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 無明 に 起きる     春間 則廣  2019/11/13(Wed) 11:05 No.55620 [返信]

正しい と思うことは、無明に起きています

誤っている ということも、 無明に起きます

正しいと思うことは、誤っていて、
誤っていると思うことは、正しいのです

それなら、誤っているとすることを、取れば、
正しいことを取ることとなるのか と言えば、そう簡単にはいません

誤ったことを取るのは、正しいことを取る為だからです

取った途端に、目的の正しいことが、誤りとなります

そのことが、 誤っているとすることが、 ヴィリヤ です

正しさを 究ぎょう することが、分かるでしょうか ?


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Re:  無明 に 起きる     春間 則廣  2019/11/13(Wed) 11:15 No.55620

それでは、無明にあって 誤っているときには、どうなるでしょう ?

🌁無明にあるから、誤りを、誤ります
つまり、誤りなく正しいこととなります

美味なるモノを、食してはいけません
まずいモノ を 敢えて食せば、「世間」 の 「苦」 が起きます

ムニ は テンドウしない から、
苦行 を 厭いません

世間の 苦 は ムニ の 楽  だからです

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No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/13(Wed) 07:34 No.55618 [返信]

 管理人エム 様

>>  仏陀の教えはインドの豊饒なフィールドにあり、決してそれまでのインドの思想を全否定したものではないと思っています。むしろ、その上に立って精神性を徹底したものだと考えます。

>  全くおっしゃるとおりです。仏教は、インドの思想が苦と結びつくと思われる部分だけを改良したものだ、ということも出来るかと思っています。後の、大乗、密教にまでいくと、特にそう思います

>>  イエス・キリストが旧約聖書やユダヤ教を否定したわけではなくむしろ証明していったように。
>    全くおっしゃるとおりです。

こういうことが 記述されています

>> 証明していった
のではなく、新しい 旧約や ユダヤ教 を 作り出したのです
( 古い革袋は 打ち捨てて、 新しい葡萄酒を 新しい革袋に 入れるのです )

旧約聖書 や ユダヤ教 は ユダヤ人の為のモノで 他の民族の為ではありません

イエスの教え( 説くこと ) は 人 すべての事です
“ 赤 ” の為の “ 赤い ” 教えは、 他の色 には あてはめられらないから、 あてはまりません

証明すべき ユダヤ教 は 打ち破る ユダヤ教 です


 
いわゆる キリスト教  は キリスト教徒 の 為のモノです
わたしが用いる “ キリスト教 ” は  キリスト教徒の為のモノではありません
“ キリスト教 ” を  破壊するため=打ち破るため  のモノです
 ( 下記にある  設害三界一切有情   “ 為 調伏 故 ”  を 参照してください )

「 キリスト教 」 とは  「 空 」 です

仏教が分からないと、 “ 破壊する ” ということが 分からないのです
「 ポア 」 とか 「 調伏 」 という意味も 分かりません

「 理趣経 」 には 
たとえ、  すべての有情を殺す( 設害三界一切有情 )
と 説かれる語句  が あるのを  知りませんか ?

有情を設害する  とは  有情の 「 世間 」  を 破壊する という意味です
 「 世間 」  がなくなれば、 有情 は 存在する 基盤( 有情の論理根拠 )がなくなります
         それは、 「 世間虚仮 」  と  “ 同一” の 言葉なのです  
“虚仮である” とする こと       は、
有情の概念にある       「 世間 」  を 打ち壊す という意味です
それが 「 菩提 」 です
 ( ボーディー の サッタ が   「道」 に ある  = ということで
                     「 道 」 に ある故に
     不堕悪趣 であり 為調伏故  疾証無上正等菩提 と説かれることです  )

もしも、
旧約聖書 を 証明するためであるのなら
旧約は 証明せずとも 正しいこと  となります

すべての いわゆる“宗教” の 教説は  自説を 証明するために建てられます
( 仏教は 宗教ではありません し、 いわゆる宗教 でもありません )
( 真理を知った者の説くこと  が 仏 の 教 であり、 「 経 」 = 「 理趣経 」 です )
( 人体が 人間であれば、 指は 人間で、
    それ=指 が 指し示すモノが 人間であり、 指し示すこと そのことが 人間です  )
( これは 真理を見る者は仏陀を見る  ということが 受け打入れられなくては 分からないことです )

あなたには、 こういう記述で 分かる  という 前提で 語っています


大まかな 解釈をしてはいけません
正しいことに、 誤ったことを 付け足すと、 
全部が 正しく思わせることが出来てしまう場合 と
全部が 正しくないことにある場合が ありますが

人の手に 兎の指を 付けても、 人であるとは言えません
それは、 人 と 兎 の 合成でしかなく そういうことを 「亀毛兎角」「 とも呼べます

ナザレのイエス は 新約聖書 の 記述では
ユダヤ人 の 為 に 説くことが記述されていますが、
同時に 全人類の為のことも 記述されています
しかし、 それは 亀 に 毛を生えさせたこととは 違うのです
兎を 正しい概念として確立し
人として生きる イモータル の 指先に 移植したのでもありません

新約 は “ キリスト教会 の 意図に沿うよう ” に 編まれているのです

それが、 “ 兎の指 ” です


理解に乗ったでしょうか ?




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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言  管理人エム 2019/11/14(Thu) 06:00 No.55618

春間さま おはようございます。

>いわゆる キリスト教  は キリスト教徒 の 為のモノです
>わたしが用いる “ キリスト教 ” は  キリスト教徒の為のモノではありません
>“ キリスト教 ” を  破壊するため=打ち破るため  のモノです

おっしゃる意図は、わからないのではありません。わかります。

>( 仏教は 宗教ではありません し、 いわゆる宗教 でもありません )

ここも、よくわかります。

しかし、“キリスト教”と“仏教”という名前を出してしまうと、皆、いわゆるキリスト教と仏教のことだと思ってしまいます。

宗教の枠をとりたいときに、宗教と一般に考えられている名前を入れて語ると、そこが気になるのだろうと、春間さまのことを考えます。
たぶん、意図通りには成功していないと思います。

>“ キリスト教 ” を  破壊するため=打ち破るため  のモノです

こう書いてあると、既成の“キリスト教”を改革したいのだと考えてしまうからです。
そして、仏教とキリスト教のどちらを信じているのだろう、と思ってしまいます。

仏教は、ほんとうは宗教ではないのですが、皆、おおよそ宗教だと思っています。
そこを知って、そこに合わせて語るのが、ブッダのやり方ではないかと思います。

相手をまず否定してしまうと、キリスト教の立場から否定しているのか、仏教の立場から否定しているのか、と考えて、混乱してしまうのです。

何故なら、キリスト教と仏教は、思想的には互いに相いれないところをもつからです。
「宗教でない宗教」と仏教をよぶのは、宗教としてみるならば、どの宗教にも対立しうる要素を抱えるのが、仏教だからです。

そのため、仏教は争わないようにするのだと思います。
そうしないと、誰も救えなくなってしまうから。
仏教は、宗教がもつ毒を解毒するためにある宗教なのだ、と心密かに思っています。
「心密かに」というところが大事で、どの宗教とも争わず、人々も救い、そして、その宗教をも救うのが、仏教なのだ、と こう思っています。

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/14(Thu) 09:24 No.55618

>  宗教の枠をとりたいときに、宗教と一般に考えられている名前を入れて語ると、そこが気になるのだろうと、春間さまのことを考えます。
たぶん、意図通りには成功していないと思います。

破壊しなければ、 再建できません
破壊するためには、
建てられた基礎を 見出さねばなりません

“ 矛盾 ” は そのために起こされます
「 戦いを起こすためにやってきているのです 」

>  相手をまず否定してしまうと、キリスト教の立場から否定しているのか、仏教の立場から否定しているのか、と考えて、混乱してしまうのです。

これは、 助言の体を為してはいますが
わたしの方法に対する 否定 です ( たとえ肯定を基としてもです )

混乱を起こさなければ、 改革は起きません
徐々に改革される  ということは 幻想です

「 改革 」 という言葉自体が “ 改革されなければなりません ”

>  何故なら、キリスト教と仏教は、思想的には互いに相いれないところをもつからです。

ここに用いる “キリスト教” と “仏教” は 混乱を招いていませんか ?

あなたの “ キリスト教 ” は 仏教と 相いれない  が、
わたしの 言うところの  “ ナザレのイエスの説くこと ” = キリスト教  は 
仏教です

さらに 訊ねます
「 仏教 」 とは 麻原の説くことですか ?

イエス の 説くことが 「 仏教 」 です

そう聞くか、 そのようには聞かないかは
あなたの 選択によります

天国 と 言われたら 天国 を 思い浮かべますか ?
( 思い浮かぶことが 天にも昇ることです )



> 仏教は争わないようにするのだと思います。

わたしが 争っている と 見解を立てるのは あなたです

“ 争う ” という言葉  は 「 空 」 ではありませんか ?


この言い回しは、 混乱を生みますが、
生むのは 誰かを 考えなければなりません

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言  管理人エム 2019/11/14(Thu) 10:07 No.55618

春間さま 

気持はわかりますが、次のように言うと行き過ぎているように思います。

>イエス の 説くことが 「 仏教 」 です

こう書くと、

ブッダ の 説くことが 仏教 です

と、返されそうだからです。
イエスは、菩薩行を行うサットヴァと見ることもできるかな、と思います。

捨身飼虎やうさぎ・ジャータカ、雪山童子、シビ王・ジャータカなど、菩薩行をする生き物たちの中にかれを置いても、違和感がありません。

>イエス の 説くことが 「 仏教 」 です

これを言うためには、一つしなければならないことがあります。

主である神を空ずるという行いです。
ほんとうに、「 仏教 」であるならば。

「法すらなお捨てるのである、いわんや非法においておや」、とする決意を、どこかで言わないと、「仏教」にはならないでしょう。『入楞伽経』が強調するところです。

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/14(Thu) 11:56 No.55618

管理人エム 様


>  >  イエス の 説くことが 「 仏教 」 です

>  こう書くと、
>  ブッダ の 説くことが 仏教 です
>  と、返されそうだからです。

  ブッダ の 説いていることを イエス は 説いています

そのように イエスの行いを見ることが出来ないから
行ないにある 言葉も 聞きたいように 聞くわけです

ブッダ の 行ないを知って、
 その後を   足跡をたどるように 車輪が ついていけば、
  行ないとして 、 聞くことが適います
( わたしの スッタニパータ の 読み方を お知らせしているのです )

わたしの行いは 風化して 滅していくけれど、
「 足跡 」 は 風化の対象 ではありません
 「 永遠 」  という 時に 刻まれているのです

> 「法すらなお捨てるのである、いわんや非法においておや」、とする決意を、どこかで言わないと、「仏教」にはならないでしょう

言っています
どこで、 どのように言っているかは
あなたが、 知る事です

( イエス の 説くことではないのであれば、 わたしの説くことでもありません )
( わたしが 説くことではない から わたしは 傍観します )
( あなたは、 わたしの言葉に 耳をふさぐから、 わたしが語っている イエスの言葉を 聞くことがない )

耳をふさいではいない と 
耳をふさいでいる   という 言葉に 耳をふさぐ



ショーシャンク 様 のように  「 だったら 証明しなさい 」 と 言いますか ?

あなったに ないモノを あなたは どのような手段をもってしても、 見つけることはできない

あるのであれば、 見つけるかどうかは、 機縁によります

機縁 は あなたが 作るモノです

自分を探す旅は、 自分に於いて、自分でする

そこ以外に、 自分がいないからです


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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言  管理人エム 2019/11/15(Fri) 09:14 No.55618

春間さま おはようございます。

>ショーシャンク 様 のように  「 だったら 証明しなさい 」 と 言いますか ?

私が、どう言うかではなく、ショーシャンクさまには、「どう答えるか」ということだと思います。

尋ねているのですから、答えられるところを出し惜しみせず答えて、何故いけないのか、という風に思います。当然、話せば疑問も出されるでしょうけど、そこで、どういう風に異なっているのかよくわかるし、(もし誤解しているなら)説明をどう誤解されたかもわかってくるでしょう。

春間さまはどう思っているのだろう、ということを知りたいのだと思います。
私なら、嬉々として、あーだのこーだのしゃべっちゃうところですが。

多くの人も、それを望んで待っているのだと思います。

ショーシャンクさまがわからなかったのだと、春間さまが思うところは、違うやり方で答えることは必要ではないかと思います。

誰にでも煩悩がある、ということを考えるとき、自分で煩悩をなくしなさい、と指摘しても、「ああ、そうですね」と言って煩悩をすぐなくす人は、まあ、いないでしょう。それができるなら、ここにはいない、のですから。


> 破壊しなければ、 再建できません

> “ 矛盾 ” は そのために起こされます
>「 戦いを起こすためにやってきているのです 」

まるで、イエスのようですが、それなら、(春間さまは)キリスト教なのだな、と私は思ってしまうのです。


バラモンのスンダリカ・バーラドヴァージャに、ブッダは、カーストを問われて「何者でもない」と答えました。

続けて、髪を剃って、大衣をまとって家なく行ずると言い、みずから寂滅していると言いました。
さらに、ブッダは、あなたがバラモンなら、三句24音節のサーヴィトリー讃歌を尋ねましょう、と言ったので、スンダリカは、ブッダに信を起こしました。

この讃歌は、今でもガーヤトリーとしてyoutubeで聞くことのできる、バラモンであれば必須の讃歌です。サイババも唱えていましたっけ。スンダリカに、ブッダは、「あなたがバラモンと言うのなら、サーヴィトリー讃歌を知っていますよね」と尋ねたので、スンダリカは、この質問によって、この人はカーストを超えているのだと思ったのだろうと思います。

‘戦いを起こすために’、ブッダはやって来るのではなくて、相手の疑問をはらうために、やって来るのだと思っています。

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/15(Fri) 10:41 No.55618


「 戦い 」 は 「 空 」 です

例え は 「 有 」 に 起きて、 実体 を もちます

イエスが、 ” 実際 ” に 戦ったと 思っていますか ?

・ 

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/15(Fri) 12:23 No.55618


No.55649 の書き込みは、 出先からPAD で しました
言い切り で 分りにくいだろうと 思います



>>  ショーシャンク 様 のように  「 だったら 証明しなさい 」 と 言いますか ?
>    私が、どう言うかではなく、ショーシャンクさまには、「どう答えるか」ということだと思います。

違う方法で 応えるのが 良い方法  だと 言う意味 だと いうことは、 
わたし に  読み取られます

つまりは、 “ 証明方法 ” を  変えなさい  という  “ お勧め ” です
言葉を変えて、 きついこと を 言っているだけです

わたしの方法が 正しくないのであれば( うまく機能しない と 思うのなら )
あなたに  四食のお膳が 置かれます
あなたが あなたの手で 配膳してください


>  春間さまはどう思っているのだろう、ということを知りたいのだと思います。

どうして知る必要が起きるか   ということを  理解できていますか ?

それが、 彼の理解するところの “ 破壊するため” です

そうではない  ということを  そうだという人に  分からせる
>   私なら、嬉々として、あーだのこーだのしゃべっちゃうところですが。
あなたは、  “あなたの理解で知る” ブッダ の とる方法   で、
 “ しゃべっちゃう ” けれど、
三浦氏 は それで “ 調伏 ” 出来ましたか ?

>  多くの人も、それを望んで待っているのだと思います。

そうでしょう
多寡 は 縁起です (!) が
わたしの書き込み を 期待する人よりも、
あなたの “しゃべっちゃう” を 期待する人の  “ 量 ”  は 大きい
何故なら、 期待する者に わたしが入るからです
( そうであっても、 “マハー” ・ パーラ  でない限り、 多寡は 縁起します )

>  ショーシャンクさまがわからなかったのだと、春間さまが思うところは、違うやり方で答えることは必要ではないかと思います。

同じことを繰り返してはいませんが、
同じことを繰り返しているという認識を持つ者は、 「 輪廻 」 に あるのです

「 無常 」 ということの 範囲を 決めると、 アミタ ではなくなる

わたしは、 「 無常 」 ということ   を  知っています

 「 恒常 」  にある者は  自我を確立している ( 自我を“金剛” としている )


>  誰にでも煩悩がある、ということを考えるとき、

誰にでもある  とするのは、
わたしではありません
( 真理に 煩悩は存在しない 
            存在するなら  「 煩悩即菩提 」  としてです )

煩悩だけの世界に住むことを  「 無明 」 に 起きる   と 言うのです


瞑想 を 為さねば 「 無明 」 は 晴れない ( 覆いは 外されることはない )


経典 に  牟尼の言葉 によって 覆われることがなくなった 
    と 記述されていること は
言行一致  ということを  省略するだけのことです

牟尼には 翳障 は ない  ということを  言語に置くだけです ( 分かりますか ? )


>  自分で煩悩をなくしなさい、と指摘しても、「ああ、そうですね」と言って煩悩をすぐなくす人は、まあ、いないでしょう。それができるなら、ここにはいない、のですから。

ここ とは  どこですか ?

わたしが 記述する 住処 が “ ここ ” ですが
わたしは、 あなたの前にある限り、 無住処 ではいられない

これがどういう意味かは あなたが 考えて、 得ることで、
考えようによって、 得ることは “ 変わっていく ” 
   →   そういうことが 「 無常 」 ではなく  「 恒常 」  なのです


何故 「 瞑想 」 をする  のか  ということの
   目的がある と するなら
「 瞑想 」 を 捨て去るためです

岸につけば 筏 は 捨てられる

誰も、  他の者 の 筏   を 使うことはできない
( 筏 は 「 彼岸 」 に うち捨てられているのだから 、、、、 )


もしも、 わたしの やり方が 不足 であり、 正しくないとするのであれば、
あなたが 充足し、 正しい道を 示せばよいのであり、
それが、 あなたの道の歩み方で、
示された道 を 歩むことです

わたしは、
あなたの道がある のであれば (!)  
起こされている、 それが起きる 同じ仕組み  で 
わたしの道を起こす

わたしの道はない
あなたには、 あなたの道がある

自他不二でない限り、 あなたの道は わたしの道と 異なる道です

(  ここを よくよく 穿たなければなりません  )

穿って、 穴を掘れば掘るほど  「 空 」  は 広がりを見せるのです

やがて、 すべて 「 空 」  の 穴に 陥ると思いますか ?

穿つ限りには 足場は崩れない

そういうことを  既に述べているのです



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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言  管理人エム 2019/11/15(Fri) 13:30 No.55618


>イエスが、 ” 実際 ” に 戦ったと 思っていますか ?

そうは思いませんが、正面突破だけでは、埒があかないだろう、ということも思います。

ショーシャンクさまがどう思っているのかは、すべて手の内を明かされていますから、その思考のパターンにはないものを、述べた方が、ショーシャンクさまにも、私たちにも有益だと思うのです。

春間さまがマニカナに誘われたのは、ショーシャンクさまを優秀な方だと思われたからでしょう?

突き抜けようとされているところが、わたしには見えますが、そこを突き破るには、誰かの「一突き」がいるのかな、と思うわけです。

何が必要なのかは、私にはわかりません。それはブッダのみ知る。。いや、ブッダも知らない。。
「生ずる性質のものは滅する性質のものである」という言葉だけでも、覚りにいけることを知っている方ですよね。「法の眼」といわれる文です。すごく大事な文だと思います。

サーリプッタは、このような内容に触れてすぐさまブッダの元にはせ参じました。
さらに、長爪論師とブッダの会話を聞きながら、ブッダをうちわで扇いでいるとき、そのまま覚りにいきましたね。機と縁がそろって、大転換が起こる。

機縁は、外から来るのでもなく内から来るのでもない。しかし、来るときにはやって来る。それを信ずる者は、自分の中で育てていくものもあるのかもしれません。

>あなたは、  “あなたの理解で知る” ブッダ の とる方法   で、
> “ しゃべっちゃう ” けれど、
>三浦氏 は それで “ 調伏 ” 出来ましたか ?

かれには、機縁はまだなさそうです。
守るものがたくさんある人です。
70近い反論を出して、「来るなよ、来るなよ」と言いました(?)ので、
近くにいくのをやめました。

でも、遠い将来の機縁の一つにはなっていくのかもしれないですね。
ラッセルだけじゃ満足できん、って思うときがあるのかなぁ。。

押し寄せる魔の大軍を打ち破って、ブッダは覚りに行きました。
誰もが、魔の大軍と戦うのだと思います。

敵は、みずからの中にいつもひそんでいるのだろうと思います。

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Re: No.55616(十二縁起)のお返事に一言二言   春間 則廣  2019/11/15(Fri) 15:36 No.55618


>  かれには、機縁はまだなさそうです。

機縁は あなたが作る モノ
彼の機縁 は  あなたの機縁 です

あなたが機縁を捨てているうちは、
彼には 機縁は 訪れない

過去の歴史 というモノが、 時に沿って 置かれて、 眺めるのなら
いかに、仏教は 機縁をつくらなかったかが 分かります

仏教は 中東の地に於いて ナザレのイエス によって、 広められたというのに 、、、、

西洋論理学 なるモノを 眺めれば、
“ 機縁は いつかやってくる ” という 幻想を 捨てる方が よい


捨てることが出来るという 前提での 記述です


>  守るものがたくさんある人です。

自己を捨てる のが 「 仏教 」 です
自己を守る ということ が  「 自我 」 の成立   です

いつかは 白骨 となる   のに 、 何を守ろうとしているかを 疑います

子に託すのなら、 DNA に 託すわけです
ミトコンドリア の DNA は アダムに 繋がっている

「 万系一世 」 とは 日本 の 思想です
しかし、
決して、  天皇という 統治体系を崇めるため のモノ   ではありません

>  70近い反論を出して、「来るなよ、来るなよ」と言いました(?)ので、

反論など、
自我を守るため であれば、 無限に出すことが出来ます
なにせ、 「 輪廻 」 するのだから 、、、、

>  近くにいくのをやめました。

遠近 は  「 縁起 」  です

その  「 縁起 」 を とると、 どういうことが起き、
どう起こさなければならないかは あなたの道にあることですが、
遠・近 が  「 縁起 」 だから、
“遠く”で   大・小 の  「 縁起 」 に沿って、 呟けばよい

常不軽  は 離れて 手を合わせる 、、、、

>  でも、遠い将来の機縁の一つにはなっていくのかもしれないですね。

知れるか、 知れないか  を 知らない
だったら、 知ることが出来ない( 出来てはいない ) を 取らなければ 、、、、

そういうことを、 ソクラテスや、孔子は、  感じたのです   が、
智慧 を 持たないから、 誤りを記す
知らない  ということを  知らない のです
知っている ということを 知っているから、 その知 を 愛知(フィロソフィー) するわけです
哲学 は 執着である !


仏教 が  “ テキテキ と ”  伝わるまで は、 
すべては 「 正理 」 には 乗ってはいなかった  のです



遠い・近い は  「 縁起 」 に 起きます
過去・未来 は  「 永遠 」  には 起こしようがありません

知る・知らない は 、 知っている・知らない と 言い換えた方が、 分かりやすい 
知る・知らず では 意味をたがえる人も出てくる

あなたが、 知れない と言っているから、 知れないことであるのではなく
必ず、 だれでも、 成就する 
ということは、 授記されていることです

多く学んだから、 成就するのではなく
精進があって、 身を 身の回りを  清く保つから  そこに、 成就があるのです

“現” に 、 シュリハンドク は 掃除で “ 成就している ”


わたしは、 そういう意味では

“あなた” のことを、 心配しません ( あなた  ではなく  “ アナタ ”  です )

ほら、 あんなところに 筏が 乗り捨ててある 、、、、

誰だろう ?
いつまでも 筏に乗って 急流を渡っているのは 、、、、
( それは 難行 です )


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  「 己事究明 」     春間 則廣  2019/11/12(Tue) 06:58 No.55602 [返信]


  自分自身 に  めぐり合うには、 自分    を   離れなければならない 
( 自分   に めぐり合うには  自分自身 から  離れなければならない )

正反対のことを 並べて、 記述していますが
起きることは  “ 絶った 一つの ”  一つのこと です

>  それでは、

という 言葉が、 あなたの心 を 表しています   
   ( “それでは” では、 あなたには、 分かるは 訪れない )
   ( あなたは、 否定することを前提に、 材料を 求める構造にある )

( 自分のせいだと思う という )思い の 為の前提として、
否定してやろうという 前提を 立てているのです
( こういう話の運び方が 理解できますか ? )

  どのような説明を聞こうと
聞いた説明は、 “否定の為の材料でしかなくなる”  ということです

自分の理解できないことを、 否定しているときには
理解できない自分から 離れることが出来ない

( わたしには、 あなたの言いたいこと が、 全部理解できているのです )
( その理解できたことの 前提において、 次の段階を示しているのです )

>>  自分のせいだと、思えないかを、
     思うことが出来れば、
     局面は 大きく変わります      <<

この前提を、 立てて !

“もう一度” すでに書き込んだことを 全部 読み返しなさい

一度でわからなかった から 、 もう一度 が 起きます
分かる二度 が 来るまで、読み返しなさい

( 輪廻とは 一度を繰り返して、 新たなる 二度目 が 訪れないことです )
( その二度目 が 繰り返されることなき、 たった一つの人生です 、、、、 )


すでに、 論理的に 説明しています
( あなたが、 読み“取れない” = 読み“取らない”  だけです )

( こういう 文の 意味が 論理的に読めないから もう一度が起きます )
( “もう一度” を 起こす気 が 起きた時 が、
            正しい論理 に 赴く準備 が 出来た時です  )

“ もう一度 ” を 読むことが出来た時に 「 輪廻 」 は 終わります


わたしが正しい  と 言っているのではありません
あなた自身が、 あなたを離れて
離れたあなたに めぐり合うことを 望んでいるだけです 

今のあなたは、 あなた自身から 離れることをしようとはしていない



こういうことを 理解しようとする気を 起こしてください
( あなたが 否定しようとしているのは あなた自身なのですから 、、、、 )




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Re:   「 己事究明 」    ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 07:27 No.55602

やはり予想通りでした。
まず、あなたは新しいスレ立てをするだろうと思いました。
私の『四念処』スレより上に自分の投稿を置きたいだろうからレスにして下に表示しないだろうと。

そして次に、あなたが質問からはぐらかし続けるやり方は
文章の端っこを切り取ってきて、その言葉についてまわってあれこれ言ってごまかすやり方なので、何十回質問しても答えを得ることはできないのです。
ですから、言葉の端っこを捉えないように
『それでは、あなたが言った
『ナザレのイエスは “キリスト教” を 破壊するために 説教を重ねました』と『歴史上の仏陀など存在しません』について論理的な説明をしてください。』と質問だけしたのですが、
これでもやはり唯一の質問以外の言葉『それでは、』に食いついてきましたね。

この文章を書くと、今度は、上の文章の言葉のどれかを切り取ってきてついてまわることになり、それが延々と繰り返されます。

たぶん、上の文章の中の『予想通り』とか『端っこ』とかいう言葉にでも反応するのではないでしょうか。
『予想は 無明に 起きている』とか
『端っこは 真ん中に 縁起してます』とか(笑)

そのような無意味なことは(こう書くと『無意味』という言葉にいちいち食いついてくるでしょうけど)やめにしたいです。

これからは、質問に答えてもらえるまで、質問の文だけをレスしますね。


『ナザレのイエスは “キリスト教” を 破壊するために 説教を重ねました』

『歴史上の仏陀など存在しません』
について
論理的な説明をしてください。

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Re:   「 己事究明 」     春間 則廣  2019/11/12(Tue) 08:50 No.55602


そのように 「 輪廻 」 するわけです

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Re:   「 己事究明 」     春間 則廣  2019/11/12(Tue) 08:54 No.55602


やはり予想通りでした。

その予想が当たっていたからと言って、

あなたが 述べることが
  すべて
 正しい  という   理由にはならない

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Re:   「 己事究明 」     春間 則廣  2019/11/12(Tue) 09:05 No.55602


> やはり予想通りでした。

その予想が当たっていたからと言って、

あなたが 述べることが
  すべて
 正しい  という   理由にはならない

あなたは、すでに、
> 人間の主観に過ぎないということ
を No.55564のスレッド の No. 55585
で て受け入れています から
それが、 あなたの論ずることの 前提になっています

そうすると、
> やはり予想通りでした。
の 
予想     が 主観に過ぎないだけではなく
通りでした  も 主観に過ぎなくなります

主観は あなたが、 あなたの軍隊として、 「 右に行け 」 と言えば
右に行きます
そのことは、 ミリンダパンハ に 説かれています
主観 には 他は立ち入ることはできません
主観 を 変えるのは “ 主 人 ” である あなたです

「 輪廻 」 の 意味が 感じ取れますか ?


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四念処  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 16:55 No.55591 [返信]

クォークさんへ

『涅槃へ至る一乗道』と歴史上の仏陀が言った四念処について、今の時点での私の解釈を書きます。あくまでも私独自の解釈ですので、全く間違っている可能性も高いですが、今思っているところまで書いておきます。


私は、四念処観とは、身・受・心・法において、無常であり(生ずるものは滅するという生滅の法)、苦であり、非我であるという仏陀の理法を観じていくことだと思っています。

四念処の最後『法』が七覚支の『択法』につながり、『四正勤』につながると考えます。

まずは、四念処とは、自分の身(肉体)、受(感覚)、心(思考)、法(記憶や観念)につき、どれもが『私ではない』と切っていくことです。

長くなりますので、非常に簡潔に言いますと、
身(肉体)は、自分の肉体は死体のように腐って朽ち果てる性質のものであることを観じ、『私ではない』と観じます。
受(感覚)は、苦受・楽受・非苦非楽受がありますが、そのどれも束縛であり苦に行き着くものであり『私ではない』と観じます。
心(思考)は、受に反応して起きます。その生じて滅するありさまを観じ、そのような根のないものは『私ではない』と観じます。
法(記憶・観念)は、蓋であり、精神を縛するものであると観じ、『私ではない』とどんどん切り捨てていきます。

これが私が考える四念処です。

あくまでも、私独自の考えですので、スルーしてもらって結構です。

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Re: 四念処  クォーク 2019/11/12(Tue) 12:38 No.55591

ショーシャンクさん、こんにちは。

ショーシャンクさんの考える四念処をご説明いただきありがとうございます。
勉強になりました。

ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?
正念正智の実践は心を正しく観察することから始まるとされています。
そこで、正しい観察とは何かを調べてみたら、雑阿含経の中に正観察経というのがありました。
その中でブッダ釈尊は聖弟子は五取蘊に対して身見の見方をしないと説いています。
つまり、「色(受想行識)に於て我なり異我なり相在すると見る」ことがないということです。聖弟子は五取蘊を非我なり非我所なりと観察しているということでもあります。

正観察とは五取蘊を無常・苦・空、そして非我・非我所であると観察することだといいます。
正観察を為せば
1.諸の世間に於て取する所がなく、
2.取する所が無ければ著する所がなく、
3.著する所がなければ、ひとりでに涅槃を覚る。
とあります。
これは四念処へ向かう上でおさえておくべきことだと感じています。

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八正道  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 20:43 No.55591

クォークさん、こんばんは。

>正観察とは五取蘊を無常・苦・空、そして非我・非我所であると観察することだといいます。


その通りですね。
歴史上の仏陀が繰り返し言った言葉があります。
それは
『無常であり、苦であるものを我、我が物、我が本体と言っていいであろうか』ということです。

この言葉からすると、仏陀の教えの根幹は、無常・苦・非我 であることがわかります。

四念処も、自分の肉体・感覚・思考・観念 が、無常・苦・非我であることを洞察することだと思います。


>ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?


確かにそれでもいいと思いますが
私はむしろ
八正道の、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、
つまり正見以外の7つは
正見に基づくものだと考えています。

正見にもとづく一瞬一瞬の思い
正見にもとづく言葉
正見にもとづく行為
正見にもとづく生活
正見にもとづく精進
正見にもとづく理法を保持し繰り返し念ずること
正見にもとづく正念への全面的な集中

と考えた方が適切なような気がしてます。
これも私が勝手に思っていることですが。

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Re: 八正道  クォーク 2019/11/13(Wed) 08:40 No.55591

ショーシャンクさん、こんにちは。

>>ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?
>
>確かにそれでもいいと思いますが
>私はむしろ
>八正道の、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、
>つまり正見以外の7つは
>正見に基づくものだと考えています。
>
>正見にもとづく一瞬一瞬の思い
>正見にもとづく言葉
>正見にもとづく行為
>正見にもとづく生活
>正見にもとづく精進
>正見にもとづく理法を保持し繰り返し念ずること
>正見にもとづく正念への全面的な集中
>
>と考えた方が適切なような気がしてます。

なるほど、他の要素は正見を向いているということでしょうか。
一般に三学は戒定慧と修学されると言われますが、八正道の場合は慧戒定となっています。
たとえば、巡航ミサイルのトマホークは目標が定まっており、すこし位置がずれても修正しながら目標につき進むように設計されています。八正道も同じよに設定されているのかもしれません。
そうなると「正見」はたいへん重要な要素となります。目標を誤ると誤爆してしまいますから。
ちまたでは「正見」はいろいろ定義されていますが、ショーシャンクさんの「正見」はどのような内容でしょうか?語っていただければうれしいです。

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八正道  ショーシャンク 2019/11/13(Wed) 11:09 No.55591

クォークさん、こんにちは。

相応部経典45.1『無明』にこうあります。

比丘たちよ、無明がまずあって
無明に従う無智者によって邪見が生じる。
邪見によって邪思が生じる。
邪思によって邪語が生じる。
邪語によって邪業が生じる。
邪業によって邪命が生じる。
邪命によって邪精進が生じる。
邪精進によって邪念が生じる。
邪念によって邪定が生じるのである。

比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、明にしたがう智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。


つまり、正見=正見解 こそは、明=無明の反対=慧 であるということです。
そして、正見=慧 に至る過程で、慚と愧を経るのです。
無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。

八正道とは人間に頭で考えた倫理道徳の8つの項目ではありません。
究極の境地=智慧 に基づいた思考、言葉、行為ということです。


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Re: 八正道  クォーク 2019/11/13(Wed) 14:35 No.55591

ショーシャンクさん、こんにちは。

すばらしいご説明をいただき感服しました。ありがとうございます。

>比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。

釈尊のお言葉だと思うと身の引き締まる思いがいたします。
明(=正見解)が明示されて、それによって善法(=煩悩を滅しようする心の動き)が生じ、さらに慚と愧とがこれに従う。
ここに「慚」と「愧」が説かれているのが凄い!
慚=恥ずかしいと思う心。何を恥ずかしいと思うのか。心の中に怒りや不満や貪りなどの悪い部分が存在していることを恥ずかしいと思う。自分に対し恥ずかしいと思う心。
愧=神仏や周囲の人たちに対し恥ずかしいと思う心。心の中に怒りや不満や貪りなどの悪い部分が存在していることを恥ずかしいと思う。神仏や周囲の人たちが見通していることを恥ずかしいと思う心。
つまり、慚と愧が無いなら人は向上しないということなのでしょう。

>無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
>明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。

確かにそのように思います。
ところで、お伺いしますが、四諦の集諦には三種の渇愛の集まるさま(ようす)が説かれ、滅諦には三種の渇愛の滅するさま(ようす)が説かれています。
この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。よろしければご教授ください。

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集諦  ショーシャンク 2019/11/13(Wed) 16:56 No.55591

>ところで、お伺いしますが、四諦の集諦には三種の渇愛の集まるさま(ようす)が説かれ、滅諦には三種の渇愛の滅するさま(ようす)が説かれています。
この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。よろしければご教授ください。



十二縁起の順観が、四諦の集諦です。
十二縁起の逆観が、四諦の滅諦です。

それをごく短く簡潔に表したものが『マハーヴァッガ』などのこの文です。

比丘たちよ、集諦とは次のごとくである。
後有をもたらし、喜びと貪りとともにあり、随所に歓喜する渇愛である。それは、欲愛・有愛・無有愛である。

比丘たちよ、滅諦とは次のごとくである。
この渇愛を余すところなく離滅し、放擲し、解脱し、愛著のないことである。


仏陀の説いた、無常(生じたものは滅するということ)、苦、非我の理法がわからないので、無意識的に『私』という好き嫌いのフィルターを作っているのです。

受(感覚)を感じ、その感覚を快か不快かに無意識に分けています。
快の感覚は、長く感じ停滞し、繰り返し感じることを望みます。
不快の感覚は、すぐでも排除し、嫌悪していきます。
快の感覚は、快楽の想念となります。
不快の感覚は、嫌悪の想念となります。
想念が繰り返すことによって、観念となります。
その対象の観念に執着するようになります。

これが十二縁起で言う
受⇒愛⇒取  です。

これが私たちが苦の集積に向かう激流に巻き込まれる様です。

受・愛・取が精神を束縛する鎖であり、苦そのものだということが本当にわかっていたら、激流には巻き込まれません。

すべては、触れる対象が、苦でなく快楽であり、非我ではなく私のものだと考えることによって、苦の集積に流されていきます。


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Re: 四念処  Satya 2019/11/13(Wed) 22:13 No.55591

> この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。

たいへん良い質問だと思います。

目の前の魅力あるるものは私では無いと考えても、その魅力あるものはイイなと見えるもんです。

その魅力あるものが、いずれは古びた腐臭あるものになると洞察しても、惹きつけられるものには惹きつけられます。

そこで、私はどう錯覚しているんだろうと考察してみます。

その答えが、自分を納得させるものなら、無明が滅すベースになりえます。

このベースがあって、無常と苦に関する法の句(仏教用語ではない)を見る又は聞くチャンスにまみえたとき、それがまさしく無常と苦の消滅に関する句だと理解しえ、因縁があったなら、智慧が何処から生じるのかを理解し、福(幸せ)が苦をしりぞけることが起こり得ます。

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Re: 集諦  クォーク 2019/11/14(Thu) 06:48 No.55591

ショーシャンクさん、おはようございます。

>十二縁起の順観が、四諦の集諦です。
>十二縁起の逆観が、四諦の滅諦です。
>
>それをごく短く簡潔に表したものが『マハーヴァッガ』などのこの文です。
>
>比丘たちよ、集諦とは次のごとくである。
>後有をもたらし、喜びと貪りとともにあり、随所に歓喜する渇愛である。それは、欲愛・有愛・無有愛である。
>
>比丘たちよ、滅諦とは次のごとくである。
>この渇愛を余すところなく離滅し、放擲し、解脱し、愛著のないことである。

これは卓見です。十二縁起の順観が四諦の集諦であり、十二縁起の逆観が四諦の滅諦であると指摘できる人は少ないです。凄い洞察力ですね。

>仏陀の説いた、無常(生じたものは滅するということ)、苦、非我の理法がわからないので、無意識的に『私』という好き嫌いのフィルターを作っているのです。

そうですね。
質問の主旨からはずれますが、私はこの「無常・苦・非我」が真理として観るべきものであるかどうか疑問に思っています。
もし真理ならなぜ十無記の中に「“世界が無常である”とは、わたくしの記説しなかったことである。」が入っているのか?
<十無記> http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/50800864.html
そこで、「無常・苦・非我」は煩悩を滅するための「智慧」によって縁起した仮の相であると考えています。
もっとくだけた言い方をすれば煩悩を滅するための道具のようなものと考えています。

>受(感覚)を感じ、その感覚を快か不快かに無意識に分けています。
>快の感覚は、長く感じ停滞し、繰り返し感じることを望みます。
>不快の感覚は、すぐでも排除し、嫌悪していきます。
>快の感覚は、快楽の想念となります。
>不快の感覚は、嫌悪の想念となります。
>想念が繰り返すことによって、観念となります。
>その対象の観念に執着するようになります。
>
>これが十二縁起で言う
>受⇒愛⇒取  です。

ここの流れは「中部経典 第四四経 小有明経」と「第一八経 蜜丸経」に詳しく説かれています。
小有明経では三つの感受(苦受・楽受・不苦不楽受)と根本煩悩(貪・瞋・痴)との相関関係が詳しく説明されています。
蜜丸経では三者の和合による触・ 受・想念・尋思・妄執(愛)の流れが詳しく説明されています。
一読をお勧めします。

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Re: 四念処  Satya 2019/11/14(Thu) 07:22 No.55591

> 目の前の魅力あるるものは私では無いと考えても、その魅力あるものはイイなと見えるもんです。

上記の(私の)文章に誤りがあります。

一連の良きやりとりの脇から失礼しました。m(_ _)m

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Re: 四念処  ショーシャンク 2019/11/14(Thu) 10:23 No.55591

クォークさん、おはようございます。


>質問の主旨からはずれますが、私はこの「無常・苦・非我」が真理として観るべきものであるかどうか疑問に思っています。
もし真理ならなぜ十無記の中に「“世界が無常である”とは、わたくしの記説しなかったことである。」が入っているのか?



マールキヤプッタが抱いた10の疑問とは、その当時のインドにおいて盛んに議論されていた哲学的、形而上学的な難題でした。
インド人は、特に古代においては高度に哲学的であり、そのような哲学的な議論が盛んだったのです。

その10の哲学的難題とは
1.世界は永遠であるのか(時間的無限論)
2.世界は永遠でないのか(時間的有限論)
3.世界は無限であるのか(空間的無限論)
4.世界は無限でないのか(空間的有限論)
5.生命と身体は同一か (霊肉同一論)
6.生命と身体は別個か (霊肉相異論)
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

つまり、時間と空間についての哲学的な議論と霊魂と肉体についての形而上学的な議論なのです。

ですから、
世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
という哲学的な議論と
仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。

相応部経典22・97に
爪の上に土をのせて語る場面があります。

弟子が『この世の物象にて常恒永住にして変易しないものがありますか』と聞くと
仏陀は『比丘よ、この世には、常恒永住にして変易しないものは、少しもない』と言って
爪の上に土をのせて
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのである。』
と示しました。
そして
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのであるが故に、私の教えるところに従って苦を滅することができるのである。』
と言われたのです。


マールキヤプッタの質問とは
『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。


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Re: 四念処  ショーシャンク 2019/11/14(Thu) 10:51 No.55591

Satyaさん、おはようございます。


>目の前の魅力あるるものは私では無いと考えても、その魅力あるものはイイなと見えるもんです。
その魅力あるものが、いずれは古びた腐臭あるものになると洞察しても、惹きつけられるものには惹きつけられます。


確かにその通りですね。
仏陀の時代のように、墓場で四諦の腐っていくさまを観察する白骨観は、現代の日本ではできませんし、もしできても私は絶対にやりたくないです(笑)
ですから徹底した不浄観などは難しいのですが、
受⇒愛⇒取 の流れを観察できれば全然違ってきますね。

もっと直接的なのは、執着の念そのものが自由な精神を縛る鎖でとんでもなく苦痛なものだと見極めること、あるいははっと気づくことで、かなり自由の方向へは行ける感じがしてます。

人間はやはり『苦』に気づかないと、目の前に心地よい美しいものがあるとどうしても執着しまくってしまいますね。

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Re: 四念処  クォーク 2019/11/14(Thu) 12:53 No.55591

ショーシャンクさん、こんにちは。

>マールキヤプッタの質問とは
>『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
>仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。

仏教学者である三枝充悳氏も著書「初期仏教の思想(中)」の中でよく似た疑問を吐露しています。「本書の「序論」に考察したいわゆる「十難無記」の第一に、(1) 世界は常住である。(2) 世界は無常である。という二つのいわゆるアンティノミー ( 二律背反 ) がある。これに対して、ゴータマ・ブッダは沈黙を守って、いかに執拗にたずねられても、答えをしなかったといわれている。すでに詳細に説明したように、「諸行無常」「一切無常」であるならば、当然、「世界は無常である」のみが成立し、「世界は常住である」は成立しない。なぜブッダは、世界無常を肯定し、それに矛盾する世界常住を否定しなかったのか --- そのような疑問が当然浮かんでくる。しかし経典にはこれについて、ほとんど問いも答えもしていない。それはどのように理解されるべきであろうか。」と。

私のような極端な結論は出していませんが、三枝氏も疑問に感じていたのは間違いありません。
また釈尊は、「無常・苦・無我」という教えを特定の見解として、弟子たちに教えていたわけではありません。
いくつかの経典では、「無常・苦・無我」は修習によって成果のでる観想法として説かれてもいます。
初期仏教において「 聖」という言葉は「四聖諦」と「八聖道」の二つにだけに冠されているのです。

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Re: 四念処  ショーシャンク 2019/11/14(Thu) 14:40 No.55591

クォークさん、こんにちは。

原文では
sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
asassato loko  世間(世界)は恒久(永久)でないか

この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
この世界に終わりがあるかどうか、です。

仏陀の言う
sabbe samkhara anicca
すべての形成されたものは無常である

というのは、生ずる性質を持つものは滅する性質を持つ、ということであることは初期経典にあり、最初期はこの一言を聞いただけで解脱した人がかなりいたことが記されています。

人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。

このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。

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滅諦  Satya 2019/11/14(Thu) 15:59 No.55591

> 人間はやはり『苦』に気づかないと、目の前に心地よい美しいものがあるとどうしても執着しまくってしまいますね。

私は、刻々と変化する青空と雲の様子に惹かれるので、いつも空に向かってスマホのレンズを向けています。これが執着か執着でないかはさておき、

その青空と雲の様子は無常のようでもあるのですが、この無常に関して、目の前のものが刻々と変化するものだということを深く認識したとしても、智慧が生じないだろうと思っています。

また苦においても、この世は苦に満ちていると深く認識し、自分の執着は空だと認識し手放そうとしても、その方向性からは智慧は生じないだろうと思っています。

だったら、どうすべきかということは、自分なりにわかっているつもりですが、シャーシャンクさんとクォークさんはどの方向性から道を歩み、自分なりの目的地まで、到達するのだろうか、「生まれたものは必ず滅する」ということだけで、すでにその目的地まで到達しているのだろうか、またあえて知性の高みとその言語能力の披露で抑えておくのか、という一連の流れを楽しみたいと思っています。

私の書き込みなんぞは(簡単アンド、ワンパターンの繰り返しなんで)どうでもいいんです。

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Re: 四念処  管理人エム 2019/11/15(Fri) 09:51 No.55591


Satyaさま みなさま おはようございます。

> その青空と雲の様子は無常のようでもあるのですが、この無常に関して、目の前のものが刻々と変化するものだということを深く認識したとしても、智慧が生じないだろうと思っています。
> また苦においても、この世は苦に満ちていると深く認識し、自分の執着は空だと認識し手放そうとしても、その方向性からは智慧は生じないだろうと思っています。

感慨深いです。ほんとに! 目が、@@ こんなだわ。
おっしゃる通りのように思います。うーん、口がむずむずしてきますが、沈黙しよう。

> すでにその目的地まで到達しているのだろうか、またあえて知性の高みとその言語能力の披露で抑えておくのか、

へぇ〜、Satyaさまって、けっこうシビアな方なんですね。

ショーシャンクさまとクォークさまのお話に、さらに、いっそうの期待をしてしまいます。

お邪魔しました。

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Re: 四念処  ショーシャンク 2019/11/15(Fri) 11:57 No.55591

Satyaさん


>その青空と雲の様子は無常のようでもあるのですが、この無常に関して、目の前のものが刻々と変化するものだということを深く認識したとしても、智慧が生じないだろうと思っています。
また苦においても、この世は苦に満ちていると深く認識し、自分の執着は空だと認識し手放そうとしても、その方向性からは智慧は生じないだろうと思っています。


私もずっとそう思っていました。
巷に溢れている仏教の解説書には仏教の基本が『無常』『空』『無我』と書かれています。無常であり、変化してやまないことはわかるけれど、だから何なのだ?と。それがわかったところで何も変わらない。
ミリンダ王の問いで、車はバラバラな部品が寄せ集まったもので車という実体がない、ナーガセーナもそうだといっても、そしてそのことで自分が無我だと言っても、日常生活では何一つ変わりません。
同じく、巷にある仏教の解説書でも『人生は苦である』『この世は苦に満ちている』などということがしたり顔で書かれていますが、実際にはお金があり豊かであれば楽しいこと、快楽は満ち溢れていますね。

また、仏陀が言った『生じるものは滅する』という言葉だけで悟った人がたくさん出たことは若い時から知っていましたが、そんなありふれた言葉で悟れるわけないと思っていました。

四諦が仏教の真理と言っても、『人生は苦であって、その苦は執着が原因だから、執着がなくなればいいんだよ。執着をなくすには、8つの正しいことをすればいい。』というような道徳のようなことで悟れるなどということは本当に馬鹿馬鹿しいと思っていました。

いまは、歴史上の仏陀が本当に言おうとしたことがだんだん分かってきました。顛倒夢想から正見解への180度の大転回なのだと。
『生じたものは滅する』という仏陀の一言だけで解脱した人は、その言葉で意識の大転回が起きたのだということ。
そして『生じたものは滅する』という言葉だけで大転回が起きる人は起きるのだということも。

こちら側からどんなに『空だ』『無我だ』と言っても、仏教のどのような高度な理論を詰め込もうと、何にもならずかえって足枷、自分を縛る鎖にしかならないということもわかりました。ただ、自分の学識を披露して他者にマウンティングするための道具にしかならないことも。

映画『シックスセンス』や『アザーズ』のあの大どんでん返しのようなもので、立っている基盤が間違いだったとわかり崩壊し180度転回すること、これしかないんだなと思うこのごろです。

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Re: 四念処  Satya 2019/11/15(Fri) 18:50 No.55591

みなさま、おばんです。

> そして『生じたものは滅する』という言葉だけで大転回が起きる人は起きるのだということも。

無常に関しても、苦に関しても、自分に重きを置いた視点で見ると、正しく見れません。

自分がどんなに偉くても、自分に重きを置いているなら、福(幸せ)が苦をしりぞけることは起こり得ません。

今のまま、やさしく見るから、

幸せは、やさしくおだやかにおとずれてくれます。

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Re: 四念処  Satya 2019/11/16(Sat) 17:15 No.55591

> 今のまま、やさしく見るから、

少し説明すれば、自分の苦ではなく、人の苦を正思することができるかということです。

前置きして具体例を公開すれば、誰も自分の目的地に到着できなくなるかもしれない。

経典にも、具体例は伏されているように思います。

具体例はむしろ物語や二人称の会話の中に出現することがあります。

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無題   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 13:25 No.55588 [返信]

> 顛倒してないのであれば、自分が言った『歴史上の仏陀など存在しません』という言葉をきちんと説明してください。

きちんと が 顛倒に起きています

歴史については すでに述べました

仏陀が ( どこであろうと) 存在しているのなら
証明してください

ただし、 その証明の前提を 明らかにしてからです

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Re: 無題  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 13:43 No.55588

あなたはどんどんどんどん新しいスレにしてしまいますね。
レスであれば、返信にしてその下に入れていかないと、このような内容が全くないやり取りで掲示板が埋められて皆さんに迷惑です。
少しは管理人さんのことや皆さんのことを考えたらどうですか?


『歴史上の仏陀など存在しません』と言ってきたのはあなたです。
存在しないことを証明しなければいけないのは言い出したあなたですよ。

あなたはちょっと幼稚過ぎませんか?
こんな幼稚なことを言ってくることを恥ずかしいとは思いませんか?

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Re: 無題   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 16:21 No.55588


> こんな幼稚なことを言ってくることを恥ずかしいとは思いませんか?

あなたが、どのようなことを言ってきても
わたしは、幼稚だとは 思いません

幼稚な者は あなたのように 間違って言葉を使わないからです

あなたが 幼稚で 恥ずかしいという思いを持っているのです
それを、 自分に当てはめず、対する者に当てはめているだけです

それはひとまず置いておいて、

幼稚だと 恥ずかしいのですか ?
( 幼稚な頭で、 考えてください )

( 立場を 反対に返しているのが 分かりますか ? )

言いたいことは 文脈としては 分かります
しかし
言っていることは、 「 無明 」 に 起きています

「 無明 」 にあると、 「 明 」 が ない

そうすると、 どういうことが起きるか、 理解できますか ?

一所懸命 に 考慮してください
( 考える価値は ありますよ ! )


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Re: 無題  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 17:02 No.55588

あなたが前に言った
『ナザレのイエスは “キリスト教” を 破壊するために 説教を重ねました』
という言葉と同様に
今回の『歴史上の仏陀など存在しません』という言葉も結局、論理的な説明はできずに終わりそうですね。

質問の本質をはぐらかし続けるので、あなたとのやり取りはいつも時間の無駄になってしまいます。

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Re: 無題   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 18:05 No.55588

> 質問の本質をはぐらかし続けるので、

あなたが “ 本質 ” を 持とうとするから
それが逃げていくのです

あなたが  本質  と することが、 
そもそもの、間違いなのです


> あなたとのやり取りはいつも時間の無駄になってしまいます。

無駄にするのは あなたのことです
無駄にするか、しないかは、あなたの取り組み方によって決まります

人のせいにするのも あなたなりの解決方法です
そういう姿勢で 仏教に対処しても、
仏教から 何も得ることhが出来ません
( 何もないことしか得ることが出来ません )

何故、 
自分のせいだと、思えないかを、
思うことが出来れば、
局面は 大きく変わります

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Re: 無題  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 02:53 No.55588

それでは、
あなたが言った
『ナザレのイエスは “キリスト教” を 破壊するために 説教を重ねました』

『歴史上の仏陀など存在しません』
について
論理的な説明をしてください。

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Re: 無題   春間 則廣  2019/11/14(Thu) 12:59 No.55588


すでに 論理を尽くして、説明しているけれど
あなたは変わらない
それは、 あなたには 受け入れる気がないからです

わたしの述べることが、 正しいか 誤っているかは
あなたが 理由付けすることです

わたしは、 問題点を 出しただけです
( 問題は あなたが起こして、わたしが そうだと認める )


論理的ではないとするから、 論理的に説明しろ  と 要求する
あなたに ある 要求する権利 の 根拠を 示してください

あなたは、 自分の言うことに たがうと思われることを言うならば、 
根拠を述べなければ、述べる権利がないと 思っていますか ?

反論 だと 思えるのなら、 思う根拠を 論理的に 延べて、
その論理に対しての 返答を もらえるように 願いなさい
願わなくとも、 そうではない と 言うのなら


あなたの正しい論理に沿えば、
あなたが理由を 先ず 述べなければなりません 


理由なしなら、 応える理由もありません

あなたは 否定されることを 唯唯 諾々 と 受け入れるしかないのです

あなたは 一 という  わたしは 一ではなく 二 という

唯諾 すれば、 済むことです

根拠を述べよというのなら、
根拠を述べなければならない 理由を述べなさい

その理由では、 理由にならない  とだけ、 最初に言っておきます

どうして 理由にならないかは、
この書き込みを 精読すれば 分かることです


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Re: 無題   春間 則廣  2019/11/14(Thu) 13:22 No.55588


この書き込みは
管理人エム 様 も 目を通します

管理人エム 様 は 「 論理学者 」 でもあります
論理 に 目を光らせているはずです 、、、、

論理的に 通らないことを 書き込めば、
その書き込みの構造を使って、他の書き込みも 為されている  と なります

何年も、 続けられると 思っていますか ?

このサイト には いわゆる常連が 過去において 何人も 存在していました
しかし、
管理人エム 様 と ( いわゆる 意見の相違 が起きると ) 決別し、
サイトを去っていった人も、 何人もいます

わたしも、 しばしば、 管理人エム 様 に 批判的書き込み( と 他の読者に思われる ) を
してきています

私の意見を 受け入れられないときには
管理人エム 様 は 書き込みを 止めます
受け入れる時には、
受け入れられなくなるまで、 反論を含めて、 応答されます

あなたは 黙ればよい
あなたが黙れば、 わたしの書き込みは 終わります
管理人エム 様 のように、
   無視することが
   ( 浮世の )得策です


あなたは、
わたしが
いつも “ 内容が全くないやり取り ” を すると 規定しています
“ 誰にでも石を投げるようにわけのわからない質問をして悦に入っている ”   と しています

そうであるなら、
管理人エム 様 の わたしへの 応答する対処 は よいやり方  ではなくなります

過去ログ を  道場や、広場や、日記で 読み漁りすれば、
どのように 対処しているかが分かるはずです
幸い、 お気楽 以外は、 今のところ 永久保存 となっています

そうかどうかを
“ あなたの目 ”  で 確かめたらどうですか ?

確かめるまでもなければ、
“ あなたの 確かめる目 ”  は 必要ない


意味が 何時か分かることを 願っています



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Re: 念処観はむずかしい 11/11 No.55585   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 12:17 No.55586 [返信]


歴史上 存在していようと、いまいと

あなたが何をしているかということが、 
歩みという、足下の問題です(  「 脚下照顧 」 の対象です )

頭の中のことは、 どうでもよいのです

わたしは ( 道元・親鸞・空海 を )引用しているわけではありません
引用していると とるのは あなたの見解ですから、
わたしには 属しません ( わたしは、 こういう方法で、 属させます )

わたしが、 同じように(  「 平等 」 を知って、 行ないとして ) していることを、
説明しているだけです
 ( 道元・親鸞・空海 を )引用して
 自らの  「 行 」  を 糊塗して、信用度を 高めようとしているわけではありません

わたしは 主観 を 行じているのではないのです

あなたの前提は、 あなたには当てはめられてはいないと 知ってください

自分に於いては、
正しいか・間違っているか が 正しく判断できないのなら
間違っていると するのです
他に関しては、
正しいとして、 受け入れるのです

間違っていると、 正しい論理 = 正理 で 判断できているのなら
断定で、 語ること が 出来ます

あなたが 断定する 
> いちゃもんをつけて嬉しがっている
ということは 仏陀の 知るところですか ?

この疑問は わたしが 断定できないから 聞くのではありません
断定できているから( 正理 だから )
あなたに、 再考を促すために、 疑問形にしているのです
( 端的に言うと、
   否定していることと同じですが、
    否定ではなく、 建設の為の 疑問です )

わざわざ言うまでもないことを 言っているのは あなたではないですか ?

あなたが 顛倒しているのは あなたは前提として認めるわけです
それは、 あなたの世界では 正しいけれど
あなたは 前提は 顛倒していないと していることを 見逃している

そこを見逃さないのが、 仏教です

そのように、 顛倒した前提で、 いくら論を組み上げても 顛倒の構築に過ぎません

それよりも、
顛倒してはいない という 前提で 論を組み上げれば、
論が崩れることにより、 前提の立て方に 問題があると 知ることが出来ます

> 主観を持つもの同士が話し合って新たな発見があることも多いですね。

そういうことは 絶対に起きません
元が顛倒していれば、 先は必ず顛倒するしかないのです

顛倒してはいないという前提で、 思惟を起こしたときのみ、
先において、
その前提が 間違っていると “ 目(真)の当たりにすること ” が出来るのです

このことは、 理解するには 微妙な領域です  → 「 妙 」 なのです  → 「 真空妙有 」

あなたの起こす
> 誰の言説でも主観が入っているのは当然
と言うこと は 顛倒しています

道元・親鸞・空海 は 顛倒してはいないからです

あなたの  > 誰の言説でも主観が入っているのは当然
ということが、 顛倒してはいない理由を 示してみてください

顛倒を 元にして、 先にいくら乗せても、
「 洲 」 は ないのです


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自分だけが主観でないと思っているとは  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 12:46 No.55586

>わたしが、 同じように(  「 平等 」 を知って、 行ないとして ) していることを、説明しているだけです
>わたしは 主観 を 行じているのではないのです


つまり、自分だけは主観が全くない、顛倒が全くない、平等を行ないとしている、とあなたは思い込んでいるのですね。


>あなたの起こす
> 誰の言説でも主観が入っているのは当然と言うこと は 
  顛倒しています
>道元・親鸞・空海 は 顛倒してはいないからです


自分に主観が全くないと言っているのは本当に危険です。
つまり、あなたは自分を全く洞察できていなくて、自分は顛倒してなく悟っていると思い込んでいて、その思い込みから断定を下すのです。


顛倒してないのであれば、自分が言った『歴史上の仏陀など存在しません』という言葉をきちんと説明してください。

あなたは仏教の歴史を知らないのですか?
仏陀の死の直後、500人の直弟子が集まり、実際に目で見て耳で聞いた仏陀の教説を確認し合ったのです。これが第一結集です。
第一結集による古層の経典から歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求しているだけです。
あなたは、自我が膨大に膨らんでいて、自らの自我の基盤となっている教説を否定されると思って、不快に感じているだけです。

もっと、自分自身を見つめたほうがいいですよ。
それが仏法の第一歩でしょう。

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Re: 念処観はむずかしい 11/11 No.55585   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 20:54 No.55586

何百人 確認しようと、
それは、あなたに 自他 が 起きる限り 他人事 です

あなたが 確認したわけではないのです

確認していないあなたに、 確認したことは 存在しません

すべて、 ” 自他が起こされる限り ” の 話です

あなたがある限り、 あなたに仏陀の悟りはありません

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Re: 念処観はむずかしい 11/11 No.55585  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 02:50 No.55586

>あなたがある限り、 あなたに仏陀の悟りはありません


すっかり悟った気分で手当たり次第どの人にも薫陶をしているようですが、あなた自身は、自分の中に自我はないとおもっているのでしょうか?

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Re: 念処観はむずかしい 11/11 No.55585   春間 則廣  2019/11/12(Tue) 16:54 No.55586



>  あなた自身は、自分の中に自我はないとおもっているのでしょうか?

ないと思っているのではなく
ないのです

意味のないことを聞いているのが 分かるでしょうか ?

わたしになくとも
あなたに、  自我がある限り、
わたしにも、 自我があることとなります

もっと言えば、
あなたに自我がなければ、
自我は どこにも存在しなくなります

そうすると、 一つ疑問が起きるでしょう

わたしが、 あなたに対して 「 自我 」 ・ 「 主観 」 という 言葉を使うからです

この言葉は、 あなたの起こす 想念に沿って 起きるだけのことです
あなたに自我がなくなる時に、
わたしの言葉に 「 空 」  が 起きるのです


あなたの世界において、 わたしは語ります

あなたは、 主観という自我 によって 世界を構築し、
 すべてを判断するからです

(  ややこしいでしょう ?  )

自我の前提に於いて起きることは、 すべて自我のなせる業です

わたしには自我はない  ということも、
自我から 語られることとなるわけです

ここをわからない限り
仏教は分からないのです



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dukkha・苦について一言  クォーク 2019/11/11(Mon) 10:01 No.55581 [返信]

ショーシャンクさん、こんにちは。

四念処観に対するご感想ありがとうございました。
確かにこれだと自信を持って推薦できる参考文献や本にはなかなかめぐりあえないのが現実ですね。

ところで、「dukkha・苦しみ」が話題にあがっていますが、私もこのことには少なからず関心があります。
参考にならないかもしれませんが、私なりの考えを書けば、四聖諦の苦諦でブッダ釈尊は次のように説いています。

「要するに、五取蘊(人間を構成する五つの集まり)は、苦しみである。」

五蘊ではなく五取蘊が苦しみのおおもとなのだと私には聞き取れるのです。この五取蘊は名色とも関係がありますよね。
「行」は五取蘊を生み出し展開していく存在であり、その「行」は煩悩(随煩悩・漏煩悩)によって(原因として)生じたものです。

この五取蘊と随煩悩・漏煩悩をどのようにして滅するかを説いたのが原始仏教であり、四聖諦の道諦である八正道がその方法を
示しているのだと私は考えています。

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Re: dukkha・苦について一言   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 11:01 No.55581

問題は、示された道 を、どのように歩んでいるか です

そこを示さなければ、示すという歩みは、歩まれてはいません

解釈は、いかようにもなされていて、
解釈する者は、それぞれの見解を、正しいこととします

歩み方の解釈も、それぞれ起こしますが、
その「行」には、誰にでも触れやすいのです

あなたが、実践的に行っている行 を 示して、
それを、” 供養 ” することが 大事の事 です

頭の中で、いくら積んでも 世界は変わりません

思うだけの世界 は、思わない世界と、同じなのです

思わない世界を知ることが 仏教 です

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Re: dukkha・苦について一言  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 11:01 No.55581

クォークさん、おはようございます。

>「要するに、五取蘊(人間を構成する五つの集まり)は、苦しみである。」

そうなんです。四苦八苦とありますが、五取蘊苦こそ要約したものです。
五蘊が集まること自体が苦なのです。
五取蘊苦を、身体が盛んで性欲に燃えるから苦みたいな解釈がされていることが多いですが、とんでもない間違いです。
それであれば『要するに』とは言いません。

私たちは、苦という真理を知らないために、五蘊を集めようとする衝動というか意志作用、志向作用を持ってしまうのだと思います。


クォークさんが質問されていた四念処については、あとで、自分なりの考えを少し書いてみます。

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Re: dukkha・苦について一言  クォーク 2019/11/12(Tue) 13:27 No.55581

ショーシャンクさん、こんにちは。

>私たちは、苦という真理を知らないために、五蘊を集めようとする衝動というか意志作用、志向作用を持ってしまうのだと思います。

衝動という言葉はとても微妙でうまい表現ですね。この言葉の中に煩悩が潜んでいると思います。
たぶん五蘊の中の煩悩に汚され、(それが私であると見なされて)取著されてしまったものが五取蘊なのでしょう。

>クォークさんが質問されていた四念処については、あとで、自分なりの考えを少し書いてみます。

ご説明いただきありがとうございました。とても勉強になりました。

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