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[11093] 二諦説 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/10/15(Mon) 15:58   [返信]
テーラワーダ(分別説部)も二諦って言うんですね。

現代仏教の議論って十中八九はお釈迦様がひとことも
言われなかった言葉を定義も人それぞれであいまいなまま
延々と議論しているような気がします。

最初の部派仏教バラモン比丘たちの業は重いですね。
それ以降はハレーションみたいなものでしょうか。

断定しない議論しない議論に勝ちたいとも思わない
そもそも議論したと思わない部派が起こらなかったのが残念。

現代仏教徒は究極の真理が好きですよね。
キリスト教徒は造物主のオールマイティが大好き。
両者に良くている感じがします。

[11092] Re:[11091]   どの道からでも    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/15(Mon) 07:23   [返信]

> >  直視できてから
> >  語ってほしい

>   スマ長老は無常を直視したら阿羅漢の悟りを得るといっていますから、

スマナサーラ が どのように言おうと それは スマナサーラ の 今 
あなたの今  を 保証しない

>   厳密にはちらっと垣間見た程度ですが、一応自分で4〜5年前に経験したことです。

ちらっと垣間見た  のが  直視  であるなら 阿羅漢 である

阿羅漢は 阿羅漢の境地を 住処とするから
“ 住処 の ありよう ” を  “ あるがまま ” に  語り得る

あなたの 住処( あなたが 語る “ところ” ) は  何処ですか ?

> >   直視しなければ
> >  ( 直視したことがなければ、 直視とは どういう事かを分からない )

直視したことがある = 直視している
直視したことがある = 直視していない

その どちらが あなたの住処 に ありますか ?


誰かが 成就者 である 
その者は このように語っている

ということは
あなたの 語ることを なんら保証しません

もし 経に残る 言葉たちが 釈迦牟尼の言葉で
あなたが 如実に それを 聞いて、 語るのなら
あなたは ブッダ そのモノ で、 
語り、語るという「行」 は ブッダのそれ です


「 唯仏与仏 乃能究尽 」
    そう聞く者にとっては すべての人の言葉は
    仏陀 の 言葉 ( 如来蔵 )

如来 を 蔵する 者
       が  
如来 である



ドッカ 逸れて いませんか ?

( ひとかたはたらぬ と  覚ゆるなら それを踏まえての 語りとなります )

正しく語られている  と  覚え     て  いますか ?


  「 正法眼藏 」  <現成公案> 

「  さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
   人のさとり を  ケイ礙せざること、
    滴露の天月を ケイ礙せざるがごとし。
   ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を 點し、天月の廣狹を辨取すべし。 」
     ************
     「  仏道もとより豊険より跳出せる  」
     ************

と 語るが、 “  ふかきことはたかき分量  ”  と 深浅 高低 を 置く

それは 深き 理や 否や ?

豊検より 跳出する 仏道に

真中  や 端  が あろうか ?

悟りを得た者  は こういうところを  タガワナイ 、、、、


[11091] Re:[11090]   どの道からでも    投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/15(Mon) 00:31   [返信]
>
> 直視できてから
> 語ってほしい
>
> >  本当に無常=世俗諦を直視したら、普通の人間は精神が破綻します。
> > それほど怖いものだということです。
>
> 直視しなければ
> ( 直視したことがなければ、 直視とは どういう事かを分からない )
>
スマ長老は無常を直視したら阿羅漢の悟りを得るといっていますから、
厳密にはちらっと垣間見た程度ですが、一応自分で4〜5年前に経験したことです。

[11090]   どの道からでも    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/14(Sun) 23:33   [返信]

直視できてから
語ってほしい

>  本当に無常=世俗諦を直視したら、普通の人間は精神が破綻します。
> それほど怖いものだということです。

直視しなければ
( 直視したことがなければ、 直視とは どういう事かを分からない )

この構造を 貫いて
初めて 論理が通る
( すべての論に その 欠陥が 貫かれている )

しかし
得たこともない境地
ではあっても
論理上は 正しく 表現できる

それが
正しい見方 = 正見  です

まずは 見て、
そして 如実を語る

如実を見てさえいれば、表現は ついてくるものですが、
( 表現の不足に →  実際は  そこに何ら不足はない ! )
ついてくる人は 少ない


[11089] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/14(Sun) 23:12   [返信]
補足します。

スマ長老が言うように、本当に無常=世俗諦を直視したら、普通の人間は精神が破綻します。
それほど怖いものだということです。

また、世俗諦を通してより高い勝義諦を表現するとは、無常観=ニヒリズムの極限を通過したのち有無二辺の中道としての空観に到る、ということになるかと思います。
つまり弁証法的に、有→無→有無二辺の中道、となります。ここで世俗諦→勝義諦という順序関係が成立します。

そしてこの空観で上手くいってる間はニヒリズムの苦痛もある程度回避できますが、
それが機能しなくなってくるとまたニヒリズムに落ち込んでいきます。
そうしてまたその苦痛を経過することにより、より高い空観へと上昇します。

おそらく修行とはこの繰り返しになるかと思います。
とはいえ人生でニヒリズムの極限を通過する回数は、そう多いものではないと思います。
多くの人間は一度も経験しないか、死ぬ間際に一度経験する程度だと思います。

今回はここら辺で終わりにしたいと思います。
エム先生どうも有り難うございました。
北海道はこれからますます寒くなるかと思いますがご自愛ください。

[11088] Re:[11087] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/14(Sun) 14:17   [返信]
エム先生、今日は。

> 私は、縁起=世俗諦、空=勝義諦とは言っていないのに、spinobuddhistさまが勝手に決めつけて解釈しているのです。

私も先生がそうだとは言ってないです。

> 「世俗諦と勝義諦を区別するのは簡単ではない」とあって、その理由に「勝義諦を知らなければ、世俗諦を知らない」からだ、とあります。
> これが順序ですよね。ここは、このように世俗諦を知った後にしか勝義諦は分からないのだ、といっているようでもあります。また、世俗諦だと知ることは、同時に勝義諦を知ることでもあるようにも思われるでしょう。
> spinobuddhistさまの頭の中では、世俗諦と勝義諦は相依性の関係にあると思っているかのようなご返答ですね。

> spinobuddhistさまの論法に従うと、いつまで経っても世俗諦と勝義諦の区別がつかないことになってしまわないでしょうか。勝義諦を知るためには世俗諦が知られねばならない、しかし、その世俗諦を知るためには勝義諦がわかっていないとならない、となると、一体どっちを先に知るのだ、となります。
>
なるほど、確かに相依関係ではまずいですね。基本的には悟りにより勝義諦を得て、後得智として世俗諦を得るのでしょうが、この世俗諦を通してより高い勝義諦を表現するというように、スパイラル状に深まっていくのでしょうか。

あとこの点で気になるのは前に先生が言っていた、コンダンニャは勝義諦でなく世俗諦を得た、というものです。
そしてこの世俗諦とは「およそ生ずるものは、滅する性質のものである」ということでした。
つまり十二支縁起の順観です。
実はこれを悟るのがとても難しいと思うのです。
われわれは普段あたかも自分は「不滅」であるかのように生活しているからです。
また、「生じても滅しないものがあるのではないか」などと思っているのです。
だから「永遠」とか言い出すのでしょう。
しかしこれはスマ長老が明確に否定してくれたとおりだと思います。
悟り澄まして「永遠」とか「不生」とか言っている人間ほど、世俗諦も悟ってはいないのが現実ではないでしょうか。



>

[11087] Re:[11086] 仏陀の道の端で 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/14(Sun) 08:21   [返信]
spinobuddhistさま おはようございます。

> > ああ、あれは、おそらくニヤーヤあたりの実在論者相手だからですね。かれらが順序を無視して、世俗諦を説いているのに第一義諦に飛んで非難したので、世俗諦の立場であることを知らしめようとして、「無自性(アスヴァバーヴァ)である」と順序立てているのだと思います。
> >
> そこなんですが、世俗諦と勝義諦を区別するのは、実はそれほど簡単ではないような気がするのです。
> 勝義諦を知らなければ世俗諦も知らないといわれますから、われわれはほとんど世俗諦すら知らないのが現実だと思うのです。
> この点は先生の十二門論(二)の読解でもこれから問題にしていくつもりなんですが、簡単にいえば、
> 空=勝義諦、縁起=世俗諦という考えは駄目だろうということです。

なるほど(笑)
論理の問題ですね。spinobuddhistさまの語りが、西洋論理の手法のようだなと思って笑みがこぼれました。

「世俗諦と勝義諦を区別するのは簡単ではない」とあって、その理由に「勝義諦を知らなければ、世俗諦を知らない」からだ、とあります。
これが順序ですよね。ここは、このように世俗諦を知った後にしか勝義諦は分からないのだ、といっているようでもあります。また、世俗諦だと知ることは、同時に勝義諦を知ることでもあるようにも思われるでしょう。
spinobuddhistさまの頭の中では、世俗諦と勝義諦は相依性の関係にあると思っているかのようなご返答ですね。

まず、縁起=世俗諦 空=勝義諦 ではありません。

「空」に対比させるなら、龍樹は、「善悪」をもってきます。善悪の特徴を知り、次に空の特徴を知っていく、という順序です。「順序」が縁起でもあります。
世俗諦だけが縁起なのではありません。勝義諦にも当然縁起が機能します。なぜなら、
「言語活動によらずには、第一義を説くことはできない。第一義に到達しなくては、涅槃を獲得できない。(『中論』24.10)」と順序があるからです。

spinobuddhistさまの論法に従うと、いつまで経っても世俗諦と勝義諦の区別がつかないことになってしまわないでしょうか。勝義諦を知るためには世俗諦が知られねばならない、しかし、その世俗諦を知るためには勝義諦がわかっていないとならない、となると、一体どっちを先に知るのだ、となります。

縁起が基本にあり、それによって進んでいくのです。
「自性」を問題にする人々が出てくる、そうなると、次に「そうではない、無自性だろう」という考えが出てきます。両者そろったところで、両方否定が生ずるのです。

このため、「過時(時の過ぎたもの)」という論法の誤り、つまり、「先に言うべきものを後に述べ」たり、また、「後にいうべきものを先に言う」などの誤りを指摘されてしまうことになります。

「空=勝義諦」と見るから、誤るのです。これが、実在論的な物の見方そのものなのです。
先に言っても、後に言っても同じだろう、というのが「イコール(=)」です。

そうではないのです。
こうであれば、「空」の自性を、まだ、spinobuddhistさまは知らないのだ、ということもできるのです。この「自性」とある、そのことばにこだわってはなりません。「ほんとうの意味」くらいに取っていただけるとありがたいですね。

「自性」という言葉も、変化するのですし、「空」という言葉も変化するのです。私が語っている時、その場面では、成り立つ意味は、おそらく一つしかありません。それは、spinobuddhistさまが、受けとめた意味一つだけです。その意味を察知した瞬間、そこで、次の瞬間、「自性を認めないのが、仏教じゃなかったか」ということを思いついて、「無自性というのが、仏教ではないですか」などと、反論を思いついたりするのです。

この流れが縁起です。

私は、縁起=世俗諦、空=勝義諦とは言っていないのに、spinobuddhistさまが勝手に決めつけて解釈しているのです。だから、議論は噛み合わなくなるのです。「イコール」で結びつけようと思うこと自体が、すでに概念の世界にとらわれている証拠のようなものなのです。ここを抜け出すのは容易ではないのです。

> > そうなんですよね。だから、ブッダは「住処(すみか)」という言葉を使うのでしょ

> 「住処(すみか)」ですか。これはいいですね。もしかしたらこれがキーワードになるかもしれない。
> ちなみにすみかは梵語で何というのでしょうか?「空間」とは別の語源ですか?

「住処」と、私が訳している言葉には、たくさんの原語があります。
例えば、過去や未来や現在にとらわれている人は、「洞窟(グハ)」にすんでいると言われます。
また、「見解という住処」を持っている人は、「住処(ニヴェーサナ)」という言葉でいわれています。
また、サーリプッタやブッダのように、「空性の住処」によって、そこに住している場合は、「住処(ヴィハーラ)」という言葉になっています。ヴィハーラは、比丘たちのすむ「精舎」という意味です。「住処」とどれも訳せるのですが、それぞれ、出世魚のように、段階別に「住処」に相当する言葉を変えているのが、ブッダのことばの使い方です。比丘たちの「精舎」は、瞑想の境地に相当すると思います。

私は、そこに共通の要素「今住んでいるところ」という意味を認めて、全部「住処」と理解しているのです。
他にも、「家屋」という意味で「アガーラ」という言葉があります。これは、俗人が住んでいる家のことを指しています。で、出家の場合、「アナガーラ(非家、家なき者)」といわれたりします。

[11086] Re:[11084] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/13(Sat) 13:29   [返信]
エム先生。よろしくお願いします。

> > 『十二門論』で反論者が確か「自性が無ければ無自性も無い」といって帰謬論証を行なったのに対し、龍樹は「無自性は有る」ということを貫きましたね。
> > あれに少し違和感を感じていたのですが、あれは自立論証ですね。
>
> ああ、あれは、おそらくニヤーヤあたりの実在論者相手だからですね。かれらが順序を無視して、世俗諦を説いているのに第一義諦に飛んで非難したので、世俗諦の立場であることを知らしめようとして、「無自性(アスヴァバーヴァ)である」と順序立てているのだと思います。
>
そこなんですが、世俗諦と勝義諦を区別するのは、実はそれほど簡単ではないような気がするのです。
勝義諦を知らなければ世俗諦も知らないといわれますから、われわれはほとんど世俗諦すら知らないのが現実だと思うのです。
この点は先生の十二門論(二)の読解でもこれから問題にしていくつもりなんですが、簡単にいえば、
空=勝義諦、縁起=世俗諦という考えは駄目だろうということです。
しかしこの点については今日はこのくらいにしておきます。


> そうなんですよね。だから、ブッダは「住処(すみか)」という言葉を使うのでしょうね。
> 時間にも対応できるし、空間にも対応できます。
> そして、これは、修行者にとっては、瞑想の境地の名前にもなります。一時の仮の宿ではありますが、まあ、住処とも言えます。
> 実際にこの世にいる人は、住処を捨てることが推奨されるのは、ブッダの教えそのものと強く結びついています。出世間が、ブッダの教えですから。
> 無住処涅槃なんていうのも、おもしろいですよね。住処を持たないことを安楽の住処とする、ととれなくもないです。また、言い方を変えれば、無住処でない涅槃 というのは、ありえないだろう、とつっこむこともできますね。

「住処(すみか)」ですか。これはいいですね。もしかしたらこれがキーワードになるかもしれない。
ちなみにすみかは梵語で何というのでしょうか?「空間」とは別の語源ですか?

[11085] 無題 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/13(Sat) 10:23   [返信]
ちょっと訂正します。

> これは、わざわざ言う必要があります。どちらも名詞だからです。「アスヴァバーヴァ(自性ならざるもの、無自性)」というのは名詞形です。これで、有の立場に対抗して無の立場が語られることになります。認識の世界での話になりますので、心の領域に話が入ったということになります。

「有の立場」と「無の立場」というと、誤解されそうなので、「ある」の側面と「ない」の側面、ということにします。

「生ずる」のを「ある」とし、「滅する」のを「ない」とします。

これも、仮に名づけた仮説として見るとよいのだろうと思います。
 

[11084] Re:[11083] 仏陀の道の端で 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/13(Sat) 10:16   [返信]
spinobuddhistさま、早いですねぇ、お返事が。pocketさまなみだわ(笑)。

> この前動画を見ていたら「世界一美しい道路」ということで、空知辺りのまっすぐな道路沿いにエゾマツか何かが紅葉していてとても綺麗でした。

想像で見ているつもりになっています。ほんと綺麗ですね。見えてるような気がします。
昔、母の実家が北大の近くにあって、おじさんの自転車の後ろに乗って北大構内を散歩したりしていたのですが、当時は、車や自転車がほとんど通らなくて、ものすごく綺麗でした。建物も少なくて、芝生や森のようになった木々や牧場の様子が絵のようでしたが、今はすっかりなくなりました。
>
> 帰謬論証派が自立論証を否定する一派で、自立論証派が帰謬論証を否定する一派だとすると話は分かりやすいですが、
> 帰謬論証派が自立論証を否定する一派で、自立論証派が自立論証を否定しないが帰謬論証も否定しない一派だと考えれば、「どちらも使う」という先生の立場は自立論証派ということになるかとは思いますが。

相手の話に合わせて使うので、そうなるのです。自立論証派の立場を取って、そのどちらも使うのではなくて、相手の思考方法に合わせて語るので、そうなるのだと思います。
相手の納得する方法に従う、といった方が、早いのかな。

> ただ私もそうですが自分は何々派であると限定するのは嫌なので、どちらも使うというのであればどちらでもないとしておくのが良いかと思います。

そうですねぇ、そういう分け方にはこだわらない、ということですから、どちらでもない、というのがよいのかもしれませんね。

> ただ、先生が自立論証派ではないと自ら否定したのと同様、帰謬論証派でもないと理解します。
> 月称を称揚し相依性縁起を主張する学者は帰謬論証派に肩入れしますから。

相依性縁起とは、相依相関の関係によるものを言うのですよね。これは、相依性では合っても、「縁起(縁って起こること)」を無視しているところが見られるので、この説明は、龍樹の説くものではないと思っています。

龍樹になると、どうも、学者(?)は、おかしくなる人が多いなと思っています。書いてある通りに読まないように見えて仕方ありません。文字の通りに読む、というのがなかなかないです。
>
> 『十二門論』で反論者が確か「自性が無ければ無自性も無い」といって帰謬論証を行なったのに対し、龍樹は「無自性は有る」ということを貫きましたね。
> あれに少し違和感を感じていたのですが、あれは自立論証ですね。

ああ、あれは、おそらくニヤーヤあたりの実在論者相手だからですね。かれらが順序を無視して、世俗諦を説いているのに第一義諦に飛んで非難したので、世俗諦の立場であることを知らしめようとして、「無自性(アスヴァバーヴァ)である」と順序立てているのだと思います。

つまり、まず「スヴァバーヴァ(自性)」という言葉が出てくると、自然と、それが「あるのかないのか」の話に向かうので、「アスヴァバーヴァ(無自性)」という言葉が、誰かの口から出てきます。
例えば、ブッダが、世間で「アートマン(我)」という言葉が使われているので、「アナートマン(無我)」という言葉を出すようなものです。

これは、わざわざ言う必要があります。どちらも名詞だからです。「アスヴァバーヴァ(自性ならざるもの、無自性)」というのは名詞形です。これで、有の立場に対抗して無の立場が語られることになります。認識の世界での話になりますので、心の領域に話が入ったということになります。
 
そうすると、「自性」という言葉を縁として、「無自性」が起こる、という縁起が成り立ちます。ここを、ブッダも龍樹も語っているのです。相手が、「自性」を語るから、こちらは「無自性」(自性を否定する意味をもつだけ)で答えた、という展開です。

ところが、反論者は、ここで完全に「無」の立場と曲解したのかどうか、「自性もなく無自性もない」とつっこんで来たので、これを否定するところとなったのです。
有の立場・無の立場のいずれにもよらないのが、ブッダ・龍樹ですから、こうなります。

> もちろんpocket様がいうように部派は空が解脱を無にするものと気付いて、空を無我(無自性)の意味に置きかえたという場合、空を縁起(諸行無常)を説明する単なる概念におとしめることになると思います。
> これは確かに空の空間性を否定して、時間化するものです。
> これに対して空の空間性を最大限強調すると、唯識的な遍在性に行き着くでしょう。
> この無時間性を「永遠」と読んでも構わないと思います。
> 空を空間として時間性から自立させると、こうなってしまいます。

なるほど、そうですね。分かって語るなら、いろいろな言い方が可能ですが、そのことばによって、知らない人が惑わされるのが、ちょっと怖いですね。

> 龍樹は空を「来処無く、去処無い」ものとして説明しており、そもそも「処」(空間)ではありませんが、しかし部派が主張するように単に諸行無常の言い換えでもない。
> ここが非常に難しいところかと思います。

「諸行無常」 と 「一切皆空」 をつなぐものが、中道という見方であり、それも、縁起から導かれますね。ただ、それぞれ出てきたもの(ことば)を、固定化して自性をもたせてしまうと、「概念」が無数に生まれて、戯論は寂滅しません。概念化は、私たちの一つの癖のようになっています。

> 私は普段五蘊の空を観じていますが、あれは「空間」ではないと思っています。
> しかしそれではどのように説明すれば良いのか、なかなか言葉が見つかりません。
> ただこの空観は単なる無常観ではない、というのはわかっています

そうなんですよね。だから、ブッダは「住処(すみか)」という言葉を使うのでしょうね。
時間にも対応できるし、空間にも対応できます。
そして、これは、修行者にとっては、瞑想の境地の名前にもなります。一時の仮の宿ではありますが、まあ、住処とも言えます。
実際にこの世にいる人は、住処を捨てることが推奨されるのは、ブッダの教えそのものと強く結びついています。出世間が、ブッダの教えですから。
無住処涅槃なんていうのも、おもしろいですよね。住処を持たないことを安楽の住処とする、ととれなくもないです。また、言い方を変えれば、無住処でない涅槃 というのは、ありえないだろう、とつっこむこともできますね。

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