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[11823] Re:[11821] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/25(Mon) 08:16   [返信]

「 人 」 という言葉 については
残されている 「 仏典 」 において
注目した “ 言(コト) ” が あります
    「 人 」 とは 「 イモータル 」 
ということです
    ダンマパダ において 最初に それに 気が付いたのです

「 人の生を受るは難く、
   やがて死すべきものの、今、生命あるはありがたし、
    正法を耳にするは難く、
     諸仏の世に出ずるも、ありがたし  」

“ モータル ”  の 否定 です

後に、 このことが 人が 一度だけである  「 永遠 」 の 「 生 」 を得る
     ということ  が  人に対して、    約束されている 
ということ に       “ 繋がる ”     と 理解できるのです

約束 というモノは  保証があって 約束となり、
約束の保証 は 「 直心 」 で 出来ています

『 維摩経 』 に 「 直心是道場 」 と 説かれる “ 文言 ” が あります

約束 は 「 授記 」 されて 約束 と なります
( 死すべき )人 から ( 死すべき )人  への  約束  ではなく
「 真理 = 仏 」 からの  予記 であり 約束 です

その約束  は ( 輪廻 する )人の生 において 為されることではなく
「 一度だけの 永遠の生 」  において 為されることです

「輪廻」 する時は、 約束は 変わりの生まで 延期され、 また 延期されます
( = 破られます )

“ 人 ” が あなたの 「 安楽 」  を “ 人の言葉 ” で 保証しようと
その人は 保証しなければならない 人の生 を 保証が出来るまで
繰り返さなければ ならないのです  → 保証できない

「 仏 」 および 「 菩薩 」 だけに 、 言葉は 「 金言 」  であり
言い替えると 「 金言 」 は  “   「 菩薩 」 の モノ  ”   なのです
    →   菩薩の “為”        のモノ

常不軽菩薩 は   自らの為に、自らへの言葉   に対して “も” 手を合わせる
( 最後に 岸に上がることが 最上 であると知る  法蔵 )

だれでも “ 一つに繋がった道 ” にあるから、
遠近 を  「 縁起 」  だとと知るから  多少を  「 縁起 」  と知るから
少し、 遠く に 離れて   手を合わせる 常不軽菩薩 


イモータル の 否定接頭 の文字は 
 「 縁起 」 を 外れることに因って、 否定されることとなる


「 人 」 は モータル  であることが ある  からこそ、
        イモータル なのです



[11821] Re:[11820] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/25(Mon) 06:42   [返信]
> > 正直に言えば、ショーシャンクさまが春間さまのことを、少しそう思っているかもしれませんね。
>  少し ではなく 馬鹿にしています
>
> 教えてほしいような 口ぶりをしながら、 教えようと 待ち構えます


そうですね。春間さまのことをよく分からないからでしょう。
仏教の問答のやり方ではなく、ソクラテスの語りを語っています。
豊富な知識を駆使して、それに対抗しようとしているようです。

常識を越えようと、一歩か二歩、踏み込むことができるなら、何か進展しそうですが…


> > 「白っぽい黒をハイという」なんて、あたりまえのことをわざわざいうのは、どうかしていると思っている人に対して、
> > なんと「黒っぽい黒をハイという」という言い方を選択して、「黒っぽい黒をハイという」のはプライドのなせるワザだとつきつけても、納得されないかもしれません。
>
> 聞く人に 納得させるということは
> 言う人に 納得させるということをも  含みます
> 聞く人 は あなたであり、 ショーシャンク様でもあります
> ( この文章を 読む人もそうです )
>
> > 「黒っぽい黒」なら、「黒でいいじゃないか、なんでハイというんだ」と“当然”思うからでしょう。
>
>    そう思う人 が いることを 前提に 語れないと  思いますか ?
>
> それほどの 独りよがりに世界に生きているわけではありませんが、
> どこに生きているかを だれでも 規定できる

ほとんどの人は、思惟が自由でないのです。
「黒っぽい黒」という言い方に、何かを感じる人が反応します。
言ってみるのは、思惟の自由です。
>
> >   人は「後ろ指を指されない」ように生きたり、「蔑まれない」ように頑張ったりするのです。
>
> そうすると、
> わたしは “ 人 ” ではないことになる

まあね(笑)
いいじゃないですか、“ 人 ” でなくても。
親鸞だって、そうだったんだし、龍樹もそうだし、ブッダもそうだから。

>
> 自分で、 自力で 泳ぎ渡れる  と 思う人が、 溺れる人です
> 泳ぎ渡れないかもしれない = 渡れない  と 思うから
> 渡れる( 渡らしてくれる )方法を 探します → 「 易行 」 です  

龍樹の言うとおりだと、思います。
陸路は難道だけど、水路は容易な道。
すいすい行ける。

それを知っている龍樹は、愚者でもある。

[11820] Re:[11818] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/23(Sat) 20:55   [返信]

> その通りです。
> こう答えると、進展しますか。

進展しません
その通り  で 止ります
それで良しですが、
応える言葉でよいのではなく
行ないが 回転( 「 輪廻 」 ) を 止めます

> 他者があり、自分がある、と思っているときは、回転させられるのです。
> 「他者があり、自分がある」と思わないと、回転させられない道もあります。
> たとえば、「人」にいかず、「法」に行くとか。

「 法 」 であれば、 止滅しています

> > そうではない と いう 見方をしている  と  知ります
> ショーシャンクさまの見方に合わせているところがありますが、わたしが、その見方をしています。

そのようなあなたの 見解 がある  と  わたしは聞いています
あなたにとっては、 わたしの聞き方が わたしの見解となります

> >   わたしが、「 黒 にも 白がある 」 と 述べていることを
> >   回転させると、 「 黒は黒だ 」 と なります

>   ショーシャンクさまは、「黒は黒だ」と、そのように言っているように、わたしには聞こえますが、
>   それから、どうしたらよいのか、ということが、ちょっと見えて来ないように思います。

> > 黒 を 黒 と言うのは 言葉の約束ですが

黒 を 黒 ということは
黒に対して 誤りではありませんが
黒 を 黒くはないと見る 見方  からでは   
誤っているとみても、 誤りであるとは言えません

黒 という 概念上の規定は 「 空 」  です

> > 白っぽい黒は  ハイ  です
> > 黒っぽい黒も  ハイ  です

> そこを「空ずる」のが仏道だと思いますが、その時、「白っぽい黒をハイという」方にいくか「黒っぽい黒をハイという」方にいくか、道が分かれてきます。

それが、二つの見方であれば
一つの見方しかできない者には  道は 分かれます
しかし、 それが  「 二つの観察 」 ではなく
一つ と 一つ の 観察(見解) であれば、
一つの道に、 一つの見方 しか起きていません

スッタニパータ の 「 二種の観察 」 は  ひとつのき道に起きることです

> 「黒っぽい黒をハイという」方を選んで語るなら、どうなるのだろう、とちょっと思っています。
> ショーシャンクさまも、実際は揺れているでしょう。

上に既述したことは、 その 回答 になりますが  
解答  は 受け入れられて 解答  となります

> 浄土門は、ほんとうに空の極致であるように、わたしには思われます。
> 浄土門の「いわんや悪人においてをや」を知るためには、プライドのたぐいを全部捨てて、「愚者」とならねば行けない境地(「境地かよ?」と返ってきそう)でもあります。
> 誰も行きたくないと思っている道です。世間から、「ほんとにあいつは馬鹿でどうしようもないヤツだ」と蔑まれることをむしろ求めていくからです。

愚禿 と 言おうと、 受け入れられなければ
愚禿 と ならない

> 正直に言えば、ショーシャンクさまが春間さまのことを、少しそう思っているかもしれませんね。
 少し ではなく 馬鹿にしています

教えてほしいような 口ぶりをしながら、 教えようと 待ち構えます
  
> 「白っぽい黒をハイという」なんて、あたりまえのことをわざわざいうのは、どうかしていると思っている人に対して、
> なんと「黒っぽい黒をハイという」という言い方を選択して、「黒っぽい黒をハイという」のはプライドのなせるワザだとつきつけても、納得されないかもしれません。

聞く人に 納得させるということは
言う人に 納得させるということをも  含みます
聞く人 は あなたであり、 ショーシャンク様でもあります
( この文章を 読む人もそうです )

> 「黒っぽい黒」なら、「黒でいいじゃないか、なんでハイというんだ」と“当然”思うからでしょう。

   そう思う人 が いることを 前提に 語れないと  思いますか ?

それほどの 独りよがりに世界に生きているわけではありませんが、
どこに生きているかを だれでも 規定できる

> その「“当然”」を、色即是空と空ずることを示すのが、「黒っぽい黒をハイという<人>」の道です。
> 誰もが馬鹿じゃないの、と本気で思った瞬間に、その<人>は、親鸞の説く“愚者”の資格を得るのだ、ということを、表出しているのが「いわんや悪人においてをや」だと思うからです。
> ある意味、親鸞の説く浄土門を語るときにすら、プライドを放せないとは、プライドとは何と強固なものだろうと、いうこともできます。
>
> 仏教ではあまり言われませんが、西洋哲学の方では必然的にでてくる「アイロニー(皮肉)」は、プライドから得られるお土産みたいなものだと思います。
> 「自嘲」というのは、まだいいのです。自分は自分のことをよく分かっているのだ、として、まだプライドを保てるからです。
> しかし、他人から嘲られるということは、身を切るより痛いのです。プライドとは、それほど強固なのです。だから
>   人は「後ろ指を指されない」ように生きたり、「蔑まれない」ように頑張ったりするのです。

そうすると、
わたしは “ 人 ” ではないことになる

> そういう生き方全部を捨てると、浄土門に入れる、と、親鸞は言っているのだと思っています。
> そして、本気で、それを求めなさい、って言ってますね。
> そうしたら、阿弥陀さまは応えてくださる、「愚者の中の愚者、この、親鸞ひとりのために阿弥陀さまはいるんだ」と確信できる道が開ける。
> 阿弥陀さまは、どんな人でも救ってくださる。助けのいらない善人でも救ってくださるそうだ。

自分で、 自力で 泳ぎ渡れる  と 思う人が、 溺れる人です
泳ぎ渡れないかもしれない = 渡れない  と 思うから
渡れる( 渡らしてくれる )方法を 探します → 「 易行 」 です  

> 善人ですら往生できるという、それなら、どうして悪人が往生できないことがあろうか。

善人であること( 為に ) は 悪人ではない ということを 選び続けなければなりません 

難儀な事 = 難行  です



探し、求める  ということは 
帰依する・ナムする  ということとは 少し 趣が違いますが
大雑把に生きる 渡し には 区別がつけにくい


[11818] Re:[11815] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/23(Sat) 10:32   [返信]
> 回転させ(られ)なければならない
> 回転させられてしまう   のは、 誰でしょうか ?
>
> あなたも 回転するから、
> >  回転しています 
> と 記述します

その通りです。
こう答えると、進展しますか。
他者があり、自分がある、と思っているときは、回転させられるのです。
「他者があり、自分がある」と思わないと、回転させられない道もあります。
たとえば、「人」にいかず、「法」に行くとか。


> そうではない と いう 見方をしている  と  知ります

ショーシャンクさまの見方に合わせているところがありますが、わたしが、その見方をしています。


> わたしが、「 黒 にも 白がある 」 と 述べていることを
> 回転させると、 「 黒は黒だ 」 と なります

ショーシャンクさまは、「黒は黒だ」と、そのように言っているように、わたしには聞こえますが、
それから、どうしたらよいのか、ということが、ちょっと見えて来ないように思います。

> 黒 を 黒 と言うのは 言葉の約束ですが
> 白っぽい黒は  ハイ  です
> 黒っぽい黒も  ハイ  です

そこを「空ずる」のが仏道だと思いますが、その時、「白っぽい黒をハイという」方にいくか「黒っぽい黒をハイという」方にいくか、道が分かれてきます。

「黒っぽい黒をハイという」方を選んで語るなら、どうなるのだろう、とちょっと思っています。
ショーシャンクさまも、実際は揺れているでしょう。

浄土門は、ほんとうに空の極致であるように、わたしには思われます。
浄土門の「いわんや悪人においてをや」を知るためには、プライドのたぐいを全部捨てて、「愚者」とならねば行けない境地(「境地かよ?」と返ってきそう)でもあります。
誰も行きたくないと思っている道です。世間から、「ほんとにあいつは馬鹿でどうしようもないヤツだ」と蔑まれることをむしろ求めていくからです。

正直に言えば、ショーシャンクさまが春間さまのことを、少しそう思っているかもしれませんね。

「白っぽい黒をハイという」なんて、あたりまえのことをわざわざいうのは、どうかしていると思っている人に対して、
なんと「黒っぽい黒をハイという」という言い方を選択して、「黒っぽい黒をハイという」のはプライドのなせるワザだとつきつけても、納得されないかもしれません。

「黒っぽい黒」なら、「黒でいいじゃないか、なんでハイというんだ」と“当然”思うからでしょう。

その「“当然”」を、色即是空と空ずることを示すのが、「黒っぽい黒をハイという<人>」の道です。
誰もが馬鹿じゃないの、と本気で思った瞬間に、その<人>は、親鸞の説く“愚者”の資格を得るのだ、ということを、表出しているのが「いわんや悪人においてをや」だと思うからです。


ある意味、親鸞の説く浄土門を語るときにすら、プライドを放せないとは、プライドとは何と強固なものだろうと、いうこともできます。

仏教ではあまり言われませんが、西洋哲学の方では必然的にでてくる「アイロニー(皮肉)」は、プライドから得られるお土産みたいなものだと思います。
「自嘲」というのは、まだいいのです。自分は自分のことをよく分かっているのだ、として、まだプライドを保てるからです。


しかし、他人から嘲られるということは、身を切るより痛いのです。プライドとは、それほど強固なのです。だから、人は「後ろ指を指されない」ように生きたり、「蔑まれない」ように頑張ったりするのです。


そういう生き方全部を捨てると、浄土門に入れる、と、親鸞は言っているのだと思っています。
そして、本気で、それを求めなさい、って言ってますね。
そうしたら、阿弥陀さまは応えてくださる、「愚者の中の愚者、この、親鸞ひとりのために阿弥陀さまはいるんだ」と確信できる道が開ける。
阿弥陀さまは、どんな人でも救ってくださる。助けのいらない善人でも救ってくださるそうだ。

善人ですら往生できるという、それなら、どうして悪人が往生できないことがあろうか。

[11817] Re:[11816]  投稿禁止   投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/23(Sat) 08:44   [返信]
>
> 道場に 投稿しようとしたら
> 投稿禁止 の 表示が 出ていた
>
> これも 投稿禁止になるかもしれない

なぜでしょう?
もう一度やって見てください。

管理人も、分からない。。

[11816]  投稿禁止   投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/23(Sat) 07:50   [返信]

道場に 投稿しようとしたら
投稿禁止 の 表示が 出ていた

これも 投稿禁止になるかもしれない


[11815] Re:[11814] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/22(Fri) 18:47   [返信]

> > わたしの言うことは、 通じています
> > そうかもしれない  という  通じ方です
> > が
> > そうである と そうではない  とが  通じていますから
> > あなたは 通じてはいない  を  トリ
> > わたしは 通じている     を  トル

>  「通じている」「通じていない」で、回転しています。

回転 させている(!)  のは
誰でしょうか
( あなたは、 その因を わたしの手に握らせる )

回転させ(られ)なければならない
回転させられてしまう   のは、 誰でしょうか ?

> おそらくは、ショーシャンクさまの疑問もその辺にあるのでしょう。

回転させ(られ)るのは、
回転する と 知らぬからです

あなたも 回転するから、
>  回転しています 
と 記述します

> 一方では、春間さまの言いたいことも、その通りに読めば「それなりに」分かります。
> それを「そうかもしれない」というのですが、

そうではない と いう 見方をしている  と  知ります

> 問題は、これが延々と虚しく繰り返されることです。

むなしく繰り返すこと  が 選択されているから
虚しいことに成るのです

> 『方便心論』の中で重要な言葉「言失」があります。
> 「繰り返すこと」は「過失(ドーシャ)」なのです。

あなたに於いて、 繰り返されるのです

> みんな、そこで迷うのです。

迷うことの 因に 「過失(ドーシャ)」 があるのです

> 仏教を知るなら、
> 繰り返しに陥らないように、話を進めることが出来るはずなのです。

言っている意味は、
「 ならないように 語れ 」 と 聞こえます

わたしは、 黒 ではなく  白 だと言っているのです
それを回転させると
白くはない 黒だ  と なります

わたしが、「 黒 にも 白がある 」 と 述べていることを
回転させると、 「 黒は黒だ 」 と なります

黒 を 黒 と言うのは 言葉の約束ですが
白っぽい黒は  ハイ  です
黒っぽい黒も  ハイ  です

胚 は 育つとき 双葉( 二つの言の葉 ) に 分かれます
 
> 空海は、いいました。
    あなたは聞きました
> 「言うまじきを之言えらん失、智人、断りたまえまくのみ」と。

あなたが 智人 だと言っているのです


「 繰り返している から 繰り返さないように語れ 」
と 
智人、断りたまえまく


> なぜ、空海は、こう言ったのでしょう。

聞くこと の 大事を伝えるためです

> そして、なお、言いたいことを語ったのでしょう。

大事なことは 一つですが、 それが マハー だからです

> それは、「繰り返し」ではなかったからだと、私は思います。
> 全く誰も説かないことであったから、ここをあえて口に出したのだと思います。
> それによって、仏教は進展し、人々は迷いから脱していったのだと思います。
> 龍樹も、空海と同じようにしています。

わたしは オウム のように 繰り返すだけです

> それを、私は見ています。

そのように 見ることを 「 見取 」 と 呼びます


[11814] Re:[11813] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/22(Fri) 09:47   [返信]
> > >  わたしの言っていることが 通じてはいない
> > >   正しく とか 正しくなく   とかでもない。
> >   まあ、そうかもしれません。
> >   私の言っていることも通じているようには思えないので、同じことでしょう。
>
> わたしの言うことは、 通じています
> そうかもしれない  という  通じ方です
> が
> そうである と そうではない  とが  通じていますから
> あなたは 通じてはいない  を  トリ
> わたしは 通じている     を  トル

「通じている」「通じていない」で、回転しています。
おそらくは、ショーシャンクさまの疑問もその辺にあるのでしょう。

一方では、春間さまの言いたいことも、その通りに読めば「それなりに」分かります。
それを「そうかもしれない」というのですが、

問題は、これが延々と虚しく繰り返されることです。

『方便心論』の中で重要な言葉「言失」があります。
「繰り返すこと」は「過失(ドーシャ)」なのです。

みんな、そこで迷うのです。
仏教を知るなら、
繰り返しに陥らないように、話を進めることが出来るはずなのです。

空海は、いいました。

「言うまじきを之言えらん失、智人、断りたまえまくのみ」と。


なぜ、空海は、こう言ったのでしょう。
そして、なお、言いたいことを語ったのでしょう。

それは、「繰り返し」ではなかったからだと、私は思います。
全く誰も説かないことであったから、ここをあえて口に出したのだと思います。

それによって、仏教は進展し、人々は迷いから脱していったのだと思います。
龍樹も、空海と同じようにしています。

それを、私は見ています。


[11813] Re:[11812] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/22(Fri) 09:24   [返信]

コタエ テ もらおうと書き込みをするわけですが

断定に 対して 起きるところの、断定 が 欲しい
   “ のでもあり  ”
応え が 欲しい のです

どう応えるか には 色々 あります

わたしが断定するように、断定を持ってして 応える
記述せずとも、 思う事  によって 無言で 応える

思う事  が 起きれば、 記述 は 必ずしも必要ではない

それ(記述)を 要求しても、 不要なことでもない

> >  わたしの言っていることが 通じてはいない
> >   正しく とか 正しくなく   とかでもない。
>   まあ、そうかもしれません。
>   私の言っていることも通じているようには思えないので、同じことでしょう。

わたしの言うことは、 通じています
そうかもしれない  という  通じ方です

そうである と そうではない  とが  通じていますから
あなたは 通じてはいない  を  トリ
わたしは 通じている     を  トル

どちらも “ 不味いモノ ” を 食しているのなら
どっちを トロウ と そこに差異はない
   ( ? )
一緒 で 差異はありませんか ?


> > 取り敢えずは、 「識」 が 立てば、 正しいのです
> > しかし  「 識 」  だから、
> > 「 無明 」 に 起きている
> > ゆえに、
> > 正しくないことを(  「 識 」 を )
> > 起こし直す
>    無明に起きているのかどうか、と、
>    それを春間さまが判断することは出来ません。

判断 の 正否 は  「 智人 理(ことわり)めく のみ 」
>  「智人」というのは、相手のことですね。

対面する者 を 相手 とするなら、
相手 の 一人  です
   ( 一人いる時には、 二人 と 知る → 「 一人居て喜ばは二人と思ふべし 」  )
二人いて 悲しみが起きれば、 ミタリ( ニタリ ) と 喜びが起きる

> ただ、自分の言いたいことが相手に伝わっているのかどうか、ということは言えますが。

言うことはできますが、
言うことは、 伝わり方で 決まる
( あなたが聞くことが、 わたしの言っていること )    
    
       ミタリ  と 微笑む ( 二個二個 ということです )

> 相手に任せる部分は、相手に任せなくてはならないでしょう。
> 無明に起きていると、春間さまが判断しても、

相手に任せなくてはならない と 思われていることを
「 智人 」 は 「 断りたまえまく 」

わたしは、 ( 対面する ミタリの一人 の)相手 ではなく( 智人 ではなく)
あなた の 規定するところの 相手  です

> それを訂正するには
> 「智人は断りたまえまくのみ」として、語らなければならない
> と、空海は教えていると思うのです。

そうではない  ということを  わたしは、 空海を引きながら、
今、述べています

> 私は、空海から、そのように受けとったのです。

“ そう受け取った という 受け取り方 ” を  あなたが 「揀択」 している

それは 語句としては “ そう受け取った” と 表記されます

わたしは  “美味いモノ”  を 食べずに、 “不味いモノ” を 食とする

あなたは ここに於いては、
「  “美味いモノ” を 食してはいませんか  」  と

訊ねる 、、、、


[11812] Re:[11811] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/22(Fri) 08:08   [返信]

> わたしの言っていることが 通じてはいない
> 正しく とか 正しくなく   とかでもない。

まあ、そうかもしれません。
私の言っていることも通じているようには思えないので、同じことでしょう。


> 取り敢えずは、 「識」 が 立てば、 正しいのです
> しかし  「 識 」  だから、
> 「 無明 」 に 起きている
> ゆえに、
> 正しくないことを(  「 識 」 を )
> 起こし直す


無明に起きているのかどうか、と、
それを春間さまが判断することは出来ません。

ただ、自分の言いたいことが相手に伝わっているのかどうか、ということは言えますが。

「智人は断りたまえまくのみ」と、空海は述べています。
「智人」というのは、相手のことですね。

相手に任せる部分は、相手に任せなくてはならないでしょう。
無明に起きていると、春間さまが判断しても、
それを訂正するには

「智人は断りたまえまくのみ」として、語らなければならない

と、空海は教えていると思うのです。


私は、空海から、そのように受けとったのです。

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