成立を問題にしているのではなく、何かに恒常・無常を述定する「理由」の不成立を、問題にしているといった。ここで、「理由」というものが十二支縁起において占める位置を、確認してみよう。 
 『蘆束経』において、識から始まる十支縁起が示され、そこにおいて識と名色が相互依存の関係にあることが示されている。「理由」というものは、この「識−名色複合体」において成立するものであると、考えることが出来るだろう。位置的にいっても、外縁起(すなわち「実例」)と、内縁起(すなわち「主張」)の中間に位置しており、両者に対して媒介的に働くものと、見ることができるからである。
 そしてまた、龍樹が「戯論」(プラパンチャ)と呼ぶものも、この「識−名色複合体」において成立するものであると、考えてよいだろう。というのも、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、外縁起すなわち外界の事物を否定しているのでもなく、また逆に、内縁起すなわち超越的理念を否定しているわけでもないからである。かといって、もちろん、両者を肯定しているわけでもない。前者に関しては、いわば「幻」のようなものとして肯定し、後者に関しては、「無記」(語らない)というかたちで肯定するのである。恐らく「理由」を滅尽しさえすれば、両者は自ずとそのようなものとして立ち現われるのだろう。
 例えば、次のような俳句を作ることも、外縁起を譬喩として内縁起を把握することになる。

 秋風に身を託したる流れ雲

 とはいえここには、「理由」はない。「理由」がないので、哲学的言明あるいは論証にはなり得ない。しかしながらわれわれは、常に理由なく生きているわけではない。むしろ逆にわれわれは、日常生活において自らの行動に様々な理由を与え、「目的」に向かって自らの将来を「設計」し、行動している。そしてこのような日常生活の理由付けが、おそらく哲学的な言明に対する理由付けの、基盤ともなっているのである。
 したがって、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、なによりもまず「理由」の滅を説いているのだと、考えるべきであろう。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/17(Tue) 10:30 No.54410

>むしろ逆にわれわれは、日常生活において自らの行動に様々な理由を与え、「目的」に向かって自らの将来を「設計」し、行動している。そしてこのような日常生活の理由付けが、おそらく哲学的な言明に対する理由付けの、基盤ともなっているのである。

これを「行」という。

> したがって、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、なによりもまず「理由」の滅を説いているのだと、考えるべきであろう。

滅するものは行である。


論証の「理由」は、行為においては「原因・諸条件(因と縁)」とされることから、

原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/17(Tue) 10:32 No.54410

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

これにて、寂滅しますね。


乗れた!

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/18(Wed) 04:08 No.54410

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

原因を滅すると表現しますよね。
別に滅する必要はないのではないかと思うようになってきました。
原因がわかればそれで終わり。

譬えとして良いかわからりませんが、手品のタネをyoutubeで見たら、
もう、わくわく感はないですよね。

原因と結果の因果関係がビビっと来たらほぼ終了。

「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。」

「友よ、しからば、譬えをもって説こう。友よ、たとえば、二つの葦束はたがいに相依りて立つ。友よ、もしその一つをとりされば、他もまた倒れるであろう」

逆に言えば、根源である本当に原因にたどり着かないとドゥッカは
繰り返すばかり。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/18(Wed) 06:02 No.54410

>原因と結果の因果関係がビビっと来たらほぼ終了。

ビビッときたら、因果のことは気にならなくなる ⇒ 因果の滅

とも言えるかと。

病気の原因が分かる、ビビッときたから、もういいか。。
と、あんまりならないですよね。

原因を滅して、病のない状態にしたい、

そう思っているなら、まだ、ビビッときてないのか、ビビッときてても完成に至っていないのか(身体は残っているから)、どちらかかも。

わたしは、逆に、最近「滅」って良いことばだなあ、って気がしてます。潔い!

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/18(Wed) 15:05 No.54410

>わたしは、逆に、最近「滅」って良いことばだなあ、って気がしてます。潔い!

むふふ。
けっこうお釈迦様のレトリックなのかなぁと。
お釈迦様はニッバーナに達しても即死しないし、
阿羅漢は病気にもなれば世間的に見れば不幸な死に方もする。

ニローダには死滅と統御の二つの意味があると言われますね。
ここらへんはお楽しみという感じです。

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改ざん編   削除 可能か ? 存在のありよう ?    春間 則廣  2017/10/15(Sun) 09:00 No.54405 [返信]


> 規定できないのが 神である
> だったら

「規定できない」   のが   「神」  であり ( 「神」 で あり得  )
規定  “しない”   のは
  神(あるいは 神の御業)   ともいえる

神ではない者  が   指めし 規定するとき
神は 指めすことをしていない  し  
神 を 指定下(商量) に 於けない
( 神ではない者は 商量上に 商量下を 置くことはできない  → ゲーデル が 指摘したこと )

神を裁くな  と 神ではないとする者に    神の子 は 裁きを落とす

> 神は 規定できない  という “言葉” が  神となる

最初 に 言葉  が ある
 (  「 始めに言葉ありき  言葉は神と共にあり 言葉は神であった 」   ヨハネ  1−1 )

言葉(あるいは) 象徴   から  この記述も 始まり
記述の 「世界」 = 「世間」 も 
 真理  と ともに そこに(ここに)    展開する

いくら 展開させようと
展開しているかどうかは 活字の“上”から 眺める  恣意 に “左右”される


「 上下左右中心  思惟の展開は 執着によってなされる  」


「齟齬」 なく 指摘できない

「齟齬」  が
     “ことば”  である から


齟齬  は  (始めにありき)言葉ではなく  思惟 である


“ 齟齬 は 言葉として 始めに 神と共にあり 齟齬は 神であった ”


  噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分     春間 則廣  2017/10/15(Sun) 00:14 No.54403 [返信]


どう噛み合っているか  を 
噛み合わせない      と
噛み合わない

> 神は、完全である
> 完全であるのが 、神である

神 = 真理

神  とは 何ですか ?

この順序が 順にあることによって 意味を持たされます

真理は 完全である
完全であるのが、真理である
( 真理は 完全ではないことはない )
( 真理は 完全ではないと 真理とはならないが
   何が 完全か を 知らなければ
  どういう形で ソレが あっても ソレは 真理足り得る  )

完全でなくても 真理である

それは    どういう形であろうと
 真理 で  ありうる ( 真理足り得る )

これを聞いても
    ・・・・・・・・・・・・
違いますよね。前者は、神の存在を否応なく認めさせてから、神について語っています。後者は、「神を語るなら、こういうものだろう」と相手の判断を尊重して語っているように見えます。一つの文を語るだけで、実は、思想を受け入れることになっている、というのは、ある意味恐ろしいことだと思います。
「自己の同一性を安定的に確保」しては、仏教(諸行無常)は語れない、ということを知るのです。
    ・・・・・・・・・・・
これは 成り立ちますか ?

だれが どういう立場で いかなる基準をもって 神を 規定するか
それが問われます

規定できないのが 神である
だったら
神は 規定できない  という “言葉” が  神となる

ここにおける   思考上の齟齬を 
“ 齟齬なく ”  指摘してください


噛み合わせる気がないとき
噛み合うことはない



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Re:   噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分    管理人エム 2017/10/15(Sun) 10:34 No.54403


> 真理は 完全である
>完全であるのが、真理である
>( 真理は 完全ではないことはない )
>( 真理は 完全ではないと 真理とはならないが
>   何が 完全か を 知らなければ
>  どういう形で ソレが あっても ソレは 真理足り得る  )

>完全でなくても 真理である

>それは    どういう形であろうと
> 真理 で  ありうる ( 真理足り得る )

この思考法が、すでにブッダ論理ですね。

「完全でなくても 真理である」となってしまうので、インドの哲学では、
「では、こういうことにしようじゃないか、『完全であるものが 真理である』とこう言う風に定義しよう。これで話を進めようではないか」
と提案するのです。

対話が成り立ってくるのは、仮説によります。

「神(真理)は 完全である」というのも、やがて、現代論理学になってくると

「もしそれが神であるならば、それは完全である」という複合命題として処理されるようになります。しかし、この「それ」という任意の命題変項の中に、超越論的な「存在」の根っこが残っている、と見ることもできます。そこには、なかなか気づけないのですが、指摘している人もいます。

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  了 の 基準 を 豊検 という     春間 則廣  2017/10/14(Sat) 08:26 No.54400 [返信]


軽く考える者  にとって その( ” 了し方 ”  )軽さ が 堅固である

溜まる 程( 量 )の事 
どれだけの  量  か は
 軽く考え られている

軽く考えない者にとって は たまる事を 
期待に乗せる 程(量)ではない と
期待することなく もっと大事を 見据えて 
軽く 今起こす 善事  を  積み上げる(知らず溜め込んでいく)

「少しづつ積もって」  ということは 量 を 言っているようで

ためつつ ためつつ 善事が 今行うこととして 
(  行う時=いまという場所に於いて  ) 
いっぱいの事となっていて
ためるという思いを 置く場所を見出さない

> うまい喩えですね

美味いかどうかは どう味わうかによって 量される

腹が減っているときには
とりあえず
耳  に 入るモノは 何でも食う ( ” 調 ”理 を 厳しく 吟味に乗せない )  


どれだけ 吟味しているかは
自らが 調理  するときの  その ”  了し方 ”  が 量的基準 となっている


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