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仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/08/26(Sun) 06:17 No.55050 [返信]

盆 過 ぎ て 月 夜 の 荒 れ し 独 座 か な

月 照 ら す 嵐 菩 薩 を 捜 し た る
 
残 月 の 嵐 を 送 る 菩 薩 か な

   他所から 転載       春間 則廣  2018/08/24(Fri) 13:53 No.55048 [返信]

再度 請

> ・・・・・・・・・
【主観】と【客観】
【正しい】と【正しくない】
【天動説】と【地動説】
あなたはいつもこのように、二元対立の図式に持っていき
その二元対立の図式が虚妄だということに持っていこうとしているのです。
龍樹のやり方がそうですから。
・・・・・・・・・・ <

龍樹と同じ手法を わたしがとる必要はありません
それは すでに 龍樹が為していること

しかし 龍樹から 学んだことを
わたしの手法で 広めています

学んだのは 手法ではなく
仏法 の “ありよう” ・  “顕われ出るさま”  です

わたしにある仏法 に対して
 龍樹のそれと 
(龍樹が) 照らし合わせてくれた  ことに 
わたしが 立ち会っただけです
( この表現が分かるときに 他力が分かる )

二元対立の図式  などと言うモノは 存在しません
( あなたが 捏造したモノに過ぎません )
仏法 は 二元論 には ない
一元 だから 唯一の真理 だから
  “ 仏=真理を知った者 ” の “ 法=真理 ” と 名付けます

たとえ 真理が二つあろうと
同じこと( の 別の方向からの姿 )であれば、一つです

一つのモノの 別の場所での働きを 照らし合わせて 一つと知る

( もっと言うと 別の場所は 一つのところにある )
( これが “一つの仏国 に ひとりの仏陀”  という意味です )
わたしが住む仏国は 阿弥陀如来
( 量られることなき → アミタ  如来・在りて在る者 → タターガタ ) 
の 西方極楽浄土 です

諸仏は 並び いましても   同じところを 住処 と しない
顛倒の目で見ると 自らの 所有する国に いましおわす と 思う

>  私は、一般論での【正しい】と【正しくない】とはどういうことかを論じているわけではなく
具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ。

具体的な事実 などと言うモノは
論じて 勝論にあるのみ
なんら 具体性の根拠 を 持ってはいない
( 持っているという “思い” に “のみ”  存在する )

具体的な 動かぬ事実を 提示してみてください
( わたしが、動かして見せますが
    あなたどう受けとめるかは あなた次第 )

( あなたによって     わたしのソレから
   変わる 具体的な事実  それこそ 動く事実  です )

動かなければ 論じるあなたに “カチ” が 起きる
( 動いても 受け入れなければ カチを手にしたと “勝”手に思い 価値を与える )


> ジャンヌ・ダルクが民衆を扇動してイギリス人を殺せ殺せと言ったことであなたはジャンヌ・ダルクが魔女とされても仕方ないという感情を持っているのではないですか?

そのようなことはありませんが( そうは思いませんが )
人は 殺し合うことでは 天国に入ることは適わない 、、、、
と おしえられて 信仰にあり
教えを 広めようとする 道 に ある

> そのような歴史上の具体例に関しての考えを聞きたかったのですが、いつものように延々と【正しい】【正しくない】の構図の虚妄性の問題に持って行ってしまうので、会話が深まらないのです。

あなたが 自分の思うように
論を運びたいから
そこに乗らないわたしを 非難するのです

あなたに正しさが あるように わたしにもある
( 論の数があるだけ 正論がある 、、、、  あるから  論争する )

そういうことを 仏教では 「 平等 」 という 概念で 理解します

思うように こと   を運びたい
      そのこと  を 欲(望)・煩悩・トリシュナー と 呼びます

もし ジャンヌダルク が 麻原 が 悪用した 「 ポア 」 という 概念を 深く知るなら
不死( 「永遠」 )の世界 では 命の限りはありません
民衆を 焚き付けていたのではありません
( 奮い立たせて  「 永遠 」  への 道を  “煽動” = 先導 していたのです  )

それを知ることが出来るのは  「 永遠 」  と 「 平等 」 を 知る者のみ

知らないからといって 罪にあるのではなく
罪は 知らぬことに 知った(と思いすごす)事を被せて 運用するところにあります

罪を知らぬ者を 無実の者とします
お前には罪がある  といわれても  罪があるとは承認できない

反対に
無実といわれても
自らに罪を見つめる者は
罪人であると 照顧 します
( 照顧して 見るから 罪人であっても 対処して 以後の 無実を こい願う )


「 あなたは 考えが 足りない 」 と言われても
言われたことを 足りない頭で考える と 
足りていると  思い
指摘する お前 は 間違いにある   と する 


    どこかに当てはまりませんか ?


> ジャンヌ・ダルクに関して、あなたがどう思っているかを聞かせてください。

もし 聞きたいのであれば
あなたの立場を はっきり表明して
それに対しての 意見を求めなさい
ただし
意見を  “請う” のだから
得られないからと言って 文句を言う立場にはない

イソップ にあります 
高所にある葡萄にとどかないから
キツネは スッパイ と 決めて 納得する


それでもなお
意見を求めるなら
再度 請いなさい


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Re:    他所から 転載      管理人エム 2018/08/25(Sat) 06:41 No.55048

>あなたはいつもこのように、二元対立の図式に持っていき
>その二元対立の図式が虚妄だということに持っていこうとしているのです。
> 龍樹のやり方がそうですから。

龍樹のやり方って、そうなのか。
どうも、世間では、そう見ているのじゃないかと思っていたところもありますが、

やはり、そう見る人は、そう見るのですね。

二元対立かぁ、そう見えるんだなあ。
そう言われると、そう見えるような気もしてきますね。それ以上考えなくてもいいからね。

いたしかゆし、龍樹のやり方。

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仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/08/24(Fri) 06:33 No.55047 [返信]

来 処 無 く 去 処 無 き 雲 や 初 嵐

無 花 果 を 鴉 の 擲 げ し 施 餓 鬼 か な

立 秋 や 茜 の 影 の 山 落 ち ぬ

来 処 無 く 去 処 無 き 雲 や 送 り 盆

   他所から 転載     春間 則廣  2018/08/21(Tue) 09:42 No.55033 [返信]

>>8430

No.8430

私が言っている『観念』というの…      2018/08/14 21:50

>  >>No. 8428

>  私が言っている『観念』というのは、『人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。』のことです。
そして『観念論』と言っているのは『頭の中で組み立てた考え』『表象の組み合わせで出来た考え』のことです。

この事(この言及 こそ)は 観念論ではない
  と
どう明かしますか ?

誰かの 言及    では なく
あなたの言及    として 
あなたによる根拠  を 立てて   語ってください

>   表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。
>   つまり非我であるものです。

仏教でどうあろうと、わたしには関係がないのではありませんか ?
( わたしに仏教がありますか ? )
翻って、
仏教にどうあろうと、 あなたに どうあるか  は
別の階梯で 成り立ち得ます

言葉を発する あなたが 非我 なら
言葉を受ける わたしも 非我 に 住処を置かざるを得ない
そうでなければ あなたは  「 有 」 我  です

これこそ非我でなくて どうしますか ?

>  また、四念処観の身・受・心・法の法です。
>   眼耳鼻舌身意の対象は色声香味触法ですが、その、意識の対象たる法です。

この綴られた文章は  意識の表象  では ありません    か
( これを言おうと  あなたは 理解したくない 、、、、 )


>   五蘊は非我であり、五蘊の一つ『想』=観念・表象をいかに積み上げても自我を構成するだけです。

五蘊  が  「 我 」 であるから
「我」  が  「非我」  です

我   が  非我 ではないから
非我  が   説かれます

我は 我か 非我 か  はっきりさせてください


>  さて、仏教者のほとんどすべてが、仏教とは無我の教えで、すべての存在は縁起によって生じているので自性がない、実体がない、空である、無我である、というのが仏教の根本だと思っています。
>   車は車輪やハンドルや様々な部品によって組み立てられているもので、車という実体はない、空である、車という名前だけのものである、と言います。

部品 こそ  「我」  です
「我」 は 常に 部品に 投影されて 「我」 を 形成する

「我」  こそ  実体です ( 我が非我なら 非我は 実体です )

>  これを本気で考察したことがありますか?

あなたの “ 本気 ” は  本気で考えられていると
本気で言えますか ?

>  そしてその結果自我がなくなり空になりましたか?

あなたは 本気にあり 、
       自我がなくなり 、
         空にある  のですか ?

それは  誰 に どう  分かりますか

あなただけなら、確かめようはない 、、、、

      「  唯仏与仏 乃能究尽 」


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Re:    他所から 転載     春間 則廣  2018/08/21(Tue) 13:26 No.55033


8639(最新)

mame_maruha
8月21日 13:23


>>8637



> 私は強固な自我があると言っているのです

強固な自我で語るのは
止めてください

止められないのなら
自我を認めて
あなたにあるように 人にもあることを 享受するのです

あなたにだけ は 自我(の行使)は 許されているのですか ?

そうでもよいけれど(そうするのは あなたの裁量ですが)
それでは 「 人は平等にある 」 ということから
        外れませんか ?

自我 というモノは 自我にあるときには
決して見えません
見ること自体が 自我によるからです

これは( このわたしの述べるところ は )
 正しいことで、否定できない構造にあります

わたしに自我が見えていれば
わたしはそれに 対処し得る

わたしがどのように対処していても
自我にあるモノには 自我しか見いだせない

こういう構造は 理解できますか ?

わたしは 菩薩ではありません
悟りも得てはいません

しかし
わたしの言( 菩薩・悟り に ない )が 正しくなくとも
わたしの言うことの意味は
決して変わらないのです

” たとえ  得ていようとも  あなたにそれが 分からない ”

( 存在が )分からないモノを ないモノと分類します

わたしの述べる内容は 存在しないから 分かる理にない



こういう構造を知ると「 理 」 を 知ることになる



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Re:    他所から 転載     春間 則廣  2018/08/22(Wed) 06:03 No.55033


168(最新)

mame_maruha
8月22日 06:00



永遠の未稿  永遠のキョウガイ


仏陀は人である なら 人である仏陀はいる
  ( と 人は知ることが出来る )

人ではない仏陀が いない なら 仏陀は人ではない
人で ある仏陀が いない なら 仏陀は人ではない
人で ある仏陀が 人である

全てを知っているかどうかを 知ることはない
全ては 知ることによって 構成されている
いつ知るか ということは 知ることの問題ではない
知るまでは 知ってはいないことは 存在していない(知らない)

知らないことがあるかどうかは
 知ろうとする時の重要な動機である
知らないことを知ろうとするまでは
 知ろうとすることは 起きてこない


なぜ そのような動機を起こすかは
人によりけり
動機によりけり

起きるまでは そういう動機が起きる とは 知らない

予感 も 認識である

触れたと感じることによって
知ること(対象) に 触れ(られ)ている
( 触れられていても、触れている  と  思う → 意識に挙げる )
知られることは 意志を持つがごとく 、、、、
          ( 持たぬがごとく 、、、、 )


全てを 網羅しなくとも 判断を起こす 妨げとはならない
判断は
 知ること( 認識できること )に 対して起きるモノ
判断は
 常に 知ること全てで 為されているが
知ることは 知らぬことが起きる時に 存在を変える
   ( 知らなかったことが起きている )

起きているかどうかは 判断によって 決められるが
判断は 能力の範囲で 行われる

知っていることを 順に当てはめていくが 知らぬところには 入ることはない
入るときに 知ること となる

しからば 境界は 何処に 引くこと(設置) が
      可能(適う)か 
入るまでは 入ってはいない
入るとき は 認識可能領域 に あるや否や

その 時    は  いつも
  「 永遠 」 に 住処を構えている
境界を知る者は  「 永遠 」 を 知る



人である  仏陀
人ではない 仏陀

知ることは人にある
知ることは人にはない

全てを知る者を仏陀という 
全て知るまでは 仏陀ではない
  ( 全てを知らぬものは仏陀ではない )

( 人は 知っているすべてを 知っている → 全て知る )

全てとは何かを 知る

全ては 人にはない  → あるものが 全て である
( ないモノは 存在しない )
( 存在は 認識されるとき 存在するとされる )

人にはないと知ることは人にある
  →  人ではない仏陀を知る
人にはないと知ることは人にはない
  → 人ではない仏陀にある


仏陀  は  人であるや否や



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Re:    他所から 転載     春間 則廣  2018/08/22(Wed) 08:02 No.55033


8665(最新)

mame_maruha
8月22日 08:00



分かるということは 一つ ずつ(づつ) 起きます

起きて、 そして ( 順を起こし ) 分かった事 という
一つに組み込まれ
分かった事   という 
全体を 更改します ( そこに順はない )

分かっていることには 順序は存在していないのです 、、、、

分かっている事 は  「自性」 を もって
 一つ   で      確立しています
( その “自性” は 深くあなたに根付いています 、、、、 )

自性にあるから
 自性を否定 する  ( ことが出来、そうするとき )
   分かることが 起きてきます

新しき 分かった事が そこに起きます

起きるまでは
全て は    分かった事  で  できている

分かる事が起きる時にのみ
分からない事が 「 同時 」 に 起きている

その “同時” を 「 機 」 と 言います

同時に同所に起きているから、どちらかを 独立して区分できない
( 区分できることが、  分かった事になる “機” にある )

こういうことが
分からないと  “ 分かった気でいられる ”

分かるということは
分からないと分かること  をも(!)  含む


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全てのかつての天子、転生菩薩達に捧ぐ  spinobuddhist 2018/08/13(Mon) 00:25 No.55032 [返信]

夏 の 朝 子 供 が 子 供 だ っ た 頃

遠 き 友 天 子 の 遊 戯(ゆ げ)も 夏 陽 奥

山 暮 れ て 祭 り に 遠 き 菩 薩 か な

夏 日 落 ち 菩 薩 風 呂 焚 く 山 棲 ま い

今 生 を 一 日 に 夏 の 日 暮 か な

夏 の 宵 子 供 が 子 供 だ っ た 頃

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/08/12(Sun) 01:09 No.55031 [返信]

夏 雲 の 旅 誘 い た る 日 暮 か な

無 所 有 処 に 雲 暮 れ 沈 む 晩 夏 か な

仏陀の道の端で  spinobuddhist 2018/08/11(Sat) 07:00 No.55028 [返信]

夏 の 朝 汁 と 豆 腐 と ゴ ル ト ベ ル ク

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