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[11859] Re:[11858] 布施と托鉢 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2020/01/22(Wed) 08:51   [返信]

> ブッダの場合、そもそも謝礼は取らないので、考えなくてもいいとは思いますが、
> 教えを聞いた後、お布施をしようとしても受けとってもらえないので、謝礼の意味が幅広いと思います。

教え ではなく   詩を 示した    のですね

田を耕す “バラモン” にも 示されています

      ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 )

77 「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。
78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。
79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。
80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」


「 詩を唱えて 得たものが わたしの食べもの となることはない 」 

法施 であるから、 布施を 受けるのではない
( 牟尼に於いては、 授受 は  「 縁起 」 しない )


わたしは 托鉢で生きています
布施によって 生かされています

仏よりの 布施 です
法施 であり 食施 です

すべての人は 布施 で 命にある

>  私は、詩の教えを読む度ごとに、「これってタダなんだ」って、いちいち感動しています

ただ で は ないのです
> 「これってタダなんだ」
   って、いう
   「 法 」 を  ( 牟尼にたいして )
 そこから 湧出 させて くれているのです( 布施しているのです ) 

牟尼 は 「 法 」  を 食して 命としている


[11858] Re:[11857] 不飲酒戒について 投稿者:管理人エム 投稿日:2020/01/22(Wed) 04:30   [返信]
えび天サンバさま

すっかり明けまして、1月も下旬ですね。

> で、いろいろありますが、とりあえず今年も宜しくお願い申し上げます。

よろしくお願いいたします。

> エム先生の最新作を心待にしております。
> 今年こそは、とは言いません。来年でもいいですし、再来年でも。(笑)

すみません。書こうとはしているんですが、なかなか時間が取れなくて。
無駄に余計で無意味な仕事が多すぎる、って思っています。おっと、愚痴だわ。
>
> ところで、なんでもいいですから、中間報告の本を一冊、出して下さい。うやまってもうす。

あ、ああ、何書いたらよいのやら。。
最近、本気ではまっているのが、『スッタニパータ』ですが…。龍樹は、これから多くを学んでいます。

えび天サンバさまに、お待たせしているので、プレゼントを一つ。

ブッダは、なぜ一般の人々の受け答えに、多くの場合、詩で教えを語ったでしょう。
詩の入った教えを語る時には、どんな意味が出て来るでしょう。

答のうちの一つだと思いますが、現代風に考えると、
「謝礼はいらない」と分かる、ということです。

ブッダの場合、そもそも謝礼は取らないので、考えなくてもいいとは思いますが、
教えを聞いた後、お布施をしようとしても受けとってもらえないので、謝礼の意味が幅広いと思います。

つまり、金持ちが優遇されたり、貧乏な人が教えを聞けなかったりすることがない、ということですよね。「地獄の沙汰も金次第」な現代において、けっこう大きな意味があるなと思ったりします。

相手が詩の形で聞いてきたら、ブッダも詩で返す。これは、基本の返答ですね。
そして、その中に必ず聞いた人のためになることが入っている、っていうことになると、誰でもがブッダと話したくなりますよね。

よくよく読むと、一つだけではなく、二重三重にも、その教えが重なって入っていて、その人の聞いたことに対して、三倍も四倍もの内容が入った答をくれる、というのが「すごっ!」っです。

しかも、詩なので韻をふんで唱えやすく覚えやすいです。一つの詩を知っていても多聞であるというのがよく分かってきましたよ。

最近では、私は、詩の教えを読む度ごとに、「これってタダなんだ」って、いちいち感動しています。当時、バラモンの人たちは、祭式を行って報酬を受けとったりしていたかと思いますが、その時に、マントラなど詩の形でも唱えます。こういうことに対抗することにもなったのではないかと思ったりします。

中間報告もかねて。

[11857] 不飲酒戒について 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2020/01/20(Mon) 22:58   [返信]
エム先生、本年も宜しくどうぞ。

記事はいつも読んでいます。殊にエム先生のは。
で、いろいろありますが、とりあえず今年も宜しくお願い申し上げます。

つらつらと思うに、大乗の本義とは如何に、と言ったならば、
営業利益を求める契約社員とか、そういう身の丈でしか思い浮かびません。しかしながら、利他といいい、利益という時には、やはり縁起とか、空とかは外せません。

つまり、僕から見ると、空、すなわち、縁起、ということになります。

ま、こういったことはさておき。

エム先生の最新作を心待にしております。
今年こそは、とは言いません。来年でもいいですし、再来年でも。(笑)

ところで、なんでもいいですから、中間報告の本を一冊、出して下さい。うやまってもうす。

[11856]  悪人正機   投稿者: 春間 則廣  投稿日:2020/01/06(Mon) 08:42   [返信]

善人尚以往生況悪人乎事

『三心料簡および御法語』   勢観房源智上人       

                   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%99%BA

「 善人尚以往生況悪人乎事 」  (口伝有之)


『和語灯録』
たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに其中によき子もあり、あしき子もあり。ともに慈悲をなすといへども、悪を行ずる子をは目をいからかし、杖をささげて[2]、いましむるがことし。仏の慈悲のあまねき事をききては、つみをつくれとおぼしめすといふおもひをなさば、仏の慈悲にももれぬべし。悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけては、いよいよ仏の知見をばはづへし、かなしむべし。父母の慈悲あればとて、父母のまへにて悪を行ぜんに、その父母よろこぶべしや、なげきながらすてず、あはれみながらにくむ也。仏も又もてかくのごとし。

(十二箇条問答)


「 悪 」 とは 

化身土文類六(本)
十三文例
 ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。



言 「汝是凡夫心想羸劣」   則是彰為悪人往生機也。   (  十三文例  ) 

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、

すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり

(化巻 P.382)


心想羸劣 なる “ 凡夫 ” が 「 悪 」 を規定し
「 善 」 を 懐く

何をもってして、誰が 「 悪 」 を (心想羸劣に)規定するか

悪を 悪たる と 知る  者  のみ 悪人(者) であり

「 悪 」 の何たるか を 心想羸劣に規定する 者    が 「 善人 」 であり
その  善人  は      悪 の何たるか         を 知る事がない
故に 身に 「 悪 」 を  見出すことはない

善人 尚もって 往生す
況や 身に悪を見ることの適う 悪人をや



[11855]   福音   投稿者: 春間 則廣  投稿日:2020/01/04(Sat) 09:53   [返信]

マタイ23:26節
「目の見えぬ  人たち
   まず、    杯の  内側をきよめなさい。
   そうすれば、    外側もきよくなります。」


4節   
「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」
5節
「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」
7節
「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません。」  、  「あなたがたはみな兄弟だから」
11:12節
「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」
23:17・19節
「愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」   
「 供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」



祭壇と、その祭壇を聖いものにする 行ない(である 供え物)と 、 どちらが 大切 なのか

[11852] Re:[11851] 明けましておめでとうございます 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2020/01/01(Wed) 15:58   [返信]

> この世にブッダが出現するということは、ありえないことが起こる、ということなんだなあと、実感している毎日です。

あり得ること しか 起らないけれど
そういうことは  あり得ない

あり得ないことが起こることが
あり得ることしか起こらないこと


何々しかない  というところには
何か   が   足りない
何でもありならば
何かが足りないこと も あり
そうでしかない ので なければ、
何かが足りない ということ は 起き得ない


初春から
おめでたいこと を 言ってみる


[11851] 明けましておめでとうございます 投稿者:管理人エム 投稿日:2020/01/01(Wed) 12:02   [返信]
みなさま 明けまして おめでとうございます。

今年1年、またまたよろしくお願いいたします。


今年の抱負は、『中論』解読ですが、さらに深みにはまりつつあります。

実は、「縁起」の解明で、『ブッダと龍樹の論理学』では書いてない部分があって、
そこを究明する予定にしていたのですが、なかなか難しく、どんなことになるのだろうと思っています。
アビダルマも絡むことになるしなあ、って思っています。

『仏陀と龍樹の論理学』から12年も経ったのですね。

『スッタニパータ』に大乗の広がりを、はっきりと見て、
龍樹の論理を感じとっていますが、最近では、密教への広がりもみえて来始めました。

『方便心論』も、実は、まだまだ解明しきれていません。
もしかして、密教の方へいくヒントが満載されているのかもしれない、とも思ったりしています。

こうなると、すべての仏教を視野に入れることになってくるなあと思っています。

どうなるかわかりませんが、今年も、がんばろうと思っているところです。


この世にブッダが出現するということは、ありえないことが起こる、ということなんだなあと、実感している毎日です。
輪廻の身ではありますが、ブッダを知る環境に生まれてこれて、ラッキーだったなあ。

[11850] Re:[11849] 再掲示 : わたしを 沙門 と 呼ぶものはいない 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/12/28(Sat) 06:29   [返信]
> >   これより外に、また沙門はいない。
>
> わたしを “ 沙門 ” と 呼ぶものはいない
>
> わたしは 「 聞者 」 に過ぎず、 
> 捨てた時に、 拾うべき言葉を 手にした


534 尊者は言いました。
 サビヤよ、一切の法を聞いて、
世界において、罪があろうとなかろうと何であれ、よく知って、
打ち勝った者であり、疑いなき者であり、解脱した者で、
あらゆる場合に激情にかられることのない者を、<聞(経)者(ソーッティヤ)>と言います。
                     (『スッタニパータ』)


春間さまのことも書いてあります。ブッダには、漏れがないなあ。

[11849] 再掲示 : わたしを 沙門 と 呼ぶものはいない 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/12/27(Fri) 07:01   [返信]
[11849] Re:[11848]   論理    投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/12/24(Tue) 09:02


人 というモノが 縁起して しか 存在できないのであれば

「 人 」 を つくっているのは  「 縁起 」  です

 「 縁起 」 を 見る者は、  我を見、 人  を 見る

そこに於いては、 「 我 」 と 「 人 」 とは 、  「 縁起 」 していない

> 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。

“ 人 ” とは、 人の世 のことです
人  が(は)   人の世 を作っている  ということ  は
  「 縁起 」 して
人の世  は(が)  「 人 」 を 作っている  こととなるわけです

ちらちらと 垣間見ることが適うだけの 人の世 が
      人の認識 を作っているから
わたしは その認識 の 上に 存在を許されています

> 『草枕』は、こう言っています。

『草枕』 を あなたは そう読み取る

> だから、人は、世の中を見る。

チラッと見て、 詳細な見識を 構築する   しかし
その構築物  は チラ見 の 上に  立ち上がっている

> 世の中を見て、論理だけではなくて、隙間を倫理で埋め尽くし、
> 善(悪)の地とするのです。

埋めつくすことが出来るのは、
     見出した    “ 隙間 ” に 限られ、
その埋め尽くし にも  “ 隙間 ” があるが、
そこを見出せてはいない

>   スバッダよ、二九歳の時、
>   何かしら善なることを求めて出家した。

二十歳の時に わたしは わたしであることを捨てた

>   スバッダよ、わたしが出家してから五〇余年が過ぎた。
>   論理と法の地を歩んで来たのである。

論理と法  とを 捨てる地 にある 道 を 歩んできた

>   これより外に、また沙門はいない。

わたしを “ 沙門 ” と 呼ぶものはいない

わたしは 「 聞者 」 に過ぎず、 
捨てた時に、 拾うべき言葉を 手にした

サーモン を 好んで食べることをしない


[11848] Re:[11847]   論理    投稿者:管理人エム 投稿日:2019/12/24(Tue) 07:53   [返信]
>
> 「  『 論理的 』 に 物事を見ると 
>      論理的   である  こと  が出来なくなる  」
>
>
> これは 論理的に 正しいのか ?

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。

『草枕』は、こう言っています。

だから、人は、世の中を見る。

世の中を見て、論理だけではなくて、隙間を倫理で埋め尽くし、
善(悪)の地とするのです。


  スバッダよ、二九歳の時、
  何かしら善なることを求めて出家した。
  スバッダよ、わたしが出家してから五〇余年が過ぎた。
  論理と法の地を歩んで来たのである。
  これより外に、また沙門はいない。


(『大般涅槃経』「スバッダの帰依」より)


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