OKIRAKU BOARD


[トップに戻る] [スレッド表示] [トピック表示] [ワード検索] [留意事項] [管理用]
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ
参照先
イメージ [アイコン参照]   削除キー (記事削除用)
投稿キー (右画像の数字入力) 投稿キー
文字色
アッチャー  コッチャ     春間 則廣  2018/09/02(Sun) 21:00 No.55067 [返信]


> > アーラーラ・カーラーマとかからも、禅定を借りてるし

 どうして 借りる と 表現するか分かりますか ?  

アーラーラ・カーラーマ のよう には  “ 使わない ”  のです

目的 は ないのです
得るところを目指しても
得ること  “ それ自体 ”   は  ないのです
ないところに 使う 用 がない (使いようがない)

> 瞑想も何の為の瞑想か?

犀の角に 目的設定はありますか ?

> まず第一に因果関係を冷静に観察するためですよね?

違います
因果関係 =  「 縁起 」  を 知ろうと
目的化したから 得たのではなく

瞑想 していると 得ているのです

> なんとか天に行くためではないと思います。

なんとか かんとか  と   いうところの モノ ではありません

その為        でもなく
その為ではない  ということも ない



res-1.gif res-2.gif res-6.gif mouse.gif
Re: アッチャー  コッチャ     春間 則廣  2018/09/03(Mon) 09:00 No.55067


> 犀の角に 目的設定はありますか ?

歩くときには
目的を設定している と
( 決まってはいない 目的群の中から 一つを掴み出し )
目的を設定することも 可

決まっていなければ ないのと変わらない
 
決めれば ( 目的 は ) “そう” 決められる

何かを しているときは
していることが そく 目的  です

していることの意味を 決めても
菩提はそうではない  と 決められても
反論できない( 真摯なら 出来ない )

真摯に反論するときには
顛倒が支配している
この定まったことに
反論するとき
( どちらが どうであろうと )
顛倒 が 起きている
( しかるに )
あなたの反論だけを 取り出せば そこに何ら顛倒はない

こういうことは

瞑想にあると 分かること

言い替えると
瞑想にある者には
言葉ではなく 行いが ( 言葉であろうと )
見えるということです


res-4.gif res-3.gif
res-1.gif res-2.gif res-6.gif mouse.gif
Re: アッチャー  コッチャ    推敲     春間 則廣  2018/09/03(Mon) 09:02 No.55067


> 犀の角に 目的設定はありますか ?

歩くときには
目的を設定している と
( 決まってはいない 目的群の中から 一つを掴み出し )
目的を設定することも 可

決まっていなければ ないのと変わらない
 
決めれば ( 目的 は ) “そう” 決められる

何かを しているときは
していることが そく 目的  です

していることの意味を 決めようと

菩提はそうではない  と 決められた時
反論できない( 真摯なら 出来ない )

真摯に反論するときには
顛倒が支配している

この定まったことに
反論するとき
( どちらが どうであろうと )
顛倒 が 起きている

( しかるに )

あなたの反論だけを 取り出せば そこに何ら顛倒はない

こういうことは

瞑想にあると 分かること

言い替えると
瞑想にある者には
言葉ではなく 行いが ( 言葉であろうと )
見えるということです


res-4.gif res-3.gif
仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/09/02(Sun) 16:23 No.55066 [返信]

我 一 人 菩 薩 証 せ り 秋 暮 れ る

前 世 の 父 母 見 し や 仏 桑 花

く ら か け の 孤 独 想 い て 島 に 秋

我 を 見 る も の 無 し 秋 空 見 上 げ た る

欲 捨 て て 一 人 を 侘 し 花 シ ョ ウ ガ

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/08/31(Fri) 18:28 No.55059 [返信]

秋 初 め 土 工 に 仏 探 し た る

仕 事 終 え 土 工 黙 せ し 秋 夕 焼

前 世 も 秋 陽 を 受 け し 土 工 仏

   宮川  気張れ     春間 則廣  2018/08/31(Fri) 08:05 No.55057 [返信]


パワハラ と 指摘された者 が
あれはパワハラではない  と 言って パワハラ ではないことにはならない
パワハラ を 受けた  とする者が
受けたという 思いを受けるから パワハラ が 受けた者 に 起きている

パワハラ を している  とされる“モノ”は
 受けた者が 認定しなければ パワハラ とはされない
( 者 ではなく 対象とされる “モノ”  です )

暴力を受けた者が 暴力を 規定できる
( その規定は 他の起こす規定によって
   他は    それ   を 正しい・間違い   とは 規定 しきれない )

痴漢行為 に 適用してみよう

尻を触られて 痴漢がした と 思う
痴漢 と された者は
触ったけれど 痴漢行為ではない あるいは 触りなどしてはいない  と 思わせる



意図は 人類をすくう為でも
救われる 者  には その者の持つ カチカン が あり
チカン と 置換 して 非難される筋合いはない( あっても筋合いは機縁に起きる )

自由に 変換 できる カチカン を ジナ は 負けに 用いる


   他所から転載       春間 則廣  2018/08/29(Wed) 10:08 No.55055 [返信]


9006

mame_maruha
8月29日 10:02

>>9004

イッショ に 居ます

いくら言っても
あなたが
そうではないとするところから ( わたしと一緒ではない “ところ” )
から 見ると

あなたの見解は
一緒ということを 否定する

一緒ではない と言ったところで
( 一緒ではない という ことがなぜ言われるか ? )

( 一緒ではどこにいるかがないと知って  あなたが どこにサマヨウか が )
 言葉で 事実= 如実 が 変わることはない
( 言葉の意味は 変わる )

意味というモノは 解釈の贈り物 です



9005

mame_maruha
8月29日 09:55

>>9002

>  あなたは釈迦牟尼と共にいるのですか?

一緒ではない という 理由は
その理由を 探そうとする時 見出す

あなたが いかなる理由を見出そうと
それによって
  あなたが正当である
ということは 見い出し用においてのみ 正当であるとされる

そいうことが
初期経典 スッタニパータ の 最初期部分 に 説かれている

Su.796 ・ 824  に あります  ( 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 179p 183p )
( キンドル で C&P が 限界に近づいているので 自分の手で 引いてください )



9004

ショーシャンク
8月29日 09:49

>>9003

ですから、あなたは釈迦牟尼と共にいるのですか?


9003

8月29日 09:46


>>9002

聞いて 一緒にいる
と   分かるのではなく

一緒にいて
一緒だ と 知る

対象は 牟尼であろうと 煩悩具足の愚禿 であろうと

同じ仕組みです



9002

ショーシャンク
8月29日 09:33

>>9001

<< 釈迦牟尼 と 共に いない から   です >>

あなたは釈迦牟尼と共にいるのですか?

9001

8月29日 09:28

>>8982

>   釈尊のもとでは数多くの人が悟りに至ったのか、です。

   釈迦牟尼と共に いた( いる ) から です

> そして、私は大乗仏教に親しんできましたが、
   自分自身、卑小な精神、卑小な人格は何一つ変わりませんでした。

変わらなかった
という認識の 起きるところに
変わらない教えと  
変われない聞き方 とが 捉えられなければ
変わった、変わらない  の 分別が 起きません

自らの卑小さを 身に染みるのは
変わる機縁にあるということですが
機をとらえ損ねると
元の木阿弥

釈迦牟尼 と 共に いない から   です
( いなかったときに いないところに 釈迦牟尼はいない )

一緒の生を生きていると知るとき
あなたが 生を 規定する  “ 要は ない ”

一緒にいなければ
一緒の事かどうかは 引き当てられない


> ですから、私は大乗仏教から離れて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めています。           

やはり 釈迦牟尼から 離れるところを模索しています

一緒にいるか いないかは
“ 生きている言葉を聞いて 共にそうして生きるかどうか ”
に あります

そこに 「 永遠の命 」  が 宿っています

釈迦牟尼が離れているのではなく
あなたが 一緒にいても
自らの聞き方で 牟尼の言葉を解釈するから 起きる事です


他所から転載     春間 則廣  2018/08/29(Wed) 09:35 No.55054 [返信]

仏教についてのひとりごと

9001        mame_maruha 8月29日 09:28

>>8982

>   釈尊のもとでは数多くの人が悟りに至ったのか、です。

   釈迦牟尼と共に いた( いる ) から です

> そして、私は大乗仏教に親しんできましたが、
   自分自身、卑小な精神、卑小な人格は何一つ変わりませんでした。

変わらなかった
という認識の 起きるところに
変わらない教えと  
変われない聞き方 とが 捉えられなければ
変わった、変わらない  の 分別が 起きません

自らの卑小さを 身に染みるのは
変わる機縁にあるということですが
機をとらえ損ねると
元の木阿弥

釈迦牟尼 と 共に いない から   です
( いなかったときに いないところに 釈迦牟尼はいない )

一緒の生を生きていると知るとき
あなたが 生を 規定する  “ 要は ない ”

一緒にいなければ
一緒の事かどうかは 引き当てられない


> ですから、私は大乗仏教から離れて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めています。           

やはり 釈迦牟尼から 離れるところを模索しています

一緒にいるか いないかは
“ 生きている言葉を聞いて 共にそうして生きるかどうか ”
に あります

そこに 「 永遠の命 」  が 宿っています

釈迦牟尼が離れているのではなく
あなたが 一緒にいても
自らの聞き方で 牟尼の言葉を解釈するから 起きる事です

   成就者      春間 則廣  2018/08/27(Mon) 09:13 No.55052 [返信]


成し遂げようとする者にとって
成し遂げられてはいないことは
( 今までの )
成し遂げた後 に 起きる

成し遂げたことは
成し遂げられてはいないことを起こす

成し遂げられてはいないのに
なぜ 「 成功 」 と されるか ?

取り敢えずの 「成功」 は 取り敢えずの 「 不成功 」

翻って
成就者は 成就したと 分かる
分かるから 
対する者が どのように成就にあるかが 分かる
    →  「  唯仏与仏 乃能究尽  」

SRKW に わたしの綴る 文 を 見せてごらん

成就している  と 分かるなら SRKW は 同じ成就にある

成就してはいない  と  するなら
( これこれこういう理由で  と 述べなくとも )
そういうことによって 成就していないことは 決まる    

  ( 理由を羅列しても その一つづつに 反する理由は 起きてくる )

断定のみで 理由は不要なら
わたしが  “ SRKW は 成就者ではない ”  ということは
単独で 成り立ち
理由を述べようと 反論の反論は 無限に続く ( 「 永遠 」にある )

「 衆生本来仏なり 」  ということの 証しを立てている

理由は不要である

仏が 知らぬことは ない ( 煩悩即菩提 )


記事No 削除キー

- Honey Board -