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[10831] Re:[10828] 無我とアートマン 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/04(Sat) 10:14   [返信]
宝珠愚者さま おはようございます。

それでは、早速参ります。

> 1.無我というのは元々、「アートマンは無い」ということではなかった。
>  本来は「それら(五蘊)はアートマンではない」という非我だったのであり、
>  アートマンの有無についてはブッダは沈黙する無記の態度だった、などともいわれています。
>  現在、一般に信じられているような“アートマンは無い”という意味の無我を説くようになったのは部派仏教に拠るものである、と。
>  先生もこのようなお考えを著書で述べられていたものと思います。
>  ところでこのような見解というのは、現在では仏教学の「定説」だといえるものなのですか? 
>  もしくは、“ほぼ統一的見解”にあるということになるのでしょうか?

どうでしょうね。私の考えですが、“統一的見解”というのは、ないのではないかと思います。
なぜなら、学者というものは、それぞれ自分の研究を大事にしますから、多くの人が賛成する学説でも、自分がそうだと思わなければ「そうだ」といわないからです。
さらに、学問の性格上、定説(?)は必ず疑われます。

非我・無我論争も、だいぶ手垢がついてきましたですね。

わたし自身は、もともと、この「非我・無我論争」そのもの自体、どこかにゆがみのある考え方だと思っています。「〜でない」「〜がない」という、この違いが、このアナートマン(アナッタン)というブッダの教えの核心だとは思いません。

思いませんが、皆、概説書などでこの意見を知って、このことについてお尋ねになるので、それに合わせてお答えするように、結果的にはなってしまっています。ですから、一見「定説」化しているように見えるのかな、と思います。

お答えになっているでしょうか。シンプルにいうならば、このような見解は定説ではない、と私は見ている、ということになります。


>
> 2.仏教の一切法ではアートマンが説かれることはないものとされていますが、
>  大乗の仏性や如来蔵思想へと発展する起因ともなったといえる『パーリ増支部1-6』の
>  “自性清浄心” (心性本浄説) は「無為法」であって一切法には抵触しない。

うーむ、ご質問が、うまくつかめません。「増支部」1.6について、考えればよいのですか。それとも、“自性清浄心”について、メインに考えるのでしょうか。

「増支部」ですと、チッタ(心)は、アートマンではないです。
さらに、“自性清浄心”が、「無為法」であるというのは、どこに書いてありますでしょうか。

>  つまり、“自性清浄心”はアートマンと同義か、もしくは非常に近い意味合いのものとしてみることはできるのでしょうか?

この発想そのものが、何かブッダの教えとは違うことを考えていらっしゃるような感じですね。逆に、、お尋ねしたいのですが、「心」とあるのに、どうして、あえて「アートマン(自己)」だと思うのですか?

>  また同じく、その他でも仏典中で説かれている修行者が“求めるべき真実の自己”についての教えについては如何でしょうか?
>  事例として、 
>   『婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ。』(Vin.Maha^vagga.?T,13.p.23)。
>   『自己こそ自己の主である。』(Dhp.160,380)。

最初の「自己を尋ね求めよ」は、これは、30人の若者に語ったことばで、わたしたちが普通に使う「自分」(1)という意味に受け取れます。聞く人は、およそそのように取ることでしょう。

『ダンマパダ』は、続きがあって、「他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」とあります。
他者と比較して出てくる相対的な「自分」(2)というくらいの意味ですね。ととのえるべきは「自己」ですから、自分で自分を律していくことを述べていると思います。

>   『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.?T,3-5)

「わたしが語る」といってもよいのは、「言語表現というだけのものとして」そう語ってよい、ということで、「世間における言い方(名称)」(3)というだけのものですね。阿羅漢なので、当然そうなるかと思います。

>   『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.?T,p.149 G)

この訳は、誰の訳でしょう。わたしの読みでは、ちょっと違います。atimaJJati(軽蔑する、無視する)とありますが、語源的にとらえる方が善いのではないでしょうか。ati-(超えて、過度に)maJJati(思う)

『アングッタラ・ニカーヤ』3.40の最後の詩の部分ですね。

「世の中に、悪い行いをしている人が隠れることはありません。
 人よ、あなたの自己は知っています、真実であれ、偽りであれ。
証人よ(sakkhi)、あなたは、実に、善いことについては、自己を過大に思いこみます(atimaJJasi)。」
自己の中に悪があるならば、あなたは、自己を隠します」

けっこう微妙な訳になりますね。「自己」と出てきますが、文脈をよく考えてみなければなりませんね。
「あなたの自己は知っている」とあって、「自分自身」というくらいの意味でしょうか。
嘘をついても、真実を語っても、自分自身はそのことを知っている、というところだろうと思います。

そういう「自分」が語られていて、それを「証人よ」と呼んでいます。善いことをすれば過大に思い、悪いことは隠す、そういう「あなた」を、あなたの「自己」は知っている、というようにとらえられるかと思います。

ただ、ここで、「あなた」と「あなたの自己」が分かれていると見ると、ブッダの言うところを見落とすように思います。
あなたの「自己」は、本当に何をなしたのかを知っている、というのは、まさしく「自分自身」の行いであるからで、善いことと悪いことを行いうる「自己」と見なければなりませんから、「自己」を「本来清らか」とか見るような見方には立てないです。

人が、その人を内省していくとき、「自分」という言い方をして、自己を探究していく(=反省していく)ということだろうと思います。


> 3.先生の見解では、仏教の目指す究極の境地であるニルヴァーナ(涅槃)と、
>  ヒンドゥーにおける輪廻からの解脱や梵我一如の境地は、結局のところは同一のゴールだということになりますか?

いろいろ検討してみていますが、同一のゴールにはなりません。

(1)(2)(3)の「自己」は、それぞれ「自己」と用いられていても、文脈の中で意味が変わっていくのです。そこの変化をとらえていかねば、ブッダの教えにはなりませんが、梵我一如の場合、ヒンドゥー教の哲学思想の場合、文脈がすべてということはありません。文脈を無視しても、成り立つために、あらゆる世界現象と、たとえば、梵我一如なら梵我一如の思想とは、切り離されてしまうのです。

いわゆる形而上と形而下とは、別々のものとして語られていき、両者を結びつけるための別の理論的なものが必要になります。
仏教は、何を語っても、わたしたちの「この世界」のことです。その上で、涅槃を語れるところが違っています。生死即涅槃といわれます。

>  それとも、意味合い的には近いものがあってもこれらは別々のまったく異なる境地ですか?

意味合い的には近いものがあっても、これらは別々のまったく異なる境地です。そう思います。

「自己」ということを、これだけ多様に語って、しかも、一貫してブッダの教えにある、と人々を納得させる思想を、他には知りません。

[10830] Re:   [10825]  に 寄せて (7/22 日記)   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/04(Sat) 06:37   [返信]

  戯言 に タワケゴト で 塗り重ねる 、、、、   

さらに ウガツ
( ワタシ の )
迂闊に 対して 穿つ

> >  あなたは 「 永遠 」  「 平等 」 を 
> >  その場所において 正しく感じられますか ?
>   それが正しいかどうかは、わからないけど、

“それ” は 逸れていても
 それで (も) “それ” を 正しく示している

>   その場所において

“その場所” は そこにはなく、 “ ここ ” に あるべき場所を見出している
( ここ は 飛躍を厭わず言えば ) 
“そこ” と “ここ” とが 「平等」 に あり、 「永遠」 に あるから
同じ場所にあると “正しく” 言い得 
曖昧さを残そうと、
言及が 可能となる
(しかし こう 穿たない限り どう しても 混迷 を 抜け出すことは適わない)

> 「感じるもの」はたしかにあります。

“ (感じる)モノ ” である “限り” に
たしかにある と 言うことは できるが
“我すでに無き” という “ 限りなし = 平等一味 ”  に於いては
  ( 寂滅の中に於いて )
その確かさは あなたが 囲い込む “アルタ” に 過ぎない

> 「永遠」か「平等」かも、あまり意識しませんが、そこをめざしていることはわかります。

“歩み” ・ “営み”  というモノは 動いているように感じるだけで
いつも足下にしか起きていない
人 は 動くことがないから 「永遠」 に 足を踏み入れている
踏み込んでいるから  牟尼は 「 永遠 」 を 知る

知らないからといって ( 牟尼ではないから といって )
   ( も )
誰もが イッショ に “同じ” として 存在している
( 存在していると言って も 実在 ・ モノ  ではない )
(  “ない” と 言って も
   「言っていることは 確かにあるではないか」  という指摘には
   その確かさ  を もってして は
   答えることは 出来ても   無理  →  理は矛盾する      )

> 「永遠」というより、時がないところで、考えている。
> 「平等」というより、区別がないところで、思っている。

時 がなく
区別 が なければ  “順序” は ない

順に綴ろうと 綴り終って 一処 に 存在が起こされる
その存在が起きて、 順に 対する言明が 起きると言おうと
起こし終わって 先の存在と共に その言明は 一処に 一緒に起きている

これが 起こす限り、 無限という 「 永遠 」 に 起きだしてくる
( だから 無我 であり  非我 なのです )
だから 一時( 人の時 )は 永遠に 存在が見出され得る
( すでに人の生を受けている  と   知ることがなければ
  見出されている  ということ を   知ることはない    )

あなたが  そこに於いて 起こさない限り
先の( わたし に 属すと アナッタン に テンドウされる )言及 は 起きていない
     チャッタ !  アナッタン にではなく 貴女に だった !

> “生産性”と言った議員がいたけれど、だいたい、そういうものは、神が約束してくれる。
> 「生めよ、増やせよ、地に満てよ」

> ここにも「永遠」や「平等」はある

あるけれど、 あり とはされるけれど
それを知る者も 知った者を知る者も
知らない者には 知らない者に属する権威によって
 ( 知った者の )存在 の 場所  を 与えられていない

( 与えていると言ったところで それは 名称に属するしかない )

> 「 虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん 」
> こういう“生産性”を、求めるものは少ない。

> ここに「永遠」や「平等」は尽きている

そういうことは 「 理 」 で表す
   ( 表され得 指し示される )
「 理 」       ではないこと

「 理 」 とは 聖者によって のみ 顕わされ
牟尼 は その 「理」 を 手中にしている
( こう述べても  わたしの手中に 「理」 はないから 、、、、  )
( 理解 の 対象とは 成らぬが 「 信 」 は 何処にあるかは 示されうる )


[10829] Re:[10828] 無我とアートマン 投稿者:pocket 投稿日:2018/08/04(Sat) 00:19   [返信]
宝珠愚者さんはアートマンを認めています。
神智学か何かを信仰しているんだったかな。為念。

[10828] 無我とアートマン 投稿者:宝珠愚者 投稿日:2018/08/03(Fri) 18:55   [返信]
仏教の“無我の教え”に関して、
簡単に幾つか質問したいことがあります。
どうか宜しくお願い致します。

1.無我というのは元々、「アートマンは無い」ということではなかった。
 本来は「それら(五蘊)はアートマンではない」という非我だったのであり、
 アートマンの有無についてはブッダは沈黙する無記の態度だった、などともいわれています。
 現在、一般に信じられているような“アートマンは無い”という意味の無我を説くようになったのは部派仏教に拠るものである、と。
 先生もこのようなお考えを著書で述べられていたものと思います。
 ところでこのような見解というのは、現在では仏教学の「定説」だといえるものなのですか? 
 もしくは、“ほぼ統一的見解”にあるということになるのでしょうか?

2.仏教の一切法ではアートマンが説かれることはないものとされていますが、
 大乗の仏性や如来蔵思想へと発展する起因ともなったといえる『パーリ増支部1-6』の
 “自性清浄心” (心性本浄説) は「無為法」であって一切法には抵触しない。
 つまり、“自性清浄心”はアートマンと同義か、もしくは非常に近い意味合いのものとしてみることはできるのでしょうか?
 また同じく、その他でも仏典中で説かれている修行者が“求めるべき真実の自己”についての教えについては如何でしょうか?
 事例として、 
  『婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ。』(Vin.Maha^vagga.?T,13.p.23)。
  『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.?T,3-5)
  『自己こそ自己の主である。』(Dhp.160,380)。
  『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.?T,p.149 G)
 等々..

3.先生の見解では、仏教の目指す究極の境地であるニルヴァーナ(涅槃)と、
 ヒンドゥーにおける輪廻からの解脱や梵我一如の境地は、結局のところは同一のゴールだということになりますか?
 それとも、意味合い的には近いものがあってもこれらは別々のまったく異なる境地ですか?

以上.

[10827]    行          投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/03(Fri) 09:31   [返信]

  生産されて その仕組みと共にあるモノ 

その仕組みと 
モノを生む 仕組みと共に、生産されたモノ とを
「 行 」 と 名付ける

個の構成要素を知る者は
「無明」という「行」を生む 「 無明 」 を 生産しない
「行」 を 生産することもないから 「 カルマ ・ ゴウ 」 に ない

「意」 というモノは (例外を作ることなく) 「無明」 に起きている

無為の 「行」  は 梵行 とも 呼ばれる

意を量ると 梵 は 姿を消す 、、、、


[10826] Re:[10825]   7/22 日記に寄せて   非我 と 無我   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/03(Fri) 07:23   [返信]
> あなたは 「 永遠 」  「 平等 」 を 
> その場所において 正しく感じられますか ?


それが正しいかどうかは、わからないけど、その場所において

「感じるもの」はたしかにあります。

「永遠」か「平等」かも、あまり意識しませんが、そこをめざしていることはわかります。


「永遠」というより、時がないところで、考えている。
「平等」というより、区別がないところで、思っている。


“生産性”と言った議員がいたけれど、だいたい、そういうものは、神が約束してくれる。
「生めよ、増やせよ、地に満てよ」

ここにも「永遠」や「平等」はある


「 虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん 」
こういう“生産性”を、求めるものは少ない。

ここに「永遠」や「平等」は尽きている

[10825]   7/22 日記に寄せて   非我 と 無我   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/08/02(Thu) 12:19   [返信]

あなたは 世俗を見つめる
わたしは
世俗に於いて 見出される対象です


805
  人々 は「 わが もの で ある」 と 執 著し た 物 の ため に悲しむ。( 自己 の) 所有 し て いる もの は 常住 では ない からで ある。 この世 の もの は ただ 変 滅する もの で ある、 と 見 て、 在家 に とどまっ て い ては なら ない。

806
  人 が「 これ は わが もの で ある」 と 考える 物、 それ は( その 人 の) 死 によって 失わ れる。 われ に従う 人は、 賢明 に この 理 を 知っ て、 わが もの という

             中村 元. ブッダのことば−スッタニパータ 岩波書店. Kindle 版.

変 滅するモノ こそ  我がモノ  である時に
我がモノ は 変 滅しつつ そこに(モノとして)ある

思惟・思想 が モノ ではない理由はありますか ?

( しからば 触れるということは どこにおいて 触れられた と 識に上がりますか ? )

権威 が  その人
       そのもの   で ある場
                死 によって 失わ れる
       その 「死」   とは 何か ?

識 に 上がる場所においてのみ  「死」 は 存在します
翻って
あなたは 「 永遠 」  「 平等 」 を 
その場所において 正しく感じられますか ?

正しい  正しくない は  何処( イズ コ )において 成立していますか ?

イズ ル   “ところ” において    ヒ ガ ノボル

ヒ と ガ とが 起きるところで     イズ ル


わたしは  あなたが知るところ に あっての
   “賢明”  ではないから
あなたには 
( あなたの用いいる )賢明なる 理を通して は
  受け入れてもらうことは出来ない

だからと言って
わたしが 間違っているとは ( わたしの理において ) 
わたしから 言うことは出来ない

言ったところで( 言えたとしても )
  それは 間違っているから
わたしが正しいことを 補強するのみ


このような仕組みを知る者は
間違っているところでも
正しいことを語り得る



[10824] Re:[10823] サティヤーグラハ 投稿者:o 投稿日:2018/08/02(Thu) 09:09   [返信]
エム先生、ありがとうございます。


> わたしも、同感です。よくインド哲学の思想的なものを調べて、適切に検討しているように思いました。

 ですよね。

> https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/231263
> 「ガーンディーの身体とチャウリー・チャウラーの暴動 --第一次非協力運動停止の背後にあった性欲統制の失敗--」
>
> この論文を、ざっと読んでみたのですが、『ヨーガ・スートラ』1.2の「チッタ・ヴリッティ・ニロー(心の波の止滅である)」というのを、アヒンサーにあてて、ガンディーが説明している手紙の引用があったりして、なるほどなぁ、と思いました。

 私もそういうかんじでとても納得しました。いままでのガンディー解釈は学校の感想文みたいなかんじで、答えの方向が近代的模範解答に近いものを目指すみたいで、ちょっと読むと結論が見えてしまって、何度もいいますが。


> たしかに、おっしゃる通りだろうと思いますが、viryaを、精液とするか精力とするか、というのは、何となく紙一重みたいな感じもあります。
> これが、仏教ですと、「作用」をあらわすことばと「その物」を表すことばは、キッチリ分けられるように思いますが、ヒンドゥー教になりますと、けっこうルーズな感じもあって、作用と物とはぐずぐずとあいまいに用いられているように思います。

 そうですか。ウールドヴァレータスとか、タントラもプラーナのような方向で捉えた方がしっくりくるような感覚ですが、なにせ狭い知識なので、エム先生の仰る通りなのでしょうね。

> ラージャ・ヨーガとハタ・ヨーガでも違っていて、ラージャ・ヨーガは仏教の影響を強く受けているように見えますが、ハタになると、かなり身体的な感覚が強くなって、精力が集められて形になったものが精液みたいなイメージもしてくるようなところがあります。
> かなり感覚的に語ってしまっていますが。

 ハタ・ヨーガみたいなのも仏教にあって、ヤントラ・ヨーガなどと呼ばれるのですが、チベット語でトゥンコル・ネンジョルと訳されています。
 意味的には器械体操、器械ヨーガみたいもので、ハタ・ヨーガみたいです。
 このトゥンコル、ヤントラを道具ととって、道具をつかってオナニーするヨーガという珍説を広めた方もいます。

> また、ヒンドゥー教には、乳海攪拌という神話もあって、乳色をした海をかき混ぜて、不死の霊薬を取り出すというお話しもあります。そういうお話しは、単なる神話ではなく、ヨーガの行のときのイメージ映像のように、行者の身体操作にも関わってくると思われます。

 この身体操作が、ヤントラ・ヨーガ、器械ヨーガになると思います。

> ガンディー自身は、インド思想に詳しい哲学者というより、ヨーガの行を政治家としてのエネルギーに変えて行こうとしているように思われますので、思想的には、当時のはやっていた思想や思想家の影響を色濃く受けているような印象があります。

 そこですね。面白いのは。中国や日本の政治家も禅とか宋学とかでやりますね。
 有名なのが、修身斉家治国平天下とかで、まず内省から始まるのが共通してますね。

> ヴィヴェーカーナンダにも影響を受けていますよね。
> また、チッタ・ヴリッティの「ヴリッティ」を「波」と間氏は訳していますが、そのようにガンディーがとらえていたとすれば、かなりハタ・ヨーガ的な印象もあります。「波動」というようにとらえます。
>
> 余談ですけど、この「波」ですが、思想的にはブッダの教えにまでさかのぼれると思っています。さすがに文献学的には難しい面もありますが、行(ぎょう)としては、それほど不思議ではないように思います。

 よく言われるのが、心が激流で何も見えない。その流れが少し治まってくるとちょっと動きが見えるようになり、やがて流れが止まる寂静の境地が体験できるなどと。

> > また、アヒンサーが気になってちょっと調べてみました。
> > するとダライラマ猊下などチベット的な教えと、シュミットハウゼンなど文献学と、エム先生の『空の発見』が重なっていて興味分かかったです。
>
> このアヒンサーですが、ヨーガインストラクターのアイアンガー氏(故人)が、ヨーガを行うときのストレッチにおいても、「伸ばしすぎ」を説明するところで、この「暴力(ヒンサー)」という言葉が出てきていて、おもしろいと思いました。伸ばしすぎると、それに対する反対側が「死んでしまう」というような言い方をしていました。
>
> > シュミットハウゼンはかなり緻密で妥当な学者だと思いますが、どうも仏教が仮設だということには気づいていないようで、自己を愛するものにブッダが入ってないことなどは読まれてないようでした。
>
> そうですか。論理学をやると、仮設というのが感覚的にキャッチできるかもしれませんが、そうでないと難しいのかな。

 何を主張してるのかとか、どういう思想なのかという誤った前提があるように思います。
 
> > ただ、udanavarga 30-18 などにも編纂されたマハーヴァッガ冒頭句にも言及されているのは流石だと思いました。
> > その意味を取るべく、ちょっと色々見ましたが、分かりませんでした。
>
> 仏教の用語になったものは、どんな解釈がなされても、誤解されない「基本の意味」がしっかり確保されているように思うのですが、ヒンドゥー教など他のインド思想ですと、様々な解釈の相違が、かなり自由な流用を生んでしまって、本来の意味を忘れることもありそうな感じがします。
>
> 「基本の意味」と書きましたが、それは「空」ということなんだろうなと思います。
> 言葉の意味が、「有る」ものとして説かれると、そこに到達しようとして、皆、様々に解釈していくことになるなあと思ったりします。
> そういう意味では、ヒンドゥー教の思想を考察しますと、解釈が定まらなくて、何となくイライラしてきます。仏教に深入りしたためかなと思ったりもします。

 ちょっとクマーリラを読んでみましたが、現代の文献学者に通じるものを感じました。権威・習慣・常識に立った知識・文法・論理の人というかんじで、全く共感できませんでした。

[10823] Re:[10807] サティヤーグラハ 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/08/01(Wed) 21:14   [返信]
oさま こんばんは。

> 物好きの意見ですが、CINII で読めるものを見ますと素晴らしい論文だと思いました。

わたしも、同感です。よくインド哲学の思想的なものを調べて、適切に検討しているように思いました。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/231263
「ガーンディーの身体とチャウリー・チャウラーの暴動 --第一次非協力運動停止の背後にあった性欲統制の失敗--」

この論文を、ざっと読んでみたのですが、『ヨーガ・スートラ』1.2の「チッタ・ヴリッティ・ニロー(心の波の止滅である)」というのを、アヒンサーにあてて、ガンディーが説明している手紙の引用があったりして、なるほどなぁ、と思いました。

> ただ virya を精液とするのは反対で、勢力、精力とかエネルギーみたいなものと思われます。
> 清志郎が歌う「バッテリーはビンビンだせ」みたいなのが viryavan で、会えば感じられる威厳とか、その人の力だと思われます。
> その根拠は間さんが引用しているガンディーが転機となったジャイナの聖者がミルクから virya、 virya から性欲とされることです。
> ミルクから精液、精液から性欲と考えるより、ミルクから精力、精力から性欲と考える方が、伝統インド的と思われるからです。
> そう捉えた方が、全体的にも整合性が高いと思われます。

たしかに、おっしゃる通りだろうと思いますが、viryaを、精液とするか精力とするか、というのは、何となく紙一重みたいな感じもあります。
これが、仏教ですと、「作用」をあらわすことばと「その物」を表すことばは、キッチリ分けられるように思いますが、ヒンドゥー教になりますと、けっこうルーズな感じもあって、作用と物とはぐずぐずとあいまいに用いられているように思います。

ラージャ・ヨーガとハタ・ヨーガでも違っていて、ラージャ・ヨーガは仏教の影響を強く受けているように見えますが、ハタになると、かなり身体的な感覚が強くなって、精力が集められて形になったものが精液みたいなイメージもしてくるようなところがあります。
かなり感覚的に語ってしまっていますが。

また、ヒンドゥー教には、乳海攪拌という神話もあって、乳色をした海をかき混ぜて、不死の霊薬を取り出すというお話しもあります。そういうお話しは、単なる神話ではなく、ヨーガの行のときのイメージ映像のように、行者の身体操作にも関わってくると思われます。

ガンディー自身は、インド思想に詳しい哲学者というより、ヨーガの行を政治家としてのエネルギーに変えて行こうとしているように思われますので、思想的には、当時のはやっていた思想や思想家の影響を色濃く受けているような印象があります。

ヴィヴェーカーナンダにも影響を受けていますよね。
また、チッタ・ヴリッティの「ヴリッティ」を「波」と間氏は訳していますが、そのようにガンディーがとらえていたとすれば、かなりハタ・ヨーガ的な印象もあります。「波動」というようにとらえます。

余談ですけど、この「波」ですが、思想的にはブッダの教えにまでさかのぼれると思っています。さすがに文献学的には難しい面もありますが、行(ぎょう)としては、それほど不思議ではないように思います。

> また、アヒンサーが気になってちょっと調べてみました。
> するとダライラマ猊下などチベット的な教えと、シュミットハウゼンなど文献学と、エム先生の『空の発見』が重なっていて興味分かかったです。

このアヒンサーですが、ヨーガインストラクターのアイアンガー氏(故人)が、ヨーガを行うときのストレッチにおいても、「伸ばしすぎ」を説明するところで、この「暴力(ヒンサー)」という言葉が出てきていて、おもしろいと思いました。伸ばしすぎると、それに対する反対側が「死んでしまう」というような言い方をしていました。

> シュミットハウゼンはかなり緻密で妥当な学者だと思いますが、どうも仏教が仮設だということには気づいていないようで、自己を愛するものにブッダが入ってないことなどは読まれてないようでした。

そうですか。論理学をやると、仮設というのが感覚的にキャッチできるかもしれませんが、そうでないと難しいのかな。
>
> ただ、udanavarga 30-18 などにも編纂されたマハーヴァッガ冒頭句にも言及されているのは流石だと思いました。
> その意味を取るべく、ちょっと色々見ましたが、分かりませんでした。

仏教の用語になったものは、どんな解釈がなされても、誤解されない「基本の意味」がしっかり確保されているように思うのですが、ヒンドゥー教など他のインド思想ですと、様々な解釈の相違が、かなり自由な流用を生んでしまって、本来の意味を忘れることもありそうな感じがします。

「基本の意味」と書きましたが、それは「空」ということなんだろうなと思います。
言葉の意味が、「有る」ものとして説かれると、そこに到達しようとして、皆、様々に解釈していくことになるなあと思ったりします。
そういう意味では、ヒンドゥー教の思想を考察しますと、解釈が定まらなくて、何となくイライラしてきます。仏教に深入りしたためかなと思ったりもします。

[10822] Re:[10817]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/31(Tue) 06:26   [返信]

> 『箭喩経』はエッセンスだと思いますよ。

人は パンのみによって生きるに非ず (ぶどう酒という智も飲む)
エッセンスによって生きるに非ず 、、、、

> 経の元になった対話は歴史的事実としてあったと思います。
> もちろんお経を長くするためにいろいろ増やしているところはあると思います。

この事が
今日 経を長くしていて エッセンスから 離れる( “Vi” )

> それに対して今回該当の部分はどうでしょう。
> 整った分類の羅列ですが歴史的事実としてはどうでしょうか?
> 他所ではサーリプッタ尊者も似たような分類の羅列をされます。

聞いたことを 経にしたのではなく
分かったことを 聞いたこととして 経にするのです

するだけなら  行いにはなっていない
 ( どうするかを問う前に どうしているかを問えば 聞き方に突き当たる )
( 自らから離れなければ 自らには対面できない )

> 大学の先生が自分の概論書を読むだけの講義をしているようですので歴史的事実としては疑問が残ります。

綴ることによって
自らの生きざまが そこに顕われ出るが
生きざまは 綴りとして 独立しているわけではなく
生きざま に(が) 古城 が(に)  続く 、、、、


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