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[11187] Re:[11186]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/12/10(Mon) 07:41   [返信]

> >  その思いは 言葉にあれば 虚仮ですか ?
>   その思いは 言葉にあれば 虚仮なのは 言葉なのか 思いなのか、

思い  という “ ことば ”  の   “ おもい ” であろうと
真理  に   あれば 、  それが  「 真理 」  です

そのとき 「 言葉 」 は  真理のキ に ハ ス

根(源)と 連なり 機 を 育てる

>  言葉を通って真実にいく場合もあるし、いかない場合もあります。

「 真実 」  という 存在がある限り 「 虚仮 」 は 存在している
「 虚仮 」  という 存在がある限り 「 真実 」 が 存在している

( どちらも 存在しないと言う時 どちら にも 存在の 場所が与えられている )

わたしの 言葉を通して 真実に行くことは 決してない
あなたの 思い  だけが  あなたを  真理に結ぶ

おもい は 言葉によって あらしめられる( 存在の洲を与えられる )

「 止観 」 には  言葉はないが
「 止観 」 は   言葉で 顕現する
( 顕現しないと言おうと、思おうと  それは 言葉で為されている )

> 指が月を指しているとき、月に触れる
> 指が月を指さないときは、月に触れない

そういう  思い を  二つ見る時
     ( 縁起 に 触れ )    
       月  に 触れている

触れている 月が
        あなた の おもい
そのものです


[11186] Re:[11185]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/12/10(Mon) 06:17   [返信]
>
> その思いは 言葉にあれば 虚仮ですか ?

その思いは 言葉にあれば 虚仮なのは 言葉なのか 思いなのか、

言葉を通って真実にいく場合もあるし、いかない場合もあります。

指が月を指しているとき、月に触れる
指が月を指さないときは、月に触れない





[11185] Re:[11184]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/12/09(Sun) 08:57   [返信]

> > に  目を  凝らす

> 「凝らす」というのが、“迷い”っぽい

白隠 の “自画像” = 達磨図 は ギョロッ と  しています

そういうのを  “凝らす”  と (も) 言います

凝らすから 迷い と 迷いっぽい との 界が 際立ってくる
( 凝らすと 輪郭がなくなるときと 輪郭が浮かんでくるとき とがあります )

凝らすことに こだわりがあると  迷いの中での 凝らしめ となる
( こだわりから 凝らしてはいけない )
( 常に 心のマナコ を 見開いておくとき いつも 凝らしている )

> 自分でも、しょっちゅうやっているから分かります。

自らの サンスカーラ に 基づいて 判断を起こすことを
釈迦牟尼は 戒めています

> ただ、わかるときは、「目を凝らしたこと」はないなと思います。

いつも凝らしている時 凝らすということは 起きない

そこが あなたの 積年の サンカーラ です
(  「 行 」 の 蓄積は 目を覆う  )

目を凝らさないことが 目を凝らすことです

> 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり

証せられていると 証する  → ワスルル  ( 目を凝らしていることが 日常である )

( わずかに 一つでも ) 外れていることを 見出すには 凝らさなければならない 、、、、

> > 義 という 言葉を 一義で知るとき 一義で顕わされていないと知る

> > 一義に読むと すり抜ける 、、、、

一義は 一義ではないことによって 一義であらしめる

> > > どちらかといえば、わたしも指にこだわる方ですが。
> > > 指先が、月の方を向いているのかどうかだけは気をつけます。

わたしは いつも 指し示す 右の親指に 痛みを持っている
( 麻酔科でも 外科でも MRI を撮っても お手上げ です )

指し示し 扱う時には 痛みが “能” を 貫く 
(  脳を 能ぜねば 痛みはない  )

> > 無限 ・ 永遠 を 扱う時には
> > 出発点 を おかない ( 執着点 が おっかない )

> 最初からは 無限 はない。有限を通って 無限が出てくる。

そうかな ?

最初から ある 
   ということを 置かなければ
有限 は ない
 ある ということ  は ある を 通って 有らしめられるが
   ある こと    は ない
 ( 無我 非我 は   仏教の 始点(初転法輪) です )

> 我と 指と 月が 一直線につながるとき 修行の道が開けてくる (世俗諦)

むつかしく 矛盾をはらんだ 修行の道になります

どのようにまがりくねろうと
歩む道は “常に”   一直線に あります

“ 常に在る ”から  一直線があります     が
それが 曲がっているかどうかは
“ 常行 ”  から いずこかへ 出向かなければ 見所を得ません

親鸞は 常行堂 を 出でて 道を見出しました

> 自己をわするるというふは、万法に証せらるるなり。        (第一義諦)
> …
> 悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。       (ブッダの完成)

自己 ・  陀己(現成公案)  に  (  「 平等 」  という  )完成 が あります

ブッダ は 一人に起きますが
一人に ブッダ は 起きてはいません

> こういう道筋を考えています。

「 人は 考える 葦 である 」  とは パスカル の 人格を借りて
訳者の 生を語ったモノに過ぎません

「 ヒト ハ カンガエル   アシ  デアル 」  と 音  を 聞きます

悪しきこと でしょうか ?

「 無明 」 と 諭されることが 言葉に起きるから
あなたは 「 言葉は虚仮である 」 と 思いを 虚仮に馳せます 、、、、

その思いは 言葉にあれば 虚仮ですか ?


[11184] Re:[11183]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/12/09(Sun) 07:43   [返信]
> >
> > > 見える  ということが 見えてくる 、、、、
> > > この “ 三重構造 ” に  目を  凝らす
>
> > これが “迷い” なんじゃないでしょうか。
>
> ここは 言葉で “虚仮” の上です
> “ 二重構造 ” で 再考慮

> に  目を  凝らす

「凝らす」というのが、“迷い”っぽい
自分でも、しょっちゅうやっているから分かります。

ただ、わかるときは、「目を凝らしたこと」はないなと思います。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり


> 自分は 我であるから
> 我の 一義で 言葉を使う 、、、、
> ( 既に 我がない と 言葉の上  では  読んで 覚えている 、、、、  一義 )
>
> 義 という 言葉を 一義で知るとき 一義で顕わされていないと知る
>
> 一義に読むと すり抜ける 、、、、
>
> > どちらかといえば、わたしも指にこだわる方ですが。
> > 指先が、月の方を向いているのかどうかだけは気をつけます。
>
> 無限 ・ 永遠 を 扱う時には
> 出発点 を おかない ( 執着点 が おっかない )

最初からは 無限 はない。有限を通って 無限が出てくる。

我と 指と 月が 一直線につながるとき 修行の道が開けてくる (世俗諦)

自己をわするるというふは、万法に証せらるるなり。        (第一義諦)

悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。       (ブッダの完成)


こういう道筋を考えています。

[11183] Re:[11182]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/12/08(Sat) 07:39   [返信]
>
> > 見える  ということが 見えてくる 、、、、
> > この “ 三重構造 ” に  目を  凝らす

> これが “迷い” なんじゃないでしょうか。

“ 学会・問答 ”  なら  「 御正解 」  の声が上がるでしょう
ここは 言葉で “虚仮” の上です
“ 二重構造 ” で 再考慮

>   なんじゃない でしょうか。

と 、 迷う 、、、、 ( 迷っていると見るから 確かめる )

> 三重構造が、無限ループになっていきそうですが、そうではないのかな

言葉を 虚仮 の 世界で 扱うと “ 無限ループ ”          
                      “  = 恒常  ”  が出現します  

花が 花である 時  華 を見る
(  ハナハナナンカイ  ソウカイ  フカイ  )

こういう 記述をすると 不快 に 読む人もいる 、、、、
「 ないでしょうか 」   って  聞かれて
そうかい ?  深い 読み   だと 応える

言葉を 多義に 捉え得ると 捉えることが出来ないところを 捉えている 、、、、

自分は 我であるから
我の 一義で 言葉を使う 、、、、
( 既に 我がない と 言葉の上  では  読んで 覚えている 、、、、  一義 )

義 という 言葉を 一義で知るとき 一義で顕わされていないと知る

一義に読むと すり抜ける 、、、、

> どちらかといえば、わたしも指にこだわる方ですが。
> 指先が、月の方を向いているのかどうかだけは気をつけます。

無限 ・ 永遠 を 扱う時には
出発点 を おかない ( 執着点 が おっかない )

指の先が 出発点( あるいは 指さしめる我が 出発点 )
月が 我の シュウチャク

“ 指し示すところが 指し示されるところ ”  と いうことが  量子論の 出発点
( 出発点を持つから 量子力学は 人生に於いて 躓く 、、、、 )

> 今、道元を読んでます。

さきに  わたしは 「 虚空蔵求聞持法 」 を 修した と 伝えています

先人 には 何度も修している人もいます
 「 虚空蔵求聞持法 」  を  迷誤すると 何度修しても 難度 は 増すばかり 、、、、

バッカリ の 悟りと  同じ仕組みです 、、、、
ゴーディカ の 自殺( ニルヴァーナ ) は そこに起きる 、、、、

上下左右 に 悟りを探し求める 、、、、
中心に 悟りがあると  自我を求める 、、、、

     悪魔は “常” に   求めること  を  求める  、、、、


このように 悟りを示しても
わたしが 悟りを 得ているわけではない 、、、、

( 得ていようと  分からない 、、、、  )


> >  > この “ 三重構造 ” に  目を  凝らす

只管  打坐 する時
凝らす 目 の “ 前 ” に  “ 壁 ” が 立ちます

「   面壁 九年 」  とは
  その壁  に  面する( 前に 只管=クネン 坐る )  という意味です

半眼 に於いて 壁がそびえる 、、、、

壁に 面して 坐る人に 出会うことは 難しい 、、、、

(  出会っていようと 壁がある 、、、、  )


[11182] Re:[11181]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/12/08(Sat) 05:27   [返信]

> “ 見えた ”  と  “ 思う心 ”  を 見ることが適う時
>
> 見える  ということが 見えてくる 、、、、
>
>
> この “ 三重構造 ” に  目を  凝らす

これが “迷い” なんじゃないでしょうか。
三重構造が、無限ループになっていきそうですが、そうではないのかな。


無分別智とか、求めていくのも、指から月に飛躍するためかも。

どちらかといえば、わたしも指にこだわる方ですが。
指先が、月の方を向いているのかどうかだけは気をつけます。


今、道元を読んでます。

[11181]  あたま 隠して しり 隠さず     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/12/03(Mon) 08:46   [返信]
隠れた頭は見えない
出ている尻は 見えてしまう

**********

尻に隠されているところが
頭が隠す ところで   知り=知っている こと  で 
( 隠そうと意図して ) 隠されている    こと  です


尻は見えますが 尻で隠されているところは 見えない
見た尻を 指摘しても 尻を知るだけで
頭の中は 隠されている

おなじように
頭 や 顔 を ( 隠す覆い を 外して ) 見ようと
隠された 薫習 は “すぐには” 見えない

よく目をこらすと、 表情や 思考の揺れが  見えてくる 、、、、


“ 見えた ”  と  “ 思う心 ”  を 見ることが適う時

見える  ということが 見えてくる 、、、、


この “ 三重構造 ” に  目を  凝らす


[11180] Re:[11177] 我執や妄執 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/11/27(Tue) 08:03   [返信]

私は 諸橋 轍次 ・ 加藤 常賢 ・ 藤堂 明保  の 殆どの著作を読んでいます
それらの 図書 も 手元にあります
手元にあるから 用(要)がある時 用意 されています

大修館 諸橋大漢和 は いまでも 引くことがあります

詳細に 理解しての上での 藤堂明保の “功績” を 認めるのです
彼の 学問に対する 出発点を まず認め( それに続くサンカーラ を 認め )ています
(  所詮 サンカーラ ですか ?   管理人エム 様  )

何故 学問 は あるのか ? ( 人は何の為に生きるのか ? )

そこには (何の為という) 意味 が あります
( 意味は 言葉になり ことばは  虚仮 ですか ?   管理人エム 様  )
>       >  言語を通すということは、虚仮に決まっているのだし、
>       >  書いてあることを「仮」として受け入れるなら、それは何も問題が無いからです。    

初転法輪は 言葉にあります が
その言葉は  「 行 」       でもあります
    が、   真理( タタター )  です

( あなたが 虚仮 と するのは あなたの 「行・サンスカーラ」 です )

>  書いてあること  ・・・・・・・・・・・・・・・・ 消えるのだから。
法 は 消えますか ?


自らの 欲望と  すべての   有情の
 ( 自らによる 理解である ) 欲望とが
合一するところに 目的があります

その目的を 違えていないと 読み取ったから 藤堂明保 を 読み続けるのです

元があって そこから続くことを テキテキ と 受け継ぐ

学問とは そこに起きることです


[11179] Re:[11177] 我執や妄執 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/11/27(Tue) 07:35   [返信]

> それは単語家族の原義で、「執」の字義と漢語話者や日本人の意味するところへの影響としては遠いですね。

遠い 近い は  「 縁起 」  です
そこに  「 縁起 」  が 起きるには
  なぜ起きるかという 起きる 「 縁起 」 があります

遠いとする  あなたの理解に  「 縁起 」  が 起きているのです
翻って
「 仏法非遥 心中即近 」 という時の “近” には  「 縁起 」 は起きていませんが
その理を 理解しなければ  “エン” が 起きています

( この エン という 音 にも 縁 が あります
   中心から 離れたところを  “端” ・ “縁” と言います )   遠いかな ?

> 漢語話者も日本人も、
> >かたくつかんで離さない。こだわる。意地を張る。とらわれる。とる。
>  の意味でこの字を使用しているでしょう。誰も「重ね合わす」と思っていないはずです。

自分自身を 釈迦牟尼と 重ねる意図 は ありませんが
釈迦牟尼の 成道“後” に 共に修行をしていた 五人にあった時
会うまでは彼らは 真理を 解してはいなかった

たった一人であろうと 正しいことは 正しい
いくら大勢が これが正しいと言おうと それで 正しさは 決まらない
( タダシ 正しさを 多数に因って 決めるのであれば 話は別です )

しかも 出典があるからには たった一人ではないことは分かるはずです
東大に行ってごらんなさい
藤堂明保の 教え子たちは 正しく 漢字を知ろうと 日夜 精進しています
その一つの 果が 「 漢字源 」 でもあります
>  誰も「重ね合わす」と思っていないはず
なのに、あなたは 誰に 応えているのですか ?
( これは 言葉尻を捉えているのではありません
  受け渡す人があり、受け継ぐことがあって 受け継ぐ一人がいるという意味です )

あなたが引いた 論拠は あなたが欲して 引いていると知ってください
わたしは シュウ の 音から  “ も ”  論じています
あなたは 大修館書店 を
自らの正しさの根拠 に  “執る”  だけ です


このように 重ね合わせていくことを “ 執 ” と 執ります


[11178] Re:[11176] 我執や妄執 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/11/27(Tue) 04:23   [返信]
> そんなむずかしい話ではないんですよ。釈尊が説かれた四聖諦の集聖諦に従って述べただけです。

仏教漢語が並ぶだけで自分の言葉のない投稿への返信は、
なかなかドゥッカです。
わたしには利益がないようなのでここまでで。
どうもありがとうございました。

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