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[10480] Re:[10479] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 16:23   [返信]
> >    不可得(認識され得ず)空であるから。
> > 認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。
>
> わたしには
>       ただ名字だけがある
>       (みな)不可得である
> としか読み取れません
>
> “  (みな) ”   不可得である    から
> “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

そうすると、あと、引き算すると 「空」が出てきますね。

> “みな不可得である”  ということも  不可得【 空 】である  とされている

と経典には「空」の字があるわけですから、春間さまの理解の「不可得である」を

「不可得空である」から、引くならば、「空」の一文字が残ります。これは、春間さまにとっては、意味をもたない、なくてもよいことばと考えられますね。

「空」とは、したがって、「からっぽ」ということになりましょう。

>
> 懇切丁寧ではありませんが
> 必要十分ではあります

であれば、「空」の言葉だけは、不可得でないことになりますね。

 使い方もわかる。「空」を足しても、言われていることは何の影響も受けないとわかります。からっぽだから。だから、空を使うなら、そのように使うとよいということでしょう。

[10479] Re:[10478] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 15:50   [返信]

> > これのどこが 懇切丁寧ですか

> 1)ただ名字だけがある。
> 2) 我のようなものは、ただ字だけがある。
> 3)みな不可得である。 

>    不可得(認識され得ず)空であるから。
> 認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。

> 懇切丁寧でしょう。

わたしには
      ただ名字だけがある
      (みな)不可得である
としか読み取れません

“  (みな) ”   不可得である    から
“みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

懇切丁寧ではありませんが
必要十分ではあります


[10478] Re:[10476] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 15:02   [返信]
>
> > > > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
>
> > では、ご指名により、ここで。
>
> 指名 ではなく 指摘です
>
> > 菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
> > T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
> > T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
> > T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
> > T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
> > T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
> > T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
> > T0223_.08.0221c19: 得空故。
> > 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
> > 菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> > これが、ブッダ論理学です。
>
> これのどこが 懇切丁寧ですか

1)菩薩は、ただ名字だけがある。
仏も、またただ字だけがある。
般若波羅蜜も、ただ字だけがある。
  色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。

1)では、菩薩や仏について、字だけがある、と述べています。否定ではなく肯定で説かれるので、その意味をただ受けとればよいです。「菩薩が般若波羅蜜を行ずるとき」とあるのを受けて、「般若波羅蜜」が解説されます。これも字だけだと。
それから、五蘊が一つ一つ字だけだと言われますが、これは「人」などに相当して説かれる「法」について、字だけだと言われます。

2) 我のようなものは、ただ字だけがある。
  一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである

次に、「人」に関連して、「わたし」に関することば「我」が説かれます。これらもみな字だけだよんと言われます。ここで、「が」は認識されないと特徴づけられるのが、新しい。なぜ、字だけだといわれるのか、理由も知ることができます。認識されないのは、納得の理由になるでしょう。こうして、我に関するものもみな字だけなので

3) 衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。 
   不可得(認識され得ず)空であるから。

生きてるものや、寿命のある者、行う者や行わせる者など、その働きをもった「人」「我」に関する言葉も、もちろん字だけだといわれます。なぜなら、これらは、認識されないからと言われますが、たしかに、行う者は、そのことばで言われるものを、これだと指し示すことはむずかしいような気がします。何かを行っている人を、この人が「作者」だとしても、行いをやめれば、そうではなくなるし、人によって、その人の行いに注目しなければ、作者と言うことばを与えることもできないでしょう。

認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。
懇切丁寧でしょう。

[10476] Re:[10474] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 09:52   [返信]

> > > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています

> では、ご指名により、ここで。

指名 ではなく 指摘です

> 菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
> T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
> T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
> T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
> T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
> T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
> T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
> T0223_.08.0221c19: 得空故。
> 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
> 菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> 端折ってしまう言い方で、勝手に探せ、というのではなく、
> 端折ってしまわない言い方で、勝手に探せ、と言いたいのです。

ただ(名)字が あるだけ  では
         それは意味を持ちません
意味を持たないモノは 伝達性にありません
意味がなければ 解する対象となり得ません

名付けられたモノ(コト)には 名付ける意図があり 意図には 伝達があり
伝達(ゴト)は 届いて 届きようによる 意味を持っています

誤解している者に 誤解がない  誤解があるとき 誤解はない

         確認性 には あります

> だから、上をあげました。どこでもいいのです。

 どこでもよければ あげる意味はない
あげたところの意味を伝えて なぜあげたかが決まるが
あげた 名字 には  字だけがある  と されている
あげては    いないところに 意味がある
    から   表象である 名字 を 提示する

> 「不可得なものは、字だけだと考えなさい。(不可得なので)空であるから。」と了解できます。

あなたは そこから 「空」 へ 飛ぶ(飛翔・飛躍する)
誰でも 飛んでいるけれど
どう飛んでいるかは 推量による

> 思惟に飛んでいるところがありません。最後も、「みな不可得である」とあって、さらに「不可得空であるから」と、さらに「不可得」を重ねています。この後ろの「不可得」が空の説明とも読むことができます。読み進めるだけで、自然に思惟の流れが、自分に入ってくるようになっています。

読んだ人は 誰でも 自然に 思惟の流れに入って  「脚下照顧」 が起き 自分に入れますか ?

自分 に 入った人を あなた以外で 教えてください
「 仏 」 の 名字は 人を表わす編 に △記号の 自らという所有記号を付けて なおかつ
自らにあるときに 坐禅組む その姿を 形象し 会意して つくられています

その名字にある者以外が その意味を知って どうなりますか ?
( しれば 知ったその者 となり その者 は タターガタ ですが タターガタは名字です )

> これが、ブッダ論理学です。

これのどこが 懇切丁寧ですか



[10475] Re:[10469] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 09:06   [返信]

>  思考の構造を明かさずに、どんどん話しを進めるので、相手に混乱が生まれるのです。ヴィトゲンシュタインが述べている「事実の全体」は世界を指しますが、それはどこにいったのだろう、とか。誰が「事実は論理である」と述べているのだろうとか、です。


わたし に  混乱が起きて  いなけれ  ば
   ( 混乱のあるとき わたし は 存在の基盤を 論理的に失っている )
   ( 混乱が起きていれば わたしは 存在していない )
   ( 混乱が起きていなければ 洲にある 脚下を 照顧している )
あなたが混乱しているかどうか は あなた は 決めることができない

あなたが それでも決めることができるとするなら
あなたは “堅固” な 混乱の上に立つ ( けれども 混乱は 堅固ではない状況を言う )


>  誰が「事実は論理である」と述べているのだろう

    わたしは
> >      事実は 論理ではなく  論理は 真理です
> >      真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
> >      空間は真理によって埋め尽くされている
  こう 述べましたが  「事実は論理である」 と 述べてはいない
  論理は真理である  とは 述べている  と  読むこともできます
  論理的に読んでいると 推量を重ねれば
  その論理的思考に乗って 更なる推量が重ねられます

事実は 類推である   と 読むことはできます
類推は 論理的に 行われるが いくら論理的 であろうと 
それが真理であるかどうか は 類推では ハカレナイ( 推量できない 無量・阿弥陀 が 起きている )

事実 を タターガタ と するなら タターガタ は あなたにとって どうあるかが問われます
“ タターガタ は 事実としてある ”  そういう答えでも丸を付ける試験官はいます

あなたが ありてあるままに 外れるなら ○は 付きません
存在が 事実として ありてあるまま  なら  何をか言わん


          瞑想しなさい


曼荼羅 はここに起きているから 曼荼羅による


> よかったら、詳しく語って、「慣れ」を払拭してください。お願いねっ!

「論理」 とは  「 正しくある 仕組み 」 で 「正しさのありようの仕組みの構造」
「正しさ」 とは 判断の基準です
人の判断は 判断が行われるときには すべて 判断にのっとって 行われる
その行われようを 「揀択」 と 伝統的に呼びます

  「 至道 」 の 「道」 は 「真理」 という意味です
 「 無難 」  とは 誰でも 難なく やってのけていることです
 「 唯嫌 」  とは  「そうではない 」 と 判断する 「思い」 です
 「 揀択 」  とは  「そうではない・そうである 」 と 判断する 「思い」 です
        一つの事物 一つの出来事 は   いかようにも
            その意味 を 意味として決めたモノに受け止められ
        心の自由性によって(決められた意味の)存在 を 決められ 
        その  決めた思い   はそれ(自由性の発露)によって 支えられています


この辺で 打ち度目  ギョ LOT


[10474] Re:[10473] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 07:54   [返信]
>
> > > >    般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
> > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
> >   例をあげなさい
> >   その例で 誰が どれほど 分かりますか ?


「こういう表現を多用します」と述べているのは、春間さまですが、しかし、「例をあげなさい」と、わたしに命ずるのも春間さまです。ここにも、話し方があります。普通なら、自分であげるだろうと思いますが、人にあげさせます。

では、ご指名により、ここで。

菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
T0223_.08.0221c19: 得空故。
菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> 例をあげて、端折ってしまう、言い方で
> 勝手に探せというのではなく
> 佇み とどまる わたしにも わかるように 示してください

端折ってしまう言い方で、勝手に探せ、というのではなく、
端折ってしまわない言い方で、勝手に探せ、と言いたいのです。

だから、上をあげました。どこでもいいのです。

「不可得なものは、字だけだと考えなさい。(不可得なので)空であるから。」と了解できます。

思惟に飛んでいるところがありません。最後も、「みな不可得である」とあって、さらに「不可得空であるから」と、さらに「不可得」を重ねています。この後ろの「不可得」が空の説明とも読むことができます。読み進めるだけで、自然に思惟の流れが、自分に入ってくるようになっています。

これが、ブッダ論理学です。

[10473] Re:[10470] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/18(Sat) 19:13   [返信]

> > >    般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
> >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
>   例をあげなさい
>   その例で 誰が どれほど 分かりますか ?

例をあげて、端折ってしまう、言い方で
勝手に探せというのではなく
佇み とどまる わたしにも わかるように 示してください

ただし
わたしの場合は 勝手に 好きにすればよい  と しています

勝手にする・好きにする 以外に 方法があるのなら
教授してください


[10471] Re:[10470] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/18(Sat) 09:59   [返信]
>
> あなたは 充分 分かったではないですか ?

書いたのは、一部です。

誤解される恐れがある、と書いたのは、それは、人により、誤解ではないとされるかもしれない、ということです。

[10470] Re:[10469] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/17(Fri) 19:16   [返信]

懇切丁寧に説明を重ねると
説明は分かりますが、
なぜ 説明されているかが どっかに行ってしまう

聞いて 分かるのではなく
わかるときに 聞いているのです

説明の後で 分かった時には 何も語られてはいない
それを 語られた事(過去) として聞くから
 分かる  ということ が 起きている
何が分かったかは 過去にある  から  未来において 分かったことが決められる

過去に縛られるから 自らで 未来を切り開く必要があるのです

こう 丁寧に説明を重ねるほど 分かることは 遠のいていく 、、、、

そもそも 何が丁寧かは 受けとめる者の 思惟 によって 決まっていく

もう一歩のところにある者に わたしは語る
( わたしが もう一歩にあると 誰が知るか
        というところに   知る者が起きる )


あなたは 充分 分かったではないですか ?
( 分かったところまでが 述べられている すべてです )

わかったところで 分かるまでの道筋を振り返り
もっと 丁寧に ハッショルコトナク(端折ることなく) 言っておいてくれれば
楽に ここまで位は 来れたのに 、、、、  ( 業つく張り の よくばりモン )

> >  般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
>   般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています

例をあげなさい
その例で 誰が どれほど 分かりますか ?

一つでも分かれば  般若 は すべて  手 “中のうち”

一つも分からないとこから 悟りへの一歩が起き
その一歩に わたしがいる( 佇み 止まって  いる )

一歩は いくらでも細分化でき その際分の 毫釐の差 に 天地は隔てられている 

ずいぶんと登って来たと 振り向くときに 最初の一歩が 始まっている


こういうもの言いに慣れてきたなら もう一歩 !



[10469] Re:[10451] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/17(Fri) 16:11   [返信]
> 「 ブッダの論理 」 と どう関連しますか ?

> 論理哲学論考
> http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

> 1.13 論理空間の中にある事実、それが世界である。

では、これを使って、ブッダ論理との関連を述べましょう。

原文  Die Tatsachen im logischen Raum sind die Welt.

「論理空間の中にある事実が、世界である」と訳せます。ここに、語順があります。定義されるものが後ろ(述語)に来るのは、ブッダ論理の語順です。(インド哲学全般での言い方でもあります)

かれは、『論理哲学論考』にどれほど心を砕いて執筆していたのかが、ここから読みとれます。かれ独特の、ナンバリングも、順序をあやまたないようにしようという、心の表れだと思います。この書には、瞑想があります。真摯で、純粋な思考がある。しかし、それでも、混乱も出てくるのは、実在論的思惟から抜け出せていないからです。そこで、順序は無視されてしまうのです。

>> > 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
>> > 偏  が 無いから 成り立つのです

>> こういういい方にも慣れてきた感があります。

> これは 言い方の問題ではなく
> 言い方 として 扱うことでもありません

言い方を問題にするのが、ブッダ論理です。
言い方なのです。春間さま独特の言い方があります。端折ってしまう言い方です。順序を飛ばしてしまうというか。

「(中道は)偏があって成り立つのではない」→「偏がないから成り立つ」

これが、春間さまの述べるところですが、ここにはずいぶん抜け落ちている部分があります。
まず、結論として「偏がない」をはじめに言ってしまうのは、混乱を招きます。その前に「偏があるのではない」とあるだろう、というかもしれませんが、誰も何も言っていないのに「偏があるのではない」というのも乱暴です。

ですから、最初に誰かが「偏」という言葉を出して、それについて何か言っているという前提があるのです。この場合、「偏に寄らないで、中道をいった」と述べたのはブッダです。
ということは、「偏に寄らない」とブッダのことばがあるけれど、と加えなければならないでしょう。
「偏に寄るな」というブッダのことばがあるが、これは「偏が有る」ということを言おうとしているのではない、とこう言うならば、わかりやすいです。
そうではなくて、「偏に寄らない」の「寄らない」に注目すれば、「偏はない」とき、中道というのは成り立つと見なければならないだろう、とこう言うならば、紛れないでしょう。

このようにいうなら、スムーズに理解できます。
というのは、春間さまの言い方ですと「偏が‘無い’から、成り立つ」とも執れるわけで、「無」の立場を述べているようにも見えるおそれもあります。偏がない「から」ではなく、偏がない「とき」、中道が成り立つとした方が、さらに誤解がないと思います。

有の立場を否定して、無の立場をとっているのではないかと誤解されないためには、言い方には気をつける必要があります。

こういう説明をせずに、最初の言葉(語句)と最後の言葉(語句)を結びつけるところが、春間さまの言い方になっていると思います。


> 般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します

般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています。

このような語り(言い方)を、空の論理にもとづく語りといいいます。これを、また、ブッダ論理にもとづく語りともいいます。


> 1.13 の 論理空間  は 意味のある語句です
>    事実は 論理ではなく  論理は 真理です

ここも、「事実は 論理ではなく」で、同じような言い方をしています。

>    真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
>    空間は真理によって埋め尽くされている
> 「空」を ひも解くと 真理(論理)が展開される

春間さまの思考の構造を明かさずに、どんどん話しを進めるので、相手に混乱が生まれるのです。ヴィトゲンシュタインが述べている「事実の全体」は世界を指しますが、それはどこにいったのだろう、とか。誰が「事実は論理である」と述べているのだろうとか、です。

よかったら、詳しく語って、「慣れ」を払拭してください。お願いねっ!

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