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ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/10(Sun) 23:46 No.55577 [返信]

ショーシャンクさま こんばんは。

>テーラワーダがdukkhaを『苦しみ』ではない、というのは、私が思うところではこういうことのような気がします。
>『人生は苦しみである』『すべては苦である』なんて言う仏教はペシミズム、悲観主義ではないか、という特に欧米人からの批判を避けたかったのではないかということです。

そうでしょうか。仏教は欧米の理屈には十分対抗できるものをもっているので、恐れることはないように思います。
それより、「不完全」「虚しい」の語句が、どうも引っかかります。「虚しい」は「虚妄である」と同じようなもので、無常の世界を言い表し、虚妄ならざるものを涅槃とすることで、『スッタニパータ』757,758にあることを指しているように思われるのです。
ここは、『中論』で、龍樹が検討しているところです。
また、「不完全」も無常世界の特徴で、煩悩ある我々凡夫に対して、ブッダの完全性を述べる内容につながるような気がします。

部派の特徴は、「諸行無常」と「一切皆苦」とによることであって、「一切皆空」から来る特徴は強く出さないだろうと思われますが、どうもそうでもないのかな、と危ぶんでいます。

>『人生が苦である』ということとは実は違うでしょうし
何より、歴史上の仏陀の教えの最も根本にあるものは『苦』であるのに、それを避けて曖昧にしか言えないとは情けないの一言です。

確かに、これは大いに賛成します。部派が「一切皆苦」をいわなければ、誰が言うのだ、という気もします。大事な四聖諦を説けません。

>仏陀が輪廻からの解脱を目指したことも事実ですし、輪廻を外したら仏教ではないと言っても過言でないとまで思っています。

ここもまったく同じ考えです。

>しかしながら、十二縁起に関しては、前世や来世の思想を当てはめては絶対にいけないと思っています。
十二縁起の有力な解釈に、
無明⇒行 が前世の行為
生⇒老死 が来世の人生
という説があるのは知っています。それを採用すると解釈が非常に簡単なのですが、私はそれは間違いだと思っています。

実際のところ、輪廻というのは、「識の転変」に他なりません。1つ前の世の行いだけで済む問題ではなく、過去世をずっと見て行く宿明智、生き物たちの未来を見透す天眼智、最後に、現在のこの世において、四聖諦を得て、漏尽智の三明によってブッダは覚りに至っています。単純に、「前世の行為」を指したり、「来世の行為」を指したりする訳ではないと思います。それでは、何か変ですね。

>『行』が前世の行為と解釈すれば、いま私の無明が滅しても前世の行為は滅するわけではないので、無明が滅すれば行が滅することと反することになります。

「<これ>がないとき<これ>がない」、「<これ>が滅するから<これ>が滅する」という式によって滅するので、無明が滅するときには、とにかく諸行は滅することになります。
一方、四聖諦は、縁起の公式をアレンジしたものです。したがって、四聖諦は、本当に聖なる真理であることが分かります。苦の一切を滅することができる方法だからです。この時は、欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩から解脱します。

「消滅する性質のものは、諸行である。怠ることなく完成しなさい」というのが、ブッダの最期の言葉ですね。諸行を完全に滅してしまえば、もはや二度と生まれることはありません。

一方、諸行を滅して涅槃に入るのではなく、涅槃を見て通り過ぎていくのが菩薩です。不生ということにとどめて、世間を空と見ていくので、死王を見ない、といわれます。

うーーん、やっぱり、苦しみを説けないなんて、仏教にならないのではないかという気がしますね。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 10:50 No.55577

石飛先生、おはようございます。
ご返信、ありがとうございます。

>仏教は欧米の理屈には十分対抗できるものをもっているので、恐れることはないように思います。

そうであればいいのですが、ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』には、さかんに仏教が悲観主義、ペシミズムではないと強調していたので、気にしすぎて『dukkhaは苦しみという意味ではない』と言い出したかと思いました。
そうであれば情けないことですが。


>「<これ>がないとき<これ>がない」、「<これ>が滅するから<これ>が滅する」という式によって滅するので、無明が滅するときには、とにかく諸行は滅することになります。


私が十二縁起で最も難儀しているのが『行』と『識』です。

「行」に
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
この3つの意味があって
龍樹や石飛先生は、3つの意味全部というご理解なのですね。
ただ、十二縁起を知的な理解だけではなく、歴史上の仏陀(この言葉を使うと誰かに過剰反応されそうですが)が行なったように、十二縁起を洞察し瞑想したいと思った場合、一つ一つの項目が定まってイメージできなくては瞑想するのが難しいと思います。

瞑想する場合、『行』が1、再生に導く三種の行為(業)  2、潜在的形成能力(行)  3、もろもろの形成されたもの(諸行)
のどの意味かで全く違う瞑想内容になります。
行為と志向作用(先生の訳を使わせていただきました)と事象すべて では、内容は全く違うと思います。

『五蘊の行と十二縁起の行はいずれも意識を生じる意志作用である』とある本に記述されていましたが、このあたりが鍵のような気がします。
瞑想をしていくうえで、私にはどうしても、『行』が行為や事象という解釈ではイメージできないのです。
確かに唯識論を借りれば、いいのかもしれませんが。



>「消滅する性質のものは、諸行である。怠ることなく完成しなさい」というのが、ブッダの最期の言葉ですね。諸行を完全に滅してしまえば、もはや二度と生まれることはありません。

仏陀最期の言葉のパーリ語は
vayadhamma sankhara appamadena sampadetha
ですね。

vayadhamma = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
sankhara = 行  事象  すべてのものごと 
appamadena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampadetha  = 行ず  成功する  成就する

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。
私は『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸に行じなさい。』と考えています。


>うーーん、やっぱり、苦しみを説けないなんて、仏教にならないのではないかという気がしますね。

本当にそうですね。
部派仏教でかなり仏陀の真意が見失われていった感じです。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/11(Mon) 20:22 No.55577

ショーシャンクさま こんばんは。

>そうであればいいのですが、ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』には、さかんに仏教が悲観主義、ペシミズムではないと強調していたので、気にしすぎて『dukkhaは苦しみという意味ではない』と言い出したかと思いました。
そうであれば情けないことですが。

ほんとですね。ペシミズムでないことくらい、普通に考えられる人であれば、皆分かるのではないかと思います…。
「幸せを求めることが、何故幸せにつながらないか」ですよね。青い鳥を求めるお話は、最後は身近なところに青い鳥がいたという話になっています。ちょっと肩すかしのような感じもします。
さらに、その青い鳥を病気の娘さんに渡そうとしたら、逃げて行ってしまったとか、そんな結末です。幸せを得てそれで完成、という結末には絶対なりません。

だから、ブッダは、苦の滅といいました。楽を求めても、人間、満足しきることはないということだろうと思います。苦の滅に涅槃を見るのは、智慧だろうと思います。

>龍樹や石飛先生は、3つの意味全部というご理解なのですね。
ただ、十二縁起を知的な理解だけではなく、歴史上の仏陀(この言葉を使うと誰かに過剰反応されそうですが)が行なったように、十二縁起を洞察し瞑想したいと思った場合、一つ一つの項目が定まってイメージできなくては瞑想するのが難しいと思います。

実際には、瞑想される人は、自分の一番関心の高いところによるので、どれか1つになっていくのだろうと思います。それで、よいのだろうと思っています。

>瞑想する場合、『行』が1、再生に導く三種の行為(業)  2、潜在的形成能力(行)  3、もろもろの形成されたもの(諸行)
のどの意味かで全く違う瞑想内容になります。
>行為と志向作用(先生の訳を使わせていただきました)と事象すべて では、内容は全く違うと思います。

そうです。そして、それでかまわないと思います。瞑想内容が変わっても、得られるものは、解脱であり、その境地は涅槃だからです。
三明によって覚る、また、空を用いて法性を得る、また十二支縁起によってみる、四念処に取り組む、いずれによってもよいと思います。声聞・縁学は、心を清らかにする行ですが、菩薩の場合は、とにかく一切智を得るまで修行が続きます。

>『五蘊の行と十二縁起の行はいずれも意識を生じる意志作用である』とある本に記述されていましたが、このあたりが鍵のような気がします。

なるほど。五蘊に引きつけて「行」をみる場合と、志向作用や意志のような心の働きの場合とでは、少し違ったような感じがするかもしれませんが、覚りに到達するときは、おそらく、ほぼ変わらないといってもいいかもしれない、と思っています。

その人の意志のあり方に特徴があるため、諸行と複数形になるのだろうと思っています。複数形であることにより、様々な種類の「行」のうちの、どれによってもよいのだろうと思っています。

>瞑想をしていくうえで、私にはどうしても、『行』が行為や事象という解釈ではイメージできないのです。
>確かに唯識論を借りれば、いいのかもしれませんが。

行為や事象というのは、瞑想では使いにくいのでは、と私も思います。行為や事象と取ると見解のようになっていったり、戒をイメージするようになっていったりしそうです。その中に見られる「意志のはたらき」みたいになりそうですね。

私は、ブッダの最期のことばも

「消滅する性質のものは、諸行(志向作用・意志)である。怠ることなく完成しなさい」

という訳を採っています。「もろもろの事象」「すべてのものごと」ですと、瞑想には使いにくそうですね。そこで、「意志」「志向作用」を用いています。

>これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。
>私は『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸に行じなさい。』と考えています。

なるほど。私は、「衰滅する性質のものは、諸行である」と訳したとき、「無明の滅により諸行の滅がある」の文の「諸行の滅がある」という個所(=覚りの瞬間)を、言い表して、比丘たちを励ましているような気がして、そう訳してみたのです。

もちろん、ショーシャンクさまや中村先生の訳でもいいのですが、ここに瞑想の結果を見たのです。

>>うーーん、やっぱり、苦しみを説けないなんて、仏教にならないのではないかという気がしますね。

>本当にそうですね。
>部派仏教でかなり仏陀の真意が見失われていった感じです。

現代人は、昔にもまして、苦しみを抱える人が多くなっているように思います。ブッダに救われる人も実際多いと思うのです。「今こそブッダだ」と私は思っているのですが。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 02:42 No.55577

石飛先生、こんばんは。
ご返信、ありがとうございます。

>だから、ブッダは、苦の滅といいました。楽を求めても、人間、満足しきることはないということだろうと思います。苦の滅に涅槃を見るのは、智慧だろうと思います。

おっしゃるとおりですね。
『罪』ではなく『苦』の消滅を目指す仏教は本当に素晴らしいものだと思います。
同時に、大乗仏典でも、人間は苦を苦と知らないとあり、仏陀の説いた『苦』というのは本当に深いものだと思います。


>「消滅する性質のものは、諸行(志向作用・意志)である。怠ることなく完成しなさい」
>私は、「衰滅する性質のものは、諸行である」と訳したとき、「無明の滅により諸行の滅がある」の文の「諸行の滅がある」という個所(=覚りの瞬間)を、言い表して、比丘たちを励ましているような気がして、そう訳してみたのです。


そういうことなのですね。
私には、先生の『消滅する性質のものは、諸行(志向作用・意志)である』が難しく感じていました。今でももう少し深く考えてみないとわからない部分があります。励ましているとまで捉えられているのですね。

>ここに瞑想の結果を見たのです。

深い部分なのでもう少し考えてみます。


>現代人は、昔にもまして、苦しみを抱える人が多くなっているように思います。ブッダに救われる人も実際多いと思うのです。「今こそブッダだ」と私は思っているのですが。

これは本当におっしゃるとおりですね。
表面上は『憂いなきに似たり』なのですが、心を患っている人も本当に多いです。
いつもニコニコしていて誰からも『あなたは悩みがなくていいねぇ』といわれるような人が実は鬱病だったというような例も何度か見ています。
今こそ、仏陀の教えが必要な時代かも知れません。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/12(Tue) 06:15 No.55577

ショーシャンクさま おはようございます。

>> 苦の滅に涅槃を見るのは、智慧だろうと思います。

>おっしゃるとおりですね。

お、賛成していただけました(笑)
実は、最初に、「苦の滅」を目標にすることを見たのは、インド哲学ニヤーヤ学派の教典でした。
今は記憶で語っていますが、「楽を求めてもやがて苦になる」という文面に、すごく納得しました。それが、ブッダの説でもあることを後に知りましたが、ここはすごく説得力があると、今でも思っています。

>『罪』ではなく『苦』の消滅を目指す仏教は本当に素晴らしいものだと思います。
同時に、大乗仏典でも、人間は苦を苦と知らないとあり、仏陀の説いた『苦』というのは本当に深いものだと思います。

「『罪』ではなく」というところが、すばらしいですね。私も、本当にそう思います。
罪を咎められると苦が増します。日本人は、古来、罪科も『穢れ』と考えてきた、というところに、日本人の智慧を見ますが、でも、これですと『苦』は生じないかもしれませんが、『恐れ』が生じます。その点、ブッダは、見事です。苦の滅を理想とするので、何も残しません。

>私には、先生の『消滅する性質のものは、諸行(志向作用・意志)である』が難しく感じていました。今でももう少し深く考えてみないとわからない部分があります。励ましているとまで捉えられているのですね。

そうなんですね。原始仏典の『大般涅槃経』は、ブッダの慈悲がほとばしる経典だと思います。ここから、阿弥陀仏が生まれてくると思っています。最期に語ることばも、比丘たちのことで頭がいっぱいなのだと思うのです。どうにかして、彼岸に渡そうという気持ちが、「衰滅していくものは行なんだよ」と念を押すようにして最期のことばとなっていったのではないかと思っています。

>表面上は『憂いなきに似たり』なのですが、心を患っている人も本当に多いです。
いつもニコニコしていて誰からも『あなたは悩みがなくていいねぇ』といわれるような人が実は鬱病だったというような例も何度か見ています。
>今こそ、仏陀の教えが必要な時代かも知れません。

本当ですね。若い人は、特に戸惑っている人が多いようにも見えます。ネットの虚虚実実の情報などに惑わされて、苦しんでるよなぁと見ています。

始めは、宗教ということで遠慮していましたが、今では、ブッダの縁起や四聖諦など、普通に学生さんたちに教えています。さわりの部分を教えるだけでも、全然違います。気持が楽になるんでしょう。
ほんとにブッダの教えは必要とされていると、感じています。

ですから、こういう議論はいいですね!!

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/12(Tue) 07:35 No.55577

ショーシャンクさま 思いついたところがあるので、一つ、この点を。

>私が十二縁起で最も難儀しているのが『行』と『識』です。

>「行」に
>1、再生に導く三種の行為(業)
>2、潜在的形成能力(行)
>3、もろもろの形成されたもの(諸行)
>この3つの意味があって
>龍樹や石飛先生は、3つの意味全部というご理解なのですね。
>ただ、十二縁起を知的な理解だけではなく、歴史上の仏陀(この言葉を使うと誰かに過>剰反応されそうですが)が行なったように、十二縁起を洞察し瞑想したいと思った場合、>一つ一つの項目が定まってイメージできなくては瞑想するのが難しいと思います。

これは完璧に全部をたどることが求められるのではなく、いずれか一つをとれば、残りは了解される、ということで良いと思っています。この考え方は、「空」からきています。言葉の中身は元々空ですから、自分の真実と思う文脈で読んで、それで了解すれば、その文の意味するところ(すなわち文構造に関わるもの)は会得したということだと思います。龍樹が『方便心論』の中で「ただ一つの法をあまねく知る(『アングッタラニカーヤ』3.67)」という部分を解説して述べています。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/mahavagga.html
一番下の6に一つの語句としてのっています。「ただ一つの法をあまねく知り」とあります。
『方便心論』から
又、説者があって「(涅槃は)楽がある」と言うが、それはなぜか。楽には三種ある。一つ目の楽は楽を受けることである。二つ目は悩みや障害がないことである。三つ目は願望がないことである。涅槃の中においては何も求めることが無いのだから、したがって、涅槃を楽であると言ってもよいのである。(復有説者而言有樂、所以者何、樂有三種、一樂受樂、二無惱害、三無希求、涅槃之中無所求故、是故得名涅槃爲樂。)

「涅槃は楽だ」という人がいるが、それは何を根拠にしているのか、と問われて、楽には三種あるとあって、その中の「求めることがないのは楽である」というその意味で「楽」なのだというのです。

いずれか一つの意味に当てはまれば、その語を用いてもよいということになりますと、「寝るのは楽だ」も「涅槃は楽だ」も「病が治ると楽だ」も皆同じように「楽」といえます。

こうして、我々は、涅槃については知らないのですが、他の二つの要素から類推して、涅槃を知ることができるのだと思います。経典の中の「楽」の使い方を精査して、ブッダが推論について簡潔に説いたものを、龍樹が解説したのですが、そこを、さらに私が解釈しています。

この使い方は、仏教ならではのもので、他の西洋論理などが決して真似できないものです。「空」を存分に応用しているのです。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 11:16 No.55577

>実は、最初に、「苦の滅」を目標にすることを見たのは、インド哲学ニヤーヤ学派の教典でした。今は記憶で語っていますが、「楽を求めてもやがて苦になる」という文面に、すごく納得しました。それが、ブッダの説でもあることを後に知りましたが、ここはすごく説得力があると、今でも思っています。


仏陀の教えはインドの豊饒なフィールドにあり、決してそれまでのインドの思想を全否定したものではないと思っています。むしろ、その上に立って精神性を徹底したものだと考えます。
イエス・キリストが旧約聖書やユダヤ教を否定したわけではなくむしろ証明していったように。
『生まれによってバラモンではなく行ないによってバラモンなのだ』ということも、すでにバラモン教の中でも言う人がいたわけですから。
仏陀がそれまでの豊饒なフィールドを否定したわけではありません。


>「『罪』ではなく」というところが、すばらしいですね。私も、本当にそう思います。
罪を咎められると苦が増します。日本人は、古来、罪科も『穢れ』と考えてきた、というところに、日本人の智慧を見ますが、でも、これですと『苦』は生じないかもしれませんが、『恐れ』が生じます。その点、ブッダは、見事です。苦の滅を理想とするので、何も残しません。


本当にそう思います。罪ではなく苦ということで、罪悪感に囚われることがなくなりますし、より精神は自由になると思います。
ただ、反面、懺悔ということが罪を説くキリスト教や神道に比べおろそかになっていったきらいはあります。
もちろん仏教でも懺悔文はありますし、法華懺法はありますが、過去のデータを懺悔して消去するところが弱い感じはしてました。

しかし、十二縁起や四念処、七覚支を瞑想してみると、これは懺悔に通じるものがあると感じています。


>原始仏典の『大般涅槃経』は、ブッダの慈悲がほとばしる経典だと思います。ここから、阿弥陀仏が生まれてくると思っています。

大乗仏教は失われていった仏陀の真意の復興運動だったと思っています。もっと言えば、灰身滅智に傾いて失われた無量心(慈悲喜捨)の復興運動だったと考えます。色界の最下層まで貶められた四無量心を究極の境地に復権させたと思っています。私の勝手な解釈ですが。


>最期に語ることばも、比丘たちのことで頭がいっぱいなのだと思うのです。どうにかして、彼岸に渡そうという気持ちが、「衰滅していくものは行なんだよ」と念を押すようにして最期のことばとなっていったのではないかと思っています。


ここが先生の訳の難解な部分です。
衰滅していく『行』が意志作用、志向作用ということがまだよくわからないところです。

行=sankhara が『形成されたもの』という意味であれば
当然すべての形成されたものは生滅、衰滅していくのだから、

『お前たちの肉体もこのようにすみやかに衰滅してしまうのだから怠ることなく行じなさい』
あるいは
『私の肉体もすべての形成されたものと同じくこのように衰滅してしまう。このことわりを見て修行を完成させなさい』

という強いメッセージのように捉えているのですが
その場合はどちらも行=sankhara を『形成されたもの』としてます。

仏陀の最期の言葉の、行=sankhara を『意志作用・志向作用』とすることを理解するにはもう少し考えてみます。


>本当ですね。若い人は、特に戸惑っている人が多いようにも見えます。ネットの虚虚実実の情報などに惑わされて、苦しんでるよなぁと見ています。
始めは、宗教ということで遠慮していましたが、今では、ブッダの縁起や四聖諦など、普通に学生さんたちに教えています。さわりの部分を教えるだけでも、全然違います。気持が楽になるんでしょう。
ほんとにブッダの教えは必要とされていると、感じています。


SNSの普及が、かえって若い人を蝕んでいる側面もあるように思います。
先生は、多くの若い人たちに仏教を説ける立場におられますので、是非、助けてあげてください。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 11:21 No.55577

石飛先生、おはようございます。
ご返信、ありがとうございます。


>これは完璧に全部をたどることが求められるのではなく、いずれか一つをとれば、残りは了解される、ということで良いと思っています。この考え方は、「空」からきています。言葉の中身は元々空ですから、自分の真実と思う文脈で読んで、それで了解すれば、その文の意味するところ(すなわち文構造に関わるもの)は会得したということだと思います。龍樹が『方便心論』の中で「ただ一つの法をあまねく知る(『アングッタラニカーヤ』3.67)」という部分を解説して述べています。


ありがとうございます。
研究してみます。
また書き込まさせていただきます。
ありがとうございました。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/13(Wed) 02:31 No.55577

ショーシャンクさま、こんばんは、といいますか、夜中です。


>仏陀の教えはインドの豊饒なフィールドにあり、決してそれまでのインドの思想を全否定したものではないと思っています。むしろ、その上に立って精神性を徹底したものだと考えます。
>イエス・キリストが旧約聖書やユダヤ教を否定したわけではなくむしろ証明していったように。

全くおっしゃるとおりです。仏教は、インドの思想が苦と結びつくと思われる部分だけを改良したものだ、ということも出来るかと思っています。後の、大乗、密教にまでいくと、特にそう思います。

>もちろん仏教でも懺悔文はありますし、法華懺法はありますが、過去のデータを懺悔して消去するところが弱い感じはしてました。
>しかし、十二縁起や四念処、七覚支を瞑想してみると、これは懺悔に通じるものがあると感じています。

懺悔というのは、覚りの前の修行行程ですね。仏教では、人格全体改変していきますから、自分で気付いていくなら、それだけで変化していけます。懺悔に相当する効果は、仏教の方が徹底しているかもしれません。

>大乗仏教は失われていった仏陀の真意の復興運動だったと思っています。もっと言えば、灰身滅智に傾いて失われた無量心(慈悲喜捨)の復興運動だったと考えます。色界の最下層まで貶められた四無量心を究極の境地に復権させたと思っています。私の勝手な解釈ですが。

なるほど。他者ということが、前面に押し出されてくるのが大乗ですものね。四無量心の存在も今まで以上にクローズアップされてきます。自分の覚りから、他者を含めて彼岸を目指すようになる、というところが大きな違いです。

しかし、私は、今まで部派の仏教も、阿羅漢で終わるのではなくブッダへの道にもいけるのではないかと思って、いろいろ探してきました。部派の教えの中に、ブッダはプログラムとして組み込んでいるはずだと思ったからです。今のところ、出家のお坊さんたち自身が、阿羅漢になることで、そこで満足してしまっているようだ、という風に見えています。『法華経』は生まれてくるなあ、という感じです。
「苦しみ」を「不完全」「虚しさ」と説こうと考える智慧があるなら、大乗と手を結ぶ智慧もあるはずだ、という気もしています。

>ここが先生の訳の難解な部分です。
>衰滅していく『行』が意志作用、志向作用ということがまだよくわからないところです。

>行=sankhara が『形成されたもの』という意味であれば

「(我によって)形成されたもの」とするとどうですか。「意志」「意欲」といったものが、すべて衰滅するとどうなるんだろう、という気がするかもしれませんが、そうなると、後は、人に頼まれて生きることになる、ということだと思います。歴史的ブッダみたいになりますね。

阿羅漢は、皆が供養してくれるかぎり、皆が必要としてくれるかぎり生きることになります。もしかしたら、頼まれるなら寿命をのばしてくれるかもしれません。

菩薩は、「行」ではなく「願」と言われますが、これは「我欲」からくるものではない、ということでしょう。すべての人を渡したら、「願」は衰滅します。

>『私の肉体もすべての形成されたものと同じくこのように衰滅してしまう。このことわりを見て修行を完成させなさい』
>という強いメッセージのように捉えているのですが
>その場合はどちらも行=sankhara を『形成されたもの』としてます。

肉体は他の形成されたものより、むしろ、はかないかもしれません。心の働きは、延々と生滅しつづけ終わりが見えませんから。

>SNSの普及が、かえって若い人を蝕んでいる側面もあるように思います。
>先生は、多くの若い人たちに仏教を説ける立場におられますので、是非、助けてあげてください。

なぜか、宗教については異常なアレルギーがあるのが、若い人たちですね。心を病んでいるのに、「仏教」と聞くと毛嫌いしてしまう、というところもあります。でも、仏教は、宗教ではない宗教だから、その点で、今の若者を救えるかな、と思っています。頑張りますわ。

ありがとうございました。

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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  ショーシャンク 2019/11/13(Wed) 13:38 No.55577

石飛先生、こんにちは。
ご返信、ありがとうございます。


>なるほど。他者ということが、前面に押し出されてくるのが大乗ですものね。四無量心の存在も今まで以上にクローズアップされてきます。自分の覚りから、他者を含めて彼岸を目指すようになる、というところが大きな違いです。



大乗仏教、大乗仏典の最も大きなテーマは、無量心、特に慈悲だと思います。
大日経は『悲』、浄土経典は『慈悲』、法華経もすべてを救おうとする働き、特に観音経は大慈大悲そのものだろうと思います。

仏陀在世のときは、無量心は究極の境地だったと思いますが、仏陀の死後、どんどん貶められていって、四無量心の瞑想では涅槃に至らず色界最下層どまりとまでされてしまいました。

また、弟子たちは、自分の師匠である仏陀は、今までと全く違う教えを説き今までの教えを全否定したという考えに極端に傾いていきました。
その過程で大いなるものを見失って行って、灰身滅智を理想としてしまったと考えます。


>しかし、私は、今まで部派の仏教も、阿羅漢で終わるのではなくブッダへの道にもいけるのではないかと思って、いろいろ探してきました。部派の教えの中に、ブッダはプログラムとして組み込んでいるはずだと思ったからです。今のところ、出家のお坊さんたち自身が、阿羅漢になることで、そこで満足してしまっているようだ、という風に見えています。『法華経』は生まれてくるなあ、という感じです。
「苦しみ」を「不完全」「虚しさ」と説こうと考える智慧があるなら、大乗と手を結ぶ智慧もあるはずだ、という気もしています。


私は、部派仏教も大乗仏教も仏陀の真意を伝えていない、という全否定から探求してきましたので、いまも部派も大乗も批判的に見るところがありますが、石飛先生であれば、部派と大乗を結ぶ道を見出されるのではないかと期待しています。




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Re: ショーシャンクさま(十二縁起)のお返事です。  管理人エム 2019/11/14(Thu) 07:10 No.55577

ショーシャンクさま、おはようございます。
いつもご丁寧にお返事をいただいて、ありがとうございます。

>大乗仏教、大乗仏典の最も大きなテーマは、無量心、特に慈悲だと思います。
大日経は『悲』、浄土経典は『慈悲』、法華経もすべてを救おうとする働き、特に観音経は大慈大悲そのものだろうと思います。

七仏通誡偈に通ずるところですよね。ブッダの道のテーマと言ってもいいですね。

>仏陀在世のときは、無量心は究極の境地だったと思いますが、仏陀の死後、どんどん貶められていって、四無量心の瞑想では涅槃に至らず色界最下層どまりとまでされてしまいました。

そのようにお考えなのですね。

>また、弟子たちは、自分の師匠である仏陀は、今までと全く違う教えを説き今までの教えを全否定したという考えに極端に傾いていきました。
>その過程で大いなるものを見失って行って、灰身滅智を理想としてしまったと考えます。

そうですか。灰身滅智も、覚りの姿ではありますが、確かにそこに慈悲を見ようとすると苦しいですね。声聞・縁覚にいくことを「菩薩の死」と捉えるようになるのも、やむを得ないかもしれません。

ブッダがなくなった後、マハーカッサパが
「仏の諸弟子、もし仏を思うならば、まさに仏恩に報いねばならない。涅槃に入ってはいけない(佛諸弟子若念於佛當報佛恩莫入涅槃)」(『大智度論』p.67)
と、述べたとあります。
が、パーリ律には、この言葉は載っていません。
微妙に伝承が異なるなあ、って思っています。「上座部だからなぁ」と、思ったりもしますが、寂しいですよね。ブッダは、パーリ語経典『大般涅槃経』の中でも、無量の慈悲を見せているのになあ、って思います。

>私は、部派仏教も大乗仏教も仏陀の真意を伝えていない、という全否定から探求してきましたので、いまも部派も大乗も批判的に見るところがありますが、石飛先生であれば、部派と大乗を結ぶ道を見出されるのではないかと期待しています。

部派と大乗の両方に批判の目を向けてこられたのですね。
なかなかシビアな目をお持ちですが、お気持ちはよくわかります。

龍樹は、部派と大乗の間に橋を架けたと思います。スマ長老さまには『般若心経は間違い?』で、龍樹は否定されてしまいましたが、もし、本当にそう思うなら、龍樹の誤りを正して龍樹を救わなくてはならないだろうとも思います。本を書いちゃったのですから。

私たちは、ブッダほどの力はないので、部派と大乗と密教の三つに分かれていったのだろうと思っています。ブッダなら、一人で全部完璧に救えますが、後を引き継ぐ者たちは自分の出来るところで自分のできることを全うする以外に、方法がありません。

全てを捨てることを教える教えが、全ての生き物を救う、という仏教の不思議を噛みしめます。
すごい教えですよね、仏教って。

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環境に応じて、satiを  Satya 2019/11/10(Sun) 12:56 No.55567 [返信]

真実に気づき続けているというのは、因縁があったのちのことで、

理法へのsatiはその前段階です。

歩みが進んでくれば、環境の変化に、satiの対象を自在に変え対処することができるようになってくるでしょう。

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読むことの楽しみ  Satya 2019/11/10(Sun) 21:57 No.55567

先ほど、管理人さんとショーシャンクさんのやりとりを読ませていただきました。

ショーシャンクさんの書き込みは、読み手に知的な楽しみを呼び起こします。

皆様の仏道の歩みそのものが幸せでありますように。

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Re: 環境に応じて、satiを  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 22:48 No.55567

Satyaさん、ありがとうございます。

Satyaさんがおっしゃる『真実に気づき続けているというのは、因縁があったのちのことで、理法へのsatiはその前段階です。歩みが進んでくれば、環境の変化に、satiの対象を自在に変え対処することができるようになってくるでしょう。』も
石飛先生がおっしゃる『八正道の正念も、この「気づき」で大丈夫ではないでしょうか。正精進していくと、ありのままに見えてきて気づいてくる、気づいてくると、そこに集中できてくる、集中したままそれを押し広げて禅定に深く入っていく、というので大丈夫かなと思っています。ほんとに、沸き上がるように「生ずる」というのが智慧だと思います。ブッダや高僧、大菩薩の場合、瞬時に当面の問題点にピタッと合った内容が出てくるので、記憶などと違うはたらきであるように思います。一種の無我の状態から出てくるように思われます。私も、何度か経験があって、はっと気づいたら、聞かれてることに答えている、みたいなことがありました。答えた後で、自分で、自分の答えにびっくりします。どこから出てきたんだろう、って。そして、その答は確かにそのとおりなのです。』も
私には『慧』の段階だろうと思えます。

五根・五力は
信⇒精進⇒念⇒定⇒慧
ですが、
その最終段階の『慧』だと思います。

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Re: 環境に応じて、satiを  管理人エム 2019/11/12(Tue) 07:48 No.55567

ショーシャンクさま Satyaさま、おはようございます。

脇からすみません。

>五根・五力は
>信⇒精進⇒念⇒定⇒慧
>ですが、
>その最終段階の『慧』だと思います。

八正道も、五根五力をアレンジして出来上がっていると、実のところ、見ています。

「正」がつくのは、ブッダの教えから来るものだからでしょう。五根五力の場合は、ブッダ以外の師についている場合も入っているかもしれません。

だから、「慧」と最後にくるのだと思いますが、
正しいブッダの道を行けば、この後待っているのは、「覚り」だと思います。そこで「慧」とはいわれないのだろうと思っています。

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Re: 環境に応じて、satiを  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 12:19 No.55567

石飛先生、おはようございます。
ご返信、ありがとうございます。


>八正道も、五根五力をアレンジして出来上がっていると、実のところ、見ています。



私の勝手な解釈では、
五根・五力が、三十七菩提分法の概説にあたり
三十七菩提分法自体が

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

という流れだと考えています。

そして、四念処・七覚支(七覚支の最初の念を四念処と考えます)を徹底して瞑想して初めて
慧が生じる。

その慧こそ、八正道の『正見』だと考えています。

つまり、八正道は八つの道徳項目などでは全くなく
顛倒した見解から180度転回して 慧=正見 が生じて初めて実践できるものだと考えています。



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Re: 環境に応じて、satiを  管理人エム 2019/11/13(Wed) 03:22 No.55567

ショーシャンクさま、こちらにもこんばんは。

>私の勝手な解釈では、
>五根・五力が、三十七菩提分法の概説にあたり
>三十七菩提分法自体が
>信⇒精進⇒念⇒定⇒慧
>という流れだと考えています。

>そして、四念処・七覚支(七覚支の最初の念を四念処と考えます)を徹底して瞑想して>初めて
>慧が生じる。
>その慧こそ、八正道の『正見』だと考えています。

なるほど!ありうる解釈ですね。
確かに、理想のモデルケースとしてはそうあるかもしれませんが、現実には、順序はいくらか入り乱れるのではないでしょうか。

>つまり、八正道は八つの道徳項目などでは全くなく
>顛倒した見解から180度転回して 慧=正見 が生じて初めて実践できるものだと考えています。

おっしゃる通り、八正道は道徳項目ではなく、修行の道で、しかもブッダの推奨する道だと思います。が、ショーシャンクさまが思うより、もっと早く八正道にいくような気もします。

顛倒した見解を捨てられるようになって慧である正見にいける、というのも、頭ではわかりますが、もっとルーズに考えても大丈夫ではないかとも思います。

といいますのは、四念処などの項目の中にも、因果的な考え方はすでに入っており、正見(縁起)の要素は含まれているからです。それに、「顛倒」というのも、ものすごく頑固なもので、理論としてわかっても心底納得するには至難のワザだというのもあります。

たとえば、「これはりんごだ」というシンプルな言明にも、「我による顛倒」がある場合もあります。でも、気づかずに言ってしまっている場合もあります。いや、気づいても言ってる場合もあります。。まずいです。

現実には、四念処だけも八正道を含むことになり、五力を自分の実践徳目として行っていても七覚支や八正道にも入っている、ということがあるような気がします。
つまり、その人の欲が、どこで出るかで、修行の高い段階にある人でもブッダの教えと反対のことをしてしまったりするので、現実には三十七菩提道品を行きつ戻りつするのではないでしょうか。

こういうことを思うと、仏性・如来蔵というようなことも考えるようになるのかもしれませんね。

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Re: 環境に応じて、satiを  ショーシャンク 2019/11/13(Wed) 17:40 No.55567

石飛先生、こんばんは。
ご返信、ありがとうございます。


>なるほど!ありうる解釈ですね。
確かに、理想のモデルケースとしてはそうあるかもしれませんが、現実には、順序はいくらか入り乱れるのではないでしょうか。


三十七菩提分法には、精進・念・定が重複して出てきますし、順序が異なることがありますから、その解釈には苦労します。



>おっしゃる通り、八正道は道徳項目ではなく、修行の道で、しかもブッダの推奨する道だと思います。が、ショーシャンクさまが思うより、もっと早く八正道にいくような気もします。


これはもう、それぞれの人の好きな解釈でいいとは思いますね。
自分に適した瞑想方法、修行方法でなければ何の意味もないのですから、人の数だけ解釈があってもいいと思います。

ただ、仏陀は、相応部経典において、『朝日が昇る時、先駆け・前兆となるものがある。それがあけぼのである。』という比喩を言って
八正道を始める時の先駆け・前兆として、戒の完成や意欲の完成、我の完成、見解の完成などを挙げています。
この記述からも八正道はかなり最終段階ではじめて実践できるものかなと勝手に思っています。


>それに、「顛倒」というのも、ものすごく頑固なもので、理論としてわかっても心底納得するには至難のワザだというのもあります。


これは確かにその通りですね。ただ、顛倒をしたままでは正見ではなく邪見になってしまいますし、パウロやフランチェスコのような180度の回心がどうしても必要な気がします。なにせ、人間は正見解からは180度顛倒しているのですから。


>現実には、四念処だけも八正道を含むことになり、五力を自分の実践徳目として行っていても七覚支や八正道にも入っている、ということがあるような気がします。


確かに、項目の重複は非常に多いですね。
できればもっとすっきりさせてほしかったところです(笑)





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Re: 環境に応じて、satiを   春間 則廣  2019/11/13(Wed) 22:26 No.55567


問題は 論じるところにあるのではなく
行ずるところ →  あなたの日常の行いにある


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念処観はむずかしい  クォーク 2019/11/10(Sun) 09:30 No.55564 [返信]

ショーシャンクさんは四念処を追究されているんですか?
念処観はどの本をよんでも納得できないと言うか、よくわからない。
何か根本的な見方や考え方が間違っているのかもしれませんね。(私も世間も)
いい情報があれば教えてください。

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Re: 念処観はむずかしい  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 13:36 No.55564

クォークさん、こんにちは。

四念処観は、歴史上の仏陀が、『涅槃に至る一乗道』と言ったくらいですから、非常に重要なものだと思います。
『法を島とせよ』の『法』は四念処観ですから。

四念処にしても、四諦にしても、十二縁起にしても、七覚支にしても、テーラワーダや大乗仏教などその説明でも納得できなかったので、自分で勝手に探究してます。

ですので、なかなかよい参考文献などがないのです。

しかし、絶対的な確信があるのは、四諦にしても十二縁起にしても四念処にしても、それを本当に理解し実践すれば苦の滅へと至ることです。
私はそれを探求中ですので、お互いがんばりましょう。

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Re: 念処観はむずかしい   春間 則廣  2019/11/10(Sun) 19:24 No.55564

> 四念処観は、歴史上の仏陀が、『涅槃に至る一乗道』と言ったくらいですから

歴史上の仏陀 など 存在しません

言い伝えではなくて、 
どこかに、 そういう歴史上の “ 証拠 ” は ありますか ?

ないと言っているわけではありません

あなたにあるか と聞いているのです

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Re: 念処観はむずかしい  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 20:37 No.55564

>歴史上の仏陀 など 存在しません
言い伝えではなくて、 どこかに、 そういう歴史上の “ 証拠 ” は ありますか ?
ないと言っているわけではありません
あなたにあるか と聞いているのです



あなたは、条件反射のように誰にでも、そのような意味のない質問をしていますが、その質問をすることに何の意味があるのですか?
歴史上の仏陀とは、ゴータマ・シッダッタのことです。
そんなこともわかりませんか?

誰にでも石を投げるようにわけのわからない質問をして悦に入っているのはやめたほうがいいですよ。
きちんとまともにやりとりされたらどうですか?

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Re: 念処観はむずかしい   春間 則廣  2019/11/10(Sun) 23:19 No.55564


> きちんとまともにやりとりされたらどうですか?

まとも が あなたにある限り

あなたのまとも  が まともです

同じ構造で、
わたしのまともがある のが 分かりませんか

( 分かっているのなら、 そういうことは言わないのですが 、、、、 )


そういうことを
言い伝えでは
Su.796 で 教えています
「 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。 」

以下も読み合わせて、 味わうとよいでしょう

Su.797
 「 かれは、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。 」

798
「 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。 」


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掲示板のマナーやルール  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 04:33 No.55564

あなたのやっていることは、
スレッドで話し合われているテーマと全く関係なく
ひとつの言葉を切り取ってはいちゃもんをつけて悦に入っているだけです。
スレッドのテーマについて話し合えば、掲示板も盛り上がるのではないですか。
例えば、このスレでは四念処がテーマですね。それにレスするのであれば、四念処について自らの見解を示せばいいではないですか。それを『歴史上の仏陀』という一つの言葉を切り取ってきてそれにいちゃもんをつけて嬉しがっているのです。

無責任に石を投げつけるだけではなく、自分が言った言葉に責任を持ったらどうですか。

あなたは『歴史上の仏陀など存在しません』と書いてきたのですから、その言葉について責任をもって説明してください。
わけのわからない言葉を投げつけては自己満足している姿は仏道とかけ離れているように思えます。

『歴史上の仏陀など存在しません』とはどういう意味ですか?
ゴータマ・シッダッタが存在しなかったという意味ですか?

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Re: 念処観はむずかしい   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 07:15 No.55564


> 『歴史上の仏陀など存在しません』とはどういう意味ですか?

“歴史” というモノは、 “ 勝者 が 刻みます ”
この  “勝” という意味は、 「 ジナ 」 の 「 勝 」 ではない ということです

あなたの  料簡 によって、 組み上げられた、
あるいは、 無批判にて 受け入れられた、 “ 説 ” に過ぎないのです
( 無批判ではないと、 あなたは思い込んでいる が 、、、、 )
( 批判でききることは、 わたしの書き込みと同じように、 あなたは受け入れない )
( 批判できないことは、 受け入れざるを得ないか、 無視するしかない )

たとえば、 「 法華経義疏 」 は 聖徳太子 の 著だとされています

誰の著であろうと、 そうされていることに されてる意味があるのです

正しい 仏陀 が いるのではなく、
仏陀が 正しいという 料簡を持つ あなたがいるだけです

そういうところから、 「大乗」 は 起きています
“歴史上の仏陀”  とは あなたの 思惟 の中の 構成物(  「 行 」 ) です

「 無明 」 に  「 行 」  が 起きる
ということを、 いつも 念頭に置くから 「 ヴィリヤ 」 が 起きます

この説明で、
> ゴータマ・シッダッタが存在しなかったという意味ですか?
ということ への 答えになりましたか ?

> スレッドで話し合われているテーマと全く関係なく

関係性を認めないのは、あなたの欲望 から来ています
自分の道 という 勝手に選んだ好みの道 には、
邪魔なものは あってはならない
( これは、 わたしについて、 言われるべきことですか ? )

自分 というモノが ない = 無我   が 仏教です
> スレッドで話し合われているテーマ
とは、 正しく生きること  ではないのですか ?

どのようなことでも、 正しさを 構築するために 思惟されます
その思惟に対して、 Su.797 が 説かれます

邪魔をするために 書き込みしているという
その邪魔 は あなた自身が 作り出しているけれど、
あなたは、 それを 見ようとはしない
ナザレのイエス は
「 自らの裁きで 自らが裁かれる 」 と ブッダの言葉を 説きます

わたしは 論じているのではありません
あなたの論じることに起きる、 その構造性について、
同じ構造 を 用いると、 「 天に向かって唾を吐く 」 ということが起きることを示しているだけです

実際に、 “ 唾 ” が かかるのですから 、、、、
あなたは、 その責を 私に課す

なぜ、 どういう構造で、 あなた自身の 血液からできている唾が、
“ 汚らしい ” モノ  と なるのでしょうか 、、、、

なぜ “あなた自身  というモノ が 存在しない” = 無我・非我
    ということが
仏教であるかを 考えてみてはどうですか ?

仏陀 の 説くことではなく、
あなたが 喧伝すること   なのです


(怠りなき)精進= ヴィリヤ  ということを 怠っては行けない



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Re: 念処観はむずかしい   春間 則廣  2019/11/11(Mon) 07:33 No.55564


> それを『歴史上の仏陀』という一つの言葉を切り取ってきてそれにいちゃもんをつけて嬉しがっているのです。

この言葉が、 端的に あなたの今を表しています

あなたが
『歴史上の仏陀』という一つの言葉を切り取ってきてそれにいちゃもんをつけて嬉しがっているのです。

その言葉の背景を 探らないから
自分(や、 自分に同調する者)の道の 妨げになると規定し、
障害であると 規定するのです

わたしが書き込むことで嬉しがっているのなら、
( 対象であると認識する )あなたは 
( あなたが書き込むことによって )苦しんでいるのですか ?
それとも、 嬉しがっていますか ?

あなたの 疑問形 に 上の答えを 解答としておきましたが
あなたは 疑問形を使っているけれど
それを 正しく受け止めるために 疑問を起こしたのではありません
断定が先にあり、
その断定を 強化するために、 疑問形を置いています

“わたしの問い” は いつでも、 わたしに向かって投げかけられています
天に向かって吐く唾  が  わたしの血液からできている
ということを 知るからです


「 自分の道 」 ということに 思いを馳せることはできますか ?


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Re: 念処観はむずかしい  ショーシャンク 2019/11/11(Mon) 11:16 No.55564

>“歴史” というモノは、 “ 勝者 が 刻みます ”
この  “勝” という意味は、 「 ジナ 」 の 「 勝 」 ではない ということです
なたの  料簡 によって、 組み上げられた、
あるいは、 無批判にて 受け入れられた、 “ 説 ” に過ぎないのです


あなたが言いたいのは、歴史も史実もそれぞれの人間の主観に過ぎないということですね。
それは当たり前のことです。
私たちは、知において、なるべく客観的になろうと少しでも信頼のある文献にあたったりしますが、当然ながら人間には必ず主観が入ります。というか、文献の選択自体が主観です。主観から完全に離れることはできないでしょう。

だからと言って、『歴史上の仏陀など存在しません』ということにはなりません。

織田信長について人それぞれ本を読みイメージを作り上げますが、それが主観に過ぎないからと言って、織田信長が歴史上存在しないことにはなりません。


主観を持つもの同士が話し合って新たな発見があることも多いですね。

主観だ、主観だ、と言って存在まで全否定していては、会話は成り立たないですよ。

あなたがよく引用する、道元や親鸞についても、あなたの主観にしか過ぎません。
そんなことはそもそもの前提なので、だれもあなたに、『あなたの考える親鸞は主観に過ぎない。歴史上の親鸞なんて存在しない』とは言わないのです。

誰の言説でも主観が入っているのは当然ですからそれをわざわざ言うことなどないのです。
言ってるあなたも主観にしか過ぎないのですから。

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一大事因縁で気づくこと  Satya 2019/11/09(Sat) 21:07 No.55562 [返信]

「sati」は、「気づいている、憶念している、注意している」と訳するのがいいでしょう。

もっと大事なことは「何」に気づいているかということで、

目覚めた時から床につくまで、コノ気づきが持続するなら、仕事しながら静まっている、定に入っている、真実に気づきつづけているということです。

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Re: 一大事因縁で気づくこと  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 00:45 No.55562

確かに巷では、satiを『気づき』とする解釈や技法が溢れていますが、私は本当に歴史上の仏陀がsati=念 を『気づき』と言う意味で使ったかということに疑問を持っています。

satiはパーリ語辞典では『念・憶念・記憶・正念』となっています。

四念処観は、身・受・心・法 ですが、その最初に説かれているのは白骨観です。墓場に行って死体を見てその腐っていく様を観察することです。

いまは、一瞬一瞬の身体の動きに気づきラベリングする手法一辺倒ですが、本来は、身体は腐っていくものだということを洞察することであったと思います。

そうすることによって、身・受・心・法はどれも私ではないことを洞察し、自己同化から離れることを目指したと考えます。

念=sati とは、仏陀が説いた理法、つまりすべては無常であり苦であり非我であること、その理法を常に記憶し保持することではないでしょうか。

Satyaさんがおっしゃるように『真実に気づき続けていること』ということと同じことだと思います。

今の風潮のような、sati=念 を身体の動きにラベリングして気づき続けているということだとだけ考えるのは違う気がします。



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Re: 一大事因縁で気づくこと   春間 則廣  2019/11/10(Sun) 09:56 No.55562

> 目覚めた時から床につくまで

これを 言うなら

゛ 生きている とされる時 ″ に於いて です

「 行住坐臥 」 ということを はき違えてはいけません

「 定 」 にあれば、 睡眠 は ありません

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十二縁起  ショーシャンク 2019/11/06(Wed) 16:34 No.55556 [返信]

石飛先生にお聞きします。

『部派が言おうと、龍樹が言おうと、四聖諦や十二因縁、三十七道品、四沙門果は、仏の正義にちがいない。』というお言葉は、四諦・十二縁起・三十七菩提分法が、仏陀の教えの根幹であると思っている私にはとてもうれしいことです。

さて、龍樹は、十二縁起につきまして次のように説いています。



一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く。

二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。

三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。

四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。

五 色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。

六 受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するときに四種の執著(取)を取る。

七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。

八‐九 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。
生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望―――これらは<生>から生ずる。このようにして、苦しみのあつまりが生ずるのである。

一〇 それ故に無知なる者は、生死流転の根本であるもろもろの形成作用(諸行)を形成するのである。それ故に無知なる者は【業を】つくる主体である。知者は真理を見るが故に【業をつくる主体では】ない。

一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、知によってかの【一二因縁の】修習(連続的念想)からくる。

一二 【一二因縁のもろもろの項目のうちで】、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの【後の】ものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。




ここで問題になるのは、名色と有と生 です。

上の文章であれば、有=生存=五蘊 となっています。

しかし、五蘊であれば、すでに名色があります。

また、生は「生まれること」ですから、ここにも五蘊の誕生があることになります。

「有」は五蘊ではないと思われますが、先生はどう解釈されますか?

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Re: 十二縁起  管理人エム 2019/11/08(Fri) 07:05 No.55556


>石飛先生にお聞きします。

> 『部派が言おうと、龍樹が言おうと、四聖諦や十二因縁、三十七道品、四沙門果は、仏の正義にちがいない。』というお言葉は、四諦・十二縁起・三十七菩提分法が、仏陀の教えの根幹であると思っている私にはとてもうれしいことです。

ショーシャンクさま おはようございます。
仕事が立て込んで、お遅くなってすみません。

四聖諦・十二縁起・三十七菩提分法は、ブッダの教えの根幹にある、というのは、本当に実感しますね。なんだかんだ言っても、必ず、これらの教えが、検討している場面のどこかで顔を出します。大乗でも、密教でも、全く変わりません。

それにより、私たちは、ブッダの教えに従っているという安心を得ます。
そういう点では、むしろ部派の仏教よりも、守る姿勢(=絶対はずさないという姿勢)は厳しいかもしれません。最近、テーラワーダの指導法などを見ますと、「へぇ〜、けっこう自由なんだな」と思うことがあります。

>上の文章であれば、有=生存=五蘊 となっています。
>しかし、五蘊であれば、すでに名色があります。
>また、生は「生まれること」ですから、ここにも五蘊の誕生があることになります。
>「有」は五蘊ではないと思われますが、先生はどう解釈されますか?

ここも、ある意味、龍樹は、ブッダの教えを「絶対はずさないという姿勢」を打ち出しているところかもしれません。

十二支縁起については、ブッダは縁学のために表したのだと、良く言われます。
『ウダーナ』の最初にでてきます。ブッダの中に起こった自内証の覚りを表現したものと言えますから、なるほど「縁学」に与える覚りの表現だなと思います。

この段階では、「縁起」のみを用いていますね。

一方、龍樹は、『中論』の第26章では、一見すると「十二支縁起」をそのまま写しているようにも見えますが、決して、「縁学の覚り」を示しているわけではありません。

ブッダから教えられた十二支縁起に、ブッダの未了義の教え「空」を横軸に加えて、語っていると思います。つまり、この「十二支縁起」は、空の立場を入れた縁起構造ということになるかと思います。

「有」が五蘊かどうか、というのは、たいへんめんどくさい話になりまして、それを知らせるために、それ以前の、25章全体があるわけです。

「縁起」というのは、我々の煩悩を発端として、ブッダが整えたものといえますが、その構造はめちゃくちゃ複雑です。十二支縁起については、よくこのようにシンプルに描いたな、と感心するほどです。
実際の行程では、何度も行きつもどりつしながら思惟を組み立てして、十二の項目が並べられていると考えています。ただ、しかし、「覚る」というこの一点に関しては、このように因果として、十二の項目が並べられるということだと思います。

その証拠といってはなんですが、一一の文は、そこを示すと考えられます。

> 一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、知によってかの【一二因縁の】修習(連続的念想)からくる。

「しかるに」の後です。無明の滅することは、「知(ジュニャーナ)によってかの修習からくる」としている、ここが重要だと思います。

縁学の覚りへのやり方を実践・踏襲しているのではなく、「知(ジュニャーナ)」を用いて、同じく覚りを追体験している、ということが、ここに示されていると考えられます。

実は、空を使っているのです。
「無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない」という訳ですが、「諸行」については「二ローダ(滅)」ではなく、「アサンバヴァ(不生)」を用いていることで、おわかりでしょう。「滅」では無く「不生」としているのが、龍樹の独自性です。
言わずもがなですが、『ウダーナ』では、「二ローダ」が用いられています。

「空」を加えて、十二支縁起を解釈するという、応用問題を、龍樹は行っていると考えられます。ですから、これでよいのだと、私は思っています。

部派の解釈とは全く抵触しません。むしろ、ここを説くことによって、ブッダの教えをより強力に押し出していると思います。

『大智度論』に、三十七菩提分法は涅槃に至る道だから、どのような立場の人にとっても道になることを説いています。これによって、「菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜の中に住して、不生の故に、まさに四念処・四正?・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修習すべし」(『大正蔵』25,p.197b)といわれるのだと思います。

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Re: 十二縁起  ショーシャンク 2019/11/08(Fri) 12:24 No.55556

石飛先生、ありがとうございます。

私は、テーラワーダが教えていることにはどうしても納得ができないので独自で研究しています。
特に、テーラワーダ協会は、仏陀の教えの根本たる「dukkha」を「苦しみ」という意味ではない、と言っていること、そして、テーラワーダが盛んに喧伝する「sati」を「気づき」としていること、特にこれに関しては違うと思っています。
「dukkha」はまさしく「苦」であり、スマナサーラが言うような「苦ではなく虚しいという意味」とか「苦ではあるけど苦しみではない」とか「dukka=苦は、「不完全」「虚しい」「苦しみ」「無常」の4つの意味」とか、ころころ解釈が変わるものではなく、苦そのものでしょう。
「sati」も「気づき」ではなく「記憶」「憶念」または「憶念を保持すること」だと思っています。でないと、八正道の正念が7番目に来ることはないと思います。


さて、十二縁起ですが、これは本当に難解中の難解だと感じています。
これを本当に解き明かした人なんているのだろうか、というくらいです。
原始仏典でこれを詳しく解説しているのは、相応部経典「分別」ですが、この「分別」経典にとらわれるとどうしても矛盾が起きます。


十二縁起を解釈するときに最大の関門となるのは、saṅkhāra(行)とviññāṇa(識)です。
古今の多くの解釈にあたってきましたが、今までのどの解釈でも矛盾が生じます。

私は今まで龍樹は研究していませんでしたが、龍樹の解釈にもあたって見ました。

これでもどうしてもわからないので先生にお聞きしました。

龍樹の説くところでは
「行」につき
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
の3つの意味を挙げており、バラバラです。
本当はどの意味なのでしょうか。


仏陀は成道の時に、十二縁起を繰り返し観じて、疑念がすべて消え去った、とあります。
「縁の滅を知ったので疑念がすべて消え去った」とあります。

無明が滅したために滅した「行」とは
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
のどれなのでしょうか。



また、「無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない」「不生である」ということですが
無明が滅したとき、つまり四諦の理が明らかになったときでも、もろもろの形成されたものがなくなることはないと思います。
無明が滅した時に、もろもろの形成されたものが不生であると悟る、という意味であればわかりますが、そういうことでしょうか。


お忙しいと思いますし、かなりこみいった質問になりますので、お返事は時間のある時、何日後でも何週間後でも構いません。
ややこしい質問ですのでスルーしていただいても構いません。

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Re: 十二縁起  管理人エム 2019/11/08(Fri) 17:42 No.55556

ショーシャンクさま こんばんは。


>「dukkha」はまさしく「苦」であり、スマナサーラが言うような「苦ではなく虚しいという意味」とか「苦ではあるけど苦しみではない」とか「dukka=苦は、「不完全」「虚しい」「苦しみ」「無常」の4つの意味」とか、ころころ解釈が変わるものではなく、苦そのものでしょう。

スマ長老は、そんな風におっしゃるのですね。「苦」として言われるものは、よく愁悲苦憂悩の五つをあげますが、それでもないようですね。「不完全」や「虚しい」は、へぇ〜という感じがします。ちょっとよく分かりません。何だろう??

そう言えば、ちょっと関係ないかもしれませんが、スマ長老のお話も少し変わってきているかもしれないです。「中道」をいずれの極端にもよらないまん中の道というより、「超越道」なのだと説明されていて、これもあまり強調しすぎるとまずいことになるのではないかと心配になりました。余談でした。

>「sati」も「気づき」ではなく「記憶」「憶念」または「憶念を保持すること」だと思っています。でないと、八正道の正念が7番目に来ることはないと思います。

これは、生滅の教えからくるのではないかと、私は理解しています。「記憶」とか「憶念」とかですと、「ためておく」「保っておく」ということで、「もともと保存していいたものを出す」というイメージがつきまとうので、サーンキヤの因中有果論などと重なる恐れが出てくるかもしれません。

従って、「そこにもともと保存してある」とかではなく、智慧が生ずるように、とにかく生じてくるのではないかと考えています。ですから、「サティ」は、「気づき」でいいのかなと思っています。私は、訳語としては「想起」というのをもってきたりします。サンスクリット語では「スムリティ」ですが、これはインド哲学系統では「記憶」などと訳されます。

八正道の正念も、この「気づき」で大丈夫ではないでしょうか。正精進していくと、ありのままに見えてきて気づいてくる、気づいてくると、そこに集中できてくる、集中したままそれを押し広げて禅定に深く入っていく、というので大丈夫かなと思っています。

ほんとに、沸き上がるように「生ずる」というのが智慧だと思います。ブッダや高僧、大菩薩の場合、瞬時に当面の問題点にピタッと合った内容が出てくるので、記憶などと違うはたらきであるように思います。一種の無我の状態から出てくるように思われます。私も、何度か経験があって、はっと気づいたら、聞かれてることに答えている、みたいなことがありました。答えた後で、自分で、自分の答えにびっくりします。どこから出てきたんだろう、って。そして、その答は確かにそのとおりなのです。

ただ、語根dhR-(保つ)からくる「ダーラナー(総持)」という言葉もあるので、「憶えて保っておく」というのも、学習段階の中では別にあるかとは思います。これは、私たち学習する者が行うものですね。これは、まだ煩悩をもっている間のことかもしれない、とか思ったりもします。

さて、肝心のご質問なのですが、ここは、これから考えます。
サティが効いていれば、すぐ答えられるのに、と思いますが、勉強不足でじっくり考えないといけないようです。でも、面白い問題を出してくださって、ありがとうございます。

また、改めてお返事しますね。

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Re: 十二縁起  ショーシャンク 2019/11/08(Fri) 21:23 No.55556

石飛先生、ありがとうございます。

sati=念 に関しては、いま、全盛なのは『気づき』であり『マインドフルネス』ですね。
テーラワーダによると、すべての基本、根本にあるのが sati=念=気づき です。
気づきがすべてのところがあります。
もし、念=sati が『気づき』であるなら、八正道でも一番最初に来るものだと思います。
少なくとも、思や語や業の前に来てそれらをラベリングする『前提』であるはずです。
八正道だけでなく、三十七菩提分法すべてにおいて、念=sati を『気づき』でなく『真理の観念を選択して保持し臆念すること』と解釈するとすべてがつながりました。
これは今回の質問と関係ありませんからこの辺でおいておきます。

sati については、下のような説明もありましたので載せておきます。

http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/smrti.htm


dukkhaが苦しみではない、という言説は
ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』 (岩波文庫)
でも書いてありますので、テーラワーダではそういう解釈なのでしょう。

dukkhaが苦しみでないのであれば、四苦八苦をどのように説明するのでしょうか。

私はやはり、後世の比丘たちが仏陀の真意とかけ離れていったために、仏陀の真意の復興運動として大乗仏教が興ったと思っています。

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Re: 十二縁起  管理人エム 2019/11/10(Sun) 09:36 No.55556

ショーシャンクさま おはようございます。


>龍樹の説くところでは
>「行」につき
>1、再生に導く三種の行為(業)
>2、潜在的形成能力(行)
>3、もろもろの形成されたもの(諸行)
>の3つの意味を挙げており、バラバラです。
>本当はどの意味なのでしょうか。

>仏陀は成道の時に、十二縁起を繰り返し観じて、疑念がすべて消え去った、とあります。
>「縁の滅を知ったので疑念がすべて消え去った」とあります。

>無明が滅したために滅した「行」とは
>1、再生に導く三種の行為(業)
>2、潜在的形成能力(行)
>3、もろもろの形成されたもの(諸行)
>のどれなのでしょうか。

これは、実は、それほど難しくないと思います。いずれも可で良いと思います。
わざわざ「行」と仮設したのは、それらを皆含みうるからだと思います。
この、十二因縁などの表現は、教えられた相手が用いてこそ意味が出ます。相手のために、どれであっても良いように「行」と呼んでいるのだと思います。

なぜ、そう言えるかといいますと、法は空だからであります。世間は空だからでも良いです。
そうではありますけど、「空」の説示を意識している龍樹としては、3の「諸行」に注意が向けられていると思います。ショーシャンクさまがご質問になったところです。

有=生存=五蘊 
これは、次の項目「生」を考えるとおかしいのではないか、と言われる部分ともつながっていますね。

この十二支縁起は、十二本つながってドミノ倒しのように、苦しみの滅へと一気に進むように見えますが、「空」という観点からみますと、そういうわけにもいかないのです。苦から始まって一つ一つさかのぼって検討し、各々の縁起をつぶしていって、最後に無明に至るまで、全部の項目を二項目ずつ納得してからでないと、十二支は消えていってくれません。たとえば、「生があるとき老死がある」「生がないとき老死がない」という縁起のように。2つずつ検討していくのです。

ブッダによって、十二本そろえて覚りの図式が、私たちに与えられているのに、なかなか覚れないのは、この作業を怠っているからではないでしょうか。
結局、三世両重の因果などの解釈も、この一つずつ遡上していく、という作業の結果というより、因果の時間系列をうまく説明するためのものであるように思われます。

四聖諦でいくものは、1で、輪廻を認めるものは、2で、空を考察していくものは、3を主に使うと思います。

ショーシャンクさまは、お話を伺いますと、おそらく3のタイプですね。輪廻による考察は、あまり良しとしないようです。テーラワーダの「気づき」に疑問があるとおっしゃる、となると、最も合理的と考えるのは、3ということになります。

これは、ほとんどの現代人が考える考え方だと思います。3は、複数形で表され、実は、見解の形をとった意志と見ることができます。何度も、この掲示板でもご紹介しているのですが、ピンとくる方は少ないようです。「我」と絡んで分類されるため、複数形になっていると考えられます。「色は我である」「色は我をもつ」「色の中に我がある」「我の中に色がある」という考え方を抱えて、ものごとを見るとき、その見方は「行」といわれます。また、受想行識、皆同じです。従って、複数形になります。

私たちは、ものごとを判断するとき、その底に相手の「行(意図)」ということを見てとろうとしますよね。どういう意図でそんなことを言うのだろう、というようにです。そこが分かると、議論の詳細はどうでもよくなって、「ああ、分かった」と我々が思うようなものです。
この掲示板でも行われているようなことです。

そういう意図を持たないで語ることが「空」ということです。
その場合、有=生存=五蘊を意識しないと、相手の苦しみが見えてこなかったり、自分の苦しみに気づかなかったりするので、あえて「有」=「五蘊」と自覚させるのでしょう。
これは、必要だから語っています。「空」の場合は、空間的な検討になるので、何度も繰り返すように項目を行き来することも起こります。

最終的には無明を滅ぼすのですが、その時、何もわかっていないのでは無く、すべての項目をクリアして、最終項目に到達しているので、無明が滅びたなら、一切を了解して、諸行(我の行為に向かう形成力全部)が消えていくのだと思います。

>また、「無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない」「不生である」ということですが
>無明が滅したとき、つまり四諦の理が明らかになったときでも、もろもろの形成されたものがなくなることはないと思います。
>無明が滅した時に、もろもろの形成されたものが不生であると悟る、という意味であればわかりますが、そういうことでしょうか。

これで納得されるということは、「空」を了解されたということでしょうか。
つまり、「諸行」は押さえられている、ということですよね。「わがままをいわないようにしよう」とか「ここは自分が折れてでよう」とか思うとき、諸行は不生です。

でも、なくなっているわけではないから、また、我の行為に向かうことも可能である、ということです。
「もろもろの形成されたもの」というのは、自然現象が皆消える、ということではありません。「行」が消えるのです。

でも、阿羅漢などのお坊さんは、諸行も滅していますから、自然現象そのものにも目を奪われたり、怯えたり、喜んだりすることはないでしょう。その人の目に「花は花として映っているのでしょうか」という質問もあるかと思いますが、映ったとしても、欲を起こしたり、意志や意欲を働かせる対象にはならない、ということだと思います。

「世間を空と観なさい」というのは、我(われ・わがもの)に関して、空(からっぽ)であるとみなさい、ということだと思います。相手が「美しい」と見ているものを、妨げることにはなりません。空ですから。空であれば、「綺麗な花ですね」といわれると、空の心で「そうですね」と答えるのではないでしょうか。からっぽだからこそ、相手にあわせることもできる、というのが、ブッダの教えだと思います。

話がずれたかもしれません。

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Re: 十二縁起  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 13:20 No.55556

石飛先生、ありがとうございます。

>>龍樹の説くところでは
>>「行」につき
>>1、再生に導く三種の行為(業)
>>2、潜在的形成能力(行)
>>3、もろもろの形成されたもの(諸行)
>>の3つの意味を挙げており、バラバラです。

>いずれも可で良いと思います。
>四聖諦でいくものは、1で、輪廻を認めるものは、2で、空を考察していくものは、3を主に使うと思います。


輪廻や前世を前提で考えるのは、1の『再生に導く三種の行為(業)』だと思います。
身口意の行為がなされるには、名色=五蘊がなければなりませんが、十二縁起では『行』は『名色』の前に来ているからです。
『行』を身口意の行為とするなら前世の行為となります。
『行』を両親の性行為と解説しているものもありましたが、あり得ないですね。
無明が滅しても滅するものではないからです。


>ショーシャンクさまは、お話を伺いますと、おそらく3のタイプですね。輪廻による考察は、あまり良しとしないようです。テーラワーダの「気づき」に疑問があるとおっしゃる、となると、最も合理的と考えるのは、3ということになります。


私は、この3つのどれでもないです。あえていえば、最も近いのは2、でしょうか。
私は、『行』は、現代日本語では表現が非常に難しいですが、その3つが生まれた原初的な意味、『能動に向かう働き』『能動に転ずる働き』ではないかと思うのです。
『形成しようとする意志』というようなものという感じです。

形成されたものが苦であることがわからない無明に縁って、形成せんとする意志が生じるのだと思います。


>最終的には無明を滅ぼすのですが、その時、何もわかっていないのでは無く、すべての項目をクリアして、最終項目に到達しているので、無明が滅びたなら、一切を了解して、諸行(我の行為に向かう形成力全部)が消えていくのだと思います。


おっしゃる通りだと思います。
『無明が滅びたなら、一切を了解して、諸行(我の行為に向かう形成力全部)が消えていく』
私も全く同じ結論です。
『行』は、やはり意志という潜在的な形成力ではないかと思うのです。
つまり、行為、前世での行為や両親の性行為などではあり得ないと思い、質問させていただきました。

ありがとうございました。

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Re: 十二縁起  管理人エム 2019/11/10(Sun) 15:39 No.55556

> >四聖諦でいくものは、1で、輪廻を認めるものは、2で、空を考察していくものは、3を主に使うと思います。

>輪廻や前世を前提で考えるのは、1の『再生に導く三種の行為(業)』だと思います。

ありゃ、間違えました。ほんとにおっしゃるとおりで、テーラワーダのことが最初に頭にあって、単純ミスで1と2を入れ違えてしまいました。トンデモないミスで申し訳ありません。

正しく書きますと、四聖諦でいくならば2で、おそらく、現代のテーラワーダは、「1の再生に導く三種の行為」という解釈を表に出さないようにしているのではないかという感じがします。輪廻・解脱路線は表沙汰にしない、という路線です。ですから、「念」というよりは、「気づき」を強調して、心の観察オンリーで四聖諦の教えを徹底することにしているのかなという気がします。
また、「苦」を「不完全」「虚しい」とするのは、おそらく、唯識と空観を取り込もうとする意図ですね。「ふうん、なるほどなぁ」という感じです。ちょっと意地悪くみると、大乗の解釈までも取り入れて、大乗には渡さない、ってことかも。。。うーん、それでは、歪んでしまうな、仏教が。

>『行』を身口意の行為とするなら前世の行為となります。

その通りです。次にくる「識」は結生識ということになりましょう。

>『行』を両親の性行為と解説しているものもありましたが、あり得ないですね。

それは、ちょっと。。

>>ショーシャンクさまは、お話を伺いますと、おそらく3のタイプですね。輪廻による考察は、あまり良しとしないようです。テーラワーダの「気づき」に疑問があるとおっしゃる、となると、最も合理的と考えるのは、3ということになります。

>私は、この3つのどれでもないです。あえていえば、最も近いのは2、でしょうか。
私は、『行』は、現代日本語では表現が非常に難しいですが、その3つが生まれた原初的な意味、『能動に向かう働き』『能動に転ずる働き』ではないかと思うのです。
『形成しようとする意志』というようなものという感じです。

わたしは、以前に「志向作用」と訳したことがありますが、それに近い感じでしょうか。

>形成されたものが苦であることがわからない無明に縁って、形成せんとする意志が生じるのだと思います。

比丘たちよ、わたしが、まだまったく悟りを得る以前、悟りを得ない菩薩であったとき、みずから生まれる存在であるのに、生まれる存在であることのみを求め、みずから老いる存在であるのに、老いる存在であることのみを求め、みずから病む存在であるのに、病む存在であることのみを求め、みずから死ぬ存在であるのに、死ぬ存在であることのみを求め、みずから憂える存在であるのに、憂える存在であることのみを求め、みずから汚れる存在であるのに、汚れる存在であることのみを求めていたのである。(「聖求経)

こんな感じですね。私たちの姿でもあります。

>『無明が滅びたなら、一切を了解して、諸行(我の行為に向かう形成力全部)が消えていく』
>私も全く同じ結論です。
>『行』は、やはり意志という潜在的な形成力ではないかと思うのです。
>つまり、行為、前世での行為や両親の性行為などではあり得ないと思い、質問させていただきました。

「両親の性行為」は、置いておきまして、「前世での行為」というのは、その行為も「行(サンスカーラ)」ということでしょうか。
そうであれば、その通りだと思いますが、それが幅広く「識」という所まで含むならば、輪廻が解釈できないことになりますので、ちょっと疑問が出ます。

おそらくは、文字通り「前世の行為」ということでしょうね。

私は、輪廻からの解脱も、テーラワーダ仏教で積極的に説けるのではないかと思っていますが、あまり、輪廻の話は出ませんね。
過去に、日本人が『日本霊異記』などで、しすぎてきたからでしょうか。ウソくさいと思われてしまっているのかもしれません。

輪廻と解脱も、覚りの構造の中では、重要な理論となっていると思っています。

いろいろミスもあって、お話が見えにくかったかと思いますが、ショーシャンクさまのお考えはまずまず了解できたように思います。ありがとうございました。

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Re: 十二縁起  ショーシャンク 2019/11/10(Sun) 20:30 No.55556

石飛先生、ありがとうございます。


>また、「苦」を「不完全」「虚しい」とするのは、おそらく、唯識と空観を取り込もうとする意図ですね。「ふうん、なるほどなぁ」という感じです。ちょっと意地悪くみると、大乗の解釈までも取り入れて、大乗には渡さない、ってことかも。。。うーん、それでは、歪んでしまうな、仏教が。


テーラワーダがdukkhaを『苦しみ』ではない、というのは、私が思うところではこういうことのような気がします。
『人生は苦しみである』『すべては苦である』なんて言う仏教はペシミズム、悲観主義ではないか、という特に欧米人からの批判を避けたかったのではないかということです。
これを見ても、部派仏教がいかに仏陀の真意から外れていったかがわかります。
Sabbe saṅkhāra dukkhā(sabbe sankhara dukkha)は
すべての形成されたものは苦であるということで
『人生が苦である』ということとは実は違うでしょうし
何より、歴史上の仏陀の教えの最も根本にあるものは『苦』であるのに、それを避けて曖昧にしか言えないとは情けないの一言です。


>わたしは、以前に「志向作用」と訳したことがありますが、それに近い感じでしょうか。

『志向作用』とはすばらしい訳ですね。簡潔な語で表すのは難しいと思いましたが、この訳は適切だと思います。



>私は、輪廻からの解脱も、テーラワーダ仏教で積極的に説けるのではないかと思っていますが、あまり、輪廻の話は出ませんね。
過去に、日本人が『日本霊異記』などで、しすぎてきたからでしょうか。ウソくさいと思われてしまっているのかもしれません。
輪廻と解脱も、覚りの構造の中では、重要な理論となっていると思っています。


輪廻、前世、来世については、私は否定してなく、あると思っています。
仏陀が輪廻からの解脱を目指したことも事実ですし、輪廻を外したら仏教ではないと言っても過言でないとまで思っています。

しかしながら、十二縁起に関しては、前世や来世の思想を当てはめては絶対にいけないと思っています。
十二縁起の有力な解釈に、
無明⇒行 が前世の行為
生⇒老死 が来世の人生
という説があるのは知っています。それを採用すると解釈が非常に簡単なのですが、私はそれは間違いだと思っています。

と言いますのは、仏陀が言った縁起とは
此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
であるからです。
『行』が前世の行為と解釈すれば、いま私の無明が滅しても前世の行為は滅するわけではないので、無明が滅すれば行が滅することと反することになります。

十二縁起は、苦の集積へと向かう激流に押し流されているありさまを洞察することだと考えています。

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 「 般若心経秘鍵 」     春間 則廣  2019/09/17(Tue) 13:21 No.55529 [返信]


病んでいる と 言われたから 病みがあるわけではない

病んでいると 知るところに  病みがある

その知るところに、 病んでいないモノが 対比されるから
病み を 知ることが出来る

病んでいる と 知っているのですか ?

ここを知る時 「 平安 」 に あると知る

知らなくとも、
あるところにある  ことは  変わらない


あなたが知ることがなくとも、
代わりに 知ってくれる人がいる
あなたは 無理に知ろうとすることはない


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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/17(Tue) 14:25 No.55529

>あなたが知ることがなくとも、
>代わりに 知ってくれる人がいる
>あなたは 無理に知ろうとすることはない

その知ってくれる人が自分(その人のこと)だ!、というのが
その人の主張でした。

だからわたしたちはそのようなものを特に学ばず、だた懸命に働いて、社会の中で成功を修めればそれでいいんだっていうのもその人の主張でした。

その人が「君らも仏教を学ばないといけないでしょうね」って時に言いつつしていたのが、何か不可解に感じていました。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/17(Tue) 15:05 No.55529

「「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」って仏教では言うのですよぉ〜」

とても嬉しそうにその人は言ってました。

「こんなことばかり聞かされている君たちはどうなるのかって思うのですよ(笑)」とも言ってましたね。

わたしは彼にどうされたのだろうか?

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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/17(Tue) 18:14 No.55529

>あなたが知ることがなくとも、
>代わりに 知ってくれる人がいる
>あなたは 無理に知ろうとすることはない

「若き日、僕は悩みましたねぇ〜。でも君らのような若い人たちには僕らのように悩む必要はないと思うのです。」

これは出会った当初、何回も聞いたその人の言葉です。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/17(Tue) 18:27 No.55529

悩む人間を捕まえてよく言ったものだと思います。



翳障の軽重、覚悟の遅速の若きに至っては機根不同にして、性欲即ち異なり。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」    管理人エム 2019/09/18(Wed) 05:59 No.55529

>「若き日、僕は悩みましたねぇ〜。でも君らのような若い人たちには僕らのように悩む必要はないと思うのです。」

そもそも他人の悩みを悩むことは出来ることなのでしょうか。
また、他人に「悩む必要ない」ということは、何か意味があることなのだろうか。

『スッタニパータ』782
自分の戒や禁制を、問われもしないのに他の人々に語っている人、かれは、自分自身をまさに自分から語る人ですが、そのような人を、善き人々は聖ならざる法であるというのです。

「戒や禁制」に「悩み」もつけ加えられそうです。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」     春間 則廣  2019/09/18(Wed) 06:39 No.55529


>  『スッタニパータ』782       
「  自分の戒や禁制を、問われもしないのに他の人々に語っている人、かれは、自分自身をまさに自分から語る人ですが、そのような人を、善き人々は聖ならざる法であるというのです。  」

翻訳が 不明確 です ( わたしは パーリ や 梵 で 訳してはないが )
  中村元 訳   は
「 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。」
  となっています
  いづれにしても 不明確さは 連れている
  (  うまいか下手かも   「 縁起 」 に ある  )  

ま、 聞いた人が  どのように ( 「 如是我聞 」 )
  “ 提示されたモノを 行ないの道に移す ” のか  ということではあるが 、、、、


何かについて、 行ないの道が分かれる時に ( する・しない も 入ります )
何々(こういうこと)をしなさい(してはいけない)
と言うことは そういうことを (自分は) してはいない ということです        

        ( 言っている意味は 聞いている人が決める )

自分のしていることが base となって “ grounded on arising ” です
“ 言いふらす ” という語が 曖昧です → 喧伝する
伝道 は 喧伝  でもあります ( 喧 か ささやき  かは  「 縁起 」 する )

“ 原理運動 ”  は かしましい 、、、、


「 自他不二 」  に あって は 、 他が為せば 自が為しています
その場合
他をして 為さしめる  のは  自に於いて 精進しつつ 為す  と 同義  です

“ したいこと ” は  選択の上で “ してはいないこと ” に  「 縁起 」 しています          
               “ したいこと ” は “ させたいこと ”  です
“ しようとしていること ”  とは  “ されてはいないこと ”   と
“ しつつあること ”     とに   分け得ます
 ( 起願=発願 の時は         起きてはいない・起こしている    )
       「 永遠 」 にあれば   “ しないとき ” は “ するとき ”   です

 「 永遠 」 に於いては  時は 「 揀択 」 に 上らない
思い立ち、 起こす時  は 為しているとき(本願)  にあります

何を為しているかは  最終まで 決められない 、、、、、
( だれでも 成就できる 、、、、 )

泳ぎ方 渡り方  は 自らの道にある 、、、、

( 他人の行いを 揀択するのではなく 自己を 揀択する )

> 「戒や禁制」に「悩み」もつけ加えられそうです。

簡単に 付け加えても 問題はありませんか ?


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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/18(Wed) 13:36 No.55529

>>「若き日、僕は悩みましたねぇ〜。でも君らのような若い人たちには僕らのように悩む必要はないと思うのです。」

>そもそも他人の悩みを悩むことは出来ることなのでしょうか。
>また、他人に「悩む必要ない」ということは、何か意味があることなのだろうか。

仰る通りだと思います。

奇妙な言説の中には隠されたものがありますね。

「自分は特別な人間である」という主張ですね。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」     春間 則廣  2019/09/18(Wed) 18:11 No.55529


>そもそも他人の悩みを悩むことは出来ることなのでしょうか。

他の人の悩み を 自らのモノとしなければ
悩みに対処することは出きません

その悩みは、  生きざまであり、 
生きざまが、  他の人 なのだからです

道を示す  とは 対処を示すことです
自らの悩みとして 対面する

他人事ではありません


悩みが  喜びの時 には
共に 喜ぶことは できませんか ?

わたしには 他の人の喜ぶ姿を 見ることが 自らの喜び と なり得ます


禍(苦) は 転じて 福 とは なりませんか ?

転じたとみるのは 見る人に起きます
転じようと 他の人の(一つだけの)道です

共に 道を歩む  ということを  「 同行二人 」 と 言います

自分の道  という 道 は ( 我に )ありますか ?

自己 が 存在しないということが 仏教です
他己 が 存在するなら 他の悩みを 悩むことはできません


>また、他人に「悩む必要ない」ということは、何か意味があることなのだろうか。

言う人が 歩み方に於いて どう解決したかで 決まります
解決したはずなのに 解決出来てはいない
本当に解決できているのかどうかを 悩みます

他の人が 悩むのなら 併せて 自己が 悩む必要はありません
自己が 悩んでいないのなら 共に歩む道に於いては、 他の人は 悩む必要はありません

さきに 言ったことと  矛盾していますか ?

わたしには 矛盾してはいないから 悩むことはありませんが

あなたの悩み事は あなたという 個我 に 起きることです

個我 も 他我 も ないというのが 仏教です


どこか 矛盾していますか ?




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Re:  「 般若心経秘鍵 」    管理人エム 2019/09/19(Thu) 03:52 No.55529

>翻訳が 不明確 です ( わたしは パーリ や 梵 で 訳してはないが )

「そのような人を、善き人々は聖ならざる法であるというのです」という訳のところですか。
ブッダは、聖者に近づいていくとき、その「人」といわずに「法」と言っています。
ですから、訳していると、文法の格が合わなくなって、意味がわかりにくくなります。 
でも、ここでは、これで良いように思います。

> 「自分は特別な人間である」という主張ですね。

こうあるように、聖者を装っているようだからです。

>“ したいこと ” は  選択の上で “ してはいないこと ” に  「 縁起 」 しています 

自分がそうしたいから、わかるのだ、ということかな?
わたしは行者のタイプではないので、そうしたいとは思わないですが、そういう人はいるなと思います。

「八偈品」には、微妙な「我」の匂いのようなものまでも説かれているように見えます。
そこに、何となく引っかかるような人だな、と。

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Re:  「 般若心経秘鍵 」     春間 則廣  2019/09/19(Thu) 07:13 No.55529


>>翻訳が 不明確 です ( わたしは パーリ や 梵 で 訳してはないが )

>> 問われもしないのに他の人々に語っている人

スッタニパータ  と 言えども 聞きようがある  ということです
784 が 782 を 規定しています

 「 世間 」 に於いて 「 楽 」 を 求めない人はいない

その求める 世音 を 観音(菩薩) が 聞きます  ( 求める 究竟=楽  → 世音 )
聞いたことを
    「 世間 」 に於ける舎利弗 に 説きます

たずねられて起きる のと 自ら起こす のと  は  自らに起きます
どちらも 同じ“こと”( 同じ言葉 ) です
 ( “こと” の意味が 変わるわけではない  が  変えることは 自己= 個我 に起きる )

今は うまく 訳せません( 訳しません )が
時を移して やってみます
( 交互 期待      家々を回って 四食を求める 、、、、 )


ここではないけれど 反応
>  「そのような人を、善き人々は聖ならざる法であるというのです」という訳のところですか。

これは 含蓄のある 訳です
一般向けではありませんが、 学研 の者  には 大事な要点を押さえています

> ブッダは、聖者に近づいていくとき、その「人」といわずに「法」と言っています。
> ですから、訳していると、文法の格が合わなくなって、意味がわかりにくくなります。 
> でも、ここでは、これで良いように思います。

文法 も  「法」  です
どのように ありてある  かは ありようの揀択に決まります

>  「自分は特別な人間である」という主張ですね。

そう聞くことを 強要しています    
    ( 強要 とは 捉えられないように 策を練っています )

>  こうあるように、聖者を装っているようだからです。

装っているのではなく 聖者である  と しています
よく 仏教の“お勉強”  が 出来ている   ことは 認めます

社会に当てはめる  ということは  自らの行いとする  ということです
どのように  当てはめるか(当てはめているかという判断) は 他が為します
そこを “ 強要してはいない という  技法 ” を使って 強要します

あなたなら、 それほど時を要せず( 即座に ) 知ることですが
凡 に 執われる 者には 少しく 時を要します
時 は  「 縁起 」 に 起きます
即時(事)  と  多事(時)  とは 縁起する

>> “ したいこと ” は  選択の上で “ してはいないこと ” に  「 縁起 」 しています 

>  自分がそうしたいから、わかるのだ、ということかな?

したいこと  を 為すから  すること( していること )  に なります

 “ してはいないこと ” に  「 縁起 」 しています

>>  わたしは行者のタイプではないので、そうしたいとは思わないですが、そういう人はいるなと思います。

タイプ は あなたのタイプで 規定されます
規定は 「 空 」 です

あなたは 「 行者 」 です ( 故に   “タイプ” ではない  )

>  「八偈品」には、微妙な「我」の匂いのようなものまでも説かれているように見えます。
>  そこに、何となく引っかかるような人だな、と。

それは  「 世間 」 にある 人 すべてに当てはまります
( あてはまらない と  言う その本人 を 当てはめることはできない )
     聖なるモノ と  凡にある者   とに 共に成り立つ
( あてはまらない人が あてはまらない人を 規定する  →  当てはめる )

その引っかかり  を 悪趣 に 用いるのです

ま 、  理趣経  では  そこに於いても  道にある と  説きますが 、、、、 ( 不堕 悪趣 )
    「  設廣積集必不堕於地獄等趣。 設作重罪銷滅 」  不空
    設い廣く積集すれども必ず地獄等の趣に堕せず 設い重罪を作るとも消滅す

そこまで 読んで( 「識」 に 乗せて ) 悪趣に用いる

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Re:  「 般若心経秘鍵 」    みどり 2019/09/26(Thu) 19:05 No.55529

>>  「自分は特別な人間である」という主張ですね。

>そう聞くことを 強要しています    
    ( 強要 とは 捉えられないように 策を練っています )

確認のためにお聞きしているのですが、

「そう聞くことを 強要している」のは、

わたしに「若き日、僕は悩みましたねぇ〜。でも君らのような若い人たちには僕らのように悩む必要はないと思うのです。」って言った人のことですよね。

>>  こうあるように、聖者を装っているようだからです。

>装っているのではなく 聖者である  と しています
>よく 仏教の“お勉強”  が 出来ている   ことは 認めます

この「よく 仏教の“お勉強”  が 出来ている  ことは 認めます」と言われている人は、

わたしに「若き日、僕は悩みましたねぇ〜。でも君らのような若い人たちには僕らのように悩む必要はないと思うのです。」って言った人のことを指して言っておられるのでしょうか?

わたしは、その人が“お勉強”とはいえ、決して仏教の勉強が出来ているとは思わなかったのですが、、、

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Re:  「 般若心経秘鍵 」     春間 則廣  2019/09/26(Thu) 19:16 No.55529


勉強 する  と
お勉強する  との  ニュアンスの違いは 感じ取れませんか

もし感じ取れないのであれば、
感じ取れるように “ お勉強 ” してください
   この場合 あなたには、   決して、 
  「 勉強しなさい 」 という 言い方はしません

良い子で、お勉強出来たら
今度は それを 乗り越えて、
自らの勉強で  仕立て直し してください

仏教は 勉強すれば 誰にでも フィットする 教えです

“ お勉強 ”  ドウリ  りでは  うまくいかないことも 起きてきます

“ 通りで うまくいかない 道理  だと 思った ”

と 気付いてください


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Re: 55452 「 己事究明 」  ( 上にあげて )      春間 則廣  2019/09/08(Sun) 08:03 No.55504 [返信]


ずっと下にあって
読みにくいでしょうから 新しいトピ とし
上にあげます

( 上下が  「 縁起 」 である ということと 記述 と 関連付けできるかな ? )


**************


>>  「 縁起 」 に 縁って 起きている 
     人の存在は 一人だけでは 起きないのです
>>   「 天上天下 唯我独尊 」

> 一人だけでは起きないというあなたの縁起の解釈と
> 天上天下唯我独尊や『犀の角のようにただ一人歩め』という釈尊の言葉とは、どう整合性を付けるのですか?


以下のことを 関連付けして C&P しますが
あなたが どう読んで、 どのように関連付ける か
はたまた 関連はない  と するのか は
あなたの読み方に 縁って “でも”  決まります

あなたが どう読むかは
あなたの積み重ねた サンカーラ が 決めて行きます

あなたが どのように読もうと あなたの思いは  「 縁起 」 から 逃れられません


**************

愚底の低のわたしから 聡明を量る高所に立つ人を ノゾンデ ( No.16 )
日時: 2018/01/12 09:06
名前:   春間 則廣 

> 誰か聡明な方に、

聡明さ を 分かる聡明 を持ったものを 聡明なるものと呼ぶ

分かろうとする、分かるとする  その ”聡明さ” は どれくらい聡明ですか ?

> 「名色に先行する行とはいったい何なのか」を、解明してほしいところです

わたしには あなたの規定するところの 聡明さは ないとされますから
いくら 解明しても  あなたの明るさの中で 光を見出されることはないでしょう

あなたが 説かれたことを 説かれた通りだと 理解できる 「行」 にあるとき
あなたの「行」 に  説かれるというところの「行」  が  引き当てられて
あなたの言葉で理解され、その言葉を 意識化します

先行する 「行」 が すでになければ、 理解することはできません

諸仏 という 概念が起きるのは 釈迦牟尼は 諸仏に並ぶ(諸仏と同一) から です

言葉を聞いて 解脱したモノはいません
言葉を発する 「行」 と共にあって 「解脱」 と 共にあります

「  唯仏与仏 乃能究尽  」

修行  と言うモノは 解決されたところには ありません (不要です)
しかし
修行 そのモノが 解決  である時
修行の中に 解決の中に  その二つの “同一概念” が
  読み取りようによって、
違う名称で 呼び表わされます

「 修証一如 」
    一如   とは  唯我独尊  如来 (ありてそのもの) のことです

> 「知に立ち行を論ずる」、というのも、納得ですね。

その納得が 「顛倒」 「無明」 に 起きている

**************

 「 縁起 」  に 解釈は起きます ( 解釈は 他の解釈によって支えられる )

 「 縁起 」 という 「 真理 」  にさえ あなたの解釈は起きる


支える(他の)人の為に 支えられて、 人は 起きているのです
その時 支える他の人は 支えるために 起きています

→ ひとは 一人だけでは起きない

>> 天上天下唯我独尊や『犀の角のようにただ一人歩め』という釈尊の言葉

確かに 釈迦牟尼は 語として 同じ言葉を 経典へ 残しています
同じかどうかは 同じ 心にある人が 同じ行ないを通じて 明らかにしつつ
自らの道と 照らし合わせます

釈迦牟尼であろうと ( 乞食 を 通して ) 支えられて 四食を 身とします
支えられるものが 『犀の角のようにただ一人歩み』 
耕しつつ 種をまき まいた種から 収穫 という 乞食 に 至ります

唯我独尊  であるから 真理の道を 説くために 転法輪 に あるわけです
( 法 = 「 真理 」  =  「 縁起 」  を 説くことが  起きています )

 「 縁起 」  は 「 真理 」  でありつつ 説かれていることであり
  説かれつつある  姿  です

→ 「  縁起を見る者は わたしを見る 」

ここは 直ちには 理解しがたいことです
しかし それを理解する 親鸞 は
「 念仏は 無碍の一道 」 と 唯円に 説きます

「 念仏を唱える者は 無碍の一道にある 」 という意味ではありません

念仏を 唱える者があって、 初めて 念仏が起きます
唱える ということは 語を発するということです
だれでも 「 アミタ なる 仏 に ナム する  」 という 語は 発することが出来ますが
行ないを 共に為す人は
為すこと が 「 無碍の一道 」 です  
「 念仏は無碍の一道 」

同じ構造で   「 縁起 」  が 釈迦牟尼である  ということが
  理解できますか ?

釈迦牟尼の 廻す法は すべて  「 縁起 」 の 理に沿って
 「 縁起 」  を 説いています

「 わたしの言葉が わたしである 」

だから、 あなたは あなたが聞く わたしの言葉 から
わたしは 仏教にかすりもしない  と  わたしの存在を 判断するのです

それは
あなたの聞きように発する 判断です
そこを三祖 は
「 信心銘 」 で 「 至道無難唯嫌揀択 」 と 教え諭します
正しく受け継ぐ 道元は 共にある 説かれている言葉
「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」 を 
天台智ギ の 「 天台小止観 」 の 坐禅儀 を 下敷きにして
「 普勧坐禅儀 」 を 説きます

少しは わたしの意味するところが 分かるでしょうか ?

しかし
その少し  が  真理を生みます
しかし
その少し が 「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」 を 生みもします

少しわかることが
「 真理 」  を 生んだり
“ 顛倒 ” という 「 苦 」 を ドッカ に ウム ノデス

ウム( 生む ) ということは  「 縁起 」 に 起きます

それと同時に
“ 有・無 ” は  「 縁起 」 に 起きるのです

しかし
釈迦牟尼 の 生きざまは  「 縁起 」  を起こさないから
唯一として 「 真理 」  なのです

二つのことを 
敢えて 短絡させて 記述するわけは
そこに起きる あなたの顛倒 を 起こすためです

あなたが “ それは間違っている ” という 思いを起こさなければ
正否 は 起きてきません

自らにある “ 正義 ” だけを 取り上げることを
“ 偏 に ある ”  と 言うのです
 「 縁起 」  の 理を見る者は
釈迦牟尼に出会っていて 釈迦牟尼の
     言葉を
  『 無碍の一道 』  として  見ている = 聞いている




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「 念仏は 無碍の一道 」   春間 則廣  2019/09/08(Sun) 23:51 No.55504


「 念仏は 無碍の一道 」

は 『 歎異抄 』 に ある言葉は
「 念仏者は 無碍の一道 」
でした

その意味が 「 念仏は 無碍の一道 」 だから
誤記 してしまいました

念仏者 は 念仏 であり 無碍の一道  なのです

仏 は 真理 であり 真理 は 縁起 です
 ( 縁起が真理 ではありません )
 ( どっちでも一処 とするなら 真理ではありません )

真理は縁起 という意味は
「 真理 」 と 「 縁起 」 とは 同一  という意味と
「 真理 」 は 縁起する  という意味に 捉えることが出来ます

真理 は 縁起 しません

しかし 理 は 縁起します


「 わたしを見る者は 法を見る 」  とは
“ わたしを見る者は 法としての その存在を見る ”  ということです
法としての存在は  「 縁起 」(の理)  として 存在します

仏とは  「 縁起 」 の 理  である
「 法を 見る(知る) 者は 縁起を見る(知る) 」

あなたの 知りよう( 見よう ) によって
仏 = 真理  は いかようにも見え得る


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