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 「論理哲学論考」  七    春間 則廣  2017/10/30(Mon) 08:13 No.54457 [返信]


「 語り得ぬことは 語るべきではなく 沈黙することである 」
「 語り得ぬことは 語るべきではなく 沈黙することである 」
「 語り得ぬことは 語るべきではなく 沈黙することである 」

うるさいなー
      何度も語るな !


語っていることが 有るのであれば
何度語っても 語られたことが  ARU( 「∃」 ) 

ないのであれば 無い
無いことを聞いたのか  有るところのモノを聞いているのか

そこは 決めたいように決められていく

言っていることは
聞いたことは   存在があり 存在 を
聞く  と      味わう   ということ
( 美味いか不味いかは 揀択 あるいは 腹の満ち具合による )



どちらかが正しい またはどちらも正しくはない
∀x∃y,x>y ∀x∃y,x>y   ・  ∃y∀x,x>y ∃y∀x,x>y



 八不 に ハップン八文 トンデモハップン    春間 則廣  2017/10/30(Mon) 07:43 No.54455 [返信]


>   しかしだからといって、私自身が龍樹同様に疑いを離れたわけでもないのである。

この文章を使う意味を 使う者は 正しく意識できていない

龍樹同様 (疑いを離れたわけではない) ということ は
龍樹も 我という私と 同様に(疑いを離れたわけではない)   と 言う意味と  
龍樹の 知り得たであろうことと 同じことを
  同じ様に (知ったわけではない)  という意味を  二つ表わす


(あなたは) 単なる 表現上に起きる 些細な問題で 
(わたしの) 読み方の問題に過ぎない
( あなたは“あなた”を正しくとらえている )  と 考える

その前に 下記のようなことを 述べる

>   いうまでもなくそんなことはないのである。

言うまでもないことと 片づけること  にある
片付けられていること   とは  どのような(真理に基づく)判断であって
その判断が どうあるかで どう違うかが 決め得る

どうあるかは 判断の比較対象である“真理”を 捉えていなければ
(言うまでもなく)正しいか 言うから 間違ったこと(顛倒したこと)にあるか
判断しきれず
そこに “ 現代西洋哲学で ” 受け入れられる
「 語り得ぬことは 語るべきではなく 沈黙することである 」
という ヴィトゲンシュタイン の 考察が 成り立つ

何故   “ 現代西洋哲学で ”  と
 哲学の  範囲を 区切ったのかについて
考察できる者   は
「言うまでもなく」 と いう 態度 片づけ方を 遠離している


そんなことはない  と 断言して はばからない
そんなことがあるのは  何故か ??


そこに 龍樹が 見せたい(見せている)
 龍樹のいる“ところ” が 存在している

そういうことを よく考察したのち
ヴィトゲンシュタイン に 触れると
 彼の 掴もうとすることが 手に触れる

手に取り (修証一如の「修業」とい )行 とするのは 
その “後” (触れて起こして行く同一の「行」) の事
( そこには 後先は存在しなく 即今の 精進 が ある )

何故 「即今」 とし “今” とせぬかに
“今” ということに 縁起する 過去未来 が (起きていることとして)ある

龍樹は 中論頌 に於いて ここを 常に 捉えて 今ここに生きる


「『十二門論』研究」解題14  spinobuddhist 2017/10/30(Mon) 05:18 No.54454 [返信]

 私は、前節の最後、「仏陀がいうところの「あるがままに見る」とは、おそらくこの十二支縁起の直証である」という文のなかで、「おそらく」という副詞を使い、確言を避けた。もしも私がここで断言していたら、私は自分は悟っていると明言しているのだと、受け取られかねなかったのだろうが、いうまでもなくそんなことはないのである。
 同様に、私は、龍樹が八不の縁起によって疑いを離れた可能性を示唆したが、しかしだからといって、私自身が龍樹同様に疑いを離れたわけでもないのである。
 それでは、われわれは、何ごとをも、確信を持って語ってはいけないのだろうか。しかしそれでは、少なくともわれわれにとって日常生活は、成り立たないものとなってしまうのではないか。もしそうでないとすれば、われわれにとって、確信を持って、言いかえれば疑いを離れて語りうることとは、いったい何なのであろうか。
 確信あるいは確実性というものは、そもそも「知られる」、すなわち心の中に「与えられる」ものなのだろうか。この点にかんして、ウィトゲンシュタインは興味深い考えを示している。

われわれは、たとえば或る計算は、一定の状況においては充分にチェックされたとみなす。何がわれわれにそのようにみなす資格を与えるのか。経験か。それがわれわれを欺くことはありえないのか。どこかでわれわれは正当化を終らねばならない。そしてそのときに残るのは、われわれはこのように計算する、という命題である。(『確実性』二一二項)

根拠を与えることや、証拠を正当化することはどこかに終りがある。  だがこの終りは、ある命題がわれわれに直ちに真であると思われることではない。すなわち、言語ゲームの根底にあるのは、われわれの側における何らかの見ることではなく、われわれの行動なのである。(『確実性』二〇四項)

私は次のように言いたい。人は或る時点で、完全な確実性をもって真なるものを知るのではない。そうではなく、完全な確実性とは、ただ彼等の態度の問題である。(『確実性』四〇四項)

私は完全な確実性をもって行動する。しかしこの確実性は、私自身のものである。(『確実性』一七四項)

知識の究極の根拠は承認にある。(『確実性』三七八項)


 要するに、仏教的にいえば、確実性の根拠は「識」にではなく、「行」にある、ということである。とはいえ、この「行」は、単なる「行」ではない。それは、自らの根拠を剥奪された、言いかえれば「無明」を奪われた「行」なのである。それゆえ、この「行」には、唐突感が必ず伴う。なぜなら、われわれは確実性を奪われなければ、確実性を選びとることなど出来ないからである。いうまでもなく、龍樹の否定論証の目的は、われわれの日常を支える確実性を、崩壊させることにある。
 それでは、われわれは、『十二門論』における龍樹に、このような根拠なき「行」を、確認できるだろうか。確かに、龍樹は、対論者との問答において、発話行為というパフォーマティブな場に終始とどまり続けていた。しかしながら、肯定命題に否定命題を対置するだけでは、それらに対する「疑い」は晴れず、なお「識」にとどまっていたと、いわざるをえない。逆説的にいえば、「疑い」の根拠は、確実性にあったのである。
 これに対して、石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。「論争からの離脱が、空論者の行いである。」すなわち、「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものの確実性を瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。
 そして、「疑い」は晴らされることになる。

(了)

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Re: 「『十二門論』研究」解題14  管理人エム 2017/11/04(Sat) 05:17 No.54454

>(了)

このことばを確認してから、お話しをすると良かったかもしれませんが、途中であれこれ申しあげたので、やりにくかったでしょう。

思惟というのは、はじめると(終わりにいくまで)止まらないものですね。

spinobuddhistさまの真摯な思索に、龍樹やブッダにかかわるこれまでの研究がたえうるのか、それを試されているようにも感じました。まあ、けっこう仏教研究のいい加減さやボロも露呈してきているなあ、というのが思うところです。

もちろん、龍樹やブッダに欠陥はありません。(と断定してますが、それでいいのか?)
(いいのです。ヴィトゲンシュタインの次のことば
> 知識の究極の根拠は承認にある。(『確実性』三七八項
という、ここを受け入れるならば。)

ヴィトゲンシュタインの説くことばは、ブッダ的に言うならば

=====
「 比丘たちよ、この世において、まだ何も聞いていない凡夫は、聖者に出会うことがなく、聖者の法をよく知ることもなく、聖者の法に教え導かれることもなく、また、善き人々に出会うこともなく、善き人々の法をよく知ることもなく、善き人々の法に教え導かれることもなく、「色は自己(アートマン)である」と考える。
比丘たちよ、このように考える考えは、行である。さて、そうなら、行は、何を原因(ニダーナ)として、何を集起として、何から生まれてきて、何を起源とするのだろうか。
無明との触から生じた感受に触れて、いまだ何も聞いていない凡夫に、渇愛が生ずるが、それから生まれたものが、行である。」(「パーリレッヤ村」『サンユッタ・ニカーヤ』22.81
====

の中にある「このように考える考えは、行である」が対応していると思います。このことを、spinobuddhistさまも、指摘しています。

> これに対して、石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。「論争からの離脱が、空論者の行いである。」すなわち、「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものの確実性を瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。

龍樹は、聖者の法に触れていない凡夫の「行(考え)」に、聖者の法をプラスして、寂静へと導くという作業をしているのだろうと思います。

その行い、その龍樹の「行」こそが、中道だ、ということですね。

それは、おっしゃるとおりだと思います。
途中経過の思索においては、まだ、未検討のところもあり、さらに、こちらに問題がある場合と、spinobuddhistさまの理解に疑問があるところもありますが、そこは、もはや大きな問題ではなかろうと思います。(ほんとは、大きな問題ですが、今の段階では、「聖者(明智・真理など)の教えによらない思考は、行である」を確認しておけばよいかと思います。)

「聖者の教えによらない思考」ということで、また、あちこちから何か不満が出てくるかもしれませんが、ここはspinobuddhistさまのことばが、的を得ていると思います。

> それは、自らの根拠を剥奪された、言いかえれば「無明」を奪われた「行」なのである。

こういう言い方も「あり」だと思います。『中論』の核心を捕まれたと思います。

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Re: 「『十二門論』研究」解題14  管理人エム 2017/11/04(Sat) 05:43 No.54454

上のわたしの文章を、もう少しわかりやすく言うならば


聖者の教えに触れていない凡夫の考えは、「行」である


というここを認めて、この一点でお話ししています。

もし、龍樹自身も、凡夫に位置づけるなら、彼のやっていることは、もちろん「行」ですが、しかし、聖者の教えに沿った行であり、中道となるでしょう。

また、かれを、聖者と位置づけるなら、書いてある『十二門論』の中身は、中道を通って真理に到達する方法(=中道)にもなりましょう。

虚妄な法であるものは、虚妄であると尊師は語った。一切の虚妄の法は、行である、これによって、これらは、虚妄である。(『中論』13.1)

もし、何であれ虚妄な法であるものが、虚妄であれば、そこでは、いったい何が虚妄とされるのだろうか。これは、尊師によって、空性を明らかにするものである。(『中論』13.2)

という、テーマの一つの証明として捉えることも可能です。

次の論文は、この次に来る13.3を問題にして書きます。

空性は、『十二門論』のメイン・テーマであって、『中論』の目的です。

中道を通って、空性にいたるやり方が示されているのが『中論』だと思っています。

よくぞ、ここまで至りましたね!

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Re: 「『十二門論』研究」解題14  spinobuddhist 2017/11/05(Sun) 20:47 No.54454

エム先生
この度は有り難うございました。

先生の論考にインスパイアされて、ここまで思索の糸を紡ぐことが出来ました。議論の穴は多々あると思いますが。

機会がありましたらまたトライしてみたいと思います。

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「『十二門論』研究」解題 13 訂正版  spinobuddhist 2017/10/29(Sun) 03:50 No.54451 [返信]

 周知のとおり此縁性とは、「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」という四句で表わされる。此(これ)や彼(かれ)は代名詞であり、任意のものを代入できる変項として働く。したがって此縁性は、彼(かれ)に「苦」を代入することによって「苦」を随観し、「苦」の生起と滅の条件を探るものであるとされる。
 それゆえ一般的には、これを縁起の基本法則とし、十二支縁起もまた、この此縁性を援用して導出されたものとされる。この場合、此縁性が祖型的かつ完全であるのに対して、十二支縁起はその応用であり、それゆえ被導出的・副次的・部分的なものである、ということになる。
 しかしながら、これほど転倒した話はないであろう。そもそも仏陀が言う法(ダルマ)とは、十二支縁起の各支を指す。此縁性の此(これ)や彼(かれ)は、そこから抽象され一般化された代名詞に過ぎないのであり、法(ダルマ)ではないものである。
 もちろん、十二支縁起も言語=記号によって表現される以上は、此縁性を援用して「確認」することは出来る。しかしながら、「導出」することは出来ない。なぜなら、十二支縁起は本来概念(記号)によっては把捉できない、微細なものだからである。
 それゆえ、逆に此縁性こそ、具体的・個別的な十二支縁起の各支を抽象し一般化することによって、十二支縁起から導出されているのである。スピノザも指摘するように、具体的・個別的な観念こそが十全なものであり、抽象観念は非十全なものにすぎないのである。
 また、仏陀や龍樹が「他を縁としない」と言うとき、この「他」もいわば不定代名詞であり、変項である。それゆえ、「他を縁としない」ということは、たかだか「此縁性によらない」ということを意味するに過ぎないのであって、十二支縁起によらないということを、意味するわけではないのである。逆に、「他を縁としない」ということによって、十二支縁起を「概念によらずに」直覚することが、示唆されていると考えるべきである。これを仏教では、「自内証」あるいは「自灯明」という。
 くり返していうが、此縁性は内縁起である十二支縁起から、言語表現に適応するよう一般化された、抽象概念・法則に過ぎないのである。したがってそれは、外縁起にしか適応されない。つまり、此縁性は、外縁起に適応するよう、十二支縁起から抽象された「方法」なのである。この「方法」を使って、十二支縁起を確認=復習することはできるが、「直証」することは出来ない。十二支縁起の直証が辟支仏(独覚)の道であると、いわれるゆえんである。
 仏陀がいうところの「あるがままに見る」とは、おそらくこの十二支縁起の直証である。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 13 訂正版  管理人エム 2017/11/02(Thu) 06:41 No.54451

>周知のとおり此縁性とは、「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」という四句で表わされる。

11,12は、今検討しているところで、なかなかむずかしくてわからないのですが、13の此縁性には、ちょっと問題を感じますので、ここだけ。

此縁性は、イダ・パッチャヤターという言葉で、ブッダが説いているものですね。
「これに縁ること」というのが、原義です。

わたしは、これは、『ブッダと龍樹の論理学』の中で、「<これ>があるとき<これ>がある」のことだと書きました。

4つの公式全部ではなく、「<これ>に縁る」と言える部分だけをさしているとしたのです。<11><12>に、そこが明記されています。pp.89-92(文庫本)

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Re: 「『十二門論』研究」解題 13 訂正版  spinobuddhist 2017/11/02(Thu) 17:54 No.54451



エム先生こんにちは。
コメント有り難うございます。
WIKKIPEDIAでは此縁性は次のようになってます。

此縁性の出典としてよく持ち出されるのが、パーリ仏典経蔵小部『自説経』(ウダーナ)の冒頭[1]等に表れる、以下の表現である。

此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。

このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性[2]と呼ぶ。

どうやら四句全体を指しているようです。先生の考えとは違っているかもしれませんが、一般的理解として並びに現在の議論において大きな問題とならないのではないかと思います。

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Re: 「『十二門論』研究」解題 13 訂正版   春間 則廣  2017/11/03(Fri) 12:38 No.54451


>  一般的理解として並びに現在の議論において大きな問題とならないのではないかと思います。

、一般的理解で現在の議論を起こすとき
大きな問題など 存在しません
「ブッダの論理」 は 一般的な言葉で 言い表されます  が
「その論理」  は  一般的なところ には なく
成就する者  したモノ  の存在において 存在するモノ です

一般的な 言葉が使用されているからといって
一般的な理解を基に
 考察を進めると  一般的な 迷誤   に 入っています

>  大きな問題とならないのではないかと思います。

大小が縁起にある  ということが     「縁起」  の  中心       です
中心が 外縁によって 成り立つ   ということも  「縁起」の 中核    です

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Re: 「『十二門論』研究」解題 13 訂正版  管理人エム 2017/11/03(Fri) 12:57 No.54451

>WIKKIPEDIAでは此縁性は次のようになってます。

> 此縁性の出典としてよく持ち出されるのが、パーリ仏典経蔵小部『自説経』(ウダーナ)の冒頭[1]等に表れる、以下の表現である。

>此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。

>このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性[2]と呼ぶ。

うーん、ちょっと問題を感じますね。実は、大いに問題を感じるのですが、たしかに、わたしも、はっきりさせてこなかったということで、責任を感じます。

ちょっと検討中ですが、4つの式全部をさして「イダッパッチャヤター」とは言わないだろうと思います。
『サンユッタ・ニカーヤ』12.20で検討すべきであって、『ウダーナ』1.1-1.3には、「イダッパチャヤター」の語は出てこないです。

ですから、wikは、まず、あまりあてにはならない、ということは言えるでしょう。
その上で、あてになることを言おうとすると、わたしも確信をもって言えることは、少ないです。

ただ、「<これ>に縁ること」という関係性を見いだして、ブッダは語っているのですから、「無明に縁って行がある」などという順観の表現のところで、この語は出てきています。
そこから考えますと、滅まで含めた「ブッダの公式」を指すと、ブッダ自身が明言しているところはないです。

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「『十二門論』研究」解題 12 訂正版  spinobuddhist 2017/10/29(Sun) 00:52 No.54450 [返信]

 われわれは先に、次のような三句分別を、仮に「矛盾的三句分別」と呼んだ。

 Aは Bでない                    1
 Aは Cでない                    2
 Aは BでないのではないかあるいはCでないのではない 3

 今ここで、龍樹の言う「八不」を、上の命題に当てはめてみよう。すると、次のようになる。

 A は 不生不滅 かつ 不生でないかあるいは不滅でない
 A は 不常不断 かつ 不常でないかあるいは不断でない
 A は 不一不異 かつ 不一でないかあるいは不異でない
 A は 不去不来 かつ 不去でないかあるいは不来でない

 以上において、「不生(不常・不一・不去)でないかあるいは不滅(不断・不異・不来)でない」という二重否定を肯定に戻せば、「生(常・一・去)かあるいは滅(断・異・来)である」となる。これは「縁起」に他ならない。つまり、上の四つの命題は、『中論』「帰敬偈」において示された、「八不の縁起」に他ならないことが、理解されるのである。
 ただし、石飛が指摘するように、インド論理学においては、否定の否定は肯定とはならない。したがって、「八不の縁起」は、「縁起でないのではないもの」として、言いかえれば「幻」のようなものとして、立ち現われるのである。これを「勝義の縁起」と、呼んでもよいだろう。
 とはいえ、一般に「八不」は「八不中道」などと呼ばれ、縁起と切り離して理解される。しかしながら、ここで注意すべきことは、「中道」は上の個々の命題によって示されているのであって、八不そのものが「中道」であるわけではない、ということである。かといって、たんなる縁起すなわち生滅や去来が、中道であるわけでもない。ただ、八不かつ縁起であるときにのみ、中道が成り立つのである。
 これに反して、いわゆる空論者は、八不を縁起から独立させ、超越化して、これを「空」と呼びならわす。なぜなら、「空」は「他によらない」ものだからである。
 しかしながら、対立する具体的な各項をもたず、抽象的な「有」と「無」のあいだで成立するような中道が、果たして真に「中道」と呼びうるようなもので、ありうるだろうか。
 さらに言えば、ここでいう「縁起」とは、「此縁性」(外縁起)などでは決してなく、あくまでも「十二支縁起」(内縁起)なのである。重ねていうが、「八不」が修飾するのはあくまでも「十二支縁起」であって、「此縁性」ではないのである。
 これは一体、どういう意味なのであろうか。

「『十二門論』研究」解題 11訂正版  spinobuddhist 2017/10/29(Sun) 00:49 No.54449 [返信]

 ここで、『十二門論』で「同疑因」が最初に出る「観有果無果門第二」を検討してみよう。ここでの対論者の主張は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれる あるいは含まれない あるいは含まれかつ含まれない

 ただしこの「あるいは」は「ある時は」という意味であるから、次のような三句分別で表わせる。

 (ある時は)結果は原因に含まれる
(ある時は)結果は原因に含まれない
(ある時は)結果は原因に含まれかつ含まれない

これを形式化すると、次のように表記される。

 Aは (ある時は)Bである       1
 Aは (ある時は)Cである       2
 Aは (ある時は)BでありかつCである 3

 われわれはこれを、存在論的な三句分別と呼ぶことにしよう。これに対して、龍樹の反論は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれることはなく 含まれないこともなく 含まれかつ含まれないこともない

 これは、次のような形式の三句分別である。

 Aは Bでない       1
 Aは Cでない       2
 Aは BでもなくCでもない 3

 この三句分別は、BとCの可能性をすべて否定するものであり、虚無論的なものといえよう。それゆえ、われわれはこれを、虚無論的三句分別と呼ぶことにしよう。実際のところ、龍樹による否定論証のほとんど大部分は、形式的に見るかぎり、虚無論的な構造をもっているのである。
 とはいえ、石飛がいうように、龍樹の意図はもちろん、虚無論の主張にあるのではなく、対立する二つの主張を提示することによって、「理由」の不成立を論証することにある。ただその「理由の誤り」が、「同疑因(疑いに等しいもの)」なのか「成立(証明)すべきものに等しいもの」なのかが、ここで問題となっているのである。
 しかしながら、われわれがこれまで確認してきたことに従うかぎり、たんに存在論的三句分別に虚無論的三句分別を対置することは、「懐疑」を否定するには十分なものとなりえないのである。
 次に、『十二門論』で「同疑因」が二番目に出る「観三時門第十一」を検討してみよう。対論者の主張は、存在論的三句分別として、次のように示されうる。

 原因は結果より先にあるか、あるいは結果より後にあるか、あるいは結果と同時にある。

 原因が結果より先にあるとは、原因が「過去」にあることを意味する。原因が結果より後にあるとは、原因が「未来」にあることを意味し、「目的因」などに当たるものだろう。原因が結果と同時にあるとは、原因が「現在」にあることを意味する。
 ここで注意すべき点は、「現在」とは「過去でもなく未来でもない」ものではなく、「過去でありかつ未来である」ものである、ということである。これは、線形的な時間を考えるとわかりにくいが、「永遠の今」という哲学的主張を考えると、解りやすいだろう。過去を振り返ることも未来を期待することもともに現在においてある、ということである。
 この対論者の存在論的三句分別に対して、龍樹が示すものは「三時の否定」(三時門破)であるが、要はまたしても虚無論的三句分別なのである。すなわち、

 原因は結果より先にあるのでもなく、結果より後にあるのでもなく、結果と同時にあるのでもない。

 龍樹の主張がここにとどまるのであれば、われわれの「疑い」は、晴れることはないであろう。

「『十二門論』研究」解題 10 訂正版  spinobuddhist 2017/10/29(Sun) 00:44 No.54448 [返信]


 今ここで、

 A は B あるいは C か

という「疑い」を、論証式によって表わすことにしよう。とはいえ、疑問文や命令文や感嘆文は、真偽値をもつ命題にはならない。したがって、この「疑い」を平叙文に変換すると、次のようになる。

 A は B あるいは C である

 確かに「杭か人か」というような経験論的な疑いであれば、これを「これは杭かあるいは人である」と言いかえても、なんら問題が生じることはない。もちろん杭でも人でもない可能性はあるが、しかしそれは実際に確認して検証することができるからである。
 しかしながら、哲学的な疑いについては、そうはいかない。哲学的・形而上学的な「疑い」に関しては、そのように疑問文をたんに平叙文に変えるだけでは、石飛が指摘するように、例えば「因中有果か無果かについて「疑い」があるという意味なら、有果か無果かのどちらかは成り立つはずであると、相手論者はせまる」ことになってしまうからである。
 したがって、哲学的・形而上学的な「疑い」は、真偽値をもつ命題としては、必然的に次のようなかたちをとることになるだろう。

 A は Bである あるいは Cである あるいは BでもなくCでもない 

 このようにすれば、AはBでもCでもない可能性が確保されるので、「疑い」は少なくとも「判断保留」としては、成立しうることになる。逆にいえば、われわれは、哲学的・形而上学的な疑いをもつとき、つねにこのような「BでもなくCでもない」を想定している、ということがいえるだろう。
 なお、選言命題には、選言肢のうち少なくとも一つが真であることを立言する非排反的選言の場合と、選言肢の一つがそして一つのみが真であることを意味する排反的選言の場合とがあるが、上の命題は排反的選言命題となる。
 それでは、今ここで、この懐疑論的命題を否定してみよう。

 「A は B あるいは C あるいは BでもなくCでもない」のではない

 ド・モルガンの法則により、「BかつC」の否定は「BでもなくCでもない」とはならず、「BでないかあるいはCでない」となる。したがって、この否定命題は、次のような連言命題になる。

 Aは Bでもなく かつ Cでもなく かつ BでないのではないかあるいはCでないのではない
 そしてこの複合命題を、三つの命題に分解して並置して表記すると、次のような三句分別になる。

 Aは Bでない                    1
 Aは Cでない                    2
 Aは BでないのではないかあるいはCでないのではない 3

 これは明らかに、矛盾した内容をもつように見える。それゆえ、われわれはこの三句分別を、矛盾的三句分別と呼ぶことにしよう。この矛盾的三句分別こそが、懐疑論の否定であり、「中道」ではないだろうか。

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