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[10861] Re: [10854]  部品の 根拠   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/15(Wed) 11:16   [返信]

> どこの世界観も

観は モノに対して 起きる 意識 として 意識される

“ カンでモノを言う ”
よく噛まずに 飲み込む
消化されないこともある

> あなたにあって、
>     あなたの  世界を形作る
> あなたの       アルタである
>     部品です

部品 は “モノ” と 言い替えられ得る

> 部品を寄せ集めると あなたができると

肉体的にも、 精神・意識上に 於いても

> パーリ パンハ で ミリンダ王 に 説かれるが

ミリンダ王にそう説かれると
そう読む 、、、、

> 読み方は 部品を集めて 構成される 、、、、

読み方とは “観” であり、 「有見」 である

そうではない と
 読み方    を  固定し 「有見」 に 気が付こうとはしない
その固定化が  「自性」  です  ( そうではなく  そうなのです )


ドラッカー は 知識の機能について
知ること  と 認識すること と  決める

それは “知識” と 呼ばれる  “ モノ ”  でしかない
モノは 単独では モノであることもない
( あるという認識 に    “立つ”       人生上に於いて
       モノではなく    行い  として  意味の源泉となる )
( 源泉には意味はない 導き出して 流れとなり 人の手に取られ 意味を持つ )

知識 は 知恵 でしかない
知恵 は 無明を起こす 主要の 要素である
   翻って   「 智慧」   は
牟尼の 行いとして 働きの 栄養素 であり、働きそのものでもある

全体 は モノ で 出来ている
   が
モノ を いくら集めても “ モノ ” である

モノ(部品) で 出来ているのが 人 ではあるが

ソノモノ は 働いている
( そこ に 於いて 部品は 働いているから 
  その        どの部品を とっても 人ではないことはない )

ソノモノ を 「如是」 とも言い
 タターガタ と    呼ぶことが適う

だからといって すべて タターガタ であるから
タターガタ という シャベツ は 成り立ちの根拠にない


[10860]   悟りへの道  (  古城へと続く道  )    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/13(Mon) 13:51   [返信]

入菩薩行論 4

シャーンティ デーヴァ の 「悟りへの道」 ( 入菩薩行論 )   金倉円照 訳

この恵まれた 人生は、きわめて得がたい。   
    恵まれた という 状態は 恵まれてはいない時にだけ 表出するが
    表出と 共に   (同時ではあるが、並立しない)
    恵まれてはいない生が 存在しなくなる
     (同時ではあるが、 そのどちらでも 並立 は しない)
これをえて、 初めて人間の目的 (即ち解脱) は 達成せられる。
    これ  とは ここ(此処)  の ことである
    ここにいて 感じることは 幸福という概念ではない
もし、ここで (真の幸福の因たるべき) 幸福を認識しなかったら、   
    存在は 認識を超出している
    (同時ではあるが、並立しない)
     因は 認識の 出発点である
どうして、 ふたたび (かかる幸運が) めぐりこよう。
   
    得ていれば 一つの、繰り返されることのない 生 ( 「不生」 である )
    得ていなければ、  この恵まれた 人生  は 存在していない

     「 不生 」 一つで 片付いている     、、、、


幸運にあるものには (幸運なことではあるが) 幸運は 存在してはいない


**************

自分事ではなければ、こういう訳が成り立つ 、、、、

「 菩薩を生きる 」 寺西 のぶ子  訳

四.この恵まれた境遇に達するのは実に難しい
   この境遇にあれば人間であることの意義が得られる。
   この機会をうまく役立てなければ、
   二度と機会は訪れないかもしれない。


[10859] カンランなこと 考えるまでもない 、、、、   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/11(Sat) 08:37   [返信]

語る言葉も
語られた言葉も
全て “ ことば ” です

「 言葉は神である 」 

あなたは いつも

あなたという 聞く者として の 出会いの 基盤を作る
そして
語る者は 意識されてはいない
( 意識になければ   存在はないのであれば
 無意識  に=は 存在すること  が ない )

   存在がない
    ということ が 存在できるのは 何故かは
   問われようとはしない

アルタ である 言葉   も   神である
神は いつも 行いと共にあるが
行いは いつも
 行っている と思う
   主催者 の アルタである
(  主催者 は  誰ですか  ?  )    

主催者によって 行いとされる 催しは
観客者のモノではあるが
 「 縁起 」 者は それに 深く関わりをもっていると知る
その 深い 関わりが 演技 として  「 縁起 」 者 に 起きる

主催者 は 観覧料を 徴収する 、、、、


[10858]   ムダ イ  の 意  Re:  [10857]   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/11(Sat) 08:01   [返信]

言葉は神である(あった)     と 聖書にある
始めに言葉があった(ある)   とも    ある  ( ヨハネ 1-1 )

人の子としての イエス は 彼の語った言葉の中に “現臨” として ある

言葉は 現臨 と 切り離すことは出来ないが
言葉は 聞く時に 現臨 から 離れ “ ロゴス ” となる

聞いた言葉は 聞く者の 行い( 現臨 ) として ある

言葉( 神 ) は 行いと共にある

あなたが イエス の血肉で 《 イエスが “我が”=あなたの 血肉 》  なら
神は 我(わたし) と 共にある

イエスの肉体が パン(食物)であると知り
      血が  飲み物(ブドウより来るもの)と知るとき
イエス は あなたの血肉(となっている)  と 知る

神に出会ったものは いない
いても ( いる・いた としても )
出会いがないモノには 出会いとは 何かを 知る由がない

出会うまでは 出会い は ない ( 出会いを知ることはない )

聖書には 「 あなたの神を  量って(試みの思慮に乗せて) は いけない 」 とある
量る 量り  で あなたが 量られる から  である
自らを 量る 量りは
 量ること(量りの仕組みを知ること)の対称とはなり得ず
  量りを量ろうと 量りを知ることは出来ない ( 量りは釣り合っている )


“  「 神 」 とは  言説  である  ”


ここから 何故 「 わたしは語る 」 と 言えるかは 導き出される

          ( 3章 剣 5節 )  ( 岩波文庫「神々との対話」 41p )

 「高慢〔の思い〕を捨て去った者に、諸々の拘束は存在しません。高慢〔の思い〕による束縛は、〔その〕一切が砕破されました。
  彼は、〔高慢の〕思いを超克した、善き思慮ある者であり、彼は、あえて、『わたしは、〔これを〕説く』と説くこともありましょう。
  彼は、あえて、『〔彼らは、これを〕わがものと説く』と説くこともありましょう。
  智者である彼は、〔言説を〕世における呼称と知って、言説だけのものとして言説するのです」
       (  正田大観 訳  テーラワーダ HP より )


********

語る言葉は 神 で あって も
語られた言葉は
聞く者 = 我  によって、 “わがモノ” として  アルタとなる
言葉が起きると同時に
   ( 起こされていると知るところに於いて )   アルタは起きている

言葉が  血肉となって     現臨  する
  までは
神は   共にあるモノ として  現臨  する


自らの言葉 を  我がモノ  とする者は 
共にあるモノ    に  思いが及ばない 、、、、



[10857] 無題 投稿者:おちゃらけ 投稿日:2018/08/11(Sat) 00:22   [返信]
「私は語る」と「語る私」は区別したほうがいいんじゃないかなぁ〜と思いまーす
(「私は聞く」と「聞く私」もプラスで)

「私は語る」という行為、「語る私」という対象、って目安で私は読んでます(って自分「を」語ってます)

つまり、高僧の法話と、それを引用する行為、それを読む者、みたいな区別

あったりまえ〜っかもだけど、やってみるとむずかしぃ〜(って自分「で」語ってます)

[10856] Re:[10855] 無題 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/09(Thu) 12:27   [返信]

> (大乗ではなくて)
> ↓上座部の場合は

君はどうか

という 問題です

他人事を 自分事にするには

言葉ではなく

菩薩としての「 覚 」 と 「 精進 」 にある

あるかどうかを 見つめればよい

返答無用


[10855] 無題 投稿者:おじゃる? 投稿日:2018/08/09(Thu) 11:35   [返信]
 
> 「縁起」が起きているときに「縁起」を離れることはない

(大乗ではなくて)
↓上座部の場合は

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部 パオ・セヤドー

刹那生滅
五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します

因縁滅智
阿羅漢道を証悟した時に
無明・渇愛・取・行及び業というこの因が余す所なく滅尽し
因縁滅を了知する智慧を、因縁滅智と言います
  _  _  _

因と縁の双方の縁起が相応一致して
縁起に依って
因縁滅を了知する智慧をもって

縁起したものを離れることがある。とブッダは説く

縁起したものを離れ、そして

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf

[10854] Re:[10852] 無題 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/09(Thu) 08:05   [返信]

> (縁起に依って)
> 縁起したものを離れることがある

 「 縁起 」 が起きているときに
 「 縁起 」 を離れること は ない

これから離れると   「 縁起 」 は起きて イナイ  が
ナイ (こと) には   「 縁起 」 が起きる
識 は 無明に起きるからです 、、、、


あなたは 語る

> ブッダは
> そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
> 死ぬことも、生まれることも説かない
> それこそが苦しみの終わりである

ブッダが こう語っていると 語る


語るあなたは 語られたことの背後に潜む


> ↑上座部系の世界観かもしれないけど一応、念のため

どこの世界観も
あなたにあって、
    あなたの  世界を形作る
あなたの       アルタである
    部品です

部品を寄せ集めると あなたができると
パーリ パンハ で ミリンダ王 に 説かれるが
読み方は 部品を集めて 構成される 、、、、


[10853] Re:[10851] どこの誰が何を見るのか? 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/09(Thu) 07:47   [返信]

> > 凡夫の言うことかな ?

問いには答えず

> > >  中道にて おじゃる ぼさつ (_ _)
> >   中道にいる時にだけ      
      中道にあるから 中道を歩み  歩みと共に 認識も中道にあり
      自ら( ”わたし” が )語る と 自らを離れて語られる
> >   一緒にいると知られる
      歩みが同じなら 揺れ動きも同じ

> こんな風に細切れに分けてはいけない。もともと、こうあったのです。

もともとこうあったと、 細切れを     増やしてみても、   
       細切れは 細切れであって  細切れではない
増減は  「 縁起 」 に起きる

切ったから  「 縁起 」 が切れているのではなく
 「 縁起 」 を起こしていることを知らせるために
切って 表したのです
    (  「 縁起 」 は 世俗に於いてのみ起きる 、、、、 )
    ( 世間に 住んで イガイ に  気付かない  、、、、 )   
 

> =====
> > どこの誰が何を見るのか?
> > 無明に依存している、おじゃるが見るのか?
> >
> > 般若の智慧と慈悲(としての、おじゃる)が解脱智見を知るのか?
> ======
>> > >   おじゃるさまは、ブッダではなく凡夫ではない、中道にて おじゃる ぼさつ (_ _)

読んでほしい 意図は 読まれる糸を 切り離す 、、、、

> 大乗の視点を問題にしている、と見て、そこに答えたものです。
> 「原因から結果へ」 という方向だけでは語りきれないものがあるのが、大乗です。
> 「結果から原因へ」という法のあり方を知って、実践することが必要になってくるので、 そういう地点に立つとすれば、中道ということになるでしょう、ということです。
          そういうことかどうかは  説明が付されると 付された文意 に 動かされる
> どういう中道かと言えば、「ブッダではなく凡夫ではない」というところです。
          凡夫でなければ 仏陀の 善知識だけが 歩みを進める
          煩悩も 見据えるところから 見据えられている
> ここを進むと、実践的な道が行けると思って、こう書いたのです。

あのねのね   実践的な道にあるのが 凡夫です
実践とは 細かくすると( するとおしかりを受ける )
実体を 伴う 日々の歩み 、、、、

その “実態” が   「 縁起 」  に 起きていると 勝義に於いて 語る

正 気 で 語っているから
  気 が 違っていると言われ、
そこに分類される 、、、、
( ま  分類する わたしが その分類で 分類されているのを 知らぬとすれば 、、、 )

裁く裁きで裁かれる
( ナグハマディー文書 トマス福音書3 では
   「 王国 は あなたの手中にあって あなたの外にある 」  という )
( マタイ 10-3   あなたの口に入るモノ は    あなたを汚さない
             あなたの口から 出るモノ が すべてを汚す     )
( トマス福音書16
          あなたは わたし が   地上に 分裂 火 刀 戦争を
          投げ込む   ため に  来た ことを      知らない )

いくら重ねても、 重なる 思いは 無明に起きている 、、、、

> ブッダってどういう人か  ブッダは「空」
> 凡夫ってどういう人か     凡夫は「空」

>  ブッダではなく凡夫ではない  こういう中道もある、と思うな  ぼさつ です。

最後 (あたり) だけ を 切り取ると
>  >  こういう中道も
>  >    ある、と思うな  
となる

なるほど   に
    カムベ の よこに アウサカ が ある
タレ  ぞ  知る  、、、、

したたり したたり  血に 落ちる 、、、、



> >
> > >  中道にて おじゃる ぼさつ (_ _)
> >
> > 中道にいる時にだけ
> > 一緒にいると知られる
>
> こんな風に細切れに分けてはいけない。もともと、こうあったのです。
>
> =====
> > どこの誰が何を見るのか?
> > 無明に依存している、おじゃるが見るのか?
> >
> > 般若の智慧と慈悲(としての、おじゃる)が解脱智見を知るのか?
> ======
>
> 大乗の視点を問題にしている、と見て、そこに答えたものです。
> 「原因から結果へ」 という方向だけでは語りきれないものがあるのが、大乗です。
> 「結果から原因へ」という法のあり方を知って、実践することが必要になってくるので、 そういう地点に立つとすれば、中道ということになるでしょう、ということです。
>
> どういう中道かと言えば、「ブッダではなく凡夫ではない」というところです。
> ここを進むと、実践的な道が行けると思って、こう書いたのです。
>
> ブッダってどういう人か  ブッダは「空」
> 凡夫ってどういう人か     凡夫は「空」
>
> ブッダではなく凡夫ではない  こういう中道もある、と思うな  ぼさつ です。

[10852] 無題 投稿者:おじゃる? 投稿日:2018/08/09(Thu) 07:20   [返信]
 
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
無明に縁りて行、行に縁りて識、苦しい。という『想い』が現れる
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅して、苦しい。という『想い』が滅する

 − これに対して −

大乗とかの場合は
もともと
仏性からの真如縁起

ちなみに一応、念のため
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
自性清浄
心は光り輝いている(仏そのもの)に、外来のもろもろの煩悩によって汚れている

(無明が依存している)
縁起している世界を手放して超えていくのなら

仏そのもの、涅槃

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本

(縁起に依って)
縁起したものを離れることがある

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである

↑上座部系の世界観かもしれないけど一応、念のため

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