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[10506] Re:[10505]   出定後語    投稿者:管理人エム 投稿日:2017/12/07(Thu) 07:27   [返信]
> 釈迦牟尼と 「 平等 」 に 批判の矢面に立つ

「批判」って、入ってますね。釈迦牟尼を空と見て、この言葉を読む。


> “わたし”の言葉が 「空」 でなければ
> 何 に なりますか ?

「有」に見えます。
>
> 言葉 を 「空」  に するのは  わたし  ですか ?

そうです。

> どこかを 見出そうとするから 「 空 」 が 説かれます
> ここに 見出したから どこかにある  と したのではありませんか ?

「空」を見いだしたとは限りません。「わたし」を見いだしたかもしれません。



「空性」は、言葉で表せるものではありません。
縁起的に成り立っている語りの中に、示されてきます。


「縁起的に成り立っている語り」とは、どこかにコミュニケーションを含む語りです。
だから、問答などがあげられますが、ジャンルはそれだけではありません。
ブッダは、九分法をあげています。


また、「空」ということばも、あります。
「空」と語ったからと言って、「空性」を示せるとは限らないことは、多くの人の語りからわかります。



「無常」と「無上」は、まったく全然違います。

「無上」を知らないと、「空性」にはいけません。
「縁起」を知らないと、「無常」にはいけません。

道元流にいえば、この二つで、「眼横鼻直」という表現になって現れます。


真っ直ぐな鼻は、無常の匂いをかぎ分ける。仏教と非仏教の。
横にある眼は、虚空の広がりを見渡せる、道(パダ)を持たないブッダの。


[10505] Re:[10504]   出定後語    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/12/06(Wed) 05:24   [返信]

> >       あなたに対する批判は  釈迦牟尼に対する批判である
> > そうでなければ 何の文句 を 言うことか 、、、、

あなたは何ら  批判されるところにない
すべて 釈迦牟尼 の せいです

あなたが 文句をつける筋合いではない
ただし あなたが 「 釈迦牟尼 」 であると知って そうであるなら
釈迦牟尼と 「 平等 」 に 批判の矢面に立つ


> 以上を、要点と認めるなら、さらに、この中にあることばで、気になるところをあげるとすれば、

> > (  これが 「 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか? )」  に対する   オコタエ    です )
     これが 要点  です
> > 毒言 に 聞こえるのなら 毒言と聞く あなたがいる 、、、、
> というところでしょうか。

ドクゲン  が なぜ 毒 と 独 とになっているか 読み込みましたか ?

> その中で、さらに、しぼると、「批判」と「毒言」に集約されてきます。
> 消えないことばになっている。
> これら二つは、空ではない、ように見えます。

“わたし”の言葉が 「空」 でなければ
何 に なりますか ?

言葉 を 「空」  に するのは  わたし  ですか ?

> 思うところは、必ずあらわれてきます、どこかに。

どこでもない  いつも ここに住むから 「無住」 です
どこかを 見出そうとするから 「 空 」 が 説かれます
ここに 見出したから どこかにある  と したのではありませんか ?

> どこであっても、自他平等であれば、それを「空観」によって見るでしょう。

「 自他平等 」 でなければ  “ ソレ ”  を 見ますか ?  (  無住なるソレ  )
( 道場に戻って “ ソレ ” を 見直してみたらどうですか ? )

「 平等 」 でないところは 存在しますか ?

その存在場所は 存在していますか ?

「 空 」 という 名字は 自我を構築するときに 便利な言葉です

いみが 「 空 」 だから 、、、、


[10504] Re:[10503]   出定後語    投稿者:管理人エム 投稿日:2017/12/06(Wed) 02:21   [返信]
> 仏教者 を   批判しているのではなく
> 仏教者 だと  自認にある者  を  批判しているのです

>       あなたに対する批判は  釈迦牟尼に対する批判である
>
> そうでなければ 何の文句 を 言うことか 、、、、
>
> “独” はない 人々の為に   わたしは生きる  と  言い切るのなら
>        “わたし”の為に   説いてください 、、、、
>
> 毒言 に 聞こえるのなら 毒言と聞く あなたがいる 、、、、
>
> (  これが 「 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか? )」  に対する  オコタエ  です )

以上を、要点と認めるなら、さらに、この中にあることばで、気になるところをあげるとすれば、

> 仏教者 だと  自認にある者  を  批判しているのです

> 毒言 に 聞こえるのなら 毒言と聞く あなたがいる 、、、、

というところでしょうか。

その中で、さらに、しぼると、「批判」と「毒言」に集約されてきます。

消えないことばになっている。
これら二つは、空ではない、ように見えます。

思うところは、必ずあらわれてきます、どこかに。
どこであっても、自他平等であれば、それを「空観」によって見るでしょう。

[10503]   出定後語    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/12/05(Tue) 09:24   [返信]

大乗経 を 詳しく読み込んで 言語上の比較 を 確立している
 文化(比較)人類学  の 先駆けともいえる

「 出定笑語 」 は 平田篤胤 であるが
彼は 出定 のなんたるか は 知ってはいない
そもそも 「 定 」 が 「 ダイジョウ 」   に あるとも知らない
( ダイジョウ  とは  マハー ニッバーナ  です )

彼は 出定後語  を 探し出し 精読し 自らの解釈を 確立した
富永 仲基  は 大乗経  に ちゃんとあたり  説を 構成している
平田篤胤 は 富永 仲基 を 即用 するのみである
( 勘違いしてはいけない 引用だけなら 引用もとは 否定されない )
それを ヨウして  仏教批判を成しているが
批判されるのは それを 読む者であると 知らなければならない
   ( 引用の 要 は 用 という 用い方、用い先に対すること にある )
仏教者 を   批判しているのではなく
仏教者 だと  自認にある者  を  批判しているのです
( あなた = 仏教を解する者  に 批判の矛先はむいている )
     けれど 仏 には 向けようがない  

あなたの解釈 が 釈迦牟尼( のありよう )そのもの ですから
      あなたに対する批判は  釈迦牟尼に対する批判である

そうでなければ 何の文句 を 言うことか 、、、、

笑われているのは  あなたという ドクシャ  で あなたの 「 ドク 」 です

“独” はない 人々の為に   わたしは生きる  と  言い切るのなら
       “わたし”の為に   説いてください 、、、、

毒言 に 聞こえるのなら 毒言と聞く あなたがいる 、、、、

自分事に出来ないモノは
  他人ごとにして 真義を 他人の世界で 扱う
(  これが 「 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか? )」  に対する  オコタエ  です )


[10502] Re:[10501]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:管理人エム 投稿日:2017/12/03(Sun) 11:20   [返信]

> > 「わたし」「わたしのもの」を分類項目にして、四つに分けたブッダの法も、同じように
> > おかしいのは おかしい解釈にすぎないことになるなあ、と。
>
> そうならない  ということを  論理的に示すために 「縁起の法」 が 起こされる
>
> 「縁起」 でさえ 解釈で 起きる


お! うん、そうですね。

[10501] Re:[10500]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/12/03(Sun) 09:14   [返信]

> > おかしいのは おかしい解釈  に すぎません
> このことばどおりだとするならば、

言葉は 解釈によって 聞き取られる

> 「わたし」「わたしのもの」を分類項目にして、四つに分けたブッダの法も、同じように
> おかしいのは おかしい解釈にすぎないことになるなあ、と。

そうならない  ということを  論理的に示すために 「縁起の法」 が 起こされる

「縁起」 でさえ 解釈で 起きる

> この分類を、説いたのか、説かなかったのか。

あなたが 大乗に あれば (ブッダは) 今に説いて 今に生きている

死んでるのと変わらない面があれば  その面は 死んでいるのと 変わらない

> ブッダの非凡さが光る  かれは、無上士(アヌッタラ)

無上  でも  無常 でも どっちでもよい
有情 に 起きる   「生」 は 「 平等 」

だから 「 設害 三界 一切  有情 」 即得 「 無上 “正等” 菩提 」

設害 は 三界一切 と  有情 とに かかります
( 有情 は 三界に縛られない 、、、、 )




> > > やっぱ哲学がおかしいんじゃねと。

> 仏教がなかったら、インドの哲学も、これほど進んではいなかったと思うな。

細かい指摘に なるとするはずですが 
仏教 によって インド哲学 は 成り立っています

仏教以前(釈迦牟尼以前) の ブッダ  は この際考慮しませんが
釈迦牟尼後 の
  釈迦牟尼以前の 哲学に対する
  考察は 釈迦牟尼(が説いて後に起きる) 後  の ことです

本地垂迹  は ココを しっかり踏まえて 起きています

> ヒンドゥー教の哲学の中にはアートマン(我)がしっかり残っているから、どうしても、こうなる部分をもってしまう。

他所を見ているつもりでも
見ている自分(自我) は
 しっかりした 「洲」
  に   立っているかどうかを     見落としている場合もある

> でも、教育だと思うなあ。

その一言 が 教育  です


[10500] Re:[10498]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:管理人エム 投稿日:2017/12/03(Sun) 08:38   [返信]

> おかしいのは おかしい解釈  に すぎません

このことばどおりだとするならば、

「わたし」「わたしのもの」を分類項目にして、四つに分けたブッダの法も、同じように

おかしいのは おかしい解釈にすぎないことになるなあ、と。


この分類を、説いたのか、説かなかったのか。

ブッダの非凡さが光る  かれは、無上士(アヌッタラ)

[10499] Re:[10498]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:管理人エム 投稿日:2017/12/03(Sun) 06:32   [返信]
> > やっぱ哲学がおかしいんじゃねと。

仏教がなかったら、インドの哲学も、これほど進んではいなかったと思うな。
ヒンドゥー教の哲学の中にはアートマン(我)がしっかり残っているから、どうしても、こうなる部分をもってしまう。

でも、教育だと思うなあ。
仏教でもヒンドゥー教でも、哲学があるところは、それなりの世界を作るけど、哲学を知らない人たちは、いろいろ思い惑うことになるんじゃないかと。。

カースト制度は、ブッダの「ヴァーセッタ経」(『スッタニパータ』第三章9)で、乗りこえて!


> おかしいのは おかしい解釈  に すぎません
>
> 管理人エム 様 が 西洋論理・キリスト教  と 分類するのと 変わりません

有の哲学にもとづいているんです。
キリスト教は、その中に、含まれているわけではありません。

基本的には、アリストテレスの論理学を基盤とするところに、西洋論理があるので、そこを指しています。

現代論理学は、わずかの部分をブッダ論理によっていますが、自覚していないので、「西洋論理」の枠に入れています。

[10498] Re:[10497]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/30(Thu) 20:48   [返信]

> > 「我」ということばが、どうしてこんなにも必要なのか。

> その点、インド哲学にまったく興味のない蛙は楽です。

楽 である  という時  楽を見出すが
それは 「 楽 」 かどうかは 楽には分からない
分からないけれど、 楽であればよい 、、、、、     かな ?

> わたしはわたし、ぼくはぼく。
> 昨日のぼくに感謝して明日のぼくのためにがんばろう。

口は重宝なモノ

> なんか哲学はすばらしいのかもしれないけど、
> 実際の社会が微妙なところって尊敬できないのですよね。
> カーストも克服できないし、女性に対する名誉殺人も。
> やっぱ哲学がおかしいんじゃねと。

おかしい モノ  でも
哲学の 冠をかぶせることはできます
“ 哲学 ” は 名字

おかしいのは おかしい解釈  に すぎません

管理人エム 様 が 西洋論理・キリスト教  と 分類するのと 変わりません

論理に 西 東 は ありません
火の出ずる(出流)ところが 東  で 
没するところが 西 です

天竺は 西にある  
ズーット 真直ぐ行くと  東にまでたどり着く

あなたの理解が あなたの哲学
あなたの理解が あなたにある キリスト教

ひとそれぞれ  ということが成り立つには
それぞれを 対置する 「中道」 になければ
 ヘンナハナシ  にすぎません


[10497] Re:[10495]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/11/30(Thu) 19:36   [返信]
横レス

> 行き詰まります。 息詰まります。
> 「我」ということばが、どうしてこんなにも必要なのか。

その点、インド哲学にまったく興味のない蛙は楽です。

わたしはわたし、ぼくはぼく。
昨日のぼくに感謝して明日のぼくのためにがんばろう。

なんか哲学はすばらしいのかもしれないけど、
実際の社会が微妙なところって尊敬できないのですよね。
カーストも克服できないし、女性に対する名誉殺人も。
やっぱ哲学がおかしいんじゃねと。

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