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Re:[10042]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/03/09(Thu) 19:22 No.10043

> 「全て、あの方(神)が持っておられる。あの方に比べると、誰もが皆、気違いなんだ。
> だったら神を愛する気違いの方が良い」だったように思います。
>

『スッタニパータ』の最後から二つ目の詩を訳そうと悪戦苦闘していたら、上の文が目にとまって、感慨深く思いました。

1148 神を超えたところで了知して(アディデーヴェー アビンニャーヤ)、(師は、)一切種々の願望を知りました。
疑いをもって公言しているものたちの諸々の質問を、師(ブッダ)は終極させてくれるのです。

中村先生訳ですと

神々に関してもよく熟知して、あれこれの一切のことがらを知っておられます。
師は、疑いをいだきまた言(ことば)を立てる人々の質問を解決されます。


「アディデーヴァ」は、「神の中の最高のもの(至高神)」を指すとみてもよく、また、「神を超えているもの」としてもよいかもしれません。

ブッダは、神を超えているところで了知する、つまり、至高神をもよく知っている存在なのだから、「あの方」を超えてるということか。
こんなにはっきり書いてあるなんて。。。

Re:[10040]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/03/09(Thu) 12:03 No.10041


> 「誰もが皆、気違いなんだ。だったら神を愛する気違いの方が良い」

キチガイの元にあるときには
元は見えない

気違い の 言 

みんな キチガイ なら
だれも キチガイ ということを規定できない

良いワルイは
悪いことが 違いにあると 規定できることが  必須

ダレモ なら
ダレモ あてはまらない

 ころあい という 頃  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/03/09(Thu) 10:56 No.10039


セッソウ ガ ナイ

ソウ ジャナイ 者に 言っても
ソウ とられることはない

 真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/03/06(Mon) 03:02 No.10015


わかっていることに真理はありません
真理は 分かることではないのです

言い替えると
分かったことはすべて 悪趣 にある ということです

分からないところに 真理があります
真理があるところには 分かることはありません
真理 は 真理には ない

もし
わたしの言うことが分かるのなら、それは(わたしの言うことは)真理ではない
もし 分からなければ
それは(わたしの言うことは) ( 必ず! ) 真理です

真理ではないと分かったことは 真理ではない
(このことは、自分を例外とすれば、だれでもそう思うことです)
分かった対象も、真理ではなく
分かるということが起きる所在(自分の理解)も 真理にはない
( ここが 大事の 対自の 対峙する “ところ”です )

真理を分かれば 真理は 存在をなくす
あるない は あるない を 言う人にある
ある と ない とは 「縁起」 です  ( 空です )

「空」 と 分かれば それは 「空」 ではなく 「有」 です

「苦」 の 「有」 を PPAP のように続けると 「 くう うく 」 となる

分かるなら これは 真理ではない
分からないなら 真理ではないとは 言う根拠にない
もう一度繰り返します
どのように部分的であろうと、全体であろうと
分かることは真理ではない

真理が分かる 理由がない

Re:[10013] 心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/28(Tue) 08:23 No.10014

pocketさま

パーリ語もありがとうございます。

「夜煙を出す」ってのが、わたしだなあって、思って親しみを感じます。

これは、龍樹が歩んだやり方ではないかと思ってます。
> namo karohiで「帰依しなさい」なんですね。
>
> 日本語の語感の問題かもしれませんが、私は「帰依」という言葉に信じていなかったものを新しく信仰するようになる、みたいな感じを受けました。
>
> 私なら「礼拝しなさい」と表現するかなあ

なるほど。名詞にすれば、ナマスカーラで、そのものずばりですものね。
「挨拶しなさい」とか「礼拝しなさい」とかでいいかもですね。

「帰依しなさい」だと「サラナン ガッチャティ」ということばを連想してしまうか。。

うーん。。。そうかあ。。たしかに。。

よし! pocketさまの意見を採用して、訂正しておきます。

「礼拝しなさい」を採用します。

Re:[10011] 心にしみる原始仏典 投稿者:pocket 投稿日:2017/02/28(Tue) 00:37 No.10013

ナゾナゾみたいで楽しいお経ですね!
ベリーナイスです(´・ω・`)b

こういう話だったら経典を読むのが楽しくなっちゃいますね


パーリ文も貼っておこう。著作権的にやさしいスリランカ版です

1.3.3.
Vammikasuttam.

http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/MN_I_utf8.html#pts.142

ところで
namo karohiで「帰依しなさい」なんですね。

日本語の語感の問題かもしれませんが、私は「帰依」という言葉に信じていなかったものを新しく信仰するようになる、みたいな感じを受けました。

私なら「礼拝しなさい」と表現するかなあ

案外 案内    案内不要    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/27(Mon) 13:23 No.10012


わかって  そして  止める  のではなく
止める から それがわかる のでもなく

分かる と やめる  とは 同時に起きています

やめたときには 分かる対象がすでにない
( やめなければならないことが 存在しない )

自分にないのに 他にあると分かる根拠はない
自分にあれば  わかっていない

顛倒にあるとき(無明にあると)
わかれば やめることができると 思い間違う
やめることができるのなら、やめないことも選択できる

選択肢にある “内” は どちらも 「 真理 」 ではない

内外  が あるとき には  外  という  偏にある

外から見た “内外” なのです
( 外の 外にある とは 思いつかない 、、、、 )

それは 内の内 といっても 何ら変わりがない 、、、、

Re:[10010] 心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/26(Sun) 01:50 No.10011

> 「蟻塚の喩え」(『マッジマ・ニカーヤ』第23経)を入れました。
>
> おもしろい経典ですよね。龍(ナーガ)が出てくるのがいいな!

リンクしておきますね。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/vammika.html

心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/25(Sat) 23:35 No.10010

「蟻塚の喩え」(『マッジマ・ニカーヤ』第23経)を入れました。

おもしろい経典ですよね。龍(ナーガ)が出てくるのがいいな!

Re:[10008]  ちょっと 引っ越し 話の腰 折って真っ直ぐ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/07(Tue) 09:21 No.10009


> *******
信とは、信じると言うこと。みんな難しく考えすぎ。ただただ信じる心を持つということ。例えば信じる心があれば信仰心があるだろうし、信じる心があれば釈迦の言うことを信じることができるから一心に釈迦の言うことを信じることができる。信じるとはその人の、道だから。信じると言う道。心に信じると言う気持ちを灯していければどんな困難が起ころうとも信じて前へ、信じて自分の道を進んでいける。そういう志を心に灯し続ける。悟りへの道は厳しいでしょ。だから、信じる心があれば何事にも勝らないものになると言ってるの。
> *******

文章が 論理的に破綻しています

> 信じると“言うこと”
 (ここは 変換間違いとして起きます  ということにしておきます)
( 言ったから そういう  ということ が起きていますが )
( 道 という文字が 真理の意味であり 口から語られる という意味も表します)
( 言うは 言とすること、その言 を 云います )
( 云う は 言ったとおり、前述として言われているとおり の事を云います )

> 信じる心があれば信仰心があるだろうし
( 信じる心を 信仰心といいます )
> 信じる心があれば釈迦の言うことを信じることができるから
   一心に釈迦の言うことを信じることができる
( 麻原の言うことが 釈迦の言うこと
  と  信じた場合には どうなりますか   )
> 信じるとはその人の、道だから
( 信じられた 信ずる対象となった人 の 道です
   自分というモノはない と 釈迦牟尼は 言っています
  麻原 の 道(仏の道)  ということになります    )
> そういう志を心に灯し続ける。
( それが 灯し続けるそれが いわゆる あなたの言う処の あなたの道です )
> 悟りへの道は厳しいでしょ
( 信じる心があれば 厳しくはなく 優しい心に包まれている )
> 何事にも勝らないものになると言ってるの
( 勝るもの = あらゆる覆障 に 遮られない ものとなる )
( ここは 変換間違いで済まされない )
( 勝るとも劣らない の 省略形としても 問題は起きるということです )

問題は “劣る” という(云う・言う) ところにあります
劣る が 仏教上の 理として 使われるのは
   大乗が    云々された時にさかのぼります
ヒーナ(ヤーナ) は 劣る乗 と言うことで
マハー(大乗)(ヤーナ) は スーパーエクストラ(小)乗 ということです

釈迦牟尼の 言葉を 画一的にとらえ 最高とするとき
それに比べて 劣るが起き 優ところへの修行が起きます
釈迦牟尼 は 「 平等 」 を 根本(出発点における岸・願)とします

平等であるモノを平等であると知る
どこに 劣ったことは起き得ますか
( 勝 優 に 起きます )

勝という 問題意識は 解脱していない 人の 覆いの下に起きています
( 実体というモノを持たない 光の弱さである 影 に すぎません )
( 暗いところでは “世間においての 手元” も狂いうる )

人の生に 優劣はありませんが
優劣をいう人には 根拠となる 不平等があります
不平等を 判断の起点において
判断するから「無明」と 成ります( 無明に起きる 行に対する識 )

転じて
無明に対して起きる 行に対しての識  を 善知識 といいます
( 善知識とは釈迦牟尼のサンガにあるムニノトモのことです )

唯一無二 の 釈迦牟尼の友 (一人一人が 釈迦牟尼一人と 対峙しています)

********  


ちらっと思ってみるものです。
>> 流石に日本仏教の伝統が生きていた方々は、素晴らしいものがあるように思いますが、
昔の人の方が、サンスクリット語でも、漢文でも、優れていたのではないかという気がします。また、知識なども、限られていたでしょうけど、今に比べて劣ってはいないですよね。
世界中のいろいろ資料に接することができて、恵まれているのに、現代の方が仏法に近づけないような気がするのはなぜでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2016/06/22 23:54

>  信からしか入れませんよね。
そういうことを信じている ことは、
 「 信爲能入 」 ということ とは、ならない
> なぜなら、凡夫は無明に覆われているから。
師は 凡夫であるか否か、 訊ねてごらんなさい
「凡夫ではない」  というなら “凡夫ではないと言われた” に過ぎません
どのような構造で凡夫があるかを まず説き、
凡夫とする無明を説き、凡夫は凡夫にあらずと説き
凡夫ではない、聖者でもない立場で 説くとき、
説くこと自体が、信に基づいている
(その)信に基づく “信” を
 信に値するかどうかを 揀択 することなく 信じる ときに 「信」が起きている
まずは、如来蔵を信じ、道を歩んでみれば
  突き当ろうと 
突き当るということを知ることができる
  あり難さ  ナンマンダブ ナンマンダブ
> 無明は根本的に狂った認識ですから、狂った認識に基いて判断しても迷うばかりになってしまいます。
その “迷うばかり” が すでに、無明によって、定義されている
狂った認識を (正しく狂っていると)正しい認識の基においても、
基に対する、判断が、 迷い=無明=くるい  でしかない
必ず最後において、無明が効いてくる
> よく言われるのが、自分が狂人で師が医者、法が治療法で、医者や治療法を信じなければ狂ったままのように師や法を信じなければ、無明のままという。
無明のまま ということを、甘く見てはいけない
何故 釈迦牟尼が 慙ること  を 要に置くかは
いつであろうと、無明にあることが  「平等」 にあるからです
ブッダ には 無明はないけれど 、、、、
あなたがブッダかどうかを あなたが決めなければ、必ず無明にある
( この文章を “正しく”読めれば、 「 正見 」 が起きている )

こういう形で、真理は 世俗の言葉で表される 、、、、、
( 見なきゃ、あなたは仏陀でしかない )


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/22 13:47

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