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[10456] Re:[10455] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/15(Wed) 04:01   [返信]

> 「一」については、『大智度論』が語っています。
>
> http://manikana.la.coocan.jp/prajna/prajna2.pdf


久しぶりに読んでみて、「一」については核心に触れていると実感しました。

ヴァイシェーシカに似ている『論理哲学論考』、ということを下で述べたのですが、その点でも、『大智度論』の議論は示唆を与えてくれると思います。


ここまで深いんだなあ、と思って、龍樹に感心しています。

[10455] Re:[10454] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/15(Wed) 03:36   [返信]
>
> 1+1 は 1+1 です
>
> 1+1 を 2 とするとき
> 1+1 は 2 です
>
> 一つのまるい饅頭と
> 一つのまるい饅頭を 合わせると
> 一つのまるい饅頭が 一つづつ 合わせられています
>
> 二つの 一つの饅頭が 一つになっています
>
> この事って、 「ブッダの論理 」 では 
> どうあらわされますか ?

> 二つの 一つの饅頭が 一つになっています

ということが、どういうことを言いたいのかによって、それに合わせて、考えられることもあるでしょう。

話し手が何を問題にしているのか、そこが問題です。

また、特に何かを意図しているのでなければ、
「一」については、『大智度論』が語っています。

http://manikana.la.coocan.jp/prajna/prajna2.pdf

[10454] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/14(Tue) 14:27   [返信]

1+1 は 1+1 です

1+1 を 2 とするとき
1+1 は 2 です

一つのまるい饅頭と
一つのまるい饅頭を 合わせると
一つのまるい饅頭が 一つづつ 合わせられています

二つの 一つの饅頭が 一つになっています

この事って、 「ブッダの論理 」 では 
どうあらわされますか ?

[10452] Re:[10451] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/14(Tue) 10:08   [返信]
> 「 ブッダの論理 」 と どう関連しますか ?

『論理哲学論考』は、そもそも、世界に対する見方が、ブッダ論理の働く世界とは異なっているように思われますが、しかし、いかなる立場であれ対話するのが「ブッダ論理」ですから、縁って起こったところで対話できるでしょう。

>
> 4.024
>
> 命題を理解するとは、それが真であるとすれば起きることはなにかを知ることである。
> (それゆえ、実際に真かどうかを知らなくとも、命題を理解することができる。)
> その構成要素が理解されれば、命題は理解される。

この文章を与えられて、何か言いなさい、といわれるなら、
「真であるとすれば」の「真」の意味が理解できれば、「起きることはなにかを知ることである」も理解できるだろうと思います。
ヴィトゲンシュタインも、空を使っていますよね。
語りは、ブッダ論理を用いているのね。

たとえば
「雪は冷たくて白くて手におくと溶けていく」

といわれると、雪を知らない人も、この文(命題)を、それなりに理解することができるでしょう。

構成要素「雪」「冷たい」「白い」「手」「溶ける」などが、わかれば、ふうん、そうなんだ、と知ることができます。


やがて、ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』から『哲学探究』へと移行していきますね。
初期のこの作品は、インド哲学のヴァイシェーシカを思わせるところがありますが、それを否定するかのように哲学探究へと入っていきます。

ヴィトゲンシュタインの作品をはじめて見たとき、インド哲学の世界が非常に進んだ哲学の探究をしていることを知りました。
ようやく西洋哲学は、ここまで来たんだなと思ったものです。口には決して出さなかったけれど、やっぱり今でもそんな気がしています。

> http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

[10451] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/14(Tue) 09:46   [返信]
「 ブッダの論理 」 と どう関連しますか ?

4.024

命題を理解するとは、それが真であるとすれば起きることはなにかを知ることである。
(それゆえ、実際に真かどうかを知らなくとも、命題を理解することができる。)
その構成要素が理解されれば、命題は理解される。

参考 
論理哲学論考
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

[10450] アップロードしました。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/04(Sat) 11:06   [返信]
「心にしみる原始仏典」
三つアップしました。

「縁」(『サンユッタ・ニカーヤ』12.20)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/paccaya.html

「縁起」(『ウダーナ』1.1-1.3) 
http://manikana.la.coocan.jp/canon/bodhi.html

「慈経」(『スッタ・ニパータ』1.8)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/metta.html

[10449] Re:[10448]   チュウドウ ハンパ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/29(Sun) 09:38   [返信]

> 自他に分かれたときには、言葉が必要になります。言葉を使うか、あるいは、体験を言葉化させるか。

言葉が 生まれるときには
神が生まれ出る

神 という言葉が 不適当とするなら 「自己」 が 起きる
「自己」 が 起きるには 「他己」 を 縁起とする

自他に分かれるという認識は  自に起きる

自が起きる時に 「縁起」 の 理を見失うと
他が起こしていると 知ることはない

自他に分かれる前に 「自我」 が 起きだし 顔を出し  口を尖らしている 、、、、

自他に分かれる前に 起きるのは 何か 何故か ?

************
> > 彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
> > わたしには 照合 は 不要で
> > 彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
> > ( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
> > ( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
> >     悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )
************
これは ポルコ愚ロッソ と なのる 輩が わたしに 体験を言語化してのべよ と 言った時のことです

>  そんなことは全く言っていません。どうして、そんなところをはずすのか、わかりません。

どうして あなたが こう外すかを わたしは 探りましたが
ここでは 手の内を 広げません( 注意深く 精進すれば 広げないから 広げている  と  わかる )

>  わたしが、悟りに 段界をおいているなら、それは、サマーディのことかもしれない、とは言えますが。

この 文言 は 不明です


>  わたしが悟っているのか、春間さまさまが悟っているのか、どちらでもかまいません。
>  どうやって何を知ったのか、    どのように何を見たのか、     そして、その中に何があるのかを探るのは、            わたしの仕事になります。

あなたと わたしが 未分 であれば  “わたし”の仕事です
> 自他に分かれたときには、言葉が必要になります。
わかれているという前提で 他人ごとを 量ります
未分であれば 自分事


未分という  見ず  の なかでも
 渇きがあるから ミズ を 指摘するわけではない



[10448] Re:[10447]   チュウドウ ハンパ    投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/29(Sun) 08:07   [返信]

> なぜ 禅 が 「不立文字」 というかは
> みずから に 分からせる必要がないからです 、、、、、
> ( 自他が 未分である時には 分からせる必要がない )

自他に分かれたときには、言葉が必要になります。言葉を使うか、あるいは、体験を言葉化させるか。
>
> 言葉から 体験を探ろうとする ポルコ愚ロッソ は 体験に囚われている

「体験に囚われている」というのが、言葉ですね。そこを得たのは、体験なのか言葉なのか。どちらでもない中道と言えるのかもしれませんね。
>
> 彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
> わたしには 照合 は 不要で
> 彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
> ( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
> ( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
>     悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )

そんなことは全く言っていません。どうして、そんなところをはずすのか、わかりません。
わたしが、悟りに 段界をおいているなら、それは、サマーディのことかもしれない、とは言えますが。

わたしが悟っているのか、春間さまさまが悟っているのか、どちらでもかまいません。
そこは、そんなに興味があるわけではなく、いったい何を「悟った(知った)」のかに興味があるのです。いや、どんな風に「悟ったのか」に興味がある、といってもいいかもしれません。

「悟った」というから、こだわることになるなら、「知ったのか」でもいいのです。
「見たのか、知ったのか」と、ブッダはたずねています。そこを、ただ問題にしているのです。知ったのなら、どうやって何を知ったのか、また、見たのなら、どのように何を見たのか、そして、その中に何があるのかを探るのは、わたしの仕事になります。

そういうことは、春間さまも、そうしています。

> (  「平等」 にあって 「平等」 を 知ることがない ことを
>     白隠は 「 たとへば “見ず” の 中に居て
>           カツ を 叫ぶがごとくなり     」  と語る  )

「平等」は、ここでは使えないと思います。そもそも、みることにかんして、春間さまが、春間さまとわたしを分けています。わたしは、そういう意味では、春間さまとわたしを分けていないですが、春間さまの語る言葉を聞いています。言葉とそれをとらえる働きとは、分けています。考えることについては、分けているといってもいいと思います。

どっちにしても、分けて見たり、分けて考えたりしているのです。そんなにすぐ「平等」の境地はやってこないでしょう。

見ることについては、考えて確認がいるし、考えることについては、見て「確信」しなくてはなりません。

> 「洲 に ある」 ということが いつも   ミギ の 左にある
> ( ミギ  は いつも 未義 であるが あなたは 未疑 にある )

「 あなたは 未疑 にある 」というのは、見たのでしょうか、知ったのでしょうか?

[10447]   チュウドウ ハンパ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/28(Sat) 08:53   [返信]

体験の言語化から
自らの体験との照合を為す
体験自体は言語化できないが
(それを)語るときには 言語で語る

照合は 誰でも 他の存在を認める時に 行う作業であり
その作業には 「平等性」 が あり

釈迦牟尼と あなたと わたしとの 間に 差異はないが
照合する 体験には 違いがある
( たとえ 用いられる 言葉が同じでも その体験という “いきざま” は 違う )

そういう意味で 違う体験の主体は 置かれ得て、自他 は 区別しうる
ただし   シャカ無二 と 同じ体験をする時
不一  であり  無二   である

同じであるとする  体験の主体があるときには  無二 ではない
不一  でもなく   同一  であると 迷誤し    顛倒 に     迷い込む


すべての人は 「平等」 にあり  同一 の 世界 を 共有するから 自他に区別が起き得ず
自他不二 と される

( 「自」  というものは 囲いをつくって 区別するときに起きる )


行ったり来たり(右往左往) とは
  世間 と 出世間  とをいう

行ったり来たりする自分を 見失うことを 自我を見失うという
行ったり来たりの 自分を見据える “洲にある”  とき
そこに 自我(顛倒・夢想)を 遠離する

だれでも 行ったり来たりしているが  いつも居るところが 行ったところであるから
判断の 自我という“巣” から 抜け出せない
( 判断・揀択  が  自我 です )
自我 にあるときは  いつも 「我」 は 正しい判断にある
( その正しさのありよう   が  「平等」 にあるから
   顛倒 が 菩提  となり   「煩悩即菩提」 と 言い表わされる )



即座に分かるが 分かることを 自らの体験の範疇に入れて 入りきるかどうかで
正(否) の 確信を持つ
( 俺は正しい  から  あいつも正しい  おれが正しいから あいつは正しくない )
何故  どちらも “否” であるかは
「 非 」 の 理 を 知らなければ 「空」 に 羽ばたけない

知るということは “ 対面する相手に対して 知らしめる ” ということ です
対面する相手が 自分=我 であれば 「 自業自得 」 です

なぜ 禅 が 「不立文字」 というかは
みずから に 分からせる必要がないからです 、、、、、
( 自他が 未分である時には 分からせる必要がない )

言葉から 体験を探ろうとする ポルコ愚ロッソ は 体験に囚われている

彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
わたしには 照合 は 不要で
彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
    悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )

(  「平等」 にあって 「平等」 を 知ることがない ことを
    白隠は 「 たとへば “見ず” の 中に居て
          カツ を 叫ぶがごとくなり     」  と語る  )

悟っている 「 勝 」 を 劣っている  ミズ という 「見」 と 同一に見る 、、、、

行ったり来たり  が  どこから 判断できるかを 知るとき
いつも 行ったところにいる   という意味 を 知る

「洲 に ある」 ということが いつも   ミギ の 左にある
( ミギ  は いつも 未義 であるが あなたは 未疑 にある )

さらには
 「 中道 」 は 右の 左にあり
           右の 更なる  右にある


[10445] Re:[10444] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/20(Fri) 14:38   [返信]

> 触があるとき 受がある
> 触がないとき 受がない

触があるとき 受がある
けれども 

> と言って、済ませたいところです。

受がない と 済ませたい
ない と 同じくらいに 済ます
( 毫釐の差は 毫釐にすぎない )

> むしろ、仏教の「触」という方に興味があります。これは、とても不思議な言葉だと思っています。「触れる」「触れられる」という、普通のことばとも異なって用いられます。

蝕がないから 済ましていられる

> ブッダが、さかんにサーリプッタに向かって、「触」を意識せよと教えているように見えます。


サンガ での 話 です

ここでは 基準が( 対話者が 低いレヴェルに )  据えられる


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