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『法華経』の中にある?  みどり 2016/07/31(Sun) 14:30 No.53738 [返信]

中村元氏の直弟子の人が、かって、わたしに「機根にない人に経典を紹介すると紹介した人の罪になる」と言ったことで、

一度、この場所で、そのようなことが実際、どこかの経典の中に書かれているでしょうか?と質問させて頂いたことがありました。

春間さまから「それは『法華経』の中にあります」と教えて頂いたのですが、その後、『法華経』を確認しましたが、そのように説かれた部分を見つけることはできませんでした。

春間さまは、『法華経』のどの部分を指して、「機根にない人に経典を紹介すると紹介した人の罪になる」としておられたのでしょうか?

お教え頂ければ幸いです。

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Re: 『法華経』の中にある?  みどり 2016/07/31(Sun) 15:36 No.53738

その人は東京大学仏教青年会の委員長をしていた人でしたね。

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Re: 『法華経』の中にある?  みどり 2016/07/31(Sun) 18:04 No.53738

ひょっとして、嘘も方便っていうやつでしょうか・・・?

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Re: 『法華経』の中にある?  みどり 2016/07/31(Sun) 20:49 No.53738

理屈なく苦しみ、理屈なく喜ぶ。

だけど、やっている人たちには理屈があるのだろうなぁ・・・

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Re: 『法華経』の中にある?   春間 則廣  2016/07/31(Sun) 23:56 No.53738


その時の詳しい内容は今ここに思い出せませんが

それは、法華経 譬喩品第三. のことだと思います

説いてはならない  ということを 説いています

してはいけないことをするのは、
するものに咎が及びます

一度、自分で、説かれていることを、読んでみて(聞いてみて)
再度、
東大の人のことはどうでもよいから、
あなたのこととして、提示してみてください

ただし、
法華経は 菩薩のために解かれている経典です
(そのことも、法華経 譬喩品第三 に 説かれています)
菩薩になりたいと発願しなければ、顛倒します


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Re: 『法華経』の中にある?  みどり 2016/08/01(Mon) 07:07 No.53738

春間さま

>してはいけないことをするのは、
するものに咎が及びます

法華経譬喩品第三を読んでいましたが、ここの部分に思いが至りませんでした。

失礼いたしました。 

お教え頂き有難うございました。

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Re: 『法華経』の中にある?   春間 則廣  2016/08/01(Mon) 08:21 No.53738


法華経は 菩薩(起信し発願にあるもの)ではないものには
説かれてはいません

たとえ、子供が 遊びで、砂のストゥーパを盛り上げても、
その功徳は、量り知ることができないほどです

説かれていない(対象ではない)者と、
菩薩(仏となるべきもの) との 区別があって、
区別のない ことである 「平等」 にあると 説かれています

常不軽菩薩に、モノを投げつける者は まさに 仏となるべき 者 です

仏となるべきものは、 仏と平等 で、
 “違い” にはありません

仏と菩薩と仏となるべき者 は 常に 一体です

投げつけて “いただく” こと(があるから) それによって、
常不軽は 菩薩であるわけです

仏となるべき者は
煩悩の世間に居を構えます
( そこが仏国土であると、教は教えています )

世間は 顛倒で菩薩のために 作られています

顛倒にあるから、菩薩があるわけです

その菩薩の為に 法華経が  置かれて 説かれています

ここが
瞑想にないときには 顛倒にあり、
顛倒にあるものには
顛倒していないことが、顛倒である所以です

ヨイショ と ショイ を おろす

ああ  ジョイ 除異 如意   と 、、、、


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『法華経』 と 顛倒     春間 則廣  2016/08/21(Sun) 21:33 No.53738


> その時の詳しい内容は今ここに思い出せませんが

正しく知りたければ、その時の文章を、正しく引用してください
世間において、顛倒なく 理解できるように、工夫して 語ります

> 法華経は 菩薩のために解かれている経典です 
  (そのことも、法華経 譬喩品第三 に 説かれています)
  菩薩になりたいと発願しなければ、顛倒します

わたしの語りは 経ではありませんから、
菩薩ではなくとも、顛倒なく知ることができます

>> その人は東京大学仏教青年会の委員長

だれであろうと、菩薩でなければ、顛倒しています
経に どう説かれているかは 菩薩だけが知ることです

>> 「機根にない人に経典を紹介すると紹介した人の罪になる」

罪にはなりませんが、起こしたこと(因)には 果が起きます
罪かどうかは、(顛倒にある)人が決めることではありません

どのような罪にあっても、必ず 成就すると 法華経には説かれています
( それを 顛倒するものを 凡夫 と 呼びます )


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無題  かざみどり 2016/07/23(Sat) 13:22 No.53733 [返信]

すみません。
ジャータカとイソップ物語は何か関係がありますか?

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Re: 無題  かざみどり 2016/07/23(Sat) 13:36 No.53733

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Budha
https://en.wikipedia.org/wiki/Budha


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Sūta (सूत, “Mercury”):—Sanskrit technical term used in Rasaśāstra literature (Medicinal Alchemy) such as the Rasaprakāśasudhākara or the Rasaratna-samuccaya. Sūta is one of the names, or synonyms, for Rasa (mercury) and is used in various alchemical preparations.

http://www.wisdomlib.org/definition/suta

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

あとついでに、水星についても調べています。
太陽の裔であるブッダは太陽信仰だとは思うのですが。

ナーガールジュナが元バラモンだったのならば
占星術とか行ったりしたのでしょうか。

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Re: 無題  管理人エム 2016/07/24(Sun) 07:48 No.53733

かざみどりさま

いつも興味深い視点を提供してくださってありがとうございます。

わたしも、ジャータカとイソップ物語、誰か研究してくれないかなあと思っています。あと、インドの民話などとの関係も知りたいですね。
何となくですが、ジャータカは、世界中の物語に影響を与えているかもしれない、という思いも、湧いてきつつあります。何の根拠もないですけど。


また、お話しの内容としては、似たようなものが多くあると思いますが、教訓物語として読むのか、縁起の関係を入れて過去世物語として因果関係にも注目するのか、で読み方が変わってきそうだ、と思っています。

龍樹の場合は、龍猛という名で知られる密教の祖とされる人なら占星術にも詳しかったことでしょう。

しかし、2世紀頃の人物としても、龍樹は、何でも学んだといわれていますから、占星術などの知識もあったことと思います。
わかるのは、そんな程度でしょうか。

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『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  管理人エム 2016/07/16(Sat) 17:24 No.53717 [返信]

無宗ださま みなさま

『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」を、「心にしみる原始仏典」にいれました。

佐倉さんのサイトでは、『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3という番号で説かれている経典ですね。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/sabbam.html

それにしても3年もかかってしまった。。。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  おちゃらけ 2016/07/17(Sun) 15:36 No.53717

ちょいヨコです。

>『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3

この訳と経番号はもんのすごく!!!拡散されてます。
番号違いは別として「どなたの訳」なのか多少の背景を知りたいです。

他の引用箇所には出典が記されているのに、これとすぐ下の(マッジマニカーヤ 中部経典22)は訳書出典がないんです。

佐倉さんHPの訳者不明の「一切」(部分)
> さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
> 何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

なぜ「このように訳した」のか、「このように訳するしかなかった」のか、となると他もどう訳された(解されたor介された)のでしょ?と訳者さんの境(地)がちょい気になります。(別説を説明できないと)「病に+倒れる」と「反論に+出会う」はずいぶん状況が異なるので。

同部分のエム先生訳(http://manikana.la.coocan.jp/canon/sabbam.html
> かりに質問されても、教えることはできないでしょうし、さらには、反論にも出合うことになるでしょう。
> それは、どうしてかといえば、比丘たちよ、認識の領域ではないものにおいては、そうなるしかないのです」。

=====
一切(sabba)の語が一対(dvaya)に入れ代わった(お互い代入可能なことを示す)お経があります。
一切と一対を重ねて読むとぐっと意味が深く(境が重なってむずかしく)なってきます。

相応部4、六処篇、(9)チャンナ品、一対(1)(他の表記で書くと「相応部35.92」)
https://suttacentral.net/pi/sn35.92

そこで、このお経が「置かれている」ヴァッカリ尊者とパラレルなチャンナ尊者のお話もでてくる「チャンナの章(品)」を通して読むと「(文字としては浮んでこないけれど)心に浮かんでくることあり」なのでした。
(短いお経をひとつだけ読んでも一切じゃなさそげ)

このチャンナ品には「空とは」とか、「我と死後の識とは」とかとか、どれもあっさり短いけれど「う〜む〜」な話題が盛りだくさんでございました。

有と無は「動揺」をポイント(地の軸=界)において判と断している経・・・じゃなかった、境このごろ?

「動揺(揺れる一対の極)」はスッタニパータでいうところの二種観察に出て来る「観察」のヒントかなぁ〜と思う「次第」な今日このごろでございまっする。

そんなつぶやきでした。
ではでは〜

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  管理人エム 2016/07/17(Sun) 22:15 No.53717

おちゃらけさま おこんばんは。

> さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。

佐倉さんのところの訳のこの個所、面白いですね。「病に倒れてしまうかもしれません」というのは、「悩害」の訳語もあるので、そこを「病」としたのかな、と思います。「病に出合う」で「病に倒れる」となるのか。

また、増谷訳ですと「さらに困難に陥るであろう」となっていて、これも可能ではあります。

かつて、3年前、どうして訳を出さずにそのままにしておいたのだろうと、つらつら考えているのですが、おそらく、番号で混乱したのと、自分の中で焦点がぼやけて何を問題にしたのか、わからなくなっていたせいかもしれないと、勝手に考えました。

「反論に出合う」は、文脈からこちらの方が自然な訳ではないかと思いますが。
認識の領域にないような形而上学説は、表に出して言い争ってはじめて意味(?)が出てくるものでもあるように思われます。自分の心の中で思っているだけなら、害はないわけですし。

認識の領域にないものを扱うと、議論せざるをえないことになる、というところもニュアンス的に出てくるかなという感じがしますね。

「二つ」という経典になりますと、「音を観る」などの表現は認められないことになりますよね。

短いのに、むずかしい。
短いから、むずかしい。
短いためにむずかしい。

うーーん、どれかな、むずかしい。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  おちゃらけ 2016/07/18(Mon) 00:44 No.53717

エムセンセ、お忙しいところおこんばんは。

> 「病に出合う」で「病に倒れる」となるのか。

「解釈としてあり」だと思いますが、しかし、と思う私です。
やや「意訳」しすぎなかんじがします。そういう訳はだいたい訳註があるので出典がわかれば確認してみたいなぁ〜と思ったのでした。

今、パソコン不良→初期化のために元データを延々とコピーしている合間にyoutubeにあがっている大田俊寛さんの動画をみてたとこです。
(元全共闘議長でもある)山本義隆さんの三部作「磁力と重力の発見」「世界の見方の転換」「一六世紀文化革命」シリーズのちょーななめ読みつながりで。

さいきんやっと「不確定性原理」と「不完全性定理」は「論じる場が違う」ってことを理解し始めたとこです。それを意識してみると、どうも巷ではごっちゃになってる感ありだってのに気がつきました。五蘊の一切と一切智とか「原理、定理、公理」とかがごっちゃっと述べられているのと同様に。

こういう場合、親切な方はだいたいご自分の定義を最初に説明してくださるので助かります。それがない場合は一切合切ごっちゃにして述べているのが多いような。聞く方は説く側の混乱に巻き込まれる。。。

=====
> 「二つ」という経典になりますと、「音を観る」などの表現は認められないことになりますよね。

うーむー。「二つ」の流れの上で「音を観る」と「認められない」という表現が「組み合う」のは私からみると「飛躍している」って思います。法境において「音を観る」はあっさりとあると思います。「認められるか否か」という視点が「すでに」意識界の話題っぽいので。

とはいえ「二つ一組が六つ」の一組ごとで考えれば「確かにそうですね」とも言えるのですが、「二つ」と「一切」の語以外は同じ語句がならんだお経を「重ねる」と「短いお経をひとつだけ読んでも一切じゃなさそげ(前掲)」な考えが浮かんでくるのでした。そのお経が「置かれている」チャンナ品を「通してみる」とさらに。

物質の特徴は「同じ場を持たない=場が重ならない」ということらしいのですが、思考の上(つまりは形而上)でいろいろと重ねて考えることが可能であるってことと、「不確定性原理」と「不完全性定理」は「論じる場が違う」ってことを「アキレスと亀」つながりで理解し始めたとこです。


> 短いのに、むずかしい。
> 短いから、むずかしい。
> 短いためにむずかしい。

説明(たとえば方便)が簡略だったり短かったりすると、(それでも聞く方がどうにか理解したいのならば)自分の解釈(器)で補わなければならないのが「むずかしい」です。となると、「認めるか認めないか」の二つ一組で考えるならば自分に関わりがなければ放置でいいのかもですね。

> 認識の領域にないような形而上学説は、表に出して言い争ってはじめて意味(?)が出てくるものでもあるように思われます。自分の心の中で思っているだけなら、害はないわけですし。

上の文のわたし的解釈を自分なりにせいいっぱい「考えて(input)」「述べた(output)」ので「これ以上」を説明しろといわれたら「お互いに」困っちゃうかも。。。

ってことでしっつれーしました〜

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  管理人エム 2016/07/18(Mon) 06:55 No.53717

おちゃらけさま おはようござい!

>さいきんやっと「不確定性原理」と「不完全性定理」は「論じる場が違う」ってことを理解し始めたとこです。

わたしの場合は、「不完全性定理」は「清浄」にかかわる、ということを知り始めました。「不確定性原理」も、同じようにならないかと思っているところです。

「音を観る」は、なんか言われそうな予感がしましたが、やっぱり言われました(笑)。
おちゃらけさまのおっしゃるのももっともなのです。

混乱はどこに、ということを、常に考えなくちゃいけないですよね。

六つの感覚器官とそれに対応するそれぞれの対象

これを「一切」としているとき、十難無記の答え方が成り立つ、ということか、と思っているところです。

ブッダには、混乱はない、ってことだけはよくわかるなぁ、と。


それでは、今日も一日お元気で、ねっ

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」   春間 則廣  2016/07/18(Mon) 10:57 No.53717


混乱していないときには

混乱がある

混乱がない
との間の
差異が分かる

(自らが)混乱していても、
( “他” に 混乱がないと)分かるという 混乱にあるときには
 混乱がないと “分かる” (という混乱にある)

(わたしには) “混乱” が あるかないか が
分かると (わたしが)言おうと、
(あなたが)分かるには、混乱がないという 前提が存立している


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  おちゃらけ 2016/07/18(Mon) 11:00 No.53717

自分なりの説明を思いついたのでつぶやき補記

認識と自覚もほんとによくごっちゃごっちゃに語られてます。

その一例(他にあり、自にない)
 Aさんっていっつも人の話を否定するのから入るよねー
 そんなことないよぉー

この例を言うと「あるある!」って通じるんですが、じゃぁ違いを自覚しているか(認識してるじゃなく)っていうと、ほとんど(お互いが属し、お互い異なる体系<公理とか真理などの「大前提」>を主張し合う)「クジラ問題」に突入するのを見聞してきました。その上さらに認識と自覚をごっちゃにして語るので混乱×混乱=「お互い」大混乱。

ロジックとレトリックって「つくづく使うところ(場)が違う」なぁ〜と
しみじみ

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  おちゃらけ 2016/07/18(Mon) 11:01 No.53717

あら、僅差

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」   春間 則廣  2016/07/18(Mon) 12:23 No.53717


> あら、僅差

「 毫釐も差あれば、天地懸に隔たる 」

とは 信心銘 にある言葉で、普勧坐禅儀に 引用も されている

毫釐の差がなければ
天地を隔てることはできない

天地の隔たりと
毫釐の差が
毫釐にないことが
前提になっている

僅差 と 聞くとき 毫釐を知る
サー   どうだかな ?

混乱しているときには
混乱していることが分からない

“混乱している”  と いうことだけ は 分かると

混乱なく言って 何の不思議も感じない

> 混乱×混乱=「お互い」大混乱

混乱なく 混乱を言っている
といっても
混乱するものは
意味を正しくとらえられない

きみは 正しい


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  管理人エム 2016/07/19(Tue) 07:02 No.53717

つぶやきにちょっと反応。

>その一例(他にあり、自にない)
> Aさんっていっつも人の話を否定するのから入るよねー
> そんなことないよぉー

この例の論理的なポイントは、「いっつも」にあるとみたり。
「いっつも」とは「一切」に通ずるなり。

「一切」にかかわるところには、「不完全性定理」のにおいがしてくるなり。

海は広いな、大きいなあ、クジラがいるなり。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」   春間 則廣  2016/07/19(Tue) 08:09 No.53717


> つぶやきにちょっと反応。

ちょっと に 反応


>>  その一例(他にあり、自にない)

他にあって、自にないモノを
自にない という
ないと言う時に ないと言われるが
ない を 見つめる者には、 ない  が ある

あるかないかを、自分で 理論によって 
(他に対して)顕しきれるかどうかは、
聞く者( “その”他 の 他 )の 領域にある

>>   Aさんっていっつも人の話を否定するのから入るよねー

取り上げるところが、
いつも
自らが構築している 自らの “認識” → 無明

>>   そんなことないよぉー

つもりだけでは、積もっていくだけ

> 「一切」にかかわるところには、「不完全性定理」のにおいがしてくるなり。

なりふり構わず 言ってしまう時
なりふりは 関わらないことが多い

多い少ないは 縁起にあるけれど
縁起というモノは “不完全” に 捉えられるものと
完全に於いて 理解される
「完全」 と 「一切」  とは 「切れないのに、二つに切られている」

“一” とは 「 完全 」 であるモノ  ということ
「 一切 」 とは 完全なるモノ も  切れるということ

ここで
「 場 」 というモノが顕れる
人の構成物質である とされる 元素 は
核を構成するモノと 電子によって なっていると理解されている

電子 は “動” にあり 動きがある限りは 光速に支配されるが
その動きは、 光速 であると 知られている(物理学的に立証されている)

光速 で 動くことによって 形成される 物質は
光速にある
不完全性定理 は 光速を 扱わない(扱えない)

“におい” を 脳の働きとして 作用としてみると
作用には 実体が なく
実体に 作用が伴うから、 実体があると
推測される(認識に乗る)

作用 が モノ であれば、 実体も モノ(作用) の モノ

作用 も 実体 の モノ

一部には 全部が (背景として、全面にあるモノとして)
成り立たなければ、一部ではない
全部には、すべての一部が備わらなければ、全部ではない

一部だけ で 存在できないのではなく
その時( その“場”所で ) は 
存在がある限りは 一部が 全部である  と言うだけのこと

全部に対して、一部という 愚かしさを 無明という

「 一切 」 という “ないモノ” の ありよう(存在) を 感じますか ?



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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  莓箭毒蛙 2016/07/19(Tue) 18:56 No.53717

おちゃらけさま、こんばんは〜

>一切(sabba)の語が一対(dvaya)に入れ代わった(お互い代入可能なことを示す)お経があります。
>一切と一対を重ねて読むとぐっと意味が深く(境が重なってむずかしく)なってきます。

なるほど〜。面白い。
たしかに「一対」だと意味がわかりやすいし「二種の観察」に響く内容になりますね。

まさに地雷原を歩むが如し

ありがたや〜

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  おちゃらけ 2016/07/19(Tue) 22:08 No.53717

ども莓箭毒蛙さま

「二つ」とみるか「一対」とみるかは、
「これあればかれあり」の「これ」と「かれ」の
「扱い方(解釈)の違い」じゃないかと思うんですがいかがでしょ?

「私は×××であるという認識(対象)がある」と
「私は×××であるという自覚(意識)がある」は
かなーり違うように。


> まさに地雷原を歩むが如し

私にとっての目安は「動揺」です。
物理的に言うと振れ、形而上的にいうと矛盾。

「ごっちゃごちゃ」は混乱するし、
「めっちゃくちゃ」は困惑しますです。

=====
パソコン、修理に出すことになりました(泣)
ってことでまた〜

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』35.23「一切」  莓箭毒蛙 2016/07/20(Wed) 13:06 No.53717

おちゃらけさま、こんにちは

>パソコン、修理に出すことになりました(泣)

ガリガリ全文検索かけまくって、ファンが悲鳴をあげるPCが想像されます^^;

>私にとっての目安は「動揺」です。

「動揺」は愛執で、「起動のないこと」はニッバーナという註は蛙にはわからないけど、まあ主題は「二種の観察」だからいいか。

「一対」といえばサーリプッタ尊者の「藁束のたとえ」ですかねぇ。

ではまた、ごきげんよう。さようなら。

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『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3  KIM 2016/06/30(Thu) 19:41 No.53695 [返信]

今晩は。

道場で『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3が紹介されていますが、パーリ原本は何処で読めるのでしょうか。Tipitaka(romn)で33.1を見ると、ヴァッチャゴッタ経のようで、十難無記がテーマになっているようです。

ご存知なら、アクセス方法を教えていただけませんか。 

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3  おちゃらけ 2016/07/01(Fri) 03:55 No.53695

ひさびさにこちらをチェックしてみましたら、目についたのでカキコ。

これはトリッキーだと思いましたです。
(インターネットあるある話だとはいえ)

多分ここからコピペされたと思うんですが、
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism52.html

ここに「(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)」とあるので、経番号かと思いますよね?
フツーは。

検索してみるといろんな方が「経番号と共に」引用して拡散されてます。
(道場の書き込みと同じく「どこから」引用したと書いてないものも多し)

道場 [No.13706] の引用も改行が異なるとはいえ、なんで上のリンクからコピペしたのかがわかったのかというと、経番号を「サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3」としているのと、句読点を含めて同じ文だからです。


もうすこし検索すると「一切」に関するお経でこのような引用がありました。
http://forkn.jp/book/709/page/4

> ♯1 <一切> −1 オリジナル
> 南伝 相応部経典 35−23
> *増谷文雄「阿含経典」(筑摩書房) 第3卷 31頁より抜粋

前者リンク元の「サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3」と増谷先生の「SN.35.23」と和訳が違うとはいえ、内容がほぼ同じなので同じお経からの訳と思っていいかもです。少なくとも「31.1.3」ではなさそうです。

となると「サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3」ってのは「どこ(何版)の番号」なのか「どなたの和訳」なのか、私にはわかりませんです。

とにかく、お経の番号がわかったのでチェック
> Tipitaka(romn)

「Tipitaka(romn)」はPTSではなく、ビルマ版のことだと思うのですが、
番号の振り分けが異なるので
→3. Sabbavaggo →1. SabbasuttaM に当たると思います。
//www.tipitaka.org/romn/cscd/s0304m.mul0.xml
(リンクが三つまでなので「http:」を略)

スッタ・セントラルだとこちら
SN.35.23
https://suttacentral.net/pi/sn35.23

以上、こんな感じでいかがでしょ?
お元気で〜

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3  KIM 2016/07/01(Fri) 08:58 No.53695

 おちゃらけ様、おはようございます。明快な回答、ありがとうございます。

 私は今、エム先生の新訳を読んでいるのですが、889と908に atisarati が出てきて、「限界を越える」と訳されているのですが、ムズムズしていたのです。そんな時、『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3に「彼の主張が彼の知識領域を越えているからです」とあって、どのような言葉が使われているのか知りたかったのです。avisaya とあっさりしていました。スッタニパータのatisarati も同じような意味合いかな、と感じた次第です。

 それにしても、インターネットではある事柄が一人歩きするのですね。ベッキーの件でも、マスコミは視聴率が取れるので、深追いした感が強いです。舛添知事の件も、政治資金法のザルの方面は追求せず、「せこい」が一人歩きしました。

 またよろしくお願いします。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3  管理人エム 2016/07/02(Sat) 18:59 No.53695

KIMさま こんばんは。

atisaratiは、語源的に意味をとって訳したものです。
ati-が、「越える」「越えて」「過ぎて」などの接頭辞で、saratiは「流れる」「いく」などの意味です。

アティーサラム・ディッティのことばですが、このままでも、何か理解できる読みがあるのではないかと疑っていますが、よくわかりません。

「限界を超える」というのは、「他によって解脱できない」と773偈にあったそのことばを、否定してしまったケースにあたると思います。

おちゃらけさま

ありがとうございます。道場では、急いでたので、33.1…とあった番号に「あれ?そうだっけな」とは思ったものの、どの経典かわかったので、まあ、良いかと流してしまいました。

それにしても、みなさん、さすがですね。どの経典か特定できていて、心配なしだったです。
「六処相応」のところを引用しているのも、おかしな感じなのですが、ネットから拾ったのじゃ、そんなことはわからないですね。

今さらながら、ずいぶん問題があるなあ。。


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あれは、3年前♪  無宗だ 2016/07/15(Fri) 07:15 No.53695

http://manikana.o.oo7.jp/majikana/majikana.cgi?no=5477&pastlog=0034&act=past&mode=allread#5499

昔、こんな書き込みがありました。
気長に、お待ち申しております。



[No.5499] Re: 常識の違い−十二支縁起の位置づけ 投稿者:管理人エム 投稿日:2013/10/31(Thu) 06:55:19

無宗ださま ごきげんようで、ございます。

朝ですね。眠いよ。。なさけないヤツ。

がんばりますです

>
> 一切経の「心にしみる原始仏典」への収録希望。
> 佐倉 哲さんのサイトで見かけて以来、とても気になる経典でした。
> http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
>
> しかし、訳者によって、結構印象は変わりますね。

ほんとですね。リンクありがとうございます。リンクより、引用してみます。

(省略)

もう一度、よく検討して、「心にしみる…」にアップしてみたいと思います。

(省略)

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3  管理人エム 2016/07/16(Sat) 08:13 No.53695

無宗ださま

ごきげんよう。。たらり。。たらり。。

いい加減なやつですね、わたしって。

『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3、何度も話題になっているなと思っていたら、こんなところにあったのね。

そうか、できるだけ急いでアップします。
すみません。

それにしても、無宗ださま、記憶力がいいですね。
わたしがいい加減なだけかもしれないけど、申し訳ない。

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『サンユッタ・ニカーヤ』22-79 (PTS Text,V.pp.86-91) 22-24  うにうに 2016/06/28(Tue) 16:10 No.53690 [返信]

はじめまして。
心にしみる原始仏典を拝読させていただき、とても読みやすく、たいへんありがたく思ってます。

『サンユッタ・ニカーヤ』22-79 (PTS Text,V.pp.86-91) 食いつかれるものの中に、小さま間違いかも知れないという部分があり、ご面倒をおかけしますが確認させていただければと思い投稿させていただきます。

22 から 25 に「一切の色について」の色は、それぞれ受、想、行、識であろうかと思いますが、それでよろしいでしょうか?

些細なことで恐縮ですが、ご確認いただけると幸いです。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  管理人エム 2016/06/29(Wed) 01:40 No.53690

うにうにさま

こんばんは。

おっしゃるとおり、「一切の色について」と、22-25ではなっていますが、「色」ではなくて、受、想、行、識とするのが正しいです。

ここは、経典も、省略になっているため、自分で省略しない形に戻したつもりだったのですが、ミスが出てしまいました。
どうも申し訳ありません。訂正しておきます。

けっこうあわててアップしたりするので、まだ、ミスもあるかと思います。
他でも、ありましたら、お知らせいただけると助かります。

わざわざご指摘いただいてありがとうございました。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/06/29(Wed) 08:56 No.53690

確認いただき、どうもありがとうございます。

この訳がとても読みやすいのは、この省略を補われているからなのだと思うと、ご苦労いただきとてもありがたいです。
また、ゆっくり読み返してみようと思います。

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Re: サンユッタ・ニカーヤ 22-79   春間 則廣  2016/06/29(Wed) 09:42 No.53690

簡単・平易  と
難易 とを 多くのものは 顛倒します

聖者は、 簡単なことを 怠りなく為すことに置くから
顛倒夢想を 遠離することが叶うのです

間違いがあると、間違いなく知ることに、間違いがある

間違いを正す、その行為に、 怠り  が 具わっている

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/06/30(Thu) 17:12 No.53690

顛倒夢想は遠離することはできても、
怠りがあるとまたしのび寄ってくるかもしれない。

間違いかもしれないと気付くことはできても、
それで満足していてはもっと大切なことに気付くことはできないかもしれない。

怠ることなく、また読んで考えてみます。

どうもありがとうございました。

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『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/06/30(Thu) 20:29 No.53690


覚者 以外には、“必ず” 顛倒があり
例外が ありません
言い換えると、
顛倒していなければ、成就者です

「顛倒していなければ、成就者です」 このこと(文)が、
すでに顛倒した者の言葉です
顛倒した者(と)は、(この文が)
顛倒していないと、顛倒する者のことです

どのように顛倒しているかは、顛倒した者に おとずれ難し 、、、、

「 真理は、真理を得るまでは、真理とはされない 」
これも、すでに、 顛倒した者の言葉で
顛倒していないと聞く者の言葉です
( 「唯仏与仏乃能究尽」
   法華経に説かれる言葉です が これが、真理ではない ということです )

怠っていると知らない限りは、
怠りなき精進は起きない

>間違いかもしれないと気付くことはできても、
>それで満足していてはもっと大切なことに気付くことはできないかもしれない。

そういうことではありません
必ず間違っているのです
満足・不満足 の 問題ではありません


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/01(Fri) 08:46 No.53690

ありがとうございます。
いただいた言葉をこうして考えていること自体も、何かを気付きたいという欲に動かされていることで、「わかった気がする」という喜びでさえも顛倒夢想につながるものだと、あらためて思います。

それでも、自らの中の顛倒夢想を、少しづつでも減らしていくことは大切にしたい。

ひたすら喜びを求めて学んでいたのかと恥いる次第です。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/01(Fri) 10:46 No.53690


> それでも、自らの中の顛倒夢想を、少しづつでも減らしていくことは大切にしたい。

ここにも、顛倒があります

なぜ 釈迦牟尼 が 牟尼 とされるか ?

誰よりも(今そこにいる自らを含めて)顛倒を見出しているからです

見出すから、対処できる
誰も見出していない顛倒(自らも見出していなかった 顛倒 )
に、向き合う
だから、 対処が起きます

起きた対処を知るしかないものには、 顛倒が見えない
顛倒は 覆われて 対処 がある

晴らす ということは
覆うということと同義です

悟りにない者は(晴らされたと 顛倒する  から )、顛倒を引きずる


よく聞きなさい(顛倒しつつでも構わない)

生きるということは、 「無明」 に ある   ということで
生老病死にある とき  生きるということが  起きています

永遠の生 は  老病死 から 遠離しています
永遠の生 は  「生」 ではないけれど、
「生」 という名称にあります

永遠 は 此の 生にある こと  に 縁起しています

縁起が 何ものにも縁起しない(自性を持つ)のは 不思議 な ことです

縁起の法  ではなく 縁起  は 法 である 
( 法  とは 我  のこと を 言います )


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/01(Fri) 12:12 No.53690

ありがとうございます。
今一度、おつきあいいただけると幸いです。
無知をさらすことと、恥を忍んでうかがいます。

無明とは、縁起と論理によって全てを解き明かすことができない心の奥底のこと。
無明のなかには必ずしも論理も縁起も貫かれず、(おそらくそのために)顛倒夢想(の全てではないかもしれないが多く)が生ずる。
無明から生じた顛倒を、顛倒であると見出し、そこから対処を得ることを顛倒と向き合うという。
「生きるということ」において、対処に終始しないで、顛倒を見い出し、顛倒と向き合うことを怠ることがないようにあろう。

このように考えました。
(そもそも、以上に大きな誤りがあるかもしれません。もしも、大きな誤りがなければ、以下の質問にお進みください)

さて、説かれた「永遠の生」とは、このような姿勢そのもの(あるいは、この姿勢を含む智とその実践)のことを示しているかのように感じるのです。しかし、的はずれな気もします。このことについて説いていただくことをお願い申し上げます。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/01(Fri) 13:29 No.53690


> 説かれた「永遠の生」とは、

(あなたの論点の)誰  が 説いたのかが、不明ですが
永遠の生を説いたのは わたしではありません

しかし、釈迦牟尼は 永遠について、わたしに教えを与えてくれています

> このような姿勢そのもの(あるいは、この姿勢を含む智とその実践)のことを示しているかのように感じるのです。しかし、的はずれな気もします。このことについて説いていただくことをお願い申し上げます。

わたしは 説きません
 ( 説く時もありますが、
   その時において、説くのは、今のわたしではありません )

( ここが、縁起を知るまで、三世 に対する無理解となります )



難しく考えると、
難しいことが起きている(難しいことを起こしている)

難しいことが起きているから、難しく考えざるを得ない
のではないのです !


そういう前提で、

Su.762
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

を 読み取って見ましょう

何故に、 解し難き真理 が あるのでしょうか ?

安楽なるモノを、苦しみと顛倒する

安易で、誰にでも楽々とあるモノを 
(得)難くして、苦しみをもってして、得ようとする

苦をもって得られているモノは 苦であり、
得られ得るものは 苦でしかありません

目的は先にあると顛倒しますが、
今あるところが、歩んで(歩みを進めて来て)ある(得ている)ところで、目的そのものです

今しか 対処するところがない
それを 寂天(シャーンテイデーヴァ)は

「今生に得ることなくして、後生に如何に成ずる」 (入菩薩行論四)
 と言います

ただ一度の生を生きる時、次の生はありません

ただ一つの生は、 今ある足の 足下 = 脚下 にあり、
脚下が 自己という 洲 です
「 脚下照顧 」 とは 洲を得る ということです
洲が法であり、法が我です
「 我を見る者は法を見る 」 
自らの生が、他との関わりなくして
自性にあるのなら 我を見ることも起きません
我を見るとは、関わり方を見るということで、
関わり“方・法” が 「縁起の理」 です

どうやって、自己を見るか と 尋ねられている 、、、、

他を見る時、自らの関わり方に沿って 認識が起きる

それを正しく見る

それ以外に方法はありません ( 自他 は 「不二」 なのです )

あなたが 分かるまでは、わたしに分かるということは訪れていない
( 訪れていようと、あなたにはわからない )


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/04(Mon) 08:13 No.53690

どうもありがとうございます。
もう何日も考えていました。
そのままに受け取って、怠らず今を生きることしか、今はできないようです。

こうして、対話をさせていただいたのは初めてだったのですが、たいへん貴重な経験をさせていただきました。

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『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/04(Mon) 10:11 No.53690



言葉の綾ではないのです


使い方に、生き様が顕れます


今は正しくとも、“移ってある”今は (今であるしかないけれど)
正しい   とは 限らず(=ことではなく 正しくない)

移る限りは、恒常(真)の今ではありません
( 真理にたがうということの 言い換えです )

恒常でなければ、輪廻しています
( 輪廻の生は 恒常である一度限りの生 と
   同じ“ところ”を共有し、別のこと として 理解に乗ります )

> そのままに受け取って、怠らず今を生きることしか、今はできないようです。

この言葉が、華厳のことばの如く、荘厳されているのに
 眼を 見張ります
   耳を そばだてます  

生きること しか、今にも 先にも 後にも   残せない

過去にどう生きてきたかは、今どう生きるかに   よって、
未来において 確定されていきます   →    今  決まる

そのまま受け取ることを 怠りなく して 行って、今を生きてください
「 怠らず 今を生きることを、今シテ イキ マス 」  と 聞こえます

こういう風に 仏陀の言葉に接する幸せを
 皆と共有している喜びは
利他 という 言葉で 表されています

あなたから恵される 喜び を 受け止めて、
あなたに起きた 慈恵 を (“わたし”が受ける)恵みと知る 、、、、

>  貴重な経験をさせていただきました。

過去形ではなく、
現在進行形
過去完了形 現在受け止め形 に してください

わたし事 を 敢えて言うなら
「 あなたからの恵みを 受け止めさせていただき、今前にある四食としています 」


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/04(Mon) 10:31 No.53690


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今は正しくとも、“移ってある”今は (今であるしかないけれど)
正しい   とは 限らず(=ことではなく 正しくない)

移る限りは、恒常(真)の今ではありません
( 真理にたがうということの 言い換えです )

恒常でなければ、輪廻しています
( 輪廻の生は 恒常である一度限りの生 と
   同じ“ところ”を共有し、別のこと として 理解に乗ります )

***********

> 恒常でなければ、輪廻しています
> ( 輪廻の生は 恒常である一度限りの生 と
>    同じ“ところ”を共有し、別のこと として 理解に乗ります )

これが、 生きている此の生において
顕浄土  の根拠で 正定衆(現生正定聚) が あるということです

親鸞の 「 地獄は一定すみかぞかし 」 という
 住処 を 見出すディーパは  輝いて 足元に  あります

立つところは地獄
立つところを見出すところに(立つところである地獄に)立って、ディーパ にある


大乗 を知る時
身(五蘊 色・受・想・行・識 )に起きている矛盾を 知る
矛盾のママの生で (清浄・ショウジョウ なる)正定 を得ている

小乗 が 間違いではなく、
小乗に 拘りを持つと、 拘りの中から出る道を見出さなくなる
だから 正定 を 得ることが 不能となるわけです

ダイジョウ ブッ !  と
     “ブッ” !  が 言っているのが聞こえます 、、、、


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/04(Mon) 15:49 No.53690

> 矛盾のママの生で (清浄・ショウジョウ なる)正定 を得ている

利他に生きられれば良いのですが、逆に他人の欲に火をつけるようなことになることを恐れるばかりの日々であるようにも思います。
この矛盾さえも、かかえたままで「清浄なる正定」に達っするのはかなわないのではないかとも思えるのです。たとえ念仏にすがっても。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/04(Mon) 17:21 No.53690


>>  矛盾のママの生で (清浄・ショウジョウ なる)正定 を得ている

> 利他に生きられれば良いのですが、逆に他人の欲に火をつけるようなことになることを恐れるばかりの日々であるようにも思います。

恐れるから、近寄らない
近寄っても、恐れて、用心する

恐れをしらぬ人生には、苦も知られることなく
思うがママに、自らを配している  自我 が  住む

多く 苦悩を知る時
多く 対処の端緒にある

知らなければ、対処するところが見つからず、 苦の ママ に 住む

> この矛盾さえも、かかえたままで「清浄なる正定」に達っするのはかなわないのではないかとも思えるのです。

この世では、この世の 思い が、すべての思い を 支配しています
たとえ、支配されることのない思い( ブッダ=弥陀 の 五劫の思惟 )でさえも
支配にある 思い  によって、思われています

「煩悩成就の凡夫生死罪濁の群萌、、、、、大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る」 『教行信証』

「浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教・行・信・証あり。」 『教行信証』

 ( 浄土に往生することを「往相」といい、報いを他に転回することが「廻向」です )

ここに、「信」 が 立つところがあり
「信」 が なければ、不安だけがある
不安があっても、 信ずる 縁り処  が ある
掴まっていられるから、不安でも 見据えることができるのです 、、、、

大乗の根っこ が ここに根を張っています


> たとえ念仏にすがっても。

すがるのではなく
  念仏 する(申す)   のです

親鸞は 
しようと思い立つだけで、 利益にある と言っています

ひとたびの 念仏が、すでに親鸞に起きて 申すところにあります

( 往相廻向によって その ) 摂取不捨の利益にあづけしめたまう  と 教えています

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・ 善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑ は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべ き善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐ るほどの悪なきゆゑにと云々。」  『歎異抄 第一段』



親鸞も すがられたのでは 動きが鈍る
信ずるところ が 動きを 助ける(支える)



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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/05(Tue) 08:36 No.53690

> ここに、「信」 が 立つところがあり
>「信」 が なければ、不安だけがある
> 不安があっても、 信ずる 縁り処  が ある
> 掴まっていられるから、不安でも 見据えることができるのです 、、、、

その「信」が多くの人々の求めるところであった親鸞様の時代には、まさに人々はそれを縁り所として掴まることを実感したことでしょう。

一方、その「信」の上で、地方財閥として暮らす父親を批判した宮沢賢治さんのことを思い返してしまいました。

サンガ、浄土という言葉から、私は、お釈迦様をはじめとした多くの方々の知恵をいただき、またその知恵を求める思いを共有させていただいているという気持を持っています。

今、その信をもってしても、欲に火をつけるような目的もった行いを矛盾をかかえたまま念仏をとなえつつ行うことは、かえって重すぎる。むしろ,どちらかを捨ててしまいたくなる、というのも否定できないのです。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/05(Tue) 09:31 No.53690


どっちを捨てても
捨てるものは
あなたの執着の対象です
 捨ててみると わかる

やってごらん

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/05(Tue) 09:42 No.53690


捨てられなければ
持っていてもいい

親鸞は 持ったままで 正定衆 であるとする


重い・重くない は  思いにある
重いとするとき、思いがそこにある


ものは思いよう  ということは
  重くて死にそうだとして、
死んだ者はいない  ということです

死ぬときには 荷は重くなく 軽くなっている
輪廻であろうと 一度きりであろうと
「 信で 」 始まる

どうせ 一定 地獄なら  輪廻が輪廻であるだけ  の言い換え
死にたいくらいが 死にたいくらい あるけれど
死ぬのは いつも 一回だけ


捨てれるモノを捨てれば、舟は 矢のごとく(カイ となり)岸を目指す



比丘 ではなければ 捨てるものに事欠かないとも言えるし
捨てるものだけ しか  持ち合わせがないともいえる

比丘かどうかは ワタシガキメル 、、、、


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/07/05(Tue) 10:52 No.53690

まさに、その両方を抱いたままに生きる父と、何度も捨てようとしてもがき続けた賢治というように思えます。

もちろん、どんなふうに信をたてるのも私の心の持ちようひとつであり、決まらないからどこかの神さま決めておくれ、というのもあるし、しょうがないからいつまでも重いまましょっていこうという肉体派の行動もあるし、どうせなら軽いと思っていこうということもあるのでしょうね。(もちろん、さっさとどちらかを捨ててしまうというのも、アリでしょうが、そうはいかないという前提です。)

おそらく、どうせなら軽いと思いつつ、かつ怠ることなく顛倒を見出そうとすることが、よさそうなのですが。
あるいは、重いと思っていても、いづれは軽く感じるのかも知れません。しかし、どこかで大切なものを落としても気付かないということにもつながりやすいな、という点で危ういと思います。
そして、親鸞様のお言葉は、もしかしたらこれらのことに導いてくださる方便だったのかとも思いますが。

わかっていたとしても、どこかで「重いんだよー」と伝えたいだけなのかも知れません。こんなことは、瞑想のなかで済ませるのがエチケットなのかも知れないですが。

愚痴ような表現になってしまい、申し訳ありません。

こうして誰かが読んでくださると思って書くことは、明らかに自分だけのノートに書くものとは異なり、たいへんありがたいことだと改めて感じております。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79   春間 則廣  2016/07/05(Tue) 13:13 No.53690


その誰かに
自分がなることが、大切なことです

WWW ということの、行く着く先に 自らがある

自分のモノは自分のモノと顛倒すると
自分という囲いから 出ることができなくなる

発するところにいつまでも張り付いていることを、輪廻という
受けて歩みを進めるところに
歩みという、 新しき   (二つとないのに)
誰もが歩む  一つの道が、  無数に ある

自分という木に 仏果 が 実り
収穫が起きる

その木に  なって  収穫してごらんなさい
成らせるのも、収穫するのも
自らという 「気」 に起きる 「機」 です

機縁が起きて キエンとする
“ キ ” エル   マエニ  収穫が ある ?

後からにするかい ( 爽快 コウカイ ? )


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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』22-79  うにうに 2016/08/08(Mon) 10:32 No.53690

ひさしぶりにこのスレッドに返信します。

今さらながら、春間さんとここでさせていただいたやりとりがと、石飛さんスッタニパータなどの原始仏典の訳と接して見たことに支えられていることに感謝いたします。

以前は、単に理解しがたい矛盾をはらんだ説としてしかゴータマさんの法を見ていなかったのが、石飛さんの訳で、からっぽに向かう法というのが「ああ、こっちの向きなのかな」と垣間見えた気がします。お経や、春間さんの書かれることをもとに自分にとっての道しるべを見つけることが日々の楽しみの一つです。

今は、自分のなかにある触がなかなか非我とならず、一つ一つの縁起を見て、感情的な悲しさや楽しさの貪りを減らすことで、少しでも「あきらかみ見る」ことに近づけれたらなと行っています。

自らの最小限の糧を得るために、仮設したいくつかの技術とかしがらみを使って生活するということ。そこにある矛盾の地獄。そこで大切なものを見失わないため、(自分で空と仮に思いこんでいる)法によって(できるだけ)「ありのままに」見ようという(仮設された)見解にたよることが、今の自分の状態です。

これで、とりあえずなんとかやってみようと思うのは、ゴータマさんから連綿と伝え実践されていることの、その糸の端っこに自分もぶらさがっていると思えるからなのかも知れません。

こんなことを掲示板に書くのも、まさに「ひとりごとではきつい」というおさえがたい触の欲から発っしていることは明らかなのです。本当は自分のノートに書いておけば済むのです。
(おそらくほとんど誰も見ないであろう過去のスレッドなので、どうかお許しください)

ただ、仮に批判されてもどこかに発っしておきたいという欲も、おそらくサンガは受けとめてくれると(勝手に)信じ、こうしてつぶやくのだな、と思うのです。

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『『スッタニパータ』と大乗への道』  管理人エム 2016/05/23(Mon) 05:26 No.53678 [返信]

トップページに、新刊本を載せました。

クリックしていただくと目次と「はじめに」を読むことができますが、文字化けしているかもしれません。

目次にパーリ語が入りますので、エンコードをユニコード(utf-8)にしてください。また、「はじめに」は、日本語(シフトJIS)です。
よろしくお願いします。

画面上でマウスを右クリックすると、エンコードの表示が出ます。わたしの場合。

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Re: 『『スッタニパータ』と大乗への道』  無宗だ 2016/06/04(Sat) 11:41 No.53678

管理人エムさま、ごきげんよう。
遅くなりましたが、新刊出版、おめでとうございます。

さて、iPhoneでみると見事に化けます。
iPhoneのsafariは、簡単にエンコードを修正できません。

多くの人に読んでもらうためには、やはり、コンテンツの側でエンコードを指定するべきではないかと考えます。

大智度論研究 のページは、以下のようになっているので、文字化けしません。
<META http-equiv="Content-type" content="text/html; charset=Shift_JIS">
<TITLE>大智度論研究</TITLE>


同様に
<meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=UTF-8" />
<TITLE>新刊『『スッタニパータ』と大乗への道』</TITLE>

<META http-equiv="Content-type" content="text/html; charset=Shift_JIS">
<TITLE>『スッタニパータ』と大乗への道</TITLE>

とすれば、文字化けは解消されるはずです。

iPhoneユーザーを切り捨てるのは、もったいないと思います。
せっかく、アップしたコンテンツをより多くの人に読んでもらうために、どうか、いま、ひと手間、よろしくお願いいたします。

そして、今後、作成されるコンテンツもエンコード指定されるようよろしくお願いいたします。

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Re: 『『スッタニパータ』と大乗への道』  管理人エム 2016/06/10(Fri) 21:48 No.53678

無宗ださま

こんばんはっ!

> 同様に
> <meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=UTF-8" />
> <TITLE>新刊『『スッタニパータ』と大乗への道』</TITLE>

> <META http-equiv="Content-type" content="text/html; charset=Shift_JIS">
> <TITLE>『スッタニパータ』と大乗への道</TITLE>

> とすれば、文字化けは解消されるはずです。

有益なアドヴァイスありがとうございます。

分かりました。何とかやってみます。
意味は分からないけど、言われたとおりにしてみてみよう。感謝感謝。

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Re: 『『スッタニパータ』と大乗への道』  管理人エム 2016/06/10(Fri) 23:00 No.53678

無宗ださま

うまく行ったみたいです。
文字化けしません。ありがたや。

どうも、サンキューです。

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方便心論・幾星霜  pocket 2016/05/12(Thu) 23:06 No.53674 [返信]

『龍樹造「方便心論」の研究』をアマゾンで購入したら10年前のものが発送されてきまして、びっくりしましたです、ええ(´・д・`)

重版とかされるのかなあ、欲しい人は早めに注文しておいた方がいいのかもしれないです。。。

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Re: 方便心論・幾星霜  管理人エム 2016/05/14(Sat) 18:54 No.53674

おお、もう10年になるのか。。早いなあ。

重版されないと思うなあ。
学術書扱いなので、そんなに売れないと思うのだ。

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