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仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/30(Tue) 23:02 No.54723 [返信]

転生菩薩(退転菩薩)を追憶す

昔 々 菩 薩 棲 み た る 春 の 山


春 風 の 騒 げ る 中 を 立 ち 尽 く す


蝉 鳴 き て 微 笑 む 菩 薩 想 い 出 す


誰 も 見 ぬ 夏 草 揺 れ て 空 仰 ぐ


菩 薩 倒 れ 虫 の 音 ば か り 弔 え る


昔 々 菩 薩 棲 み た る 秋 の 山

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/28(Sun) 17:47 No.54709 [返信]

転生菩薩(退転菩薩)に寄せて

ば ら ば ら に 地 上 に 置 か れ 春 迎 う


夏 草 や 菩 薩 の 集 い 幻 視 す る


寂 し さ に 耐 え ず 萱 の 穂 掻 き 分 け る


破 戒 せ る 菩 薩 の 蒔 き し 麦 穂 垂 る


枯 野 埋 も れ 孤 独 を 持 せ る 菩 薩 か な


勤 め 終 え 花 散 る 中 を 一 人 逝 く

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/28(Sun) 17:06 No.54708 [返信]

山 枯 れ て 五 蘊 の 空 を 観 じ た る


土 凍 り 五 蘊 の 空 を 観 じ た る


冬 椿 咲 き 五 蘊 の 空 を 観 じ た る


古 竹 鳴 り 五 蘊 の 空 を 観 じ た る


雪 積 も り 五 蘊 の 空 を 観 じ た る


冬 暮 れ て 五 蘊 の 空 を 観 じ た る

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/27(Sat) 16:22 No.54704 [返信]

苦海を渡るものたちへ

人 死 ね ど 我 に 応 え ず 冬 入 日


冬 の 雲 哀 れ ト タ ン を 雨 叩 く 


春 思 う こ と な し 枯 野 暮 れ 沈 む

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Re: 仏陀の道の端で  管理人エム 2018/01/29(Mon) 09:41 No.54704

> 人 死 ね ど 我 に 応 え ず 冬 入 日

うーん。。

人 死 し て 我 に 応 え て よ 冬 入 日


なんとなく自己中な俳句になりました。

最近思うのは、「死は意志である」ということです。
覚っていないなら、意志すべし、ということかな、とも思っています。
 

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Re: 仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/29(Mon) 18:11 No.54704

>最近思うのは、「死は意志である」ということです。

おもしろい見方ですね。しかし妙に納得するところもあります。
人間には死の欲動があるので、それが生存本能を上回ったとき、死にむかうのでしょう。
凡夫の場合、肉体が健康な者は自殺に向かいますが、介護現場で終末期の老人を見ていると、最後には生きる欲求を失って自ら死んでいくような印象ももちました。
龍樹も伝記によると自ら死を選んだようですが、聖者の場合は死の欲動とはまったく違う感じがします。
それはむしろ積極的なもので、輪廻を厭わない「意志」とでも言うべきものだと思います。

>覚っていないなら、意志すべし、ということかな、とも思っています。

悟って意志しないのは阿羅漢で、菩薩は意志するのかな、というような感じもしますが、いかがでしょうか。
やはり死に際の意志の内容が重要で、衆生済度や仏道成就を祈念しながら死ねば、実りある転生を得るのではないかと思います。

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Re: 仏陀の道の端で  管理人エム 2018/01/29(Mon) 23:49 No.54704

>介護現場で終末期の老人を見ていると、最後には生きる欲求を失って自ら死んでいくような印象ももちました。

実は、そういう考え方や見方になってしまいそうなところに、ちょっと抵抗しているのです。

介護の現場にいる職業人(?)(看護師さんとかリハビリの人とか)が、みな一様に「こうなったら、こうなる」という経験則に則って、どんどん死へとお膳立てをして行くような見方に、問題を感じているのです。

具体的には、母の介護のことですが、母の死でありながら母だけが萱の外に置かれるようなあり方に、これでよいのかと思っています。

>聖者の場合は死の欲動とはまったく違う感じがします。
>それはむしろ積極的なもので、輪廻を厭わない「意志」とでも言うべきものだと思います。

そんな気がします。死の瞬間まで、生きているのだということを、みずから自覚し続けていなければならない、というのが、考えるところです。

ブッダも龍樹も、肉体を捨てると決めて、そこから去っていきました。最期まで気を抜かずにいないとダメだな、って思っています。
ブッダも禅定に入って亡くなったように、常に集中していなければならないのではないか、と思っています。

妹の旦那さんはイスラム教徒ですが、死は神さまが決めると言っていました。なるほどなあ、って、思いました。神さまがいなければ、自分が決めることになる、ということかと。

>悟って意志しないのは阿羅漢で、菩薩は意志するのかな、というような感じもしますが、いかがでしょうか。

そうだと思います。「悟って意志しない」というのは、行(意志)が滅しているからですよね。
菩薩の意志は、世間が滅する時に滅することになりますね。

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Re: 仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/30(Tue) 06:06 No.54704

>もっとも、わたしがむりやり起こしている、といううわさもちらほら。
>ブッダも「寝るな、目覚めよ」って言ってるから、いいよね。

死の欲動に従うことは「無明」であるから、「目覚めよ」というわけですね。
確かに死の間際まで生きる意志や転生の意志に寄り添うことは、看護師や介護員には難しいかもしれません。
しかし根本的な問題は、彼らが人間苦に対する理解を欠いていて、そこに寄り添えず、「死」を機械的に処理することでしょう。

先生が母上を「無理やり起こしている」というのは、物理的に起こしていると言うより「念を送っている」と言うことでしょうか。最後まで生きる意志に寄り添うことは大切ですが、いよいよ死ぬとなった時は、よりよき転生へと念じて導くことが大事になるかと思います。
やはり最後は「廻向」の出来る人間に看取ってもらいたいものです。


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Re: 仏陀の道の端で  管理人エム 2018/01/31(Wed) 21:14 No.54704

>しかし根本的な問題は、彼らが人間苦に対する理解を欠いていて、そこに寄り添えず、「死」を機械的に処理することでしょう。

そうですねぇ。
「人間苦に対する理解を欠いていて」というところ、そうだなあと思います。

>いよいよ死ぬとなった時は、よりよき転生へと念じて導くことが大事になるかと思います。

そう考えると、生と死は、とても近い距離にありますね。

死というのが、まったく違った 感覚で捉えられてくるようになりました。
何がどう違うのかが、今のところよく分かっていませんが。


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Re: 仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/01(Thu) 18:53 No.54704

>そう考えると、生と死は、とても近い距離にありますね。

>死というのが、まったく違った 感覚で捉えられてくるようになりました。
>何がどう違うのかが、今のところよく分かっていませんが。

転生において魂の存続に執着すれば、誤った転生を得るのではないでしょうか。
やはり転生においてすら、肉体のみならず心もまた、「死ぬ」必要があるのかもしれません。
しかしこの「死」は、単なる自己の断滅ではなく、新たな自己を開示するもので、「新しい死」であるということが出来るかもしれません。
死が新しいというのは奇妙な形容ですが、ここからまた、新しい「生」の世界が開示されるといえましょう。
先生の言う「全く違った死」というものを、そのように解釈しました。
何か「全く違った生」が、始まる予感があります。
菩薩が億の化身を作って世界に飛び込んでいく、そんな感じです。



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  言うは易く行いは難し     春間 則廣  2018/01/20(Sat) 09:36 No.54686 [返信]


言う という  行いは  易い
言う という  意味は  難い

言うということには、言う 意味がある
音を出すだけなら 「 言う 」  とは言わない

意味を伴うから 意味を確定することに 難きことが起きうる

「 人の生を受くるは難し 」
  誰でも 誰 と言う範囲 に 入る限り 容易く生を受けている
  誰かれとなく 生を受けていない 者 はいない
  ( 誰でもできていることに難易はない )

難き生  を   受けて負うのにも 人による 差別はない
   しからば  差別は 何処に起きるか

“ 好嫌 ” にも 起きる
「 善悪 」 に  起きる
  何が善か を
  “好嫌”  で  “揀択”  する 

“ 言う  は 難く  行いは 易し ”


仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/01/20(Sat) 07:44 No.54685 [返信]

修羅幻視

天 上 の 闘 い 烈 し 夏 の 雲


天 人 を 墜 と し て 愁 う 修 羅 の 秋


餓 鬼 た ち の 喉 潤 せ や 秋 時 雨


餓 鬼 な ら で 人 に 憑 か ざ る 修 羅 の 冬


枯 野 に て 修 羅 の 円 座 に 加 わ り し


修 羅 な れ ば 語 る こ と 無 し 冬 の 雲

 行いは ヤクス ことができない     春間 則廣  2018/01/18(Thu) 11:21 No.54680 [返信]


> パーリ語のニュアンスを全部入れて、うまく訳すのはむずかしいですね。

パーリ の ニュアンスは 関係ありません
仏教=仏 の 言うことに 聞くことが 存在できます

言葉にニュアンスがあるのではなく、
人の行いを ニュアンスをもってして読み取ると
自ら( =  無明に基づく行い )の読み取り だけしか読み取れません

無明が 無明を読み取るから
仏が 仏を 知る →  唯仏与仏 乃能究尽 
念仏が 念仏する


うまく訳す必要は 全くありません
うまく生きる人生 に 仏 が 宿る

仏道を歩む者には 仏が宿っている

たとえ 学問的に不味い訳であろうと
美味い不味いは 好嫌に起きるのみ

良い人生には よい言葉が付随している

良い言葉でも 悪用はできる
そのとき  よいかどうかは 決まってくる

> こう書くと、「自己」という一点をキープして、「色」にかかわる表現が結びつけられているようにとらえると良いのかもしれません。

自己 が ないのが 仏教 です

仏が わたしが と 言っても
わたし という 仏が いるわけではない
“わたし” という 語を使って
  一切に及ぶ自己( = バンブツ )  を 言っているに過ぎない

「 山川草木悉有仏性 」 →  悉 有 仏

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