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   転記        春間 則廣  2018/10/31(Wed) 08:38 No.55146 [返信]

シンプル原理考 No.17988   2018/10/31 08:33

>>No. 17986

> mame_maruhaさんは  いま ここで妄想のなかにはいなくて
     完全なる思考に すべては従っているんですね

完全なる 思考  という概念は
どういう概念ですか ?

欠陥があって 完全があります
どういう欠陥かを 知ってください

> 僕は妄想のなかにいます  <

どういう妄想ですか ?

” 妄想の中にいる ” と  正しく判断
  できる
  その根拠 は あなたのどこ に ありますか ?

欠陥を知るには 完全と比べなくてはなりません

その比べる 完全さ  が 欠陥に満ちている ( ということです )

道元の 「 正法眼蔵 」 を 置いておきます

< 現成公案 >

「 身心に法いまだ参飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。
  法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり。 」

      こういう心掛け の 必要性です

「 たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、
   ただまろにのみみゆ、   さらにことなる相みゆることなし。 」
「  ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。 かれがごとく、万法またしかあり。 」

   あなたが見ている あなたの 欠陥  です

「  塵中格外,おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。 」

    理解しようとする気がないのなら 止める
     という 理由です
  ( しかし わたしは 止めてはいない →  それは  自分事  だからです )


> ・mame_maruhaさんは何が言いたいのかな?

あなたが聞いて 理解することが
わたしの言っていることです

あなたが 分かろうとしなければ
言おうとしていることは 何もありません

分かろうとする時
言うことが 突然 起きてきます
それでも
あなたは ( 欠陥なく完全なる )自分の見方を
また起こせば

あなたの舟が 川を下るのではなく
岸が あなたから移っていく   と 見ます


こういうことを 身に引き当てて 考えることが出来るようになると
私の言うことの 意味が だんだんとはっきりしてきます


> mame_maruhaさんは
    いま ここで妄想のなかにはいなくて     <

わたしが どこにいるのか ?   ではなく
あなたが どこをさまよっているのかを 言っているのです

>  完全なる思考に すべては従っているんですね  <

” わたしが 完全なる思考 を もち  すべてがそこに従っている ”
    ということを言ってはいませんが 、
 あなたは そこを  そう読み
      そこを  糾弾しようとしている

すべて 自分という ”自我” から 周囲を見渡すと
周囲は  遷っていく
 と    岸を見ます


自分を 自我から 引き離したいと  思い望むなら
何度か この文章を 読むと良いでしょう 、、、、

読む気のない  “あなた”  に 送る
    けれど
読む気のある  ”わたし”  は 読む



  転記      春間 則廣  2018/10/26(Fri) 09:17 No.55145 [返信]


フロイト 派 心理学 では こう 警鐘する

「 あなたの気持ちがそうならば
  あなたの求めるものも そうなる 
   自分が望むものを あなたは見出すだろう  」


>  mame_maruhaさんのオキシトシン【愛】が分からない

“自我” というモノは 自分の欲求を 構成要素とし
 また それを 増強する 栄養として 増殖する

そうありたい  という 欲望が 自我の構成要素です

“自我” に 対峙して それを滅することの 難しさが そこにあります

自らの価値観を 裏付ける例を探し出し
 そぐう  と 思い
( よかれとする価値観に ) 正しさに 関連性があると思う
そうして 見出した事例は
“  自らの正しさを より 増強していく  ”

「  信じていることを 見ている   」

( 見て正しいと判断するから 受け入れ → 見る選択 が 起きる )
( 正しくないモノを見るのは
  そこに引き起こされる 正しさが 自らの確証であるから )


   転記      春間 則廣  2018/10/24(Wed) 16:19 No.55144 [返信]

17881 10月24日 14:47

> 愛し方は人それぞれ なんじゃないかなあ     

人それぞれ  は それぞれに 受け止め方が違う
それぞれではない  と 受け止めるのも
それぞれ に   入る

違うと 思うのも それぞれ
同じ・似たようなもの と するのも それぞれ

自分のそれぞれ(の一つ)を 唯一としてはいませんか ?

自分のモノが成り立つから 他のモノ が 成り立つ
   ということは
他の成り立ちを否定すれば 自分のモノの成り立ちを肯定する根拠を失う

>  愛を体験して はじめて  ああこれが愛なんだ!とわかる

体験だろうが 何であろうが
引き当てるモノに引き当てて
はじめて 存在が確定できる

体験だけでは
存在はない

存在すると 確認できて 存在が起きる
その 確定の 確認  には 
体験から 教えられたことが必須です

( 体験だけでは 存在はあってもなくても同じです )

それが  ” 如実 ” の 根拠です

( ここを 論理的に詰めているのが 仏教論理です )

思い付きを否定するわけではないが
思い付きは 思い付きにすぎない

確定させる 論拠があって 思い付きではなくなります

   その自信 は 過剰か はたまた 受け売りか     春間 則廣  2018/10/17(Wed) 17:25 No.55135 [返信]


自分の未来を 予測して 見たい と欲するのなら
過去( の 自らの行い ) を 見れば(省みれば) 分かる

過去は 未来への もっとも有効な 道標です

しかし 悲観的なことではないのです
省みることを 常に 今にして 過去を 積み重ねればよいのです

「 吾日に吾が身を三省す 」  『論語』 < 学而 > 

三省 するだけで 少なくとも 孔子廟 の 類は 建立されます

未来を  過剰な期待 に 任せるより
いまという現実を 過去の素直な 照顧によって 形作れば
進歩 と呼ばれる 今を 同時に形作っている

あなたは   

自分の 決定の支えとなる 情報を 自分に都合よい ところから 求めてはいませんか ?


二千五百年前 釈迦牟尼と同時代に
隣国に於いて
 (之を)知っていることを(之を)知る と 為し
      知らないことを知らぬ     と  為す
         これ 知るなり 

「 誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也。 」

と 説いた人がいる  < 為政 >

“  I shall teach you what is ‘knowing’. It is to admit what you know as what you know, and what you don’t know as what you don’t know. This is true ‘knowing’. ”


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Re:    その自信 は 過剰か はたまた 受け売りか     春間 則廣  2018/10/20(Sat) 08:06 No.55135


これを読むこと = これを読んだこと

が  すでに  過去の 未定  であるところの  未来です

読んで 解釈を起こした そのことに意味はなく
起こした解釈で
いかに生きるか に
いかに生きるか  という  意味が 起き
それが
生き様の継続という
  意味を  新たに起こしつづけます →  未来

「 一夜賢者経 」 
            ************
過去に思いを巡らすことをやめ
未来を追い求めることも止める
過去にあったとするもの は すでに捨て去られたもの、
 一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの
 
いまあるできごと
 それぞれについてみつめ
見つめることを 振れさせることなく
 それを 堅く しって 生を 進める
今日の為すべきこと を こそ  ひたすらの 行( 生 ) とする

 明日の死を知りえる人はいない
 死神の大軍勢が 襲ってくるとしても
 戦わないという人はいないのだから。
           ************


( 当然なされることに思いを馳せず 為すべきことに 思いを運ぶ 、、、、 )
 

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僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 10:06 No.55129 [返信]

すみません。また出てきました。
少し疑問が湧いてきてお聞きしたいのです。

「今の生は過去の結果だと仏教は教えるのです」

「僕は過去(生)において、善いことを、善いことを、善いことをず〜〜〜とし続けて来たので、こんな風(に素晴らしく生まれたということ)なんですよ」

これはある人がわたしに言ったものなのですが、

ここで表明されているのは(過去生から現生を説明する)論理と呼べるものなのでしょうか? 

それとも、思想(見解?)なのでしょうか?

教えて頂けないでしょうか。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 12:56 No.55129

その人は「今の生は過去の結果だと仏教は教えるのです」

という自分の吐いた言説に、今の自分自身を、自分の思うのままに当てはめて、

「僕は過去(生)において、善いことを、善いことを、善いことをず〜〜〜とし続けて来たので、こんな風(に素晴らしく生まれたということ)なんですよ」

と言っているわけですね。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 13:39 No.55129

そして、「僕は今も善きことをし続けている」と言ってました。

そこに論理があるならその人の心には平安があるでしょうが、それが思想であるなら、自らが「平安」を得ようとして取り入れたもので、その「平安」は一時しのぎのようなものではないかと思ったのです。

その人は、心を偽ることのないブッタのような雰囲気で、わたしたちに語っていたのです。

ところで「自他不二」っていうのは論理ですよね。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 15:50 No.55129

そもそも、この疑問は、Magical Boardでの、エム先生の以下の言葉に起因したものなのです。

『なぜ、「論理」か?、ということがわかってきました。
自分の心の中で自分に嘘をつかないでいること、これを会得するために「論理」がいるのだろうと思います。
いったん原則を決めたら絶対それに逆らわないのが、「矛盾しない(=嘘がない)」ということだから、そこを見極めるために「論理」がいるのだろうと思います。

ブッダが真実語を語る、といわれるのも、もっともです。論理に違わないから、真実語になるのでしょう。「たまたま論理的」(こだわりますね、笑)なのではなく、「つねに論理的」だから、真理となる、と思った方が善いかも。』

その人は、自身の心(自分は特別優れた人間であるという信念のようなもの)に嘘をついていなかったので、ブッタのような雰囲気で、色々なことについて真実を語っていたように思いますから。

真理の具現者のようにです。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 16:27 No.55129

その人は、わたしに「いけない事」をしたと思っています。
そして、わたしはそれを見極めたいと思っています。


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Re: 僕は素晴らしく生まれた   春間 則廣  2018/10/17(Wed) 16:46 No.55129


> ここで表明されているのは(過去生から現生を説明する)論理と呼べるものなのでしょうか?

違います
論理は すべて一つに繋がって 一貫性を保ちます
見解は 解することによって 分断しても なんら 見解たるを否定しません
故に 仏教を語る 見解 でしかありません
( 論理が一貫していないからです )

今がある限り、過去と未来はあります
過去と未来により 今が 決まっていきます

( 過去と未来は 表現の差でしかありません )
( 今行うことにより、過去の意味が決まり、 未来として決まっていく 今がある ) 
  →   これが 仏教です

自分を検証するときに
一貫した 姿勢が必要となります
一貫した姿勢を 検証する その 一貫性を さらに 検証します

何処から検証しても 一貫している時
論理性が 保たれている  とされます

仏教は そのたもたれた論理を
いかように検証しても ( 見性が 揺るがぬ限り )
一貫性を保って 自立します

真理が 自性 を 持つ故に
その自性に拠らずには 何事も  「 縁起 」  さえ 起こせないから
それが 唯一 の 真理だと 実証できます

仏教を 過って 用にすれば その用は 論理として 破綻します
わたしの文章は
すべて 仏教に依っています
故に ( わたしが誤って用としてはいない限り ) 絶対に正しいこととなります

ただし
あなたが わたしの 過った援用 を 見出せば
そこに あなたが見出す
正しい 用 が あります

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/17(Wed) 20:52 No.55129

春間さま

多くの大事なことを教えて頂き有難うございました。


その人は自称画家で、その大学での同窓生の親友のことを仏教の聖者だと言っていました。そして自分と付き合うようになれば、その聖者から本当の仏教を学ぶことが出来ると、わたしをしきりに誘いました。18歳の春でした。

「ひょっとすると僕の友達は聖者ではないかも知れないのですよ!」と、その人に告げられた時には、付き合ってから十数年は経っていました。

光陰矢の如し、です。
今も同じです。

有難うございました。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/19(Fri) 21:04 No.55129

>その人は、わたしに「いけない事」をしたと思っています。
>そして、わたしはそれを見極めたいと思っています。

その人がわたしにした「いけない事」が分かったように思います。

それは、

その人がわたしに、その人に対して、『信』を持たせたことですね。

わたしに、その人に対して『信』を持つように、その人は意識的な運動した。

それが、一番「いけない事」なんですね。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/19(Fri) 22:02 No.55129

彼がした一番「いけない事」、

それは、

人に、自身(その人)に対して『信』を持たせたこと。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた   春間 則廣  2018/10/20(Sat) 07:46 No.55129


あなたのした 一番「いけない事」、
それは、

自分自身 が その人に対しての
 自分の『信』  を
自分で 自分に 被せたこと。

自分で 被せたのだから 
自分で 被りをとること は ( しようと思うなら ) できます

取る・取らない  は
  自身の選択で
その選択の 価値・意味 は
  自身に  すべて帰属します

誰それのせい  というのは  社会的ルールでの 責任の帰属です
自分の選択で 為されたことは
自分の選択で 為された意味を 正しく変えることが出来ます
( 意味は 過去に於いて決まっていたのではなく
   今のあなたの選択 によって その選択の 
      めざすところを 目的化する という 生きざま に 置かれる  )

過去の意味は  あなたの今の 新しき生きざまによって  価値を持つ

あなたが今どうあるかは
あなたの選択の 果 として
あなたの 生きざま を 指します

後悔 糾弾  は すでに終わっています    

    いつまでも そこに 留まっているという
    そこにいる事から ( 被いを外すことから )

被いを 外した   自らの  “生” = 「行」  を
 如何に 行じて行くか に すでに移っているのです

もし まだそれに関して 思いを巡らせたいのであれば
いつまでも そういうことに こだわり続ける
自らの 思いのめぐらせ方 が
そういうことを起こした  因 の 大きな一つ  であると 自覚し

今為すべきこと 今新たに起きている あなたの “新しき” 課題
それに 取り組むことが   大事   です

目の前にある 選択対照群 から 
何を為すべきかを  選び直しては どうですか ?


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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/20(Sat) 15:17 No.55129

===

彼がした一番「いけない事」、

それは、

人に、自身(その人)に対して『信』を持たせたこと。

===
===

あなたのした 一番「いけない事」、
それは、

自分自身 が その人に対しての
 自分の『信』  を
自分で 自分に 被せたこと。

===

この『信』は、オカシナ「信」だったのですね。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/24(Wed) 15:00 No.55129

わたしがその人のある命令を断ると、その人は、その人がわたしに持たせた、その人への『信』が、やはり、わたしの中で棄損していると判断しました。

そして、おそらくは周到に用意されていたであろう、この言葉を繰り返し、わたしに吐きました。そして去って行きました。

「びっくりしたぁ〜!!! 〜〜君は京都にいたまんまだったから! ああ、びっくりしたぁ〜!!!」


異国でのことでした。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/10/24(Wed) 15:54 No.55129

棄損する『信』?


そう言えば、その人の手元には『大乗起信論』があって、

「一寸、読んであげましょうか?」とその人は言って、厳かに書物を開き、自分の気に入ったところを少しだけ、わたしに読み聴かせた。

「法有り・・・」

あと嬉しそうに何か言っていたなぁ〜。
「凄いやろう?」みたいなことを。

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Re: 僕は素晴らしく生まれた  みどり 2018/11/06(Tue) 19:42 No.55129

何の労働もしていなかったその人は

「僕は(誰かから)家を貰えると思うのですよ」ってよく言っていた。もう何十回となく聴いただろうか。

今思えば、大学でインド哲学・仏教を学んでいた彼には、

ブッタが富豪から祇園精舎の寄進を受けたことが、その念頭にあったのではないかと思う。

そういう話をぜんぜん知らなかった当時のわたしは

{何か突拍子もない、わけの分からんことを言っているなぁ...}って、思っていた。

そして「自分の言葉は実現するのです」ってよく言っていたなぁ〜。

「言葉って恐いのですよ。想うだけなら構わないけど、口に出すとそうなるのです」とも。

さて。

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   転記       春間 則廣  2018/10/12(Fri) 08:15 No.55128 [返信]

 仏教についてのひとりごと

            No.9830   2018/10/12 08:11

>>No. 9829


> 曲った心煩悩は絶えず、法に照らして修正して歩む

曲がった心で 法を 決め
決めた法が 法であると 思い込む

曲がった心が  すべての 根本であると
思い知る その心は
何故か 正しいところに立っている


(ひとかたは) 法に対する 姿勢が 曲がっている(たらず)

もう一度 道元が 自らに戒める その言葉を 聞くことはできますか ?

『 正法眼蔵 』 <  現成公案 >

「 身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。
   法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。 」


そこには 仏陀が 坐す

> 禅が、曲った心はそのままにまっすぐ突き進むという事ならば、仏法なんかいらない。

禅が 曲がっているのではなく
あなたが  “ 魔我 っている ” のでは ありませんか

日蓮は 禅宗 をも 批判していますが
その批判は 禅の なんたるかを 曲解する 曲がった心に対するモノです
法然を批判しているけれど
法然に対する “ 曲がった心 ” を 批判している

天台大師 も 伝教大師 も 批判してはいない
法華経を 正しく読む者は 伝教大師である  と 言っている
その伝教大師の 読み方は 
 唐より 招提せし 鑑真 に よってもたらされた 「摩訶止観」 による
( 空海も 最澄より送られた 摩訶止観 を 深く 読んでいる )

最澄は 鑑真より 「西域記」 を 借り受け
諸国の 大乗に対する 篤い心を 確認して 日本に於いて 大乗戒壇 を 望んだ
空海は 深く共鳴し
最澄が没して 南都六宗 との 確執が 薄れたところで
その 弟子 (自らの弟子でもある) の 光定  に 光定戒牒(国宝) を 与えた


登山道は 幾つもあるが
目指すところ は どの選んだ道も  一つ


これが 正しい  と   正しい理由をつけて 正しいこととなるのなら
誰もが その図式 で  正しいことを 規定している

自らのモノが 正しいとすることに よって
  のみ
他のモノが 正しくない  と  される

それは あなたにだけ 与えられた 特権ではない

スッタニパータ を 置いておきます ( 岩波文庫 「ブッダの言葉」 中村 元 訳 )

884
  真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
889
   かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890
    もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。



 仏 の 歩む道      春間 則廣  2018/10/11(Thu) 19:10 No.55127 [返信]



仏教 という  “ 道 ”   には  中道 だけ が あります

( 「 道 」 という意味は 真理という意味でもあります )
( この世に 曲がった道はないけれど  真直ぐを 顛倒する 真直ぐな道は ある )

偏に因る  という  端は ないのです

それ(両端)がある限り
そこに仏陀は おわす ことがない

両端があって 真中があると 顛倒する

両端がないから
「 中道 」 なのです

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