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Re:[11748] 無題 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/27(Fri) 12:48 No.11749

>
> > > 「言語平面の空=無」という、この表現こそが、意味のない空虚なものであるとわかるのではないでしょうか。
> >
> > 意味がないから、かりそめの安逸をもたらす。
>
> spinobuddhistさまには、「言語平面の空=無」ということばは、かりそめの安逸をもたらすようですが、わたしは聞いても、何も感じません。かりそめにも、安らぎはないですね。

自分が非難される言葉に、安らぐ者はいないだろう。
>
> > 空を「道具」すなわちコミュニケーションツールとして、言葉を対象とした空観を行なうかぎり、本人が否定しようが、言語平面の無に落ちる。
> >
> > 空の効用は、そこにはない。
>
> 「言語平面の空=無」という「言語を対象とした空観」では、
> spinobuddhistさまのおっしゃるように、空の効用を感じませんね。
>
> たしかに、語る通りのことが現出しているようではあります。

自認されたように、それが先生の空です。

Re:[11745] 無題 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/09/27(Fri) 12:41 No.11748


> > 「言語平面の空=無」という、この表現こそが、意味のない空虚なものであるとわかるのではないでしょうか。
>
> 意味がないから、かりそめの安逸をもたらす。

spinobuddhistさまには、「言語平面の空=無」ということばは、かりそめの安逸をもたらすようですが、わたしは聞いても、何も感じません。かりそめにも、安らぎはないですね。

> 空を「道具」すなわちコミュニケーションツールとして、言葉を対象とした空観を行なうかぎり、本人が否定しようが、言語平面の無に落ちる。
>
> 空の効用は、そこにはない。

「言語平面の空=無」という「言語を対象とした空観」では、
spinobuddhistさまのおっしゃるように、空の効用を感じませんね。

たしかに、語る通りのことが現出しているようではあります。

Re:[11745] 無題 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/27(Fri) 09:40 No.11747


> > しかし、私たちには、ブッダの慈悲の行い(語り)によって、空は空でも、何と虚空のような空だなあと了解できるのです。

ブッダの語り  は ブッダの慈悲の行い なのです
行ないに出会うことが、 語りを聞くことです

「 百聞は一見に如かず 」 →  “ Seeing is believing . ”

見ていること( = 聞いていること )は 「 信 」 にあるが

聞いたことを 解釈することが、 「 信 」 を 構成しているわけではない

思っていること  を 、  言葉にする  のではあるが 、
言葉は 行ないの上で 意味を持つ

人は 言葉を見ているのではなく 行ないを聞いている


> 「語り」を聞くことは、理解ではない。

理解しなさい

Re:[11745] 無題 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/27(Fri) 09:29 No.11746


> 「語り」を聞くことは、理解ではない。

語りを聞かないから理解できないのです

どこに 語りがあって、 どこに理解が起きるかは
聞いて初めて起きる

(  自己を 見つめることが出来ますか ?  )

> 理解がなければ、信はない。
> 修行すなわち理解=覚りである。
> 「語り」を信じて、覚りを下から見上げる。
> そこに修行はない。

理解できていなければ
その理解できてはいない言葉は 信とはならない

理解できない自個に 誤った 信 を 置くからです
( 誤る自個 を 見ることはできますか ? )

> > 語ることばのその一つ一つを空と見て、そこに語る内容(気持)を込めるなら、空は、ことばを容器としての役割を果たさせて、我々の思いをことばに載せて伝える道具になるのです。

道具も使いようで、 誤りを さらに積み重ねることとなる
( 他人事ですか ? )

> > これが空の効用です。『空の発見』は、仏典で見つけた「空」を説き明かした書です。

いくら 解き明かしても  それは、 解き明かされた者だけが 受けることが適うモノ です

しかし、  まず自らに  起こしているから その実績 は 他にも “ 及び得る ”

得ることもできるのであるから、 得ぬこともできる

得てはいない者には、 決して説き明かされてはいない

「 法華経 」 にも そのことは 説かれている
( 何処にどう説かれているかは、 説かれていることを知る者が 出会う“ところ” )

> 空を「道具」すなわちコミュニケーションツールとして、言葉を対象とした空観を行なうかぎり、本人が否定しようが、言語平面の無に落ちる。
> 空の効用は、そこにはない。

そこにない  のではなく
あなたの(所有する)そこ に ないのです

そこ以外に あるかどうか が 分かる時
その分かったことが
あなたの そこ  に あるのです

Re:[11743] 無題 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/27(Fri) 08:47 No.11745

>
> > 言語平面の空=無が、存在局面にあるわれわれにかりそめの安楽を感じさせているだけである。
>
> ブッダの場合、「言語平面の空」は、「=無」ではないことは、よくおわかりでしょう。
> 「言語平面の空=無」という、この表現こそが、意味のない空虚なものであるとわかるのではないでしょうか。

意味がないから、かりそめの安逸をもたらす。
>
> ブッダの場合は、解脱の境地「無師で覚った」は、私たちには分からないという意味で空(からっぽ)なのですが、
> しかし、私たちには、ブッダの慈悲の行い(語り)によって、空は空でも、何と虚空のような空だなあと了解できるのです。

「語り」を聞くことは、理解ではない。
理解がなければ、信はない。
修行すなわち理解=覚りである。
「語り」を信じて、覚りを下から見上げる。
そこに修行はない。
>
> 語ることばのその一つ一つを空と見て、そこに語る内容(気持)を込めるなら、空は、ことばを容器としての役割を果たさせて、我々の思いをことばに載せて伝える道具になるのです。
>
> これが空の効用です。『空の発見』は、仏典で見つけた「空」を説き明かした書です。

空を「道具」すなわちコミュニケーションツールとして、言葉を対象とした空観を行なうかぎり、本人が否定しようが、言語平面の無に落ちる。

空の効用は、そこにはない。

   酷 有    投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/27(Fri) 08:21 No.11744


ない ということは  “ 空 ”  です

それ( “ 空 ” ) は 「 空 」 とは 違います
( 違うということ を 説明しています )

「 空 」 とは 「 空性 」 です

一方 “ 空 ” とは  ドーナツの 穴  です

「 空 」 とは 「 虚空・アーカーシャ 」 であり 「 虚空蔵菩薩 ・ アーカーシャガルバ 」 です
( 虚空 と 虚空蔵菩薩 とは 同じ です → すべてがある ということは ガルバに ある )


「 虚空蔵求聞持法 」 を 修し・修した 者 に  今  出会っている

( 誰に出会っているかを 知ることがなければ、 誰にも出会ってはいない )
( 出会っていても、 出会いを知らない )

( 自ら という 存在を知るまでは  自らという 出会うモノ が 存在しない )

“知る者 と 知られる者 (それが一つである)”  が 「 己事究明 」 の 「 己 」 です

あなたは あなたに出会っているが  出会っていることに 気が付けない

“知りよう(ということ)” は 知りようによって   知っている こと   となる
( 読み切れますか ? )


あなたのよく知る  あなた  と  あなたが知ることがない “わたし”  とは

おなじ  あなた   ですか ?

Re:[11738] 無題 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/09/27(Fri) 02:38 No.11743


> 言語平面の空=無が、存在局面にあるわれわれにかりそめの安楽を感じさせているだけである。

ブッダの場合、「言語平面の空」は、「=無」ではないことは、よくおわかりでしょう。
「言語平面の空=無」という、この表現こそが、意味のない空虚なものであるとわかるのではないでしょうか。

ブッダの場合は、解脱の境地「無師で覚った」は、私たちには分からないという意味で空(からっぽ)なのですが、
しかし、私たちには、ブッダの慈悲の行い(語り)によって、空は空でも、何と虚空のような空だなあと了解できるのです。

語ることばのその一つ一つを空と見て、そこに語る内容(気持)を込めるなら、空は、ことばを容器としての役割を果たさせて、我々の思いをことばに載せて伝える道具になるのです。

これが空の効用です。『空の発見』は、仏典で見つけた「空」を説き明かした書です。

Re:[11741] ブッダの「空」 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2019/09/27(Fri) 02:29 No.11742

> 空はブッダから出て、理解者のナーガールジュナを経て、エム先生先生の脳髄に住んでいる。

先生先生とあるのはつまり、大先生ということである。

Re:[11740] ブッダの「空」 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2019/09/27(Fri) 02:23 No.11741

> 「空」というのは、様々に形を変えて、私たちの前に現れます。
> 空(くう)そのものは、表に現れることはなく、空による効果だけが、人々に影響を及ぼすのです。

不死の大太鼓を打ち鳴らしに来ました。笑
空はブッダから出て、理解者のナーガールジュナを経て、エム先生先生の脳髄に住んでいる。

ブッダの「空」 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/09/27(Fri) 02:05 No.11740

「空」というのは、様々に形を変えて、私たちの前に現れます。


ブッダの「空」は、また、特別なのです。
『ダンマパダ』にあるこれらの詩は、ブッダの「空」が、虚空のごとき無辺の「空」であることを示しています。

179 かれが勝利したものは失われることなく、その勝利したものには、
   世界中の誰も到達できない、そのブッダの領域は無辺であって、
   道をもたない。そのかれを、いかなる道(パダ)によって引き寄せうるのだろうか。

180 引き寄せるための、網となって執着するところの渇愛は存在しない、
   かれブッダの領域は、無辺であって、道をもたない。
   そのかれを、いかなる道(パダ)によって引き寄せるうるのだろうか。


ブッダの領域は、ブッダでなければわかりません。その領域は、無辺であって、パダ(足跡)をもたないのです。93偈には、「空」ということばも出てきます。


93 煩悩が滅尽し、食(アーハーラ)においてとらわれなく、
   空にして無相なる解脱を領域とする人の足跡は従って行くことが難しい。
   空を行く鳥の足跡(パダ)が従って行き難いようなものである。


「空」といっても、さまざまな様相をもって、私たちの目の前に現れてくるのです。

ですから、「空」ということばを出さなければ、人はただブッダのことを虚空のような広がりをもって、捉えることでしょう。

「空の効用」と書きましたが、「からっぽ」という意味をもつのは「空」ということばであって、
その「からっぽ」をいかに活かして用いるかは、私たちの腕の見せどころであり、ことばの使い方なのです。

空(くう)そのものは、表に現れることはなく、空による効果だけが、人々に影響を及ぼすのです。

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