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[11083] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/13(Sat) 09:17   [返信]
エム先生、おはようございます。
この前動画を見ていたら「世界一美しい道路」ということで、空知辺りのまっすぐな道路沿いにエゾマツか何かが紅葉していてとても綺麗でした。


> > 先生の立場はブッダ論理学を構築する自立論証派という理解でよろしいでしょうか。
>
> いやいや、違います。私もまた、二人にあやかりたいので、何でも使います。
> のちに二手に分かれてくる、ということを知って、むしろ、私は「へぇ〜」と思っています。唯識に行くと、自立論証も有効ですね。あくまで、空を貫く見方ですと、帰謬になります。

帰謬論証派が自立論証を否定する一派で、自立論証派が帰謬論証を否定する一派だとすると話は分かりやすいですが、
帰謬論証派が自立論証を否定する一派で、自立論証派が自立論証を否定しないが帰謬論証も否定しない一派だと考えれば、「どちらも使う」という先生の立場は自立論証派ということになるかとは思いますが。
ただ私もそうですが自分は何々派であると限定するのは嫌なので、どちらも使うというのであればどちらでもないとしておくのが良いかと思います。
ただ、先生が自立論証派ではないと自ら否定したのと同様、帰謬論証派でもないと理解します。
月称を称揚し相依性縁起を主張する学者は帰謬論証派に肩入れしますから。

『十二門論』で反論者が確か「自性が無ければ無自性も無い」といって帰謬論証を行なったのに対し、龍樹は「無自性は有る」ということを貫きましたね。
あれに少し違和感を感じていたのですが、あれは自立論証ですね。


> 例えば、時間を基盤において語ると、諸行無常がでてきますが、空は語りにくくなります。
> 空を語ろうと思うと、空間的に見なければならないからです。また、人間(有情)を一つの単位とすると、解脱と輪廻の話になりますが、心にしぼると唯識になっていくように、いろいろな語りによって、ダンマ(法)に行くことができます。
>
もちろんpocket様がいうように部派は空が解脱を無にするものと気付いて、空を無我(無自性)の意味に置きかえたという場合、空を縁起(諸行無常)を説明する単なる概念におとしめることになると思います。
これは確かに空の空間性を否定して、時間化するものです。
これに対して空の空間性を最大限強調すると、唯識的な遍在性に行き着くでしょう。
この無時間性を「永遠」と読んでも構わないと思います。
空を空間として時間性から自立させると、こうなってしまいます。
龍樹は空を「来処無く、去処無い」ものとして説明しており、そもそも「処」(空間)ではありませんが、しかし部派が主張するように単に諸行無常の言い換えでもない。
ここが非常に難しいところかと思います。
私は普段五蘊の空を観じていますが、あれは「空間」ではないと思っています。
しかしそれではどのように説明すれば良いのか、なかなか言葉が見つかりません。
ただこの空観は単なる無常観ではない、というのはわかっています

[11082] 転記   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/13(Sat) 08:58   [返信]

>  日蓮が活躍していた当時の浄土宗の信者は、法然の志していた信仰と
違った形になってしまっていたのでしょうか?

今もそうです
だから  “ 無明に起きる ” という 「 諦 」 =  「 縁起 」  が 起きるのです

腐っているわけではありませんが
無明にあるから
無明を展開する  だけです

たとえ 悟りを得た者が 其処に おわすとも 
おわし方 を 知るのは
あなた方 です ( あなた方 は 私がいて 縁起して起きる )

 「 縁起 」  を 知るまでは 仏教 は 知ることが適いません
    しかし
知らなくとも 行うことは 別の階梯です

その為に 仏教は 置かれている

仏教 を 知的に 知るためではありません
仏教 を シュリハンドク のように 行じるとき
行じきる ところ に 行じきる 行(じつつある) が あります

悟るまでは 悟りは どこにも存在しない
存在していようと 悟ることが出来ない

行いは 誰にでも 「 平等 」 に 起きますが
 「 平等 」 の 意味は “ 不平等 ”  に 起きる
( これが  「 縁起 」 の すがた です )


[11081] Re:[11079]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/13(Sat) 08:34   [返信]

一人いる  時   二人と知る
釈迦牟尼  と     一人
二人いる  時   ミタリ  と 知る
あなた と わたし と  親鸞

二人しかいないと 独り 見る

本当に 一人ですか ?

嬉しすぎて、自然に笑っちゃって いて 良いのですか ?

一人立つ人 さま 、、、、

>  ほんとうに論理を道具として自在に扱えるのは、かれら二人だけでしょう。

本当に 論理を 道具として扱って
かれら二人を 自らの囲いに 取り込んでいますか ?

>    西洋の論理学を見ても、最後はエゴが勝ってくるので、真に論理を使いこなせません。論理の僕になってしまいます。

見出せない時 見出したモノだけで 判断を起こす
見出しても 見出したモノだけで起こすことに  変わりがない

自然数 と 偶然起きた 偶数  とは
どちらが多いかを 言っているのではありません
( 世の中に 偶数だけしかなくとも 真理の数と 一対一の 対応を示せます )

わたしのほうが 多く知っている  と 言っているのではありません
( 二人以外が 少ないわけでもありません )
( 勝っている  とは  ジナ のことですが、 ジナは 世間に起きている )

>  そのことに気づいた人が、龍樹なのだと思います。龍樹だけが、語順や語りの順序を、分析検討しているからです。「言葉によって寂滅する」という道を選んだのは、龍樹だけだったということかもしれませんね。その後気づいた人々が、仏教論理学を造り、また、帰謬論証を用いて語るようになっていきます。これも、定まってしまうと、また、エゴの発露になるので、注意しなければならないと思います。

定めなければ 言葉は 組み立てられません
( 組み立てられない ということが  組み立てられている )

まことに   言葉は  「 空 」 ですが
「 まこと 」  は     言葉  です

>  これも、定まってしまうと、また、エゴの発露になるので、注意しなければならないと思います。

注意できない構造に
   注意し
ここ  に   注意する


[11080] 無題 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/13(Sat) 08:10   [返信]
> ほんとうに論理を道具として自在に扱えるのは、かれら二人だけでしょう。西洋の論理学を見ても、最後はエゴが勝ってくるので、真に論理を使いこなせません。論理の僕になってしまいます。

論理を道具として自在に扱える、というのは、ブッダの語りのようなことを言うのです。

原始仏典の語りは、ブッダ自身は、論理をあやまたずに用いていながら、そこに論理があるようには見えない語りをしています。つまり、機械的に形式的には語らないのですが、しかし、確実に語りの中に「清浄なる順序」があるのです。それが、論理です。それは、「語りの中で、そのことばが置かれる位置が定まっていない」という形で現れるのです。

ですから、ブッダは、論理的ではあっても、論理学を持つわけではない、とか言われるのでしょう。
西洋論理ですと、文の中で、特定の語は特定の位置に置かれます。そうであることが、論理ということだと定めるからです。西洋論理を知る人は、ブッダの論理はなかなか納得がいかないだろうと思います。

そのことに気づいた人が、龍樹なのだと思います。龍樹だけが、語順や語りの順序を、分析検討しているからです。「言葉によって寂滅する」という道を選んだのは、龍樹だけだったということかもしれませんね。その後気づいた人々が、仏教論理学を造り、また、帰謬論証を用いて語るようになっていきます。これも、定まってしまうと、また、エゴの発露になるので、注意しなければならないと思います。

[11079] Re:[11077]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/13(Sat) 07:39   [返信]
spinobuddhistさま おはようございます。

見落としていたんですね。
お返事が遅れてすみません。

> 自立論証と帰謬論証の二つは、『方便心論』のなかでそれぞれどのように扱われているのでしょうか。

『方便心論』の中では、両方ともに用いられていると思います。
ものすごく融通の利いた使い方がなされていて、非常に面白いです。

私に言わせれば、本当に 「the 論理学」とでも言えるようなものを知っているのは、ブッダと龍樹の二人だけのような気がします。嬉しすぎて、自然に笑えてきちゃいます。

ほんとうに論理を道具として自在に扱えるのは、かれら二人だけでしょう。西洋の論理学を見ても、最後はエゴが勝ってくるので、真に論理を使いこなせません。論理の僕になってしまいます。
>
> 先生の立場はブッダ論理学を構築する自立論証派という理解でよろしいでしょうか。

いやいや、違います。私もまた、二人にあやかりたいので、何でも使います。
のちに二手に分かれてくる、ということを知って、むしろ、私は「へぇ〜」と思っています。唯識に行くと、自立論証も有効ですね。あくまで、空を貫く見方ですと、帰謬になります。
>
> 個人的には山口瑞鳳氏の『評説インド仏教哲学史』を読んで、自立論証派に連なる寂護や蓮華戒に興味を持っていますが。この本を読む限り、彼らは先験的時間を主張しているようで、縁起の正しい理解に沿うもののように思えます。
> 彼らは後期中観派で唯識中観はともいわれるので、唯識の正しい位置づけにも興味が湧くところです。

後期の方は、昔やりかけて止まってしまっているので、少し忘れています。
「これこれのやり方が正しい 」とか、あまり思わないので、手段はこだわりません。最終的に、ブッダの教えにかなっているか、だけが関心のあるところです。

例えば、道元でも、書いてあることはなかなか難しいですが、読むと、ブッダの教えどおりであることが、自然と伝わってきます。書いてある通り、その通りにすると理解できるものが、正しい論理なのでしょう。

ゲーデルの不完全性定理を使っても、ブッダの教えの真髄にいければ、正しいやり方なのだろうと思います。
>
> 唯識にも有形象唯識と無形象唯識があって、ここら辺が自立論証と帰謬論証にどう関わるのかも、興味の湧くところです。

視点が変わってくるのではないでしょうか。唯識と空観(中観)は、違う位相の話しなので、重ならないのではないかと思います。部派と大乗が重ならないように、中観と唯識も重ならないで、それぞれ話ができるのではないかと思います。

例えば、時間を基盤において語ると、諸行無常がでてきますが、空は語りにくくなります。
空を語ろうと思うと、空間的に見なければならないからです。また、人間(有情)を一つの単位とすると、解脱と輪廻の話になりますが、心にしぼると唯識になっていくように、いろいろな語りによって、ダンマ(法)に行くことができます。

> 個人的には自立論証も帰謬論証も、有形象唯識も無形象唯識も、いずれが正しいか判断が付きかねている状態ですが、
> 先生の卓見を拝聴したいところです。

宗教ということで言えば、一つの教え(見解)に到達するのが多くの宗教のあり方ですが、仏教の場合、一つ、あるいは、いくつかの教えを捨てるのが、宗教(悟り)だと思います。

有形象でも悟れる、無形象でも悟れる、つまり、最後にそれを捨てられるかどうかで、ゴータマの教えに依ったかどうか、がわかります。悟ってしまえば、何でも使えます。

一つがきちんと分かれば、後は、何でも自在になるのが、智慧であろうと思うのです。
世界が荘厳(整理整頓)されるからです。

[11078] Re:[11073]   字訓 /    貝原益軒 日本釈名 ・ 源順 和名類聚抄 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/12(Fri) 08:25   [返信]
>
> 貝原益軒『日本釈名』
>
> http://uwazura.seesaa.net/article/2211213.html
> ( 原文が知りたければ、手元の資料で お知らせします )
>
> 源順 和名類聚抄
>
> https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=idl&bib=200014586
>

こういう便利なサイトがあるのは、ありがたや。
『和名類聚抄』、熟読しなくちゃな。。

日本仏教を勉強しようと思ったら、漢字がまるきり読めません。。。
万葉仮名もわからんし、すぐ忘れちゃう。
ワープロばかり使っているから、漢字も書けないし、情けないったら。

クサラがまったくない人だ。クサっちゃう。

[11077] Re:[11062]   取るに足らない 問題   投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/12(Fri) 08:11   [返信]
エム先生、おはようございます。

> > 中観の人々もそうで、月称菩薩が難詰論者のような振る舞いに徹して論証に反対したのも(私は論理学というようなものの構築に反対したと解釈しますが)、かれが如何に卓越した行者だったか(強調してもしすぎることはないかも)の証明のように思えます。
>
> 帰謬論証を、これも論証だ、として認めるかどうかが、一つのカギになりそうですね。
> 龍樹は、自立論証と帰謬論証の二つを自立論証と帰謬論証の二つを『方便心論』の中で語っています。

自立論証と帰謬論証の二つは、『方便心論』のなかでそれぞれどのように扱われているのでしょうか。

自立論証派の清弁は先生の評価する陳那ともつながっていて、ブッダ論理学の肯定派で、一方帰謬論証派の月称はブッダ論理学否定派であると、理解して良いでしょうか。
個人的には月称の立場は縁起を相依性におとしめ、無時間化を謀り、空を先験的空間とした点など、問題があったとは思いますが。

先生の立場はブッダ論理学を構築する自立論証派という理解でよろしいでしょうか。

個人的には山口瑞鳳氏の『評説インド仏教哲学史』を読んで、自立論証派に連なる寂護や蓮華戒に興味を持っていますが。この本を読む限り、彼らは先験的時間を主張しているようで、縁起の正しい理解に沿うもののように思えます。
彼らは後期中観派で唯識中観はともいわれるので、唯識の正しい位置づけにも興味が湧くところです。

唯識にも有形象唯識と無形象唯識があって、ここら辺が自立論証と帰謬論証にどう関わるのかも、興味の湧くところです。

個人的には自立論証も帰謬論証も、有形象唯識も無形象唯識も、いずれが正しいか判断が付きかねている状態ですが、
先生の卓見を拝聴したいところです。

[11076] Re:[11075]   字訓    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/11(Thu) 19:02   [返信]

使い よう(方次第) で 内容が決まる

内容は 「空」 ですが 、 生きざまは 実 という 仮和合です

> > 「 字訓 」     白川 静
> 白川先生はよくわからないです^^;;;

使い道が 見つけられなければ
内容は よく分からないこと と なります

> でも、藤堂先生は人民服着ちゃうような左系で

わたしは 評価しています
学問は 即 仏教に 則らなければ 、、、

> 白川先生は進歩的文化人全盛の時の保守で気骨がありました。

京都 の 学問的気骨 かな ?

> 困っちゃうぅ。

困ることはないと 思います
必要なときに
必要に合わせて、 活用すればよい

学問 は 生きるという 「 生 」 を 「 不生 」 とするために 起こされます
学者 は 何の為に 学問を 生きる者となるのか 、、、、

( この意味は 仏教を知るときに 共に知ることです )


[11075] Re:[11072]   字訓    投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/10/11(Thu) 16:53   [返信]
春間様、こんにちは

ご紹介ありがとうございます。

> 後漢末 には 劉熙  『釈名』  ( 本義を音声に求めた。これを声訓 という )
> 上記の発展が
>  「 漢字語源辞典 」 の 藤堂明保

なるほど。藤堂先生は王道なんですね。

> 「 同文通考 」  新井白石
> 「 日本釈名 」  貝原益軒

なかなか生きているうちにここまではたどり着きそうに
ないですねぇ。
しかし、いにしえの人の教養・知力たるやすさまじい。

蛙なんて月とスッポンどころか、月とスッポンの糞ぐらい違いますね。学問は諦めよう。

> 「 字訓 」     白川 静

白川先生はよくわからないです^^;;;

でも、藤堂先生は人民服着ちゃうような左系で
白川先生は進歩的文化人全盛の時の保守で気骨がありました。
困っちゃうぅ。

[11074]   張之洞  「 輶軒語 」   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/11(Thu) 10:32   [返信]

然る後 聖賢の此の言是れ何の意義かを知る。
然らずんば空談臆説、望文生義にして、
即(たと)い或いは理 有るとも、亦た所謂 郢書燕説なるのみにして、経義に於いて与る無きなり。

 

書は猶ほ穀のごときなり。
種ゑ穫り舂き揄し、之を炊きて飯と成し、佐くるに庶羞を以てし、
之を食して飽き、飢膚充悦し、筋骸彊固す。此れ穀の效なり。

若し終歳勤動し、田間に僕僕とし、爨下に勞勞とし、並びに一も
其の味を嘗めざれば、

穀を蒔くは何の爲なるか。

近人往往にして讀書・明理を以て判ちて兩事と爲し、通經・致用を視して迂談と爲す。
淺き者は科みな舉の爲にし、
博洽なる者は著述して名を取るのみ。

己に於て與る無きなり、
世に於て與る無きは、亦猶ほ之れ穫りて食せず、
食して肥へざる が ごとき なり。


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