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一度  聞けば   浄土にムマレル       春間 則廣  2018/03/01(Thu) 08:05 No.54851 [返信]

> というのも、沸き上がる雲のように、たなびく雲のように、現れてくるのですが、やはりそれも消えていくような気もします。
「空」を描いた経典(だと思っている)「泡沫」を思わせます。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/canonphenam.html

********


【色形】

3.   比丘たちよ。たとえば、このガンジス川が大きな泡のかたまりをもたらすように、そのように眼(まなこ)ある人はこれを見て、静観し、正しく考察するだろう。彼が、それを見て、静観し、正しく考察するならば、それは、まったく虚ろなものであって、空虚であり、実質のないものに見えるであろう。比丘たちよ。それならば、どうして泡沫のかたまりに真実(精髄、サーラ)があろうか。

このような 教え は “ まったく虚ろなものであって、空虚であり、実質のないものに見えるであろう ”

何故なれば
そこに “ 真実(精髄、サーラ) ”  とする 行いが見出されないから

説く人の行いは 説くヒト の モノ
聞く人の 行いは  聞いて行いが変わる まで
聞く人にある行い
( 変わる中 には 説く人の行いと 合一  する変化 もある )

どちらの “ 行い ” が  あなたにあなたのモノとしてありますか ?

教えを受ける 色形  が 五蘊です
そして それは  仮和合  ですから
べつの  仮和合  を  無数に 結ぶ ことが出来る

どれか一つが  真実なら
すべて 真実に 和合します

「一度の念仏」 が  親鸞 に あれ  ば
( 一度  聞けば )
浄土にムマレル


4.  このように、比丘たちよ、いかなる色形であれ、過去や未来や現在のものであれ、うちであれ、外であれ、粗いものであれ、細かいものであれ、劣ったものであれ、すぐれたものであれ、遠くにあろうと近くにあろうと、彼はそれを見て、静観し正しく考察するならば、、比丘たちよ、まったく虚ろであって、空虚であり、実質がないものに見えるであろう。それだから、どうして色形に真実(精髄、サーラ)があろうか。

遠近・大小・優劣  ソレラ は  “ まったく虚ろであって、空虚であり、実質がない ”

ソレラ は  「 縁起 」 の 起きる 世間での出来事

ただし  ソレラ を  “ 見て、静観し正しく考察するならば ”

幾つもあるような 比較によって成り立つ 揀択 が
“ 真実(精髄、サーラ) ”  と なっている
( そのようにして 聖者は 言葉を拾い出す 、、、、 )


正しいとする
その見方は
正しいかな ?


 なんかおかしいところ が  見えますか ?    春間 則廣  2018/02/27(Tue) 12:05 No.54846 [返信]


> 枯 れ 山 や 不 生 と い え ど 萱 芽 萌 ゆ

道元の
      「 草は棄嫌におふる 」
の意味が分かっているのかな ?

先に
>  道元禅師の不昧因果・深信因果を実践しているだけです。

と 語っていたが
語るに “ おふる ”

“落ちる” ところ  がない  のが 仏教です 

「 花は愛惜に散り 」  散り 落ちる 、、、、

愛惜は 落ちていく 、、、、

愛惜は  仏教には ないから
仏教 で  説く


仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/21(Wed) 00:09 No.54832 [返信]

〈ナルシソ・イエペス『バッハ:リュート作品集』に寄せて〉
鶯 は 鳴 け ど 春 を 認 め ざ る


〈ヴァレリー・アファナシエフ『バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻』に寄せて〉
春 来 る 予 感 を 千 度 繰 り 返 す


〈ルーカ・ピアンカ『バッハ:リュート作品集』に寄せて〉
桃 色 の 尾 を 曳 く 雲 や 冬 去 り ぬ

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/12(Mon) 22:03 No.54825 [返信]

枯れ山にて土工す

人 頼 る こ と 無 し 枯 れ 山 日 の 出 遮 す


土 羽 打 ち て 冬 雲 尾 根 を 離 れ た る


人 恨 む こ と 無 し 山 襞 枯 れ 沈 む

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/09(Fri) 23:14 No.54814 [返信]

枯 れ 山 を 涅 槃 仏 と ぞ 仰 ぎ た る


冬 暮 れ て 語 り た る こ と 無 く し た り


黄 金 の 枯 れ 萱 纏 う 涅 槃 仏

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Re: 仏陀の道の端で  管理人エム 2018/02/16(Fri) 05:40 No.54814

>黄 金 の 枯 れ 萱 纏 う 涅 槃 仏

本当にこのような風景があるような気もするし、脳裏の中にある思いのような気もするし、どこかでみたかもしれないと思うし、いや、そうではないとも思うし。。

いろいろな思いをかきたてられる句です。

最初の

>枯 れ 山 を 涅 槃 仏 と ぞ 仰 ぎ た る

の句の枯れた感じと対比が鮮やかで、涅槃仏も、もしかすると夢かも、という思いもわき起こります。
でも、どこかで見たような気もしてならない。

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Re: 仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/16(Fri) 21:22 No.54814

>本当にこのような風景があるような気もするし、脳裏の中にある思いのような気もするし、どこかでみたかもしれないと思うし、いや、そうではないとも思うし。。

論理的には違うかもしれませんが、私にはこの先生の言葉が如来の死後の四句分別のように感じられました。

このような風景がある=如来は死後存在する
脳裏の中にある=死後存在しない
どこかでみたかもしれない=死後存在しかつ存在しない
そうではない=死後存在するのでもなく存在しないのでもない

私の拙い俳句にこのような深い意味を感得して頂いて有り難いです。
そうしてもう一度俳句を見直すと、如来の死後とは「この世界」のことだったのか、そんな感慨も湧き上がります。
そして、世界と生は一つであるとすれば、如来の死後とはわれわれの「この生」のことであると、言えるのかもしれません。

三宅島はこの前の噴火で火山ガスが発生し、山麓の樹木はすべて枯れ、萱に覆われた独特の景観を作り出しています。
今この「枯れ山」で林道工事の土工をやってます。
しかしこの「枯れ山」には、北国の落葉樹林の枯れ山や、野焼きで作られたススキ野原とも違った、独特の風情があります。
私の母も数年前、秋の夕暮れ時に、山頂近くの窪地の金色に輝く萱穂の中に私が下りていったのを見て、風景の中に私が消えてしまうような不思議な感覚を持った、と言っていました。
そこでこんな俳句も作ってみました。

金 色 の ビ ロ ー ド 敷 け る 火 口 萱

萱 原 に 下 り し 君 の 消 え 去 り ぬ

この「君」は「我」に置きかえてもいいと思います。如来と同様、われわれは消え去るのか消え去らないのか、あるいはいずれでもないのか、そんな感慨も湧きますが、しかし今こうして、孤独や不安を感じて存在している自分は、否定できないようにも感じられます。
少なくともわれわれが悟りを開いていない以上、そのような迷いの存在としての「我」は、否定できないように思われるのです。
しかしながらそれは、単なる孤独や不安ではなく、いわば「詩」として聖化されていますが。
かくしてわれわれは如来と違い、転生を重ねることになります。この転生を菩薩乗と言い換えることも出来るでしょう。
「転生菩薩」シリーズは半ばフィクションですが、そういうコンセプトで作られています。
私の俳句もそのような、魂の遍歴の記録であると言えるかもしれません。

最後に。
最近論理的思考が出来ないので、俳句ばかり作ってましたが、いい加減そっちも枯渇してきたような感じもしています。
先生の「十二門論研究(2)」大いに期待しております。

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Re: 仏陀の道の端で  管理人エム 2018/02/17(Sat) 08:43 No.54814


>論理的には違うかもしれませんが、私にはこの先生の言葉が如来の死後の四句分別のように感じられました。

>このような風景がある=如来は死後存在する
>脳裏の中にある=死後存在しない
>どこかでみたかもしれない=死後存在しかつ存在しない
>そうではない=死後存在するのでもなく存在しないのでもない

こんな風に読み取ってくださるとは夢にも思わず、うむむ、ありがたいことです。

 この三つの句は、何度読んでも、確かにこういう風景を見て読んだのだ、と実感するのですが、自分の中にはこの風景とピッタリ合致する絵が見つからず、どこにあるのだろうと不思議でたまりませんでした。それで、思わず、あれこれ書いてしまいました。
 そうか四句分別だったのか。。。
と、自分で納得するのもなんですね。
三宅島の風景だったのだ。お母さまのお話も印象深くて桃源郷を表すかのようですね。


金 色 の ビ ロ ー ド 敷 け る 火 口 萱

萱 原 に 下 り し 君 の 消 え 去 り ぬ

美しいですねぇ。

>こうして、孤独や不安を感じて存在している自分

というのも、沸き上がる雲のように、たなびく雲のように、現れてくるのですが、やはりそれも消えていくような気もします。
「空」を描いた経典(だと思っている)「泡沫」を思わせます。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/canonphenam.html

また、 この経典のこのことばも思い出します。

20.あるいは、かれは、現在において、自己のうちに疑いが起こることもあるだろう。
わたしは、実に有るのだろうか、それとも、ないのだろうか。
わたしは何であろうか。わたしはどのような状態なのだろう。
わたしという生き物は、どこから来て、どこに行くものとなるのだろうか。
この道理(ターナ)は知られない。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/paccaya.html

>先生の「十二門論研究(2)」大いに期待しております。

 「『十二門論』研究(2)」は、何とか書いて、札幌大谷大学の紀要に載せてもらうように応募しました。3月の終わり頃出るのではないかと思います。
 これまでの研究は、ほとんどみな『十二門論』は龍樹作ではないという結論になっているのですが、どうしてそんなことを思うのだろうと不思議でたまりません。伝統的に伝わっているものを簡単に否定して、もしそうでなかったら、人生まるまるつぶすことになるのではないか、などと余計なことを考えています。

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Re: 仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/19(Mon) 00:11 No.54814

>>こうして、孤独や不安を感じて存在している自分

>というのも、沸き上がる雲のように、たなびく雲のように、現れてくるのですが、やはりそれも消えていくような気もします。

このように言っていただくと、何かホッとする感じはあります。
しかしこの「孤独」は根深く、早々癒えることはないと思います。

ライトワーカー=転生菩薩の孤独
https://www.youtube.com/watch?v=TuZNcIdFA8Q

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仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/09(Fri) 06:12 No.54812 [返信]

山 道 を 一 人 で 下 り ぬ 冬 夕 焼


冬 こ そ は 日 溜 り 白 き 涅 槃 か な


独 り 身 を 坐 り つ ぶ し て 春 迎 う

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/02/07(Wed) 01:10 No.54803 [返信]

冬 風 に 凍 れ ど 人 を 軽 ん ぜ ず


冬 晴 れ や 庭 の 外 れ の 仏 国 土


座 禅 怠 り て 心 騒 ぎ た る 冬 の 空


寒 風 に 汗 乾 か し た る 土 工 か な

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