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[10475] Re:[10469] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/19(Sun) 09:06   [返信]

>  思考の構造を明かさずに、どんどん話しを進めるので、相手に混乱が生まれるのです。ヴィトゲンシュタインが述べている「事実の全体」は世界を指しますが、それはどこにいったのだろう、とか。誰が「事実は論理である」と述べているのだろうとか、です。


わたし に  混乱が起きて  いなけれ  ば
   ( 混乱のあるとき わたし は 存在の基盤を 論理的に失っている )
   ( 混乱が起きていれば わたしは 存在していない )
   ( 混乱が起きていなければ 洲にある 脚下を 照顧している )
あなたが混乱しているかどうか は あなた は 決めることができない

あなたが それでも決めることができるとするなら
あなたは “堅固” な 混乱の上に立つ ( けれども 混乱は 堅固ではない状況を言う )


>  誰が「事実は論理である」と述べているのだろう

    わたしは
> >      事実は 論理ではなく  論理は 真理です
> >      真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
> >      空間は真理によって埋め尽くされている
  こう 述べましたが  「事実は論理である」 と 述べてはいない
  論理は真理である  とは 述べている  と  読むこともできます
  論理的に読んでいると 推量を重ねれば
  その論理的思考に乗って 更なる推量が重ねられます

事実は 類推である   と 読むことはできます
類推は 論理的に 行われるが いくら論理的 であろうと 
それが真理であるかどうか は 類推では ハカレナイ( 推量できない 無量・阿弥陀 が 起きている )

事実 を タターガタ と するなら タターガタ は あなたにとって どうあるかが問われます
“ タターガタ は 事実としてある ”  そういう答えでも丸を付ける試験官はいます

あなたが ありてあるままに 外れるなら ○は 付きません
存在が 事実として ありてあるまま  なら  何をか言わん


          瞑想しなさい


曼荼羅 はここに起きているから 曼荼羅による


> よかったら、詳しく語って、「慣れ」を払拭してください。お願いねっ!

「論理」 とは  「 正しくある 仕組み 」 で 「正しさのありようの仕組みの構造」
「正しさ」 とは 判断の基準です
人の判断は 判断が行われるときには すべて 判断にのっとって 行われる
その行われようを 「揀択」 と 伝統的に呼びます

  「 至道 」 の 「道」 は 「真理」 という意味です
 「 無難 」  とは 誰でも 難なく やってのけていることです
 「 唯嫌 」  とは  「そうではない 」 と 判断する 「思い」 です
 「 揀択 」  とは  「そうではない・そうである 」 と 判断する 「思い」 です
        一つの事物 一つの出来事 は   いかようにも
            その意味 を 意味として決めたモノに受け止められ
        心の自由性によって(決められた意味の)存在 を 決められ 
        その  決めた思い   はそれ(自由性の発露)によって 支えられています


この辺で 打ち度目  ギョ LOT


[10474] Re:[10473] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/19(Sun) 07:54   [返信]
>
> > > >    般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
> > >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
> >   例をあげなさい
> >   その例で 誰が どれほど 分かりますか ?


「こういう表現を多用します」と述べているのは、春間さまですが、しかし、「例をあげなさい」と、わたしに命ずるのも春間さまです。ここにも、話し方があります。普通なら、自分であげるだろうと思いますが、人にあげさせます。

では、ご指名により、ここで。

菩薩摩訶薩行般若波羅蜜
T0223_.08.0221c13: 時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但
T0223_.08.0221c14: 有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受
T0223_.08.0221c15: 想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一
T0223_.08.0221c16: 切我常不可得。衆生壽者命者生者。養育
T0223_.08.0221c17: 衆數人者。作者使作者。起者使起者。受者
T0223_.08.0221c18: 使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可
T0223_.08.0221c19: 得空故。
菩薩は、般若波羅蜜を行ずるとき、まさにこのように考えなければならない。
菩薩は、ただ名字だけがある。仏も、またただ字だけがある。般若波羅蜜も、ただ字だけがある。色もまた字だけがあり、受想行識もまた字だけがある。舎利弗よ、我のようなものは、ただ字だけがある。一切の我は、常に、不可得(認識され得ない)なのである。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆數、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、これら一切、みな不可得である。不可得(認識され得ず)空であるから。

> 例をあげて、端折ってしまう、言い方で
> 勝手に探せというのではなく
> 佇み とどまる わたしにも わかるように 示してください

端折ってしまう言い方で、勝手に探せ、というのではなく、
端折ってしまわない言い方で、勝手に探せ、と言いたいのです。

だから、上をあげました。どこでもいいのです。

「不可得なものは、字だけだと考えなさい。(不可得なので)空であるから。」と了解できます。

思惟に飛んでいるところがありません。最後も、「みな不可得である」とあって、さらに「不可得空であるから」と、さらに「不可得」を重ねています。この後ろの「不可得」が空の説明とも読むことができます。読み進めるだけで、自然に思惟の流れが、自分に入ってくるようになっています。

これが、ブッダ論理学です。

[10473] Re:[10470] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/18(Sat) 19:13   [返信]

> > >    般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
> >     般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています
>   例をあげなさい
>   その例で 誰が どれほど 分かりますか ?

例をあげて、端折ってしまう、言い方で
勝手に探せというのではなく
佇み とどまる わたしにも わかるように 示してください

ただし
わたしの場合は 勝手に 好きにすればよい  と しています

勝手にする・好きにする 以外に 方法があるのなら
教授してください


[10471] Re:[10470] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/18(Sat) 09:59   [返信]
>
> あなたは 充分 分かったではないですか ?

書いたのは、一部です。

誤解される恐れがある、と書いたのは、それは、人により、誤解ではないとされるかもしれない、ということです。

[10470] Re:[10469] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/17(Fri) 19:16   [返信]

懇切丁寧に説明を重ねると
説明は分かりますが、
なぜ 説明されているかが どっかに行ってしまう

聞いて 分かるのではなく
わかるときに 聞いているのです

説明の後で 分かった時には 何も語られてはいない
それを 語られた事(過去) として聞くから
 分かる  ということ が 起きている
何が分かったかは 過去にある  から  未来において 分かったことが決められる

過去に縛られるから 自らで 未来を切り開く必要があるのです

こう 丁寧に説明を重ねるほど 分かることは 遠のいていく 、、、、

そもそも 何が丁寧かは 受けとめる者の 思惟 によって 決まっていく

もう一歩のところにある者に わたしは語る
( わたしが もう一歩にあると 誰が知るか
        というところに   知る者が起きる )


あなたは 充分 分かったではないですか ?
( 分かったところまでが 述べられている すべてです )

わかったところで 分かるまでの道筋を振り返り
もっと 丁寧に ハッショルコトナク(端折ることなく) 言っておいてくれれば
楽に ここまで位は 来れたのに 、、、、  ( 業つく張り の よくばりモン )

> >  般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します
>   般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています

例をあげなさい
その例で 誰が どれほど 分かりますか ?

一つでも分かれば  般若 は すべて  手 “中のうち”

一つも分からないとこから 悟りへの一歩が起き
その一歩に わたしがいる( 佇み 止まって  いる )

一歩は いくらでも細分化でき その際分の 毫釐の差 に 天地は隔てられている 

ずいぶんと登って来たと 振り向くときに 最初の一歩が 始まっている


こういうもの言いに慣れてきたなら もう一歩 !



[10469] Re:[10451] 論理哲学論考 全集1  投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/17(Fri) 16:11   [返信]
> 「 ブッダの論理 」 と どう関連しますか ?

> 論理哲学論考
> http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

> 1.13 論理空間の中にある事実、それが世界である。

では、これを使って、ブッダ論理との関連を述べましょう。

原文  Die Tatsachen im logischen Raum sind die Welt.

「論理空間の中にある事実が、世界である」と訳せます。ここに、語順があります。定義されるものが後ろ(述語)に来るのは、ブッダ論理の語順です。(インド哲学全般での言い方でもあります)

かれは、『論理哲学論考』にどれほど心を砕いて執筆していたのかが、ここから読みとれます。かれ独特の、ナンバリングも、順序をあやまたないようにしようという、心の表れだと思います。この書には、瞑想があります。真摯で、純粋な思考がある。しかし、それでも、混乱も出てくるのは、実在論的思惟から抜け出せていないからです。そこで、順序は無視されてしまうのです。

>> > 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
>> > 偏  が 無いから 成り立つのです

>> こういういい方にも慣れてきた感があります。

> これは 言い方の問題ではなく
> 言い方 として 扱うことでもありません

言い方を問題にするのが、ブッダ論理です。
言い方なのです。春間さま独特の言い方があります。端折ってしまう言い方です。順序を飛ばしてしまうというか。

「(中道は)偏があって成り立つのではない」→「偏がないから成り立つ」

これが、春間さまの述べるところですが、ここにはずいぶん抜け落ちている部分があります。
まず、結論として「偏がない」をはじめに言ってしまうのは、混乱を招きます。その前に「偏があるのではない」とあるだろう、というかもしれませんが、誰も何も言っていないのに「偏があるのではない」というのも乱暴です。

ですから、最初に誰かが「偏」という言葉を出して、それについて何か言っているという前提があるのです。この場合、「偏に寄らないで、中道をいった」と述べたのはブッダです。
ということは、「偏に寄らない」とブッダのことばがあるけれど、と加えなければならないでしょう。
「偏に寄るな」というブッダのことばがあるが、これは「偏が有る」ということを言おうとしているのではない、とこう言うならば、わかりやすいです。
そうではなくて、「偏に寄らない」の「寄らない」に注目すれば、「偏はない」とき、中道というのは成り立つと見なければならないだろう、とこう言うならば、紛れないでしょう。

このようにいうなら、スムーズに理解できます。
というのは、春間さまの言い方ですと「偏が‘無い’から、成り立つ」とも執れるわけで、「無」の立場を述べているようにも見えるおそれもあります。偏がない「から」ではなく、偏がない「とき」、中道が成り立つとした方が、さらに誤解がないと思います。

有の立場を否定して、無の立場をとっているのではないかと誤解されないためには、言い方には気をつける必要があります。

こういう説明をせずに、最初の言葉(語句)と最後の言葉(語句)を結びつけるところが、春間さまの言い方になっていると思います。


> 般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します

般若経典では、もっと丁寧に語っていて、誤解されないようになっています。

このような語り(言い方)を、空の論理にもとづく語りといいいます。これを、また、ブッダ論理にもとづく語りともいいます。


> 1.13 の 論理空間  は 意味のある語句です
>    事実は 論理ではなく  論理は 真理です

ここも、「事実は 論理ではなく」で、同じような言い方をしています。

>    真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
>    空間は真理によって埋め尽くされている
> 「空」を ひも解くと 真理(論理)が展開される

春間さまの思考の構造を明かさずに、どんどん話しを進めるので、相手に混乱が生まれるのです。ヴィトゲンシュタインが述べている「事実の全体」は世界を指しますが、それはどこにいったのだろう、とか。誰が「事実は論理である」と述べているのだろうとか、です。

よかったら、詳しく語って、「慣れ」を払拭してください。お願いねっ!

[10468] Re:[10464] Confusion will be my epitaph    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/17(Fri) 11:08   [返信]

>  >  この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません

混乱を起こすには
混乱していない状況から  混乱 へ の  一歩を踏み出す
そのことが  わたしに混乱を起こす 、、、、

>  ほんとに、春間さまが思っているなら、かまいません。わたしが混乱しようと、かまわないでしょう。

かまわれていないと  決定しますか ?
どのような決定であろうと、 わたしは はそれに引きずられないから、
  かまいません

>  どうせ    混乱しているんだしね

混乱しているかどうかは
混乱していないところから 決定されることです

混乱にあるとき    それが 混乱かどうかは
混乱していて      決定できないが  
平気な顔で     「 (どうせ)混乱している 」 という
( 混乱なく 自らを見据えているつもりにある )


[10465] Re:[10464] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 16:38   [返信]

>  ヴィトゲンシュタインは、仮説を知っているところ、ブッダ論理を知っています。

知っている という意味を  どう知るかで
知っていることが変わるが
知っている範囲にあることは  姿(事実)を変えることはない

>  しかし、世界について、事実の集まりとしているところは、ブッダ論理ではありません。

全部打ち込むのは面倒だから 引用 C&Pですませます
         http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

1     世界とは、起きていることすべてである。
+ 1.1
1.1  世界は事実の全体であり,ものの全体ではない。
+ 1.2
1.2  世界は事実へ分解される。

1.11
1.11 世界は事実によって、そしてそれらが事実のすべてであることによって、規定されている。
1.12
1.12 なぜならば、事実の全体はなにが起きているかを規定し、そしてまた、なにが起きていないかをも規定するからである。
1.13
1.13 論理空間の中にある事実、それが世界である。


1.13 の 論理空間  は 意味のある語句です
   事実は 論理ではなく  論理は 真理です
   真理は 事実によって 類推されるけれど 類推は 真理に拠らない
   空間は真理によって埋め尽くされている
「空」を ひも解くと 真理(論理)が展開される

何が論理で どうあることが論理的か は
 必ずしも   論理的に実証されるわけではない

> イエスは、ブッダとは少し違います。かれは、神に目を向けていますが、ブッダは、民に目を向けています。似ているけど、やっぱり違うと思っています。

あなたの イエス は あなたの解釈にあるイエスです

わたしは イエス を 解釈しない
神を解釈することもない
( 神とは何を指すかは  アミダ に 訪ねなさい    訪れるところに 神はいつもオワス  )

> 阿弥陀仏は、ブッダだけど、また、釈迦牟尼仏もブッダだけど、イエスは、まだ、ブッダになっていないように見えますね。わたしは、そう思っています。

見たままに言うのが あなたの癖です
見たこと( 事実・モノ ) を   タターガタ としてみるとき
見る者 ( そのまま ありてあるまま )  が   タターガタ であると分かります
( そういうことを 「脚下照顧」 と 表わします )

> > 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
> > 偏  が 無いから 成り立つのです

> こういういい方にも慣れてきた感があります。

これは 言い方の問題ではなく
言い方 として 扱うことでもありません

般若  であるから 般若経典では こういう表現を多用します

慣れてはいけないことで
慣れ親しむことでもありません
般若 は パーラミッタ  彼岸にあります

> おっしゃる通りですが、仮説された偏は必要です。

あなたに必要があれば
世界に必要があります

どこにでも 「偏」 があるから
どこにでも 「中道」 を 論理として 見出せます
「偏」 が なければ 「遍照」 は 成り立たない

光は 光を 照らし出すことはない


[10464] Re:[10463] これが あるとき これがある 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/16(Thu) 14:24   [返信]
>
> > 「伝えたければ」、ではなくて、「何かをたずねているなら」です。
>
> 伝わらない  のは  伝える方の責任ですが
> 「 言い間違いは聞き手の粗相 」 という 言葉があります
> 聞き手でなければ 当然(?) 粗相 は ナイ !! (?)

わたしの粗相ということですね。
>
> 伝えているのに 内容が伴っていないとするのは
> 内容のないことを述べる わたしの 粗相

なるほど。了解。あなたの粗相。

> > それが 「 “傲慢” な 態度 」に見えるなら、すみません。
>
> とりあえず ここは 謝っていることが 起きている 文体ですが
> すぐに 次に
>
> > それにわたしの答えに反応ないですよね
>
> という 糾弾が おきます

ばれましたね。

> 何を言っているかは 聞く人の聞き取る能力によって 左右されます
> ウイトゲンシュタイン であっても 
>   自らの 言葉を聞き 聞き取るから
> “思い” (= 解釈 = 商量 ) を  超えていこうとするのです
>
> キリスト(ナザレのイエス)の言葉を ユダヤ教 の 聖職者の言葉と聞けば
> その 「即近」  の 「 仏法 」 に であうことは ムツカシイ
>
> > その用いられている言語は、まだ、主張する「論理」以前の論理になるので、そこは、実はブッダ論理なのです。そういうことを言おうとしていましたが、その点は、何も言われませんでした。
>
>     そういうことは あなたの講義に起きる 試験で 生徒に 訊ねなさい
>     あなたによって わたしに語られたことで、わたしは その中には入りません
>
> あなたが 名付け 規定するところの ブッダ論理  です
>
> ウイトゲンシュタイン  は たしかに ブッダの すぐそばにいますが
> 「 仏法非遥 心中即近 」  の 「即近」  ではありません
>
> 彼のころ (オクスフォードに英訳が起きるころ) から いわゆる キリスト教的 論理 のしがらみを
> 抜ける道を見出してきました

ヴィトゲンシュタインは、仮説を知っているところ、ブッダ論理を知っています。
しかし、世界について、事実の集まりとしているところは、ブッダ論理ではありません。


> ただし ナザレのイエス は 堅固なる 仏教を受けています
> キリスト教 新約聖書 からでも それは 読み取ることが可能です
>
> ナザレのイエス ( ≒ キリスト )は ブッダ(不図) です
> 十二使徒 は ブッダではありません
>
> この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません

ほんとに、春間さまが思っているなら、かまいません。わたしが混乱しようと、かまわないでしょう。
どうせ    混乱しているんだしね

> どうせ   こういう書き込みも あなたの 思考( 趣味嗜好 ) に沿って 読み取られます

それは、仕方ありません。
限定を受けているから、輪廻しています。

イエスは、ブッダとは少し違います。かれは、神に目を向けていますが、ブッダは、民に目を向けています。似ているけど、やっぱり違うと思っています。

阿弥陀仏は、ブッダだけど、また、釈迦牟尼仏もブッダだけど、イエスは、まだ、ブッダになっていないように見えますね。わたしは、そう思っています。


> どうせ  と置けば  、、、、、
>
> (  あなたは どうせ で済ますことができない性格だと わたしは見抜いています )

まあ、見抜かれていますね。
>
> 中道は 偏があって成り立つ   のではなく
> 偏  が 無いから 成り立つのです

こういういい方にも慣れてきた感があります。
おっしゃる通りですが、仮説された偏は必要です。

[10463] Re:[10462] これが あるとき これがある 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/16(Thu) 13:17   [返信]

> 「伝えたければ」、ではなくて、「何かをたずねているなら」です。

伝わらない  のは  伝える方の責任ですが
「 言い間違いは聞き手の粗相 」 という 言葉があります
聞き手でなければ 当然(?) 粗相 は ナイ !! (?)

伝えているのに 内容が伴っていないとするのは
内容のないことを述べる わたしの 粗相

これ以上は 仕組みの説明は 止めておきます
ここまでで分からぬようなら しばらくは 同じ状態を続けるのでしょうから 、、、、

> それが 「 “傲慢” な 態度 」に見えるなら、すみません。

とりあえず ここは 謝っていることが 起きている 文体ですが
すぐに 次に

> それにわたしの答えに反応ないですよね

という 糾弾が おきます
( 糾弾ではなく ただの指摘であるとしても 内容は同じです )


無いという反応を見て  ある 反応 を 求める
有る無いの 根幹にかかわる問題です
(  そこをずっと 問うています  )


> わたしが、まだ、自分でマシなことを言っていると思うところは、

少し(まだ) まし  ということは ありません(論理的に成り立ちません)

到着するまでは 未着です

( 梯子を降りる時に 最後の一歩を踏み外せば 落梯 します
   一歩なら 大した怪我にはならない ということは  五蘊に縛られた 考え=思い  です )
 
> 『論理哲学論考』の中の一節について、ヴィトゲンシュタインもまた、けっこうブッダ論理を使っているな、ということなのです。
> これは、西洋哲学の人々からは、かれらの提示する「論理学」以前の常識のように捉えられている「一種の論理」です。形式論理学だの西洋論理学だの演繹論理学だのという名前で説かれていることがらも、それを提示するためには言語を用いなければなりません。

何を言っているかは 聞く人の聞き取る能力によって 左右されます
ウイトゲンシュタイン であっても 
  自らの 言葉を聞き 聞き取るから
“思い” (= 解釈 = 商量 ) を  超えていこうとするのです

キリスト(ナザレのイエス)の言葉を ユダヤ教 の 聖職者の言葉と聞けば
その 「即近」  の 「 仏法 」 に であうことは ムツカシイ

> その用いられている言語は、まだ、主張する「論理」以前の論理になるので、そこは、実はブッダ論理なのです。そういうことを言おうとしていましたが、その点は、何も言われませんでした。

    そういうことは あなたの講義に起きる 試験で 生徒に 訊ねなさい

    わたしは 大谷・駒沢 の 学生ではなく
    あなたの(用いる) 教育制度  に おける 生徒 でもありません
    「 優秀なる生徒は 数少ないと言えども存在し 正しく思考する 」 ということは
    あなたによって わたしに語られたことで、わたしは その中には入りません

あなたが 名付け 規定するところの ブッダ論理  です

ウイトゲンシュタイン  は たしかに ブッダの すぐそばにいますが
「 仏法非遥 心中即近 」  の 「即近」  ではありません

彼のころ (オクスフォードに英訳が起きるころ) から いわゆる キリスト教的 論理 のしがらみを
抜ける道を見出してきました
ただし ナザレのイエス は 堅固なる 仏教を受けています
キリスト教 新約聖書 からでも それは 読み取ることが可能です

ナザレのイエス ( ≒ キリスト )は ブッダ(不図) です
十二使徒 は ブッダではありません

この辺りを踏まえて あなたの説に 言及することは あなたに混乱を 起こしかねません
( あなたは 真剣に “わたし” と 敵対していないからです )

( あなたが 真剣であると言えば 木刀も イシ ヲ キリサキマス → 神の イシ です )
わたしが  「違う」 と言えば、 あなたに 「違う」 がおき わたしに 違う意味での 敵対が起き
ディベート が 起きています ( 龍樹は 論争せず ディベートもしない )

あなたの 「チガイ」 は わたしの 「ソウ」
( ソウ ソウ カンタンニ チガイ ヲ キテイ デキナイ )

真理を知るかどうかは 知る人にかかり
東西 にはかからず
自他 にも 関わりません ( 知るのは 知る人に起きることです )

関わるときには 自他が起きますが 自が無いから
 他  だけ が 起きています ( アタリキシャリキ 他力本願 )

どうせ   こういう書き込みも あなたの 思考( 趣味嗜好 ) に沿って 読み取られます

薫習とは しっかり  臭い(匂い)付いているのです  ( 良い悪い 美味い不味い は 縁起です )


どうせ  と置けば  、、、、、

(  あなたは どうせ で済ますことができない性格だと わたしは見抜いています )


> なかなか、わかりあえないということかなあ。。。

わかりあう  と いう言葉に  あなたは 自他を超えた 縁起を見ていると “思う”

縁起にある “分かり” は それが 自他にいずれにあっても
それぞれは “ 偏 ” に すぎません

中道は 偏があって成り立つ   のではなく
偏  が 無いから 成り立つのです

一つの思いを それぞれが 共に抱く(自他の二つに抱く)   のではなく
一つの思いが 一つに起きて 「平等」 が 起きている  のです

車 は 車輪ではなく 棒でもありません  が 車輪と棒を見ない者は 見るということに 欠陥 が あります

いくら見ることに欠陥があろうと  車を使って 人の  役立て  は 成り立つ

( 安住していては いけない  食わずに腹は 満たされない   クワバラクワバラ  )


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