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竜神の特別視は危険である  spinobuddhist 2019/06/24(Mon) 21:33 No.55325 [返信]

>だけど、ナーガ(龍)の系統なんだよね、

>ナーガとは?

>522 世間の中で、いかなる罪悪も作ることなく、一切の結縛と束縛を捨てて、あらゆる処で執着することがなく、解脱している者、このような者が、真実に<龍(ナーガ)>と言われます。

>『スッタニパータ』の中でサビヤに、ブッダが語っている。


ここでは解脱者が真の「ナーガ」と言われているのであって、「ナーガ」が解脱者だと言われているわけではない。

同様に、解脱者は真の阿修羅だとも、真の夜叉だとも、真の人間だとも言いうる。

仏陀が竜神を特別視することはない。仏陀には、仏法に帰依する天部に対して、差別感などない、平等である。

たまたま龍樹を助けた天部が龍族だったに過ぎない。

それだけではない、竜神への帰依は、逆に危険ですらある。自分を〜の系統だなどと言うのは、止めた方が良い。そんな系統はない。

http://neo-buddhism.com/avoid-dragon-fox

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Re: 竜神の特別視は危険である  管理人エム 2019/06/26(Wed) 13:36 No.55325

>同様に、解脱者は真の阿修羅だとも、真の夜叉だとも、真の人間だとも言いうる。

これは、説明してほしいですね。

解脱に種類があるということか、それとも、どんな呼び名であっても「真の」とつくなら、解脱者と言える、ということか。。。あるいは、阿修羅であってそれから解脱したとか、夜叉であってそれから解脱したとか? こうだとちょっと変かもしれませんが。

ブッダは、おそらく「解脱者」という呼び名を用いたことはないでしょう。
「解脱した」とか「解脱する」とかは言いますが、「仏陀」や「阿羅漢」などのような、特徴を示す呼び名のように用いているのは、私は見たことがありません。

「勝者(ジナ)」というのは、ありますね。

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 量子論から見る 法蔵の 第18願    春間 則廣  2019/06/18(Tue) 22:06 No.55317 [返信]


> 認識と存在とをごっちゃにしている感じがします。
> 誰かが悟れば、全員悟ることになる、みたいな感じですね。

救われている        のと
救われている  と知る  のとは 違う

救ったときに、救われている
   しかし
救われているかどうかは、
そう商量する者の 判断

救う・救われる  も 商量です

そこを離れなければ 、、、、


悟っていると知る のと、
悟る     との違いは、 商量にある

商量は 悟りにはない

タターガタ

誰かが 悟るから、 悟りが   そこに、 その時 ある
その時 に あるまでは、 道程があり、
道程があるときに、     時がある

悟りは  「 永遠 」  に ある

> 波動関数が消えてるのは誰なの?反対側にいる20光年先の人は、あなたとどんな関係にある人でしょうか?

関係ではないが、 「 自他不二 」

どこまで行こうと、 自分に出会う

物理であろうと、 人倫(秩序) であろうと  
出会うのは( 目的 は ) じぶん

世界を知って、 どう生きるかが 物理の 行くて 、、、、


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Re:  量子論から見る 法蔵の 第18願   管理人エム 2019/06/19(Wed) 06:51 No.55317

>救われている        のと
>救われている  と知る  のとは 違う

>救ったときに、救われている
>   しかし
>救われているかどうかは、
>そう商量する者の 判断

>救う・救われる  も 商量です

量子力学の、「この説明」では、救われないです。
救われる(はずの)文章として読んでいるけど、書いている人の煩悩の所産であるように読めます。

ゆれる心を表記した文章のように見えます。
ブッダの様な、ゆれない心を!、不動の心を!、示した文章が読みたいです。

>そこを離れなければ 、、、、

離れるためには、どうするか?
自分でやるしかないです。


>> 波動関数が消えてるのは誰なの?反対側にいる20光年先の人は、あなたとどんな関係にある人でしょうか?

>関係ではないが、 「 自他不二 」

>どこまで行こうと、 自分に出会う

そうなら、この量子力学の文章(?)は、意味をもたず、不思議なところは一つもない。
そう理解していいのかどうかを、誰も保証もしないし、もやもやしたものが残るだけです。

>物理であろうと、 人倫(秩序) であろうと  
>出会うのは( 目的 は ) じぶん

>世界を知って、 どう生きるかが 物理の 行くて 、、、、

物理である、とする必要もないことになります。
どっちにせよ、皆、そういう意識で読んでいるのだということは、分かりますが。。

なんか、ブッダの語る通りの展開にしかならない、と思うところが、ブッダに行ってしまう最大の要因です。

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Re:  量子論から見る 法蔵の 第18願    春間 則廣  2019/06/19(Wed) 07:40 No.55317


>> 物理であろうと、 人倫(秩序) であろうと  
>> 出会うのは( 目的 は ) じぶん
>> 世界を知って、 どう生きるかが 物理の 行くて 、、、、

> 物理である、とする必要もないことになります。

古城へ続く道   へ  続く道

> どっちにせよ、皆、そういう意識で読んでいるのだということは、分かりますが。。

そういう意識ではなく、 読んでいます
そういう意識ではない  という 意識  です
( そういう意識   だとする  意識  です )

> なんか、ブッダの語る通りの展開にしかならない、と思うところが、ブッダに行ってしまう最大の要因です。

ブッダ  という語には 意味はありません
しかし、 人は
      語 に  意味を与えます ( 意味を 読み取ります )     

    付加された 意味を、 読み取る 読み取り方  →  「 空 」

ブッダ が ブッダと 名付けられる ところには
ブッダ の 共通した( 曖昧な ) 意味があります
成就者 であり、 真理を知った者、 真理を生きる者

そこで、 問題が起きます
      真理 とは 何か ?

“ これこれ こういうところで 矛盾している ”

その矛盾を支える  生きざまは 矛盾してはいないか ?

“ そのために、 論理がある ”   という 論理 は
    矛盾を 前提として 肯定している
     →  矛盾 があることが 矛盾 です

矛盾はないのに、 あるとする矛盾
論理  とは 生きざま の 引き写しです
生きざまは 決して矛盾してはいない  が
         解釈に矛盾が起きる

解釈しなければ、 矛盾 は 起こせない 
       →  「 至道無難唯嫌揀択 」

それでは 解決しない  と言うなら
一度 そうしてごらんなさい

そうしようとするところにおいて、
    解決の道にあると 俯瞰できる時が来る


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Re:  量子論から見る 法蔵の 第18願    春間 則廣  2019/06/19(Wed) 08:04 No.55317


> なんか、ブッダの語る通りの展開にしかならない

だから ブッダ  です

湯川 や アインシュタイン は 一読に値する 理=弁論 を 語ります

しかし、 その生きざまは、 様々な角度から 商量できます
理論物理学者が 原爆を作った ( 作りつつあることを 自覚できていない ) 

理論物理 は ぶぶづけ の 温度を 確定できない

「 ぶぶづけ いかかどす ? 」

ノーベル賞 などというモノは 大したものではない

だれが、 空海に 賞を 授けること が 出来る ?
   出来はしなくとも  人は 賞賛という 賞を授ける

だからと言って、 科学 を 否定するわけではないが、
科学の 研究の原資 は  利潤 の 産物
果 という ( 新たなる 利潤の ) 原資を 生む

人を 殺すため( 不安を生み出すため ) に、
 理論物理を 究明したのではない
   という 理屈 は       理屈に過ぎない

カーナビ が 正しく作動するのは、 相対性理論のおかげ

正しく作動させて、    何をしているかは
  ( 根源的には )    問われることがない

問うことによって、 問われられることが起きる
起こしてみることはできますか ?


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Re:  量子論から見る 法蔵の 第18願    春間 則廣  2019/06/19(Wed) 13:21 No.55317


>> そこを離れなければ 、、、、
>>  救う・救われる  も 商量です

> 離れるためには、どうするか?
> 自分でやるしかないです。

自分というモノは、 商量(思量)に乗って 顕われ出ます
「 不思量底 如何思量 」    
    『 永平広録 点茶湯 』  瞎道師  
兀兀坐定の兀兀は全坐の全面をいふぞ。
 思・不思ひとしく兀坐の半転身なり。思量の全転身なり。思量はなきにあらず、非思量なりと正伝せり。これは思量にたれなく、なにものなきは不思量なり。
 不思量は思量の本祖なり。思量は不思量の皮肉なり。
 如何思量は不思量底の思量を不審におもひて、如何と問訊するにはあらず。如何とは思量に彼此なく、能所なきを思量といひ、不思量といふなりき。是什麼物恁麼来のごとし。即不中なる説似一物のごとし。如何これ非思量なり。
 非思量の文をみて、如何の問訊に答話とばかり参ずるは不遍参なり。非思量はこれすなはち坐禅の皮肉骨髄なり。ここをもて兀坐まぬかれず、思量・非思量なり。しかも量をもて量することなかれ。

自分でできることは、 自分ではできないこと  と 同値 です

出来ないことを、 するのではなく
出来ないことは、 出来ないことと 懐に抱く
それが 出来ることにつながります

自分がある限り、 自分では 出来ないことです
弥陀の本願 に 懐をまかせる

懐は 巻かれても 自分は  “ 真っ直ぐ ” です 

「 直心 是 道場 」  維摩経


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 量子論から見る 法蔵の 第18願     春間 則廣  2019/06/16(Sun) 09:59 No.55313 [返信]

読み解けるかな ?




釈迦牟尼は 成道しているのか 


わたしが   成道する  瞬間= 同時 に 釈迦牟尼は 成道している( 成道する )

   =  あなたが  成道する時 に ( その瞬間に ) 釈迦牟尼は 成道している
   =  あなたが  成道する まで、 わたしは 成道してはいない

=  釈迦牟尼 が  成道する まで、 わたしは 成道してはいない


時というモノは 光速で 表すことが適う    →  一光秒 = 30万キロ
存在を 光を通して 認識するのであれば、
  一秒 は 30万キロ の 距離に等しい  →  30万?q の 彼方に、 一秒前がある

一瞬  =  300000 / 365 / 24 / 60 / 60 
     =  0.0095129375951294 x 1000
     ≒  9.5 m 
     →  納得できなければ、 もっと近くに寄せればよい
     →  素粒子間 の 最小観測距離
         →    電子顕微鏡では、  0.1ナノメートル   程度 の 分解能 
               (  10−9メートル (m) = 10億分の1メートル  )

それだけ 距離が近いと、 “ 認識上 ” において は 同一となる
( 別であるという 認識は “ 同時 ” に起きることが適うが
    その “ 同時 ” は  最小観測距離に縛られない    )

************  http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_9.html

光子は、観測される前は波動関数である。従ってそれは、電子の周りを同心球状に広がって行く複素関数である。なんの初期条件も与えなければ、この複素関数を2乗したものは、電子を原点とした光速度で広がる球の場所が存在確率の大きい実関数になる。
ところが、ある点、例えば電子から10光年離れた場所でこの光子を観測したものがいるとする。するとその瞬間に波動関数は消える。(これを波束の収縮と呼ぶのであった。)とすると、今光子が観測された場所と電子をはさんだ反対側(20光年離れている)では、光子が観測された瞬間に波動関数が消えるのだから、「反対側で光子が観測された」という事実は光速を遥かに超えて伝わることになる。

************

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Re:  量子論から見る 法蔵の 第18願    管理人エム 2019/06/18(Tue) 08:18 No.55313

>************  http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_9.html

>光子は、観測される前は波動関数である。従ってそれは、電子の周りを同心球状に広がって行く複素関数である。なんの初期条件も与えなければ、この複素関数を2乗したものは、電子を原点とした光速度で広がる球の場所が存在確率の大きい実関数になる。
>ところが、ある点、例えば電子から10光年離れた場所でこの光子を観測したものがいるとする。するとその瞬間に波動関数は消える。(これを波束の収縮と呼ぶのであった。)とすると、今光子が観測された場所と電子をはさんだ反対側(20光年離れている)では、光子が観測された瞬間に波動関数が消えるのだから、「反対側で光子が観測された」という事実は光速を遥かに超えて伝わることになる。

要点を抜くと、最初の文章は、
波動関数は、複素関数である。だから、複素関数を二乗すると、実関数になる。

ふむ、言っていることは分かるような気がする。関数の話をしている。

電子は、観測されると波動関数は消える、と言っている。「波束の収縮」という。

光子が観測された場所から20光年離れた場所でも、光子が観測された途端波動関数は消えるのだから、「反対側で光子が観測された」という事実(?)は光速を超える、と言っている。

認識と存在とをごっちゃにしている感じがします。
誰かが悟れば、全員悟ることになる、みたいな感じですね。

波動関数が消えてるのは誰なの?反対側にいる20光年先の人は、あなたとどんな関係にある人でしょうか?

イエスが罪を贖ったので、人類全体が救われることになった、という話に似ているような。
一人の認識が、全員の認識になるのかどうか、そこは分からない。

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11492] Re:[11491] 唯幻論  管理人エム 2019/06/09(Sun) 01:57 No.55308 [返信]

「マジカル・ボード」に書き込もうとしたら、禁止ワードが含まれているとありました。なので、こちらに書き込みます。


> 単純ということ は どういうことですか ?
> 分かりやすく 単純に トケマスカ ?
>
> しゃべりは、 うまくまとまったかな ?
>

公開講座が終わった後の、アンケート用紙の一番上にあった回答を
何気なく見たら、「お話はどうでしたか?」のところは、

「難しかった」に○がついてました。

あらぁ、難しかったんだ。。
しぼって、シンプルにお話したつもりだったけど。

「法を見る者はわたしを見る。わたしを見る者は法を見る」と「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」を使って、
イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』の中にある、次のようなお話を解明して見ました。(以下は、インターネットから引用)

==========
昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はない」と。
老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くして言った「もちろん居ない」と。

今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。

老人は彼を見すえていった「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十宇架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。

その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。
=============

おじいさんの答は、臨済宗の禅語録にもあるようですが、良くはわかりません。
似たようなお話をどこかで読んだのですが、ネット上では見つからなかったので、こちらを拝借。
お釈迦さまの教えに乗っていることをお話ししました。

いろいろ面白いことが分かります。「分かりやすかった」といってくれた人もいました。一人二人ですけど。

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Re: 11492] Re:[11491] 唯幻論   春間 則廣  2019/06/09(Sun) 07:36 No.55308


六祖壇経 に こうあります

仏に 塵は つきませんが、
心には 塵が積もっていく
怠りなく 精進して 修行を積んで( = サンスカーラ )行く
  神秀  
『 身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤拂拭 勿使惹塵埃 』
「 身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時々に勤めて払拭して 塵埃をして惹かしむること勿かれ 」
  慧能
『 菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃 』
「 菩提もとより樹なし、明鏡また台にあらず、本来無一物、何処にか塵埃を惹かん 」
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD


お手本  は 精進にある修行者  ではありません
「 仏 」 は 手本とは ならない →  明鏡 台にあらず

塵埃を 心に 惹き付けて  “纏い積み付け”  樹 = 五蘊  と為す

菩提は 五蘊にはなく 宿るところも持たない   

もし 「 慧能 」 が (い)なければ、 弘忍は 後任に 神秀を置かざるを得なくなるが 、、、、

    「 慧 」 という  “ モノ ” は  顕われざること “ 能わず ”

菩提は “ 慧能 ” という 五蘊に 顕われ出る


「 印綬 」 ということ は そういう “ところ” に 起きている
“ところ” という  “ 台 ”  には  起こすところ が ない


   白居易   
「其の教えを観るに、大抵禅定を以て根と為し、慈忍を以て本と為し、報応を以て枝と為し、斎戒を以て葉と為す」   ( 策林 第六十七 「議釈教」 )

『  眼闇看花人 頼学空為観 深知念是塵  』    ( 斎居春久感事遣懐 ・ 斎居春久しく事に感じ懐いを遣る )
「 眼は闇し 花を看るの人 学に頼りて空を観と為し  深く知る念は是れ塵なるを 」

臨済録  [示衆]10―17
「  教中に向って取って 意度 商量して  句義を成ず 
    屎塊子を把って  口裏に向いて    含み了って  別人に吐き過るが如し 」


“ 明鏡 ” とは 商量 における 糞尿 です


分かりやすく、見えやすく  すると  隠れてしまう 、、、、


神秀が 分かるのだから、 一人や二人が 分かるのは 止むを得ない 、、、、



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Re: 11492] Re:[11491] 唯幻論  spinobuddhist 2019/06/09(Sun) 08:35 No.55308

野 仏 の 塵 を 払 い し 走 り 梅 雨


「行」にあれば空も(十二支)縁起もまた仏像の如し。ゆえに合掌礼拝す。


>眼は闇し 花を看るの人 学に頼りて空を観と為し  深く知る念は是れ塵なるを 

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Re: 11492] Re:[11491] 唯幻論   春間 則廣  2019/06/09(Sun) 10:40 No.55308

のぼとけ は どのほとけ

仏  は、 明鏡 に あらず
明鏡 は、 仏  には あらず

何処の地にて 塵 を 被るや

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Re: 11492] Re:[11491] 唯幻論   春間 則廣  2019/06/11(Tue) 18:23 No.55308



==========
昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はない」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。
=============

角川文庫 119p が 該当箇所です

日本教徒 という 考察です

日本人に しみ込んだ 仏教思想 が 日本教です

以前、 日本人の定義 を したことがあります

日本で生まれ、 “ 日本語で育ち ” 、
日本語 を しゃべる者  が 日本人です
その人が、 英語(外国語)を しゃべっても 、 日本人です

外国で生まれようと、 両親が日本人で、 日本語を基本として育てば、
“ ほぼ 日本人 ” です が  “ ほぼ ”  ですし、
  “ ほぼ ”    から 抜けることはできません ( 例外は 有り得る )

外国で、日本人間で 育てば、 そこは 日本です
   ( そこに 例外が起き得る )

だからと言って、 “ 日本教 ” を 「 理 」 として 解することは 別の階梯です
イザヤ・ベンダサン は 禅宗 に 深く “ 知識 ” を 持つから
                      ( あくまでも、 教養です )
 「 教外別伝 ・ 不立文字 」 を 推測できます  121p に “ 言外 ” について 語ります

ここが 仏教の 「 理 」 です
「 外 」 から いくら学んでも、  「 内 」 に 入らなければ、 
『 言外 』 の 「 理 」 は  “ 内へ入ってこない ”
           内に入る時 、   内にある

「 理 」 である

分かるということを、 分かった者として生きる    ということと
分かるということを  「 理 」 として 分かる    ということとは 別の階梯です


日本人なら、 分かった者として生きている
( 分かる・分からない  の 「 理 」 は 問題ではない )


死ねば、 皆 『 ほとけ 』  と 解けている  、、、、



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天気だ雨( ダメ )  ・  雨となり 垂れる      春間 則廣  2019/04/28(Sun) 07:13 No.55293 [返信]


天の気宇 は 雨となる


*********


天気だ雨( ダメ )  ・  雨となり 垂れる 


さばえ なす    と  はえ   とは
おなじ ハエ です

ハエ あることが サ に なされている
    ということが     さばえなす    です    

   ( 映える ということは  幹=地 より ひらきだす という意味にあります)

   ( 口を開いて 出すものが  ことのは ( 事柄に対する 葉 です )   )

その飛ぶ様が  ハエ  です

ハエも 五月になると( 旧暦では 気温も上がり )
飛び回るのも活発になり ( 多くなり )
 集まってきます ( 身 直か に 見出す )  → 近 い

いちひき のハエ は 飛んでいる限りには 目に 栄え ます

多くなると それを 栄え とは呼ばなくなり どこにでもあり 触れることとなり
触れようは 発生様 にまで および
見たくないモノを見ることとなります

うるさ( 出から 目に得る ) はい(ハエ)   が 起きてきます


こじつけだと読むのは 自由という 自己判断です
読む自由があり 読ませる自由があるといえども
どちらが 地涌  かは
地涌 に 眼前となり
  それに あい 対して テキテキ と受ける者が知る

見る者の眼前に 見られるものがいるが
見ると 見られる  とは  世間に於いては  「 縁起 」  に ある

聞く者 ( 聞者 )  と 語り継ぐ者( 吾者・リン者 ) は  「 縁起 」  する

    >  わたしは 聞く人に語る ( わたしが聞く )

***********

“ つまらないことは やめるにしかず ”

止めるということは  自らに起きる
他に起きても 自らが止めなければ 自らに起きている

止めなん 止めなん
聞きたくない者に聞かせることは ヤンデイル

***********

きこえ( き得こえ ) は ある が

世 垂れ  のように  世間に 垂れる 、、、、


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Re: 天気だ雨( ダメ )  ・  雨となり 垂れる     管理人エム 2019/04/29(Mon) 07:54 No.55293

>止めるということは  自らに起きる
>他に起きても 自らが止めなければ 自らに起きている


「止まれ、止まれ」とアングリマーラは、ブッダに呼びかけました。

「わたしは止まっている、お前の方こそ止まりなさい」
と尊師は言いました。

縁起にあるものは、自分で止めようとしても、原因が残っていれば、止まらない。

止めようとしているけど、なかなか止まらないのが、凡夫です。

原因を元から断つ道を教えるのが、仏教です。

むりやりではないが、確実に止める方向に進むのが、八つの正しい道です。正見に始まる道です。自らが止める、というわけでもなく、自らが止めない、というわけでもない。そこに微妙な操作の方法があります。

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Re: 天気だ雨( ダメ )  ・  雨となり 垂れる      春間 則廣  2019/04/30(Tue) 09:21 No.55293


道は 誰の足下にも 存在し
    誰でも歩む
その道は すべて 道である限りには 繫がっている
    誰であろうと、 一つの道を歩んでいる

そういうことを  「 平等 」  と 言う

道の意味を  好きなように
  解釈する  
そういう道も 一つの道につながっている

解釈する道を 歩んで ある  のではなく、
ある  ある気 つつ あるに気づきつつ
( 気 は 動き にある )
築く という道を 気付いている

どう気付く  かは    築く城の外見による
ああしろ こうしろ という  しろ  ではなく
こうする  という 我が城は 我が軍隊の
 戦いの  根城

( 藤 387 G ) → 客

抗うときに 軍は 運ばれ
       運は 人の手(道)にある


手をもって こねくり(操作し) 回す 我人生

回って どうする ?



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無題  管理人エム 2019/04/27(Sat) 08:45 No.55287 [返信]

>あなたが 怒る(態度を表す)  とは 思いませんでしたが、
>無視するだろうとは 推測しました    
>   ( 推測は 外れるまで 当たり続ける )
>  ( 無視しているかどうかの判断は  “わたし”  にある )
>        この  “わたし”  は 誰にでも訪れている 、、、、
>その推測に基づき
>記述は 選ばれます

なるほど、そうなのですね。
わたしは、じつは、無視したことはありません。

時間がかかるのです。
なぜだろう、と考えてみたら、わたしの中に、何もないことがけっこうあるからです。

書くことがないので、黙っている、というのが、多いのです。
それも書くことのうちに入っている、のです、わたしには。

そのうち、何かが出てくると、書き込めるようになるのです。


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Re: 無題   春間 則廣  2019/04/27(Sat) 10:20 No.55287

誰にでもある
ということは、
どこにでもあり、いつでも見いだせる ということです

ただし、
どう見いだすかは、
そのことを、どう 言語化して、
認識化するかは、思惟次第

するつもりは、しないことを続けること

どう感じるかは あなたの道にある

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Re: 無題   春間 則廣  2019/04/28(Sun) 12:37 No.55287


> なぜだろう、と考えてみたら、わたしの中に、何もないことがけっこうあるからです。

生きるということに 考えを及ぼさない


同じ ロータリークラブ(名古屋栄) に 
松本純夫 という 医者がいました
   https://medicalnote.jp/doctors/170608-002-VU

彼は、 例会 で わたしのテーブル で
 よく  同じに 夕食を していました

ある日のこと 何故そうなったかは わたしには分からなかったけれど
「 春間さん わたしも医者の端くれですが 」 と 前置いて
「 すべての病気の 原因は 何だと思うのか 」 と 問いをかけてきました
 端くれではなく、 その分野では 世界一(流) です

わたしが 誰かと話していたのを 横で聞いて、
    
言いたくなった のでしょう

わたしは 即座に 人間の エネルギー の 発生の仕組みから 免疫に及んで
   かれに 答え を 為しました
    ( 医者である彼の問いに、 医学・生物学 の分野で答えたのです )

彼は、 反論らしきこともせず 黙って 聞きました

わたしが伝えたいことは、 私の答えが 正しいということではありません
松本医師が 外科医 ではあるけれど、
人の病の根本に 医者としての 思いを 馳せていたから、
そういう問いが 為されたということです

わたしは、 彼を 一流の医者だと そこに確認しました


翻って
あなたに問う

あなたは なぜ その問いを 身に持たなかったのかと

人が生きる  ということは  「 無明 」 に生きることであり
苦 を 起こすことです
釈迦牟尼 は そこに すべての思いを 集めます

仏教 は そこにある

わたしの問い  は すべて そこから発し そこに帰着する

なぜ あなたに そういう問いが 起きなかったか
答える 道にある時 問いは 発せられる    
    
( それまでは 問う  ということは 起きてはいない )

**********

時間がかかるのです。
( なぜだろう、と考えてみたら、わたしの中に、何もないことがけっこうあるからです。)

書くことがないので、黙っている、というのが、多いのです。
それも書くことのうちに入っている、のです、わたしには。

**********


そういうことが 成りたつから
常不軽 は 手を合わす


あなたの中で、 そうだと 言い切れますか ?



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Re: 無題  管理人エム 2019/04/29(Mon) 07:37 No.55287


>わたしの問い  は すべて そこから発し そこに帰着する

>なぜ あなたに そういう問いが 起きなかったか
>答える 道にある時 問いは 発せられる    

率直にいうなら、雑用のせいです。

根源的な問いには、答えようとしているけれど、それは、ここに書くまでに至らないことも多くあります。

また、わかっていたことが、わからなくなっていて、それが又戻ってくることもあります。
昔得た答えで良かったのだ、と確かめることもあります。

一度書いたことは二度書いてはいけない、と思っていることもあります。
わたしの言っていることは、みなにはわからないのだと思うこともあります。

沈黙というのは、わたしにとっては、大きな選択肢です。

ことばにならないものを、ことばにならないように示しもしているからです。

有ということだけが大事なのではなく、有は無をかたわらに置くから、その時意味をもつのです。

しかし、ブッダは、有でもなく無でもない道を行きますね。
すべてを了解していても、了解していないかのようにふるまう道でもあります。

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Re: 無題   春間 則廣  2019/04/29(Mon) 08:56 No.55287


人生に 雑用 はない

卒 雑 を言うとき  核となることが カクコ にして
各個に   おいて  負われて 起きている

> 率直にいうなら、雑用のせいです。

その 率 は 率卒と 起きていますか ?
唯率 としてありますか ?
( 率卒 とは 引き締めて と 引き締められる との ありようです )

> 根源的な問いには、答えようとしているけれど、それは、ここに書くまでに至らないことも多くあります。

書くに至らぬことと、 書くに足らぬこと  とは
い ずまい   が  決める

ありようが、 カクコト  を 支える

ありさえすれば、 書きようは 不要 ともいえる

どう書いても、 見るのは 見られるものの イズマイ ( 不在 舞 )

> また、わかっていたことが、わからなくなっていて、それが又戻ってくることもあります。
> 昔得た答えで良かったのだ、と確かめることもあります。

確かめなければならない 不確かにある時に
その不確かさで 確かめる

昔 どうあったかは 昔のことで、 確かめようによって 未来に続く道となり
不確かな 確かめようは 不確かな 過去( 未来 いまだこず ) に 道の如く続く

悟得 にあるまでは 不確かである

> 一度書いたことは二度書いてはいけない、と思っていることもあります。

何度書こうと、 確かなことは 確かなことであり続けるが
確かめなければならない その時に  確かめられることとなるが
   そこは 
不確かさ  の  常住 という 住処

> わたしの言っていることは、みなにはわからないのだと思うこともあります。

みなにわからせる前に
眼前の あなたが 分かるかどうかを 問わなければ 、、、、

前後  は  「 縁起 」  している
    と知る時
吾中 の 吾我 に 気づく

あなたが 分かっているのなら
あなたの世界の どこに 分からないことがあろうか 、、、、


あなたは 他が分からない  と 思う 
        それは
あなたが 他をわからないときに 起きること


自他 という 二元は 二元が起きる というところの
一元(一言己事) に 起きている


見ているのは 自分であり
見られているのは コブン である



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