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 Re:「慈経」 莓箭毒蛙               春間 則廣  2017/11/07(Tue) 08:45 No.54499 [返信]

> 金正恩さんが幸せで安穏で快適だとその他大勢の人たちが不幸せですよね

ここが 大乗への 道となります


釈迦牟尼が 「成道」 するには 独りで “ある”
  ということが     必須です
 「 唯我独尊 」   ということです

釈迦牟尼は 他の人の 不幸( 「 苦 」 ) を 見て
 「四門出遊」 に あるわけです

成道すれば 「苦」 がなくなるのではなく
「苦」 を 諦観するわけ  で
 なくしたわけ       ではありません

あなたが苦しんでいるのを見て 
わたしは  「安楽」 に ある  ことができるかどうか  です
(  顛倒すれば 「道理」 は 変わって 映ります )

>  幸せで安穏    ということは  仏教では「楽」・「アンジン」にあてます

金持ちを うらやむ心は 金持ちになった時に その本当の姿を 知ります
金持ちは 金を持ち続けるために 金に支配されて 汲々としています
金が 支配の 「基」 と 顛倒します
「金は天下のまわりもの」 と 知る者は
自らの力が 金にあるとは 思いません
廻すモノがいて 廻る → 一人で廻すことには “なりません” が
( 鐘の音は 打つモノと 打たれる鐘とで 鳴るように
   鐘が作られて 据えられて 祇園精舎 に あるように )
鐘を鳴らすには 「金」 が イル

鳴らすものが 鳴らせている ( あの鐘を鳴らすのはだれか )

幸せを安穏 を 生らせているのは 誰か
鳴らすものの 生らせる   なる  鐘の音

あなたが そう思わなくとも あなたではない 自分(釈迦牟尼)が そう思う時
菩薩が 湧出し
湧出するから 働きにあり
働きにあるから 成就にある

あなたが    そう思わなくとも 
      あなたが知らないことは  その存在がないけれど
知った時には 知らないことはなくなっていて
    知っている存在が 
あなたの生まれた時 から 存在している

「ない」もの は 「ない」もの

これが <「ない」もの >      が あるとき
《 これが <「ない」もの > 》   が  ある

≪  これが <「ない」もの >   ≫ が あるとき <これ> が ある

幸せである には 幸せであると 認める “者” が 存在していなければ
幸せである  と 観察される“モノ”  一人では  認める者は 存在していない
認める者は   一人では  観察される“モノ”   に 成っていて
観察されるまでは 認められていない


一人 では 幸せ には なれない構造 に 思い当たることができますか 



西天東地嫡々相承 「 単伝 」  である


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Re:  Re:「慈経」 莓箭毒蛙              莓箭毒蛙 2017/11/07(Tue) 21:10 No.54499

お題でご指名いただきましてありがとうございます。

>あなたが苦しんでいるのを見て 
>わたしは  「安楽」 に ある  ことができるかどうか  です
>(  顛倒すれば 「道理」 は 変わって 映ります )

杜子春みたいなものですかね。
「悲」「捨」ですね。
北朝鮮は中国の縄張りなのでどんな残虐なことが行われても
手が出せないですからね。
スマナ長老様ではないですが、「悟りの光が現れますように」と
祈るのみですね。
次に核実験すると地盤がもっと崩壊して
偏西風で核物質が北海道に達するという予測もありますね。

>一人 では 幸せ には なれない構造 に 思い当たることができますか 

自我ではなくて、間主観性とか間主体性、相互主観性とかいいますよね。
自己のドゥッカを観察する行者なので、いまのところあくまで
自己を整える段階だからそこは踏み込まない。

とすると、北朝鮮のお話も自然と片が付く。

一切生きとし生けるものがスッカーでありますよう、でいいか〜

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「慈経」  管理人エム 2017/11/04(Sat) 08:56 No.54486 [返信]

『スッタニパータ』の第一章8「慈経」も入れてみました。

「雪山経」(『スッタニパータ』1.9)もいれようとして、今のところ、失敗中。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/metta.html

「です、ます」調になってませんでした。
うーん、最終的には、ちゃんと見直して、一貫した訳にした方がいいと思いますが、とりあえず、これでもいくらか役にたつかも。

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Re: 「慈経」  莓箭毒蛙 2017/11/04(Sat) 20:51 No.54486

>一切の生きとし生けるものが、幸せであるように。安穏であるように。快適であるように。

ああいいですね〜。多幸感満載のお経です(*´∀`*)

蛙個人としては今のところ最強のマントラです。

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Re: 解題14  投稿:エム No.54482   春間 則廣  2017/11/06(Mon) 09:02 No.54486


>  石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。「論争からの離脱が、空論者の行いである。」すなわち、「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものの確実性を瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。
 そして、「疑い」は晴らされることになる。
>  (了)

ここで注意して 挑まなければならないことは
>  石飛の次の言葉
という 前置き です

同じ言葉を 取り上げても
同じ心の置き方で 捉えなければ 
言葉は 
言葉の羅列
  あるいは 違った意味を指す言葉の使い方にすぎなくなります
( まさに これを言う わたしのこの書き込みが
    あなたによって、言葉の羅列化に されていきます )

自らの主張 を 瓦解させては 瓦解自体の主張が 瓦解しています
 瓦解させるということ で 堅固にする
言葉使いは 瓦解系列ではあっても 構築に使われている
構築に使われる 思考形式を 瓦解するには 瓦解を 明らかにしなければならない
明らかにするのに 瓦解を使う

この “ 作用 ” を 知らなければ 龍樹を 使うことはできません
作為をもって 無作為に切り込み
 更なる 無作為にひそむ作為を 顕在化させる

そのとき 使われる作為は 無作為に 端緒を持つ
( 端と 中心 作用部分が 無いから
  いくら作為的に “用” を為そうと 決して 全一 を離れない )


>>  思惟というのは、はじめると(終わりにいくまで)止まらないものですね。

と 一端 言葉を止めて  端 緒  につく  、、、、
>  (了)
せずとも 終りにされる 、、、、

>>  spinobuddhistさまの真摯な思索に、龍樹やブッダにかかわるこれまでの研究がたえうるのか、それを試されているようにも感じました。まあ、けっこう仏教研究のいい加減さやボロも露呈してきているなあ、というのが思うところです。

<真摯な思索> があるとき  <真摯な思索>   がある
<真摯な思索> は <真摯な思索> とっされるモノのによって 理解される
誰かが <真摯な思索> と 決めれば(代入すれば)
 <真摯な思索> は そこにおかれている

<真摯な思索> に対して  そのような <真摯な思索> の仕方を用いいない者は
>>  spinobuddhistさまの真摯な思索
と認める 引用されている  <真摯な思索> の 所有者によって
<真摯な思索> と 追認され 堅固なる<真摯な思索> を 構築しあう

>>  もちろん、龍樹やブッダに欠陥はありません。(と断定してますが、それでいいのか?)
(いいのです。ヴィトゲンシュタインの次のことば

ヴィトゲンシュタインの次のことば は ヴィトゲンシュタインの言葉ではない
あなたが引用する あなたの引用下における 言葉です

> 知識の究極の根拠は承認にある。(『確実性』三七八項
という、ここを受け入れるならば。)

誰が どのように承認しているかで
承認しないモノは それを 正しく承認できる

>>  ヴィトゲンシュタインの説くことばは、ブッダ的に言うならば

=====
>>  「 比丘たちよ、この世において、まだ何も聞いていない凡夫は、聖者に出会うことがなく、聖者の法をよく知ることもなく、聖者の法に教え導かれることもなく、また、善き人々に出会うこともなく、善き人々の法をよく知ることもなく、善き人々の法に教え導かれることもなく、「色は自己(アートマン)である」と考える。
>>  比丘たちよ、このように考える考えは、行である。さて、そうなら、行は、何を原因(ニダーナ)として、何を集起として、何から生まれてきて、何を起源とするのだろうか。
>>  無明との触から生じた感受に触れて、いまだ何も聞いていない凡夫に、渇愛が生ずるが、それから生まれたものが、行である。」(「パーリレッヤ村」『サンユッタ・ニカーヤ』22.81
====

>>  の中にある「このように考える考えは、行である」が対応していると思います。このことを、spinobuddhistさまも、指摘しています。

対応していないと “知る” とき その知は 「智」 に 入り
「智」 として ここに展開されている

もっとも こう言うこと自体が “痴” であれば
  展開したのは みずからの 「痴」 であり
わたしは 「無痴」 ではないことの 証しとなる


挿入を 超えて 次の 言葉たち に 移る

>  これに対して、石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。「論争からの離脱が、空論者の行いである。」すなわち、「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものの確実性を瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。

単なる主張です

主張は 論争者と 対面していないように見えても
そこに論争があり 自ら 論争を作り上げていることになる
( この事は 主張ではありません   論争することでもありません  )

>>  龍樹は、聖者の法に触れていない凡夫の「行(考え)」に、聖者の法をプラスして、
  凡夫 は どこにあろうと 凡夫です
 <凡夫> があるとき <凡夫> がある
>>  寂静へと導くという作業をしているのだろうと思います。
  <凡夫> は <凡夫> の 道を歩むから <凡夫>   です
  聖者 は   聖者の道(聖者の道へと続く道) を 歩むから 聖者とされます

導くところは 聖者の道 
導かれるところにあるモノが 聖者の道を歩み
聖者の道を歩む者が 「聖者」 と 呼ばれます
  歩むところが 「 聖者の道 」  となります


石飛の考察は  正しい考察であると
    間違った考察で    述べたとき
石飛の考察は どう 正しい  のか


さらには 石飛の考察 の 不備を指摘するとき
いかなる不備によって いかなるところが 正しくないとされているのか
それによって 石飛の考察は 正しくないことになるのか ?

考察の不備  は  習慣的 解釈( 薫習 ) の “賜物” です
( なぜ賜物かは それに気付く時 気付き を 賜っているからです )

>>  ヴィトゲンシュタインの説くことば
と 聞く者もいるが   
それは “迷い・誤” に 過ぎない
   説き 説かれた言葉は すべて ブッダ に 由来する

おなじ 「説」 を 使おうと 「迷」 と 「誤」 とが
一つの宇宙に 全人類(セイジャとグシャ)が
    生き物(者) = 生邪 として生存するように

    一つの言葉に 真理と迷誤が 存在している

迷誤が 迷誤を 重ねる時もあれば
迷誤が 真理を 導き出すこともある

だったら わたしの言葉に
 矛盾が起きていることに  なる や 否 や ?


>>  その行い、その龍樹の「行」こそが、中道だ、ということですね。

>>  それは、おっしゃるとおりだと思います。
    中道にあれば おっしゃる“通り” の 中道通り の 中心を歩んでいる

>>  途中経過の思索においては、まだ、未検討のところもあり、さらに、こちらに問題がある場合と、spinobuddhistさまの理解に疑問があるところもありますが、そこは、もはや大きな問題ではなかろうと思います。(ほんとは、大きな問題ですが、今の段階では、「聖者(明智・真理など)の教えによらない思考は、行である」を確認しておけばよいかと思います。)

大小を言わぬ時は
大乗にある

>>  「聖者の教えによらない思考」ということで、また、あちこちから何か不満が出てくるかもしれませんが、ここはspinobuddhistさまのことばが、的を得ていると思います。


と 的を外しているかどうかは  他の考察にかま掛けて
自らへの 真摯なる考察 を   ハショッテ いる
>  それは、自らの根拠を剥奪された、言いかえれば「無明」を奪われた「行」なのである。
  自らがないとき 自らの根拠はない
   ないものを 剥奪できない
   剥奪できる 剥奪されるべき根拠が 覆い隠されている
>>  こういう言い方も「あり」だと思います。『中論』の核心を捕まれたと思います。

なんでもありではない と
こういう言い方を 特殊扱いする

さきに 「核心」 という言葉を 「 中心はない 」 と 言うことについて 使ったけれど

そこを 中心にして 思考を構築するから 「有漏」 に 「有」 です



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Re: 「慈経」  莓箭毒蛙 2017/11/07(Tue) 00:00 No.54486

>一切の生きとし生けるものが、幸せであるように。安穏であるように。快適であるように。

最近なにかと話題の北朝鮮の金正恩は一切に入るでしょうかね?

金正恩さんが幸せで安穏で快適だとその他大勢の人たちが不幸せですよね。

慈悲喜捨が揃わないとやっぱ微妙かな〜と思うこともあります。

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム No.54467   春間 則廣  2017/11/04(Sat) 08:51 No.54485 [返信]


 <これ>があるとき<これ>がある 

<これ>には 何でも代入できますが代名詞ではなく 指示代名詞です

何を指示しているかは 指示したものの 揀択にある

指示されて <これ> に 何を 代入するか は
 対する者の 揀択  にある
その揀択( <これ> ) を
 いかに照合しているかの揀択も
 それぞれが 自らの意識 に 持つ 
( ここに自我が起きているが
  起きているかどうかは 自我によって量ることはできない )
しかし
 自我は (自由気まま の 如く)
 我の思いの 下に 「意識」 を おく


<これ> が  ある   とされるとき
<これ> とは 何か 
<これ> は  どういうふうに  <それ>  を 指し
その同一性は 何によって 認識化されるのか
( はたまた <それ> と示したことが
  なぜ   <これ> と同一であるかどうかを疑わないか )

<これ>  とは どれでもなく 何であるということもない
( 何であるということがないとき  何であるかは 指示する者の 権限下にある )
( 命名・指示 「見」・権  は 指示している 「自我」 に あり
   その時の全ての支配権 を 付与されている者を 「自我」 と 呼ぶ )

他我 に 自我 を 認めないのも、認めないということを受け入れるのも 「自我」である


ということの 仕組みに行きあたるとき 瞑想にある
( ということ  が  どのこと かは 「瞑想」 に あって 「瞑想」 そのモノとなる )
禅 とは その行きあたり場所(  “ところ”  ) を いう
( あって あり続け ありたる者 を モノ化し タターガタ と 人称を与える )

あり続け 今に至り 続けてある  から 「永遠」 に ある

> 漢訳に倣って、<かれ>としていましたが、
  いずれも、イダム(これ)という代名詞なので、最近は、どちらも<これ>としています。

漢訳 に 不備があるのではなく 
漢訳を  訳して (自ら=自我 の意識下に於いて、「有見」とする)
理解に乗せ・「我」を それに乗せる者 の 理解 に  不備があるのです

「 <これ>があるとき<これ>がある 」    と  
「 <これ>があるとき<かれ>がある 」    とは
同じ こと( <これ> )   を  指しているから
指すという行為は   「仏性」 の  下の行為です

―  ここで 説明の論を 止めます  −

>  浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だから、許してください。

浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だから  
浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だ と 他人ごとを言う
自分で 自分を許しているとき
浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だから、許される   けれど
自分で許す 仕組みに 人を乗せてしまうのが
浅はかにできてるのが、煩悩のある人間 の 特徴  です

誰でも持っている 特徴だから 人とはそういうものだと  断定して
浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だから と 
煩悩 ではないとする “ 指示代名詞の使い方 ” で 
物事を 有漏に置く

「 人の生を受くるは難し 」  「 今 その生にある 」
なんで  <そこ>  に おいて  顛倒に 関わり続けるか 、、、、

<ここ> に おいて 関わるモノから
関わらずに 「理」 を 知り得る 者 へ
送る 言葉たちです 、、、、、


わたしは 許す立場にはいない
ゆるさない時   でも
 許されている “ところ” に 住むから 、、、、


『サンユッタ・ニカーヤ』12.20  管理人エム 2017/11/03(Fri) 14:48 No.54475 [返信]

「心にしみる原始仏典」に「縁」を入れました。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/paccaya.html

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』12.20  莓箭毒蛙 2017/11/03(Fri) 16:21 No.54475

あ〜タタターいいっすねぇ。語感がとてもいい。

老荘思想いいなぁ。

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』12.20  莓箭毒蛙 2017/11/03(Fri) 16:53 No.54475

タオってダンマみたいなものですよね。

法を洲とする。うーん。しあわせ〜(*´∀`*)

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Re: 『サンユッタ・ニカーヤ』12.20  管理人エム 2017/11/04(Sat) 11:14 No.54475

>法を洲とする。うーん。しあわせ〜(*´∀`*)

どうせ縛られるなら、法に縛られたい。
毒蛙さまの笑顔がステキっ!

太上老君ってのは、道教だっけな。。一度、勉強しようと思っていて、まだ。。

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『ウダーナ』1.1-1.3  管理人エム 2017/11/03(Fri) 13:28 No.54471 [返信]


「心にしみる原始仏典」に『ウダーナ』1.1-1.3を入れました。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/bodhi.html

「此縁性」の語は出てきません。

『サンユッタ・ニカーヤ』12.20も、あげてみたいですが、できるかな。

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Re: 『ウダーナ』1.1-1.3  莓箭毒蛙 2017/11/03(Fri) 14:42 No.54471

十二支縁起キターーー!

マニカナ先生がどんどん遠くに〜

十二支縁起は良くわからないのですが、
渇愛→取→有→生→老死etcのところは、
生=生への執着って考えるとすっきりかなぁと。
でもそれって、渇愛で取で有やんなんて^^;

現時点では蛙は

?→X→Y→ドゥッカ(第一矢)→Z→ドゥッカ(第二矢)→(繰り返し)

みたいにモデルで探求してます。
第一の矢を受けるのはしょうがないので、
第二の矢を受けないように工夫をする感じですね。

あと、食の影響が大きいですね何事も。
物質的なものも情報みたいな非物質的なものも。

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Re: 『ウダーナ』1.1-1.3  管理人エム 2017/11/03(Fri) 16:57 No.54471

>十二支縁起キターーー!

お!おお、喜ばれている、うふふ。

どんどん訳せば、もっと喜ばれるかも。。^^v

>あと、食の影響が大きいですね何事も。
>物質的なものも情報みたいな非物質的なものも。

アーハーラ(食べ物)は、きほんですよね。
そういう意味で、ブッダの説く4つの食べ物って、よくできてるなぁ、と思います。

実際食べる食べ物
接触
意思


二つずつそれぞれ、物質と精神を表しているような。
物質と精神って、古くてやっぱり新しい分類かも。

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Re: 『ウダーナ』1.1-1.3  莓箭毒蛙 2017/11/07(Tue) 00:54 No.54471

>実際食べる食べ物
>接触
>意思
>識

なるほど、アーハーラ(食べ物)と認識するのとしないのでは
大きく違いますね。

呼吸も食ですかね。呼吸の仕方もかなり大きい。

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451   春間 則廣  2017/11/03(Fri) 10:04 No.54467 [返信]


文庫本 が 無いので 手元本で参照します

> 「 <これ>があるとき<これ>がある 」  のことだと書きました。

これを見つけるのは 難しいことです
どこ(手元本の何p) に あるか  シメシテホシイ


任意の単語を入れることができる代名詞 ( 82p )

<これ>があるとき <これがあるとする者>がある
これは 端的に表現すると 「 <これ>があるとき<これ>がある 」 となる

<これ> が なければ < 何もない > が ない
<これ> が なければ < これがないとする者> が ない

 「  <これがないとする者>があるとき <これがないとする者 を ないとする者>がある  」 


> 絶対的に「ある」ということではない (83p)

「ある」  って 存在論 的かな ? 
絶対的に「ある」ということ  が  ある  かな
( あるのなら  ない  も     ある   )

絶対的にない モノ ( 絶対的に「ある」ということではない モノ )を  言ったところで しょうがない

<あるないの 論理> が  ある とき
<聖者の論理 >    が  ある( 成り立つ )

*********

> <これ>と<かれ>とに入るモノは消滅するもの (83p)

<これ>と<かれ>とに入るモノは消滅しないモノ

生滅していないから <これ>がある とされ
生滅するモノは <かれ>  とされ  ナカレ と する(される)
されるもの は 存在するもの

存在する( 存在していた と 過去形にしようと) と され、された限り 消滅しない
<これ>があるとき (全てのものは) <かれ>として 存在する

《 全てのもの 》 は   これを含む ( 含めるもの も 含む )
    「 <これ>があるとき<これ>がある 」 

<これ> が ないとき  <これ>は ないことである

( <これ> は  あるやいなや ? )
( この問い は  有るか無いか ? )

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451   春間 則廣  2017/11/03(Fri) 10:08 No.54467

上記(および本書き込み) は 
昨夜 痛み止め で Caイオン阻害系 の 鎮痛剤の影響下の書き込みです

すこし ロレツ が 回らない状態で 考察していることを
付け加えておきます

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451  管理人エム 2017/11/03(Fri) 13:36 No.54467

>どこ(手元本の何p) に あるか  シメシテホシイ

単行本も、いくつか種類があって、わたしもよくわからないのですが、

pp.87-88  が 最初にでた本。(ハードカバー)

pp.78-80  が ちょっと表紙のやわらかいの。

どっちかには、あると思います。
 

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451  莓箭毒蛙 2017/11/03(Fri) 14:18 No.54467

サッベー サッター バワントゥ スキタッター

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451   春間 則廣  2017/11/03(Fri) 19:05 No.54467


>>>  「 <これ>があるとき<これ>がある 」  のことだと書きました。

>>  これを見つけるのは 難しいことです
>>  どこ(手元本の何p) に あるか  シメシテホシイ

> 単行本も、いくつか種類があって、わたしもよくわからないのですが、

ハードカバー 第一刷 です
発刊 と 殆ど同じくして 手元に届いたと記憶しています

> pp.87-88  が 最初にでた本。(ハードカバー)

  「 <これ>があるとき<かれ>がある 」  
とはありますが
  「 <これ>があるとき<これ>がある 」  
という記述は 見当たりません

記述がなくとも、 意味は  ある  というなら
  「 <これ>があるとき<これ>がある 」  は  <これ> に 代入できます
真理表から 読み取ることであるのなら、 
わたしには 真理表は 読み取れません( 読み取り、読み解く能力に恵まれていません )
文章から 知ることであるのなら、 知るすべを持ちません

“ <これ>がある ” ということは “ <これ>がある ” ということである  
のは(ということは)
言語上の  約束事です(約束事にすぎません)


<これ> を 見つけられない時   <これ> は ない 

これ って  真実ですか ?


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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451  管理人エム 2017/11/04(Sat) 04:03 No.54467

>  「 <これ>があるとき<かれ>がある 」  
>とはありますが
>  「 <これ>があるとき<これ>がある 」  
>という記述は 見当たりません

ほんとだ。。そうだった。

最初は、漢訳に倣って、<かれ>としていましたが、いずれも、イダム(これ)という代名詞なので、最近は、どちらも<これ>としています。

紛らわしくてすみません。

うーん、最初から、書いてある通りにすべきだったなあ。
浅はかにできてるのが、煩悩のある人間だから、許してください。

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Re: 『十二門論』研究」解題 13  管理人エム. 54451   春間則廣  2017/11/05(Sun) 10:27 No.54467

私が許せば、 <これ> に <許されていること> が
正しく 代入されていることに なり、
許されたこと に
   
なっていますか ?

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 ブッキョ を 起こす    春間 則廣  2017/11/02(Thu) 08:42 No.54463 [返信]


>  要するに、仏教的にいえば、

“ 仏教的にいう ” という  意味は 成り立たない

***********

「  仏教  」 の 「 仏 」 とは 真理を体現して 真理・法 そのモノである ところの タターガタ 
その 如来 が
五蘊 に 五蘊として 対して 五蘊をもってして 知らしめること  の 
言語化 が 「 経 」 であり
“ 五蘊=心身 ” をもってして 表現する行いが 「 キョウ 」 = 「 経行 」です

これを 親鸞は 「 経 行 信 証 」 の順に並べました
表わされた 論書の 表題は 「 顕浄土真実教行証文類 」 と されています

真実教 が 「行」 として 顕わされている と  「信」 を持ち それが「証」されて 行く 
読んだ証の 文類  です

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真理的  にいう  と言えば
   その時 言われている その意味は 分かりますか ?
( たとえ分かったとして、分かった意味が あったとして  それは 真実か 真実的なだけか ? )


> 確実性の根拠は「識」にではなく、「行」にある、ということである。

「行」 が なぜ 確実に言えるのか  言ったことと 「行」 とは 一致していますか ?
一致している 面もある  というなら  似ている面がある  ということにすぎません

ミリンダパンハ を 引くまでもなく
車輪も 引き棒 も 車 ではありません
車輪を持ってきて 同一だから 「車」 的  であるとも言わず
車であるとも言いません

車輪は(それだけ取り上げれば) 子供の遊びにも使えます 、、、、

> とはいえ、この「行」は、単なる「行」ではない。それは、自らの根拠を剥奪された、言いかえれば「無明」を奪われた「行」なのである。それゆえ、この「行」には、唐突感が必ず伴う。なぜなら、われわれは確実性を奪われなければ、確実性を選びとることなど出来ないからである。いうまでもなく、龍樹の否定論証の目的は、われわれの日常を支える確実性を、崩壊させることにある。

単なる 「行」 であろうとも
  何とでも言い表すことはできる    が
いくら表わしても 表わすという「行」   は  
表わさられる対象の「行」          と  同一ではなく
表わす場所も 何故表わすかということも   違っている 


>  それでは、われわれは、『十二門論』における龍樹に、このような根拠なき「行」を、確認できるだろうか。


根拠があるかないかは  言う者の持つ 根拠 によって 確かめられる ( 上下 )

> 確かに、  龍樹は、対論者との問答において、発話行為というパフォーマティブな場に終始とどまり続けていた。しかしながら、肯定命題に否定命題を対置するだけでは、それらに対する「疑い」は晴れず、なお「識」にとどまっていたと、いわざるをえない。逆説的にいえば、「疑い」の根拠は、確実性にあったのである。
> これに対して、石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。

“ われわれ ” が 確信するかどうかは
この文を綴る “わたし” という 「我」 には 当てはまらない
けれども “われわれ”  の 誰に当てはまらなくとも
あなたという「我」 に 当てはまれば
 あなたは 正当に “ あなたの正当性をかざして ”  論を運べる

かざした論は かざすモノの 足元だけを照らし出す 、、、、

> 「論争からの離脱が、空論者の行いである。」

正当なことは 論じる対象ではなく
不当なことを 論じるのみ
中論頌は 何も論じてはいない ( 当たり前のことを 当たり前に 並べるのみ 、、、、 )

> 「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」

一部が 全部なら  全部は 何でも含んでいる
そうである時  一部をもってして 全部を 表わす「論」 の 意味がない

> によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものの確実性を瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。

ここに 理解の   顛倒がある
無効化 されていようと(されているとあなたが判断しようと)
  龍樹は 中論頌において
自らの主張    を  持ってはいない

自ら 起こしたもの( の 意味 ) は 
自ら 知るしかない 、、、、

誰がどう知ろうと それを知るのは 知る者自身 、、、、

> そして、「疑い」は晴らされることになる。

ここに断定がある
疑いが晴らされていて 何の疑いを 持つのか 、、、、

持っていないから 晴らされている
仏典には 「覆いは外された」 と ある


オオイキイテルカ  ( 効いて ね ー だろな 、、、、 )
( 覆い 着てるか    着てても見え ね ー  “ 王様は裸 ”  )

「 いろ こそ みえね か やは かくるる 」



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