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Re:  噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分  No.54403     春間 則廣  2017/10/17(Tue) 08:38 No.54412 [返信]


       この思考は いかなる論理 の 裏付けを持っていますか ?

>  この思考法が、すでにブッダ論理ですね。
       この 思考 は  意下 の 論理 の   裏付けを持って
       その 思考 の  以下 の 記述上の  論理順に沿って 続きます
・・・
・・・
> 対話が成り立ってくるのは、仮説によります。

ブッダ の 提示する 論理は
順を 持ちません
あらゆるところで 成立する 正論  であるから 「真理」 と 呼ばれます

此処では 真理ではあるが
そこでは 真理ではない

これを 順を(順にある) 正しさ という   並び方における
    存在性として 認める 思考では 
順位並ぶと 真理 ではなくなる という実例とします
( 何が省略されているかで 後の意味が規定される )
( この場合 “間違った理解を基にする 時” が 挿入される とき   )
( トキ は 順を追って 違う 世界 = 場所  を 指し示す )
( 過去 は 独立して存在するから 今 という場所と 別の場所(時) を 持たされる )


わたしの 思考法(論理の組み立て方) は ブッダ論理 ではありません
わたしの 論理 です
( もっとも  わたし が    ブッダと並び
        その真ん中で  順を言われることなく 発言としてあるとき )  
論理は 後から言われたことである  と 言われる根拠 にありません
        ( その真ん中  という 真中は 前後左右に 囲まれ得ますか ? )

記述されていることが  “おぼろげ” でも  分かる者 を
クギョウシャ  と 呼びます
( 明確  と “ウツロ”  との間には 明確な区別はありません ) 
(  増え得ることを前提として       ましてや
     “おぼろげ”  と   “ウツロ”  との間を
      分ける空間  は  オボロゲ  です     ) 


もし 此処で あなたと 会話が 成り立っているのなら
あなたにある  仮定  で 始まっています 、、、、


( 論理が どう )あるか  どうか(ないか) は  仮定 に 始まる


( 独白  であろうと  聞く者が想定されていれば 会話の始まりです 、、、、 )



「『十二門論』研究」解題 9  spinobuddhist 2017/10/16(Mon) 20:25 No.54410 [返信]

 なお、私は先に、龍樹は、何かの恒常・無常の不成立を問題にしているのではなく、何かに恒常・無常を述定する「理由」の不成立を、問題にしているといった。ここで、「理由」というものが十二支縁起において占める位置を、確認してみよう。 
 『蘆束経』において、識から始まる十支縁起が示され、そこにおいて識と名色が相互依存の関係にあることが示されている。「理由」というものは、この「識−名色複合体」において成立するものであると、考えることが出来るだろう。位置的にいっても、外縁起(すなわち「実例」)と、内縁起(すなわち「主張」)の中間に位置しており、両者に対して媒介的に働くものと、見ることができるからである。
 そしてまた、龍樹が「戯論」(プラパンチャ)と呼ぶものも、この「識−名色複合体」において成立するものであると、考えてよいだろう。というのも、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、外縁起すなわち外界の事物を否定しているのでもなく、また逆に、内縁起すなわち超越的理念を否定しているわけでもないからである。かといって、もちろん、両者を肯定しているわけでもない。前者に関しては、いわば「幻」のようなものとして肯定し、後者に関しては、「無記」(語らない)というかたちで肯定するのである。恐らく「理由」を滅尽しさえすれば、両者は自ずとそのようなものとして立ち現われるのだろう。
 例えば、次のような俳句を作ることも、外縁起を譬喩として内縁起を把握することになる。

 秋風に身を託したる流れ雲

 とはいえここには、「理由」はない。「理由」がないので、哲学的言明あるいは論証にはなり得ない。しかしながらわれわれは、常に理由なく生きているわけではない。むしろ逆にわれわれは、日常生活において自らの行動に様々な理由を与え、「目的」に向かって自らの将来を「設計」し、行動している。そしてこのような日常生活の理由付けが、おそらく哲学的な言明に対する理由付けの、基盤ともなっているのである。
 したがって、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、なによりもまず「理由」の滅を説いているのだと、考えるべきであろう。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/17(Tue) 10:30 No.54410

>むしろ逆にわれわれは、日常生活において自らの行動に様々な理由を与え、「目的」に向かって自らの将来を「設計」し、行動している。そしてこのような日常生活の理由付けが、おそらく哲学的な言明に対する理由付けの、基盤ともなっているのである。

これを「行」という。

> したがって、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、なによりもまず「理由」の滅を説いているのだと、考えるべきであろう。

滅するものは行である。


論証の「理由」は、行為においては「原因・諸条件(因と縁)」とされることから、

原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/17(Tue) 10:32 No.54410

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

これにて、寂滅しますね。


乗れた!

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/18(Wed) 04:08 No.54410

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

原因を滅すると表現しますよね。
別に滅する必要はないのではないかと思うようになってきました。
原因がわかればそれで終わり。

譬えとして良いかわからりませんが、手品のタネをyoutubeで見たら、
もう、わくわく感はないですよね。

原因と結果の因果関係がビビっと来たらほぼ終了。

「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。」

「友よ、しからば、譬えをもって説こう。友よ、たとえば、二つの葦束はたがいに相依りて立つ。友よ、もしその一つをとりされば、他もまた倒れるであろう」

逆に言えば、根源である本当に原因にたどり着かないとドゥッカは
繰り返すばかり。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/18(Wed) 06:02 No.54410

>原因と結果の因果関係がビビっと来たらほぼ終了。

ビビッときたら、因果のことは気にならなくなる ⇒ 因果の滅

とも言えるかと。

病気の原因が分かる、ビビッときたから、もういいか。。
と、あんまりならないですよね。

原因を滅して、病のない状態にしたい、

そう思っているなら、まだ、ビビッときてないのか、ビビッときてても完成に至っていないのか(身体は残っているから)、どちらかかも。

わたしは、逆に、最近「滅」って良いことばだなあ、って気がしてます。潔い!

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/18(Wed) 15:05 No.54410

>わたしは、逆に、最近「滅」って良いことばだなあ、って気がしてます。潔い!

むふふ。
けっこうお釈迦様のレトリックなのかなぁと。
お釈迦様はニッバーナに達しても即死しないし、
阿羅漢は病気にもなれば世間的に見れば不幸な死に方もする。

ニローダには死滅と統御の二つの意味があると言われますね。
ここらへんはお楽しみという感じです。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/21(Sat) 06:28 No.54410

>むふふ。
>けっこうお釈迦様のレトリックなのかなぁと。
>お釈迦様はニッバーナに達しても即死しないし、
>阿羅漢は病気にもなれば世間的に見れば不幸な死に方もする。

あれ、少し考えが変わってきました?

煩悩からの解脱ができれば、涅槃でいいのでは。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/21(Sat) 22:11 No.54410

>煩悩からの解脱ができれば、涅槃でいいのでは。

どうでしょう。キレーサから解脱したらニッバーナでしょうか?
いろいろ分類がされてますが。
さらに奥があるように感じられます。

>あれ、少し考えが変わってきました?

ドゥッカの原因を探求する蛙なので、
特に考えはないです。要は原因が突き止められればいいので。

マニカナ先生の本を読むと学者って大変だなと思います。
無記述というわけにもいかないし、
本や論文を書いちゃったら考えを簡単に変えるわけにもいかない。

ゲコゲコ

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  管理人エム 2017/10/21(Sat) 23:08 No.54410


>どうでしょう。キレーサから解脱したらニッバーナでしょうか?
>いろいろ分類がされてますが。
>さらに奥があるように感じられます。

ふうん。。もしかして、蛙菩薩さまになってたりするかも。。何か、いろいろ楽しみっ!

>マニカナ先生の本を読むと学者って大変だなと思います。
>無記述というわけにもいかないし、
>本や論文を書いちゃったら考えを簡単に変えるわけにもいかない。

だいじょぶよん。だって、ぶっきょだもん。
考え、変わるかなと思ったんですけど、実は、変わってても、変わってないです。書いた通りでいいんだ、って、納得してます。

それもこれも、ブッダさまさまのおかげです。

やっぱ、仏教の教えは、必ず苦しみを払ってくれますね。
あらゆるところで、実感する毎日。。ありがたいなあ、なんまんだぶ、なんまんだぶだぶ、だぶっ!

>ゲコゲコ

ゲコゲコだぶ!


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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/22(Sun) 10:14 No.54410

アイコンを蓮華にしてしまった。不覚。

>ふうん。。もしかして、蛙菩薩さまになってたりするかも。。何か、いろいろ楽しみっ!

もはや菩薩や仏教徒ですらないかも。ゲコゲコ
シッダッタ先生の実践哲学の学徒かなぁと。
宗教的な部分や観念哲学的なところは全部ムキムキっとして、
実践哲学に脱構築してみる。
どのくらいミニマムになるか。

なのでシッダッタ先生とその直弟子を尊敬するけれども、
現時点で神格化・崇拝しそうな部分はペンディングですね。
否定も肯定もしないでムキムキ〜と。

如来と阿羅漢に生まれ合わせそこなったので
余生はムキムキ〜と生きようと。

「この世は苦である」ってのは世界観系ですよね。
そうではなくて「自分のドゥッカの原因探求」のみっていうのは
実践哲学というかセルフ論理療法的でええんじゃないかと。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 9  莓箭毒蛙 2017/10/27(Fri) 23:35 No.54410

あれま〜2P目に落ちた〜

ここは打ち止めで。
みんな自己顕示欲強すぎ〜

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改ざん編   削除 可能か ? 存在のありよう ?    春間 則廣  2017/10/15(Sun) 09:00 No.54405 [返信]


> 規定できないのが 神である
> だったら

「規定できない」   のが   「神」  であり ( 「神」 で あり得  )
規定  “しない”   のは
  神(あるいは 神の御業)   ともいえる

神ではない者  が   指めし 規定するとき
神は 指めすことをしていない  し  
神 を 指定下(商量) に 於けない
( 神ではない者は 商量上に 商量下を 置くことはできない  → ゲーデル が 指摘したこと )

神を裁くな  と 神ではないとする者に    神の子 は 裁きを落とす

> 神は 規定できない  という “言葉” が  神となる

最初 に 言葉  が ある
 (  「 始めに言葉ありき  言葉は神と共にあり 言葉は神であった 」   ヨハネ  1−1 )

言葉(あるいは) 象徴   から  この記述も 始まり
記述の 「世界」 = 「世間」 も 
 真理  と ともに そこに(ここに)    展開する

いくら 展開させようと
展開しているかどうかは 活字の“上”から 眺める  恣意 に “左右”される


「 上下左右中心  思惟の展開は 執着によってなされる  」


「齟齬」 なく 指摘できない

「齟齬」  が
     “ことば”  である から


齟齬  は  (始めにありき)言葉ではなく  思惟 である


“ 齟齬 は 言葉として 始めに 神と共にあり 齟齬は 神であった ”


  噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分     春間 則廣  2017/10/15(Sun) 00:14 No.54403 [返信]


どう噛み合っているか  を 
噛み合わせない      と
噛み合わない

> 神は、完全である
> 完全であるのが 、神である

神 = 真理

神  とは 何ですか ?

この順序が 順にあることによって 意味を持たされます

真理は 完全である
完全であるのが、真理である
( 真理は 完全ではないことはない )
( 真理は 完全ではないと 真理とはならないが
   何が 完全か を 知らなければ
  どういう形で ソレが あっても ソレは 真理足り得る  )

完全でなくても 真理である

それは    どういう形であろうと
 真理 で  ありうる ( 真理足り得る )

これを聞いても
    ・・・・・・・・・・・・
違いますよね。前者は、神の存在を否応なく認めさせてから、神について語っています。後者は、「神を語るなら、こういうものだろう」と相手の判断を尊重して語っているように見えます。一つの文を語るだけで、実は、思想を受け入れることになっている、というのは、ある意味恐ろしいことだと思います。
「自己の同一性を安定的に確保」しては、仏教(諸行無常)は語れない、ということを知るのです。
    ・・・・・・・・・・・
これは 成り立ちますか ?

だれが どういう立場で いかなる基準をもって 神を 規定するか
それが問われます

規定できないのが 神である
だったら
神は 規定できない  という “言葉” が  神となる

ここにおける   思考上の齟齬を 
“ 齟齬なく ”  指摘してください


噛み合わせる気がないとき
噛み合うことはない



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Re:   噛んじゃいそう(噛みつきそう)な気分    管理人エム 2017/10/15(Sun) 10:34 No.54403


> 真理は 完全である
>完全であるのが、真理である
>( 真理は 完全ではないことはない )
>( 真理は 完全ではないと 真理とはならないが
>   何が 完全か を 知らなければ
>  どういう形で ソレが あっても ソレは 真理足り得る  )

>完全でなくても 真理である

>それは    どういう形であろうと
> 真理 で  ありうる ( 真理足り得る )

この思考法が、すでにブッダ論理ですね。

「完全でなくても 真理である」となってしまうので、インドの哲学では、
「では、こういうことにしようじゃないか、『完全であるものが 真理である』とこう言う風に定義しよう。これで話を進めようではないか」
と提案するのです。

対話が成り立ってくるのは、仮説によります。

「神(真理)は 完全である」というのも、やがて、現代論理学になってくると

「もしそれが神であるならば、それは完全である」という複合命題として処理されるようになります。しかし、この「それ」という任意の命題変項の中に、超越論的な「存在」の根っこが残っている、と見ることもできます。そこには、なかなか気づけないのですが、指摘している人もいます。

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  了 の 基準 を 豊検 という     春間 則廣  2017/10/14(Sat) 08:26 No.54400 [返信]


軽く考える者  にとって その( ” 了し方 ”  )軽さ が 堅固である

溜まる 程( 量 )の事 
どれだけの  量  か は
 軽く考え られている

軽く考えない者にとって は たまる事を 
期待に乗せる 程(量)ではない と
期待することなく もっと大事を 見据えて 
軽く 今起こす 善事  を  積み上げる(知らず溜め込んでいく)

「少しづつ積もって」  ということは 量 を 言っているようで

ためつつ ためつつ 善事が 今行うこととして 
(  行う時=いまという場所に於いて  ) 
いっぱいの事となっていて
ためるという思いを 置く場所を見出さない

> うまい喩えですね

美味いかどうかは どう味わうかによって 量される

腹が減っているときには
とりあえず
耳  に 入るモノは 何でも食う ( ” 調 ”理 を 厳しく 吟味に乗せない )  


どれだけ 吟味しているかは
自らが 調理  するときの  その ”  了し方 ”  が 量的基準 となっている


 足りない  モノ     春間 則廣  2017/10/12(Thu) 09:21 No.54395 [返信]


足りている者 には 

足りない モノ が すでに 足りているモノ
  として
充足されています

必要にして 充分にある
認識材料(満ち足りた材料) を もってして
堅固なる 思索  という  「 家 」 を 立てます

いかに堅固かは
何によって その基盤を 揺るがせられるか  に よります
( 一応 生きることに必要である “立っていること” を
    続けられること が 堅固の 不十分にして 十分 なる  構成要件です )

生きている か どうか は
生きること を  いかように規定しようと
    (規定することなく)     とも
問題に ならないこと  でも   あります

それは 問題があるかどうか を  同じ構造で 規定します

「『十二門論』研究」解題 8  spinobuddhist 2017/10/11(Wed) 18:44 No.54392 [返信]

 外縁起を譬喩(実例)として内縁起が把握されるとは、具体的にはどのようなことなのだろうか。外縁起とは、われわれを取り巻く環境世界(器世間)における、物理的・心理的あるいは社会的な、因果関係の網の目である。したがって、外縁起を譬喩(実例)として内縁起を把握するということは、われわれの周囲で刻々と転変していく経験的事実を譬喩(実例)として、内縁起を把握するということである。これは逆にいえば、われわれの日常生活における経験的事実をすべて、宗教的価値観に基礎付け、意味づけていくことである。つまり、日常生活の宗教化である。
 しかしながら、このような日常生活の宗教化は、近代以前においては、特定の宗教組織が規定する信仰や信条と結合して、宗教的偏見や先入観を形成し、社会的発展の停滞や混乱をもたらしていた。西欧近代が打破したのは、まさにこのような停滞や混乱である。
 しかしながら、近代西欧文明は、確かに宗教的先入観を打破し、社会に技術的革新をもたらしたとはいえ、同時にみずからを宗教的道徳観や自制からも解放した。その結果、植民地主義・資本主義・共産主義などの、暴力と破壊を世界にもたらしたのである。
 この近代西欧文明を担い、科学的探求を行なう主体は、デカルトの方法的懐疑によって初めて明確に規定された。「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)である。このコギトは、疑う主体である限りにおいて、形而上の命題について判断を保留したが、逆にそれによって、例えば「杭か人か」というような形而下の疑いに対しては、経験に即して純粋に探究することを可能とした。セクストスもまた、近代以前の懐疑家であるとはいえ西洋文明のなかにあったので、日常生活では医者として活躍し、経験主義者を自認していた。
 つまり、彼らは、程度の差こそあれ、ともに外縁起から内縁起の譬喩(実例)としてのステータスを剥奪することによって、証明されるべき経験的命題の主語を同一的なものとして安定的に追求することを可能とし、またこれを追求する主体としての自己の同一性をも安定的に確保することに成功したのである。
 だとすれば、今われわれに問われていることは、刻々と変わりゆく経験的事実をこのように単なる科学的対象におとしめることではない。かといって、それらに様々な宗教的理由を与え、世界をブラフマンの多様な現われとして崇めることでもない。今われわれに問われていることは、ただそれら刻々と変わりゆく経験的事実を譬喩(実例)として、内縁起に絶えず向かい合い続けることである。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 8  管理人エム 2017/10/14(Sat) 10:13 No.54392


たいへん興味深い論考です。
わたしも、以前は、少し似たような考えをもっていたかもしれません。
おっしゃることがよく分かります。ただ、違うところもあります。

> われわれの周囲で刻々と転変していく経験的事実を譬喩(実例)として、内縁起を把握するということである。これは逆にいえば、われわれの日常生活における経験的事実をすべて、宗教的価値観に基礎付け、意味づけていくことである。つまり、日常生活の宗教化である。

ニヤーヤ学派で、はじめて実例を使った論証を見たとき、「なんて率直な態度だろう」と感銘を受けたものです。西洋論理の経験を軽視する態度、理性と呼ぶ概念操作の横暴にうんざりしていたので、実例をまずあげて、そこから思索を始める姿勢に、思惟の平等を強く感じました。このとき、西洋思想のおごりに気づいたのです。

ですから、「日常生活の宗教化」という風には思いませんでした。どう考えても、思考の根源に向かう基本的な態度であるようにみえたのです。むしろ、西洋的な思考がいかに人間の思索を縛るものであるのか、という点に意識が向かいました。
 わたしは、spinobuddhistさまとは逆に、西洋思想はもともと宗教化のもとにある思想なのだとはっきりと気づいたのです。思惟を自由にしてくれるのは、逆に仏教の考え方・インド思想なのだと思っています。
 本当の(?)「常識」というのは、煩悩から来るものなのだ、と気づかせてくれたのも、仏教です。西洋では、仏教を宗教として見ないという話も聞きます。つまり、ただの倫理・道徳にすぎない、というように見えるらしいです。それも頷けます。神を説かない宗教ですから、ただの倫理や道徳になってしまうのでしょう。

ごくごく素直に考えてみたら、たしかに世の中、変化しています。変化しないものより、変化していくものを見いだす方がずっと簡単です。でも、なぜか私たちは変化しないものを見よう見ようと意識して暮らしているのです。そして、そのことに気づかないのです。
「諸行無常」といわれてはじめて、変化していると述べても良いのだと気づくのです。

たとえば、公理から始まる体系も、変化しない世界の組み立てです。
なぜ、公理などというものを認めてから、話し始めるのだろう、と、そこに疑問をもつためには、ブッダの法を知らねばなりません。
 公理という問答無用の真理から始まるのではなく、無明といういかんともしがたいところから、わたしたちは始まっているのだ、と知ったとき、大革新が起こります。

実例を示して共通の基盤を作ってから、議論をする、という姿勢に、思惟の自由を感じます。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 8  管理人エム 2017/10/14(Sat) 10:35 No.54392

>つまり、彼らは、程度の差こそあれ、ともに外縁起から内縁起の譬喩(実例)としてのステータスを剥奪することによって、証明されるべき経験的命題の主語を同一的なものとして安定的に追求することを可能とし、またこれを追求する主体としての自己の同一性をも安定的に確保することに成功したのである。

ここも、spinobuddhistさまとは、まったく逆の評価になってしまいます。

>経験的命題の主語を同一的なものとして安定的に追求することを可能とし

これが、思惟の強制であり、強い奢りである、と気づいたのは、インドの論理学では、定義は、定義される語が、述語にまわると知ったときです。

安定的に確保したものは、変化を拒むことに等しく、そこに強制や押しつけがあることを見いだします。つまり、ただ文体にしか見えないところに、思想の抜きがたい根源が入り込んでいるのです。

神は、完全である

完全であるのが 、神である

違いますよね。前者は、神の存在を否応なく認めさせてから、神について語っています。後者は、「神を語るなら、こういうものだろう」と相手の判断を尊重して語っているように見えます。一つの文を語るだけで、実は、思想を受け入れることになっている、というのは、ある意味恐ろしいことだと思います。
「自己の同一性を安定的に確保」しては、仏教(諸行無常)は語れない、ということを知るのです。

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