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ヒーナヤーナ に  「 縁起 」 は 起きない    春間 則廣  2019/09/07(Sat) 23:33 No.55495 [返信]


管理人エム 様 は このこと(以下)を 理解しますか ?

あなたの 今の
率直な 考えを 披露してほしい

***********

>  このことから考えますと、釈尊が言いたかったのは

思うことは 自らの揀択に沿って
自らの正しさを 指針として 正しいこととされます

積み上げたことが “無明に起きている”  と 知ることがなければ
思いは 独善に過ぎません
無明に起きている  と知るのなら それは 先には必ず 否定されます
問題は 現在という 架空のことに 縛られている(こだわりを持つ)ということです

先になって 否定して 正しいこととなることも
その先には 必ず否定されます


後先があるうちは  「 縁起 」 が ある


>  『私のこの老いて朽ちて腐敗する肉体を見ても何にもならない。わたしは、肉体ではないのだよ。私が説いた法が私なのだから、

わたし という存在は  新たなる私  に 観察されて その存在性を 確かめられます(認識されます)
存在とは  認識の寄せ集めです ( ここを納得できない )

説かれた法は 聞かれ方によって 聞いた者の法 となります
あくまでも 聞者の理解による 法  です

事物でさえ その存在性に理由を持ち
その理由に沿って 存在が決められます ( 理由のない存在はない )

理由が存在である  とは  どうしても 理解されがたい

しかし、 「 説いた法が私なのだ 」 と 、
 説かれた法 が 釈迦牟尼なのです

>  私の説いた法を見るものは私を見るのだよ。』 と言うことのように思えます。

観音 以外には 説いた法を( 音 ) を 見る者はいない
( 観音 とは 菩薩のことです  → 菩薩を 勝手に定義すると 観音は 定義できない )

思える から 正しいとするのは 当たり前のことです
当たり前ではないと 思えるから 正しくないと思うわけです

それは 正しさを知らない者の 判断  に 過ぎません
( 正しさを知らんない者を 誤った認識の者 と 言います )

これは 正しいことですか ?
それとも 誤っていますか ?


>  この場合の【法】とは、釈尊が今まで説いてきた法すべてを表わすように思えます。

すべてかどうかは
すべてに当たらなければ分からない

一つ一つのことを 法として 一つ一つ 説いた
その一つ を 正しく受け止めているのなら
全ての法が 内含 されている と 分かる


説いた存在の その生きざまが 一つの説かれたこと を 支えている


ほとんど知った  ということは
未だ知らないことがある ということです

「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」  という 大乗の 「信心銘」 があります
( 道元が 普勧坐禅儀 に 引用している言葉です )

( 同じく 「 至道無難唯嫌揀択 」 という 教えもあります )

梯子を下りる時
最後の一段を踏み外せば 落ちます
ほとんど 着地点に近いから 落ちても 正しく降りたのと 同じこと ?
( 降りる を  「 縁起 」 で知れば 昇る となります )

最後の一段は 天地を 隔てている

こういうことを
釈迦牟尼は 教えています

小乗では 決して 成道できません
小乗による ブッダ は 出現してはいないのです

大乗が 優れていて 劣った小乗があるのではなく
誤った・顛倒に発する  修行らしきことを重ねるから 成道できない
故に ( 自分という個我の 道にある 成道を目指す )小乗 です

ヒーナ ということは  「 縁起 」  には起きないことです
真理においてのみ 起きることです




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Re: ヒーナヤーナ に  「 縁起 」 は 起きない   管理人エム 2019/09/08(Sun) 09:23 No.55495


>管理人エム 様 は このこと(以下)を 理解しますか ?

検討してみます。

>>  このことから考えますと、釈尊が言いたかったのは

>思うことは 自らの揀択に沿って
>自らの正しさを 指針として 正しいこととされます

確かに、それは言えます。
だから、わたしは「釈尊が言いたかったとわたしが思うのは」と理解しました。
後から、違うことを思いついたとき加えられるように。
また、書いてはいませんが、「現時点では」というのは文脈上とりうるかなと。
「このことから考える」とありますので、このような前提のもとでの考えだと思うからです。


>>  『私のこの老いて朽ちて腐敗する肉体を見ても何にもならない。わたしは、肉体ではないのだよ。私が説いた法が私なのだから、

>存在とは  認識の寄せ集めです ( ここを納得できない )

なるほど、おっしゃるとおりではありますね。なので、ブッダも、ヴァッカリに、「わたし」を「五蘊」として教え、それが無常であることを見るようにいいます。「五蘊」は即法ですから、「わたしを見る者は法を見る」が、そのまま実践できてしまうというわけです。すごいですよね。「わたしが説いた法」と「今、わたしが説いている法」と、みんな入っています。

>説かれた法は 聞かれ方によって 聞いた者の法 となります
>あくまでも 聞者の理解による 法  です

ここも、おっしゃるとおりです。受けとめる人の器によって、法は器を持ちますね。でも、その器が、そもそも空ですね。聞者の理解が深まれば、どんどん法は器を大きくしていきます。


>しかし、 「 説いた法が私なのだ 」 と 、
> 説かれた法 が 釈迦牟尼なのです

大地に降りそそぐ大量の雨は、大地を潤しますが、その恩恵に預かる草木は、それぞれの特性にあわせて慈雨を受け取り生長します。(「薬草喩品」)

受け取るものは、みなそれぞれに満足しつつ受け取ることのできる分だけ受け取ります。
それに対して、ブッダは何も言わない。もし、我欲があれば。。と考えると、おのずとブッダの器の計り知れないことが分かります。

>>  私の説いた法を見るものは私を見るのだよ。』 と言うことのように思えます。

>観音 以外には 説いた法を( 音 ) を 見る者はいない
>( 観音 とは 菩薩のことです  → 菩薩を 勝手に定義すると 観音は 定義できない )

アヴァローキタ・スヴァラ(音を観る)のは、菩薩である、か。なるほどぉ、たしかに。深いですね。
(でも、書いたらそのまんまにすぎないですが)

こういうところで、感じ入るか、あるいは、語呂合わせのギャグとするか、いろいろ分かれそうです。
道場での「仏道トーテミズム」と似たような感じですね。
「音を観るって、何それ、仏道ギャグ?」とか言われそうな気もするけど。まあ、いいか(笑) 

「法を見る(ダンマン パッサティ)」

このパッサティということばは、後に用いられなくなって、サンスクリット語の文献が多くなると、語根ドリシュの語にとって代わられていくとありました。
ヴィパシュヤナー(ヴィパッサナー)も、ヴィダルシャナーと言い換えられていくのだそうですが、この語根パシュで言われる「見る」のいみは、どことなく透明感がありますね。
「ただ見る」という感じで、仏教的な感じがあります。それに比べると、語根ドリシュの方は、「ダルシャナ(学問)」とか「ドリシュティ(見解)」とか、重たい絡みつくような感覚があります。

「空」を知るなら、ことばで言われたものを気にしない。しかし、「我」のある人は、ことばで言われることを気にしないではいられない。このことが、どこまで空を得ているか、そこを計るものさしになるかもしれない。

>これは 正しいことですか ?
>それとも 誤っていますか ?

正しいかどうかで計らないので、分かりません。善いか善くないかで判断します。
善い善くないですと、「この時点でどうか」が言えるように思うからです。


>>  この場合の【法】とは、釈尊が今まで説いてきた法すべてを表わすように思えます。

>すべてかどうかは
>すべてに当たらなければ分からない

確かにそうですが、ここは、私たちの限界を考えると、現実的な答だと思います。
「釈尊が今まで説いてきた法すべて」は、これまでの人たちが受け取った最高水準までをいっているととらえられます。仏道を歩んだ、数々の比丘たち・菩薩たち・仏たちが教え示してくれるもの一切と受けとめて善いと思います。

自分が受け取った枠で考えなくても良いのではないかと思います。

そうなると、演繹的な観点もでてきます。これまで受け取ったもの、今受け取っているもの、将来受け取ることになるもの、それら一切を「法」の一つに込めることはできるかと思います。

宝ですね。仏宝、法宝、僧宝と、三つもあって、ほんと善かったわ。


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Re: ヒーナヤーナ に  「 縁起 」 は 起きない    春間 則廣  2019/09/08(Sun) 10:11 No.55495


今回は ずいぶん 出来が良いように “思います”

十分に 睡眠が とれているのかな ?

私事ですが
今朝は 3時半 まで 眠れませんでした

睡眠不足の 混迷の頭で 書き込んだわけです

そういうことで ( わたしの 商量である )
あなたに対する “ 商量 ” は 割り引いてください


うまく 55504 と 55495 を 纏めましたね


思考の複雑さを 解明するには
同じ音の 別の意味を 知らなければなりません
語を使う人は 通常 一語に 一義を当てはめるように
ききてに ( 暗黙の裡に ) 要請して・強制しているのです
それは 語句 だけではなく
意味にも 同じように 働いています

親鸞や道元でさえ 天然に 頼っています

それを ( 深く考察して ) 知った上・ 知り得た範囲で
そこを 包含する 技術が あるのです
しかし それを知るには
 「 縁起 」 に 触れている必要があります

( こう記述すると 思いあがっていると 受け止められます 、、、、 )


わたしにとって 幸いなること  は
 「 縁起 」  が あなたにあり、 わたしが あなたを見る
ということです

あなたは 天然では 技巧を凝らさなくとも それが出来ます
問題は 技巧に入ると 習熟していない  ということです

幸いは 習熟してはいないところに起きるのではなく  あなたに起きている



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Re: ヒーナヤーナ に  「 縁起 」 は 起きない    春間 則廣  2019/09/10(Tue) 06:50 No.55495


>>      しかし、 「 説いた法が私なのだ 」 と 、
>>       説かれた法 が 釈迦牟尼なのです

>   大地に降りそそぐ大量の雨は、大地を潤しますが、その恩恵に預かる草木は、それぞれの特性にあわせて慈雨を受け取り生長します。(「薬草喩品」)

雨 と 太陽の光は 平等に すべての人にある

この光  から 無量光 が起きています
マハー 毘盧遮那 も 起きます

法華経の確立した 時期に於いては ( 歴史的解釈に沿って )
「 法雲 」 を 記述の主体としています
密教(典)では 遍く照らし出す 「 遍照金剛 」 を  「 平等 」 の 法幢 とします
そのような 聞き方ができる時
「 法華経 」 の (内含する) 密教に 出会っています

>   受け取るものは、みなそれぞれに満足しつつ受け取ることのできる分だけ受け取ります。

その “満足” は 受け取るモノの 生 を 運ぶのに 必要( 最小限で最大限 ) の
  “ 量 ”  を もたらします

その “ 量 ” が 受け取る 人( 人の生を起こしている 思慮 )が
“ 商量 ” を 起こしています

最小限 か 最大限か は  “ 商量 ” に 起きます

「 無量 」 を 量ることはできないが 
人が受け取る時には その手の広さに応じた “ 量 ” を もってして 受け取る
( 孫悟空が キントンウン に 乗ろうと 如来の 無量の手からは 飛び出すことが適わない ) 
( 「 西遊記 」 は  玄奘三蔵 の 修行を
  下敷きにして   当時の人 = それを読む人 に 説かれているのです )
( そういうことについて 以前 「 日記 」 に訪れている  ”?“ は 声を “ 大きく ” しています )
(  ”?“  に 思い当たりますか ?  )

>   それに対して、ブッダは何も言わない。もし、我欲があれば。。と考えると、おのずとブッダの器の計り知れないことが分かります。

言っていても 聞かなければ そこに言われていると 知ることはない( 聞くことはない )

器が 計り知れない ということが  出来ないはずの “ 量り ・ ブッダの計り ” です

“ 計り知れない ” ことを 記述によって 量り 料(量)簡 とすることは 出来ない

できないことを してしまうことが出来るから
 無量の可能性 に ある( する・生きる )わけです

> > すべてかどうかは
> > すべてに当たらなければ分からない

>  確かにそうですが、ここは、私たちの限界を考えると、現実的な答だと思います。

現実 ・ 本当のありのままの姿 ・ 根本  を 認めないのは 「 無我 」 であるからです
『 只管打坐 』 が そこに 坐している

「 出定 」 して さらなる 「 定 」 にあり
行住坐臥 に 「 禅 」 にある

あなた は 「 無量 」 の 「 無漏 」 に ある

そういうことを
空海 は 唐で ( 世間的に )確立し 最澄に 「 共建法幢 」 と 説く

(  商量  ではなく  テキ量  です チャクチャク=テキテキ と 受け継ぐ 血脈 です )

一端  ハシ を作り  他岸へと 戻ります


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わたしを見るものは縁起を見るのかな?  管理人エム 2019/09/07(Sat) 18:18 No.55489 [返信]

通り雨さま こんばんは。
遅くなってすみません。ご質問いただきながら、すっかり遅くなりました。

まだ、検討不足な感じもありますが、とりあえず、書いてみます。

> >わたしを見るものは縁起を見る

>釈尊の言葉に『わたしを見るものは縁起を見る』という言葉はないように思います。これは、石飛先生にお聞きしたいですが。

>【法を見るものは私を見る】

ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだよ。
というのは、ヴァッカリよ、法を見ている者は、わたしを見るのであり、わたしを見ている者は、法を見るのだから。」   (「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87)

ここですね。

>【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】

縁起を見る者は、法(真理)を見る。法を見る者は、縁起を見る。
               (「象跡喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第28経)

このことばは、サーリプッタ尊者が、ブッダのことばとして語るものですね。ちょっと、今、忘れてしまったのですが、サーリプッタの語るここは、非常に難しかったと思います。

>この2つの言葉はありますが、それぞれ別の仏典にあります。

おっしゃるとおりです。お釈迦さまは、病のヴァッカリに、「ほんとに眼の前にいるわたしを見ているということは、法を見ることになるし、(わたしに会えなくても)法を見ているときはわたしを見るのだよ」と教えているからです。法とブッダは一つものであることをこんこんと諭して、五蘊の無常を説いて、覚りに向かわせます。(ひとりで感動!)

>そして、これが最も大事なことですが
>【法を見るものは私を見る】の言葉の中の【法】と
>【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】の中の【法】とは指し示すものが違います。

サーリプッタのことばを精査しないとダメですね。ブッダ抜きで法と縁起との関係なので、けっこうややこしいことを言っていますね。

>ですから、この2つをくっつけて
>『わたしを見るものは縁起を見る』
>と言う言葉を作るのは間違いではないでしょうか。

うむむ、「わたし」はブッダのことですよね。「如来が出ても出なくても、縁起は定まっている」という意味のことを述べているので、「縁起を見るものは、わたしを見る」は言えないですね。微妙ですねぇ。経典をあげると、

「『<生まれること>に縁って <老いること・死ぬこと>がある』というのは、如来が出現してもしなくても、『定まっていること』なのであって、その領域は、『法(きまり)として住立していること』であり、『法として決定していること』であって『これを縁とすること』なのです。」(『サンユッタ・ニカーヤ』12.20)

とあるのですが、ここで考えると、「わたしを見るものは縁起を見る」は、成り立つ可能性がゼロというわけでもないです。
しかし、あえてこういう必然性があるでしょうか。
もし成り立つとなると、「わたし」は誰でも良いかもしれない、な。。。衆生であれば、誰を指してもよく、しかも、その人が自分を「わたし」と言わなければなりません。

あえて自分を「わたし」と言い、このわたしを見るものは縁起を見るのだ、といわねばならない状況が思い浮かびません。自分が死の床にあるとき、他の人に向かって言うのかしら?? ブッダのように常に縁起の理法に沿っているということでしょうか。でもねぇ、「縁起」だけですものね。「法」という観点がないと、うーん、意味として何か足りない感じがしますね。

それなら、いっそ「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」の方がいいですね。これなら、分かる。法から見ても、縁起から見ても成り立つし、ブッダの存在に関わらないところが、仏道の広がりを思わせます。

>(『わたしを見るものは縁起を見る』と言う言葉がパーリ仏典にあるならご指摘ください)

わたしには見つかりませんでした。
やっぱり、仏典のことばは練られていますね。似たようなことを言っても、全然違いますね。

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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  管理人エム 2019/09/07(Sat) 18:36 No.55489

「わたしを見るものは法を見る」の続きです。

『如是語』という経典の中に、こんなお釈迦さまのことばがあります。


比丘たちよ、もし、ある比丘が、(わたしの)大衣の端を捉えて、後から後から付き従い、その足(跡)の上に足を置いているとしても、かれが、諸欲において貪っていて、はげしい貪欲があり、怒りの心があり、憎悪の思惟をもち、気づきを忘れ、正しく意識することのないものであり、禅定にないものであり、散乱した心のものであり、感覚器官の制御されていないものであるなら、じつに、かれはわたしから遠くにあり、わたしもまたかれから遠くにあります。それはどうしてか? 比丘たちよ、かの比丘は、法を見ないからである。法を見ていない者は、わたしを見ないのである。

比丘たちよ、百ヨージャナ(離れた)のところに、かの比丘が住むとしても、かれが、諸欲において貪らず、はげしい貪欲がなく、怒りの心なく、憎悪の思惟をせず、気づきが現前しており、正しく意識しており、禅定にあって、心が一点にあり、感覚器官が制御されているなら、じつに、かれはわたしの近くにいるし、わたしもまた、かれの近くにいる。それは、どうしてか? なぜなら、比丘たちよ、かの比丘は法を見るからである。法を見ている者は、わたしを見るのである。             (『如是語』92)


ヴァッカリの経典とも関連するのですが、「法を見ている」「法を見ていない」というように、現在分詞の形が出て来るのが、ミソで、現在進行形であると、グッとお釈迦さまとの距離が縮まる感じがしますね。

「わたし」というお釈迦さまの存在を見ることになる、と説いて、たとえ、お釈迦さまが亡くなっていても、法を(現に)見ている者は、お釈迦さまを見るのだ、と人々に語りかけているように思われます。

また、仏像でも良いから、ブッダを見ている者は、法を見ることになる、というのもなかなか良いです。それは、縁起を見る人もいるかもしれないし、中道を見る人もいるかもしれない、また、諸法実相や空を観る人もいるかもしれません。

いやあ、深いですね。仏典のことばは考えれば考えるほど、深く知るようになっています。



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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?   春間 則廣  2019/09/07(Sat) 19:02 No.55489


>  しかし、あえてこういう必然性があるでしょうか。

ないのです

>  もし成り立つとなると、「わたし」は誰でも良いかもしれない、な。。。衆生であれば、誰を指してもよく、

衆生ではなくとも
如来( ブッダは 自らを タターガタ と 言います )   であろうとも

その者が 語る と   聞く者がいれば
  ( 語る者も 自らの言葉を 聞いています )
  ( 語る者が 自我であれば 自我は自我を見つめることや 聞くことは 出来ません )
その者 は 自らを “わたし” と 呼びます

>  しかも、その人が自分を「わたし」と言わなければなりません。

言わずもがな  です
自分のことを わたし  と 言うことが 自分に起きているから
他人がいう時にも 他人のことだと知ります

しかし 仏教では  「 平等 」  を 説きます
 「 平等 」  とは 違う個体間の同一性を いうことと受け取られますが
仏教では二元を 戒めます
「 自他不二 」 だから   「 平等 」 です

ここが分からなければ  「 平等 」  は 分からない
他を 身に引き当てて 重ねて 同じだとする
これは 同一宇宙での 「 対称 」 です ( あらゆる交換様相に関して普遍に ぴったり重なる ) 
( この場合 宇宙 は  「 世間 」 と 「 出世間 」 とを 含みます )
( 上下・左右 の対称 という 点対称や回転対称 ではなく )

ある人にとって 1必要なことが 他では 8必要 である時
1と8 とは 対称で  「 平等 」 です
( 多寡 = 嵩 は  「 縁起 」 におきるのです )

わたしに必要なことが
貴方にも必要なのは対称なこととして  「 平等 」 にあります
1と8 とは 同じではありませんが
何に その嵩が起きるかということにおいて  「 平等 」 が 起きます

「 自他不二 」  と “わたし” について 理解できましたか ?


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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  通り雨 2019/09/07(Sat) 19:27 No.55489

石飛道子先生、こんばんは。
お忙しいのに、ご返信、本当にありがとうございます。


【法を見るものは私を見る】ですが、先生の訳による次の場面に出てきますね。

※※※
「尊師よ、わたしは、長い間、尊師にお目にかかるために出かけたいと思っていました。が、わたしの身体には、尊師にお目にかかるために出かけるだけの体力はありません」

「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
※※※


このことから考えますと、釈尊が言いたかったのは
『私のこの老いて朽ちて腐敗する肉体を見ても何にもならない。わたしは、肉体ではないのだよ。私が説いた法が私なのだから、私の説いた法を見るものは私を見るのだよ。』
と言うことのように思えます。
この場合の【法】とは、釈尊が今まで説いてきた法すべてを表わすように思えます。


対して、象跡喩経の方ですが、
この仏典において、象の足跡と喩えられているのは、四諦の法だと思います。
四諦の法が象の足跡で、他のすべての動物の足跡つまり他のすべての法を包含するくらいに大きいと言われているように思います。
そして、『縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る。』というのは最後のまとめのような箇所です。

とすると、ここでいう【法】は四諦の法、【縁起】は十二縁起、だと思えるのです。
四諦の集諦は十二縁起の順観、滅諦は十二縁起の逆観ですし、
十二縁起は四諦の法を理解する鍵だと思いますので
『十二縁起を理解するものは四諦の法を理解する』という具体的なことではないかと思うのです。

大乗仏教では、この言葉だけが独り歩きしています。
【法】は、【真理】という抽象語とされ、
【縁起】は【あらゆる存在が相依性によって成り立っていて空】という意味合いに捉えられています。

しかし、象跡喩経の内容からすると、どうしてもこの場合の【法】は四諦の法のことだと思われるのです。

素人の想像に過ぎないかもしれませんが。

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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  通り雨 2019/09/07(Sat) 19:36 No.55489

石飛先生、ありがとうございます。

『如是語』という経典、知りませんでした。


☆☆☆
「わたし」というお釈迦さまの存在を見ることになる、と説いて、たとえ、お釈迦さまが亡くなっていても、法を(現に)見ている者は、お釈迦さまを見るのだ、と人々に語りかけているように思われます。
☆☆☆

この、先生のお言葉はまさしく、その通りだと思います。
他の経典に照らし合わすと、より、本当の意味合いが浮かび上がる気がします。

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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  管理人エム 2019/09/07(Sat) 21:43 No.55489

通り雨さま さっそくご返信ありがとうございます。

検討不足の「象跡喩経」について、詳しく書いていただいて、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。

四聖諦が象の足跡ですね。
これを法として、縁起は「十二支縁起」ととらえたのですね。なるほど、四聖諦の中にしっかり縁起は入っていますし、苦しみを抜くためには、十二支縁起にいくなら確実です。

十二支縁起と四聖諦は、まとめ方が異なるだけで、内容的には同じですから、おっしゃるとおりだと思います。ただ、この他の法が入らないわけではないとも思います。四聖諦の中には八正道がありますし、これは中道ですから、中道も法に入り、中道がはいれば空も入ってきて、仏法全体がまとまっていくような感じがあります。


>大乗仏教では、この言葉だけが独り歩きしています。
>【法】は、【真理】という抽象語とされ、
>【縁起】は【あらゆる存在が相依性によって成り立っていて空】という意味合いに捉えられています。

こうなると、かなりルーズでいい加減な感じが漂いますね。相依性は、何でしょうね。言語間の相対的な関係などを考えるので、こういう関係が出て来ることになるとは思いますが、これも、基本はブッダの説く縁起ですよね。この基本の縁起が分からないと、空も理解できず、大乗は成り立たないので、わたしも、四聖諦で良いと思います。

通り雨さま、鋭いご考察ですね。大乗の解釈に批判的なのも、ごもっともです。

演繹的な思考方法によって、サーリプッタ尊者がまとめたとおりだと思います。四聖諦の中に空の論理も当然入りますから(名色・六処の領域で「空」が出て来る)ので、四聖諦はまさしく象の足跡ですね。
「象の足跡」というのは、一切智という観点をたとえたものでしょうね。

「縁起」は時間の関係なので、帰納的な要素が入りますけど、それを「法」という演繹でまとめているのが、サーリプッタの語りかと思います。さすが智慧の長老ですね。


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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?   春間 則廣  2019/09/07(Sat) 23:51 No.55489


 「 縁起 」 を 知る者は 「 法 」 を 知る

 「 縁起 」  を 知らぬ者が

  “ 何々 は 「 縁起 」 ではない ” と 確信を持つ

  「 縁起 」 を知らぬ  トモ

   “ 何々 は 縁起ではない ”  ということは

   『 「  法 」 に 照らして 正しいことである 』  と 言う

そういうこと は

「 法 」 を 知った者が 言うこと


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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  通り雨 2019/09/08(Sun) 07:40 No.55489

石飛先生、おはようございます。
お返事ありがとうございます。


>これも、基本はブッダの説く縁起ですよね。この基本の縁起が分からないと、空も理解できず、大乗は成り立たないので、わたしも、四聖諦で良いと思います。


先生は柔軟な考えをされますね。先生であれば、大乗仏教も原始仏教も包含する道を見つけてくださるでしょう。


>四聖諦の中に空の論理も当然入りますから(名色・六処の領域で「空」が出て来る)ので、四聖諦はまさしく象の足跡ですね。
「象の足跡」というのは、一切智という観点をたとえたものでしょうね。


名色・六処の領域で空が出てくるというのは知りませんでした。
四諦の法は、確かに象の足跡のように広大だと思います。他の動物の足跡は入ってしまうでしょうね。


お忙しいのに、ご回答ありがとうございました。


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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  管理人エム 2019/09/09(Mon) 07:45 No.55489

通り雨さま
丁寧なご返信、ありがとうございます。

>名色・六処の領域で空が出てくるというのは知りませんでした。

あ、そうかもしれません。どの解説書にもないかもしれません。わたしが自分で見つけたものです。

十二支縁起で言えば、識も入ることは入るのですが、一番問題になるのは、名色で、そこから六処が縁起します。
ここが、我々の日常の思惟の世界全般を扱うところなので、ここでさまざまな日常的な問題が噴出してきます。議論になったりするような見解もここででてきます。

その後の触→感受→渇愛といった流れは、名色における展開の一つとも考えられます。
これは、声聞や辟支仏のたどる覚りへの道ですね。

この道を行ってもいいのですが、菩薩ですと、名色の中で「空」を会得して、寂滅へと向かうことによって、涅槃と同じ「法性」という境地にたどり着きます。

生死は、十二支縁起の中に出てきますが、菩薩の場合、そこは名色の中で取り扱えるので「生死即涅槃」ということになって、世俗での活躍が保証されるのです。

もし、菩薩でも、阿羅漢を目指したいと思えば、十二支縁起をとっていけばよいので、声聞乗も残されています。でも、それは、菩薩の道とは路線がはずれるので菩薩道を志す人には「菩薩の死」であるとか、言われたりします。

仏教は、ほんとに融通無碍だなあと思います。

その融通無碍を支える基本が、縁起であり、それを苦でまとめた四聖諦だと思っています。
こういうことが分かってきたのも、龍樹のおかげです。

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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  通り雨 2019/09/09(Mon) 11:14 No.55489

石飛先生、解説いただきありがとうございます。


>この道を行ってもいいのですが、菩薩ですと、名色の中で「空」を会得して、寂滅へと向かうことによって、涅槃と同じ「法性」という境地にたどり着きます。生死は、十二支縁起の中に出てきますが、菩薩の場合、そこは名色の中で取り扱えるので「生死即涅槃」ということになって、世俗での活躍が保証されるのです。


非常に斬新でダイナミックな説ですね。

名色を阿羅漢と菩薩の分岐点と捉え、菩薩は名色の中で空を悟るということですか。何とも凄い説です。

先生の書かれていた『部派が言おうと、龍樹が言おうと、四聖諦や十二因縁、三十七道品、四沙門果は、仏の正義にちがいない。』のご信念に基づき、仏教に画期的な洞察がなされることを楽しみにしています。


私は、釈尊が本当は何を言いたかったのかを直接(龍樹や仏教宗派の宗祖などを抜きで)探求したいと思っていますので、方向は違うかもしれませんが、石飛先生であれば仏教に新風をもたらしてくださると思っています。

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Re: わたしを見るものは縁起を見るのかな?  管理人エム 2019/09/10(Tue) 06:51 No.55489

通り雨さま
止めようと思っているのですが、ついつい止まらず書いてしまいます。
聞き流してくださいませ。

> 先生の書かれていた『部派が言おうと、龍樹が言おうと、四聖諦や十二因縁、三十七道品、四沙門果は、仏の正義にちがいない。』のご信念に基づき、仏教に画期的な洞察がなされることを楽しみにしています。

梶山先生のことばだったと思うのですが、けっこうわたしも衝撃でした。ほんとだなあ、と思ったのです。「仏の正義」は、「サンマー(正)」ということばのついているものを主に指しますが、八正道が、基本になりますね。「中道」から入る道を正義というのだなあと思いました。

> 私は、釈尊が本当は何を言いたかったのかを直接(龍樹や仏教宗派の宗祖などを抜きで)探求したいと思っていますので、

分かります。
直接受けとめますと、通り雨さまの仏教が生まれてくるのではないかと思います。

宗祖たちも、それぞれ自力で釈尊を受けとめて、その教えを広めていったので、仏教に親しむ人がでればでるほど無限に展開していくのではないかと思います。

お互い頑張りましょう!

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われなどないことの自覚  通り雨 2019/09/07(Sat) 13:39 No.55484 [返信]

>>>あなたの位置によって 評価が決まります
>>>どこにいますか ?


>>こんなことを言っているようでは、
>>仏法からはるかに隔たっています。
>>位置などないし、評価などない。どこにもいない。
>>どこにもいないことを自覚していくのが精進です。


>それはどういう経典のどこにそういう記載がありますか?


あなたが書いた『あなたの位置によって評価が決まります。どこにいますか?』という言葉だけでも、あなたは全く仏道にかすりもしてないことがわかります。
【位置】とか【評価】などという妄想を捨てなさい。
【位置】も【評価】も『われがある』という見解から生じるものです。


《迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。》
《よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。》

《刀が身体に刺さっている場合のように、頭に火がついている場合のように、『自身ありと言う見解』を捨て去るために、修行者は気をつけながら遍歴すべきである。》


この釈尊の言葉からわかるように、われなどどこにもいない、われなどというものが存在しないことを自覚していくのが精進です。

あなたは、蔵書に一切経があるようですから、上記の釈尊の言葉の出典はわかりますよね。


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Re: われなどないことの自覚   春間 則廣  2019/09/07(Sat) 14:15 No.55484

付け焼刃でも

切れぬ事はないが

料理には 向かない

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Re: われなどないことの自覚   春間 則廣  2019/09/08(Sun) 00:07 No.55484


> あなたが書いた『あなたの位置によって評価が決まります。どこにいますか?』という言葉だけでも、あなたは全く仏道にかすりもしてないことがわかります。

あなたに 評価を起こす 位置がある
と 言っているのです
どこから( どのような住処から )
わたしに対しての 評価をしていますか

あなたの 保持する “ 仏教 ” に かすりもしなくて 幸いです
(  “ 仏教 ” は 名称である     と  知ってください  )



>  【位置】とか【評価】などという妄想を捨てなさい。

どこから 位置 と 評価 を 認識していますか ?

>  【位置】も【評価】も『われがある』という見解から生じるものです。

無所有の 口から出でた言葉であれば それは 正しいこととなります
「 有見 」 の 展開ならば
  “ そこに問題がない ” という 問題が起きています
『 われはない 』  ということが “ われ ” の口から出ているときに
『われがある』という見解 が 展開されています

あなたの理解力で
この文章は 理解できるだろうか 、、、、


管理人エム 様 は 

だったら 理解できるように 綴りなさい  と 私見を述べる



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   再掲示     春間 則廣  2019/09/06(Fri) 22:02 No.55483 [返信]

剣をとって 破壊する   春間 則廣  2019/09/04(Wed) 14:51 No.55435 [返信]

“ The pen is mightier than the sword. ”

無駄を重ねるのは 無駄である

見ても 見ず 聞いても 聞かぬ 
そこから いかに 悟り(正しい意味) を 得るのか

見たいように見る
聞きたいように聞く
読みたいように読む
何を得るために 見聞きし読むのか ?

自らの 正当性が 欲しいのであれば
見ずとも・聞かずとも・読まずとも そこに 現存している

あなたが 欲しているのは  「 誤り 」  だと  知りなさい
( 誤りで さえ  望まずとも あなたに現存している )


************


「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、 罪人を招くためである。」
( マタイ9:13 ・ マルコ2:17 ・ ルカ 5:32 )

「34わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35わたしは敵対させる ために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36こうして、 自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38また、 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、 かえってそれを得るのである。」
(マタイ10:34-10:39)


、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、 むしろ分裂だ。」  
(ルカ9:49-51)


マタイ13:13
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからだ。」


マタイ13:11
「あなた達には、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからである。
13:14・15 『 確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。  この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』


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Re:    再掲示     春間 則廣  2019/09/09(Mon) 16:56 No.55483


あなたは ナザレのイエス のことを 論じてはいけない

もし あなたが イエス を 信じるのなら
あなたはそれについて 論ずることは 信念に基づいている

イエス を 知っていることとなるからです

知らないことを 云々してはいけない

たとえ それは 正しくはないとしようと
その 非正しさ は
“ 非 ” を抜いた 正しさ に 起きるのです

それは 一つの山の 違う 登山道

あなたは 道が違うと 糾弾してはいけない
その道において、 正しく 手助けをしなくてはならない
  それが
“非”正しさ の 中の “ 正しさ ” です

だれでも ( その道において )頂上を 求めている
その道で 手を取って 正しい頂上を 目指しなさい
( わたしが そうしているとは思えないのは あなたが 手を取らないからです )

新約聖書 には  おおくの 仏教典との 類似があります
どちらかが 元 ではなく
どちらも 同じ 人としての 「 抜苦 」 を 目指して説かれているのです

あなたが 「 苦 」 とするから
聖者も 同じことを 「 苦 」 とするかどうかは
精緻に 省察しなければなりません

導きとなる アーガマ が あります  Su. 762

「 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。 」


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『わたしを見るものは縁起を見る』は間違いでは?  通り雨 2019/09/05(Thu) 06:59 No.55445 [返信]

>わたしを見るものは縁起を見る



釈尊の言葉に『わたしを見るものは縁起を見る』という言葉はないように思います。これは、石飛先生にお聞きしたいですが。



【法を見るものは私を見る】


【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】


この2つの言葉はありますが、それぞれ別の仏典にあります。

そして、これが最も大事なことですが
【法を見るものは私を見る】の言葉の中の【法】と
【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】の中の【法】とは指し示すものが違います。


ですから、この2つをくっつけて
『わたしを見るものは縁起を見る』
と言う言葉を作るのは間違いではないでしょうか。

石飛先生は、どう思われるでしょうか?。
(『わたしを見るものは縁起を見る』と言う言葉がパーリ仏典にあるならご指摘ください)

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Re: 『わたしを見るものは縁起を見る』は間違いでは?   春間 則廣  2019/09/05(Thu) 08:24 No.55445


> (『わたしを見るものは縁起を見る』と言う言葉がパーリ仏典にあるならご指摘ください)

これの目的が 何であるかを あなたは 明確にしている
ない  という語  を 
その対象の 否定に 用いる為です

( 否定するときに 「 「 空 」  が 起きる 」  →  「 縁起 」 )

仏典は 自らの言葉で 噛み締めなければなりません
噛み締めた言葉を
さらには 噛み締めつつ 自らの言葉で 語るのです

わたしが 仏典から 啓示されることは
私一人の為に作られた  仏典 という 「 願 」 です

おなじような 内容を 親鸞は
「 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり 」
と 唯円 に 語ります
同じであろうと 聞く人が 違う
          違う人が聞いて、 違う人に 語る 、、、、

( 五劫の思惟 は 親鸞一人の思惟 )

その親鸞の思惟 は 私一人の願



わたしの語ることに わたしの作った“言葉” は 一つもありません
すべて 牟尼から 説かれて “ 自らに 言葉としたこと ”   です

それは
「 われ既になき  なんぞ わが言葉 あるや 」  ということです

*********

これは
無門関 第一則 に 関連します
「趙州狗子」

良寛は 応挙 の 五匹の狗子 に  賛を つけます
「 趙州問有答有 問無答無 
   君問有也不答 問無也不答 不重言 作麼生 也不答 」


ここに於いての 「 君 」 という語は 何を指すかで 意味は変わってくる


「  いぬころ は うつつ なき こそ たふとけれ 
               ほとけごころ は か にも かく にも  」 (寒燈集)


「 煩悩即菩提 」

わたしの書き込みに 縁って
あなたは それに答えるのは 無駄だと 知ります

そうしることは 無駄 ですか ?

釈迦牟尼は 「 苦行 」 を 起こし
「 苦行 」 の 無益を 説きました
その苦行  なくして  成道は ありましたか ?

釈迦牟尼 は あなたに 「 苦行 」 という 「 難行 」 を 捨てて
 信仰が種子(たね)  であると 教えるのです

「 信仰 」 という 「 易行 」 を 龍樹は 説きます

けっして 自ら起こした 修行 を 否定したのではありません

これが   「 煩悩即菩提 」  という語を 産みます

********
田を耕すパーラドヴァージャ ( 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 ) 24p )

77 (師は答えた)、「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。
78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって(牛の)軛を離すことである。
79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
*********


無駄なことを 読むと 意味のあることが 起きる



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 反論 ではありません が 反論は 起こされ得る      春間 則廣  2019/09/05(Thu) 06:46 No.55443 [返信]


反論できないならもういいですから    通り雨 No.55427
> 投稿者:苺箭毒蛙 投稿日:2019/09/04(Wed) 22:52  No.55440


そもそも 論 を 為してはいない

「 論 」 は 名称です
それは   空論・戯論・正論・中論 等 を  いうのです

架空の 前提で 立てる論を 「 戯論 」 とも言います
戯論 には 「 空 」 が 起きる ( 「 縁起 」 が 起きる )

「 これは 正理 に基づく 正論 である 」
と言ったところで
“ 正理 ” も “ 正論 ” も  「 縁起 」 に 起きる

マウンティング に 化しているのは  な偏( どちらの偏 ) の ことかな ?

人は 自らが絶対の真理にある   ということから
絶対に 外れることが出来ない    →  「 無明に起きる 」  ということが起きる

“ 論 を 為してはいない ”  ということには  「 縁起 」 が 起きる ?

*******

> 利益になることはなにもないのだからほっとくのがいいと思いますよ。

何もないところから
何かが あるようにはならない

真空 には 妙有
  ( 真空とは妙有である )
  ( 真空には妙がある )

何もない という語源から 「 空 」 が 生まれました

ドーナツの穴の中には 何があるのだろう 、、、、

> 挑発にのってたら自分の魂を傷つけることになります。

これが 挑発  になる  とは
記述する者には  気付きにくい

( そのように気付いたのが あなたですか ? )

自分のことは 見難いものです 、、、、

誰が 記述を為しているかは あなたが 己事究明 することです

> こういうのを放置するのは、人の苦しみを増すことにつながるので仏道に反すると思うのですが、フェアネスの徳はないようですね。

その状態のまま 放置しないように と  
“ 有意義な対話の場として発展していただきたい ”  と 
管理人エム 様 に 訴えたのです ( No.55363 )

反応は 後に起きています
   Re: Re: 有意義な対話の場 通り雨 8/26 10:59 55383 管理人エム
    2019/09/03(Tue) 10:17 No.55403
    (2019/09/03(Tue) 10:17 No.55407)
     2019/09/04(Wed) 05:55 No.55418

放置しないで “ 人の苦しみを増すことにつながる・仏道に反する ” 
 そういうことを 何とかしようと
“ フェアネスの徳 ” からの 書き込みも 起きます

> しょせんは赤の他蛙ですから。

赤 という モノは  「 色 」 の世界(  「 世間 」  ) に 起きます

そのように “判断” には  「 縁起 」 が起きていて
「 空 」 を 知らしめる機縁が起きています

そういう処 に おいて 「 至道無難唯嫌揀択 」 が 説かれます
そういう処  とは   「 世間 」  です
この意味が分からなかろうと
放置しておくことが出来ない  と  いう 起信 のもとで
書き込みが 起きています  →  「 大乗起信 」

問題は 起きる ということが
 「 世間 」 に起きている ということです

 「 縁起 」 に 起きる

(  自 と 他   は  縁起している  )


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Re:  反論 ではありません が 反論は 起こされ得る      春間 則廣  2019/09/05(Thu) 06:54 No.55443


> 放置しないで “ 人の苦しみを増すことにつながる・仏道に反する ” 
> そういうことを 何とかしようと
> “ フェアネスの徳 ” からの 書き込みも 起きます

あなたの書き込み に対する あなたの持つ 正当性からの
正当なる判断です

赤の他蛙  を 音で表すと 「 あかのたがえる 」 となります
“ 赤 の 違える ” とも 読みます

しかし 問題が起きます
違える・違えなく正しい  が  「 縁起 」  なのです

さらには 先に既述したように “ 赤 ” は 「 空 」 なのです


よくよく 考えてほしいことです 、、、、


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Re:  反論 ではありません が 反論は 起こされ得る      春間 則廣  2019/09/05(Thu) 07:18 No.55443


> 人は 自らが絶対の真理にある   ということから
> 絶対に 外れることが出来ない    →  「 無明に起きる 」  ということが起きる

“ 絶対に外れることはない ” ということを 簡易に 表すと 
“ 真理にある ”          ということになります

「 真理 」 にある者 を ブッダ と 呼びます 

無明にあるのに 真理にある ( 「 真空妙有 」 )

「 如来蔵 」 は このようなことを知った者 が 「 法華経 」 で 説いていることです

常不軽 菩薩 は 手を合わせる 、、、、

「 あなたは 仏となる(べくして仏となる)人  です 」


『法華経』「常不軽菩薩品」( 『法華経』下 岩波文庫 p.136 ・ 春秋社 p.368  )

鳩摩羅什が 正しいのか 坂本・植木 が 顛倒しているのか 、、、、
“ あなたの 鳩摩羅什の訳 ”  は 正しいのか ?


こういうことを おろそかにしてはならないと
常不軽菩薩 は 手を合わせる



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 一番下だから 上に 重ねる →  「 縁起 」     春間 則廣  2019/09/04(Wed) 22:39 No.55439 [返信]

わたしを見るものは縁起を見る

Re: Re: 有意義な対話の場 通り雨 8/26 10:59 55383 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/04(Wed) 22:32 No.55438

Re: Re: 有意義な対話の場 通り雨 8/26 10:59 55383

**********
「寂滅を説く」ということが、みな、できないのですが、ブッダの見本があるのですから、それをやってみようとすることはありうるのではないかと思います。
成功したことはないけど、試してはみている、というのも、「縁起」かと。
**********

>> この  「 縁起 」  という 意味(使いよう) は わたしには つかめません
>> ( そうであるか そうではないかは 別のこととして )
      それを語る人として  語ってみてくれませんか ?

> 気づけないかもしれませんが、わたしはいつもそうしています。

それを語る人として 語っているのは 最初から知っています

別にして  と 記述した
    ( そうであるか そうではないかは 別のこととして )
ということが 別にして  ということ の “別” に 縁起すること です

別ではなく 本筋 ということです

別のこととして 省略してはいけません
成功しているか 成功してはいないか  が  「 縁起 」  です

“ 試してみている ”  ということに  「 縁起 」  が 起きます
“ 試さず 見ていない ”   あるいは “ 試したことはない ” ということです

両方 知る時に 片一方でも 真理となります

だからと言って あなたが 真理に触れていないと言っているのではありません
記述するときには 必ず  「 縁起 」 を 知って 記述しないと
「 偏 」 に 縁っている 記述となる と 言っている( 説 している ) のです

あなたは 天然では  「 縁起 」 に  外れません

意志をもって 外れない  ということに 習熟してはいないから
そのように工夫して記述されていることが 読み取れないのです

読み取れないときに
、  読み取れないような記述がされている 
と    あなたは判断します

あなたの判断が 正しいのは
あなたの読み方が 正しい時です
その正しさをする者 を   真理を知る者  と 言います

「 真理 」 とは  「 縁起 」 です

「 わたしを見る者は  「 縁起 」 を 見る 」


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