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[10486]  あっちゃこっちゃ ゴチャゴッチャ  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/20(Mon) 09:40   [返信]

“わたし”  が  断定して述べる事柄 は 「縁起」 を 外さない
外していないから そこには 「 縁起 」 は 起きていない

そこ に 縁起を起こす  ことはできる

それは 
知られている知識  によって 言い表されると する(される)
  “ 名字 ”     なので  あるから

それは
  読まれて 解釈されて 知られる
   とする   事柄( 事実は 論理ではなく  論理は 真理 )     であるから

わたし  は  読んで  解釈 を 起こし  理解する( 断定 ! )

理解 には 常に 断定が起きる
断定 を 起こさないと  「論」 ・ 解釈  が 成り立たないから 、、、、

こういうことが 分かるのは ブッダ です

わたし  は 解釈しつつ 分からない道に歩みを進めている
( こういうことを 賢治は 「わたくしは修羅をあるいてゐるのだから」 と 表わす   『 無声慟哭 』 )


[10485]  英語 と ドイツ語    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/20(Mon) 09:12   [返信]

英語とドイツ語は 親密な関係性 にある

https://www.jawhm.or.jp/blog/fukuokablog/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%81%8A%E5%BD%B9%E7%AB%8B%E3%81%A1%E6%83%85%E5%A0%B1/1272/


英国の英語  の
 発音を聞く と  ドイツ語との親密性がよくわかる


[10484] Re:[10483] 論理哲学論考   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/20(Mon) 08:59   [返信]

http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html


 《 形式的特徴 と 形式的関係   と 内的関係 性  》

   《 》 内は 読者が 付加したモノ である


2.01231
対象を知るためには、その外的性質を知る必要はない。しかしそのすべての内的性質*を知らなければならない。
    《 内外 及び 関係 の 「世間」性 》

2.01231

Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht seine externen - aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.
英1
In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities.
英2
If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its internal properties.


4.122
ある意味でわれわれは、対象や事態の形式的性質について、又事実の構造の性質について論じることができる。また同じ意味で、形式的関係や構造の関係について論じることもできる。
(構造の性質と言う代わりに、私はまた「内的性質」とも言う。そして構造の関係の代わりに「内的関係」と。
私がこうした表現を持ち込むのは、なぜかくも多くの哲学者たちが内的性質と狭義の(外的)性質を混同するのか、その理由を明らかにしたいからである。)
しかし、こうした内的性質や  内的関係  の成立は、命題によってでは主張できない。それはその事態を描写し、その対象を扱う命題のうちに、おのずから示される。

4.1221
事実の内的性質を、われわれはまた事実の 相貌 《 内的関係 》  と呼ぶことができよう。(たとえば、人相について語るときのような意味で。)

4.123
ある性質は、その対象がそれをもたないとは考えられないとき、  内的性質  である。
(この青色とあの青色は、おのずから、より明るい/より暗いという 内的関係《外的関係》  に ある。これら二つの対象がその関係にないとは考えられない。)
    《  関係性は 世間 に於いて 起き  真理は どこにでも起きている  》
(ここで「性質」や「関係」という語の用法の揺らぎに、  「対象」  という  語の用法の揺らぎ が対応している。)


[10483] Re:[10482] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/20(Mon) 07:38   [返信]

> > いくら   不可得 と されていることが   可得 であろうと
> > 不可得から 不可得を 引き算することは 不可得

>    何から何を引くのか、わかっていないようですね。

> > >  “  (みな) ”   不可得である    から
> > >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

>    このことについて、ご自分で、次のように言っておられたではありませんか。

> >  懇切丁寧ではありませんが
> >  必要十分ではあります

>    1)2)3)と分けて説いたところについて、「みな 不可得」で、さらに「不可得も不可得」で、必要十分ということでしょう?

>   以上で、般若経典に述べるところは、必要十分で完結していると、ご自分の理解を述べているのだと理解しています。

>   そうすると、最後の「不可得空なるが故に」とある、最後の一文字「空」について語られていないことになります。まあ、実際、語られていません。

>    ですから、「空」を忘れています、と指摘したのです。

わたしが 忘れていれば 指摘は 指摘する  “  的  ” を 得る
忘れる のと 言わ“ない” のとは  意味が違うし
“ない” ことが起きる  階梯も 違う


> >  足そうが 引こうが 「空」 は どこからでも出てきて どこにでも見いだせるから
> >  あるとも言えず ない(からっぽ)とも言えない

> >  誰でも持っているモノに 存在の疑問は 起こすところがない

>    なんて、今さら言っても、遅い!

 今さら遅い
「 分かれる 切れる は 芸者の時に言う言葉 」
チャッタ
「 別れろ切れろは芸者の時にいう言葉 」

いつ知っても 今知ったこと
今知ったことでも すでに知られた事
すでに知られたことを 知ろうとする と 知る

( 素人 は 玄人 から抜けて 知ろう徒 になったことを 知ろうとしない )


とって つけただけのもので
後付けできるモノであれば あなたの言は 普通に生きる人の生にも 当てはまる
( 芸者 の 概念は 普通人の世間に外れます )

>  春間さまにとっては、ただ「空」の文字は、不可得だったのだ、とこちらは、認識するばかりです。


さきに 言っておいた言葉を いい加減に読む
いい加減に生きる時  好き勝手の  感情に  生きる
「 “あらゆること” を “自分” を カンジョウにいれず  よくみ きき し ソ シテ  わかり 」

ここにおいては  “あらゆること” と “自分”  とが (文章構成上の約束では)離別しています
そのあとに
「 よく み きき し 」  が 欲 なく  善く 建立 されています
二つ合わさると 賢治の生き様が 見えてきます 、、、、

「 し (ている) 」 ことが 顕わされる 、、、、、


あなたが 分かったのは わたしの生きざまを通す あなたの生き様です

( それにつて 善い悪い  の 「揀択」 を わたしは起こしません )
「 揀択 」 = 解釈  は 「有」 の 世間 において 縁起します
そこにおいても 正しい記述は 起き得ます
何が正しいかは あなたの解釈に依ります
援軍を頼んでも 結局は 自分の中での 他人との対決があり
自分の中 での 「ジナ」が 起きる

(  まことに 「神」 は あらゆるところに  オワス    ユビキタス    )



>    立場をとるとすれば、引き算ではなく、違う計算をしたかもしれません。しかし、この展開は、この展開としてこの場に顕れているので、これしかありえなかった、ということになるでしょう。

なります  と 断定できることを
断定して 述べなさい

そういうことに  “ なるでしょう ? ”


[10482] Re:[10481] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/20(Mon) 04:30   [返信]
>
> > >  “  (みな) ”   不可得である    から
> > >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている
>
> >   そうすると、あと、引き算すると 「空」が出てきますね。
>
> いくら   不可得 と されていることが   可得 であろうと
> 不可得から 不可得を 引き算することは 不可得

何から何を引くのか、わかっていないようですね。

> > >  “  (みな) ”   不可得である    から
> > >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている
>
このことについて、ご自分で、次のように言っておられたではありませんか。

> 懇切丁寧ではありませんが
> 必要十分ではあります

1)2)3)と分けて説いたところについて、「みな 不可得」で、さらに「不可得も不可得」で、必要十分ということでしょう?

以上で、般若経典に述べるところは、必要十分で完結していると、ご自分の理解を述べているのだと理解しています。

そうすると、最後の「不可得空なるが故に」とある、最後の一文字「空」について語られていないことになります。まあ、実際、語られていません。

ですから、「空」を忘れています、と指摘したのです。

>
> 足そうが 引こうが 「空」 は どこからでも出てきて どこにでも見いだせるから
> あるとも言えず ない(からっぽ)とも言えない
>
> 誰でも持っているモノに 存在の疑問は 起こすところがない

なんて、今さら言っても、遅い!

春間さまにとっては、ただ「空」の文字は、不可得だったのだ、とこちらは、認識するばかりです。


> >  と経典には「空」の字があるわけですから、春間さまの理解の「不可得である」を
> >  「不可得空である」から、引くならば、「空」の一文字が残ります。
>
> ずいぶんと  乱暴な  組(織されている)論 です

> わたしは 言語上の約束事から 意味するところを 明かしているだけです
> 必ずしも 「空」 にあって 言わなければならないことではなく
> 「有」 の 立場でも 「論」 が 通るように 言葉を組み上げています
> どちらから読んでも 正しく作ってあるのです


「有」に寄りすぎて、空を忘れましたね。


>
> 意味がないわけではありません
> 意味を求めるときには 正しい意味があり
> 意味を求めない時にも 「空」 である  のです

> 「てんでんばらばらである 」  から 「てんでんである」 を ひくと 「ばらばら」 になりますか ?

意味を求めない時にも「空」であれば、「てんでんばらばらである」から「てんでんである」を引いても「ばらばら」にはならない?


> > 「空」とは、したがって、「からっぽ」ということになりましょう。
>
> どの立場から言うと 「からっぽ」 に なりますか ?

「ただ字だけがある」という立場です。
理由は、(みな)不可得だから。

ですが、

> > >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

というなら、それは、般若経の言うとおりではありません。


“みな不可得である”  ということは  不可得空である  とされている


としなければ、般若経典の言うとおりにはなりません。
だから、「有」の立場に立つと見て、引き算をして「空」を出しました。
もし、そうでなく、意味を求めなくても「空」であるという立場をとるとすれば、引き算ではなく、違う計算をしたかもしれません。しかし、この展開は、この展開としてこの場に顕れているので、これしかありえなかった、ということになるでしょう。

[10481] Re:[10480] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 22:22   [返信]

> >  “  (みな) ”   不可得である    から
> >  “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

>   そうすると、あと、引き算すると 「空」が出てきますね。

いくら   不可得 と されていることが   可得 であろうと
不可得から 不可得を 引き算することは 不可得

足そうが 引こうが 「空」 は どこからでも出てきて どこにでも見いだせるから
あるとも言えず ない(からっぽ)とも言えない

誰でも持っているモノに 存在の疑問は 起こすところがない
( 誰か一人でも 所有していなければ、 ある・ない が 起きる )

どこにでもあるモノは どこにもない

> > “みな不可得である”  ということも  不可得である
    と  しは した  が
> > “みな不可得である”  ということも  不可得【 空 】である  
    とは  していない

>  と経典には「空」の字があるわけですから、春間さまの理解の「不可得である」を
>  「不可得空である」から、引くならば、「空」の一文字が残ります。

ずいぶんと  乱暴な  組(織されている)論 です

「てんでんばらばらである 」  から 「てんでんである」 を ひくと 「ばらばら」 になりますか ?

>  これは、春間さまにとっては、意味をもたない、なくてもよいことばと考えられますね。

わたしは 言語上の約束事から 意味するところを 明かしているだけです
必ずしも 「空」 にあって 言わなければならないことではなく
「有」 の 立場でも 「論」 が 通るように 言葉を組み上げています
どちらから読んでも 正しく作ってあるのです

意味がないわけではありません
意味を求めるときには 正しい意味があり
意味を求めない時にも 「空」 である  のです

> 「空」とは、したがって、「からっぽ」ということになりましょう。

どの立場から言うと 「からっぽ」 に なりますか ?

さきに 「空間は真理に満ちている」 と 明かした バカ理 です       
>    (   → 空間は真理によって埋め尽くされている  )
( バカ な者 しか わからぬ 理   ばかり言ったから バカ理  です )

ちょっと ( 名字 の )使いように 問題があるかな ?


[10480] Re:[10479] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 16:23   [返信]
> >    不可得(認識され得ず)空であるから。
> > 認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。
>
> わたしには
>       ただ名字だけがある
>       (みな)不可得である
> としか読み取れません
>
> “  (みな) ”   不可得である    から
> “みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

そうすると、あと、引き算すると 「空」が出てきますね。

> “みな不可得である”  ということも  不可得【 空 】である  とされている

と経典には「空」の字があるわけですから、春間さまの理解の「不可得である」を

「不可得空である」から、引くならば、「空」の一文字が残ります。これは、春間さまにとっては、意味をもたない、なくてもよいことばと考えられますね。

「空」とは、したがって、「からっぽ」ということになりましょう。

>
> 懇切丁寧ではありませんが
> 必要十分ではあります

であれば、「空」の言葉だけは、不可得でないことになりますね。

 使い方もわかる。「空」を足しても、言われていることは何の影響も受けないとわかります。からっぽだから。だから、空を使うなら、そのように使うとよいということでしょう。

[10479] Re:[10478] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 15:50   [返信]

> > これのどこが 懇切丁寧ですか

> 1)ただ名字だけがある。
> 2) 我のようなものは、ただ字だけがある。
> 3)みな不可得である。 

>    不可得(認識され得ず)空であるから。
> 認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。

> 懇切丁寧でしょう。

わたしには
      ただ名字だけがある
      (みな)不可得である
としか読み取れません

“  (みな) ”   不可得である    から
“みな不可得である”  ということも  不可得である  とされている

懇切丁寧ではありませんが
必要十分ではあります


[10478] Re:[10476] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 15:02   [返信]
>
> > > > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
>
> > では、ご指名により、ここで。
>
> 指名 ではなく 指摘です
>
> > 菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
> > T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
> > T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
> > T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
> > T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
> > T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
> > T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
> > T0223_.08.0221c19: 得空故。
> > 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
> > 菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> > これが、ブッダ論理学です。
>
> これのどこが 懇切丁寧ですか

1)菩薩は、ただ名字だけがある。
仏も、またただ字だけがある。
般若波羅蜜も、ただ字だけがある。
  色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。

1)では、菩薩や仏について、字だけがある、と述べています。否定ではなく肯定で説かれるので、その意味をただ受けとればよいです。「菩薩が般若波羅蜜を行ずるとき」とあるのを受けて、「般若波羅蜜」が解説されます。これも字だけだと。
それから、五蘊が一つ一つ字だけだと言われますが、これは「人」などに相当して説かれる「法」について、字だけだと言われます。

2) 我のようなものは、ただ字だけがある。
  一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである

次に、「人」に関連して、「わたし」に関することば「我」が説かれます。これらもみな字だけだよんと言われます。ここで、「が」は認識されないと特徴づけられるのが、新しい。なぜ、字だけだといわれるのか、理由も知ることができます。認識されないのは、納得の理由になるでしょう。こうして、我に関するものもみな字だけなので

3) 衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。 
   不可得(認識され得ず)空であるから。

生きてるものや、寿命のある者、行う者や行わせる者など、その働きをもった「人」「我」に関する言葉も、もちろん字だけだといわれます。なぜなら、これらは、認識されないからと言われますが、たしかに、行う者は、そのことばで言われるものを、これだと指し示すことはむずかしいような気がします。何かを行っている人を、この人が「作者」だとしても、行いをやめれば、そうではなくなるし、人によって、その人の行いに注目しなければ、作者と言うことばを与えることもできないでしょう。

認識され得ないものは、空である、とされて、最後に「空」という言葉が説かれ、すべてはそこに集約されていきます。
懇切丁寧でしょう。

[10476] Re:[10474] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 09:52   [返信]

> > > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています

> では、ご指名により、ここで。

指名 ではなく 指摘です

> 菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
> T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
> T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
> T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
> T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
> T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
> T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
> T0223_.08.0221c19: 得空故。
> 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
> 菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> 端折ってしまう言い方で、勝手に探せ、というのではなく、
> 端折ってしまわない言い方で、勝手に探せ、と言いたいのです。

ただ(名)字が あるだけ  では
         それは意味を持ちません
意味を持たないモノは 伝達性にありません
意味がなければ 解する対象となり得ません

名付けられたモノ(コト)には 名付ける意図があり 意図には 伝達があり
伝達(ゴト)は 届いて 届きようによる 意味を持っています

誤解している者に 誤解がない  誤解があるとき 誤解はない

         確認性 には あります

> だから、上をあげました。どこでもいいのです。

 どこでもよければ あげる意味はない
あげたところの意味を伝えて なぜあげたかが決まるが
あげた 名字 には  字だけがある  と されている
あげては    いないところに 意味がある
    から   表象である 名字 を 提示する

> 「不可得なものは、字だけだと考えなさい。(不可得なので)空であるから。」と了解できます。

あなたは そこから 「空」 へ 飛ぶ(飛翔・飛躍する)
誰でも 飛んでいるけれど
どう飛んでいるかは 推量による

> 思惟に飛んでいるところがありません。最後も、「みな不可得である」とあって、さらに「不可得空であるから」と、さらに「不可得」を重ねています。この後ろの「不可得」が空の説明とも読むことができます。読み進めるだけで、自然に思惟の流れが、自分に入ってくるようになっています。

読んだ人は 誰でも 自然に 思惟の流れに入って  「脚下照顧」 が起き 自分に入れますか ?

自分 に 入った人を あなた以外で 教えてください
「 仏 」 の 名字は 人を表わす編 に △記号の 自らという所有記号を付けて なおかつ
自らにあるときに 坐禅組む その姿を 形象し 会意して つくられています

その名字にある者以外が その意味を知って どうなりますか ?
( しれば 知ったその者 となり その者 は タターガタ ですが タターガタは名字です )

> これが、ブッダ論理学です。

これのどこが 懇切丁寧ですか



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