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[10021] Re:[10019]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:みどり 投稿日:2017/03/07(Tue) 14:57   [返信]
> その人は、密教では「怒り」を肯定すると言って、
> 本人の想定した「神の働き」のもと、周囲の人々に怒りを焚き付けて喜んでいました。

思えば、その人は自分の思い通りに操るために、道具として
「怒り」を利用したのだと思います。

出会った時から、毎夜続いたその人の精神界にまつわるの話の中で、ある時、その人は『法句經』から以下の経文を指で示しました。

「ほれ、ここに、こう書いたある」と。

二〇 經文を誦むこと少なしと雖も、法を遵行し、貪瞋癡を棄て、知識正當に、心全く解脱し、此世他世ともに執著することなき、彼は宗教家の列に入る。

仏教の思想やその言葉も何一つ知らないわたしが理解できたのは

「経文を誦むこと少なしと雖も・・・宗教家の列に入る」の部分だけでした。

そして、そのまま、その人が宗教家の列に入る人だと、信じたのです。

ある時を境に、本人は「騙された!」と繰り返し、
わたしをなじりだしました。

果たして、騙したのはどちらだったか?

もし、この世界のどこかで精神界の真理を明かす、厳粛なる法廷が開かれたなら、
わたしは、その経文を、唯一つの証拠として提出することになるでしょう。

「仏教を東大で学んだお前は「貪瞋痴を棄て」の意味を知らなかったのか?」
「知っていたなら、その時、お前は「貪瞋痴」を棄て去っていたと自覚していたか?」

裁判官はその人に尋ねることでしょう。

[10019] Re:[10018]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:みどり 投稿日:2017/03/07(Tue) 11:46   [返信]
その人は「自分は真理に繋がている稀有なる存在」であると言っていました。ですから、そういうこともできたのでしょう。

バッハの音楽に触れて、落涙し、「自分は神に慰められている!」
と感じた体験を、わたしにしきりに告げていました。
それを宇宙に偏在する「真理」と交わる真理体験だとしていたようでした。

「真理」だとして語られる個人にまつわる体験は、何を出されても外から否定することはできません。

分からないから。

しかし、その体験の解釈や、そこから押し広げて人々に語った、その人の世界はどうだったのでしょうか。

そして、何より、その世界に人々を引き入れようとする本人の
動機や意図に、本人がそのまま「神の働き」を観るとして
いたのは、どうだったのでしょうか。

「貪・瞋・痴」にまみれた、悪趣だったと思うのです。

その人は、密教では「怒り」を肯定すると言って、
本人の想定した「神の働き」のもと、周囲の人々に怒りを焚き付けて喜んでいました。

人の怒りは突き進むところ、想念の中で、仏の存在とその救済の働きを、消し去ってしまいます。
恐ろしいことです。最近、わたしはそれを知り、愕然としました。

おそらく、その人は、そういうことも知っていたでしょう。
しかし、本人が知っていても愕然としないのは、
真理だとした本人の体験の「解釈」に、
疑義を持たなかったためだったと思います。

あるいは、疑義を持たない方が本人の活動に都合が良かったからのようにも思います。

『哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子
苦しいかな、痛いかな、狂酔の人
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る』

その人が嬉しそうに披露した弘法の偈も、
人を操る道具になっていたように思います。

その時、喜ぶ顔つきは

> 「これじゃ!!!」「これが真理じゃ!」

と言った時と重なります。

[10018] Re:[10016]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:みどり 投稿日:2017/03/06(Mon) 16:28   [返信]
> 「これじゃ!!!」「これが真理じゃ!」

少し興奮気味にその言葉を吐くその人の顔に邪悪の影を観たと思ったのは、
今だからかも知れません。

弘法大師を信仰しているとも本人は言ってましたね。

[10016] Re:[10015]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:みどり 投稿日:2017/03/06(Mon) 12:08   [返信]
> わかっていることに真理はありません
> 真理は 分かることではないのです
>
> 言い替えると
> 分かったことはすべて 悪趣 にある ということです
>
> 分からないところに 真理があります
> 真理があるところには 分かることはありません
> 真理 は 真理には ない
>
> もし
> わたしの言うことが分かるのなら、それは(わたしの言うことは)真理ではない
> もし 分からなければ
> それは(わたしの言うことは) ( 必ず! ) 真理です
>
> 真理ではないと分かったことは 真理ではない
> (このことは、自分を例外とすれば、だれでもそう思うことです)
> 分かった対象も、真理ではなく
> 分かるということが起きる所在(自分の理解)も 真理にはない
> ( ここが 大事の 対自の 対峙する “ところ”です )
>
> 真理を分かれば 真理は 存在をなくす
> あるない は あるない を 言う人にある
> ある と ない とは 「縁起」 です  ( 空です )
>
> 「空」 と 分かれば それは 「空」 ではなく 「有」 です
>
> 「苦」 の 「有」 を PPAP のように続けると 「 くう うく 」 となる
>
> 分かるなら これは 真理ではない
> 分からないなら 真理ではないとは 言う根拠にない
> もう一度繰り返します
> どのように部分的であろうと、全体であろうと
> 分かることは真理ではない
>
> 真理が分かる 理由がない
>
ある日、
「自分は神に動かされている人生である」と言っていた人が
椅子にゆったりと座り、わたしの前でこういう自問を
自信気に披露しました。

「もし誰かがわたしに「真理とは何か?」と問うたなら・・・」

そして、次の瞬間、その人は右手に拳(こぶし)を作り、
自身の顔の前に強く差し上げて、

「これじゃ!!!」「これが真理じゃ!」

と答えるのだそうです。

何か、こういう話を思い出しました。

[10015]  真理ようと 真理まいと 真理ではなく 信自である  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/03/06(Mon) 03:02   [返信]

わかっていることに真理はありません
真理は 分かることではないのです

言い替えると
分かったことはすべて 悪趣 にある ということです

分からないところに 真理があります
真理があるところには 分かることはありません
真理 は 真理には ない

もし
わたしの言うことが分かるのなら、それは(わたしの言うことは)真理ではない
もし 分からなければ
それは(わたしの言うことは) ( 必ず! ) 真理です

真理ではないと分かったことは 真理ではない
(このことは、自分を例外とすれば、だれでもそう思うことです)
分かった対象も、真理ではなく
分かるということが起きる所在(自分の理解)も 真理にはない
( ここが 大事の 対自の 対峙する “ところ”です )

真理を分かれば 真理は 存在をなくす
あるない は あるない を 言う人にある
ある と ない とは 「縁起」 です  ( 空です )

「空」 と 分かれば それは 「空」 ではなく 「有」 です

「苦」 の 「有」 を PPAP のように続けると 「 くう うく 」 となる

分かるなら これは 真理ではない
分からないなら 真理ではないとは 言う根拠にない
もう一度繰り返します
どのように部分的であろうと、全体であろうと
分かることは真理ではない

真理が分かる 理由がない


[10014] Re:[10013] 心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/28(Tue) 08:23   [返信]
pocketさま

パーリ語もありがとうございます。

「夜煙を出す」ってのが、わたしだなあって、思って親しみを感じます。

これは、龍樹が歩んだやり方ではないかと思ってます。
> namo karohiで「帰依しなさい」なんですね。
>
> 日本語の語感の問題かもしれませんが、私は「帰依」という言葉に信じていなかったものを新しく信仰するようになる、みたいな感じを受けました。
>
> 私なら「礼拝しなさい」と表現するかなあ

なるほど。名詞にすれば、ナマスカーラで、そのものずばりですものね。
「挨拶しなさい」とか「礼拝しなさい」とかでいいかもですね。

「帰依しなさい」だと「サラナン ガッチャティ」ということばを連想してしまうか。。

うーん。。。そうかあ。。たしかに。。

よし! pocketさまの意見を採用して、訂正しておきます。

「礼拝しなさい」を採用します。

[10013] Re:[10011] 心にしみる原始仏典 投稿者:pocket 投稿日:2017/02/28(Tue) 00:37   [返信]
ナゾナゾみたいで楽しいお経ですね!
ベリーナイスです(´・ω・`)b

こういう話だったら経典を読むのが楽しくなっちゃいますね


パーリ文も貼っておこう。著作権的にやさしいスリランカ版です

1.3.3.
Vammikasuttam.

http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/MN_I_utf8.html#pts.142

ところで
namo karohiで「帰依しなさい」なんですね。

日本語の語感の問題かもしれませんが、私は「帰依」という言葉に信じていなかったものを新しく信仰するようになる、みたいな感じを受けました。

私なら「礼拝しなさい」と表現するかなあ

[10012] 案外 案内    案内不要    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/27(Mon) 13:23   [返信]

わかって  そして  止める  のではなく
止める から それがわかる のでもなく

分かる と やめる  とは 同時に起きています

やめたときには 分かる対象がすでにない
( やめなければならないことが 存在しない )

自分にないのに 他にあると分かる根拠はない
自分にあれば  わかっていない

顛倒にあるとき(無明にあると)
わかれば やめることができると 思い間違う
やめることができるのなら、やめないことも選択できる

選択肢にある “内” は どちらも 「 真理 」 ではない

内外  が あるとき には  外  という  偏にある

外から見た “内外” なのです
( 外の 外にある とは 思いつかない 、、、、 )

それは 内の内 といっても 何ら変わりがない 、、、、


[10011] Re:[10010] 心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/26(Sun) 01:50   [返信]
> 「蟻塚の喩え」(『マッジマ・ニカーヤ』第23経)を入れました。
>
> おもしろい経典ですよね。龍(ナーガ)が出てくるのがいいな!

リンクしておきますね。

http://manikana.la.coocan.jp/canon/vammika.html

[10010] 心にしみる原始仏典 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/25(Sat) 23:35   [返信]
「蟻塚の喩え」(『マッジマ・ニカーヤ』第23経)を入れました。

おもしろい経典ですよね。龍(ナーガ)が出てくるのがいいな!

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