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Re:[10415]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/09/23(Sat) 07:19 No.10417

>
> わたしに 必要が起きたので
>
> ( 必要があれば 削除した書き込みを 再度 UPします )
>

いやぁ、よかった。読んでいませんでした。
てっきり、再度アップされていると思って、何も言いませんでしたが、違うのだったのですね。

> > いや、その解釈の一つが通れば、そこで「 理 」が通ると判断します。
>
> 一つの理に  一つの解釈が起きる
> その解釈は どの解釈であろうと  必ず 通っています
> ( 無理にでも 通らせて、 解釈を成り立たせる )
>
> ( 無理 を指摘しても 無理を通すモノには 正理 が 無理 となります )
>
> この事は 正理 にも 同じ仕組みで 当てはまります
> (  無理を取る者が 正理 を指摘して 無理としても 正理を通すモノには その無理 が 正理 となります )
>
> > > 解釈の中で、そのうち一つも通らなければ、それは解釈が通らないということです。
>
> すべての道は 繋がっているから どの解釈でも 正道につながるが
> 局面を 取り上げて 云々するとき  転ずることなく 立ち止まる
>
> 金剛経で 点( 転 ・ 局面の一点 )心 を 説くのに  皆は 食うことに囚われる
> ( そこを穿る注釈には 自他を置く時 まだ他には見当たらない )
>
> > > 青目の注釈で気になるのは、そこなのです。
>
> 青目の注釈の 漢訳 を 部分的にしか読んでいませんが、
> わたしの気には 障らない
>
> 理 は 解釈を許容しません
> 理とは 常に “正”理 であり
> 生きている “生” であろうと  解釈の“局”面では 止まらざるを得ません
> ( 止まっているから 「転」 が あり  転がある限り  局→止 は あります )
> ( 局 は 曲がりくねって 細かく入り組んだ“ところ” を 指しますが 指すときそこは固定化される )
> 止まっているモノは 動かすと 止まっているモノ(解釈)  ではなくなる
>
> > > この解説で、誰か、納得できるのだろうか
>
> 少なくとも、 解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、青目 は 納得している
> 他の誰かが 納得しないかどうかは
> 青目の解釈を 成立させる 妨げとはならないから  そういう解釈が 蒼目に成立している
>
> それが 間違っている という  契機を  あなたに与える 、、、、、

ふうん、そうか。。そうなのか。
>  解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、

「無し」としなければ、微妙に絡みますね。蔓草が木にまとわりつくような感じです。

>
> >> “ 可能性 は(が) ある ”  という意味は  そうではない という意味が 支配している中の  許認可事項です
>
> > そうではない という意味は、ここにはありません。
> > 確かめられないので、「 可能性がある 」というのです。他にも、まだ、あるのかもしれないし、よくわからないからです。
>
> 自ら 確かめたことを “正” とします
> ( 確かめるまでもないことと  当然 “正” である    とすることは   あなたにもある )
>
> 確かめられないことは 信用できないことです
> ただし  「信」 が 起きていれば  ( その 「信」 を )確かめることが  「神を裁くこと」 に なります
> (  ナザレのイエスの言う 「神」 は 阿弥陀 です が 伝統的解釈では 全知全能の “存在” を いう  )
> 「 信 」  とは 「真」 そのモノであり  「仏陀」 とも呼びます
>
> > > 信を置いて それを使えば 事足ります
>
> > それを言ったら、おしまいだと思います。
>
> 信 が あるところは  返照  が 成り立つところ
> 金剛 があるところで  経 を 聞くところ
>
> お仕舞いがあれば 開かれて ほどかれていく理が 点(転)じている
>
> 止めると 解釈が起きている
>
> > 信じてない人が、対象になっています。
>
> わたしが 対象です
> あなた という   “あなた”個人 = わたしと呼ぶ∃ が 対象です
>
> 他の誰かを 仮定しても あなたの問題ではなく  わたしの問題とすることは出来がたい
> ( わたしが  “ 《他に》成り立たないこと ” について 問題化するとき 問題はそこ “ ” に起きる )
>
>
> 前後していて (あなたが) 脈絡を失う恐れを感じるけれど
> 何故 このように前後させるかが  語順(の問題)につながる
>

匂いで感じる今日この頃。

「間違っている」「正しい」ということを、ここまで考えているわけではありません。

匂いで感じる、というのは、そのあたりのことで、間違っているという匂いがしてくるか、正しいという匂いがしてくるか、その辺を嗅ぎまわっているようだ、と自分のことを理解しました。

さんきゅっ!

Re:[10415]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:おちゃらけ 投稿日:2017/09/23(Sat) 02:42 No.10416

なるほど、「転」の字はすでに出ていたんですね

量子論つながりリンク
今日「東大が量子コンピューターの基本原理の開発に成功」ってニュースをやってました
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170922/k10011152541000.html

0と1が同時に重なっている量子ビット
欲界のイチかバチ

なぜだか最後まで残る足場「慢(ナーマなマーナなマーヤ)」につながっちゃいました
我見がみえないからといって我がないってわけじゃないように(下分)、直に触(障)ってないからといってないってわけじゃない上二界(色と無色)のびみょーすぎる我(上分)

アドヴァイタ系(非二)の話を聞いているとどーにもモノ足りないのはここらへんです

  10406 ・ 10407削除分   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 16:07 No.10415


わたしに 必要が起きたので

( 必要があれば 削除した書き込みを 再度 UPします )


******** 



[10407] ここら辺りがわかると 仏法が 泳いでいる  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/14(Thu) 12:11 [返信]

通常は 校正するとき 下記のことを見出し
それを加入するべく 文章を練り直しています

( 加入注意点 )


変換 ミスから  自らのミスを見る機縁をいただく 、、、、


> 信 が あるところは  返照  が 成り立つところ

ここは 「 偏照金剛 」 です

ただし “照”らす は 照らし出される “返” を 縁起とします

どちらが どちらを 照らしているかは 縁起にあります
照らしだされるモノが変わるとき 照らすモノも変化している
( そういうことを 量子論 は 明かそうとしています )


> 金剛 があるところで  経 を 聞くところ

壊れないモノはない という “流転” が 壊れようがないけれど
解釈は 金剛を 成り立たせる

川岸が流転せず 船が 流転していようと 見る立場は 固定化されている


________________________________________
[10406] Re:[10405] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/14(Thu) 11:52 [返信]

> > >   
> >    



> いや、その解釈の一つが通れば、そこで「 理 」が通ると判断します。

一つの理に  一つの解釈が起きる
その解釈は どの解釈であろうと  必ず 通っています
( 無理にでも 通らせて、 解釈を成り立たせる )

( 無理 を指摘しても 無理を通すモノには 正理 が 無理 となります )

この事は 正理 にも 同じ仕組みで 当てはまります
(  無理を取る者が 正理 を指摘して 無理としても 正理を通すモノには その無理 が 正理 となります )

> > 解釈の中で、そのうち一つも通らなければ、それは解釈が通らないということです。

すべての道は 繋がっているから どの解釈でも 正道につながるが
局面を 取り上げて 云々するとき  転ずることなく 立ち止まる

金剛経で 点( 転 ・ 局面の一点 )心 を 説くのに  皆は 食うことに囚われる
( そこを穿る注釈には 自他を置く時 まだ他には見当たらない )

> > 青目の注釈で気になるのは、そこなのです。

青目の注釈の 漢訳 を 部分的にしか読んでいませんが、
わたしの気には 障らない

理 は 解釈を許容しません
理とは 常に “正”理 であり
生きている “生” であろうと  解釈の“局”面では 止まらざるを得ません
( 止まっているから 「転」 が あり  転がある限り  局→止 は あります )
( 局 は 曲がりくねって 細かく入り組んだ“ところ” を 指しますが 指すときそこは固定化される )
止まっているモノは 動かすと 止まっているモノ(解釈)  ではなくなる

> > この解説で、誰か、納得できるのだろうか

少なくとも、 解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、青目 は 納得している
他の誰かが 納得しないかどうかは
青目の解釈を 成立させる 妨げとはならないから  そういう解釈が 蒼目に成立している

それが 間違っている という  契機を  あなたに与える 、、、、、

>> “ 可能性 は(が) ある ”  という意味は  そうではない という意味が 支配している中の  許認可事項です

> そうではない という意味は、ここにはありません。
> 確かめられないので、「 可能性がある 」というのです。他にも、まだ、あるのかもしれないし、よくわからないからです。

自ら 確かめたことを “正” とします
( 確かめるまでもないことと  当然 “正” である    とすることは   あなたにもある )

確かめられないことは 信用できないことです
ただし  「信」 が 起きていれば  ( その 「信」 を )確かめることが  「神を裁くこと」 に なります
(  ナザレのイエスの言う 「神」 は 阿弥陀 です が 伝統的解釈では 全知全能の “存在” を いう  )
「 信 」  とは 「真」 そのモノであり  「仏陀」 とも呼びます

> > 信を置いて それを使えば 事足ります

> それを言ったら、おしまいだと思います。

信 が あるところは  返照  が 成り立つところ
金剛 があるところで  経 を 聞くところ

お仕舞いがあれば 開かれて ほどかれていく理が 点(転)じている

止めると 解釈が起きている

> 信じてない人が、対象になっています。

わたしが 対象です
あなた という   “あなた”個人 = わたしと呼ぶ∃ が 対象です

他の誰かを 仮定しても あなたの問題ではなく  わたしの問題とすることは出来がたい
( わたしが  “ 《他に》成り立たないこと ” について 問題化するとき 問題はそこ “ ” に起きる )


前後していて (あなたが) 脈絡を失う恐れを感じるけれど
何故 このように前後させるかが  語順(の問題)につながる


> 『大智度論』だと、あまり悩んでいる様子はうかがえないですが、『十二門論』と『中論』には、なんとなく ためらい を読んでしまいます。

論じ方の違いが あるからですが
論じることの  “為” は 変わらない

自らという 個が 他によって 支えられているからこそ
自らが 「縁起」 を 実践することになります

他の為と 限る “行い” ではなく ( もしそうであれば 無明に起きる行です )

限りない 「 空 」 に 溶け込む 行いです

  般若 心境  上の空    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 16:02 No.10414


さきに 般若心経についての 言及を成しましたが
少しだけ( サワリ ダケ ) オヒロメ しておきます

鳩摩羅什の翻訳になる 般若波羅蜜多心経  は 正確なものは残ってはいません

玄奘の訳とされるモノは 「雁塔聖教序」 として 慈恩寺大雁塔 に 褚遂良の書で 残っている

玄ム が 将来した 訳経 は それに準じている

玄ムの時代 天皇は 聖武 であり  聖武 は 天智の血統的権威 を 用いた
( 保立道久 「歴史学を見つめなおす」23p )

いわずもがな 玄ムは 阿刀氏であり、空海は同族でもあり
東大寺、その隣の 渡来系藤原氏の 氏寺 興福寺 に 両者は深く関連している
( 近年 興福寺南円堂の文が 空海筆と断定されている )

空海の時の 桓武は 百済系です ( 高野新笠 ) 

桓武の次男の嵯峨(賀美能親王)の乳母は大秦公忌寸浜刀自で賀美能宿祢です
続く親王の 淳和(大友皇子と同族の乳母) は 王位継承の正当 を 桓武より保障されていました

空海の 留学費用の出自は 百済系からです

空海は 当然のごとく 隅寺心経 を 用います
( 空海が 用いるからには サンスクリットの裏付けを見逃してはいない )

「 一切 」 が あろうと 、  あるから には 空海が必要とする 意味がある

あなたが 否定するなら  空海(!)を 論破しなさい
(  「 弘法には 筆の誤りがない 」  )

間違ったものは 広がらない ( 広がるとは どういう展開を言うか あなたが自説を広げる )


以上  障り  です

Re:[10412] おちゃらけ様へ    投稿者:おちゃらけ 投稿日:2017/09/22(Fri) 15:40 No.10413

> 削除 分  は 読みましたか ?

ココにないのは読めませ〜ん


> 読んでいなかったり
> よく記憶に残っていなければ

すんませ〜ん どんな内容だったかさっぱり覚えていませ〜ん


> 再度アップ します ( したいのです )

「したい」が「したい」にリンクする限りにおいてプリーズ


> 記録してあれば 
> べつの 要請がない限り このままにしておきます

「べつ」の話なら「 言いたくないこと は 異常 」なんでそ?

おちゃらけ様へ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 15:18 No.10412

削除 分  は 読みましたか ?

読んでいなかったり
よく記憶に残っていなければ
再度アップ します ( したいのです )

記録してあれば 
べつの 要請がない限り このままにしておきます

Re:[10409] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 15:08 No.10411


> >  あなた  と わたし が  二つのこと として あるとするとき
>  ここがそもそもわかりません。
>     二つのこととして、あると、春間さまは思いますか?

あるとするとき ということは
ないことを あるとするならば  という意味です

「 自他不二 」 は  
仏教を 認識に置くときには 最初におかなければならない事柄です
仏教を 行いに置くときには      どこにあろうと  何ら問題にはなりません
      いつかは 涅槃にあると知る 、、、、

ま 穿てば 「不二」  とは 二つの事でもなく 一つの事でもありませんが 、、、、、
( 自他 が ないから 不二 も ない )

自他が 二つのこととして 春間と 管理人エム 様 とに 分けられるなら 、、、、

> >   あなたに   ズレがあるかどうかは あなたの決定事項で
> >   わたしが  関与することはできない     事柄です
> わたしは、春間さまの考えがわからないので、決定できません。

決定できない  ということは 少なくとも ズレがあるとは 決定しないことです
ズレがないと 決定しても  
ズレがあるという 意見に対しては 関与していません(決定していません)

あたかも 判断しない(決定しない・できない)と言いながら 足でけりつけるがごとくです 、、、、

(あなたが すでに)決定していることを見ないだけです 、、、、
( ソウデハナイ ということが 最初に 決定されて そうかもしれない  ということを  決定しない )

> わたしは、青目の解釈を、はっきり言えば、まるきり疑いの眼で見ています。
> 龍樹をちゃんとつかんでいるのかどうか、すごく疑っています。

わたしは 青目の解釈を 解釈してはいません
青目 が どうあろうと  わたしの 受けることに 何ら変わりはないからです

> 鳩摩羅什はどうだったのか?
> 彼についてはよくわかりません。
> でも、かれは、最終的には仏教の生き方をとらず、仏法から離れていった人だという感触が強いのです。仏法について十分得ていたのだけれど、かれは、自分の生き方として、それを受け入れなかったのかな、とも思ったりします。

思ったりもする  その  該当局面においては
よくわかって 理解していることになります

> 春間さまも、そう見えますか?
> そうではありませんか?

わたしが どう思う か よりも
鳩摩羅什が (どう) 仏教(あなたの受ける真理)において(いかなる)働きを成しているかを 
    みれば
見たとおりに  鳩摩羅什は (自らを置いて、置く自らの)生きざまを 選んで(受け入れて)います

働き  ではなく  働かせよう   です

あなたの読み方が 正しければ  あなたは 仏陀です
( 正しいかどうかを判断していない  という  判断 にあるときでも  判断は為されていることを見逃してはいけません )

判断が起きれば 仏陀が起きる  (ブッダは その判断に対する判断 を 取り上げない )
( 判断しない → あなたは  判断=決定 できない という言葉で それをあらわす )

> ズレてますか、ズレてませんか、そういう問題として、わたしはお聞きしています。

そういう 聞き方をされるとき
 答は  誘導どおりではないと 破たんするような構造 の 聞き方です

わたしは  あなたが わたしの問題提起に対して
ずれて 答を成していると  断言しているのです
その断言を 症(証)例をもって 対比していますが
あなたは 対比を 進める(深く穿つ)気が起きない 、、、、、

> 春間さまに、ズレているように見えるなら、ズレているのかもしれませんが。

ずれてはいません   で   終わっています
( 「ズレているのかもしれませんが。」  の 後に わたしには ずれていません  が 読める )

ずれているように見えるなら  ずれている
何故 そう見えないのに  見えるかを  拒否すると  前出の 「 しれません 」  が つき 補足で 「が」 が つき  補強して次に備える )


あなたにおいては  実際は  ズレがあるかどうかは 認識表現上の 問題です
わたしの問題は
認識を起こす構造の問題です

人が平等なのは  人を  成す   構造   が  「平等」 だからです

為して(どうして)  ナス  を     取り上げるか 、、、、

> まあ、そういう風にいうなら、そうですよね。

こういう風 に 言うなら 
こういう風 で  終わらざるをえない答えようです



「 風が吹いて 風鈴が鳴る のではなく  心が動いて 風鈴が 鳴く 」     無門関 二九則


Re:[10408] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:おちゃらけ 投稿日:2017/09/22(Fri) 14:27 No.10410

> 平行線は 理論上の平面では  交わりを持ちません

ココで使えるのが転
縁起の順、逆、順逆の三転が中道や空と同じ由縁、同じ使い途

回転軌道(輪廻)を利用したスィングバイみたいな
主体が変わるんじゃなくって、軌道が変わる
目的(向かう方向)が見えると「いまさら変わらない私」の回転軌道から離れる機縁がココに生じる

「この場合」、聞く耳が生じたっていうより(法を見る)眼が生じたっていう「典型」(定型句)で形容されるみたいです

Re:[10408] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/09/22(Fri) 13:51 No.10409

>
> > どう ずれているかを  関連付けられますか ?
>
> あなた  と わたし が  二つのこと として あるとするとき

ここがそもそもわかりません。

二つのこととして、あると、春間さまは思いますか?

「関連づけられますか ?」
と、なぜ、わたしに聞くのでしょうか。

わたしは、青目の解釈を、はっきり言えば、まるきり疑いの眼で見ています。
龍樹をちゃんとつかんでいるのかどうか、すごく疑っています。

鳩摩羅什はどうだったのか?

彼についてはよくわかりません。
でも、かれは、最終的には仏教の生き方をとらず、仏法から離れていった人だという感触が強いのです。仏法について十分得ていたのだけれど、かれは、自分の生き方として、それを受け入れなかったのかな、とも思ったりします。

春間さまも、そう見えますか?
そうではありませんか?

ズレてますか、ズレてませんか、そういう問題として、わたしはお聞きしています。

> あなたに   ズレがあるかどうかは あなたの決定事項で
>   わたしが  関与することはできない     事柄です

わたしは、春間さまの考えがわからないので、決定できません。

ズレは、私自身の問題で、まったく春間さまとは関係ないなら、
ズレてる人は、ズレがあることに気づかないからズレているのだと思います。

春間さまに、ズレているように見えるなら、ズレているのかもしれませんが。

> あなたに ズレがなく わたしに も ズレがないとき
> ( そういうことは あなたには認められないこと となりますが 、、、、)
> わたしと あなたに  並行 が起き
> 平行線は 理論上の平面では  交わりを持ちません

まあ、そういう風にいうなら、そうですよね。

Re:[10407] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/21(Thu) 16:39 No.10408


> どう ずれているかを  関連付けられますか ?

あなた  と わたし が  二つのこと として あるとするとき

あなたには ズレ がなければ 関連付けは することができません
わたしに ズレ があるときにも あなたにないことに 関連付けられません

あなたに ズレがなく わたしに も ズレがないとき
( そういうことは あなたには認められないこと となりますが 、、、、)
わたしと あなたに  並行 が起き
平行線は 理論上の平面では  交わりを持ちません

( 世間においては 並行が成り立つが 出世間では 道は一つです )
( 出世間 の 事項について 世間で 論ずる  その愚かさ 、、、、 )

あなたに   ズレがあるかどうかは あなたの決定事項で
  わたしが  関与することはできない     事柄です

> ( 必要があれば 削除した書き込みを 再度 UPします ) 

必要を認められてはいないから
不必要な書き込みとなります

必要性( の決定権 )が あなたにあるから  あなたは 答える意味を見出さない 

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