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[11114] Re: [11113]  ア カン 中 見舞い     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/17(Wed) 08:27   [返信]

お忙しい 中
読むのは 大変だろうが
迷惑がらずに 読んでみることを お勧めする


> 議論をすれば、先生も私もそうだが、自分の誤りを責められて怒ったりもする。
> でもそんな人間としての愚かさを、先生も私も引き受けている。

人間  としての  愚かさとは
あなたの言う 二行 を そのまま 自分の生に 当てはめて 平然としていることです

自分だけならまだしも
     ( 自分という存在は 他の存在を必要とします )
     ( 自分を規定するということは、 他を規定しなければ起きません )
人 という “括り” に ( 別の“階梯”であるのにもかかわらず )
あたかも  他の人 に対して
  同じ 梯子  を
  同じように 同じ階 を  登る者  
として  扱うことです

人間としての 愚かさ   などという 
一般的なこと は 存在しません
それが 存在するとするなら  自分 一人  に 存在するのみです
その 愚かさで 人を量り(括り)
一緒にくるめることにより 
自らの 愚かさを 一般化し ある意味 正当化するのです
( 人として 避けられない  のではなく  “ 自分は 避けない ” のです  )

すでに あなたの 文章読解能力 では
この論理の続け方に ついてくることは 難しいことかと 危惧もしますが 、、、、
“ 自分の問題として取り組む ” ことが出来る限りにおいて
この文章は 有効性を保ちます
( 論理は 決して破綻してはいない
  あたかも 嶺と嶺をつなぐ 吊り橋のように  道が細いから
    揺れているように見えるから  渡れぬ  ということはない  )

ひとつの 嶺を 制しても そこから 別の嶺が 望めます
嶺から 嶺へと 移るには
また 下山して 踏破 しなければならない  という 道もあります
しかし センジン は センジン(浅深) の  「 縁起 」  を  置き
そこに 吊り橋を 起きます
( 瞑想 が 吊り橋を 渡し  渡らせる 唯一の道です )

今ある 今いる 頂点に於いて
    瞑想するとき
すべての嶺は 一つにつながる 、、、、

一つを知るとき  すべてのありようを知る 、、、、


これは  “ 自分の語り ”  ですが、
自分  というモノが 既に存在しなければ
“ 誰にでも 当てはまる語り ”  と 成ります
 ( 誰は 自分を含むが  自他にも 他は含まれる )
   → これは あえて 説明しない 自分で 思いを遊ばせてみてください 、、、、

“ さまざまな視点 ” というモノは   必ず 一つの視点から 起こされる 
( 仏 の 視点 でもあるが        自己 の 視点である         )

学んで 得たことは 学びの中でしか通用しない
学んで 通用させたことが 通用の中で “ 通用している ”

その   “ 通用している ”    が 人生 です

何を どう学ぶかで 通用させるところは  “ 確立していく 、、、、 ”
( しかし それも 五蘊 の 中の出来事 、、、、 )

そう思いを馳せ  諦めるところに
 通用させる   人生は 規定されていく 、、、、(  “ 確立していく 、、、、 ” )

それを 人生 = 人の性  とするなら したいようにするしかない 、、、、
( したくないことをするのも したいようにすること )


[11113] Re:[11094] 二諦説 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/16(Tue) 22:52   [返信]
spinobuddhistさま

> 議論をすれば、先生も私もそうだが、自分の誤りを責められて怒ったりもする。
> でもそんな人間としての愚かさを、先生も私も引き受けている。

すみません。わたしは、怒ってないです。
昔は、ムカッとしたりもしましたが(spinobuddhistさまと語るよりだいぶ以前のことです)、それは、わたしの弱点(理論上の)を突かれたりしたからです。自分が弱いところは、突かれると腹が立つものだ、ということを知って、弱点をなくすように努力してきました。だいぶ減ってきました(笑)。突かれてはじめて弱点とわかるのも、まあ、ありがたいものです。

ですから、最近は、spinobuddhistさまとの議論も含めて、腹が立ったりしたことはありません。ゼロではないかもしれませんが、腹が立つような気配を感じると、むしろ、自分の説に欠陥がある、と思うようになりました。

> 春間様とやり方は違うが同じパターンで、絶対他人に責められない安全な場所から他人を見下しているに過ぎない。
> そんな処に逃げ込んでないで、本当に議論が不要なら日和見主義者みたいな書き込みは今日限りでやめて、
> 無言行者になって真面目に修行したらどうですか。

苺屋毒蛙さまも、春間さまも、けっこう突っ込みますが、見下して、そうしているのではないと思います。
どの程度答えられるかな、と、思ってはいるかもしれませんが、そこにどれだけ食いついていけるかは、こちらの問題なので、自分の問題として、取り組む限り有効だと思っています。

つまり、関心が違うことはありますので、その異なる関心から話されると、こちらがついていけないことはあります。こちらの話の展開を押し通すか、相手の言うことを聞いて合わせるか、それはその時々ですが、自分の語りだけしか通用しないという態度はまずいと思い、なるべくさまざまな視点を学ぶようにしています。

[11112] Re:[11089] 仏陀の道の端で 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/16(Tue) 22:18   [返信]
spinobuddhistさま こんばんは。

日曜日と月曜日は、死のスパイラルで、ようやく今頃拝読しています。
出遅れましてすみません。

> スマ長老が言うように、本当に無常=世俗諦を直視したら、普通の人間は精神が破綻します。
> それほど怖いものだということです。

少し噛み合わなくなっているようにも思います。
前回の問題は、「縁起=世俗諦 空=勝義諦」という表現が、まずいのではないかいうことで書いたのです。この「=」に、問題を感じています。

「無常=世俗諦」 も同じようですね。どこか、仏教的ではない考え方が入り込んでいるのではないでしょうか。

> また、世俗諦を通してより高い勝義諦を表現するとは、無常観=ニヒリズムの極限を通過したのち有無二辺の中道としての空観に到る、ということになるかと思います。
> つまり弁証法的に、有→無→有無二辺の中道、となります。ここで世俗諦→勝義諦という順序関係が成立します。

「無常観=ニヒリズム」とありますね。生ずる時に「ある」といい、滅する時に「ない」という言葉の使い方から、ニヒリズムにはいけないのではないでしょうか。もし、何かが生ずるようなものであれば、それは必ず滅していくということも起こる、ということです。
>
> そしてこの空観で上手くいってる間はニヒリズムの苦痛もある程度回避できますが、
> それが機能しなくなってくるとまたニヒリズムに落ち込んでいきます。
> そうしてまたその苦痛を経過することにより、より高い空観へと上昇します。

ニヒリズムという思いも、生じてきたら滅していきます。
ニヒリズムそのものは、何でしょうか?確固として有るものでしょうか。

> 今回はここら辺で終わりにしたいと思います。
> エム先生どうも有り難うございました。
> 北海道はこれからますます寒くなるかと思いますがご自愛ください。

かなり冷え込んで来ましたよ。また、お話しください。
何か、ずれてしまったような感覚のままですが、spinobuddhistさまもご自愛ください。

[11111] Re:[11109] “タイ”する 者は あなたが決めたとおりに あるとは限らない 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/16(Tue) 16:04   [返信]

> 外野の中傷でくだらぬ言い合いに巻き込まれてしまったのは無念でした。

中傷 ではないが、
中傷 と とる
その決めつけの 根拠 は 
あなたからの、中傷になる   とは 思いもよらぬ ことではありませんか ?

> しかし意味のない議論ではなかった。

“巻き込まれた” あなたには 中傷合戦  として 存在している

あなたに対する書き込みが 中傷ではなく
中傷ではないこと を 中傷と  決めつける
    それは     まごうことなき 中傷 です

もし“片”一方が 中傷ではなければ
あなたの “巻き込まれる ”という 語の 使用法は 適切ではない

あなたは 中傷に巻き込まれた  と 言う限り
その土俵で 言葉を語っている
一方 
対する者は あなたが決めたとおりに あるとは限らない

> それが 公正ではないことは 賢明なる(論理に通じた者は) 見逃さない

>  おそらくこのサイトを訪れる公正な読者の方々には理解して頂けたと信じ、自らの慰めとしたいと思います。

片一方は 確定した 中傷
もう一方は あなたの “ 揀択 = 商量 = 判断 ” によるのみ
確定していない ところ を
       あなたと 同様に 評価し   あたかも確定したがごとくに扱う者 を
あなたは     公正な読者          と  決める

こういう 論理構造 が あなたの “ 論 ” を 貫いている
自分で 確定できないところを 
   あたかも確定したがごとく 置き
そこに逃げ込む

その論拠は  あなたの 思うところによるのみ
( この    “ あなた ” が いくら 衆を為しても その一人一人に それはあてはまる )

もし
管理人エム 様 が あなたの主張するように

> 外野の中傷でくだらぬ言い合い

と 捉えるのなら
わたしは  命と真理  を “ カケテ ”
真理 を 守る


一言 言うべきでは ありませんか ?


[11110] Re:[11109] 退出の挨拶 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2018/10/16(Tue) 13:21   [返信]
> 二諦の議論が終わった後に意味も無く駆けつけたエビ天サンバ氏とともに、もはや二諦の論理構造とは何の関係もない議論で盛り上がられるのがよろしいかと思います。

私は春間氏の記述に興味を持ったので、あなたの探究に関して何かを言ったわけではないのです。あなたと議論をしているつもりもないのだから、気にせずに続ければどうですか。
私も理解できないほかの人々の記述ならいざ知らず、きっとエム先生からは多くを学ぶことが出来るでしょう。

[11109] 退出の挨拶 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/16(Tue) 12:58   [返信]
> 二諦が無いというのなら二諦が無いという論理構造を示せ。
> それが出来ないなら、議論に首を突っ込むな、ということです。

最後に「ということである」で受けているから、普通に考えてこれは命令形ではなく、羅列形(箇条書き)に過ぎないことは明白だろう。
いずれにしても他人の言葉の言葉尻を捉えた中傷に過ぎない。

とってつけたような二諦の考察も、いつもどおりの不二元論を捏ねくり回した無意味な内容で、
真剣な知的好奇心の産物ではないことは、私や先生、pocket様の議論を見ていた人たちには、容易に理解されることである。

二諦の議論が終わった後に意味も無く駆けつけたエビ天サンバ氏とともに、
もはや二諦の論理構造とは何の関係もない議論で盛り上がられるのがよろしいかと思います。

久しぶりに先生と純粋に道の話がしたかっただけなのに、今回もまた外野の中傷でくだらぬ言い合いに巻き込まれてしまったのは無念でした。
しかし意味のない議論ではなかった。おそらくこのサイトを訪れる公正な読者の方々には理解して頂けたと信じ、自らの慰めとしたいと思います。

それでは失礼します。

[11108] Re:[11102] 二諦説 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/16(Tue) 10:09   [返信]

>  なんだかよく分からないんだけれども、そんな風に、ってところを、もう一回、自分の言葉にして、ここに書いてくれると嬉しいな。

君を喜ばせるために 記しているのではないが
喜ぶこと を 禁止できない

嬉しくない書き込みだと 不快を起こすことも
 あなたの 領域である あなたの生きざまにある

それらは 共に あなたによってのみ 引き起こすことが出来る 感情です

わたしの言葉は
すべて 自分の言葉です
あなたの言葉にして (あなたに分かりやすく、分かるように) 綴れ   という  要求 と 読みますが
あなたの言葉で あなたが分かるのは
分からないままと 変わりはありません
( わたしの言葉を あなたの考え方で 翻訳する  → それは あなたのまま です )
( ここが 分かりたくないところで、逃げ込むところです )

わたしの言葉を そのまま 如実に知るには
如実 ということを 知らなければなりません
“如実” は 世俗の言葉ですが 意味は “勝義” です
( このあたりが 分かる者に これを綴っています )

>  君の言葉は、誰だっけ、スピノザ仏教徒の弁を引いて言えば、いつも重いからな〜。ゴメンネ

軽重 は  縁起  だと 知っていますか ?
( そこ( 「 縁起 」 ) を 分からず 論を形作っていると 読めます )


[11107] Re:[11104] 無題 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/16(Tue) 09:57   [返信]

> > > > 仏陀が言っていないから二諦は無いとか、われわれはそんな文献学のレベルじゃなくて、二諦の置かれる論理構造を議論している。
> > > > 二諦が無いというのなら二諦が無いという論理構造を示せ。
> > > > それが出来ないなら、議論に首を突っ込むな、
> 実際の私の発言は以下のとおり。

そこも 綴られてはいる
> >それが出来ないなら、議論に首を突っ込むな、ということです。
しかし あなたの 要求の根拠は
> > > >  二諦が無いというのなら二諦が無いという論理構造を示せ。
という 言い方による 言いたいことです
その言い方 が 敬意に基づいている とは 読めない  ということです
> > > >  それが出来ないなら、議論に首を突っ込むな、
この言い方も 敬意を 失しています

わたしは 論に敬意が必要  だと思って、 言っているのではない
あなたの 用いる “敬意” について 
そこに “ 齟齬 ” を 見出す  ということです

本当に “ 真理を 探求したい ” という 目的があるのなら
探究の道は それぞれに 歩む足下 に あるが
行き着く先は 一つです
しかも 一つを介してはいるけれど 道は すべて繋がっているから
あなたが歩む道は わたしの道でもある

わたしは わたしの道を 大切にする

敬意 という者(モノ)は 自己に発し 陀己(現成公案)に及び 自己に 戻る


[11106]   Re : [11087]    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/16(Tue) 09:20   [返信]
> [11087] Re:[11086] 仏陀の道の端で 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/14(Sun) 08:21


>  「言語活動によらずには、第一義を説くことはできない。第一義に到達しなくては、涅槃を獲得できない。   (『中論』24.10)」 と 順序があるからです。

言語活動によらずには、第一義を説くことはできない 
( 涅槃を獲得しても   説くことは出来ない )
( 涅槃を説いても 説くところは 涅槃ではない  → 世俗では 誰であろうと、獲得できてはいない )
( 獲得したものが 存在するところが 涅槃である )
涅槃を説くことは 第一義諦 に 拠るしかない が
拠るところ(涅槃)は 世俗に於いて 聞かれる

世俗諦を 知ろうと 第一義を知るまでは 世俗諦の意味は知られない


>  勝義諦を知るためには世俗諦が知られねばならない、しかし、その世俗諦を知るためには勝義諦がわかっていないとならない、となると、一体どっちを先に知るのだ、となります。

どっちが先  ということはない
しかし 説く時には 言葉は 順をもって 口から出て来る
言葉を 出す  その  根本=目的  は 全体=言葉 の 発する元 である その者
に 帰属して “端” を 発する

> このため、「過時(時の過ぎたもの)」という論法の誤り、つまり、「先に言うべきものを後に述べ」たり、また、「後にいうべきものを先に言う」などの誤りを指摘されてしまうことになります。

前後 を たがえようと 、     前後のない状態( 涅槃 ) に於いては
( 意味があり・ありとする時なら )意味は変わらない

涅槃は  「 永遠 」 にあり
       「 永遠 」 に 於いては 時は 存在を失っている

しかし 世俗に於いてのみ 言葉が 順に 語られる為 順を追わないと
論理構造を 堅固に組み立てられない → そこに 時が生み出される

壊れるまでは 堅固だが (そこは異なもの 味がないわけではなく)
壊れていようと                  
使いようがないわけではないから
使い続ける限り、 堅固さは 死守される
( 論理的整合性を求めているのではなく 主張を 欲求する のみ )
( その主著を 補強しようと 言葉は使われる )
910   ( 中村元 訳  「ブッダの言葉」 )
(「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。 
               ***********
どのように 適切な 教えを説こうと
彼は それを 自らの 論を 構成するために 使う
適切な教とは 論の形 を とろうと Su.844 談論 する為には 置かれない
               ***********

               ***********

    < 参考 > ( 中村元 訳  「ブッダの言葉」 )

844
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。
884
真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。
それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

773
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

781
欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

784
汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

               ***********

[11105] 無題 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/16(Tue) 08:09   [返信]
> 春間居士様宛
>
> > > そんな処に逃げ込んでないで、本当に議論が不要なら日和見主義者みたいな書き込みは今日限りでやめて、
>
> > そういう風に
> > 自分の立場を 正当化することが、
> > 逃げ込んでいる  ということです
>
> なんだかよく分からないんだけれども、そんな風に、ってところを、もう一回、自分の言葉にして、ここに書いてくれると嬉しいな。
>
> 君の言葉は、誰だっけ、スピノザ仏教徒の弁を引いて言えば、いつも重いからな〜。ゴメンネ

今問題となっているのは二諦の論理構造ですが、

相も変わらずこのサイトは、論理的な議論が出来ない人間が、お祭り騒ぎに駆けつけてきますね。

ここは真剣で論理的な議論をする場所で、中傷合戦をする場所ではないのです。

人を無視するふりをして、「スピノザ仏教徒」などと揶揄してくるのは、

下品だから止めましょう。

人を呼び捨てにするのは、このサイトのエチケットに反しますよ。

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