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[10105] Re:[10102] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/04/02(Sun) 09:45   [返信]

> 大乗は種を蒔く者でもあったと思うのですね。
> 大乗は実に広大な地域に伝わりましたよね。そこに仏法の種を蒔いた。
> 私たちが「衆生」、「五蘊」、「諸法」など仏教用語を漢訳語で理解し、パーリ仏典を何の文化的摩擦もなく、活用しているのは、大乗が仏法を広げる方便に長けていたから、そんな気もするのです。
>
> ブッダが「田を耕す人」であったように、菩薩は「種を蒔く人」であったのだ…なーんてね…
>
> (決まったかな…?)

決まった! (^_^)v

そして、菩薩は、自分も、また一粒の種ですよね 。
何の種?

一切種智 。

[10103] Re:[10102] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/04/02(Sun) 08:25   [返信]

> > 大乗は、部派という山の裾野を形作っている。

山にある 一つの景色 が 部派です
山 と 裾野と それらの起きている世界が
大乗という乗り物にあります

>  文化的摩擦もなく、活用しているのは、大乗が仏法を広げる方便に長けていたから、そんな気もするのです。

摩擦 ということを どうとらえるかの問題につきます
大乗は 長けている  といっても
あなたに(さえ) 伝わりにくい のに どう広がっているか 、、、、

そこに 起きる わたしへの問いがあります

> ブッダが「田を耕す人」であったように、菩薩は「種を蒔く人」であったのだ…なーんてね…

経集(スッタ・ニパータ)には
そのようには記述されていません

耕す者は 仏陀 と呼ばれる 釈迦牟尼であり ( Sn.524 )
そこへ 種を播くのも 釈迦牟尼 です
さらには 耕したのち 種を播き (収穫を)食すのも 釈迦牟尼です

パーラドバージャ の 姿を借りて あなたに 釈迦牟尼は問いかけます
「 何故 あなたは
   “ わたし(釈迦牟尼) が 認めうるような 耕作を為さないのか ” と問うのか 」

> (決まったかな…?)

決めるのは いつも あなたです
あなたがいるから あなたが決めるしかない
あなたも、わたしも いなければ
決める事、決められたことは ブッダに縁っています

決まっていない  と わたしが言っても
あなたは決まっている理由で それを排除します
決まったね  というとき
あなたは それが 誰の口からであろうと 天にも昇る気分を味わいます
(そういうことも わたしが気付いたことではなく、 Sn.886 あたりで 受けたことです)
( Sn.906 では 称賛 について 述べます  ) 

Sn.452 には感情を害する言葉を発しなさい と あります
それを補強するかの如く 632 には バラモン たる 理由が述べられています
( Sn.867 で 快について 教えられています )
わたしは それらを そのまま 真直ぐ受けて 
縦のモノを横へと 見かえる立場 を 得るのみです



決まっていることがない ということが
決定における 前提なのです


[10102] Re:[10101] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:pocket 投稿日:2017/04/02(Sun) 06:33   [返信]
横レスです。。。

> だから、龍樹が出てきて論法を作るようになったんじゃないかと。
> ダンマやサンガを守るため、論法で荊棘の林をめぐらせた。
> でも、その論法も「空」という仏法でできているので、「争わない」という特徴を持っていた、のです。
>
> 大乗は、部派という山の裾野を形作っている。

大乗は種を蒔く者でもあったと思うのですね。
大乗は実に広大な地域に伝わりましたよね。そこに仏法の種を蒔いた。
私たちが「衆生」、「五蘊」、「諸法」など仏教用語を漢訳語で理解し、パーリ仏典を何の文化的摩擦もなく、活用しているのは、大乗が仏法を広げる方便に長けていたから、そんな気もするのです。

ブッダが「田を耕す人」であったように、菩薩は「種を蒔く人」であったのだ…なーんてね…

(決まったかな…?)

[10101] Re:[10096] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/04/02(Sun) 03:54   [返信]

> 頂に立って、自らの眼で見よってことじゃないですかね?

なるほど、そう来たか。
受け取り方もいろいろに受け取れるところが、ブッダの「教え」という感じがします。

わたしは、これも「教え」にはちがいないんだ、って思いました。


> > 部派も、
>
> 部派は理論武装してる時点で仏弟子じゃないのではないかと。
>
> 論争に沈黙して負けたと思われても別にどうでもいいし、
> お布施してくれる在家信者減っても別にどうでもいいやって。

> そういう人たちはいなかったのかな?

けっこういたんじゃないでしょうか。

だから、龍樹が出てきて論法を作るようになったんじゃないかと。
ダンマやサンガを守るため、論法で荊棘の林をめぐらせた。
でも、その論法も「空」という仏法でできているので、「争わない」という特徴を持っていた、のです。

大乗は、部派という山の裾野を形作っている。

[10096] Re:[10094] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/04/01(Sat) 15:21   [返信]
> 「ブッダによって語られない教え」ですね。

頂に立って、自らの眼で見よってことじゃないですかね?

> 部派も、

部派は理論武装してる時点で仏弟子じゃないのではないかと。

論争に沈黙して負けたと思われても別にどうでもいいし、
お布施してくれる在家信者減っても別にどうでもいいやって。

そういう人たちはいなかったのかな?

[10094] Re:[10093] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/04/01(Sat) 14:21   [返信]

> マールンキヤプッタ尊者は比丘じゃないですかね?

比丘ですね。

> 無記が外道用の教えということはないのではないかと思います。多くがここでひっかかる。

外教徒の教えにもとづいて語った、ブッダの、「ブッダによって語られない教え」ですね。
微妙だ!


> 無記はニッバーナに至るための必要条件で、
> 「つとめはげむこと」の重要な内容の一つではないかと。

うむむ、なるほど、ことば(を消すこと)でわかるか、身体の行いでわかるかの違いかもしれないですね。
無記が、中道、四句分別だと納得できれば、下の疑問は消えてしまうかもしれないです。
>
> 輪廻はあると言葉にすれば、じゃ、何が輪廻するの?
> どう輪廻するの?動物になっちゃうの?
> 過去世はどうだったの?来世はどうなるの?
> 地獄ってどういうとこ?天国は?
> きりがないですよね?

そうですねぇ。
これらの問題をスルーせずにそのまま通過してニッバーナにいくには「空」の切符がいりますねぇ。

部派も、逆観に至ると、空観を得ていくのではないでしょうか。自然とそうなるのか、小空経などによる修行によるのかは、よくわからないですが。
偉大な阿羅漢たちは、みな、完全なる清浄行を、ブッダのように「説く」ことができますから、空に通じています。

[10093] Re:[10086] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/04/01(Sat) 13:39   [返信]
> ここを応用すると、輪廻と解脱の教えが出てきます。マールンキャプッタの場合は、十難無記のような外教徒の教えに対してどういう態度をとるか、ということですよね。

マールンキヤプッタ尊者は比丘じゃないですかね?
無記が外道用の教えということはないのではないかと思います。多くがここでひっかかる。

無記はニッバーナに至るための必要条件で、
「つとめはげむこと」の重要な内容の一つではないかと。

輪廻はあると言葉にすれば、じゃ、何が輪廻するの?
どう輪廻するの?動物になっちゃうの?
過去世はどうだったの?来世はどうなるの?
地獄ってどういうとこ?天国は?
きりがないですよね?

先生も修行者も論理的推論を口にしない。(−人−)ムニー

[10088] Re:[10087] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/04/01(Sat) 10:04   [返信]
春間さま

> > ここを ・・・・・・・ マールンキャプッタの場合は、
>
> マールンキャップ に対してであれば、
> あなたに対(機)していない ということになります

いくら何でも、この解釈は。。。

ここも説明する必要があるのでは、苺屋毒蛙さまのあげてくれた意味を、わたしがうまくとっていないということか。。

「マールンキャプッタの場合は」というのは、この経典の場合は、ということでもあります。
ブッダとマールンキャプッタとの対話の内容を考えると、「世界は永遠である」「永遠でない」などの説に、答えない、語らない、という、ブッダの教えの確認になりますが、その教えの中に、「始まりも終わりもない」も入る と、苺屋毒蛙さまが考えているのかな、と思ったのです。

一方、「これは間違っている!仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ!」と語ったその文の中の「仏教では」という部分に目をつけると、仏教では、こう教えているだろう、と解釈してみたのが、ブッダの公式を用いた縁起による言い方です。

始まりがあるとき終わりがある、とも説き、始まりがなければ終わりがない、とも説いたのが、ブッダである

ということになりますか。

また、さらに、「始まりがあるのではなく終わりがあるのではない」とも諸仏は語るかもしれません。中道です。(これは、わたしは見ていませんが、可能性としてはありうると思いますので)

あらゆる語りの可能性はあるとは思いますが、

> 「これは間違っている!仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ!」

について、問題になるのは、もしかすると「これは間違っている!」と決めつけた、その不寛容な態度であったかもしれません。これによって、ブッダの教えからはずれていく事になったのかもしれないです。

ヘタをすると、「 仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ! 」ということばは、そのまま(ドグマとして)通用してしまうかもしれないので、そこを心配して検討したのです。

[10087] Re:[10086] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/04/01(Sat) 08:25   [返信]


> > >それだから、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして、語られたものは、語られたものと憶持しなさい。

> 対機説法の要素が強く出てきそうですね。整理してみますか。
   整理できたかな ?
> ここを ・・・・・・・ マールンキャプッタの場合は、

マールンキャップ に対してであれば、
あなたに対(機)していない ということになります

あなたに 語られていると 聞くとき すべての人に語られていて
その聞き耳を立てる人に “わたし” → 語り主とされる者  が入ります

言う者にとって 真理であるから 聞く者にとって 真理であるのです
( 言うだけでは 真理ではありません   聞く者がいて 真理となります )

言って 聞かれて そのまま テキテキと受けとめられる
そのとき その言は 真理の要素を具備しています (聞き耳を立てる人を選ばない)

> <これ>があるとき<これ>がある (<これ>が生ずるから<これ>が生ずる)
> <これ>がないとき<これ>がない (<これ>が滅するから<これ>が滅する)
> これを用いると、ブッダの教えにかなうのではないかと思います。

ま  いわゆる 教条主義  です

> <始め>があるとき<終わり>がある
> <始め>がないとき<終わり>がない
> ここを応用すると、

応用してはいけない
応用は 自分なり に 主導されている


> 縁起で理解できるなら、ブッダの語ったことの中に入ると見ることができると思います。

それは  アクマデモ  あなたの“思い”の中 で 起きる事です
入っているかいないかは
出てから見えるけれど
迷いに入ると 迷いしか見えない
すべての 正しいこと・顛倒にあること は “等価” となって 一様に分布する

> 悟りをめざす修行者の道 と 輪廻に迷う凡夫の境涯 が、上と下の式から、浮かんできます。

どっから見ている 浮かんでいる姿

波に漂う 浮かばれぬ命 、、、、


> > それを見て、その人は「これは間違っている!仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ!」

仏教では   “そうは教えない” けれど
そう教える人は “そう言う”   と 言うことを  基盤にして語る

> 断定して語っているから、仏教は「始まりもなければ終わりもない」をテーゼとしているという意味かな?
> そうなら、ブッダによって語られなかったことである、と言えますかね。

言えません
たとえ 言える  といおうと
事実 = 真理の姿 は 変わるわけではない

> 「(世界には)始まりもなく、終わりもない」とは、ブッダによって語られなかったことである、と憶持しなさい
> ということで、どうかな。

言葉から 何を聞くかは
言う人の領域であるけれど
聞く人によって 支えられている
支えが 脆弱なら 立っていても 倒れやすい 姿であるかのごとき 、、、、、

問題は 支えられて立つモノの脆弱さ  ではなく
脆弱に支える それが 脆弱によって 支えられている   ということです

仏陀 は 真理を示すことができるから ブッダ と 呼ばれます
示し 示されても
   支える という 行いによって 支える者の 歩む道が
堅固に重なって いかなる堅固なる道かということを 形成していきます

道はすべて繋がって 一つの道しかないけれど
中道 だけを 歩むと 歩みは  タ ヤス イ
偏によると 歩みにくくなる 、、、、

テキテキ と受けるには
受ける位置を 選ばなければ 、、、、

その位置 を 「 信仰 」 とも 呼びます


[10086] Re:[10085] 仏教とはxxだ。仏教では○○だ。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/04/01(Sat) 07:53   [返信]

> >それを見て、その人は「これは間違っている!仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ!」
>
> >輪廻からの解脱をめざすのが、ブッダの教えだとすれば、また、ちがってきますよね。

> >それだから、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして、語られたものは、語られたものと憶持しなさい。

対機説法の要素が強く出てきそうですね。整理してみますか。


<これ>があるとき<これ>がある (<これ>が生ずるから<これ>が生ずる)
<これ>がないとき<これ>がない (<これ>が滅するから<これ>が滅する)

これを用いると、ブッダの教えにかなうのではないかと思います。

<始め>があるとき<終わり>がある
<始め>がないとき<終わり>がない

ここを応用すると、輪廻と解脱の教えが出てきます。マールンキャプッタの場合は、十難無記のような外教徒の教えに対してどういう態度をとるか、ということですよね。

縁起で理解できるなら、ブッダの語ったことの中に入ると見ることができると思います。
悟りをめざす修行者の道 と 輪廻に迷う凡夫の境涯 が、上と下の式から、浮かんできます。

> それを見て、その人は「これは間違っている!仏教では始めも無ければ終わりもないと教えるんだ!」

断定して語っているから、仏教は「始まりもなければ終わりもない」をテーゼとしているという意味かな?
そうなら、ブッダによって語られなかったことである、と言えますかね。

「(世界には)始まりもなく、終わりもない」とは、ブッダによって語られなかったことである、と憶持しなさい

ということで、どうかな。

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