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聞きなさい 自ら起こす元 を     春間 則廣  2017/10/26(Thu) 09:19 No.54435 [返信]


言うだけではなく  聞きなさい
 自ら起こす元 を  聞き返す

>  これに反して、いわゆる空論者は、八不を縁起から独立させ、超越化して、これを「空」と呼びならわす。

そういう傾向が “ 空論者 ” と 呼び捨てる者にもあるけれど 
そこがみえない「空論者」 

> なぜなら、「空」は「他によらない」ものだからである。

あなたによって
あなたの解釈で
 「空」 は  存在性を有らしめられている

他によらずに  誰の 解釈による ??
( その誰を  自分 が知る      と顛倒するから 「空」 を いう )

語られていることが なぜ 語り得ぬこと となるのか   春間 則廣  2017/10/25(Wed) 08:24 No.54431 [返信]


>  龍樹の主張がここにとどまるのであれば、

龍樹 は 主張(など)していない
あなたが “ (龍樹が)主張している ” と 主張する

> われわれの「疑い」は、晴れることはない

われわれ  には  「我」 が入るか 否か
われ が 入らなければ  われわれ とは 何を言っているのかが 不明となる

我に疑いがあるかどうかが 我の問題である
なければ 問題とすることが(語りうることとして)ない

「 論理哲学論考 」 7
   語り得ないことには 沈黙すべきである

> ないであろう。

ない と 断言できない
なぜできないかを 考察できていない
できていれば
考察の結果によって  ある・ない  が 断言される

問題はそこにある

語り うる か、 得ぬ か  が 問われる

語り得ぬこと  と  語ること  が   規定され 語られ る

誰に語られているかを
誰が知るかは
  語り得ないことに あたるけれど
誰も 誰か を 知ってはいない
( いつも ひとりぽっち  なのです )

 ? ミチノミチタルハミチデアル  ?     春間 則廣  2017/10/24(Tue) 09:51 No.54429 [返信]


>  確かに「杭か人か」というような経験論的な疑いであれば

経験とは何か

>  なんら問題が生じることはない

経験的に物事を考えると
 なんら問題は起きていない  と  平然と言える
経験的に  と 経験をもとにして 言う

> しかしそれは実際に確認して検証することができる

経験的に 経験だけを根拠として 確認検証 を おこなう

> A は B あるいは C あるいは 非Bかつ非C である

これは
「 AはA であって Aではない 」
ということ と 違うことを表わす

「 B あるいは C あるいは 非Bかつ非C である 」 ということも
「 故に 非A  非B は 非C  であり A B C  それぞれである 」 と 続けられない

> 考え得る三句分別のパターンをすべて網羅すると、次のようになる。

考え得ない = 考えない  ことを 論に乗せようとしているけれど
「 論じえないことを 論じてはいけない 」  という 言葉 は
論じる者に 馳せられている

考え得るものをすべて並べると 考えを言う

考えの 正否は  考えを披露する者の範疇にある

“聞者” は  この 語られたことを   乗り越えなければならない

語ることを乗り越えて 語られることを 乗り越えられる
生の歩みは その 乗り越え=一歩 にあり
提示され語られた道は そこに ふみつけられて  存在を明かしている


   生 滅      春間 則廣  2017/10/18(Wed) 08:50 No.54420 [返信]


>> 原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。
>  原因を滅すると表現しますよね。

“表現” と “原因”  という語 を 選択することとは
表現の仕方 で 差が起きます

“表現” という語 を使用するとき “原因”  が起きます 
何故 “表現” という語 を使用するのか という 原因には 
既に 使用法に係る 結果の想定があります
 ( ないとするなら ないとする 論を組み  表現します  )
“ 結果 ” は “ 原因 ” の 行き着くところです

>  別に滅する必要はないのではないかと思うようになってきました。

なぜ必要か  という  哲学的 「論」 に
必要の 「因」 があります (  >  これを「行」という  ) 

「死」 という  「果」 が  起きるには
「生」  が ( 原因 = 諸行の 自らの 所行 として ) 起きなくてはなりません

考えても 生きている
考えなくても  生きている ( 生を問わない → 「 不生 」 です )

不生 とは 生きているかどうかを 問うことではなく、
問わぬことでもありませんが
問うから 問う主体と客体化される概念
 との “狭 ”間  に 「不生」 が 起き 認識の溝は広がっていく 、、、、

   滅する  という 語  が  ソゴ に あります

翻訳の 語  として  「滅」 を 受けるから
訳に対する 自らの解釈( 訳 = 選択上の気分 ) が 起きます
それに対して 「唯嫌揀択」 が 置かれます

「生」  とは  誰でも受けていることで
 受けさせるには  苦痛を伴うともいえますが
  ( 出産 あるいは それを支える 経済活動 ) 
  ( この場合 “経済” とは 少し 違う概念 だと知ってください 、、、、 )
  ( それぞれにある理財を維持する あるいは 経世済民  )
 受ける には 難を用いません ( 誰でも知らぬ  内  に 受けている )

「生」 を 受けない者は “存在” を持たない
 ( モノ   は 生を受けて
   承けられた モノから 存在を与えられ 生 と 共に一体としてある )


こういうことを 考察(考えること) をしなくとも
楽しんだり 苦しんだり 迷ったり  することに  (生滅を問う)必要性は 起きません


>  原因がわかればそれで終わり。

終わり  という語 を   「滅」する  と      する  と
悩みの  生起   を   「生」きる   とで    きる ( 「不生」 が 起きる )

悩むに足る事かどうかは  原因を知るときの 生きるにある
と  知る とき ( 原因を知ると )
 ( 滅する のは 生きること という そこの場所における 観念 ) 
原因ではなく  生起させる そこにおける 「生」 にあると知る 

「行」  が 
 「苦行」  と 理解されています 、、、、

唱えるときには 「 クギョウ 」  と めざすところ に つながります

クワバラ クワバラ

 無痴 の 口 →  口  に矢を 立てる=突き通す     春間 則廣  2017/10/17(Tue) 12:13 No.54416 [返信]


四角四面 は どこの面 ?

*************

>原因を滅すれば、結果も滅することになり、「諸行無常」の成り立つことが示される、ことになる。

これにて、寂滅しますね。


乗れた!

*************

聞く者と 語る者 とが 同時(同じ場=同じ∃)にあり
聞く  と 語る  とが 異時にある

これを

聞く者と 語る者 とが 異時(異なる場所)にあり
聞く  と 語る  とが 同時にある

としたとき
これは 異事 であるか  オナジ であるか ?

意地 でも 知ろうとする 時  時は 止まっている


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