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[10811] Re:[10805]    唯識     投稿者:pocket 投稿日:2018/07/30(Mon) 17:10   [返信]
> > では苺矢毒蛙さまが「ブッダが四元素説を退けた」という論拠を示されるべきでしょうね。
>
> >「ブッダが四元素説を退けた」
> >> 原始仏教(ブッダ)では、地水火風の四大を説いています。
>
> 哲学上の元素論のような議論は避けるのがブッダの教師としての立場だと思いますよ。

そうですか。現に知覚されない事柄は哲学上の議論とし、それを否定するならチャールヴァーカの立場であって
まさにアジタ・ケーサカンバリンの説に一致しますね。

> 弟子が無駄な論争に巻き込まれないようにする配慮でしょう。
> http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html

十難無記がどうかしましたか?これがどうして四大説の否定になるのですか?
順序立てて説明してください、
ご自分の言葉でご説明ねがいます。

> 無記というのはなかなか理解されないようですね。

本当にそうですね

[10810] Re:[10806]    唯識     投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/07/30(Mon) 17:06   [返信]
経典に書いてあったら丸々信じるというのは、
コーランやバイブルの信仰と変わらないじゃないですか
もうバラモン種の比丘たち大成功って感じです。

蛙的には四元素説にはきちんと疑問をもって盲従せず
否定も肯定もしない態度の人がいいですね。
当然みずからは積極的に語らない。

[10809] Re:[10806]   現観相応       投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/30(Mon) 13:02   [返信]

「  これと同様に  聖なる弟子において、
   未だ滅していない苦と 既に滅した苦とでは、
     まさに、これぐらいの差があると、知りなさい  」


多い少ないは  「 縁起 」  です
しからば、この 現観相応 13-1経 は
商量という  「 縁起 」 を 外れて説かれているのか( 真理であるのか )
説かれたことに縁起が起きる(仮説なる)のが必須なのか

聖なる弟子には 滅しつくしてはいない苦しか存在してはいない
滅したモノの量を量るのは 
聖なる道にない弟子 です

聖なることには 滅したことと 滅してはいないこと とが
  同量にあり ( これが 「平等」 の 仕組みです )
それが同質であるから
そこに縁起は起きていません 

滅していないことが起きているときには 聖なる弟子ではありません

どれ位の差かを
誰に問うているのかを 噛みしめる時
その噛みしめが 聖なる道にある

法をみる目を持つ者を 仏陀と呼ぶ


[10808] Re:[10790] 密教   投稿者:o 投稿日:2018/07/30(Mon) 11:42   [返信]
エム先生、ありがとうございます。

 やっぱり、そうですよね。
 それから、クレヨンしんちゃんは、本郷みつると原恵一作品はいいと思います。

[10807] Re:[10791] サティヤーグラハ 投稿者:o 投稿日:2018/07/30(Mon) 11:39   [返信]
エム先生、こんにちは。

物好きの意見ですが、CINII で読めるものを見ますと素晴らしい論文だと思いました。
ただ virya を精液とするのは反対で、勢力、精力とかエネルギーみたいなものと思われます。
清志郎が歌う「バッテリーはビンビンだせ」みたいなのが viryavan で、会えば感じられる威厳とか、その人の力だと思われます。
その根拠は間さんが引用しているガンディーが転機となったジャイナの聖者がミルクから virya、 virya から性欲とされることです。
ミルクから精液、精液から性欲と考えるより、ミルクから精力、精力から性欲と考える方が、伝統インド的と思われるからです。
そう捉えた方が、全体的にも整合性が高いと思われます。

また、アヒンサーが気になってちょっと調べてみました。
するとダライラマ猊下などチベット的な教えと、シュミットハウゼンなど文献学と、エム先生の『空の発見』が重なっていて興味分かかったです。

シュミットハウゼンはかなり緻密で妥当な学者だと思いますが、どうも仏教が仮設だということには気づいていないようで、自己を愛するものにブッダが入ってないことなどは読まれてないようでした。

ただ、udanavarga 30-18 などにも編纂されたマハーヴァッガ冒頭句にも言及されているのは流石だと思いました。
その意味を取るべく、ちょっと色々見ましたが、分かりませんでした。
エム先生のようにはいかないものです。

[10806] Re:[10803]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/30(Mon) 10:30   [返信]
苺屋毒蛙さま pocketさま おはようございます。

> > この手の古代のあいまいま元素論は
> > ブッダの避けるところだと思うのですが。
>
> では苺矢毒蛙さまが「ブッダが四元素説を退けた」という論拠を示されるべきでしょうね。

あ、そういう展開だったのですね。
『サンユッタ・ニカーヤ』12.2「分別(ヴィバンガ)」という経典には、「名色とは何であろうか」と説いて、その答えにありますね。四大種(四つの元素)とそれからそれから造られるものを「色」という、とあります。

「マハーブータ(元素)」というのは、当時のインド哲学の理論的なものを反映しているのだろうと思っています。現代の原子(今時古い?)とか素粒子とかの解釈とは、ちょっと関心の持ち方が違いますから、同じようには考えられません。「ブッダの時代だから科学的ではない」と、単純には言えないと思います。

というのは、「ブータ」という言葉でわかるように、インドの関心は、生類(文字通りには、「生じたもの」ともなる)にあるからです。鉱物なども含める物質一切をいうのは、現代的な発想で、それを科学的だと思っている人には、古いように思うかもしれませんが、ある意味、現代科学の方が、生き物を物質化して見るため、良しとしない人々もたくさんいると思います。

瞑想などの中から生まれる分類としては、よく分類されているなあと感心します。我々の感覚に添ったもので、その分類を見ても違和感を感じないようにできているからです。

例えば、サーンキヤでは、トリグナ(三つの性質)を説きます。サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)ですが、あらゆるものは、この三つの要素の配分で決まってくるようにいわれています。これも、現代的にいいますと、気体、液体、固体の三通りに、それとなく対応しますので、何となく納得できてきます。

そういうことから考えますと、地水火風の四元素は、生き物の存在を成り立たせる要素をうまく言い表しています。物質的な状態の変化に対応して、説明できる要素をおおよそ取り込んでいるので、だいたい過不足なく説明できるでしょう。物質的なものは、地の元素で、変化を表す火の元素と流動性を示す水の元素、気体に関わる風の元素で説明できます。

考えてみれば、いくら微細に分析しようと、それが人間存在の役に立たなければ、分析する意味はないわけで、そういう意味からも、知識は、我々にとって役立つように分類される一種の「仮説」である、ということができます。それを、ブッダはよく知っているのだろうと思っています。

だから、ブッダが分類しているものは、深い意味があると思っています。心の部分を、「色」の中に入れないように、四大で収めているというのが、大きな特徴だと思っています。

わたしたちの煩悩のあり方に、ブッダが合わせて分類してくれているのでしょう。

ブッダのことばに、指先の土をつまんで、これとこの大地の土とどちらが多いと聞くお話しがありますが、そのお話しの通りだと思っています。ブッダの知識は、大地の土ほどであるけど、比丘たちに説かれるものは、かれらの必要な部分だけだと思います。そこを、分析して、ぴったりなところを、ピンポイントで出してくれているので、ブッダの分類だというだけで、大きな意味があると思っています。

五大や六大を説いていく人々も、余程考えなければ到達しなかった教えだろうと思います。
その点、現代科学は、欲や名誉など煩悩の赴くままに分析されているところがあるので、役立つように見えながら、わたしたちを不幸にも陥れていきますね。原子力など、どうなんだっ、って思ったりもします。

最近の大きな気候変動も、物質を自由にしようとしてきた、我々の科学力が発生させているのではないか、という疑いも湧いてくる始末です。

[10805] Re:[10803]    唯識     投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/07/30(Mon) 10:25   [返信]
> では苺矢毒蛙さまが「ブッダが四元素説を退けた」という論拠を示されるべきでしょうね。

>「ブッダが四元素説を退けた」
>> 原始仏教(ブッダ)では、地水火風の四大を説いています。

哲学上の元素論のような議論は避けるのがブッダの教師としての立場だと思いますよ。
弟子が無駄な論争に巻き込まれないようにする配慮でしょう。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html

無記というのはなかなか理解されないようですね。

[10804] Re:[10796]    唯識  ( これが 唯識 です   )          投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/30(Mon) 07:35   [返信]

> >   ブッダはそんなこと言ってましたっけ?
>   ブッダが言ったかどうかは、聞いた人が 言うことです

言ってはいないこと を 聞く人
言っていても       聞かない人
言ったことを       自分の解釈にすり替える人


すり替えだと 主張して すり替える人
( 誤解 を 誤解する 人 ) = ( 誤解 を 正解とする 人 )

正解を知る人 を ブッダ と呼びます
  が
そう呼ぶ 仕組み  は
誤解する人  の 世間  に ある

> >   この手の古代のあいまいま元素論は
>   曖昧かどうかは、読み取る者の 対処 によって 決まります

> >   ブッダの避けるところだと思うのですが。

避けるためにも、援用 をしなければならない

アナッタン ということを  “軽く”理解  してはいけない
( “軽重” は 「 縁起 」 だから あなたはそれを 重要視する )

法華経では 悟りの世界は きらびやかに表現されている

仏陀は 金色 である
真理は 金剛 である

輝き も 軟堅( 剛柔) も  「 縁起 」 です

自らの立ち位置を 知らず
聞き位置を 「 洲 」 とする


[10803] Re:[10795]    唯識     投稿者:pocket 投稿日:2018/07/30(Mon) 06:19   [返信]
> この手の古代のあいまいま元素論は
> ブッダの避けるところだと思うのですが。

では苺矢毒蛙さまが「ブッダが四元素説を退けた」という論拠を示されるべきでしょうね。

> どうなんですかねえ。

テクストにないことや自分の願望で「ブッダの真の所説」を作るくらいなら、ブッダにすがることをやめればよいと思います。

アジタ・ケーサカンバリン説+慈悲の瞑想が苺矢毒蛙さまの感性にはピッタリだと思いますよ。

[10802] Re:[10801]    唯識     投稿者: 春間 則廣   投稿日:2018/07/28(Sat) 10:11   [返信]

> ブッダのことばも、仮説ですから。

ブッダの言葉は 仮説ではないが、
それを聞く者に、縁起が起きる

> ブッダは、身体と心とをしっかり区別しようとしているのだな、と思っています。

しようとしているのではなく、
聞く者に、縁起が起きる 仮説が起きる


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