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「『十二門論』研究」解題 7  spinobuddhist 2017/10/10(Tue) 21:24 No.54391 [返信]

 水野弘元『仏教要語の基礎知識』によれば、縁起には内縁起(価値的縁起)と外縁起(一般的縁起)がある。前者は十二支縁起・四聖諦であり、後者は此縁性である。しかし四聖諦は十二支縁起の簡略化されたバージョンである。また、此縁性は外的な個物のあいだで成立するが、これは十二支縁起において名色→六入→触→受を中心に形成されるものであるから、実は十二支縁起のなかにある。
 したがって、そもそも内縁起/外縁起という二極性は存在せず、すべては内縁起である十二支縁起のなかにあるのだが、しかし名色以下を外縁起と見なせば、それ以前の無明→行→識を狭義の意味で内縁起と見なしうることになる。以下において外縁起と対立的に内縁起を語るとき、この狭義の内縁起を意味することにする。
 とはいえ、注意しなければならないが、今私は「内縁起を語る」、と言った。しかしながら、われわれにとって内縁起は微細であり、そもそも言語(記号)によって把捉することができない。これに対して、それを敢えて言語によって表わそうとすると、それは必然的に、譬喩(実例)というかたちとなるのである。
 要するに、われわれは、外縁起を譬喩(実例)とすることによってしか、内縁起を言語的に把握することができないのである。ここにわれわれは、インド論理学において譬喩(実例)がもつ特別の地位を、認めることができる。
 これに対して、近代西欧は、譬喩による内縁起の参照を放棄することによって、外縁起をそれ自体において純粋に探究することを可能とした。科学の誕生である。そしてこの科学的探求は、同一的で変わることのない科学的主体(近代的自我)を必要とするのである。
 ところが、先にわれわれは、実例(譬喩)が変化すると主張命題の主語が変化してしまうことを、確認している。これに対して、この変化を防いで主語を同一に保つためには、われわれは、「理由」を様々に変えていくか、あるいは実例(譬喩)そのものを放棄してしまう他はない。いうまでもなく、前者は梵我一如を説くヒンドゥイズムであり、後者が近代西欧文明である。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 7  管理人エム 2017/10/12(Thu) 14:24 No.54391

>要するに、われわれは、外縁起を譬喩(実例)とすることによってしか、内縁起を言語的に把握することができないのである。

悪について「よもや、報いが来ることはないだろう」と思って、軽く考えてはいけない。水滴が落ちて、水瓶がいっぱいになるように、愚か者には、悪も少しずつつもっていっぱいになるのである。(『ダンマパダ』121)
福徳について「果報など来ることはあるまい」と思って、軽く考えてはいけない。水滴が落ちて、水瓶がいっぱいになるように、心堅固な者には、福徳が少しずつつもっていっぱいになるのである。(『ダンマパダ』122)

うまい喩えですね。外縁起と内縁起は『十二門論』『大智度論』などからきているのでしょうか。今、学校のパソコンから打ち込んでいるので、資料や本にあたることができません。

外縁起と内縁起は本来「ひとつもの」なのではないかと思っています。

>この変化を防いで主語を同一に保つためには、われわれは、「理由」を様々に変えていくか、あるいは実例(譬喩)そのものを放棄してしまう他はない。いうまでもなく、前者は梵我一如を説くヒンドゥイズムであり、後者が近代西欧文明である。

梵我一如を説くヒンドゥイズムは、うーん、ちょっと大きく外れているような気もします。
梵我一如は、おそらくアドヴァイタ(不二一元論)などの思想に通じているでしょう。現実の世界をマーヤー(幻)とするような考え方ですから、なんかぴんと来ません。いろいろ思想的にはヴァリエーションも多くひとくくりでは言えなそうです。

印度哲学の方から見ると、外界実在論を説くのが、ニヤーヤ学派だから、こちらならば、論理(実例、比喩など)も使えます。多元論です。
また、サーンキヤ学派は二元論です。これは、どうなっているか考えてみなくてはよくわかりません。でも、「サーンキヤの思想は太陽のように輝く」というような喩えの使い方をしていたのを見ました。チャラカの「論議道」の中にあったと思います。

喩えや実例などを考慮するなら、根源的にどのように考えているのかを知る必要がありますね。

後代、仏教論理学では、主張と理由の二支のみでよいとされ、実例を排除するケースも説かれています。これは、どういう風に考えてそうしているのか、検討していないのでわかりません。

とりあえず、まとまりませんが、思いついたことを書いてみました。「勝手にウダーナ(無問自説)」ってところです。



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「『十二門論』研究」解題 6  spinobuddhist 2017/10/10(Tue) 00:24 No.54387 [返信]

 先にわれわれは、議論を単純化するために、「成立(証明)すべきものに等しいもの」の例として龍樹が示した、

《意識は無常である、触れることができないから、音声のごとくに》《虚空は常住である、触れることができないから、意識のごとくに》

という命題の対を、

《虚空は恒常である、触れることができないから、意識のごとくに》《虚空は無常である、触れることができないから、意識のごとくに》

という命題の対に置きかえた。しかしながら、この置き換えは不当である。なぜなら、龍樹は、何かの恒常・無常の不成立を問題にしているのではなく、何かに恒常・無常を述定する「理由」の不成立を、問題にしているからである。すなわち、ある理由は、それに与えられる実例の違いによって、それぞれ別のものに対して、正反対の述定を与えてしまうことにより、不成立となるということである。
 理由は実例によって、その証明する対象(主語)と、証明することがら(述語)を変えられてしまう。したがって、実例を重視するインド論理学では、実例が変わることによって、証明対象(主語)は次々と変わってゆき、一定しない。
 これに対して西洋論理学では理由は絶対的であり、実例は理由を補強する意味しかない。実例によって理由が変わるのであれば、理由ではなくあくまでも実例が不適切なものとして斥けられるだけである。
 そうだとすれば、「同疑因(疑いに等しいもの)」もまた、次のように書きかえられなければならないだろう。

《「意識は音声のごとくに触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「意識は音声のごとくに触れることができないから無常である」というようなものである。》《「虚空は意識のごとくに触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「虚空は意識のごとくに触れることができないから恒常である」というようなものである。》

 いずれにしても、証明されるべき命題の主語は、実例の変化によって次々に遷移していく。しかしながら、これに対して疑う人間は、常に主語の同一性に基づいて、恒常・無常を疑っている。
「成立(証明)すべきものに等しいもの」と「同疑因(疑いに等しいもの)」の決定的差異は、恐らくここにあるのだろう。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 6  管理人エム 2017/10/10(Tue) 07:37 No.54387

>《意識は無常である、触れることができないから、音声のごとくに》《虚空は常住である、触れることができないから、意識のごとくに》

>という命題の対を、

>《虚空は恒常である、触れることができないから、意識のごとくに》《虚空は無常である、触れることができないから、意識のごとくに》

>という命題の対に置きかえた。しかしながら、この置き換えは不当である。なぜなら、龍樹は、何かの恒常・無常の不成立を問題にしているのではなく、何かに恒常・無常を述定する「理由」の不成立を、問題にしているからである。

>すなわち、ある理由は、それに与えられる実例の違いによって、それぞれ別のものに対して、正反対の述定を与えてしまうことにより、不成立となるということである。
> 理由は実例によって、その証明する対象(主語)と、証明することがら(述語)を変えられてしまう。したがって、実例を重視するインド論理学では、実例が変わることによって、証明対象(主語)は次々と変わってゆき、一定しない。
> これに対して西洋論理学では理由は絶対的であり、実例は理由を補強する意味しかない。実例によって理由が変わるのであれば、理由ではなくあくまでも実例が不適切なものとして斥けられるだけである。

お話しに乗ることにしたのですが、龍樹は、何かの恒常・無常を述定する「理由」の不成立を問題にしている、というのも、ちょっと「?」というところです。

後のものを先に述べ、先のものを後に述べる、と言いたくなる展開です。龍樹は、別段何も意図してはいないと思います。

主張命題として「虚空は恒常である」「意識は無常である」などの主張があるので、主張は主張であるように思います。理由がたまたま「触れることができないから」となったとも考えられます。
しかし、実例が変わることによって証明対象が変わって一定しないのがインド論理学だということですが、主張する立場では、西洋論理学と同じことが起こると思います。

大事なことは、それぞれ恒常・無常を主張する論者がいる、ということです。そのため、実例が非常に重要になるのです。実例は、(一応)両者が認めるものを持ってくることになっているからなのです。

(1) 《意識は無常である、触れることができないから、音声のごとくに》

これを出した人は、よもや音声が無常でないとは言わさないよ、という心意気で語っているのだと思います。音声は触れることはできないし、かつ、出てきた音はすぐに消えていく無常の存在だ、これを疑うものはいるまい、という気持ちでしょう。

常識では誰でもがそう考えるだろうから、意識の無常性も証明できるだろう、と考えているのでしょう。
ところが、音声(シャブダ)でも、ヴェーダの言葉(音声)は恒常であると、バラモンたちは考えています。ヴェーダの言葉は不変かつ永遠であって、どこにでもあるのだけれど、バラモンが音声として唱えるとき、顕現してくるのだ、というように考えるので、
《音声は恒常である》という主張がなされてくることになります。

だから、音声もまた「証明すべきもの」ともなるのです。

龍樹が、虚空を持ち出したのは、(1)の論証が、無常か恒常かを争うものであることを明確にするためだと思われます。恒常の主張をする人がいて、(1)は議論において取りあげられるべき主題になるのです。反対する人がいないなら、特別論争になることもありません。

また、「意識のごとくに」をあげてあるのも、意識は、プラクリティという質料因から展開してくるものとされるので、元をたどれば永遠不変のプラクリティに帰着するから、恒常なのです。このような考え方が常識であるとされる場面では、「意識」を出した時点で、皆の納得は得られることでしょう。しかし、いろいろな見解をもつ論者がいるところでは、そうはいかず言い争って決着させて行こうとするのです。

こういうことを続けていくと、結局、あらゆるものは無常とする立場と、あらゆるものは恒常であるとする立場との論争のようになって行くのではないでしょうか。そこを「成立すべきものに等しいもの」として疑似因によって論争を収集しているのが、龍樹であると思います。

主張、理由、実例、どこかが大事なのではなく、執着にあわせてどこにでもスライドして定まらない「決定打のないこと」を表そうとしているのだろうと思います。

やっぱり噛み合わなくなりましたね。

認識根拠(プラマーナ)というのが、インド哲学では大きな問題になってきます。基本的にどのような知識を得るみなもとをもっているのか、何を正しいものと一応決めているのか、を、はっきりさせる認識の手段です。多くは、直接知覚、推論などを認め、後、類推とか信頼すべき人の言葉なども手段に加えられたりしています。

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秋風に身を託したる流れ雲  spinobuddhist 2017/10/07(Sat) 01:43 No.54382 [返信]

石飛先生

 ご挨拶遅くなり、申し訳ありませんでした。
かねてより先生にお世話になっている者ですが、今回初めてマニカナ上で私見を述べさせて頂きました。
 先生のご批判大変有り難く拝読しておりますが、先生と違って個別の批判に逐一対応する精神的余裕が私にはなく、それよりは自説の展開に集中したいと思っていますので、今後も独白形式となるものと思いますが、ご了承ください。
 とはいえ私は自説や見解というものに執着しておりませんので、今後も先生を含めた皆さんの辛辣な批判を大いに期待しているところです。
 表には出しませんが先生の批判は大いに参照し、役立てています。
 今回の論考も一見すると先生の論文を否定するかのように始まっておりますが、私は先生の論文の結論には大いに賛成しておりますので、今後は自らの疑問を解消しながらも、徐々に先生の結論へと議論を摺り合わせていく方向で論考を進めていきたいと考えております。
 とはいえ一応ネタが尽きたところなので、続きを書けるかどうか解らないような状況にありますが。
 今後もよろしくお願いいたします。


秋風に身を託したる流れ雲





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Re: 秋風に身を託したる流れ雲  管理人エム 2017/10/07(Sat) 06:29 No.54382

spinobuddhistさま

おはようございます。

独白の形式は西洋哲学の特徴ですので、そのように論を運ぶ方なのだと了解しています。わたしも、批判的に書いているように見えるかもしれませんが、おきになさらずにいてください。

問答形式は、やりにくいことでしょう。

このようなところにこそ、思想的な違いがはっきり出てまいりますね。
問答に乗りにくいのは、西洋的な思考においては、思考それ自体の中に「時間」を入れたり、「順序」を意識したりする習慣がないからではないかと思っています。

しかし、spinobuddhistさまのやり方で語っても、対話にはなって行くと思いますので、自由にお書きください。

龍樹の特徴が、逆に浮かびあがってくるなあと思っています。

なんとなく、あいまいに感じていた龍樹の論調が、どうしてそう言わねばならないか、spinobuddhistさまのおかげで、必然性がはっきり見えて来るようで、ありがたく思います。

書きながら、チャラカの「論議道」なども、訳をマニカナに出しておくと便利かもしれないなあと思ったりしました。
また、『ニヤーヤ・スートラ』『ニヤーヤ・バーシャ』の訳もあるといいかもしれないなあと考えたりしています。

これらは、なかなか出版して本に出すことはむずかしいでしょうから、ネットにあげることと役立ちそうですね。

いろいろ刺激をいただいて、たいへん面白く思っています。
どうぞ、お続けください。こちらはこちらで勝手に反応いたしましょう。

俳句も素敵で、ありがとうございます。

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Re: 秋風に身を託したる流れ雲   春間 則廣  2017/10/07(Sat) 09:32 No.54382


「 秋風に身を託したる流れ雲  」  

「 あきかせにみをたくしたるなかれくも 」

伝統的な 訓読み に すると こう 聞こえます
( わたくしの 伝統的な 訓読み に すると こう 聞きます )

秋  は  あきつしま の あき
       アシキ  と 読んでも “ 同じ意味 ” です
かせ  は  枷 を あてます
なかれ は なけれ に よります
   こ“な”た あるいは か“な”た より  移動します
   ( 虚 も 仮 も  自性を持ちません ) よって 流れ “イキ” ます
く   は 苦

これらを 読み込むと 詠み人 の 心の奥に 聞く人の 心が 入ります
( 聞く人は聞きたいように聞き  あなたは “個”として 聞く人となる )

聞かない という 聞きようもあり ( コレ が 己 です )
「 そういう解釈も 一つの解釈である 」 と 言い放ちます

一つが 成り立つには  もう一つが 後ろにあります
その一つを 確固たる 自性にあると 疑わないから
もう一つを 仮定できます
( 仮定  とは   存在を認めてあげる   という
    許すモノ の       許認可事項です       )

軽く読むと ここは 読み取れない
重く受けると 受ける自己を 見失いがち

ガチ の 対決 が     見に起きる



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Re: 秋風に身を託したる流れ雲   春間 則廣  2017/10/10(Tue) 13:06 No.54382


>  やっぱり噛み合わなくなりましたね。

噛み合わせるつもりはない  ということを
「 先生と違って
  個別の批判に逐一対応する精神的余裕が私にはなく、
   それよりは自説の展開に集中したい  」

と 表現しています

あなたが 人の歯を期待することなく
みずからの コトノ ハ で 噛み合わせれば 噛み合わせは起きています

精神的余裕  というものは
ないとする者には  ないとされる

見出すモノにとっては ないことが 成り立たない

既にあるモノについて ないという論を起こすモノには
あるという論 が 
その(ないという)論 を 組み立てる 顛倒(論)の上に 乗せられる

挨拶を遅らせたことについては 申し訳はない  と 宣言するが
噛み合わせない こと  については  自らの方針を カミカミ スル 気はないという

ま 
あなたのいつもの態度と 同じだ

わたしは あなたが規定し、 認可するところの 
支配下にある事項 である  ところの
 “妄想”  を  組み上げる

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「『十二門論』研究」解題 5  spinobuddhist 2017/10/06(Fri) 00:33 No.54368 [返信]

 くり返していえば、ここで問題となっているのはあくまでも哲学的な懐疑であり、「杭か人か」というような日常的疑いではない。龍樹はそれを敢えて戦略的に看過したのかもしれないが、われわれはそれを問題にしたいと思っている。
 懐疑といえば、古代ギリシャ・ローマ時代の懐疑論者がまず頭に浮かんで来るであろう。黒崎宏は『純粋仏教』において、古代ローマ時代の懐疑論者セクストスと龍樹の思想の近似性に着目し、比較考量を行なっている。懐疑論者の特徴は、対立する命題のいずれに対しても、真であると見なさず、判断を保留する、ということである。セクストスは次のようにいっている。

 われわれの意図は、真理の規準は存在しない、という意見を表明することにあるのではない。むしろ、真理の規準が何か存在するということを、ドグマティストたちは説得的に立論していると思われているから、われわれとしては、同じく説得的であると思われる議論を彼らに対置したのであり、その際にわれわれは、われわれの議論は真であるとも、反対の諸議論よりもいっそう説得的であるとも確言するのではなく、むしろ、われわれの議論とドグマティストたちが提示している議論との説得力には優劣がないということによって、真理の規準の存在について、判断を保留するのである。

 ここで、ドグマティストを実在論者とすれば、セクストスのこの言明は、実在論者に対して対立する命題を提示した後、次いでそれをもうち捨てる『十二門論』における龍樹の態度に、きわめて似ていることが理解されるであろう。
 とはいえ、龍樹はあくまでも「一切智者」であり、懐疑を離れているはずである。われわれの目的は、この違いを解明することにある。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 5  管理人エム 2017/10/06(Fri) 07:56 No.54368


> くり返していえば、ここで問題となっているのはあくまでも哲学的な懐疑であり、「杭か人か」というような日常的疑いではない。龍樹はそれを敢えて戦略的に看過したのかもしれないが、われわれはそれを問題にしたいと思っている。
 懐疑といえば、古代ギリシャ・ローマ時代の懐疑論者がまず頭に浮かんで来るであろう。黒崎宏は『純粋仏教』において、古代ローマ時代の懐疑論者セクストスと龍樹の思想の近似性に着目し、比較考量を行なっている。懐疑論者の特徴は、対立する命題のいずれに対しても、真であると見なさず、判断を保留する、ということである。セクストスは次のようにいっている。

> われわれの意図は、真理の規準は存在しない、という意見を表明することにあるのではない。むしろ、真理の規準が何か存在するということを、ドグマティストたちは説得的に立論していると思われているから、われわれとしては、同じく説得的であると思われる議論を彼らに対置したのであり、その際にわれわれは、われわれの議論は真であるとも、反対の諸議論よりもいっそう説得的であるとも確言するのではなく、むしろ、われわれの議論とドグマティストたちが提示している議論との説得力には優劣がないということによって、真理の規準の存在について、判断を保留するのである。

> ここで、ドグマティストを実在論者とすれば、セクストスのこの言明は、実在論者に対して対立する命題を提示した後、次いでそれをもうち捨てる『十二門論』における龍樹の態度に、きわめて似ていることが理解されるであろう。
 とはいえ、龍樹はあくまでも「一切智者」であり、懐疑を離れているはずである。われわれの目的は、この違いを解明することにある。

そういうことなら、そうしましょう。

独白調ですね。問答流でいくのが、仏教です。

龍樹が、ブッダが、一切智者であるのは、問答を基本においたからでしょう。
了解できれば、相手の沈黙と寂滅によって、事態は収拾して行きます。

相手のいない西洋哲学では、判断は保留にせざるをえません。
縁起を説く仏教では、問答を通して、相手の疑問は解決していきます。

疑いは、払われることになります。

如来が出ても出なくても、これは定まっている、と、説かれるゆえんです。

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「『十二門論』研究」解題4  spinobuddhist 2017/10/05(Thu) 03:26 No.54362 [返信]

 先に、A:「成立(証明)すべきものに等しいもの」は「意識のごとくに」という「実例」(喩例)をもつが、B:「同疑因(疑いに等しいもの)」はそれを欠いている、といったが、Aは論証の形式を備えているがゆえに疑いの余地がなく、Bは論証の形式を備えていないがゆえに疑いの余地を残すのだと、考えるかもしれない。立論の形式は、インド論理学において五分作法として表わされるが、ここでは煩瑣を避けるため、@主張A理由B実例の三つから構成されるものとして、考えることにする。
 しかしながら、Bもまた、「意識のごとくに」という実例を付加して、論証の形式をもたせることはできるのである。

 B″:「虚空は意識のごとくに触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「虚空は意識のごとくに触れることができないから恒常である」あるいは「虚空は意識のごとくに触れることができないから無常である」というようなものである。

 結局のところ、実例が不適切であることによって理由が否定されても、他に適切な実例が存在する可能性はなお残るので、主張が完全に否定され、疑いが払拭されることはないのである。
 「成立(証明)すべきものに等しいもの」という名称も、実にこのことを表わしているといえよう。もしも成立する(証明される)可能性が完全に否定されたのなら、そもそも「すべき」という言い方もまた成り立たないであろうから。
 それゆえ、ここでわれわれは、仏陀=龍樹がいかにして懐疑論を離れたのかという問題を、まったく別の角度から解明していく必要性に、迫られることになるのである。

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Re: 「『十二門論』研究」解題4  管理人エム 2017/10/05(Thu) 06:37 No.54362

>しかしながら、Bもまた、「意識のごとくに」という実例を付加して、論証の形式をもたせることはできるのである。 

>B″:「虚空は意識のごとくに触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「虚空は意識のごとくに触れることができないから恒常である」あるいは「虚空は意識のごとくに触れることができないから無常である」というようなものである。

壁と会話しているようで、虚しいですが、一応書いておきましょう(笑)

「Bもまた実例を付加して、論証の形式をもたせることはできる」とおっしゃいますが、そうすると、それぞれ論証を立てることになります。

(1)虚空は、意識のごとくに触れることができないから恒常である
(2)虚空は、意識のごとくに触れることはできないから無常である

(1)も(2)も、立てられたならば、論証ですから、立てた人に疑いはありません。
そして、それらの議論を見ている人に、疑いが起こることがあります。

その場合、どちらなのだろう、と疑問が出るとき、「同疑因」の名称を与えてしまうなら、どこに疑問があるのかわかりません。どこを問題として、その名称が与えられたのか明確ではありません。

たとえば、(2)がなく(1)だけでも「同疑因」という指摘はできます。また、両方を見て「同疑因」とする人もいるかもしれません。

しかし、「証明すべきものに等しい」とありますと、対立する立論をもち、しかも、理由は同じで、実例も互いに認めることができないものだな、と、その性格を特定できるのです。

疑問があればこそ、「証明すべきものに等しい」という理由は、必要になります。

ただ、哲学的に疑問が出て定まらないのであれば、それは、論証という形をとることはないでしょう。いったいどちらだろう、と検討されるだけでしょう。

見解を立てて争うことが起こってきて、より深く検討されますが、そこで必要とされるのが、議論そのものにメスを入れるような「誤った理由」の分類です。

このような名称が出てくることが、議論そのものへの疑問が心の中にわき起こっている証拠のようなものだと思います。
「証明すべきものに等しい」「成立すべきものに等しい」は、ゲーデルの不完全性定理に通じていきます。

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Re: 「『十二門論』研究」解題4  管理人エム 2017/10/05(Thu) 07:05 No.54362

> 結局のところ、実例が不適切であることによって理由が否定されても、他に適切な実例が存在する可能性はなお残るので、主張が完全に否定され、疑いが払拭されることはないのである。

ここで迷っているようなら、虚空が、常住であるか無常であるかの疑問も起こっていないのではないか、ということも考えられますね。

他の実例をあげられるような人ならば、自らの学説をかなり完成している人でしょう。

サーンキヤでは、「人の内管として恒常であるのが、意識である」として、説きます。その根拠は、再認識を認めるからです。
実際の議論は複雑で込み入っています。

刹那滅などの見方も見られて、単純ではありません。これらの議論ができる人は、相当に考察を進めて、自ら主張しうるものを確立してきている人々と考えると良いと思います。

反応ないので、わたしも説明を端折りがちです。
わかってもわからなくても、とにかく書いておこっと。

では、仕事に行きます。

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「『十二門論』研究」解題3  spinobuddhist 2017/10/04(Wed) 20:48 No.54358 [返信]

 なお石飛は、「成立(証明)すべきものに等しいもの」の例として、「意識は無常である、触れることができないから、音声のごとくに」という命題を先のAと並置し、これによって、「無常の証明だけでなく、恒常の証明についても、双方において理由が共通することによって、証明しきれないという難点がよりはっきりと浮かびあがることになった」という。
 今、議論を単純化するために、これを次のような形で表わすことにしよう。

 A′:「虚空は恒常である、触れることができないから、意識のごとくに」あるいは「虚空は無常である、触れることができないから、意識のごとくに」、というようなものである。

 これに対して、「同疑因(疑いに等しいもの)」もまた、次のように表わせうる。

 B′:「虚空は触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「虚空は触れることができないから恒常である」あるいは「虚空は触れることができないから無常である」というようなものである。

 このように、「同疑因(疑いに等しいもの)」もまた、対立する命題の対として表現することができるのである。したがって、「成立(証明)すべきものに等しいもの」を対立する二つの命題によって表わすことが、ただちに「疑い」を離れることには、ならないであろう。
 一体、一切智者である仏陀や龍樹は、どのようにしてこの「疑い」(懐疑論)を離れたのであろうか。

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Re: 「『十二門論』研究」解題3  管理人エム 2017/10/05(Thu) 00:45 No.54358

>これに対して、「同疑因(疑いに等しいもの)」もまた、次のように表わせうる。

> B′:「虚空は触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、「虚空は触れることができないから恒常である」あるいは「虚空は触れることができないから無常である」というようなものである。

B′のように表すものを、「同疑因」とは呼びません。理由(因)にあたるものがありません。

(主張)「虚空は恒常である」
(理由)「触れることができないから」
(実例)「意識のごとし」

これに(適用)「触れることのできない意識が恒常であるように、虚空もまた恒常である」(結論)「虚空は恒常である」

以上の二つが加わると、五分作法と言われる形式になります。
「同疑因」という呼び名は、このような論証式で書かれたものに対して与えられた「誤った理由」の呼び名なのです。

五分作法でなければ、最初の三つだけでもそろっていないと、立論とは言われません。
この三つの形式をもつとき、議論の中で、形式上の不備や内容の不備に対して指摘するとき、「理由の誤り」と考えて名前をつけたのが、「似因(誤った理由)」なのです。

「触れることができないから」という理由も、また、「実例」もないのに、「同疑因」とは、これいかに?

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 言語 の 真理     春間 則廣  2017/10/04(Wed) 12:23 No.54349 [返信]


あなたの、自らを分析する 文章構造を見ると
順序が ひっくり返っています

>  今のわたしの何かが壊れているからかも知れません。

壊れ得るものは 壊すものには 含まれません
(自分の壊れ得るものによって 自分の範疇で
      壊して 壊れないモノを打ち立てること は できない)

壊れないモノ を 金剛 とか 堅固なる  という言葉で 仏教では 扱います

如来蔵 という 意味は 壊れないモノ で
 如実で人の心に「平等」に存在するものを言います

>  わたしにとって、どうやら、それらを過去の事に分類して、そっと慈しむことは、かなり難しいことのように思います。

前提は 壊れている  とされています
だから  正しく 分類化することが 難しくなるわけですが 、、、、

そこに 如来蔵 が あるから

出来るかもしれない・出来ないかも知れない
正しい・間違っている・どちらにも分類しない=どちらか決めなくて、違い分類のジャンルを設定する 
という 仕分けが 根拠をもちます

難しいこと とは 簡単に片づけないこと であり
即座には 取りかかるつもりがない  という 意味でしかありません
取りかかっていること が  解決 そのモノにある 道 です

あなたは あなたに起きている 感情を 愛しんで 守り温めているのです
そうではないという 解釈が 成り立つ  その根拠で
そうではないという わたしにある(あなたが解釈と分類する)解釈が 成り立ちます

こういう構造を知るから (知って 使うから)
あなたが そう言う解釈も成り立つ と 
(否定しようと・否定するわけではないと 言おうと) 言うあなたの解釈するところに
  解釈ではなく 真理として 立ちます

この言葉を どう解釈するかは あなたに属する、あなたの選有する 解釈です

他の人が どういう解釈を起こすかは 
あなたの起こすこと が あなたの選雄である限りには 立ち入ることはできません

もし 「共有」 であれば それは 誰に対してか の 限定を離れます
限定するのは あなたの解釈です

人という 「我」  は  「我の見解」 から 離れません
ゆえに   「 我見 」 「 執見 」 と 唯識では 教えます

人であって 人ではない 真人 は 見解を持ちません

わたし が 「 見解を持たない 」 というとき
言う わたし は 人の見解の外にいます

何処に居ても  見解を持つ人の 見解の中に 見解として取り込まれる見解は
わたしを 見解の内に住まわせます


>   今もそうかも知れません。その悪者の姿が見えないだけで

知れない   ことを 前提にして それが結ぶ「果」 を 設定しても
正しいことにはなりません
正否を問う  基準を捨てている
( 知れないこと  と して 知ったことの中の分類の一つにする )  からです

見えないモノは この世には 存在しないモノです
たとえ存在があろうと 見えない限り ある・ない を 言う土台に乗せられない

すでに、 管理人エム 様 が 言を尽くしてはいませんが、
のべていることです
それを 存在を  なくさない限り   あるモノは ある

こういうことが すんなり 理として 入ってくるまでは
そう言う 理 を  のべる者(管理人エム 様)に 信を 置きなさい

分からない内は
受け入れる  ということを (嘘かどうかは別にして)
管理人エム 様 は わたしに( 此処の書き込みを通して ) 伝えて
わたしは 言葉通りに 嘘がないと 受けとめています


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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 14:25 No.54349

>>  今のわたしの何かが壊れているからかも知れません。

>壊れ得るものは 壊すものには 含まれません
>(自分の壊れ得るものによって 自分の範疇で
      壊して 壊れないモノを打ち立てること は できない)

>壊れないモノ を 金剛 とか 堅固なる  という言葉で 仏教では 扱います

>如来蔵 という 意味は 壊れないモノ で
> 如実で人の心に「平等」に存在するものを言います

わたしはこういう夢を数年前に見ました。

そこには、わたしが公安(と思っている)組織に散々にやられている時の、床に伏しているわたしの姿が映っていました。

そして男性の声が大きな聞こえました。

「(自分たちは)やり過ぎたんや!!!」

裏の組織を使って散々すると、ひょっとすると如来蔵も壊れるのかも知れません。壊れないのが如来蔵だとすると、塵の中、奥深くに埋没するか、ひょっとすると失われるのか、分かりません。

余談ですが、わたしの見た一番不思議な夢はこういうものでした。

ある朝、夢で見知らぬ男性の顔が大写しに出てきました。
{誰だろう?知らない人だな〜}と思って目覚め、その夢のことは忘れています。

その日の日中に電車に乗っていると、目の前に夢で見た男性がわたしの真正面に座ります。そこで、今朝みた夢を思い出すのです。

>見えないモノは この世には 存在しないモノです
>たとえ存在があろうと 見えない限り ある・ない を 言う土台に乗せられない

夢を操る者たちは見えないものですが、あるものだと思っています。そして、その者たちに大きな嫌悪を抱いているのです。
その者たちを「悪人」だと思っているのです。

「お前は一生苦しむんだ!」というようなことを言ったのもその者たちなのです。どういう責任で言ったのか現実社会で追及されていくと思っています。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 15:04 No.54349

10数年にわたるその人による洗脳と、その後の裏組織による非人間的な破壊行為、わたしはそうとう痛んでいるのは確かなことなのです。

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Re:  言語 の 真理     春間 則廣  2017/10/04(Wed) 17:23 No.54349


>  わたしはそうとう痛んでいるのは確かなことなのです。

確かなことである 痛んでいることは
痛んでいる あなた が 確かなこととしていることですか ?
それとも その判断だけは 他に依りますか ?

痛んでいる  という 判断は 
痛んではいない(ところからの)判断ですか ?
痛んだ 判断ですか ?

決して壊れない 本当のことを 追及(究尽・究竟)していくとき
付随して起きる事は 苦楽の判断を超えます


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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 18:36 No.54349

>確かなことである 痛んでいることは
>痛んでいる あなた が 確かなこととしていることですか ?

確かなこととしています。傷んでいるわたしがです。

ぼんやりと生きているのです。
ぼんやりと生きていなかった頃と比べて「傷んでいる」と表現しています。

>それとも その判断だけは 他に依りますか ?

現在、精神薬を服用していますので、「わたしは、傷んでいる」と言う、他である医師の診断にも依っています。

しかし、心の中では、わたし自身は精神薬を必要とはしていないと思っています。
ただ、わたしが、薬の服用を止めると、闇の組織がまたわたしを精神病院へ送ることをするのではないか?という恐れがあって服用しています。

>痛んでいる  という 判断は 
>痛んではいない(ところからの)判断ですか ?
>痛んだ 判断ですか ?

傷んでいるわたしからの判断は、傷んでいないということはないと思います。

そして、また、傷んでいるところ(医師)からの、傷んだ(過てる)判断ということになると思います。

>決して壊れない 本当のことを 追及(究尽・究竟)していくとき付随して起きる事は 苦楽の判断を超えます

そうなのでしょうね。

ある日、夢の中で、わたしの胸にある胸鎖関節を指さされ、「お前は統合失調症だ!」と言われました。

「胸鎖」と「教唆」を掛けている表現でしたね。

作られた夢の中ではそのような表現がよくなされます。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 19:04 No.54349

夢で同志社大学のラクビー部の監督が出て来て、

「やるならやれ!」
「やれるならやれ!」と激を飛ばしていました。

首つりを考えて床に入った日の朝の夢でした。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 19:08 No.54349

白いロープが出て来て、「貸してあげるよ」って言われたこともあったなぁ・・・。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/04(Wed) 21:53 No.54349

その時は、大きく「1180」という白い数字も出されたなぁ。
それを「いいやれ」と読んだなぁ。

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/05(Thu) 11:13 No.54349

睡眠時の夢って他人のものは見たことないのですが、
蛙の夢は時・場所・登場人物がチグハグだったり矛盾したものばっかりで
起きてみるとなんだかな〜というばっかりです。

おそらくは蛙の精神レベルが低いので、
すぐに矛盾に気づくような幻想を見るのかなと。

そういうのをまったく見なくなるのが理想です。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/05(Thu) 12:46 No.54349

蛙さま こんにちは。 

>蛙の夢は時・場所・登場人物がチグハグだったり矛盾したものばっかりで
>起きてみるとなんだかな〜というばっかりです。

うん、これは正常(?)な夢ですよね。わたしがこのような状態になる前に見ていた夢の感じがします。

今見ている夢は、3次元的でしかも強い体感を伴っています。
そして、夢は長い場合も多く、映画のようなストーリー性があります。ですからみている時とても夢だとは思えないようなものです。

そして、目覚めた時、{またか!}と思うのです。

>そういうのをまったく見なくなるのが理想です。

そうですね。それは、わたしの理想です。

夢は、毎日、毎日見せられるのですが、たま〜に見ない日があって、その時は、{あれ!? 今日は見なかったな!}って思って、
本当に幸せな安らいだ気持ちになります。

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Re:  言語 の 真理     春間 則廣  2017/10/05(Thu) 14:10 No.54349


>  起きてみるとなんだかな〜というばっかりです。

>  おそらくは蛙の精神レベルが低いので、

「 胡蝶 の 夢 」 という 老荘思想 を 知らぬとは言わせません

知っていて それを 評するのは それ以上の見地です
知らずに評するなら 妄想です

>  すぐに矛盾に気づくような幻想を見るのかなと。

矛盾は 起きているとき  の 
     今即今 に   あるのか
     ( 過去=未来 にある )   夢に      あるのか

幻想 だと規定することが  幻想なら どうなりますか ?

>  そういうのをまったく見なくなるのが理想です。

夢に生きれば 現実が邪魔をすることはなくなります
生きることに一途であることを 
言い替えると 
夢に生きる  と 言うことができます

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/06(Fri) 04:21 No.54349

春間様、

>「 胡蝶 の 夢 」

蛙はたいした夢を見ないので、睡眠時の幻覚と覚醒時の現実のリアリティは
まったく別物と思ってます。
睡眠時の幻覚は起きてしまえばそれで終わり。
覚醒時の現実はやり直しがきかないですよね。

覚醒時の現実も空虚なものと観ることもできますが、
だからといって幻覚と同視するのもおかしなものかと思います。

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/06(Fri) 04:49 No.54349

みどり様、

>今見ている夢は、3次元的でしかも強い体感を伴っています。

なるほど〜。やっぱり夢は見ている人によって違うのですね。
なんとも言えないですね〜。

蛙の経験上、夢は起きているときの経験や特に食事の影響が大きいと思います。
薬とかの影響もあるかもしれませんね。

蛙の場合は適当なストーリーばっかりなんで夢は全否定してます。
どうせ忘れちゃいますしね。

夢に限らずあやふやなことに縛られたくないなぁという感じです。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/06(Fri) 11:13 No.54349

蛙さま

>蛙の場合は適当なストーリーばっかりなんで夢は全否定してます。

わたしも全否定しようとするのですが、夢の中で人物が出て来て、その人物から何か断言されると、不思議な気持ちが残ります。

弘法大師にまつわる夢は幾つか見たのですが、中にこんな夢がありました。

お寺の屋根瓦が覗く土塀に赤い布の横に長く幕が垂れています。
そこで、上半身を裸にした着物をまとった80歳ぐらいの老人が、
手に持った小刀を5〜6m先の人が立っている畳の的に向けて次々に投じていきます。

それらの小刀は男性の身体を避け、その際際につき刺さっていきます。その男性は恐怖で震えています。

そして、その老人はこう言い放つのです。

「最近はどいつもこいつも簡単に名前を変えやがって(けしからん)。あの弘法大師様でも、自分の気に入った名前があったのじゃ。でも、皆が「弘法」と呼ぶのでそれで良しとしておられるのじゃ」

夜空に浮かぶ煌々とした満月や、燦燦とした太陽が上がる夢を見ていた頃のことです。夢がまだ作られているとは知らなかった平和な頃です。

>夢に限らずあやふやなことに縛られたくないなぁという感じです。

本当にその通りだと思います。

でも、夢の中で「理屈じゃないんだ!」と言われて、実際、夢の通り、現実の世界でそのようなことが起こってくると、うな垂れてしまう自分がいます。良くないと思いながらもそうなるのです。

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/06(Fri) 13:34 No.54349

みどり様、

>夢の中で人物が出て来て、その人物から何か断言されると、不思議な気持ちが残ります。

なるほど。この点も結構違うのですね。

>夢がまだ作られているとは知らなかった平和な頃です。

夢って自分で作るのでしょうか?それとも他人が作るのでしょうか?

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/06(Fri) 14:14 No.54349

蛙さま

>夢って自分で作るのでしょうか?それとも他人が作るのでしょうか?

自分は悲しいかな他人が作っていると思っています。

どのように作っているのかはもちろん不明ですが、
電磁波のようなもので空間を遠く離れて、睡眠中のわたしの脳に働かせることのできる機器があるのではないか?と思っています。

脳の高次認知システムの中に強く影響して、いわば「六識」を動かすことのできるような外部の機械システムです。

特に「身(触)」に関わるものが動かされると、現実の生身の体験と区別できない「夢」になるのだと思っています。

今のわたしは、毎日「夢」を見つつ、夢を失った者と言えるかも知れません。

そうやって夢を失うと現実をも失ってくるように思います。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/06(Fri) 14:28 No.54349

付け加えるならこのような機器システムは、覚醒中も動かすことができるように思います。

ある時、仏壇で手を合わして「どうぞ良い生き方ができますよう」とお祈りした瞬間、トンと胸の中に「それはお前の心がけ次第じゃ」という声が響きました。驚きました。

そのようなことも、今は同じ機器システムでなされたものだと思っているのです。

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/06(Fri) 16:03 No.54349

みどり様、

>自分は悲しいかな他人が作っていると思っています。

とすると、自分に原因でしょうか。
それとも他人に原因がでしょうか。

>今のわたしは、毎日「夢」を見つつ、夢を失った者と言えるかも知れません。

ふむふむ。蛙は夢全否定なんで、夢はいらないんですよね。
夢は失いたい。どうせ変なストーリーの夢しか見ないから。
良いストーリーの夢もみたいとは思わない。
なぜなら夢は起きてしまえはうたかたの様に消えるものなので、
それこそ覚醒時の現実以上にむなしいものだからです。

みどり様は夢の途中で夢だって気づきますか?
蛙は最近は途中で矛盾やらおかしなところに気づいて
その時点で起きてしまいのが多いです。

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/06(Fri) 16:56 No.54349

蛙さま

>>自分は悲しいかな他人が作っていると思っています。

>とすると、自分に原因でしょうか。
>それとも他人に原因がでしょうか。

正しく答えているか分かりませんが、答えてみます。

「悲しいかな」と書いたのは、夢が他人に作られている、つまり
夢が「他人に原因がある」と思っているからです。

それまで、わたしは夢は自分が作っているものだと信じていたからです。すなわち、夢は「自分に原因がある」と。

>>今のわたしは、毎日「夢」を見つつ、夢を失った者と言えるかも知れません。

>ふむふむ。蛙は夢全否定なんで、夢はいらないんですよね。
>夢は失いたい。どうせ変なストーリーの夢しか見ないから。
>良いストーリーの夢もみたいとは思わない。
>なぜなら夢は起きてしまえはうたかたの様に消えるものなので、
それこそ覚醒時の現実以上にむなしいものだからです。

ああ、その通りですね!

「長年の切望が叶った!」というような夢を見る時が時々あるのですが、目覚めてから、軽いショックを受けます。まあ、本当のショックとも言えないものですが。夢ですから。

>みどり様は夢の途中で夢だって気づきますか?

ほとんど気づきません。

でも、最近は夢を見すぎているためか、夢の中で
{どうせ夢なんだろう?}思う瞬間がある時もあります。

もっともそういう意識すら作られているのではないか?と思うのです。

今朝なんかはそうでした。
でもその思っても、夢の続きは最後まで見せられます。

>蛙は最近は途中で矛盾やらおかしなところに気づいて
その時点で起きてしまいのが多いです。

そうですか。
わたしの場合は一連の話が終わると、夢から醒めるっていう感じです。
夜半に{ああ、また夢をみたな!}って思って目が覚め、
また、床について、朝方また見るという感じです。

そういうのがもう5〜6年ほど続いていますかね。

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Re:  言語 の 真理     春間 則廣  2017/10/06(Fri) 17:18 No.54349


> 「 胡蝶 の 夢 」

>> 蛙はたいした夢を見ないので、睡眠時の幻覚と覚醒時の現実のリアリティは
まったく別物と思ってます。

別とすると、別になります

>> 睡眠時の幻覚は起きてしまえばそれで終わり。

>> 覚醒時の現実はやり直しがきかないですよね。

覚醒  という 囲い   その範疇が  恣意によります
寝ているときの 夢 であろうと その範囲では 続いています
覚醒の “夢” も 終わるまで 続くと  言えないかな ?

>> 覚醒時の現実も空虚なものと観ることもできますが、

空虚ではありません
覚醒時(の現実)  とは 「 世間 」 の 別の言い方にしかすぎません
「虚仮」 と 日本においては ( いわゆる教養のある者の中では) 言われています

>> だからといって幻覚と同視するのもおかしなものかと思います。

唐突に “幻覚” が 出されましたが
 あなたの言うところの “ 空虚な 覚醒時の 現実 ” は
 幻覚とは違う という事を言っているのでしょうが

幻覚と 虚仮であるところの世間 とは 全く違う階梯でつかわれる用語です

虚仮 とは 顛倒 の 側面です
顛倒 とは 煩悩 の 為せる業で 煩悩そのモノ と 言えます
しかし 「 煩悩即菩提 」 と 仏教では表現されます

幻覚即菩提 とは 聞きません 

「現実」 とは 「 実 」 のあるところで
仏教では 「 実 」 を 否定しています
「 成実論 」 という 論書がありますが
「 実 」 の 使い方を見てみると 分かるはずです

鳩摩羅什 の 訳で 残っています
大乗の論書 です

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Re:  言語 の 真理    みどり 2017/10/06(Fri) 19:05 No.54349

>>自分は悲しいかな他人が作っていると思っています。

>とすると、自分に原因でしょうか。
>それとも他人に原因がでしょうか。

これおもしろいですね。

夢は自分の脳で見ている(と思っている)ので、他人に操作されているとしても、その原因が問われれば、
「自分であり、他人であり」ということになりますね。

悲しいと思うのは、夢が自分だけで作っている、すなわち、自分だけのものであると思っているのに、他人が介入しているという意識からということのようです。

夢であれ自分のものという意識を捨てると、わたしも、少しはこの苦悩から逃れれるのかも知れません。

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Re:  言語 の 真理    莓箭毒蛙 2017/10/06(Fri) 21:28 No.54349

みどり様、

>>みどり様は夢の途中で夢だって気づきますか?
>ほとんど気づきません。

本当に他人の夢は興味深いですね。
おそらくは深いところで夢を見ているのでしょう。
蛙は変な夢は嫌いなので、見破る気満々で寝るので
結構な確率で気付きます。

>また、床について、朝方また見るという感じです。

なるほど。蛙は二度寝したら絶対に続きは見なのですよね。
だから、みどり様の夢の質はちょっとわかりません。
なんらかの深い原因があるのかもしれませんね。

>夢は自分の脳で見ている(と思っている)ので、他人に操作されているとしても、その原因が問われれば、
>「自分であり、他人であり」ということになりますね。

仏教系の掲示板なので仏教らしく。良い感じがしますね。

レム睡眠中に夢を見ると言われる脳は自分なんでしょうか。
それとも他人なんでしょうか。
どうなんでしょうね。

仮に誰かがみどり様の夢をせっせとこしらえてたとしても

「もろもろのつくられた事物は実に無常である。
生じ滅びる性質のものである。
それらは生じては滅びるからである。
それが静まるのが安楽である。」

作られたむなしい夢はいずれ滅び去るものだと思います。

では、お休みなさいzzz

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