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 前後左右 は  中心にある  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/14(Mon) 08:34 No.9957


90度     回転すると  横の”モノ” が 縦になる
180度    回転すると
他人の 事 は 自分事となる
そういう事 が 自分の 事 です

> ********

> 時々、春間さまは戯れに言葉を交わしているんじゃないかなという気もするんですが

そう思う時には 戯れがある
ないと言っても、あると思うことを妨げることはできない
戯れとする その(自らの)心を覗く気はありますか ?

> 龍樹が『十住毘婆沙論』で二乗の道に堕ちるのは「菩薩の死」だと述べているからです

そう読むのは あなたの解釈です
菩薩に死があるかどうか 、、、、
翻って 生きている とは どういうこととしていますか ?

> 悟った人は、自分が悟っていると知っているとも言われています。

それはどうでもよいことです
あなたが知るかどうかです
何(悟り)を知るか で 知ること(悟りの有無)は 決まる

あなたの実証がないことを
あなたは根拠にしても問題ありませんか ?

ブッダ が 何を言っているか(説く内容) を知るのが ブッダです
それを 悟り を 知ると言います

言葉を知っても 中身には届かない
洋服はきれいでも 心は きれいではない

そういうことは 
“きれい”  ということ を 起こすときには 必ず起きています

自分を見つめているつもりの時は
つもりがある

ちゃんと見ることを 「 正見 」 という

ちゃんと見れていないことを ちゃんと見ている と 顛倒する
( 自分には出来ていない  と  臆面もなくいえること  それが顛倒にある )

出来ているかどうかを 「 正見 」 できていますか ?

そういう思い上がりが 上下の 根拠です

Re:[9954] 縁起と空と大乗(続き)[9951]の続き 投稿者:pocket 投稿日:2016/11/13(Sun) 16:36 No.9956

PLさま、横からずいっと失礼します
エム先生、


> 縁起しているとも言えない世界を、その時その時「あるがまま」にとらえているわけです。諸法実相ともいわれるところです。

これは不生不滅の説明ですか?
『ブッダと龍樹の論理学』を思い出しました

Re:[9940] 縁起と空と大乗(続き)[9951]の続き 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/13(Sun) 10:46 No.9954

PLさま さらに、続きを書きますね。

前の書き込みで、誤字や表現など管理者用のところから訂正しました。考える方に頭が向かうと誤字が増えちゃうなあ。変換ミスが起きても気が付きにくいです。


> > > 偏見をもって尋ねるならば、言語や思惟の領域で不生不滅ということを知って、生・滅の現象世界をよりよく生きることなんてできるのでしょうか。もっといえば、机上の空論世界で、頭だけで不生不滅だと知ったところで、生・滅の現象世界で溺れてしまわないだろうか、ということです。言語や思惟の領域と聞くと、実体験を離れた世界のことを指しているように感じられます。
> >
> > 思惟や言語の世界も、現象として見るならば、縁起します。
>
> そうですよね。ほんとに、おっしゃるとおりと思います。「思惟や言語の世界を、現象として見る」というのは、つまり、形而下だけで考えるために、必要なことですよね。神も数学も真理も、諸行(無常)の世界に落とし込んで考えるところに、仏教の特徴があるのだと思っていたので。

そうそう。

上にある引用文はやりとりになっていますが、どっちが自分で、どっちがPLさまかわからない(笑)。

> > 机上の空論になるときは、思惟の世界の中で縁起していくものにとらわれて、それに振り回されて語るからです。思惟の世界では、不生不滅だとほんとうに!知れば、考えに流されていくことはないと思います。
> >
> > あるがままに見て語る、ということができるのではないでしょうか。それが、また、空ということだと思います。
> > 思惟の世界と聞いて、実体験を離れて語ると思ってはならないと思います。そこは、「空と観る」というように「観る」といわれているからです。
> > 「空観」というのは、実体験の世界でもありますね。
> > 実体験を離れた空論世界で語ることになるのは、思惟の世界の中で縁起してしまうからではないでしょうか。だから、思惟の空回りのようになって、妄想がふくらんでしまうのだと思います。
>
> いや〜、おもしろいですね〜。ワクワクしますね。
>
> まず、思惟の世界の中で縁起してしまわないことなんて、できるのでしょうか。思惟の世界で縁起しないのでしたら、それって、法の実有へ、観念実在論へ、消えないことばへいってしまわないのですか?現象を離れたところでことばだけが浮いてしまいませんか?

縁起してしまいますよね、ふつうには。そこで出てくる秘策が、中道だと思います。
思考がぐるぐる堂々巡りをしてしまうのも、縁起といえば縁起です。あれやこれやで悩んで決まらず、選択肢を上をゆれ動くのです。

その苦しみを逃れるために、中道という道があります。「生ずるもの」を考えすぎると、「生ずるものは、生じているとは限らない、すぐ滅するではないか、すなわち、生じていないのではないか」
と、縁起していくこともできます。

また、理を用いて、ことばで「生ずるもの」と言ったからといって、現実にものが生じているわけではないから、「生ずるものは生じてない」と考えることもできます。

また、「生ずるもの」というのは、滅しているとは言えない、と思って、「生ずるもの」から「滅してない(不滅)」を読み取る人もいます。

いずれにせよ、「生ずる」「滅する」にさんざん悩んだなら、「生じない」「滅しない」に思考が至ります。去る者は去らず、去ったものは去らない、などなどの表現が生まれます。
>
> 先生のお話をたくさん聞いて、まさか今更、こんなことを聞くのもなんですが、思惟の世界、というのは、仏法の中で、はたして本当に位置づけられるのですか?という風に聞いてもいいかもしれません。たとえば、「PならばQ」形式の、了因の考え方も、思惟の世界での論理として位置づけられますが、しかし、実際にこの論理を使って考えるとなると、現象的に、順番をもって!思考は進んでいきますよね。

そうです。果たして、ほんとうに位置づけられているのでしょうか。これは、PLさまに問題として出しておいてもよいかとも思います。このあたりになりますと、もう自由自在に考えて、PLさまなりに答えを導けるのではないかと思います。道は一つではないので、さまざまな方向からせめていけると思います。

了因の構造は、縁起のあり方のヴァリエーションで、「現象的に順番がある」と説くところを基礎に生まれてもきます。その了因のやり方を実践するときは、また、現象的に進むのです。ここに、思惟の世界と現象の世界を分けるのも、一つの設定(仮設)であることがわかるかと思います。しかし、分けないと、わかりません。理解するためには、分析は必要ですから。そこをどう考えるのか、どう考えたら、自分にとってわかりやすいか、ということですよね。それで選べると思います。

>
> いろいろ考えると、「空と”観る”」が、PLにとってはキーワードになりそうですか?しかし、「観る」と聞くと、それは現象的なことがイメージされ、現象的なことについては、「無常」が連想されるんですよね。。。こういうわけで、「空と観る」ということばについては、先生から何度かお話されても、逃げてました。

いいですね。現象的に「無常」が出てくると、どうなりますか。「無常」を「観る」ことになりますよね。そして、「無常」を観るとき、そこに見えているものはなんでしょう?そう言われても、ことばで言えるようなものではない気がするでしょう。それが、「ありのまま」ということになりませんか。

PLさまが、「ありのまま」を観ているのだと納得するなら、その時、心(思惟の世界)はどうなっていますか?
あら、からっぽですね。思惟の世界に残っていたことばを思い出します。たとえば、「無常」ってことばが、頭の隅に残っていたら、そのことばを取りあげてみます。
「無常」ってなんだろう、って思っても、何も出てきません。ことばとしては「空」なのです。
PLさま的には、瞬間の「あるがまま」をとらえているだけ、とも言えます。
もはや、他によることもない、縁起しているとも言えない世界を、その時その時「あるがまま」にとらえているわけです。諸法実相ともいわれるところです。

現象的には無常を観るなら、あるがままを通して、ことばとしては空を観る、というようにも説明することができるかもしれません。過ぎていく世界を見つめるならば、ことばにはならない、ことばの世界は空転します。

>
> あるいは、「あるがままに見て語る」とは、なんなのだろうって、もう1回考えた方がいいですか。まあ、そうですね、あるがままに見て語るなら、それは「法」って言っていいですよね。それだけでいえば、観念実在論にいくことなく、ことばを使うことはできる気もします。また、そのように使われたことばを、空であるというのも頷けます。しかし、「ことばの世界を考えましょう!それは、不生不滅ですよ!」、といってしまうと、有にいかない方法が、机上の空論に行かない方法がわかりません。

実践の道が欠けているからでしょうか。
「自己」ということが大事なのは、自分の中で確かめるということをしなければならないからです。

実際、不生不滅に至る説明は、さまざまにあります。その人の実践によって、決まってくるところだからです。

『中論』を書いた人が、『大智度論』や『十住毘婆沙論』も書いただろうと思うのは、この説明が同じパターンだからというのもあります。まあ、何とも言えないかもしれませんが。
このあたり、もうちょっと検討がいるかな。龍樹について考えるとき、似たようなことが出てくると、逆に不安になったりもしますね。

> こちらも、遅くなりましてすみません。もう10日も経ってる…(-_-)

あら、いいえ、こちらも、けっこう時間がかかっています。
週の前半は講義で忙しく、後半は介護で奮闘中です。上腕が、痛いっす。

筋トレした方がいいかな。。ひとりごとです。

Re:[9950] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/13(Sun) 09:16 No.9953

pocketさま おはようございます。

> (あっちこっちに色々書き散らしてすいません)

あら、どうぞ、どんどん書き散らしてください。わたしも、書き散らしてます。
>
> > 結婚してない、とか、頭をそっていない、とか、そのようなことは、一般の人々は、それほど問題にもしていないでしょう。

> 欧米で瞑想の教師が女性と性的スキャンダルを起こしたという話はネットによく残っていますね。
> 禅宗やチベット仏教などにも
> 調べれば何人でも出てきて驚きます。
>
> 繁盛の裏にはこういうドロドロした世界もあるんだなあと。

世俗の目で見ると、やっぱりどこまでも世俗世界に見えてくるというのもありますよね。
また、出家の世界も、常に世俗の誘惑に脅かされているとも言えますね。
名誉とか人気とか尊敬とかが出てくると、大きな罠になってくるんでしょうね。

> それでもあまり仏教に対して非難の声が起きないのは、世の中に比丘・禁欲した修行者たちが圧倒的に多いおかげかもしれません。

わたしが、結婚しているかはあまり問題にならない、と思うのは、日本の伝統の中には、菩薩というのと同時に、沙弥というのも聞くからです。沙弥は、出家の見習いみたいな感じで、まだ正式の比丘になる前の段階です。時々、俗世にもどって結婚したりもしているようです。よくわからないですが。昔の文献などをもっとよく読まないと何とも言えないのですが、「沙弥」というあり方を見たとき、「なるほどなあ」と思ったのです。

できそうなら比丘にいきたい、でも、ダメでも沙弥なら何とか、という感じがしてきます。

> あるいは、ブッダその人の法への愛着が人々をつなぎとめてくれているからかもしれません、。

ブッダの法も中道ですから、無理しませんよね。無理はしないけど常に中道を行くのは楽でもないです。

> 戒律を守らなくてもよい、というのは本当にそうだろうなあ、と思います
> 思うけど、でも、彼らがアイドル化すると逆にその信仰が(依存かもしれません)菩薩をダメにしてしまうこともあるのかも

戒は心の中にもっているのがよいかもしれませんね。持戒波羅蜜でいく菩薩も、中にはいるでしょうから。
また、菩薩であれば何でも修行になるかもしれないです。アイドル化も恐れない、というところが、菩薩行になってくるような気もします。
>
> > 心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。
>
> これは外見では見えないと思います。ざっくばらんな関係ではなく、基本的にアイドルとファンのような関係ですから
> 私はこの人はユーモラスで面白い人だなあと思ったチベット人ラマが性的スキャンダルを起こし、告発動画がYouTubeにあがっているのを見た時は肝が冷えました。
> とても著名なラマです。

魔がさした、ということになるのでしょうか。心が清らかであるかどうかは、いつも現在形で問われますから、たいへんです。
『スッタニパータ』の「ティッサ・メッティヤ経」を思い出しますね。

でも、わたしが不思議なのは、スキャンダルということで終わってしまうのって、どうなんだろうと思います。
相手の女性を、人として見ていなかったということになる、っていうことなのかな、と。
もしかりに、自分の汚点として後悔するだけだとすれば、出家の世界だけではなく世俗の世界においても、ちょっと考えちゃいますね。もつれるなあ。

> 多くの人が見ているようでした。
> コメントを読むと、「不正をしたラマがいるからといって仏教を嫌いにならないで!」というコメントに沢山の「イイネ!」がされているのも見ました。
> (私もイイネ!のボタンを押しました)

不正をしたラマの方に気がいってしまうわたしはなに(笑)。
ラマに立ち直ってほしいわ。相手の女性も救ってほしいし。
>
> 戒律のない、菩薩行というのも難しいなあ、とも思います。
> 戒律のないお坊さんも、戒律のあるお坊さんに依存している。。(相互依存かもしれませんが)

菩薩行の特にむずかしいところは、ことばの行いではないでしょうか。ここに厳然たる戒があるように見えて仕方ありません。すぐに現れるから、絶えず試されています。
>
> 「世間にあって世間に染まらない」というのは本当に難しいでしょう。それが戒律のない仏教であるとするならば
>
> でも、これは在家の問題でもありますよね、
> お坊さんに半ばアイドルのように愛着の想いを起こしていているから、性的な関係を持ってしまう信者もいる、という。

愛着を清らかにすることができれば、それが悟りへの道、という手もありますよね。
「入法界品」などにあるように。
>
> すいません、日本の事情と関係ないかもしれませんが、思ったことを書いてしまいました

思ったことを書くのは、よいことです。
思わないことを書く方が問題ですよね。
と言いつつ、わたしも思ったことを書いてしまいました(笑)
>
> > 大乗の立場は、「空性」ということを基礎におくので、生まれたときに7歩歩いて「何とか…」と述べたと言えるのだと思います。
>
> ありゃ、上座部でも、生まれたばかりで歩いて、「私は最上の者である。」と話したといいますね。

そうですか。それなら、菩薩の道も生まれてきますね。
部派の仏教というのは、わたし的にはまだ発展する仏教のような気がしています。

阿羅漢になってから、どうするかが、まだまだいろいろありそうで、興味深いのです。

Re:[9940] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/13(Sun) 07:30 No.9951

PLさま

続きが遅くなってすみません。

> > どんな話でも、お釈迦さんの話なら、ぜんぜんOKです。どんな人でも生老病死はあります。
>
> なるほど…。
>
> なんだか、故人のことを話した方が、遺族の方は喜ばれるのかな〜と思ったりもしたのですが…どうですかね(;´・ω・) (えび天サンバさま、ポケットさまも、どう思われますか?)

自分の経験では、個人的によく知らない人であれば、故人のことをあれこれ話さない方がいいかもしれない、という気はします。身近な人の死は、特別な思いがあるから、深入りして話してしまうと、違和感が残ってしまいます。

その人との具体的な思い出があれば、話すと喜ばれるかもしれませんが、もし、ほとんど知らない人であれば、ちょっと触れるにとどめて、誰にでもあてはまる一般的なことを話す方が無難ではないでしょうか。

故人との関係は、参列しているその人その人いろいろあると思いますので、何を話すかはむずかしいですよね。

> そうなんですか。では、「諸仏」と言われるときは、三千世界などとセットなのでしょうか。

そうですね。そうなると思います。
わたしとしては、これは、論理的には論議領域の設定ともとれるなと思っています。
お、下にそう書いていましたね。続きがいいな(笑)

> > 確かに、この論議領域を規定することは、最初に行わねばならないので、この天上天下…は必要な要素ですね。
> > サハー世界において、論議の領域として一仏であることが、宣言されないと、ブッダの話は始まりません。生まれた時に話す必要があるので、そうしています。
>
> え、「論議領域を規定することは、最初に行わねばならない」とは、なんでしょう。どうして、ブッダの話は始まらないのでしょう。

ブッダの教える「ものの見方(正見)」によって成り立っている世界に入っていくからです。
一つ一つ話されるたびに、ブッダ世界が決まってきます。それを受けとめるから、聞いている人たちの心も変わっていきます。そうして、苦しみのない境地へと目指していくのですが、そこで重要なのは、考える考え方やものの見方をみずから変革して、それを目指していくことだということです。
自分で変えなくちゃいけないので、自分がブッダの語りを世界とする、そういう世界に入っていくと見てもよいと思います。

だから、論議の領域は早めに設定しておいた方が、混乱が少ないのです。
天上天下唯我独尊と言ったということを、抵抗なく受けとめられるなら、それから進んで説かれることばも受けとめられるでしょう。半信半疑の人も、興味がわくと、それをきっかけに仏法に入っていけるかもしれません。受け付けない人は受け付けないので、問題ありません。

> > ゴータマの人生の途中から、この世界が論理的にブッダの世界ということになったのではない。生まれた時にすでに仏世界として論理的にとらえられるのだ、ということだと思います。
>
> ふーむ、では、ゴータマが生まれる前は、仏世界としてはとらえられないのですか?それはなぜでしょう。

「ゴータマが生まれる前」というのは、歴史上の人物のこととしてとらえてください。
「悟りを開いてブッダになった」と説明されるなら、悟る以前はどうだったのだ、という疑問を抱く人もいるでしょう。
ブッダが世に出現したとき、ブッダが世に出現していないとき、と、世界は二つに分かれます。

このように考えると、一人の人ゴータマが悟りを開いたとき、そこにブッダの法の世界が出現したとも言えます。そうなると、法の世界の方から、今までの世界を設定し直すことも可能になってくるでしょう。

こうして、生まれた時に7歩歩いたというような話も出てくるのだと思います。さらに、ほんとうはずっと前に悟りを開いていたが、…というような話も生まれてきて、久遠実成のブッダなどともいわれてくるようになるのでしょうね。
>

> ここらへん、龍樹が、同じ人が書いてるとは思えないほど、いろんな著作を書けるのにも通じそうですね。まあ、人ではなく、ダルマ(無我)になってるという意味では、「同じ人が書いてるのではない」、というのは当たってるか(笑)

ああ、そうですねぇ。PLさま、龍樹の論にも慣れ親しんで来ましたね。
ブログでご紹介した『龍樹『根本中頌』を読む』の中では、龍樹が書いたのは『中論』のみで、他の作品はみな異なる人だろうという論を展開しています。

こう言うのって、無駄な論のような気がしますよね。PLさまのように、ダルマの観点からみて「同じ人が書いているのではない」ともとるなら、議論にならないですよね。また、名前は龍樹として知られる人物が書いているのだということであれば、それだけのことで、その「龍樹」という名に実体を求めるから、「龍樹作と言われているが、この作品は龍樹ではない」などと論ずることになるのですよね。

仏法を知っていったら、出てこないような議論が出てきています。

> > 否定が多くなってきますね。出来事が否定され、さらには関係が否定されていきますね。
>
> ひょえ〜、なるほど、そういう風にも分析できるんですね〜、おもしろい。

真理表というのは、ほんとうは、仏教がうまく用いてきたものではないか、という気がしてなりません。
もちろん、「真理表」という表自体を考えついて、わたしのやったようにはやっていませんが、発想的にはこれでいけます※。

※ この文、ちょっと変な文のような気がしてきました。
「もちろん、「真理表」という表自体を考えついていたわけではないし、わたしのやったようにはやっていませんが、発想的にはこれでいけます。」
ということです。

有と無にわけていき、その場合分けを全部あげて、その中に一切世界をおさめることができれば、有と無からなる世界がえられます。
そして、その世界一切から出るなら、涅槃です。解脱すると涅槃です。
有にもよらず無にもよらない中道を進むと、やがてそこから脱することができる。
なんて、確実な世界なんだ、って感じがしてきます。
>
> そのとき、すごいことと感じたのは、「こうなって当然だ、こうあるべきだ」という雑念があると、認めたくない(起こってほしくない)真理表の列にフタをしてしまっていた気がするのです。一寸先は闇なんだ、って受け入れられると、あるいは、一寸先に光もありえると知れるなら、照らされてなかった真理表の列が生じてくる、といいますか。

ああ、それはすばらしい。発見ですね。
真理表の一列をものにするのは、世界がひっくり返るほどの大変革が必要なことだという気がします。
>
> 関係あるかわかりませんが、前に、oさまに仕事の愚痴をいったら、「うん、それは自分のせいだね。社会ってそういうところだから。」って言われて、そうあるべきでないと非難していたことが、急に、所与の条件の1つとして受け入れられるようになって、そこをスタートに、すっと楽になったということがありました。「あ、そういうもんだったのか〜」って。不思議な現象でした。むしろ、なんで、所与のことにならなかったんだっけ…という感触もあります。

視野がグッと広がりましたね。あるものを受け入れる、というのは、ほんとうに力量が要りますね。
縁起を勉強すると、そういうことに対応する能力がつくかもしれません。
「<これ>があるとき<これ>がある」という式は偉大もので、原因の「<これ>があるとき」というのが、自分にとっては望ましくないものであっても、それに対して、どのように「<これ>がある」と、みずから反応していくかによって、結果的に、縁起の式を一つあらたに成立させうる、ということにもなります。

諸縁が集まって一つの結果を生んでいきますから、自分の意思の力も、諸縁の一つになります。自在に考えられるようになっていきそうですね。

と書いたものの、我が身に返ると、そんなにうまくはいっていないような気もしてきます。うーむむ。

> ほんとに、そのとおりですね。重宝していたソフトも、開発者がいなくなると、アップデートできないので、使えなくなってしまって、困っています。

最近、ブッダ方式を採用しようと心がけてます。
「PCは壊れるものである」「ソフトはなくなるものである」「ファイルは消えるものである」と知って、それに頼らない、という生活をしようと考えなおしました。

自分の中から湧いてくる智慧によって生きるなら、身体さえ残れば何とかなる、みたいな。
ヴェーダの達人(ヴェーダグー)を目指そう。この場合、ヴェーダというのは、中から湧く智慧を指しています。

> > なるほど、「果を道にすること」か、さすがです、深いお答えですね。
> > 衆生の求める結果に合わせて構築していったのでしょうか。

ここですけど、これだけ読むと、出てくるものがあります。文脈忘れちゃってます。
阿弥陀仏の本願に頼むのも、「果を道にすること」になりそうですね。法蔵菩薩は、衆生済度のために極楽浄土をつくって自分の行を完成させました。

> > 密教あたりですと、一切(智)ということがクローズアップされてくるのではないかと、ちらっと思ったりします。
>
> ふーむ、大乗はどれも一切へいってるんじゃないでしょうか。

そうかもしれません。一切智を求めないと、大乗は成り立たないですものね。

> > 法ということばが使われている文それ自体が、法の意味を表していくことになって、その文それ自体からそのまま理解されていきます。
>
> ぬおー!すごい。まさか、そういう方法で「法」を考えることができるとは、思わぬ報酬!そっか、僕はそんなにナイスアイディアなこと(法を無理に訳さず、読者に考えさせればいいということ)を言っていたのか(笑)

わはは、よかったですね。
これは、仏法の強みですよね。そのことばの意味するところは、話の文脈の中、そのことばを用いる文全体、こういったものから知られていきます。
どんな人でも、理解してくれます。大人でも子供でも、誰でも。
>
> > これをダンマ・アヌダンマ(法随法)という実践の仕方で、仏教独特のものですね。
>
> うむ!この法随法とやら、おんもしろいですね。ほんとに仏教っぽいですね。語られなかったことも知れる、ということもあるのかな。法随法をずっと守っていければ、いいわけですね。

そうです!そのとおりです!
ブッダの勉強法です!

> > そうかもしれません。「自分」「自己」というのは、仏教的には「ダルマ」にはなりませんが、誰でも使うことばです。「自己」というのは、仏教において大事なポイントになっています。
>
> そうなんですか。あれ、なんで大事なポイントなんでしたっけ?

こだわりが強いからでしょうね。また、こだわる内容もいろいろなので、そこを解きほぐすと、あらゆることが見えてもきます。
「自己をよりどころにせよ」というところから始まって、次第に「自己」を探究して、やがて、「自己を忘れること」を学んでいきます。道元さん、ありがとう。

「自己」から広がるのは「世界」ですから、自己を知り尽くすと世界を知り尽くすことになります。

> > また、法(教え)を考えるときには、「心(チッタ)」ということばがポイントになるのじゃないかと思っています。このことばも、ちょっと気づきませんが「ダルマでないもの」の中に含まれると思います。途中で出てきても、やがて、最終的には消えてしまいます。
>
> ふーむ。気になるけど、なんて聞いたらいいのか分からない…(´・_・`)

そうでしょう。「チッタ(心)」は、部派では大事なことばになっています。でも、これは、法としてブッダが規定していることはないと思います。
わたしの理解ではそうなのです。
あまり問題になったことがないので、あまり取りあげられたことがないのではないかと思います。
>
>
> > > なるほど、すべての真理表を知っている、ということですね。
> > >
> > > っと、ひっかかるのは、「生・滅がわかって、そこから言語の用法として、不生不滅が出てくる」というところと、「五感でとらえられたものが、思惟の領域に入ってきて、中道ということがみえてくる」という部分ですね。なんだろう、端的に、五感でとらえられるものと、思惟や言語の領域のちがいが、相変わらず、よく分かりません。
> >
> > たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
> > しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
> >
> > 出来事としては、たきぎは燃えてはいになります。だから、「たき木、はひとなる」と書いてあります。そして、そのはいがまたたき木にもどることはありません。
> >
> > これを見てわかることとしましょう。五感でとらえられることです。
>
> うんうん、納得です。
>
> > そこから考えるのが、たき木がはいになって、またたき木になることがないなら、
> >
> > 薪はさきにあり、灰はあとである
> >
> > と、このように考えるのが、思惟の領域に入ってきている、ということを意味します。しかし、「薪はさきにあり、灰はあとである」と、考えてはいけないと言われています。
>
> ん、「考えてはいけない」というのは、「思惟の領域に入ってはいけない」ということですか?それとも、思惟の領域に入ることは、考えることではないのですか?

いや、思惟の領域に、観たことをそのまま入れるとまずい、ということでしょう。
たき木ははいになってしまうけど、「薪」が「灰」になってしまう、と、後先をつけて考えてはいけない、ということだと思います。
思惟の領域に入ると、思惟の領域での順序がありますから。

> > ことばとしては、断ち切られていること。ものとしては、さきとあとはあるので、たき木ははいになりますが、ことばとして、薪が灰になるとは言わない。
>
> なるほど、そういうことですね、ことばと現象をわけているのですよね。

そうです!

> うーん、「薪は薪の法位に住している」…どうかなぁ、その「法位」とは、「自性」とは違うのでしょうか?「去るものは去らない」がすごく思い出されます。

おお、PLさま、鋭いですね。ヘタをすると自性のようにもなりそうですが、道元さんはけっしてそうはならないので、すごいですね。ことばの使い方なのだと思います。
>
> 「前後は断ち切られている」というのは、単純にいって、「薪は薪、灰は灰、それらは別のことばです」というほどの意味でしょうか。

そういうことですね。わたしの理解ではそういうことになります。
>
> また、今まで先生から学んできたことによると、ブッダ論理の醍醐味の1つって、ことばの世界と現象の世界を分けないことにあったのではないでしょうか。認識をことばにすれば、それらを分けないですむ、という意味で。しかし、今回の議論ですと、認識を離れたところで、「薪」や「灰」を考えているようで、ことばだけが一人歩きする観念実在論と似た印象を受けます。

おお、ここもなかなか良いです。「薪」「灰」を法の世界に追いやって考えるとき、現象世界と?ぐことばが必要になってきます。それが、道元さんのやり方は独特なのです。ちょっとわからないところもあります。

しかし、わたしの考えたところでは、この現象界と思惟界をつなぐ、あるいは、切り離すのが、中道や縁起だということが言えると思います。

> ん…それとも…、「薪はさきにあり、灰はあとである」と考えることこそが、「薪」に「さき」という自性を、「灰」に「あと」という自性を認めることになってしまうので、それらを空とみよ、ということでしょうか。薪をみて、灰を期待するな、と。ちゃうかな。
>
このあたり、PLさまもいろいろアイディア満載ですね。「灰を期待するな」は、すばらしい表現だと思います。サンスクリット語でいうと「アペークシャー」ってことばが浮かんできます。

おっしゃるように、空でいくのも可能ですね。また、「薪」を縁(の一つ)として「灰」が生ずる、というように考えることも可能です。「薪」がないとき「灰」はないですから。

> ちょっと、ここは今回パスさせてください。上の、薪と灰のたとえで詰まってしまっているので。

あ、どうも失礼しました。わたしも、まだ、解明途中です。

また、いったん、切りましょうか。

Re:[9947] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:pocket 投稿日:2016/11/12(Sat) 23:25 No.9950

エム先生
(あっちこっちに色々書き散らしてすいません)

> 結婚してない、とか、頭をそっていない、とか、そのようなことは、一般の人々は、それほど問題にもしていないでしょう。
欧米で瞑想の教師が女性と性的スキャンダルを起こしたという話はネットによく残っていますね。
禅宗やチベット仏教などにも
調べれば何人でも出てきて驚きます。

繁盛の裏にはこういうドロドロした世界もあるんだなあと。

それでもあまり仏教に対して非難の声が起きないのは、世の中に比丘・禁欲した修行者たちが圧倒的に多いおかげかもしれません。
あるいは、ブッダその人の法への愛着が人々をつなぎとめてくれているからかもしれません、。

(それともビートルズが「Sexy Sadie」を歌った時代のような、精神的(spiritual)なことがらへの過剰な関心はもうないから、かな)


戒律を守らなくてもよい、というのは本当にそうだろうなあ、と思います
思うけど、でも、彼らがアイドル化すると逆にその信仰が(依存かもしれません)菩薩をダメにしてしまうこともあるのかも

> 心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。

これは外見では見えないと思います。ざっくばらんな関係ではなく、基本的にアイドルとファンのような関係ですから
私はこの人はユーモラスで面白い人だなあと思ったチベット人ラマが性的スキャンダルを起こし、告発動画がYouTubeにあがっているのを見た時は肝が冷えました。
とても著名なラマです。

多くの人が見ているようでした。
コメントを読むと、「不正をしたラマがいるからといって仏教を嫌いにならないで!」というコメントに沢山の「イイネ!」がされているのも見ました。
(私もイイネ!のボタンを押しました)

戒律のない、菩薩行というのも難しいなあ、とも思います。
戒律のないお坊さんも、戒律のあるお坊さんに依存している。。(相互依存かもしれませんが)

「世間にあって世間に染まらない」というのは本当に難しいでしょう。それが戒律のない仏教であるとするならば

でも、これは在家の問題でもありますよね、
お坊さんに半ばアイドルのように愛着の想いを起こしていているから、性的な関係を持ってしまう信者もいる、という。


すいません、日本の事情と関係ないかもしれませんが、思ったことを書いてしまいました

> 大乗の立場は、「空性」ということを基礎におくので、生まれたときに7歩歩いて「何とか…」と述べたと言えるのだと思います。

ありゃ、上座部でも、生まれたばかりで歩いて、「私は最上の者である。」と話したといいますね。

Re:[9948] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2016/11/12(Sat) 20:22 No.9949

> > 坊さんを呼んでくれている内に、いろいろ考えた方がいいのは確かだと思いますね。
> そうですよね。たとえ派遣という形でも、お坊さんに頼むというのが救われてる、っと言ってるお坊さんもいました。

ネットで見る派遣坊さんの諸価格は、基本的に檀家制度が維持してきた価格に依って
いますね。現在ある檀家制度が破壊されることなく、新しい檀家制度という
ものも、ネットで構築可能かもしれませんね。

その時には、元が取れるかどうか分からないけれど、やって見れば
案外、うまくいきそうな感じもありますね。

眠っている資源が開発されそうな感じですね。

Re:[9941] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:PL 投稿日:2016/11/11(Fri) 13:24 No.9948

> > なんだか、故人のことを話した方が、遺族の方は喜ばれるのかな〜と思ったりもしたのですが…どうですかね(;´・ω・) (えび天サンバさま、ポケットさまも、どう思われますか?)
>
> 坊さんを呼んでくれている内に、いろいろ考えた方がいいのは確かだと思いますね。

そうですよね。たとえ派遣という形でも、お坊さんに頼むというのが救われてる、っと言ってるお坊さんもいました。

> 祖師の話をするにしても、元祖の話との関連して述べるとか、エム先生の仰るように、
> お釈迦様ブッダの話がいいとは思いますけどね。ま、機を見る、
> ということもあるし、通夜の席で遺産相続争いとか起こっている場合などは、
> 和合衆としての働きなどもした方がいいかもですね。

そうですよね。

> 生老病死と付き合うということが肝で、言葉などはその後から付いてこさせれば良いような感じもしますね。

ほんと、そうなると、理想的ですね。

ありがとうございました。

Re:[9939] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/11(Fri) 11:08 No.9947

PLさま おこんにちは。

「おはようございます」と書こうとして、書いてるうちに昼になるだろうなと思ったら、「おこんにちは」になってしまいました。両方混ざっていますです。

> 書けました!oさまが、「縁起も空も難しい。何度も何度も、師匠に聞いて、ようやく分かるもの」っておっしゃていたのが思い出されます。ほんとそうだなぁって…。

oさまのことばに、そのような内容があったのですね。思い出せるような思い出せないような。しかし、まったくそのとおりでもありますね。

今、『中論』を又最初から読んでいるところです。わたしの師匠だわ。何度も何度も読めて、その都度、大きく印象が違います。
>
> そうだ、僕も、お坊さん業界について、非難したくなるような気持ちが何回も起こったのですが、応援するような気持ちを持てばいいのでしょうか。
>
> しかも、その応援の心は空である、ということなのですが。つまり、どのような形であれ!うまくいきますように、ということなのですが。伝わりますでしょうか。願といってもいいですが。

もし、「応援する気持ち」があれば、空とは言えないかもしれませんね。PLさまも、お坊さん仲間ということになって、願をもつのですから、「行(サンカーラ)」があることになりますね。でも、その場合、願をもつなら、それの滅もしっかり見据えると、空がえられていくでしょう。
目的に達したら、願は滅する。すべての人の苦しみがなくなれば、PLさまの願は達成されて、解脱できます。
こういう風に考えると、空にいけるかもしれませんが、「応援する気持ち」だけが先走ると、「余計なお世話」感が出てきて、相手にうまく伝わらないかもしれません。

「うまくいきますように」とも考えずに、その時点時点では、ただ遠い目標を自ら目指しながら、自分の善いと思うことをしていくならば、認めてくれる人もいるかもしれないです。あまり、人に認めてもらおうとか伝わってほしいとか思いますと、そこが、「欲」として強く出てきてしまいます。


> > ことばはことばだけがあるのではないので、それがどのような意図で語られているか、ということを絶えず意識しているからではないでしょうか。
>
> そうですね、動機は大事ですよね。
>
> で、で、こういうことも、パラドックスが残る体系は、信じたくないが、信じざるを得ないものが残ってしまう、というお話とも、関係するのでしょうか…?
>
> また、見解は、拒否できる!のですよね、龍樹によれば。受けとらないという意味で。

この辺、PLさまの言いたいことが、うまくつかみづらいのですが、まず、見解は拒否できます。
自分が受け取りたくないと思うなら、そこは、そう表明するとよろしいと思います。それは、自分の態度ですよね。

そして、自分は、反対意見はもたないならば、もたないということもできます。あなたとは争うことはしない、ということもできます。そうなると、どうなるかは、おおよそ想像がつくかと思いますが、そこでの仕打ちに耐えると、菩薩行ですね。

パラドックスが残る体系にある人は、いろいろ言うことでしょう。ですが、PLさまがそのような態度をとったということから、そこに変化も生じてきます。

そこには、倫理的な問題も見えてくるからです。自分たちが我をはっているようにみられてもまずい、とか、相手も思い始めるかもしれません。プライドの高い人たちは、自分が優位にいないと気まずいのですが、ごり押しで、優位に立つのも望まないのです。なぜなら、プライドが高いからです。
倫理面でも優れているとみなされたいということもあります。ですから、PLさまが、ブッダの立場をよく知って、そのとおりに行うならば、自分が思っているより、意外な感じで、問題なくいく可能性はあります。ブッダに信をもつなら、そこから、願が生まれ、それがものごとを好転させていくかもしれません。まあ、どうなるかは、わかりませんが。

プライドの高い人々は、ですから、ブッダの立場を理解しやすい人々である、とも言えるかもしれません。


>
>
> > > たしかに…!だれでも、人を殺したくはないし、殺されたくもないですよね。
> >
> > その通りだと思います。五戒の最初は不殺生ですものね。
>
> あら、ほんとですね。
>
>
> > > そっか〜、商業を通じて信頼を…。そう考えると、「お坊さんを派遣するなんて、ビジネスのようでけしからん!」という考え方も、安直だなぁって思います。派遣を通して仏法が広まることだってあるだろうなって、想像できますよね。
>
> そうですね、みなさん、お坊さんといえば出世間的なものを期待しますよね。とはいえ、具体的にいって、出世間という原則は、どのようであればクリアしたことになるのでしょうか。

ただ、結婚してない、とか、頭をそっていない、とか、そのようなことは、一般の人々は、それほど問題にもしていないでしょう。どれだけ、心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。どれだけ相手を害さずにいるか、ということでもあるかもしれません。やっぱり、「その人の人間性」ということになりますが、仏教的には、それは、諸法実相ということですし、空である、ということでもあります。

どれだけ世間から遠離しているのか、でもいいのかな。
世間にあって世間に染まらない、ということなんですけど、わかりにくいですかね。

>
>
> > > > たとえ、他の解釈を許したとしても、すべて、このように「有る」ものとして取り扱われるので、それぞれの解釈が、それぞれにそびえ立ってしまうような構造になり、結局は、おっしゃるように「他の解釈を許さないような形」にはなってしまうと思います。

> 数学の証明とか、定理とかも、そんな風に、つまり、関係を規定し、そびえたつ見解のように見えるのですが、どうでしょうか。こう、演繹的に、ああなってそうなってこうなる、ほら、証明できた、だから、これからこれを定理として使いましょう、みたいな。でも、これも、法(ダルマ)と観念実在論の違いについて以前、先生とお話しましたように、数学のことば達が常にある、と考えるのではなく、何回も、その都度リアルタイムで証明を試みても、そのようになる、とみるのならば、数学も法っぽくなりますか…?いや、そもそも、「数」というものが、仏教でいうダルマではないのかな。。。ここらへん、ややこしくなりそうでしたら、無視しちゃってください。

数学者の人と友達なのですが、その人が言うには、数学も仮説なんだ、と言っていました。
こういう条件を認めるとするなら、こういうことは言える、ということだけで、それが、実際にあるのだ、とか、そこまでは言わないわけです。
仮説を超えて語ると、それは見解になります。そこで、争いを招きます。自然数というのを認めましょう。そうすると、自然数の範囲内では、こういうことが言える、しかし、自然数を自然数で割るという作業を認めると、小数という数を認めなくてはならなくなる。
。。というようにして、無理数だの虚数だのという領域が広がっていきます。

仏法も同じようですね。もの(バーヴァ)という領域を認めると、このように語れる。ですが、法(ダルマ)という領域でなら、このように語りうる、というように、仮説(仮設)されて語られます。

> > まあ、何と言いますか、本来ですと、因果の関係によって、時間の経過とともに話が進んでいきます。だから、結末はどうなるのか、はっきり言えないことが多いのですが、この場合、ゴータマはすでに悟りを開いてブッダになったことがわかっています。
> >
> > そうなると、「すでにブッダとなった」ということがらを基点にものを考えることができます。過去をふり返ってみれば、生まれるという行為によって、すでに、悟りは約束されていると解釈することも可能になってきます。
>
> ははーん、そういうことですか。最後の1文だけ、どういうことでしょう。どんなことも、結果を基点にすれば、その結果に至ることは約束されていた、と解釈してもいいのでしょうか。

ここも、先ほどの「仮設」ということを考えなければなりません。「時を入れて語ります」という条件を持つなら、そこから派生して出てくるものがあるかもしれません。その「時」というものは、こういうものです、と定義づけるなら、結果から原因に向かう論理も出てくるかもしれません。定義の仕方によっては、出てこないことも考えられます。

たぶん、テーラワーダなど部派では認めないかもしれないですね。

大乗の立場は、「空性」ということを基礎におくので、生まれたときに7歩歩いて「何とか…」と述べたと言えるのだと思います。

> たとえば、魔がさして悪いことをしてしまったとき、これと同じ論理を使って、「私が悪いことをするのは、約束されていた」ということも、言えるのでしょうか。そうなると、「私は、あのとき悪いことをしないこともできたのに、してしまった」という後悔の念は、どういう論理によるのでしょう。

「魔が差して悪いことをした」という言い方を可能にする論理と、「悪いことは為すべく定められていた」という言い方を可能にする論理とは、異なっているのではないでしょうか。

すでに決まっていれば、「魔が差した」とは言わないと思います。また、あらかじめ定まっていると思うなら、「悪いことをしないこともできた」という言い方は出てこないでしょう。

※もうちょっとつけ加えますと、未来について決まっていないと思う人は、あくまでも「魔が差して悪いことをしてしまった」と受けとめるでしょう。

だから、部派と大乗は、分かれていくことになるのです。因果を主体にする立場と空を主体にする立場とです。きちんと使い分けできるなら、一切智者になるかもしれませんが、そうでなければ、どちらか一方でいく方が安全です。

7歩歩いて天上天下唯我独尊と言った、と述べたとき、どのような論理によっているのかを表明していることになるのですから。

> ということは、起こったことであれば、なんでも「証明されたこと」と呼んでもいいのでしょうか。それとも、ゴータマブッダの成道のように、ブッダになることを宣言し、その宣言どおりになったから、「証明されたこと」と言われるのでしょうか。つまり、「証明しよう」という意志とセットなのでしょうか。

「いったい何が起こったととらえられたのか」というところから考えることにもなります。
わかるでしょうか。
「これこれが起こった」と観るとき、そのことは事実として語られることになります。
事実を観たから、そのとおりに語ったのだというならば、事実なるものが、そこに厳然として「ある」ことにもなりましょう。そうとらえると、実在論的な立場をとることになります。
「何が起こったのか」ということから、決めていくのが、仮設をとる立場です。

「7歩歩いて天上天下唯我独尊と発した」ということが、起こった、としたのです。そこから、仮設された世界が一気に広がっていくのです。空ということが、すでに使われていることがわかりますか。
>
> > 演繹的な論理でものを考えることもできます。前提の中に結果が含まれるので、結果は真になるわけです。こうして、七歩歩んで天上天下唯我独尊、と言っても、論理的には成り立つことになるでしょう。

では、このあたりにしておきますね。

Re:[9942] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2016/11/10(Thu) 20:07 No.9946

> ところで、このスッタにパータの和訳の方ですが、わたしが今までに書いたなかでは一番いい本かもしれません。
> どこにあるのかわからなかったブッダの直説。これが直説だ!!って、示すことができて、ほんとうに安心したというか、何と言うか。
> ここに帰ることができれば、どんな仏教の書物も、それはちゃんと仏法に適っていると言えます。

これはもう、僕の目には途方もない快挙としか映りません。龍樹がいかに仏説に精通していたか、
ということを調べ上げたエム先生ならではの功績ではないでしょうか。

> ブッダのことばをできるだけ忠実に示すことが、無我の道でもあります。

一切衆生、という言葉が響いてくるようです。

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