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[11811] Re:[11809] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/21(Thu) 23:31   [返信]

>   最も言いたいことですが、とりあえず。

> > 取りあえずは 前提は 正しいことである
> >     としなければ、
> > 論 に付随する ( わたしの )言及は  根拠を持たないこととなる

>   正しいとか正しくないとかでもない。

わたしの言っていることが 通じてはいない
正しく とか 正しくなく   とかでもない。

取り敢えずは、 「識」 が 立てば、 正しいのです
しかし  「 識 」  だから、
「 無明 」 に 起きている
ゆえに、
正しくないことを(  「 識 」 を )
起こし直す

そういうことを 通じさせようと しているけれど
通じていることは、
通じていないこととなる


[11810]  風信帖 第一帖   投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/21(Thu) 22:34   [返信]

通じるということは
あなたの元を離れて、 わたしが 離れたモノを得る
ということで、
わたしが あなたの処へ行く  ということです

あなたの処へ行く
 ということは
共建 ということです

降赴 と 躋攀 とは  「 縁起 」  です

空海 が  「 縁起 」 を 知らぬと 思っていますか ?


先の応答 は  すべてそこに起きています



[11809] Re:[11807] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/21(Thu) 21:53   [返信]

> 空海 のこと  は  知っています
> この二十年間  ( と 区切りを起こしても ) 
> 毎日 “ 出会っています ”
>
> そのようなことでは、 “出会い” とは言えない
> と 評されるのなら
> あなたは、 どのように 何と 出会いを持っていますか ?


そうなら、私が、空海と出会ったのもわかるでしょう。


> わたしは、 毎日会って、 毎日会話を交わしています

うーん。。毎日会っているかどうかではなく、空海の述べたことを受け取ったかどうか、ということです。
それは、一回しか起こりません。

> あなたの言うところの、 “ 使い方 ” を 訊ねたことはなく、
> 使い方を 訊ねられることも、
> 最初の出会いから 一度もありません
> 故に、 “ 空海の使い方 ” なるモノを  わたしは知らない
> わたしは、 わたしの使い方で 使い方を知る

そうですか。


> 重ねて、 重ならないところがあるのであれば、
> わたしは 空海と 巡り合い を 得てはいない
> ( 空海は わたしのことなど 知りもしない )
>
> 分かってはいない  と するから、
> 分かる ということを 得させたい

いや、分かる ということを 得させたいのではなくて、
分かるなら、話が通じる、というだけです。

> わたしには 得たいモノが すべて 与えられている
> だから、 恵( 仏恩 ) に いつも出会っている  →   「 法仏恩徳 共建法幢 」


空海の書いていることを読むことだけなんですが。


> この 文章 の 意味は 誤りがなかろうと
> その意味を 当てはめられない  わたしの 言葉づかい  は  誤っている 
>    そういう前提を建てて、その上で、 下で
> わたしの誤りを 糾弾している

ああ、違いますよ。
別に糾弾しているわけでも何でもないです。


> 取り敢えずは 前提は 正しいことである
>     としなければ、
> 論 に付随する ( わたしの )言及は  根拠を持たないこととなる

正しいとか正しくないとかでもない。


大乗のもつ窮屈さを払いのけて、密教の世界が開かれているのだということを、

空海から教わりました。

言葉の魔術師、と言えるかもしれない。
ものすごい天才だと、以前にも知ってはいたけれど、
改めて感じ入りました。

仏教は、人類の宝を山のように抱えています。
空海は、言語学者で論理学者でもあります。それ以上である、というのが、最も言いたいことですが、とりあえず。

[11808]   あと一押し   投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/21(Thu) 21:40   [返信]

何の為に 仏教 は あると思いますか ?

バック オーライ

論理を 求めるために 教理があるのではありません

タスクる者を 自らタスク
God helps those who help themselves.
の 訳ではありません

タスクること
それが TASK です

溺れる者を 助るために 仏はおわす

この意味を生きる


[11807] Re:[11806] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/21(Thu) 08:46   [返信]

この文は 席を離れる   前提で 作っているから、
     「 莫々責々也 因還人 不具 」
後 に於いて、 削除 校訂 される可能性を秘めています

その 不味いところを 発見するのなら、
C&P して 保存の上、 意見を してください

***********

> > 自己責任 という 責任を逃れる 便利な思想
>    巷ではそうかもしれません。

「 わたし には 自我はない 」  と 自我から語る
  「わたし」 が すでに  「自我」 です

自我ではなければ、 自我 がなく
  自我がないから、 わたし もない

あなたの自我 に  語りかけます
  「 自己責任 」 で  聞いてください


わたしは あなたと共に 「 巷 」 に 住処を置きます

>   空海の使い方を「自己責任」と言っているのです。

空海 のこと  は  知っています
この二十年間  ( と 区切りを起こしても ) 
毎日 “ 出会っています ”

そのようなことでは、 “出会い” とは言えない
と 評されるのなら
あなたは、 どのように 何と 出会いを持っていますか ?

わたしは、 毎日会って、 毎日会話を交わしています

あなたの言うところの、 “ 使い方 ” を 訊ねたことはなく、
使い方を 訊ねられることも、
最初の出会いから 一度もありません
故に、 “ 空海の使い方 ” なるモノを  わたしは知らない
わたしは、 わたしの使い方で 使い方を知る

あなたに “ 空海の使い方 ” が あるのなら
“わたしの使い方”  を  それと 重ねてください
重ねて、 重ならないところがあるのであれば、
わたしは 空海と 巡り合い を 得てはいない
( 空海は わたしのことなど 知りもしない )

>   ここは、分かってもらいたい。

分かってはいない  と するから、
分かる ということを 得させたい

分かってますよ !

わたしには 得たいモノが すべて 与えられている
だから、 恵( 仏恩 ) に いつも出会っている  →   「 法仏恩徳 共建法幢 」


>  空海の言葉づかいです。
>  自己があるかのように語る語りによって、さらに、智者にお許しを願うと懇願の様相を採ることによって、>  解釈を出しているのです。

これが、 わたしの言葉づかい に対する、 あなたの 「 商量 」 ではなく
あなたの真理  であるなら
あなたは、 その 「 真理を保持する 仏陀 」   です

「 商量 」 は いかようにも変わるから 「 無常 」 です
「 真理 」 は  「 恒常 」  です

>   空海の言葉づかいです。
自己があるかのように語る語りによって、さらに、智者にお許しを願うと懇願の様相を採ることによって、解釈を出しているのです。
世間にあるので、世間の言葉づかいをしています。
しかし、この場は言うべき場であり、言うべき時間であると知って、空海は、何があっても「言う」という行為をやめないでしょう。
その決意が伝わるので、世間に合わせて
これが、本当の 「 自己責任 」ということだと思うと、述べたのです。   <

この 文章 の 意味は 誤りがなかろうと
その意味を 当てはめられない  わたしの 言葉づかい  は  誤っている 
   そういう前提を建てて、その上で、 下で
わたしの誤りを 糾弾している


取り敢えずは 前提は 正しいことである
    としなければ、
論 に付随する ( わたしの )言及は  根拠を持たないこととなる


この構造 を  あちらで  述べています


[11806] Re:[11805] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/21(Thu) 07:02   [返信]
>
> >  語ることばは自己責任、ということですよね。
>
> 自己責任 という 責任を逃れる 便利な思想

巷ではそうかもしれません。


> 責任 は 他に対することによって、 起きます


使い方だと思います。
空海は、他者の判断を仰いでいます。
「智者にお断り申しあげるだけですよ」ということを述べています。

空海の使い方を「自己責任」と言っているのです。
ここは、分かってもらいたい。


空海の言葉づかいです。
自己があるかのように語る語りによって、さらに、智者にお許しを願うと懇願の様相を採ることによって、解釈を出しているのです。

世間にあるので、世間の言葉づかいをしています。
しかし、この場は言うべき場であり、言うべき時間であると知って、空海は、何があっても「言う」という行為をやめないでしょう。

その決意が伝わるので、世間に合わせて

これが、本当の 「 自己責任 」ということだと思うと、述べたのです。


『般若心経秘鍵』は、大乗を超えた密教の解釈を施す重要な書だと思います。
そうする是非を問われて(あるいは、咎められて)

空海は、そうする決意を、このように語っていると思います。


仏教には、単なる概論書というのはないのです。
必ず、「自分の」解釈になるのです。なぜなら、自我がある場合が大半だから。

[11805] Re:[11804] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/20(Wed) 09:11   [返信]

>  語ることばは自己責任、ということですよね。

自己責任 という 責任を逃れる 便利な思想
責任 は 他に対することによって、 起きます

自己の世界では、 何ら責任を負うべきことはありません
責任 が “  自己の正体 ” です

その 「 正体 」 が ない
ということが、 「 仏教 = 仏の行ないであり、 説き賜う事 」 です 

わたしは 責任を回避しています
諸仏 が
   責任を負っていてくれる から    です

「 信 」 を起こすと
      「 楽 」 が 起きている  
と     身に染みる          、、、、


[11804] Re:[11803] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/20(Wed) 05:19   [返信]
> わたしの 「 識 」 は 認識から 逃れられるでしょうか ?

認識からは逃れられないです。 認識の中にも「識」という文字は入っている。

そこを離れては、あの空海すら成り立たない、と思います。
だから、以下のように述べるのですね。
>
>    「聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、
>       賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ。
>       吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか、
>       言うまじければ言わざるか。
>       言うまじきを之を言えらん失、智人、断りたまえまくのみ。」

「言うまじきを之を言えらん失、智人、断りたまえまくのみ」
(言ってはいけないことを言っているとしたら、その失(とが)を、智者はどうぞ許してください)

こういう思いをもつことが、まさに、“仏教”だなと思います。
語ることばは自己責任、ということですよね。

その人の中で、どれだけ必然性があるかにも関わってきます。
諸仏と等覚である時、ことばは発せられます。

[11803] Re:[11802] 認識論的観点から 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/11/19(Tue) 08:44   [返信]
管理人エム 様


人間 は 「 認識 」 です

人間であることを 人間の認識で知る
(ある考え・ あるモノ ・ ある あり様 を )
人間あるいは、人間的 ではない と  認識 ・ 「 識 」   に乗せる
( 認識主体は、 認識できない )

人間は 「 空 」 である

しかし、 「 如是我聞 」 は 認識ではなく
敢えて、 「 我聞 」 と 置くから、 認識を 逃れ得る 「 如是 」 なのです

そのようなことは、 “ 当たり前の前提です ”  と
ショーシャンク様 が 言う
“当たり前の認識”  は  言い換えると   “ 如是 ” の 認識   となります

認識 は 如是 ではないのです

しからば、 「 如是 」 は 如何にあるか ?

認識 が 如是  なのです ( どのように認識しているか は、 解釈 です )

わたしの 「 識 」 は 認識から 逃れられるでしょうか ?

   「聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、
      賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ。
      吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか、
      言うまじければ言わざるか。
      言うまじきを之を言えらん失、智人、断りたまえまくのみ。」


[11802] 認識論的観点から 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/11/19(Tue) 07:44   [返信]

そう言えば、クワインに『論理学的観点から』という書があったな、と
思って、この書き込みのタイトルを「認識論的観点から」と真似してみました。

ブッダの場合、「一切」とは、六処とその対象に限定されますので、
その範疇で考えるなら、誰かの「認識」と、まずは考えられます。

ここを押さえて語る時、仏教の語りになると考えられます。
そうでないときは、非仏教の語りと言えるでしょう。

『歴史上のブッダ』について論じられていますが、この『歴史上のブッダ』ですらも、誰かの認識として語られて初めて、仏教の語りになるのです。そうですよね。

アーナンダが聞いたことばとして、サーリプッタが聞いたことばとして、他にも多くの者たちが『歴史上のブッダ』の言行を残しています。

大乗経典にも「如是我聞」があるのは、もっともな事です。誰かの認識なのですから。


そこで、たまたまwikを見ていたのです。「苦」というのがあったので、見ていたらびっくりしました。

「スマ長老によれば」とあって、ドゥッカには、「苦しみ」「虚しい事」「不完全である事」「無常である事」の四つの意味が含まれる、とありました。スマ長老の認識によるドゥッカの説明ですね。

ほんとに、そう書いてある。ショーシャンクさまのお話どおりです!
確かに、ショーシャンクさまではないけど、心配になってきますね。

さらに、wikには、覚りを得ても病気の苦痛はなくならないともあり、仏典には肉体的な苦痛に耐える釈迦が描かれている、とも、また、釈迦が病死した事は間違いない、とも書かれています。

「苦痛がなくならない」というのは誰の認識なのだろう、仏典において「苦痛に耐える釈迦」と見たのは誰の認識なのだろう、「釈迦が病死した」と断定するのは、誰の認識なのだろう。

また、wikには、

「苦(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なる。

とも書いてありますが、これも誰の認識なのかよく分かりません。
ここは註をつけるところだと思います。「誰の認識なのか」と書いたところには、皆、註がつけられなければならないでしょう。典拠をあげなくちゃ。

「ブッダが説いた」と認識されている「四苦八苦」は、項目だけで、その内容には触れていません。

「四諦の4つすべては苦に関する真理である。仏教は、このドゥッカの滅尽をめざす学問体系である。」

とwikで述べながら、四苦八苦を語らないのは、何だろうか。


ブッダの教えは、捨てられてきているのじゃなかろうね。

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