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[10496] Re:[10495]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/30(Thu) 07:31   [返信]

> > 見つめられているのが 「我」  です
> 行き詰まります。 息詰まります。

イキ 生  詰まる ところが クンパカ  です
(   クンパカ は  名字です )
( 同じ理解で 「 虚空蔵求聞持法 」 は 名字  です )
( 故に 覚鑁 は 苦度の グモンジ を 持ったのです 、、、、 )

> 「我」ということばが、どうしてこんなにも必要なのか。

“ 不要 ” なのに  “ ある ”  から  ヨウ に あるのです

聖者  と 呼ばれる人は みな
「 我 」 に 出会い “ 我 ” を マハー しています

理趣の17の句 は 我に出会い 我に離れる  “苦” を 示しています
『 苦 』   が  喜びである  とき
  「安楽」  は  安らかな苦にある


> > > 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか?

> > 如来 に 出会っているときには 如来と共にある
> > 共にある  という  ひとつの 存在がある

一つを 二つに分けると  分別  の 世間に入る
ある  ということ と  あると知る  ということとの 間に介在する
分別  を  「  ( 自) 我  」 と 言います

> 出会っていないときは?

“出会う”  という  名字  は “ 信 ” という 名字と 同じ名字  です
苗字 が違えば 人は 違う( たがう )時もあるが
だれかが 石飛 となっても その誰かは 変わらない

人は 誰でも 「信」 を 持っています
“ 持っていない ” という 名字  にある 「信」 と
“ 持っているという 自己を離れる ”  「 信 」 とに あります


必要があって  「 我 」 が 生まれ出ます


どういう必要か は 生きることで 明かされていきます 、、、、

この世  も  あの世も
 過去生 も  すべて  生きている人 に よって 作られています

“ よって 作られている ” から 「縁起」 が 起きます

よって  あなたは わたしという 「我」 に 何度も出会い
何度でも 「 縁起 」 を 起こす 、、、、


[10495] Re:[10494]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/30(Thu) 07:03   [返信]
> 見つめる 「我」 は いくら見つめても 「我」 からは 離れることはできない
> 見つめている  「我」に  見つめる存在を置く
>
> 見つめられているのが 「我」  です


行き詰まります。 息詰まります。
「我」ということばが、どうしてこんなにも必要なのか。
>
> > 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか?
>
> 如来 に 出会っているときには 如来と共にある
> 共にある  という  ひとつの 存在がある

出会っていないときは?

[10494]  黙って座れば ピタッと据わる        投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/29(Wed) 12:51   [返信]

> >  任せられているから
> >  任されように乗ろうと乗るまいと 任されている

> 黙っているのではなく
> 困っている

> >  拒否の理由  は 自我に任せる

自我が あなたになくても 我にある
我にあるから わたしにある (わたしにあれば)
わたしにあることは  あなたという 個( = わたし ) にもある

わたしに自我がなければ
あなたにあるということは 自我には乗っていない


> 自他不二も、名字である。
> 脚下照顧も、名字である。

名字であるから
自己に 解釈が起き
その解釈を 「不安に立って」 知ることが適う

> 自分という「我」が、起きると設定する。
> どこに起きているか顛倒するとは、何のことなのか?

見つめる 「我」 は いくら見つめても 「我」 からは 離れることはできない
見つめている  「我」に  見つめる存在を置く

見つめられているのが 「我」  です

> 他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか?

如来 に 出会っているときには 如来と共にある
共にある  という  ひとつの 存在がある
「 唯我独尊 」 です


[10493] Re:[10492] 黙っている   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/28(Tue) 10:09   [返信]
>
> 黙っているのではなく
> 拒否している

黙っているのではなく
困っている

> 「自他不二」 という 名字 を 疎かにすると
> 自分という「我」 が どこに起きているかを 顛倒する
> 「脚下照顧」 とは 我 に起きて 「我」の起きようを知ること

> 他人ごとだとして 自らを見つめることを 曖昧にする 、、、、

自他不二も、名字である。
脚下照顧も、名字である。
自分という「我」が、起きると設定する。
どこに起きているか顛倒するとは、何のことなのか?

他人ごとだと自分を見つめるのをあいまいにするとは、何なのか?

[10492] 黙っている   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/28(Tue) 09:19   [返信]

黙っているのではなく
拒否している

拒否の理由  は 自我に任せる

任せられているから

任されように乗ろうと乗るまいと
任されている


[10491] Re:[10490]  共建 法幢 報 仏 恩徳   降赴 此所 所望   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/25(Sat) 08:44   [返信]

今は ともに建てている という 認識を 共有してはいない

「 建 法幢 報 仏 恩徳   降赴 此所 所望   」



> >    蛇足かどうかは あなたが見て決める

>   「あなたが、(わたしの言うことを)判断するのだ、それについて、わたしは何も言わない、だが、そのあなたの判断を評価するわたしがいる」という態度だと、思います。

わたしは 蛇ではない ( ここは そういう 習慣的解釈に依っている )
蛇であっても ( 「一即多」 であれば 他には 多くが当てはまり 蛇でもあり得る )
 足は ない( アシ の 痕跡は残っている )  ( ここは 習慣的解釈に戻る )
   そういうことを  こういう風に    
即今において 即応して しる す ( 悪しき 習慣だとはしていない ) 

わたしが どのように決めているかは  あなたが決める
あなたは 習慣的言語解釈の中で 決めることに 入る
入るけれど  外を見ようとする 、、、、

中からでは ( 出入を決める門の) そと(疎く遠く) は 曖昧にしか見えないから
  “含み” という 有るかないかを確定できない表現となる
曖昧に 含みを持たせて 自らの言の正当性を確保したつもりになる

もし あると見るなら
ありよう を     正しく言える
ないよう なら    ないよう は ない

>   言外に匂わす含みがないので、議論そのものは、非常にシンプルにわかりやすい議論となるのが、仏教の特徴です。

あっても 知ることがないとき ないという

ないモノが あるようにはならないが
あるものを 有るかないか分からないけれど はっきりあるわけではないから
含みがあると ありようを曖昧にする

言葉 は 名字 です
名字であろうと 意味を持たすために 使います
どの意味を選ぶかは 選ぶ人の 好嫌 に 縁ります
好嫌  とは  薫習を為す 大きな要素ですが
          大小は縁起するので 
小さい方を 薫習して 薫習して 薫習を重ね 大事の事  と する

分かりやすくて 知りやすく 知って 行いにするのが 易いこと
それを 「 易行 」 と いいます

これが 仏教(の 特徴) だと 仏教を 語り 仏教に生きる 、、、、
( あなたが 立っているとする 仏教  の “洲” ではありませんか ? )  

あなたが 問いかけに応えれば 問う 答える  は 続いていく 、、、、

どう応えているかは 答という 名字 でも顕わすことはできるが
 外にも顕われ  他にも 外の 知りよう がある
         ( そうであっても 知りよう は 思惟によって 恣意的に 選ばれる 、、、、 )

>    また、その根本が忘れられてきたな、と思うので、ここで書いておきましょう。

忘れる  ということは  自にも他にも  起きるが
自に 起きた時  には 
そこには 他に起きている  ということだけが 際立ってくる

>   仏教というのは、道を教えるものであって、方法を説くのだ、というところに注意していきたいと思っています

こう 示し  教える
このように 方法を説く

聞くのは ココニ キイテイル あなたでもある( わたしもイッタコト を 聞いて ここニ キーテイル )


「自他不二」 という 名字 を 疎かにすると
自分という「我」 が どこに起きているかを 顛倒する
「脚下照顧」 とは 我 に起きて 「我」の起きようを知ること

他人ごとだとして 自らを見つめることを 曖昧にする 、、、、

すべての言葉に 「慚る」 を 起こすとき 「修証一如」 が 起きている

( 安田理深 は そこを 「不安に立つ」 と 穿っていく ) 
(    「不安は如来の促しである」  「不安は 如来である」   )


[10490] Re:[10489]  共建 法幢 報 仏 恩徳   降赴 此所 所望   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/24(Fri) 11:34   [返信]

>  > 蛇足かどうかは あなたが見て決める

>  「あなたが、(わたしの言うことを)判断するのだ、それについて、わたしは何も言わない、だが、そのあなたの判断を評価するわたしがいる」という態度だと、思います。含みがありますね。

ありません
読んで受け取ったことが
そのまま記述してあることです

  言説というモノは すべて 伝える・伝えたい 意味を持って 為されます

>  「空」について、このような態度は、ブッダや龍樹の態度ではないと思います。

ブッダや龍樹の態度ではない
  という ことが起きる態度の所在は
ブッダの 所在と同じですか ?

思います  と 付ければ 済む  ということではありません
( 何をつけても 言ったことは 根拠の上に 断定として乗っています )

間違っているかどうかを知らない と 知ったことに入れていると 知らない

空海 は
「  我れ今讃述す 哀悲を垂れたまえ 」
賢者の説黙は 時を待ち 人を待つ
吾れ 未だ知らず
「 言うまじきを之を言えらん失  智人 断りたまえまくのみ 」
     と 聞き  諭す

あなたは ここから 何を聞いている ?

>   「あなたの質問に、わたしが答え、それについて、あなたが判断する。

なにが  あなたによって 問われているか ?
    (  そういうことを あなたは問うことがない  )

問うまでもなく
 言っていることが そのまま 自らという者を確立して 
            そのまま  の 意味である(タターガタである)

>   そして、それにもとづいて、疑問があるなら、そのままわかるまで、あるいは、あなたが納得できるまで、問答を続ける」

仏典に(そういう翻訳の仏典) が あるのなら
引いてきてください

問答 という意味を あなたは 限定して 自らの解釈の内に入れる 、、、、

問われているのも 問うているのも 答えているのも
“あなた” という “わたし” です

もし そうでなければ 「自他不二」 は 成り立たない

成り立たないこと を  成り立たせると
ありえないこと   が あり得ることとなる

「得」 と 「徳」 とは 音は同じでも 違うことである という 知りようもある

「仏得」 とは 「 恩徳 」 
何か(なにでもないこと) を得て 仏 であると知る
知ったことを 受け取るとき 「 恩徳 」 を知り 

「 共建 法幢 報 仏 恩徳 」   (風信帖)  の 言葉を 聞く

聞いているのは 発するところにある 空海であり 風信の やり取りの相手である 最澄 であり
やり取りに加わる “わたし”  です
あなた が 加わるかどうか、 加わっているかどうかを あなたは あなたの商量によって  思い  とする

>  > 語られているかどうかは
>  > 聞くかどうかにかかっている
>
>  > 聞いたことが 語られた事
>  > わたしが語ることを
>  > あなたは あなたの解釈下で 聞く

>  という風にして、それで終わることもありません。

終わらせるかどうかは あなたが対面する「生」にあり
( 一つの「生」 なのに 二つ に 分け そのどちらかに 対面している )
どの「生」で どういうことが 「生」 なのか  は あなたが決める

わたしは あなたに受けとめられて あなたの思いの 一部となる
どう思ったかは あなたが 思慮において決定している


「 わたしは(道を)示す 歩むのは あなたの道 」  という意味を 誤って聞いてはいけない

示すのも 歩むのも  “わたし” と 共にある “あなた” です
自他不二だから 他だけ の 歩みよう が起き
すべて 賜っているから 自己(わたしのモノ)という “者” が 存在していない


わたしが道を示している のではない
( わたし と 語る 主体は 存在していない )
あなた が 道を見ている  のです


あなたが決めるけれど
あなたが決め方を 表明すれば 決まり方は 対話に乗ってくる 、、、、
(  こういう具合に 、、、、   )


[10489] Re:[10488]    さらに一言   蛙の足 は 蛇の足  ではない  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/24(Fri) 10:37   [返信]
お話しは、もう終わっているので、どうしようかなあと思いましたが、少し付け足しましょう。
今、『空の発見』を文庫化するというお話しがあって、それを見直しています。
その中で、龍樹の『方便心論』についても、ずいぶん言及しているところがあって、わたしもいろいろ書いたなあと思いながら読んでいるところです。自分で読みながら、「空」は会得するのはむずかしいと思いました。

それをふまえつつ書きます。

=============

「空」について、不可得であるとか、それを決めるのはあなただとか、春間さまがおっしゃっているところについて、です。

> 蛇足かどうかは あなたが見て決める

「あなたが、(わたしの言うことを)判断するのだ、それについて、わたしは何も言わない、だが、そのあなたの判断を評価するわたしがいる」という態度だと、思います。含みがありますね。

「空」について、このような態度は、ブッダや龍樹の態度ではないと思います。

『方便心論』に説かれることは、

「あなたの質問に、わたしが答え、それについて、あなたが判断する。そして、それにもとづいて、疑問があるなら、そのままわかるまで、あるいは、あなたが納得できるまで、問答を続ける」

ということだと思います。
含みをもって、相手を評価し、自分の理解を誇示するようなことは、ブッダや龍樹はしていないことは確かなことです。

言外に匂わす含みがないので、議論そのものは、非常にシンプルにわかりやすい議論となるのが、仏教の特徴です。


> 語られているかどうかは
> 聞くかどうかにかかっている
>
> 聞いたことが 語られた事
> わたしが語ることを
> あなたは あなたの解釈下で 聞く

という風にして、それで終わることもありません。「空」は、どこまでも相手に優しい言い方になります。
そこを説こうと思って、わたしは、『空の発見』や『ブッダの優しい論理学』を書いてきました。

また、その根本が忘れられてきたな、と思うので、ここで書いておきましょう。仏教というのは、道を教えるものであって、方法を説くのだ、というところに注意していきたいと思っています。

[10488] Re:[10487]    さらに一言   蛙の足 は 蛇の足  ではない  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/21(Tue) 08:52   [返信]

一言が タコト(他己と・多事)
一十 は  充 足する
  とき ともに「縁起」 の  道 に ある
( 時  とは  即今の場所(住処) を 太陽系で 記述化することでしかない )


蛙の足 は 蛇の足  ではない

還る(還郷)の時に 自己の 足 で 帰るが
自己が 諸仏で タターガタ であるなら 自己は 蛇である

「空手」  不可得を 手にする


蛇足かどうかは あなたが見て決める


>  最後の「不可得空なるが故に」とある、最後の一文字「空」について語られていないことになります。まあ、実際、語られていません。

語られているかどうかは
聞くかどうかにかかっている

聞いたことが 語られた事
わたしが語ることを
あなたは あなたの解釈下で 聞く

>    ですから、「空」を忘れています、と指摘したのです。

「空」 を 忘れている
  そこが (語られたいない故に) 聞くことができないところで
指摘しておかなければならないことである

( それは  下記の言説 「 ただ「空」の文字は、不可得だったのだ、とこちらは、認識するばかり 」 )


> 足そうが 引こうが 「空」 は どこからでも出てきて どこにでも見いだせるから
> あるとも言えず ない(からっぽ)とも言えない
>
> 誰でも持っているモノに 存在の疑問は 起こすところがない

>    なんて、今さら言っても、遅い!
>    春間さまにとっては、ただ「空」の文字は、不可得だったのだ、とこちらは、認識するばかりです。

「空」の文字は、不可得 です
名字 は 可得 にあるから  必ず 「有」 にある
(  真理は 言慣わされた言葉で 語られることが必要です  )
( サンスクリット で 教えられた真理であろうと  プラークリット で  翻訳されて= 理解され  語られる )
「有」 を もってして 「有」 を 突き通す
   楯と矛 とは 自らにある

「有」 の 立場に立てば わたしの語ることは 「有」 である
「無」 にあるとき 「無」 であると知る
( 悟りを得る時 悟りであると わかる )

分かるけれども  道元は

「 諸仏のまさしく諸仏なるとき は、自己は諸仏なりと覚知することを用いず、しかあれども証仏なり、仏は証してもてゆく 」

と 名字に表わす

ここで 大事の事(大乗) は
諸仏  という 諸々のタターガタ です

「  “ 自己は 「仏」 なり ”  」  とは されてはいません 
「 (まさしく諸仏なるとき は、) 自己は諸仏なり 」  と されています

曼荼羅 も 瞑想 も ここを 体験として 人の生を歩むわけです

諸仏が 脚下で   「洲」 であり
  「洲」 において   「洲」 を見る   「脚下照顧」


>  >> >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている
>   というなら、それは、般若経の言うとおりではありません。

それは あなたの聞き方で( それに拠るとき )
“わたし” の 聞き方を あなたは聞いてはいない( 否定して聞こうとしない )

般若経典では  あなたの訳では  “みな不可得である”  と されている
みな不可得  であれば すべて不可得で
不可得 であると 得 しているつもりの事が 不可得である

不可得であるということ  は   不可得である
    得(有) の 立場では   「空」 である
「有」 を 否定している のが 不可得 です

みな「空」である  ということも 「空」 である

ここが分かるまでは 「有漏」 です


>    “みな不可得である”  ということは  不可得空である  とされている
>    としなければ、般若経典の言うとおりにはなりません。
>   だから、「有」の立場に立つと見て、引き算をして「空」を出しました。

どちらが「有」の 立場に 立つかは
「 空 」 を  ノゾンデ イドム  者には  分かってくることです 、、、、

「空」 を 否定するには 「空」 を 用いるしかない けれど
「空」 を 肯定するには 生き様がある

生き様は 「世間」 にあって 「世間」 は 自己によって 組み上げられている

自己は 諸仏  である  から
自己は 仏    である


諸々の仏にまみえる  自己(ボク)は  “ 蛙 ”  である

>    「 五蘊はボクじゃない。   蛙の五蘊は蛙じゃない。
>       五蘊の他に蛙がいるかどうかは興味がないが、   五蘊は確かに蛙ではない。  」


自己は 遍く ヘンザイ(偏に寄り添って存在)する


>    再考を促す

>    再考を  重ね
>         ボクであったり   ボクではなかったり
>         そうあることを
>    重ね 重ね 合わせていく 、、、、


[10487] Re:[10483] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/21(Tue) 07:52   [返信]
> >    立場をとるとすれば、引き算ではなく、違う計算をしたかもしれません。しかし、この展開は、この展開としてこの場に顕れているので、これしかありえなかった、ということになるでしょう。

> なります  と 断定できることを
> 断定して 述べなさい


断定するな、としたのは、春間さまの意向だと、わたしは思い、そうしたのです。


> >    ですから、「空」を忘れています、と指摘したのです。
>
> わたしが 忘れていれば 指摘は 指摘する  “  的  ” を 得る
> 忘れる のと 言わ“ない” のとは  意味が違うし
> “ない” ことが起きる  階梯も 違う


「『空』を忘れています」と断定したら、忘れたのではなく、言わないだけだと、春間さまは言う。それなら、わたしは断定はできないでしょう。だから、春間さまの判断を待って断定しないでいるのです。

断定してよいなら、「『空』を忘れています」と言います。

ただ字だけがある、という立場によって、「空(からっぽ)である」と言うのです。(『般若経典』には、そうあります。菩薩も、仏も、五蘊も、ただ字のみだ、と)
ただ字だけがあるのに、その字を書かないなら、「わかってたけど言わないのだ」とも何とも言えないでしょう。端的に、そこにその字はない、ということになるのです。

それが、
>> この展開は、この展開としてこの場に顕れているので、これしかありえなかった、ということになるでしょう。
の意味です。


「空」は、さまざまに姿をかえて、わたしたちの心に作用します。

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