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[10009] Re:[10008]  ちょっと 引っ越し 話の腰 折って真っ直ぐ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/07(Tue) 09:21   [返信]

> *******
信とは、信じると言うこと。みんな難しく考えすぎ。ただただ信じる心を持つということ。例えば信じる心があれば信仰心があるだろうし、信じる心があれば釈迦の言うことを信じることができるから一心に釈迦の言うことを信じることができる。信じるとはその人の、道だから。信じると言う道。心に信じると言う気持ちを灯していければどんな困難が起ころうとも信じて前へ、信じて自分の道を進んでいける。そういう志を心に灯し続ける。悟りへの道は厳しいでしょ。だから、信じる心があれば何事にも勝らないものになると言ってるの。
> *******

文章が 論理的に破綻しています

> 信じると“言うこと”
 (ここは 変換間違いとして起きます  ということにしておきます)
( 言ったから そういう  ということ が起きていますが )
( 道 という文字が 真理の意味であり 口から語られる という意味も表します)
( 言うは 言とすること、その言 を 云います )
( 云う は 言ったとおり、前述として言われているとおり の事を云います )

> 信じる心があれば信仰心があるだろうし
( 信じる心を 信仰心といいます )
> 信じる心があれば釈迦の言うことを信じることができるから
   一心に釈迦の言うことを信じることができる
( 麻原の言うことが 釈迦の言うこと
  と  信じた場合には どうなりますか   )
> 信じるとはその人の、道だから
( 信じられた 信ずる対象となった人 の 道です
   自分というモノはない と 釈迦牟尼は 言っています
  麻原 の 道(仏の道)  ということになります    )
> そういう志を心に灯し続ける。
( それが 灯し続けるそれが いわゆる あなたの言う処の あなたの道です )
> 悟りへの道は厳しいでしょ
( 信じる心があれば 厳しくはなく 優しい心に包まれている )
> 何事にも勝らないものになると言ってるの
( 勝るもの = あらゆる覆障 に 遮られない ものとなる )
( ここは 変換間違いで済まされない )
( 勝るとも劣らない の 省略形としても 問題は起きるということです )

問題は “劣る” という(云う・言う) ところにあります
劣る が 仏教上の 理として 使われるのは
   大乗が    云々された時にさかのぼります
ヒーナ(ヤーナ) は 劣る乗 と言うことで
マハー(大乗)(ヤーナ) は スーパーエクストラ(小)乗 ということです

釈迦牟尼の 言葉を 画一的にとらえ 最高とするとき
それに比べて 劣るが起き 優ところへの修行が起きます
釈迦牟尼 は 「 平等 」 を 根本(出発点における岸・願)とします

平等であるモノを平等であると知る
どこに 劣ったことは起き得ますか
( 勝 優 に 起きます )

勝という 問題意識は 解脱していない 人の 覆いの下に起きています
( 実体というモノを持たない 光の弱さである 影 に すぎません )
( 暗いところでは “世間においての 手元” も狂いうる )

人の生に 優劣はありませんが
優劣をいう人には 根拠となる 不平等があります
不平等を 判断の起点において
判断するから「無明」と 成ります( 無明に起きる 行に対する識 )

転じて
無明に対して起きる 行に対しての識  を 善知識 といいます
( 善知識とは釈迦牟尼のサンガにあるムニノトモのことです )

唯一無二 の 釈迦牟尼の友 (一人一人が 釈迦牟尼一人と 対峙しています)

********  


ちらっと思ってみるものです。
>> 流石に日本仏教の伝統が生きていた方々は、素晴らしいものがあるように思いますが、
昔の人の方が、サンスクリット語でも、漢文でも、優れていたのではないかという気がします。また、知識なども、限られていたでしょうけど、今に比べて劣ってはいないですよね。
世界中のいろいろ資料に接することができて、恵まれているのに、現代の方が仏法に近づけないような気がするのはなぜでしょうね。

投稿: 管理人エム | 2016/06/22 23:54

>  信からしか入れませんよね。
そういうことを信じている ことは、
 「 信爲能入 」 ということ とは、ならない
> なぜなら、凡夫は無明に覆われているから。
師は 凡夫であるか否か、 訊ねてごらんなさい
「凡夫ではない」  というなら “凡夫ではないと言われた” に過ぎません
どのような構造で凡夫があるかを まず説き、
凡夫とする無明を説き、凡夫は凡夫にあらずと説き
凡夫ではない、聖者でもない立場で 説くとき、
説くこと自体が、信に基づいている
(その)信に基づく “信” を
 信に値するかどうかを 揀択 することなく 信じる ときに 「信」が起きている
まずは、如来蔵を信じ、道を歩んでみれば
  突き当ろうと 
突き当るということを知ることができる
  あり難さ  ナンマンダブ ナンマンダブ
> 無明は根本的に狂った認識ですから、狂った認識に基いて判断しても迷うばかりになってしまいます。
その “迷うばかり” が すでに、無明によって、定義されている
狂った認識を (正しく狂っていると)正しい認識の基においても、
基に対する、判断が、 迷い=無明=くるい  でしかない
必ず最後において、無明が効いてくる
> よく言われるのが、自分が狂人で師が医者、法が治療法で、医者や治療法を信じなければ狂ったままのように師や法を信じなければ、無明のままという。
無明のまま ということを、甘く見てはいけない
何故 釈迦牟尼が 慙ること  を 要に置くかは
いつであろうと、無明にあることが  「平等」 にあるからです
ブッダ には 無明はないけれど 、、、、
あなたがブッダかどうかを あなたが決めなければ、必ず無明にある
( この文章を “正しく”読めれば、 「 正見 」 が起きている )

こういう形で、真理は 世俗の言葉で表される 、、、、、
( 見なきゃ、あなたは仏陀でしかない )


投稿:  春間 則廣  | 2016/06/22 13:47


[10007] Re:[10006]   シンジメイ  、、、、   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/05(Sun) 23:14   [返信]

> > > 師資相承の伝統に近いなと思ってすごいなと思います。

師資相承 は すごいと言えないこともない
伝統 があって 師資相伝 がある といえる

近いとする そこを言う

> >  すごい自信 !
>   そうかな?
> わたしがわかったことを受け取ってほしいだけ。

それは 誰の 何に対してのことであろうと
“ 相 対する ” ということに 必ず起きている

わたしは 
(わたしが分かって、分かったこと としてあるその事を)受け取ってほしいから  伝える
あなたは
(分からないから)受け取らないと 伝える

> 「通ずる」ということが確かにあることを確かめるために試験をします。

> > 批判的に書いているのではなく
> > 自虐的に読んでもらいたいだけです

どこに(真理に)通ずるかを いって  通ずる  は 成り立つ

試験などなくても  どのようなことでも
 通じていないこと など ない
道は いかなるときにも 一つに 通じている

道は 二つ では ない

もう、この事については、繰り返しはしないけれど 、、、、

あなたの試験は あなたに対する採点でしかなく
その採点を 講義にも出ずに 出ても話など聞かず
聞いても 意図の通り受けとめない
いわゆる 出来の悪い 生徒のモノとするのに 疑問を 持つのです

思い切って 「優」 を あげてごらんなさい

きっと もらった生徒の 後の為になります  、、、、


[10006] Re:[10005]   シンジメイ  、、、、   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/02/05(Sun) 20:37   [返信]

> > 師資相承の伝統に近いなと思ってすごいなと思います。
>
> すごい自信 !

そうかな?
わたしがわかったことを受け取ってほしいだけ。


> 批判的に書いているのではなく
> 自虐的に読んでもらいたいだけです

「通ずる」ということが確かにあることを確かめるために試験をします。

[10005]   シンジメイ  、、、、   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/02/05(Sun) 08:01   [返信]

ひと(り)ごと

> 講義を聞いている子と、聞いていない子のために、対機採点してる、って気がつきました。

(生徒が)聞いて 聞いたことを
(先生が)言ったことと 並べて 異同を商量する

(自分が 何を目的に、何を言ったかは
 どう聞いたかで決まるということは除外しておきましょう)

聞くまでもないこと
とは
夢にも思わず
 単位が欲しい ために “聞く” を 作る


> 出ないでて、単位だけほしい子は、勉強以外なら何でもします。。若干語弊があるけど、わたし的には、そう

単位だけ欲しい と 簡略化しても いいけれど
単位だけで 幸せは成り立っていない
出て で  幸せになるなら 出ないと そのチャンスをつぶす

出てないと
  出たくない に → 点数を上げない  が ついて回る

点数さえもらえれば 何でもする (ワタシ的には 誤解を恐れない)
( 出ることだけは したくない )
( 憶えて繰り返すことなど もっての外 )

> わたしの言う「こういうことを書くとこのような点数がつきます」という指示をきちんと理解して、それに合わせて、ピッタリフィットする答えを書こうとしてくれます

愛いやつじゃ  近こう 寄れば (点は)大きく見える 、、、、

> 師資相承の伝統に近いなと思ってすごいなと思います。

すごい自信 !
遠くて近い 最後の一歩
( “ 一歩 ” とは
 「 毫釐も差  有れば 天地懸に隔たる 」 の 隔たりにある )

善悪 の 隔たりは いかように 商量されますか ?

(自らの決める)    これが 善であるなら
(他という自らに決める)それは 善である

それを認めるから これ を 認める 根拠(理) が起きる

ただし
自らの商量(=行い)が 牟尼の 行い(教え)と 合致しているなら
自ら は( 自らが) 牟尼 と 呼ばれても 何ら 慚るところはない

批判的に書いているのではなく
自虐的に読んでもらいたいだけです

わたしは 痛めつけて 喜ぶタイプではなく
タパス を 好んで 行を積むタイプです


[10003]    沙門道元     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/01/28(Sat) 10:09   [返信]

道元 が 唯識を 極めなかった 
などと思っていてはいけません

凡夫、凡夫 と 恥じ入る
駒沢の 太田教授でさえ 唯識を 追及しています

諸仏と並ぶ 道元が 
園城寺で得度し 密教を詳しく修めたことを抜いてはいけません
( 天台(密教)でも 唯識は必須です )

密教では 「 理趣経 」 は 必須です
( 親鸞も深くこれに読み言っています )

著作に 取り上げられなければ 究竟 がないと言えますか ?


栄西 は (葉上流)密教僧(開祖) で 「 喫茶養生記 」を著し
宋においての 修行を通し (仏教においての) 茶  の 重要性を説きます

「沙門道元」 ( 日本精神史研究 ( 岩波文庫 / 全集4 156p ) )

「 草庵樹下を択ばない 」 157p
それが 禅堂 であれ 書斎 であれ         問われる “要” は ない
それが 袈裟 であれ 洋服 であれ どこにどれが 合うかは “ 揀択 ” に よる
「 自分が絶対の真理を体得していないのは事実である 」 166p
事実は そこにおける 認識による
事実 “イーコール” 真理  であれば
真理を得ていることは事実となる ( = とは 平等記号である )

以上
   続きは また 展開していく 
   、、、、

[10002] この今 を 惜しむ心 を 推し量る   53962 によせて  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/01/12(Thu) 10:59   [返信]

> それは 受けとめる “わたし” が 今にいると知るからです
> 言替えると、 受けとめよう  が 今の わたし を 作り上げているということです

受けとめようが変わるとき
( 今ではない “ = 過去 = 未来 ” ) 今の わたしは
変わって、 新しい “今” に あり
あなたに 対面して あなたは 今の状況を 決定(測定)します
“今”ということの 意味は 推量されて
 (今が確定されるのと同様にして)確定したものと されます

> わたし の   書き込みが、今あなたに受けとめられて、
> 今の  わたし を      決定します

位置( 意味・ありよう 価値 ) の 測定(推量) と
運動( 質量・運動量  価値 ) の 測定(推量) は 
両立しても 互いに他を 変化させます(不確定なものとします)

そもそも  定める“ところ” が 不動ではありません
( 変化することなき 変わらぬものが あり
   それに 立脚すること で    あれば 測定する意味はありません )
導き出される 事は
確定するには 
(すでに)確定されたことが 足元になければならない  ということです

何がすでにあるか と(イウコトを) 測推 するとき
その測定の 根拠(位置・いるところ・洲)が 不動か どうかです

すでに 釈迦牟尼は 「 洲・燈明 ディーパ 」 という 言葉を用いて
明るさの“もと” や 洪水に覆われない“ところ”も 
不動ではない “ところ” の モノ として  言語化しています

白毫 は 全てを照らし出し 
遍照 という言葉は そこに照らし出されて 金剛なるモノとされ 生み出されました

小乗 においては 声聞 以外は 成道しないのです
大乗 においては 誰でも 人の姿を為して 成道します

総て おしなべて 平等にあり 照らし出されているのに
何故 マヨイ( = 顛倒 ) は あるのでしょうか 、、、、

視点を変えるために 物理学的考察を 披露します

人の体 は 元素 という 構成要素で 出来上がっています
元素 は 原子核と 電子 と 
呼ばれる “モノ” によって 構成されている と 理解されます

核 は 素粒子 によって 構成され(湯川秀樹などがこの理解に貢献しています)
その素粒子が さらに 三つの 要素 で 理解されます
電子 は 原子の図形で
 よく 衛星 のように 粒子が廻る姿で 理解されています

さきに 言ったように 
廻っている限りは 廻るということを 決定する 位置の確定があり 確定があるから 移動があります

位置を確定すると それは 粒子 としては 存在できない
( ここが分かるモノは 今の 物理学者 でも いないに等しい )

不確定性原理は 素粒子の世界では 研究者にとって 必須の理論(原理)ですが
何故 必須 となるかを 理解できないまま 研究を続ける 、、、、
( もっとも その原理にのっとらなければ 研究の数値化ができないから 理解するまでもない 、、、、 生きるのに 理屈は 必須ではない 、、、、 )




あなたが どう 推量しようと
わたしは そこに乗っても存在し 、、、、
乗らなくても 存在できるかもしれない 、、、、
( そういうことが 自らの考えるところの
  “ 正しいこと “  として 決定となるのは あなたという
  “ 決定者 ”    であるところの  保持する根拠 において です )

大乗 という 乗り物に乗らなければ イスラーム が 存在できなくなるわけでもない 、、、、
( もっとも 小乗 あるいは 上座 という 限定用語がつかわれる“ところ”では 存在を 消し去られる )

釈迦牟尼は 
真理は その受ける者の 言語的“基盤”によって 語られることであり、
そうしなさい  と 教えさとしている

“基盤” は その教えを受けた者が 
受けるまでに育ったところ に 経験的・習慣的に 構築される

日本語 を 通用させるしかない処では
 日本“的”な  行  に 基づく 慣用的表現を 使うということです

日本語の 構成要素を よく知らなければ 効果的な使い方は 望めません
( 日本人で 日本“的”環境に育ったものは
  バイリンガルであろうと 日本語で 考えを 構築します )
たとえ 諸言語(日本語以外の特定言語)で 構築しても それ以外の言語で
 他(諸言語 を 構築するモノ)に 理解されることはありません

構成要素の 知的蓄積は あらゆる言語に 及んでいて
及ばす(ところの) 基本的言語を 規定しています

そこには センス とか 感情 の 入り込む 余地 が ありません
( 余地は そことは違う世界の 余地に 構築されます )

世界が変われば 言語は 変わる
 (変わったところで 慣用に対する 知的蓄積=知識 が構築されていく)

> “わたしたち”  という時の その “タチ” には  わたし は 外れようとします

この (人)達 は タチイチ を 余地 に 起きます
( 決して置けないわけではなく 世界 が 変わるということです )

仏世界のこと には 異論が起きる 余地がない

> 惜しいことだと (惜しむ心を用いて)
> 振り絞ります 、、、、
> 間違った道で 正しいことを探すかのごとき 、、、、

どう間違っているかを あなたの作る 世界で 明かしてください

すでに 慣用的言語表現で
「 人の心は どこへでも 赴くことが適う 」  と 釈迦牟尼は 説きます

>  ********
「心があらゆる方角にさまよい行くとも  
  自己より愛しいものにたどりつくことは決してない
  同じように他の人々にとっても自己は非常に愛しい
   それだから自己を愛しく求める者は他を害してはならない」
       (『サンユッタ・ニカーヤ』3・1・8)
>  ********

あらゆる方向に 行けなければ どこにも辿りつけない
( たどり着くところは 必ず あらゆる こと= ところ に 根拠を持つ )

自己が 究極の 愛しいモノ であることは
習慣的言語形成において やむを得ないことです

あなたが わたしの世界に 釈迦牟尼が説くように 赴くことができ
その あなたの 習慣的価値判断によって 意味を与えうるのであれば、お知らせください

以前の書き込みにおいて
わたしの 表現(書き込み)は 難しい と 記述されていることを知っています

だったら あなたの “簡易なる” 記述方法で
ムツカシイ カタイ 頭に 染みわたるように 記述してください

わたしは “わたし”が立つ 価値判断のない世界において それを受け止めます 、、、、
( 価値がなければ 受けとめるまでの価値はないかな ?
   これは そこの言語表現においては 成り立つ表現で 龍樹が 拙くとも 使用する表現手段です )


[10001] 受け入れがたい ボール は どっかに転がっていく      投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/01/09(Mon) 10:15   [返信]

> > 「受け入れがたい」 と かならず そこで、滞りますね。
> > 受け入れてみると 自らの基準が 真っ直ぐになりますね。
> > あれ、受け入れられる。。

> あれ ?   受け入れられていない 、、、、、

> 受け入れられているとは 受け入れたくない 、、、、

受け入れられません

そのように        受け入れないことが 
受け入れること として  存在する

君の思考を 分断すると   切断面に 顔が続く飴のように 
同じような飴( 顔 ) が  顕われ出るが

どこを切っても どこを取り出そうと
 それは   必ず あなたに依存して
わたし の  解釈に 依存する

新年 あけまして 何とやら の 気分の人には
わたしの オメデタコウサツ は タンコブコウサツ として おでこにぶつかりつく

ま 目の中の梁 が   気にならない人であれば、
タンコブ    など  喜ぶ の 足蹴にされて おめでたい中に紛れ込む


単なる 爺自慰 の ひとり言 、、、、


本年 も ムシムシ ヨロシ クーッ ! 


[10000]  起こすことと 起こされ 眠いこと  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/01/06(Fri) 10:27   [返信]

もしも

この世に起きていることが
わたしだけに起きることであるのなら
わたしは 起こす意味を見出す必要がない

起きても 起きなくても
(すでに)あるモノ 総て で わたしは成り立っている(起きている)

無いモノ は ない ということが
有る・無い の 基本です
(仮に)無いモノがあるのなら それは 有るモノ です
有っても知る必要を見出さない ということ と
無い ということは  別の階梯です

無いモノは 無い  のだから
無いモノが ある  という 論理は あっても 根拠に欠ける

欠けていようと 満足するなら
欠け口から なみなみとある真理 は 滴り落ちる
( 落ちるところで なみなみとなっているのが ミソ です )
落ちた真理を 受ける者がいるから “滴々” と 落ちる と 分かる

滴々と おちるものを 受けとめ テキリョウ する

言ったからといって、
出来ていることにはならない
出来ていても
「  唯仏与仏 乃能究尽 」
わたしは 仏 ではないから 、、、、

あなたの批判を 滴々 と 受けとめ 量する


[9999] Re:[9997] 暴流をわたる  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/12/29(Thu) 14:11   [返信]

> 流れるものは、どんなに曲がって進んでいっても 進むものには 真っ直ぐだな、って感じる

進むって 上から下 へのこと
東京から 京都へ 下る
( 上下に区別は どう分別しますか ? )

あなたの見解を 見上げる 、、、、


人の流れは 川の流れとは同一ではない

> たしかに曲がり角ではぶつかるけど、超えていければ彼岸は近い。

彼岸の 此岸 は 何処に位置しますか ?

超えるのは流れではなく
人の 思い だけではないですか ?
気分が済めば(のど元過ぎれば) 熱さを忘れる 、、、、、

ぶつかったところは 彼岸ではないと 誰が 決めましたか ?

川の瀬は 本流ではないから
岸にぶつかっても 問題ないですか ?

瀬があって 淵 ができる

堤が 削られるとき 本流は 流れを変える
流れを変えるのところは 瀬ではなく 淵です

大船に乗って いい気分でいる時
流れに沿って 曲がっていると感じる必要はありませんが
乗客と船頭の区別がないのが 人の セ です

あなたの
 セ  ではなくとも
少なくとも わたしの
 セイ ではある

セイ ノビ して あなたのところに届く 、、、、


[9998]  受け入れがたい 暴流    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/12/29(Thu) 13:35   [返信]

> > 受け入れがたい 他人の行動に対する 自らの基準は 
> > “ 真直ぐ ” 釈迦牟尼(から)の 真直ぐ か ?

> 「受け入れがたい」 と かならず そこで、滞りますね。
> 受け入れてみると 自らの基準が 真っ直ぐになりますね。
> あれ、受け入れられる。。

あれ ?
受け入れられていない 、、、、、


受け入れられているとは 受け入れたくない 、、、、


> > ムニ とは 唯一 に あるのではないか ?
> > 唯一は二つの見方があるときに一つに起きて二つを縁起とする

> > 受け入れがたい 他人の行動に対する 自らの基準は 
> > “ 真直ぐ ” 釈迦牟尼(から)の 真直ぐ か ?

> > 思い違いの人生において 真直ぐとは 如何に認識されるか ?


> > まっすぐ考えてみる 、、、、、

曲がってはいないか 、、、、



> たしかに曲がり角ではぶつかるけど、超えていければ彼岸は近い。

真直ぐ行くと 曲がって(曲がった思いで)考える
曲がることは 真直ぐには入らないか 、、、、
曲がる と (真直ぐに)曲がる
どちらも曲がるであらわされる 、、、、

東京へ 真直ぐに道を目指す
その時、 上下左右 東西南北に 曲がる 、、、、

真直ぐの意味は 曲がって受け止められていませんか ?

人は 角にぶつかるのではなく
ぶつかるところを角とする 、、、、

わたしはあなたにぶつかる 、、、、

仏の仮の姿を見つめて ブツカリぶつかり 歩みを進める 、、、、


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