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[10468] Re:[10464] Confusion will be my epitaph    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/17(Fri) 11:08   [返信]

>  >  この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません

混乱を起こすには
混乱していない状況から  混乱 へ の  一歩を踏み出す
そのことが  わたしに混乱を起こす 、、、、

>  ほんとに、春間さまが思っているなら、かまいません。わたしが混乱しようと、かまわないでしょう。

かまわれていないと  決定しますか ?
どのような決定であろうと、 わたしは はそれに引きずられないから、
  かまいません

>  どうせ    混乱しているんだしね

混乱しているかどうかは
混乱していないところから 決定されることです

混乱にあるとき    それが 混乱かどうかは
混乱していて      決定できないが  
平気な顔で     「 (どうせ)混乱している 」 という
( 混乱なく 自らを見据えているつもりにある )


[10465] Re:[10464] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 16:38   [返信]

>  ヴィトゲンシュタインは、仮説を知っているところ、ブッダ論理を知っています。

知っている という意味を  どう知るかで
知っていることが変わるが
知っている範囲にあることは  姿(事実)を変えることはない

>  しかし、世界について、事実の集まりとしているところは、ブッダ論理ではありません。

全部打ち込むのは面倒だから 引用 C&Pですませます
         http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

1     世界とは、起きていることすべてである。
+ 1.1
1.1  世界は事実の全体であり,ものの全体ではない。
+ 1.2
1.2  世界は事実へ分解される。

1.11
1.11 世界は事実によって、そしてそれらが事実のすべてであることによって、規定されている。
1.12
1.12 なぜならば、事実の全体はなにが起きているかを規定し、そしてまた、なにが起きていないかをも規定するからである。
1.13
1.13 論理空間の中にある事実、それが世界である。


1.13 の 論理空間  は 意味のある語句です
   事実は 論理ではなく  論理は 真理です
   真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
   空間は真理によって埋め尽くされている
「空」を ひも解くと 真理(論理)が展開される

何が論理で どうあることが論理的か は
 必ずしも   論理的に実証されるわけではない

> イエスは、ブッダとは少し違います。かれは、神に目を向けていますが、ブッダは、民に目を向けています。似ているけど、やっぱり違うと思っています。

あなたの イエス は あなたの解釈にあるイエスです

わたしは イエス を 解釈しない
神を解釈することもない
( 神とは何を指すかは  アミダ に 訪ねなさい    訪れるところに 神はいつもオワス  )

> 阿弥陀仏は、ブッダだけど、また、釈迦牟尼仏もブッダだけど、イエスは、まだ、ブッダになっていないように見えますね。わたしは、そう思っています。

見たままに言うのが あなたの癖です
見たこと( 事実・モノ ) を   タターガタ としてみるとき
見る者 ( そのまま ありてあるまま )  が   タターガタ であると分かります
( そういうことを 「脚下照顧」 と 表わします )

> > 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
> > 偏  が 無いから 成り立つのです

> こういういい方にも慣れてきた感があります。

これは 言い方の問題ではなく
言い方 として 扱うことでもありません

般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します

慣れてはいけないことで
慣れ親しむことでもありません
般若 は パーラミッタ  彼岸にあります

> おっしゃる通りですが、仮説された偏は必要です。

あなたに必要があれば
世界に必要があります

どこにでも 「偏」 があるから
どこにでも 「中道」 を 論理として 見出せます
「偏」 が なければ 「遍照」 は 成り立たない

光は 光を 照らし出すことはない


[10464] Re:[10463] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/16(Thu) 14:24   [返信]
>
> > 「伝えたければ」、ではなくて、「何かをたずねているなら」です。
>
> 伝わらない  のは  伝える方の責任ですが
> 「 言い間違いは聞き手の粗相 」 という 言葉があります
> 聞き手でなければ 当然(?) 粗相 は ナイ !! (?)

わたしの粗相ということですね。
>
> 伝えているのに 内容が伴っていないとするのは
> 内容のないことを述べる わたしの 粗相

なるほど。了解。あなたの粗相。

> > それが 「 “傲慢” な 態度 」に見えるなら、すみません。
>
> とりあえず ここは 謝っていることが 起きている 文体ですが
> すぐに 次に
>
> > それにわたしの答えに反応ないですよね
>
> という 糾弾が おきます

ばれましたね。

> 何を言っているかは 聞く人の聞き取る能力によって 左右されます
> ウイトゲンシュタイン であっても 
>   自らの 言葉を聞き 聞き取るから
> “思い” (= 解釈 = 商量 ) を  超えていこうとするのです
>
> キリスト(ナザレのイエス)の言葉を ユダヤ教 の 聖職者の言葉と聞けば
> その 「即近」  の 「 仏法 」 に であうことは ムツカシイ
>
> > その用いられている言語は、まだ、主張する「論理」以前の論理になるので、そこは、実はブッダ論理なのです。そういうことを言おうとしていましたが、その点は、何も言われませんでした。
>
>     そういうことは あなたの講義に起きる 試験で 生徒に 訊ねなさい
>     あなたによって わたしに語られたことで、わたしは その中には入りません
>
> あなたが 名付け 規定するところの ブッダ論理  です
>
> ウイトゲンシュタイン  は たしかに ブッダの すぐそばにいますが
> 「 仏法非遥 心中即近 」  の 「即近」  ではありません
>
> 彼のころ (オクスフォードに英訳が起きるころ) から いわゆる キリスト教的 論理 のしがらみを
> 抜ける道を見出してきました

ヴィトゲンシュタインは、仮説を知っているところ、ブッダ論理を知っています。
しかし、世界について、事実の集まりとしているところは、ブッダ論理ではありません。


> ただし ナザレのイエス は 堅固なる 仏教を受けています
> キリスト教 新約聖書 からでも それは 読み取ることが可能です
>
> ナザレのイエス ( ≒ キリスト )は ブッダ(不図) です
> 十二使徒 は ブッダではありません
>
> この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません

ほんとに、春間さまが思っているなら、かまいません。わたしが混乱しようと、かまわないでしょう。
どうせ    混乱しているんだしね

> どうせ   こういう書き込みも あなたの 思考( 趣味嗜好 ) に沿って 読み取られます

それは、仕方ありません。
限定を受けているから、輪廻しています。

イエスは、ブッダとは少し違います。かれは、神に目を向けていますが、ブッダは、民に目を向けています。似ているけど、やっぱり違うと思っています。

阿弥陀仏は、ブッダだけど、また、釈迦牟尼仏もブッダだけど、イエスは、まだ、ブッダになっていないように見えますね。わたしは、そう思っています。


> どうせ  と置けば  、、、、、
>
> (  あなたは どうせ で済ますことができない性格だと わたしは見抜いています )

まあ、見抜かれていますね。
>
> 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
> 偏  が 無いから 成り立つのです

こういういい方にも慣れてきた感があります。
おっしゃる通りですが、仮説された偏は必要です。

[10463] Re:[10462] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 13:17   [返信]

> 「伝えたければ」、ではなくて、「何かをたずねているなら」です。

伝わらない  のは  伝える方の責任ですが
「 言い間違いは聞き手の粗相 」 という 言葉があります
聞き手でなければ 当然(?) 粗相 は ナイ !! (?)

伝えているのに 内容が伴っていないとするのは
内容のないことを述べる わたしの 粗相

これ以上は 仕組みの説明は 止めておきます
ここまでで分からぬようなら しばらくは 同じ状態を続けるのでしょうから 、、、、

> それが 「 “傲慢” な 態度 」に見えるなら、すみません。

とりあえず ここは 謝っていることが 起きている 文体ですが
すぐに 次に

> それにわたしの答えに反応ないですよね

という 糾弾が おきます
( 糾弾ではなく ただの指摘であるとしても 内容は同じです )


無いという反応を見て  ある 反応 を 求める
有る無いの 根幹にかかわる問題です
(  そこをずっと 問うています  )


> わたしが、まだ、自分でマシなことを言っていると思うところは、

少し(まだ) まし  ということは ありません(論理的に成り立ちません)

到着するまでは 未着です

( 梯子を降りる時に 最後の一歩を踏み外せば 落梯 します
   一歩なら 大した怪我にはならない ということは  五蘊に縛られた 考え=思い  です )
 
> 『論理哲学論考』の中の一節について、ヴィトゲンシュタインもまた、けっこうブッダ論理を使っているな、ということなのです。
> これは、西洋哲学の人々からは、かれらの提示する「論理学」以前の常識のように捉えられている「一種の論理」です。形式論理学だの西洋論理学だの演繹論理学だのという名前で説かれていることがらも、それを提示するためには言語を用いなければなりません。

何を言っているかは 聞く人の聞き取る能力によって 左右されます
ウイトゲンシュタイン であっても 
  自らの 言葉を聞き 聞き取るから
“思い” (= 解釈 = 商量 ) を  超えていこうとするのです

キリスト(ナザレのイエス)の言葉を ユダヤ教 の 聖職者の言葉と聞けば
その 「即近」  の 「 仏法 」 に であうことは ムツカシイ

> その用いられている言語は、まだ、主張する「論理」以前の論理になるので、そこは、実はブッダ論理なのです。そういうことを言おうとしていましたが、その点は、何も言われませんでした。

    そういうことは あなたの講義に起きる 試験で 生徒に 訊ねなさい

    わたしは 大谷・駒沢 の 学生ではなく
    あなたの(用いる) 教育制度  に おける 生徒 でもありません
    「 優秀なる生徒は 数少ないと言えども存在し 正しく思考する 」 ということは
    あなたによって わたしに語られたことで、わたしは その中には入りません

あなたが 名付け 規定するところの ブッダ論理  です

ウイトゲンシュタイン  は たしかに ブッダの すぐそばにいますが
「 仏法非遥 心中即近 」  の 「即近」  ではありません

彼のころ (オクスフォードに英訳が起きるころ) から いわゆる キリスト教的 論理 のしがらみを
抜ける道を見出してきました
ただし ナザレのイエス は 堅固なる 仏教を受けています
キリスト教 新約聖書 からでも それは 読み取ることが可能です

ナザレのイエス ( ≒ キリスト )は ブッダ(不図) です
十二使徒 は ブッダではありません

この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません
( あなたは 真剣に “わたし” と 敵対していないからです )

( あなたが 真剣であると言えば 木刀も イシ ヲ キリサキマス → 神の イシ です )
わたしが  「違う」 と言えば、 あなたに 「違う」 がおき わたしに 違う意味での 敵対が起き
ディベート が 起きています ( 龍樹は 論争せず ディベートもしない )

あなたの 「チガイ」 は わたしの 「ソウ」
( ソウ ソウ カンタンニ チガイ ヲ キテイ デキナイ )

真理を知るかどうかは 知る人にかかり
東西 にはかからず
自他 にも 関わりません ( 知るのは 知る人に起きることです )

関わるときには 自他が起きますが 自が無いから
 他  だけ が 起きています ( アタリキシャリキ 他力本願 )

どうせ   こういう書き込みも あなたの 思考( 趣味嗜好 ) に沿って 読み取られます

薫習とは しっかり  臭い(匂い)付いているのです  ( 良い悪い 美味い不味い は 縁起です )


どうせ  と置けば  、、、、、

(  あなたは どうせ で済ますことができない性格だと わたしは見抜いています )


> なかなか、わかりあえないということかなあ。。。

わかりあう  と いう言葉に  あなたは 自他を超えた 縁起を見ていると “思う”

縁起にある “分かり” は それが 自他にいずれにあっても
それぞれは “ 偏 ” に すぎません

中道は 偏があって成り立つ   のではなく
偏  が 無いから 成り立つのです

一つの思いを それぞれが 共に抱く(自他の二つに抱く)   のではなく
一つの思いが 一つに起きて 「平等」 が 起きている  のです

車 は 車輪ではなく 棒でもありません  が 車輪と棒を見ない者は 見るということに 欠陥 が あります

いくら見ることに欠陥があろうと  車を使って 人の  役立て  は 成り立つ

( 安住していては いけない  食わずに腹は 満たされない   クワバラクワバラ  )


[10462] Re:[10460] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/16(Thu) 10:59   [返信]
> 「歎異抄」の言葉 を受け止めなさい

ここは、春間さまの言いたいことですね。

> わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」
> (  わがこころに任せて、 善悪 成り立ち を 知るなり  )


わたしは、(  )の中のようには思わないです。
ただ、「わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人をを殺すこともあるべし」、と書いてある通りにそのまま思います。そうだなあと思っています。
縁起ということが説かれていると読んでいます。善悪は、そのような縁に出合った時には、ぶっ飛んでしまうなと思います。が、しかし、そうなった時に、やっぱり試されるのが(自分の)心だろうと思っています。


> > 何を考えればいいかわからないから、考えていないのです。
>
> 何言ってるのかわからないから 答えようがない
>
> という  あなたの 答えようが  立派な答えです
> 「 伝えたければ 伝わるように 伝えなさい 」 という  “傲慢” な 態度を見ます

「伝えたければ」、ではなくて、「何かをたずねているなら」です。
それが 「 “傲慢” な 態度 」に見えるなら、すみません。
何かたずねられていると思うから、考えようと思うけど、いったい何をたずねているのだろう、ということです。
なんの考えも浮かびません。「浮かべ」と命じているけど、むりやり浮かんだものを書いたら、また、何か言われるな、と思うだけで、さっぱりなんも出ません。

> 「 伝えたければ 伝わるように 伝えなさい 」 という  “傲慢” な 態度を見ます

という言葉に、あらためて、何かたずねているわけでもなかったのかな、とも思います。

それにわたしの答えに反応ないですよね。

わたしが、まだ、自分でマシなことを言っていると思うところは、

『論理哲学論考』の中の一節について、ヴィトゲンシュタインもまた、けっこうブッダ論理を使っているな、ということなのです。
これは、西洋哲学の人々からは、かれらの提示する「論理学」以前の常識のように捉えられている「一種の論理」です。形式論理学だの西洋論理学だの演繹論理学だのという名前で説かれていることがらも、それを提示するためには言語を用いなければなりません。

その用いられている言語は、まだ、主張する「論理」以前の論理になるので、そこは、実はブッダ論理なのです。そういうことを言おうとしていましたが、その点は、何も言われませんでした。

わたしが、言えそうなことは、ここですね。

> あなたの知る ディベート に 分類できてしまう
> ( それは わたしが ディベート という 言葉を使うからではあるが 、、、、 )

その通りですよ。 春間さまが、ディベートという言葉を使いましたっ、と言っとこう。
わたしは、仕方ないから、それに合わせただけです。なんで、ディベートなんていう言葉が、ここ「日本」で出てこなければならないのか、とわたしは思っていることを伝えます。

> わたしは あなたに語るけれども、
> わたしの語る言葉を 自らの事として
> 一番身近で 一番大きな声で 聴いています

どうして、ディベートという言葉を出したんだろう、って、春間さまは自分で思いませんか。わたしは、思っていますが、そのような気持ちが伝わりますか。

> わたしが聞いて わたしがある
> あなたが聞いて  わたしがある
> 聞きよう で  わたし は あるけれど
> わたし  が  わたしではなくなる ことはない
> あなたの聞く わたしが
> わたしそのモノ  だから
> わたしは あなたを通して わたしに接する ( 嫡嫡 と 血脈にある わたしに テキメン する )


なかなか、わかりあえないということかなあ。。。


>    この意味を あなたが あなたを離れて聞く時 あなたに 問が起きる

やっぱり、そういうことだな、って。
ひとりごと風ですが。

[10461] Re:[10459] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 10:45   [返信]

> > あなたは どの道を 歩んでいるかを 問うています  、、、、
> > 何故 問われなければならないか  を 問うているのです

どの道を歩んでいるかを
何故問われなければならないか

そこが 問い として 
起きて ある ということです

> ブッダになる道です。

あなたが言えば その道は 「 言われた通り 」 の道です

まごうことなく 言ったとおりの道にあるが
何を言っているかは 言ったものに起きる 解釈( “思い” )

思いは 思いによって 容易にその姿を変えるが
その姿は 思いによっては 変わりはしない


言われている  「道理」 の 道ではない  
ということに   気が付きますか

> それは、わたしが答えるためです。

だれでも 自らに 「足下」 という 
答を踏みしめ 一歩の上にあります
ただし
  「 脚下照顧 」 は 聖者に起きる

この答えは
ディベート の “試合” においても 得点化されません
的を外しているからです
( 答は いくら正当でも ダイアログ の中では 脈絡を見出せません )
( こういうことを 「 泥棒にも三分の理 」 とも いいます )

“ディベート” とは 「弁証法」  なのです
大会においては 得点化され 勝ち負け が 下されます

人生に起きる 人の生としての   “ディベート” とは 「弁証法」  なのです


[10460] Re:[10459] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 08:57   [返信]

「歎異抄」の言葉 を受け止めなさい

しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
(  業縁ありて害せるなり  )
(  設害 三界 一切有情 ) 
    理趣受持讀誦
      設害三界一切有情   不墮惡趣

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」
(  わがこころに任せて、 善悪 成り立ち を 知るなり  )

我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せ



ディベート  とは なんですか ?
あなたの知っている ディベート  を している私がいて
あなたが知っている ディベート  を  するつもりがない あなたがいる
( あなたの知らない ディベート  を している私がいて
    あなたがしる  ディベート  の 範疇に入る       )

あなたの知りようは わたしの語ることである

先に書き込んだことは  読まれているけれど、あなたの読み方に起きて
あなたの人生を組み立てる

自らが 何を成しているかは 唯円は 
   ***************
『   聖人の仰せには、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそ 』
   ***************
と 語りかける

これは わたしにも当てはまる から
あなたにも当てはまる と 知る ( その知ったことの根拠を私の身に見る )

> 何を考えればいいかわからないから、考えていないのです。

何言ってるのかわからないから 答えようがない

という  あなたの 答えようが  立派な答えです
「 伝えたければ 伝わるように 伝えなさい 」 という  “傲慢” な 態度を見ます

わからないことを 考えるから 分かるようになるのです
分かるように語られていること  など
すでにある 分かったこととの 引き合わせにすぎません

すでにあるものを すでにあるように “如実” に しる

これは あなたに対して起きる “ ディベート ” です

わたしに起きて、 あなたに起きるが
あなたに起きたこと  だけ  が
わたしに起きたこと
( ここに 二律背反が起き 「空」 が 起きていることは理解できますか ? )

わたしの言葉は 「矛」 であり わたしが「楯」 を たてても 突き破ってしまう
そういう事実を あなたに 知らせているのです


あなたにとっては 答えるまでもないことで
あなたの知る ディベート に 分類できてしまう
( それは わたしが ディベート という 言葉を使うからではあるが 、、、、 )


ブッダ の言葉も 人の慣用句で綴られています
その 慣用 を 唯識 では 薫習 と 呼びます


わたしは あなたに語るけれども、
わたしの語る言葉を 自らの事として
一番身近で 一番大きな声で 聴いています

「 自他不二 」 に ここで思い当たるなら
 「遍照混合」 の 意味に 思いが当たり
 対面して
テキテキ  を 知ります

わたしが聞いて わたしがある
あなたが聞いて  わたしがある
聞きよう で  わたし は あるけれど
わたし  が  わたしではなくなる ことはない
あなたの聞く わたしが
わたしそのモノ  だから
わたしは あなたを通して わたしに接する ( 嫡嫡 と 血脈にある わたしに テキメン する )


> >何故 問われなければならないか  を 問うているのです

   この聞きようは あなたの天然から 見て学び取った

>   それは、わたしが答えるためです。

   この意味を あなたが あなたを離れて聞く時 あなたに 問が起きる


[10459] Re:[10457] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/16(Thu) 02:20   [返信]
> 争点を 外さず ずらす  ということは
> ディベート における 大事なテクニックです

わたしとディベートをしているのですか。
わたしは、ディベートをするつもりはありません。

> 考えられたことを  “訊ねて” います
> あわさず 考えない  という 考えであると
> あなたの 上記文からは 読み取れます

何を考えればいいかわからないから、考えていないのです。


> たまたま 古城に続く道に 足を踏み入れて
> 古城に続く道を もう一度踏み固め 堅固なるものにしていく 、、、、、
>
> あなたは どの道を 歩んでいるかを 問うています  、、、、
>
ブッダになる道です。

> 何故 問われなければならないか  を 問うているのです

それは、わたしが答えるためです。

[10458] Re:[10457] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/15(Wed) 09:42   [返信]

> もう一度 読ませる意図を 読み取り
> 読み重ねる 、、、、

KINDLE に pdf で送り 出先でも読めるようにしました

読み重ね
読み重ねる 、、、、

[10457] Re:[10456] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/15(Wed) 08:49   [返信]

> > 「一」については、『大智度論』が語っています。
> > http://manikana.la.coocan.jp/prajna/prajna2.pdf

もう一度 読ませる意図を 読み取り
読み重ねる 、、、、

「大智度論」 は すでに読んで実践しているにもかかわらず 、、、、

> ここまで深いんだなあ

深浅  は 縁起です
深いを言う 浅い読み

>  と思って、龍樹に感心しています。

思い は 思いにすぎず 
容易に 思いの姿を変える
( 軽重 難易 は 縁起にすぎず )

感心  するには  引き当てる 自らの見解が必須です
龍樹に感心しているのではなく
感心できる 自らの根拠に “おもい” を 重きモノとする のみ

>  [10456]

わたしは 大学時代 ディベート を 実践していました
アメリカにおいて起きた技術ですから 英語 で 接しました
朝日EVNINNG NEWS の 後援で ディベート コンテスト があり
それに出場していたのです

争点を 外さず ずらす  ということは
ディベート における 大事なテクニックです

> ということが、どういうことを言いたいのかによって、それに合わせて、考えられることもあるでしょう。

考えられたことを  “訊ねて” います
あわさず 考えない  という 考えであると
あなたの 上記文からは 読み取れます

> 話し手が何を問題にしているのか、そこが問題です。

わたしが話し手で、(わたしも聞き手ではありますが)
あなたの聞き手 としての 聞き方を “尋ね”
わたしの(あなたが起こすわたしの)ありようを 決定します

わたし  というものは 存在せず
あなたにある あなたの解釈が わたしソノモノ です
その わたし  に  接したいと 望んで 書き込んでいます

わたしが何を問題としているかは
 わたしの問題ではなく
あなたの問題 で     あなたが 起こして
初めて起きる      わたしであり、わたしの問題です

いろいろ問題はあるから
その一つを取り上げて 答えてはいられない  という  “ 答 ” 

> 「一」については、『大智度論』が語っています。

龍樹 が どう語っているかは あなたが どう聞いたかで 決まり
それ以外の 語り口はありません

わたしが 語れば わたしの語り口が  あなたに起きる 、、、、


>> >   詳しいことは、他の提婆の
>> >   著作『四百論』や『廣百論』などの検討を待たねば、何も言えないと考えます。

龍樹の オリジナル など 存在しません
存在するとするなら
あなたの オリジナル = あなた が 存在しています

たまたま 古城に続く道に 足を踏み入れて
古城に続く道を もう一度踏み固め 堅固なるものにしていく 、、、、、

あなたは どの道を 歩んでいるかを 問うています  、、、、


何故 問われなければならないか  を 問うているのです



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