Magical Board


[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ
参照先
削除キー (英数字で8文字以内)   クッキー保存
画像認証 (右画像の数字を入力) 投稿キー
Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |

[11063] Re:[11062] ブッダの体系について  投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/07(Sun) 10:29   [返信]
pocketさま 少し補足しておきましょう。ブッダの理論体系ということについてです。

> > 一切法についてです。(ちなみに私はブッダがキリスト教のヤハウェのように、全知者だったとは考えていません。)
>
> ヤハウェが全知者である、ということは、証明されないですよね。
> わたしも、ブッダが、ヤハウェの「ように」全知者だ、ということは言えないと思っています。
> ブッダが一切智者であるのは、そのことを証明できるからです。
> ブッダ理論の体系(形而下に限定される)の中で、つねに答が正しく導ける、という意味で、一切智者なのです。

公理を持つ理論体系を考え、そして、それが矛盾無く閉じた体系だとしましょう。
実在論を説く人には、実在論による法の体系があり、他の主張を持つ人には他の主張に基づいた体系があるものとします。

体系をもっている人は、それを主張して他の人々に同意を求めることでしょう。そういうことがなければ、ただ普通に会話して、合わないところが出てくると、議論になり、自分の体系と相手の体系が異なっていることに気づいたりするのかもしれません。

普通の人は最初から議論しようとは思わないので、こういう対立はあまり起こらないと思いますが、論を立てる論者は、自分の理論体系を武器にして相手と論争しようとします。

その相手が、たまたまブッダだった場合、かれ(ブッダ)は、月称論者のように、ただ相手の論を否定するだけにして終わらせることがあります。このように、難詰論者の様相を見せることがありますが、その場合相手は不満を持つと思います。ただ反対だけして自分の意見をいわないのは卑怯である、と思うかもしれません。
相手に求められるとき自らの体系も披露し得なければ、相手が納得しないでしょう。

そこで、自分の理論体系というのも必要になると思います。従って、ブッダは、法の体系を組み立て、無矛盾の理論体系を構築したのだと思います。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦などをテーゼとして、縁起の網の目を巡らせた重々諦網のブッダ理論が出来上がるのだと思います。
これによって答えていくのですが、それは、人々を苦しみから救うためであって、議論や主張の苦しみを与えないために、そうするのです。

ですから、理論体系を主張することに、意欲を燃やすわけではないので、目的を達したら、体系を捨てることも含めて理論体系が組み立てられるのです。

必要な時には、頑丈な城のようにそびえて人々を守りますが、普段は、ブッダの理論はこの世界のあるがままを表すただの言葉としか見えないのです。

ですから、気づかない人は、ブッダに理論や論理があるはずがないと思います。議論の中で絶えずもまれている人は、ブッダの理論は強固で隙の無い理論に見えると思います。

その理論世界の中で語るので、ブッダのことばはいつも法にもとづいて真実を語ることになるのだと思っています。ブッダの手の平から、誰も漏れ落ちることがない、とは、すべての人を受け入れる受け皿として、ブッダの理論は組み立てられているからでしょう。

[11062] Re:[11059]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/07(Sun) 09:40   [返信]
pocketさま おはようございます。
素早いご返事で恐れいります。

> 正直、愛想をつかされて、答えは返ってこないかも…と思っていました。

いやぁ、すみません。ほんとに申し訳ない。。後期は、実は火の車です。
その上、台風や地震が来てますが、気持ちの上では無視しながら翻弄されてます。

> まず、単刀直入に言うと先生のブッダ「論理学」というものに対する違和感を感じています。
>
> 私は、論理学などというものはブッダも持たなかったし、龍樹も持たなかっただろうと今は思っています。

なるほど。
わたしは、どうしてここまで論理的なのか、夢を見ているような気すらします。
論理学という学問を、これほど完成させた人(?)はいないと思っています。奇跡ですね。

なぜ、そう思うかと言いますと、経典のことばがどれもその位置と順序をまったく(論理的に)誤ることなく並べられているからです。ですから、そうある有り様を「論理学」と思わなければ、論理学を持たなかった、というとしても、何も問題はありません。

しかし、疑問が出てくる人に対して、それがどんな疑問でも必ず経典の中に答があるとするなら、そこには「何か」があると思わざるをえません。
それの「答が必ず説かれている」というところに不思議さを見る人は、その理由をたずねて「論理学(別な名前でも良いのですが)」という学問を見いだすことだろうと思います。

そして、一切智ということにも気づくでしょう。
>
> スマ長老流にいえば、「たまたま論理的になっただけ」、なぜなら自分で真理を知ったから。というような感じです。

そういう言い方もできるのかもしれませんが、わたしは、そうではないだろうと、思っています。

あまり賛成ではないのは「真理を知る」という言い方が、わたしの中ではなじまないからです。
長老さま流の言い方かもしれません。内容的にはそれほど変わらないのかもしれないのですが、「真理を知る」というと、「そういうものがなにか有る」ように聞こえてしまうので、「真理」ということばが一人歩きをし始めるのでは、と畏れるからです。

   スバッダよ、わたしは二十九歳の時に、
   善なるものを求めて出家した。
   スバッダよ、わたしが出家してから
   五十有余年の月日がたった。
   論理と法の地で活動してきた。
   これ以外のところには、沙門たるものはいない。
    (「大般涅槃経」『ディーガ・ニカーヤ』16.5.27)

これが、ブッダのことばです。自分で「論理(ニャーヤ)」と語っているので、論理という自覚はあると思います。また、その論理が法(ことば)によって示されるというところにも気づいているようにも思われます。「たまたま論理的」ということはない!と確信しています。

> 整然とした公理に囲まれた論理の世界を構想するならば、『方便心論』における「言失」に陥ると思うからです。
>
> 言葉にせずとも「一切法は無我である」などのような公理を想いとして持つと、言葉も同じで意味も同じ、という誤りを持つ

「空であるのは一切法である」というのが、論理的です。
そもそも、pocketさまは、ブッダ論理的に語っていません。すみませんね、こんなことを言って。反対の仕方が、実在論者の立場に立っている感じで、「そりゃないよ」という気がいたします。
「言失」を持ち出すのなら、「言失」を含む論理世界と理論を、pocketさまは考えていることになりますよね。

そうであれば、「一切法は無我である」と「空なるものは一切法である」を並列して述べる理論体系ではない、ということに気づいてほしいのです。

「一切法は無我である」は、「一切法」と言っても有為法の領域で説かれる文です。「空であるのは一切法である」は、そうではありません。後者は、「主張」にならないように配慮されています。しかし、主張に見えたとするなら、それ以上争わないように議論は回避されるように語られています。

> 言葉を変えても、「一切法は空である」などのようなことを手を変え品を変え「主張」しても、言葉は違うけれど意味は同じ、という誤りを持つのではないですか。

「言葉は違うけれど意味は同じ」ということは、ブッダの語りにはありません。勝手にpocketさまの中でブッダの理論を構想してしまっています。
しいて言うなら「意味は違うけれど言葉は同じ」と言ってもらった方が、ブッダの語りに近いです。

> そのような主張も容易に捨て去るから、空寂してしまうから空で問題がないと仰るとするなら、ますます論理学というものを構想する必要性に疑問を持ちます。

うーん、勝手に想像して、勝手にわたしに押しつけるのは不当です。「一切法は空である」と主張はしていないですが。そう主張していると思ってしまうのが、逆に、pocketさまのこだわりではなかろうか、という風に見えます。
>
> 私は『方便心論』は『中論』と同じではないかと考えています。論理「的」ではあるけれどもまさしく反論理学の書であって、「論理学」というような体系を拒んでいるような。空という立場を守るなら、たしかに龍樹のようにならざるを得ないだろうな、という点で龍樹には卓越した知性を感じます。

反論理学書には、二つ意味が考えられますね。自分たちの想定する論理とは異なる論理学による書、という意味と、論理学を拒む書という意味での反論理学書、という意味。

どちらも成り立つのかもしれませんが、とりあえず、どちらかでは考えねばなりません。いずれにせよ、論理を無視することはできない、ということで、ブッダの戦略にはまることになります。

> 部派の人々は、スマ長老のように、空ということを語りだすと(部派における)解脱ということがなくなってしまうことに気づいていたと思います。
> だからブッダゴーサ『清浄道論』の空の観察は無我の観察に置き換えられているのだと考えます。

昨日、公開講座で如来の十号をまた持ちだしてお話ししたのですが、「(とりあえず)解脱ということがなくなってしまう」のは百も承知です。(とりあえず)阿羅漢をめざすのが部派であり、無上道、仏道を行くのが大乗ですから。
如来の十号でいえば、応供、正遍知、明行足、善逝は、部派の仕様であり、世間解、無上士、長後丈夫、天人師、仏、(正遍知も)をめざすのが、菩薩の仕様ということになりましょう。厳密に分けられるわけではありませんが、そのような傾向があります。部派は、自利行を主とし、大乗は利他行を主とするからです。

「空」を語るのは、部派とは違う路線をいくからです。ですから、スマ長老さまのことばは、あたりまえのことをあたりまえに語っているにすぎません。部派の人たちは、大問題かもしれませんが、大乗では利他の菩薩行を行うので、波羅蜜行に終始することになって、解脱は衆生がみな救われた後で良いのです。衆生が残っているのに、解脱してしまうのは、むしろ問題が生じます。利他行にはいかないことになってしまうからです。

ですから、菩薩が語るのは「涅槃に行くな」ということで、涅槃を見ても通り過ぎろ、というのです。涅槃の証をとってはならない、というのが菩薩の道です。

> 中観の人々もそうで、月称菩薩が難詰論者のような振る舞いに徹して論証に反対したのも(私は論理学というようなものの構築に反対したと解釈しますが)、かれが如何に卓越した行者だったか(強調してもしすぎることはないかも)の証明のように思えます。

帰謬論証を、これも論証だ、として認めるかどうかが、一つのカギになりそうですね。
龍樹は、自立論証と帰謬論証の二つを『方便心論』の中で語っています。

> 誰かに、実際にゲーデルを持ち出して、批判されたのでしょうか。

ブッダ論理学を出した最初期のころですが、西洋論理の立場の人たちが、ゲーデルを持ちだして、論理学だというのなら、ゲーデルをどうクリアしているのか、と尋ねたことがあったのです。

ゲーデルは、今では、問題の発端が忘れられてきているような気がします。これはヒルベルトの計画を頓挫させるものだったので、大きな衝撃があったのだと思っています。そこを知らないならば、あまりインパクトはないかもしれないと、最近思っています。
というのは、ゲーデルの証明後、数学の世界は自分たちの枠(数論)にこじんまりと入ってしまって、つまらないものになっているように、わたしには見えるからです。
>
> そのような先生の思考のクセ(先生にとっては当たり前なことかもしれませんが)を解明していくことで、先生の仏教解釈がもっと理解できるのではないだろうか、と思います。これは後の人々の仕事かもしれませんが、先生が直接仰って下さると論争も起きないでしょう。

「法」は「ことば」のことである、としたのは、『ブッダと龍樹の論理学』の中だったと思います。
その「ことば」も、一般の人の用いる広い意味での「ことば」と、ブッダの理論を語る用語としての「ことば」と二つの意味があると思います。その時々で、使い分けられています。

「ことば(単語)」ということに、目をつけたブッダの目線は、煩悩の正体を見極めようとして出てきたものだったのでしょうけど、そこに学問の世界も広がっていることを浮き彫りにもした、という風に思います。

> > そうですね。自己言及は、パラドックスなのだろうか、という疑問も出しておきましょうか。この点はどう思いますか。

> 半分、分かるのです。ですが、感覚的なもので明確になるものを持ち合わせていません。
> 先生のいう論理は果たして一般にいう「論理」だろうか?ということも併せて興味深い問題です。

わたしが「論理」と呼んでいるものは、「想」の段階も含めるとしても、やがて「法(ことば)」で表されるようになるものです。そうしてはじめて、他者に理解されていきます。それは、利他行になります。論理が必要なのは利他を徹底させるためです。

「自分のための推論」というのも、仏教論理にありますが、これも自分の中に他者を見て、自分で自分の納得させるためだと思います。
>
> 一切法についてです。(ちなみに私はブッダがキリスト教のヤハウェのように、全知者だったとは考えていません。)

ヤハウェが全知者である、ということは、証明されないですよね。
わたしも、ブッダが、ヤハウェの「ように」全知者だ、ということは言えないと思っています。
ブッダが一切智者であるのは、そのことを証明できるからです。
ブッダ理論の体系(形而下に限定される)の中で、つねに答が正しく導ける、という意味で、一切智者なのです。

そういう意味では、ヤハウェの全知の方を、わたしは疑ってもいます。神さまなのに、全知を人々に納得させられないとは。

> まあ、ブッダが全知者だと思わないと言ってしまった時点で、そもそも問題でないのが、はっきりしてしまったようなものですが。

> そうですか。先生もその「ゲーデルを重んずる人」に入っているのではありませんか

どうでしょうね。ゲーデルを重んじているのではなく、不完全性定理とは便利なものだと思っています。説明の手間が省けると、最初は思っていたのですが、最近はそうでもないかな、と思っています。

> ゲーデルのような数学者を持ち出すのは、ブッダの法に対して理解を阻むでしょう。仏教徒は興味を持つかもしれませんが、仏教徒ではなく、論理学や数学を優先的に学んでいるような人たちには混乱させられるだろうな、という印象です。

まあ、そうかもしれませんが、どうなるかは、その人次第だということでもあります。

> > 「ゲーデル」は、ブッダの理論を説明するための喩えなのです。
>
> この言葉をお聞きできただけで、今回の投稿に意味がありました。
> 感謝いたします。

喩え(ウパマー)です。
20世紀になって、ようやく見いだしたゲーデルの定理ですが、どうして、ブッダや龍樹はいとも簡単に見いだしたのだろう、と思う人がいるかもしれません。わたしも、そう思いました。

それには理由があると思います。西洋哲学が、「真理」を有るものとして認めた結果、それを中心において体系を立てることに一生懸命になったからだと思います。公理を中心に定理を持つ無矛盾の体系です。

その体系は独立していて、体系外とは関わらないので、その体系それ自体を問題にするという意識が生まれてこなかったのだと思います。

仏教は、一切の衆生を対象にして法を説きます。語られないものはありません。語りながら、次第に最後に行きつくとブッダの体系に安んじている、というのが、その語り方だと思います。自分で独立に体系を作って「主張する」という意図を持ちません。「真理」というものを「主張しよう」ということはないからです。苦を与えないことを、善いこととするからです。
そして、体系に安んずることができるなら、体系は必要なし、として捨てられるのです。

「安んじてから捨てる」という順序があることにより、縁起は如来が出ても出なくても定まっているのでしょう。

> おっと、それは困りますね!私はゲーデルについて表層的なことしか知っていませんが、お聞きします、先生が知っているゲーデルとはどのような人なのですか?

わたしも、表層的ではありますが、かれは一切智者ではないですね。たまたま論理的だった人、という印象です。かれは、実在論の立場をとっている、ということも知りました。

[11061] Re:[11059]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/07(Sun) 08:43   [返信]

> スマ長老流にいえば、「たまたま論理的になっただけ」、なぜなら自分で真理を知ったから

という風に ( スマサナーラ は )論理的には 語ってはいない
という 論理外 の話 にし  (あなたは)非論理的に考察しますか

> 嫌いです。  整然とした公理に囲まれた論理の世界を構想するならば、『方便心論』における「言失」に陥ると思うから

好き嫌いから 物事を発すると
( そこを出発点として、そこの範疇で語ると ) 
理由も結果も 好き嫌いの範囲を離れません

しかし 「論理的」 に 正否 判断を下し
( その正否は別として  ) 判断の結果を “正しく” 受け入れるなら
その判断は 感情とは 別に 成り立ちますが
( 感情は 無明に起きるモノで 判断も 無明に起きます )

受け入れる 受け入れない の 判断が 無明に起きている
   という 如実 を抜いて
判断に 拘束されても それは (判断上) どうしようもないことです

こういうことは 「 論理的考察 」 ではない と 論理的に考える
その論理が 無明 に 起きています

自分の 用いいる範疇の 論理 が 論理的判断のすべて

言語 は 論理 です 
( これを 抜くと=受け入れられないと 思い込みも 論理的ではなくなり 如実となる )

「言失」 でさえ 言葉で 理解されます ( 「言失」を犯すことも 犯していると見ることも )
涅槃は 日常言語で 表しうるから(表すしかない) から
“ 顕われ ” を  ブッダ は 言葉とし、 (行いの内に) 表す


> 論理学というものを構想する必要性に疑問を持ちます

「不死」 に ある為には スジャータ を 経なければならない ( 乳粥 が 必要である )
不必要となったモノは  必要はなかったモノですか ?

苦行を捨てよと 説くのは 苦行を不要として生きてきたから 言えることですか ?

あなたに不要 であっても ( 釈迦牟尼! が ) ブッダ  として成就する には
その得ている道の上の 出来事 であり
 忘却・否定 する 要もない 全て  「 永遠 」 の道に 平等 に 並んでいます

釈迦牟尼の苦行 が ( 自他不二 ) であるから あなたに不要となるだけです
釈迦牟尼と 共にある者のみ 苦行は その 深浅を問わず 不要です

経典の言葉を 混同してはいけません
  Su.77  「 苦行が雨である 」
    すでに 苦悩を脱した人は 耕作をなし
    自他と 分かち合える  が(しかし)   食卓に着かなければ 食事は始まらない

“食卓”  とは  どういうモノで、あるかは
           いかように 自らが 設置するかは
論理的に 考察されて 行いとされる

食卓も 食事の 道具(鉢)も 不要なら それは 別の話です 、、、、

こういうことは 論理的に考察されて
( その論理を 敢えて 抜くところを作って 飛躍させて ) 正しく 論理的に語られるが
そこにある飛躍を 埋めない限り “ 論理的ではない ” と 言われる

それは   “ 自分の 援用する 論理(の運び方)にある 矛盾点 ”であるけれど
  ( 論理的考察を捨てると )
       他にある矛盾点であると  片づけられる → それが あなたの 論理です

> 私は『方便心論』は『中論』と同じではないかと考えています。論理「的」ではあるけれどもまさしく反論理学の書であって、「論理学」というような体系を拒んでいるような。空という立場を守るなら、たしかに龍樹のようにならざるを得ないだろうな、という点で龍樹には卓越した知性を感じます。

“ あなた の 知性 の 範囲 ” です
> 龍樹には卓越した知性を感じます。
と  “ 卓越した 知性 ” で 揀択・商量  する
> 龍樹よりのちの人が「アホたれ」でかれを理解しなかったかというと、それはおかしいとも思っている
その思いは だれの 商量 ですか ?

正しく理解できたうえでの 発言とされているけれど
どのように正しいかは “ 論理的 ” に 破綻していると
「 論理 」 を 用いいることが出来なければ
自らの言語活動を 正しく知ることは適わない
それを 龍樹も (釈迦牟尼も)
  覚りは 日常慣用言語で 表される
と 言葉で 説くのです


> 先生のいう論理は果たして一般にいう「論理」だろうか?ということも併せて興味深い問題です。

聞いて 知る   ことは 出来ない
知って 聞くと
知っていることが  言語上で 分かる( 智慧として 言葉に顕われ出ている )

わたしの 管理人エム 様 に対する 全ての提示は
批判ではなく 穴埋めにすぎない

穴を埋めないと 自らが掘った穴に  自らが陥り
  よじ登る
   ( 仏恩徳望 不憚 煩勞蹔 降赴此院此所 ) 「 風信帖 」 第一通 十行目
   ( 躋攀彼嶺 = 降赴降赴此院此所 )
のに 苦労する ( そこに苦を生んでしまう  → よじ登っている間は )

高低 が  「 縁起 」  であると知るとき ここに 矛盾はないと知る ( 論理的構築 を知る )

> 一切法についてです。(ちなみに私はブッダがキリスト教のヤハウェのように、全知者だったとは考えていません。)

あなたの 限った “あなたの全知” で “ブッダ” を 量り   「 法 」 を 量る とき

あなた は その量ったこと を 量った事の範囲内   で 知る

> まあ、ブッダが全知者だと思わないと言ってしまった時点で、そもそも問題でないのが、はっきりしてしまったようなものですが。

どうはっきりしたか  “ 論理的 ” に 表現してください
( そこにある       未了義  が あなたが
    得ていき 
    得ることが適うと  約束されている(授記) 真理です  )

知ることが出来る  から (知られて 正しいとされる) 真理 です

知らないことがあるうち ( 知らないことを知らなかったこと と 知るまで ) は
“ 真理にあるのではない  ということ ” が  真理  です

> > しかし、そうなると、どういう問題になるかというと、pocketさまが疑問点をしっかり出してくれることが必要かと思います。

問題点を  しっかり= 正しく 出せることが 
 そく 問題点を 跳出する 立場( = 仏法 )  です ( 「 仏法非遥 心中即近 」 )

仏法を知るまでは 問題点がある という 認識に 問題点がある (  唯仏与仏 乃能究尽 )

> > ただし、そうなら、わたしは、「それでは、ゲーデルについて何を知っているのだろう」という疑問が出てくることになりはしますが、それはまたそれ。

その 疑問が起きる ところ  が  “  知る“ところ”  ”
知るまでは 問題点を 提起できない

それ( 其処こそ ) が 管理人エム 様 の 住んでいる
( 時々外出する ために コウフする  →  降赴=躋攀 ) 
   “ 住処 ”         です
    =  瞑想の起きているところ  で 起こしている瞑想 ソノモノ


[11060] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/07(Sun) 07:23   [返信]
傍観者の感想

>四諦という真理の道を「行」ずるとき、出世間(解脱)を見据えなければ道が道として縁起してこないのが四諦八正道。

いい言葉だ。「見据える」とか「道が道として縁起してこない」というのがいいですね。

pocket様と先生の議論も面白くて、久々に興奮してます。

[11059] Re:[11057]   取るに足らない 問題   投稿者:pocket 投稿日:2018/10/07(Sun) 06:27   [返信]
おはようございます。
正直、愛想をつかされて、答えは返ってこないかも…と思っていました。


まず、単刀直入に言うと先生のブッダ「論理学」というものに対する違和感を感じています。

私は、論理学などというものはブッダも持たなかったし、龍樹も持たなかっただろうと今は思っています。

スマ長老流にいえば、「たまたま論理的になっただけ」、なぜなら自分で真理を知ったから。というような感じです。

> 確かに、ゲーデルと名を出すと、どうも(人々の反応において)違和感を感じます。
> 「ゲーデル」という名が悪いのか?

私は、数学者を持ち出すと公理のような固定的な観念を持ち込むようにみえるので、ゲーデルを持ち出すのは嫌いです。

整然とした公理に囲まれた論理の世界を構想するならば、『方便心論』における「言失」に陥ると思うからです。

言葉にせずとも「一切法は無我である」などのような公理を想いとして持つと、言葉も同じで意味も同じ、という誤りを持つ
言葉を変えても、「一切法は空である」などのようなことを手を変え品を変え「主張」しても、言葉は違うけれど意味は同じ、という誤りを持つのではないですか。

そのような主張も容易に捨て去るから、空寂してしまうから空で問題がないと仰るとするなら、ますます論理学というものを構想する必要性に疑問を持ちます。

私は『方便心論』は『中論』と同じではないかと考えています。論理「的」ではあるけれどもまさしく反論理学の書であって、「論理学」というような体系を拒んでいるような。空という立場を守るなら、たしかに龍樹のようにならざるを得ないだろうな、という点で龍樹には卓越した知性を感じます。

しかし、龍樹よりのちの人が「アホたれ」でかれを理解しなかったかというと、それはおかしいとも思っているのです。

部派の人々は、スマ長老のように、空ということを語りだすと(部派における)解脱ということがなくなってしまうことに気づいていたと思います。
だからブッダゴーサ『清浄道論』の空の観察は無我の観察に置き換えられているのだと考えます。

中観の人々もそうで、月称菩薩が難詰論者のような振る舞いに徹して論証に反対したのも(私は論理学というようなものの構築に反対したと解釈しますが)、かれが如何に卓越した行者だったか(強調してもしすぎることはないかも)の証明のように思えます。


> > > ゲーデルが実際に取り組んだのは数論でしたが、その考え方は普遍性があって、一つの理論体系を考えるならば、その理屈は適用されるはずであるという考え方から、論理についても同じように考えることができると思います。
> >
> > ここが先生の仏教解釈学の核心でしょうか
>
> もちろん、ちがいます。
> ゲーデルは、それを持ちだして批判する人に対する答えにすぎません。

誰かに、実際にゲーデルを持ち出して、批判されたのでしょうか。


> しかし、大きな問題の一面に絡むので、その点で問題を感じている人には(現代の人は、その点を取りあげるのが多いのではないか、と思ってのことです)、それに対する答えになるかと思います。

そうですか。

> > 「法(ダルマ)」を「言葉」と見ていく見方はヴィトゲンシュタインに通じるものがありますね
>
> そうかもしれないです。

そのような先生の思考のクセ(先生にとっては当たり前なことかもしれませんが)を解明していくことで、先生の仏教解釈がもっと理解できるのではないだろうか、と思います。これは後の人々の仕事かもしれませんが、先生が直接仰って下さると論争も起きないでしょう。

> > 自己言及のパラドックスではなく、ゲーデルの不完全性定理を用いる、ということは、ブッダの思想は論理的体系を持ち、なおかつそれは無矛盾であるということを含意している、と先生は考えるからでしょうか?
>
> そうですね。自己言及は、パラドックスなのだろうか、という疑問も出しておきましょうか。この点はどう思いますか。

半分、分かるのです。ですが、感覚的なもので明確になるものを持ち合わせていません。
先生のいう論理は果たして一般にいう「論理」だろうか?ということも併せて興味深い問題です。

> > 先生の一切智のニュアンスだと、
> > ブッダがタイムスリップしてきて(!)例えば現代の遺伝子やパーソナルコンピューターについて何か語るとしても、それは「作られたものは滅する性質のものである」等の語りの問題についてであって、全部知っているのではないと思うのですが。
>
> 「全部知っているのではないと思うのですが」という文の「全部」とはどういうことか説明してもらえますか。

一切法についてです。(ちなみに私はブッダがキリスト教のヤハウェのように、全知者だったとは考えていません。)
まあ、ブッダが全知者だと思わないと言ってしまった時点で、そもそも問題でないのが、はっきりしてしまったようなものですが。


> > 言葉の限定的な使い方(数学)において成り立つ証明を、より広い使い方においても、それが成り立つ、というのはちょっと勇み足な気がしますね。。。
>
> それなら、それでかまいません。
> ゲーデルにこだわるわけではないので、それを使わずにすむなら話はまた異なる説明になっていきます。
> ゲーデルは、ゲーデルを重んずる人に対しての「答え方」になるのではないかと思いますので。

そうですか。先生もその「ゲーデルを重んずる人」に入っているのではありませんか

> しかし、そうなると、どういう問題になるかというと、pocketさまが疑問点をしっかり出してくれることが必要かと思います。

すいません。

> 数学になり立つ証明を、仏教の思想に持ち込むのは問題だというのならば、実は、その問題については問題にしていない、ということがわかるので、pocketさまが問題だと思っている点を語ってくださることが大事だと思います。

ゲーデルのような数学者を持ち出すのは、ブッダの法に対して理解を阻むでしょう。仏教徒は興味を持つかもしれませんが、仏教徒ではなく、論理学や数学を優先的に学んでいるような人たちには混乱させられるだろうな、という印象です。


> 「ゲーデル」は、ブッダの理論を説明するための喩えなのです。

この言葉をお聞きできただけで、今回の投稿に意味がありました。
感謝いたします。

> もし、ゲーデルはゲーデルで関係ないだろうと思うなら、それはそれでかまいません。
> ただし、そうなら、わたしは、「それでは、ゲーデルについて何を知っているのだろう」という疑問が出てくることになりはしますが、それはまたそれ。

おっと、それは困りますね!私はゲーデルについて表層的なことしか知っていませんが、お聞きします、先生が知っているゲーデルとはどのような人なのですか?

[11058] Re:[11056]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/07(Sun) 05:11   [返信]
> うーん、何を言うべきかハッキリしてきた点を少し

お、ありがとうございます。

> 言葉の限定的な使い方(数学)において成り立つ証明を、より広い使い方においても、それが成り立つ、というのはちょっと勇み足な気がしますね。。。

それなら、それでかまいません。
ゲーデルにこだわるわけではないので、それを使わずにすむなら話はまた異なる説明になっていきます。
ゲーデルは、ゲーデルを重んずる人に対しての「答え方」になるのではないかと思いますので。

しかし、そうなると、どういう問題になるかというと、pocketさまが疑問点をしっかり出してくれることが必要かと思います。

数学になり立つ証明を、仏教の思想に持ち込むのは問題だというのならば、実は、その問題については問題にしていない、ということがわかるので、pocketさまが問題だと思っている点を語ってくださることが大事だと思います。

「ゲーデル」は、ブッダの理論を説明するための喩えなのです。
ゲーデルが分かるなら、そこを拡張して、ブッダの理論も推論できるだろうという風に思っているのです。

もし、ゲーデルはゲーデルで関係ないだろうと思うなら、それはそれでかまいません。
ただし、そうなら、わたしは、「それでは、ゲーデルについて何を知っているのだろう」という疑問が出てくることになりはしますが、それはまたそれ。

[11057] Re:[11042]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/07(Sun) 04:55   [返信]
pocketさま 今頃、遅くてすみません。
公開講座があって、悪戦苦闘していました。
結局。。。うまくいかないなあ。。と、結論づけました。(公開講座の話です)

確かに、ゲーデルと名を出すと、どうも(人々の反応において)違和感を感じます。
「ゲーデル」という名が悪いのか?

ですが、それは、わたしの言い訳であり、ゲーデルの「い(良)い訳」でもあります。


> > ゲーデルが実際に取り組んだのは数論でしたが、その考え方は普遍性があって、一つの理論体系を考えるならば、その理屈は適用されるはずであるという考え方から、論理についても同じように考えることができると思います。
>
> ここが先生の仏教解釈学の核心でしょうか

もちろん、ちがいます。
ゲーデルは、それを持ちだして批判する人に対する答えにすぎません。
しかし、大きな問題の一面に絡むので、その点で問題を感じている人には(現代の人は、その点を取りあげるのが多いのではないか、と思ってのことです)、それに対する答えになるかと思います。

> しかしこれは自明ではないように思います。ここにもっと説明が費やされていれば不毛な論争が避けられるし、仏法が輝くのではないですか。それはまさに私が先生に期待しているところのものでした。しかし、先生は、あるいは論理学畑の学者たちもこの点については自らの信仰的立場から一歩も動くことなく、相手が間違っているという、部外者から見れば理解不能な次元で相手を判断してしまっているのが残念です。

あらま。。そうですか。。どうもすみません。説明が悪いからわからないのだと言われているような気がしてきますが、そうではなく、何かかゆいところに手の届かないもどかしさがあるのでしょうね。
信仰に見えるのかな。。ふうむ。とりあえず、お聞きして検討してみます。

> 「法(ダルマ)」を「言葉」と見ていく見方はヴィトゲンシュタインに通じるものがありますね

そうかもしれないです。

> 自己言及のパラドックスではなく、ゲーデルの不完全性定理を用いる、ということは、ブッダの思想は論理的体系を持ち、なおかつそれは無矛盾であるということを含意している、と先生は考えるからでしょうか?

そうですね。自己言及は、パラドックスなのだろうか、という疑問も出しておきましょうか。この点はどう思いますか。

> 先生の一切智のニュアンスだと、
> ブッダがタイムスリップしてきて(!)例えば現代の遺伝子やパーソナルコンピューターについて何か語るとしても、それは「作られたものは滅する性質のものである」等の語りの問題についてであって、全部知っているのではないと思うのですが。

「全部知っているのではないと思うのですが」という文の「全部」とはどういうことか説明してもらえますか。

この質問も、批判のためだとお考えにならないでください。「全部」で何をpocketさまが思っているのかを問うています。pocketさまの「全部」に、ブッダは答えられるだろうと、思っているということなのですが。つまり、何が全部であっても、ブッダは答えられると、「信じている」し、「知って」もいる、と思っているのです。

[11056] Re:[11038]   取るに足らない 問題   投稿者:pocket 投稿日:2018/10/06(Sat) 10:12   [返信]
うーん、何を言うべきかハッキリしてきた点を少し

> ブッダの場合も、ことばというものは、仮説であるとみますので、これを数学の体系に転換可能であると考えてもおかしくありませんし、逆に、数字をことばにすれば、ことばで記述することができるとみてもおかしくありません。自然数論の分野を、ことばの世界に広げてみると考えればよいと思います。

言葉の限定的な使い方(数学)において成り立つ証明を、より広い使い方においても、それが成り立つ、というのはちょっと勇み足な気がしますね。。。

> 例えば、ブッダの説く「諸行無常』を一つのテーゼと考えると、それは、一つの世界(=ブッダの説く世界)の中でつねに言えなければなりません。ブッダが論理を考えているとすれば、そうなります。


> そして、私は、ブッダはつねに論理を意識していたと思っています。

[11055]  テキム  21416 坐禅   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/06(Sat) 09:23   [返信]

mame_maruha
10月6日 09:09

>>21412

>  観察者自身が観察されるものであることを悟る(理解・実感する)とき、
これは、逆に言えば、観察されるものは観察者自身であることを
悟る(理解・実感する)ということでもありますが、
そのとき、はじめて、好き、嫌いはなく葛藤は終わる、とクリシュナムルティは、言っています。  <


“ 観察者 という 存在  ” は ない

と 言っているのです

存在はない  ということが
   存在を前提にして起きる    ということを言っています


いくら 坐禅らしきこと を しようと
ここに気付くまでは  “らしさ”  に 囚われている

気付いたのは 自分ではなく
ブッダ である   という意味です

「 わたしを見る者は 法をみる 」 と  釈迦牟尼は 言葉にします


意味が 分かりますか ?

( 無意味の意味が 、、、、 )


[11054] Re:[11053] 無題 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/06(Sat) 08:59   [返信]

> 「後から」春さんが使うんじゃないかと思って「三密」ということばを使わなかったのよ〜

さっそく使ってみます

ところで 、、、、

「 三密 」 って どういう蜜の味 ?

Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
記事No 削除キー

- LightBoard -