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[10841] Re: [10840] 悟ってから 悟ること   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/06(Mon) 10:23   [返信]
 
> >  結果から原因を見ていく

  結果と言うモノは
  原因を見る時の
  原因です

結果  原因も 結果も 同時に起きている
“過去” の 原因・結果 も
(原因を探るという時の) 結果であり
起こすときに  新たに起きる  原因である

“過去” は 過去に起きていたことではなく
今起こす “未来” です


過去も現在もありません
未来に起きるから  動き得る → 無常 
動かさなければ 恒常という自我にある


> これからも頑張って下さいませ

何に対して
なぜ頑張りが起きますか ?

頑張らなければならない その (源)因  は 

誰が起こしていますか
起こさなければ 見る対象とならず
対象がなければ “頑張り” も ない

頑張らなければ ならない 因  を 作り出している者が
その作り出しの因の中で
どういう因を作り出すことが出来ますか ?

「摩訶止観」 を 感得する 湛然 は 「 輔行 」 に於いて

「 発心が 僻越 なら 万行 は 徒に 施す 」  と 読み聞かせます
間違った出発点は 間違った到達点を 求める故に 間違いとされる
( イエス は そこを 「 裁く裁きで裁かれる 」 と 説く )

分かっても分からなくても
いつかは   分かったという対象 の 
悟り にある (  と分かる  )

> 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように m(_ _)m

暗闇にいて
“光” の なんたるかを知る術 が ありますか

顕われていないことを指して 無明にある  顛倒している  という

顛倒している者が望むことは 顛倒に起きている


方法はないのか ??

( 先に伝えた方法が 唯一 “愚禿” に ある方法 )

グトク とは 具徳  であり  愚得 でもある

親鸞は 語るのみ
聞く者は 名称に囚われがち 、、、、


[10840] Re:[10838] 投稿者:おじゃる? 投稿日:2018/08/06(Mon) 09:54   [返信]
 
>結果から原因を見ていく

法界体性智の大悲・大智は
縁起している世界にも満ちている

(大乗の)
本来自性清浄涅槃からの
仏性からの真如縁起をもって

仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

因と縁の双方の縁起が相応一致して
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ

ということで
ご教示ありがとうございます

これからも頑張って下さいませ

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように m(_ _)m

[10839]  Re:[10835] 無我とアートマン (は) 対比できない   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/06(Mon) 09:05   [返信]

してもよいけれど

無我 に アートマン という 思想の組み立ては なじみ難い 、、、、


> 松本史朗先生が、このように述べているのは承知していますが、わたし自身は、「本当にそうだろうか?」と大いに疑問を持っています。

疑問を持っているか どうか
“正しく”  “ ただ 正しき道においてのみ ” 考えたことがありますか ?
そういうモノは 確実に 実存していますか ?

>  ただ、自分で検討していないので、はっきり「そうではない」と言いうるものを持ちません。

持っている か どうか は
持ってみないと(持ったことがないと) 検証できません
持たなければ、持つということを 知ることは出来ない

検討していない と  いうことを 検討したことはありますか ?

>  > はっきり「そうではない」と言いうるものを持ちません。

  随分と はっきりと(持ちませんと) 言っている(断言している) けれど
( 再度 )
持っている か どうかは どうはっきりさせていますか ?
(  そのはっきりのさせよう は  はっきりしていますか ?  )

松本は 穿ちはよいけれど 突込み(詰め)が甘い
自らを 詰め込むことを 坐禅・瞑想 と よぶ

坐禅が足りないから 知恵に不足が出る(智慧ではなくなる)

学会で 松本が 異議を唱え
玉城 が まあまあ と たしなめているのに “出会ったことがある”

玉城 は 坐禅 は 間違ってはいないが
意を組み立てる時に 使う 用語を 撰び損なう
( 言葉は 仮称だから 間違っていても 正しいことを指さないわけではない )
(  しかし 顛倒にあると(きには)   間違ったことを 選んでいる 、、、、  )


自らに
   真実を認め 真実だろうと
判断する 根拠がなければ 、、、、


根拠のない “ところ” に 思想も意も 成り立たない
成り立っていると知るにも 成り立っていると知っているという 根拠を要する
( 根拠なしで、事物の生成を 認めるから 「 不生 」 と 置かれるが )
( 置かれていようと 「不生」 とは 何かを知らずに 置かれている・いない を 判断する )

そもそも、根拠を 意識(的)に 認めることなくとも
論が成り立つことを 違和感なく進めることが出来ること自体
( 当否 は 別にするとも )
如来蔵 の 根拠がある
正しいことを 正しいと認めるには
( 間違い・正しさ の )  「 縁起 」 になければ      
      “ 偏 ”    を    知ることはない

    中道(というモノ さえ) 世間にあっては 偏に起きている

正しさ・真理 というモノも  「 縁起 」 に起きる 
( 真理に 「 縁起 」  は 起きないが、 認めるところには 起きている )


判断できることが 如来蔵の証です
“ 判断できるかどうか 分からない ” という判断が
“ 如来蔵 ” に於いて 根拠を持つ

如来かどうかは 如来が知るが
知らないからといって 如来ではないと 如来は 明らかにしてはいない
その 未分化 の ヴィジュニャー を 知るとき
如来は 如来であると 自ら分かるが(そこには “自ら”= 自性 が 存在できる)
自らとは 自他不二 であると 分かるまでは
如来を他に認めることは出来ない
( 認めても 自己の世間の中の事  他には及びようもない )



>  そんなことを言うなら、ブッダの説いた法は、当時の『ウパニシャッド』の思想に非常に似ています

当時に於いては ブッダ は 『ウパニシャッド』の思想 にある 「 牟尼 」 です
分化されて 仏教 = 釈迦牟尼の教え  と されただけです

分化するかどうかで 教えは変わるわけではありません
違うところを指摘しようと、指摘しまいと
教えが変わることはなく
教えることは 変わっているということではなく、
『ウパニシャッド』の思想 に ある “ 正しさ ”  です

正しさ を  顛倒する     から
      ( 顛倒しない  )  → これ  「 縁起 」  に 起きる
仏陀 の   顕われ出
    が   縁起に起きる

( 好きなだけ 廻る間の 顛倒を 楽しみとしてください )


似ているのではなく
ウパニシャッド の 実相 を 行いに示しているのです
実相 は 仏陀が 顕われ出ようと出まいと 変わらないから 実相 と 如来にある

過去に 七仏 があるなら
今に 八仏 が 起きる

今に一仏が起きたなら 仏は 永遠に起きていて
数える時に 数える 数に(毎に) 起きている
( 数え得るものが 仏陀です →  知ることを知っているから 仏陀 と 呼ばれる )


[10838] Re:[10837] どこの誰が何を見るのか? 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/06(Mon) 08:16   [返信]

> > 有相唯識とかは専門外かもしれないけど、それでも、とりあえず


「中道」は、部派にも大乗にも行き渡る 「 論理 」と考えます。

大乗にいたりますと、ブッダの悟りの目線が必要です。
法身や報身や応化身などが、説かれてきます。

悟ってもいないのに語れるのか

このように言われてしまうとき、重要な論理として出てくるのが、結果から原因を見るという見方です。
原因から結果を見ていくのが、因果 だとするなら
結果から原因を見ていくのが、なんて言うんだろう? わからん。

しかし、悟りは、誰にある?ブッダにある。ブッダの一切智にある。
我ら凡夫は、非力ながら、論理(智慧)というアイテムを育てている。
この唯一のアイテムによって、仏智まで何とかたどりつき、「一切智」の世界を想像し創造し荘厳する。

大乗は、仏智と煩悩凡夫のコラボで出来上がっていると思います。

そういう意味でも、有相唯識に親近しています。

[10837] Re:[10834] どこの誰が何を見るのか? 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/06(Mon) 08:02   [返信]
おじゃる?さま おはようございます。

> (仮設としての
>   仮の現れとしての
>   認識は対象の形相を有している。とする)
> 有相唯識とかは専門外かもしれないけど、それでも、とりあえず

ああ、有相唯識。。ちょっと厳しいですが、一応、路線的にはある程度ついていけます。
>
> ↓どこの誰が → 解脱智見を知るのか?

こう考えたくなるのは分かりますが、私的には、「唯識」というこの考え方がどこから出てきたのか、ということをまず考えてしまいます。

なぜ、「唯識」を認めるのか。
それは、ブッダの「一切智」として表されているからである。

これが、私の、いまのところの答えです。

>
> ↓おじゃる妄想としては
>
> 大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を観照する
> 平等性智の世界から → 末那識  を観照する
> 妙観察智の世界から → 第六意識を観照する
> 成所作智の世界から → 前五識  を観照する
>
> 円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する
> (円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)

この論理は、大乗の法の論理ですね。
>
> 四神足の観神足の
> 智慧と慈悲の世界から → (仮設としての)心 cittaを観照する
>
> 縁起している世界から涅槃の世界を見るのではなくて
> 涅槃の世界から → 縁起している世界を観照する
>
> どこの誰が何を見るのか?
> 無明に依存している、おじゃるが見るのか?
>
> 般若の智慧と慈悲(としての、おじゃる)が解脱智見を知るのか?

おじゃるさまが、ブッダであるのか、凡夫であるのか。。。。
その謎やいかに。

答えましょう( 厳か風味 )

おじゃるさまは、ブッダではなく凡夫ではない、中道にて おじゃる ぼさつ (_ _)

> ↓参照資料として
> ttp://www.onedhamma.com/?p=5136

ありがとうございます。少し聞いてみようとして、ちょっと断念しました。
二時間かかるのね(涙)

[10836] Re:[10835] 無我とアートマン 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/06(Mon) 07:23   [返信]
アトミックさま おはようございます。

> 松本史朗氏(駒澤大学教授)は如来蔵思想などは仏教ではないと述べています。
> 彼によれば、大乗仏教は基本的には、「空から有へ」と変化する非仏教化、ヒンドゥー教化の道をたどっており、ヒンドゥー教のアートマン論を
> 積極的に公言するかのような主張が現れて、それが如来蔵や仏性などの思想であり、これは“仏教内のヒンドゥー教”に他ならないと論じている。
>
> http://fallibilism.web.fc2.com/001.html
> (松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410)

松本史朗先生が、このように述べているのは承知していますが、わたし自身は、「本当にそうだろうか?」と大いに疑問を持っています。

ただ、自分で検討していないので、はっきり「そうではない」と言いうるものを持ちません。
大乗の『大般涅槃経』ではなく、パーリ語仏典の『大般涅槃経』を読みましても、これまでのブッダの語り方とは少し異なる論理が用いられているように感じています。因果のヴァリエーションですね。

お釈迦さまの方から衆生の側に寄りそう姿勢が非常に強く出てきて、お釈迦さまの慈悲や大悲を肌身に感じるような語りになっているように思います。

ですから、「ヒンドゥー教の思想を用いて仏教を説く」ということも当然起こりうると考えています。そういう意味で、智慧と方便を駆使する大乗仏教が、ブッダの亡き後、大いに力をもってくるのは自然な流れであると思います。

平川先生(註20にある)や松本先生の論を疑うのは、言語上「(ヒンドゥー教の)アートマンに類似している」ところだけを見て、「 (ヒンドゥー教の)アートマンと異なる」ところを見ようとしてないからです。

「相手に合わせて法を説くのが仏法だ」と前提をおけば、似ているからと言って、すぐにヒンドゥー教の思想に同化したとは言えません。

そんなことを言うなら、ブッダの説いた法は、当時の『ウパニシャッド』の思想に非常に似ています。
『スッタニパータ』の第4章を訳したとき、わたし自身も、『ウパニシャッド』から採った文章や用語をいくつもそこに見いだしました。中村先生は、その点を大いに取りあげて語っています。ですが、似ていても、その語りの内容が大いに異なるために、バラモン教やヒンドゥー教の正統派からは、仏教は異端(ナースティカ)とされているのです。
『バガヴァッド・ギーター』には、仏教思想と類似の表現や言葉がたくさんでてきますが、誰も、『バガヴァッド・ギーター』を仏教であるとは言いません。

そこを見ていくべきだろうと思っています。

たとえば、「自性」と訳されるsvabhAva ですが、これも「空」の立場からは、仏教は自性を否定して「無自性」を採るとされるのですが、このことばも、また、仏教の中で肯定的にも用いられてもいます。
諸法実相という熟語でおなじみの「実相」の原語は、svabhAva となっています。たしか羅什の訳語ですね。
用語は同じで、文脈がまったく異なる、というのは、仏教の特徴(=空の思想による)なので、「空」によっていないことを証明してはじめて、学説的な価値が出るのではないかと思っています。なので、浄・楽・我・常を説けば、即「仏教でない」のかどうか、何とも言えないのです。

たぶんですが、
もし、本当に「如来蔵」思想が仏法にしたがっていないなら、おそらくは、誰でもすぐにわかると思います。仏教というのは、そういう点で非常にシビアです。行いも関わってくるからです。

[10835] Re:[10828] 無我とアートマン 投稿者:アトミック 投稿日:2018/08/05(Sun) 16:33   [返信]
>2.仏教の一切法ではアートマンが説かれることはないものとされていますが、
> 大乗の仏性や如来蔵思想へと発展する起因ともなったといえる『パーリ増支部1-6』の
> “自性清浄心” (心性本浄説) は「無為法」であって一切法には抵触しない。
>  つまり、“自性清浄心”はアートマンと同義か、もしくは非常に近い意味合いのものとしてみることはできるのでしょうか?

松本史朗氏(駒澤大学教授)は如来蔵思想などは仏教ではないと述べています。
彼によれば、大乗仏教は基本的には、「空から有へ」と変化する非仏教化、ヒンドゥー教化の道をたどっており、ヒンドゥー教のアートマン論を
積極的に公言するかのような主張が現れて、それが如来蔵や仏性などの思想であり、これは“仏教内のヒンドゥー教”に他ならないと論じている。

http://fallibilism.web.fc2.com/001.html
(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410)

[10834] どこの誰が何を見るのか? 投稿者:おじゃる? 投稿日:2018/08/05(Sun) 16:21   [返信]
管理人エムさんの場合は

(仮設としての
  仮の現れとしての
  認識は対象の形相を有している。とする)
有相唯識とかは専門外かもしれないけど、それでも、とりあえず

↓どこの誰が → 解脱智見を知るのか?

↓おじゃる妄想としては

大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を観照する
平等性智の世界から → 末那識  を観照する
妙観察智の世界から → 第六意識を観照する
成所作智の世界から → 前五識  を観照する

円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)

四神足の観神足の
智慧と慈悲の世界から → (仮設としての)心 cittaを観照する

縁起している世界から涅槃の世界を見るのではなくて
涅槃の世界から → 縁起している世界を観照する

どこの誰が何を見るのか?
無明に依存している、おじゃるが見るのか?

般若の智慧と慈悲(としての、おじゃる)が解脱智見を知るのか?

生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

ご教示の程よろしくお願い致します m(_ _)m

↓参照資料として
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136

[10833] Re:[10831] 無我とアートマン 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/04(Sat) 10:40   [返信]
> 「自己」ということを、これだけ多様に語って、しかも、一貫してブッダの教えにある、と人々を納得させる思想を、他には知りません。

つまり、自己を肯定的にも否定的にも、いかようにも用いて自在に語っています。それなのに、誰も矛盾しているといいません。
 
====
 それ故に、アーナンダよ、比丘は自己を中洲とし、自己をよりどころ(サラナ)とし他をよりどころとすることなく、法を中洲とし法をよりどころとして他をよりどころとすることなく(住みなさい)。
====

これも「自己」が出てくる有名な言葉です。

ここでも、文句が出てもいいかもしれないのです。「自己を中洲とせよ」というなら、なぜ「法を中洲とせよ」というのか、どっちを中洲にすればよいのだ、という質問があってもいいかもしれませんが、そういう質問をする人に出会ったことはありません。

 誰も言わないということは、わかっているところもあるのだろうと思いますね。

最初に「(その女性を求めるのと)自己を探し求める方とどっちがよいのか」と若者たちに聞いたとき、それは「自己の探究」という要素を持っているが、やがて、それは「法の探究」へと変化して行くのだろうと、何となくでも察知するのだろうと思います。

梵我一如の場合は、「梵」も「我」も変化しません。ブラフマンはブラフマン。アートマンはアートマン。ブラフマンがアートマンになるのか、アートマンがブラフマンになるのか、と考えて、ブラフマンがアートマンになる(である)というならば、ブラフマンは「最高のアートマン」と呼ばれます。しかし、その時、ジーヴァ・アートマン(個我)とパラマ・アートマン(最高我)の区別が生まれます。区別があるということは、ブラフマンはブラフマンと考えているからです。

ブラフマンがアートマンになったら、もはや、ブラフマンの名前はなくなり、アートマンだけが残る、ということではありませんね。

涅槃に入ったならば、自己はありません。

[10832] Re:[10831] 無我とアートマン 投稿者:o 投稿日:2018/08/04(Sat) 10:31   [返信]
いつもながら見事ですね。
宝珠愚者さまが、受け入れ、神智学や近代ヒンドゥー説と仏教は違うのだと納得してくれることを願うばかりです。

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