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[11132] 剛腕投手 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/10/28(Sun) 17:03   [返信]
マニカナ先生は日本だと親鸞やっぱ親和性が高いのか。
ここらへんは好みですねぇ。
大乗直仏説でいいのではないでしょうか。
末法の世の方便じゃ。

>大乗が生まれる要因を胚胎していること

そもそも、如来も阿羅漢も成道後の人生に
利他の他に何があるのか。

[11131] Re:[11130] 遠慮を浅慮してみました    投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/26(Fri) 20:20   [返信]
> 遠慮 しつつ 語ってほしい 、、、、


早いな、方針転換。。はいぃぃ 。

878. (第十二経第1偈)
「各自、見解は別々に立てられています。人々は論争して、(それを)善いとさまざまに語ります。
『このように知っている者は、法を知ったのです。これを非難している人は、まだ不完全なのです』と。

879. (第十二経第2偈)
このように相争い、争論をしています。『愚かなのは、相手で、善くないものだ』というのです。これらのうちで、いったいどの論が真理なのでしょうか。なぜなら、これらはすべて、善いと言っているのですから。」

こうならないように気をつけよう。

[11130] 遠慮を浅慮してみました    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/26(Fri) 13:08   [返信]

釈迦牟尼 が 目の前に居る と
信じる人は 見て 信じない人は 仮定の上で
存在を 置いて ください

聞く人の 耳の 器官としての 働きようで、
聞こえる 音質は 変わります ( 高音が聞こえにくい 老人や 聴覚障害者の人 )
姿も よく見える 若い目
色弱・色盲 の人  弱視の人  それぞれで 映像は変わります

実況中継なら 機材の質や 受像機の 影響で いくらでも変わります

さて 本物の 釈迦牟尼 は

いかにして、本物たるか ?

聞いて ペテンだと 思う者も いるやもしれません
喜びに 目を潤ませ
 映像はぼやけても (!) 実像を はっきりとらえる者も いるかも 、、、、

何が 正しく 直接かではなく
何を受けて その生きざまを 写し取るかが
出会いの意味です

何が 金言で   何が メッキか  は
なにを 写し取るかで 決まります

学問 に 目的があるとするならば
写し取り方で左右されない 自らの行いの 道筋を見出すことです

どういう言葉でも 構わない

それを聞き取って、 何を為すか
その 為すことが いかに   釈迦牟尼から始まり  “今” へと
  そして 、    他へと   伝搬していくか
その中継点 に
自我が あれば、 自我は 正しく働いている

自我をなくすとする 自我に 囚われている 自我

遠慮 しつつ 語ってほしい 、、、、


[11129] 「空性と龍」 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/26(Fri) 11:58   [返信]
空き部屋に「空性と龍」の看板を掛けて、講義録を入れました。

今年2018年3月29,30日に九州教学研究所のお招きで、福岡市で、

「空性」とは何か?〜『スッタニパータ』から『中論頌』へ〜

と題して、講演を行いました。
その講演録を載せています。

その中で、ブッダの直説とすべきを、あげました。

『スッタニパータ』第3章第12経「二種の随観経」
『スッタニパータ』第4章「八偈品」
『スッタニパータ』第5章「彼岸道品」

少なくともこれら三種は、釈迦牟尼直説の教えであると認められること、そして、そこから、大乗が生まれる要因を胚胎していること、さらには、龍樹は、これに答えて『中論頌』の主要部分を著していること、等を発表しました。

比丘たちに教えられると同時に、大乗の菩薩となるべき人々、沙門たち、外道の人々など、則ち、一切の者たちを対象に、教えは説かれていたことを明らかにしました。

釈迦牟尼の教えに、はっきりと答えた人物、かれこそ、その名に「龍」を冠する龍樹である、と、説いています。

http://manikana.la.coocan.jp/mahanaga/mahanagaindex.html

遠慮して語るのは、やめました。
思ったことは、どんどん発表しようと思い始めました。
いつ死ぬか分からないし。。死んで、次に輪廻する時人間に生まれる保証はない。。

[11128]   転記    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/25(Thu) 07:20   [返信]
シンプル原理考       No.17891

> オキシトシンというホルモン…
2018/10/25 07:09
>>No. 17889

> オキシトシンというホルモンが分泌されます。
> これは、他者から愛情を受けた(あるいは他者に愛情を与えた)しるしだと思います。

よく 愛( 仏教での愛ではありません)に に満ちたる母親 を  慈母 と 呼びます
愛( 仏教での愛ではありません) をもって 眺める母に対して 慈母 と 呼びます
( 仏教での 愛 は  トリシュナー = 執着心  という意味でとらえればよい )

キリスト教で 使われる LOVE は 愛 と 訳されますが
漢字の成り立ちでは
 哀 ( 切ない嘆き いっぱいになった 溢れる気持ち)とほとんど同じ
 だったり、
( 「論語」で使用される ) 恵 + 心  の意味の 別語 ( キ(既の旁)+心 )
 に 転用される 語 だったりします
( 既 は いっぱいになりつくす  という 意味が 本来です )

> 言葉にすると
【生きてていんだよ】
【生まれてきてありがとう】
という
生命・存在を肯定する感じですが…  <

> 【言葉】だけでは   オキシトシンは分泌されない。

それは あなたが使う  言葉 上   の
(あなたの思う意向による働かせ方) 働き です

真心は 行いを通じても 伝わりますが
真心が 行いを 表現の一つとします
表現された 行動に 意味(価値)があるのではなく
真心  に  “真”価  が あります

触れるという 行為 は  同じでも
触れさせる  心  は  “ 違ったり ” します

>  真心の触合いがないと
> 他者の魂が納得しないのでは?

魂 などというモノは 存在しません
心 も 言い尽くすと 存在を失いますが
一応 「 唯識 」 でも  「 心 」  を 置いて 自らという “我心” を 分析し
瞑想によって 在るべき  トコロ   に  つなぎ止めます

あなたの思う “魂” や “心” は  “我心” です


> つまり  体でオキシトシン【愛】  を感じる事はできない。
     (頭では解ってるのにな、状態)

使いようを 混乱していますね
“ 心で 感じる 行いという 体での触れ合い ” という 意味ですね ?

>  愛は他者の生命を肯定的にとらえる  ぬくもりから生成される

命 という “ 有情 〔梵 sattva 生存するもの、の意〕 ” のモノ は
 ATP による 熱  です
太陽から 受ける 赤外線に 同じ作用をみます

ぬくもり は “有情” すべてに通じています から
 人間や動物など心・感情・意識をもつもの→衆生 に 通じます

> 他者の生命の肯定は、自己犠牲を含んでいる(例えば母が子に母乳を与える=命を削る)

自他 ということを 根本的に 間違ってとらえています
自他不二      とは 地球共同体  あるいは 宇宙共同体
  運命共同体   を   表す言葉です

> これがコピペで愛は語れないの真意では
結論が 合っていれば(終わり善ければ) すべて善し
  ということにはならないのが  人生の 機微 で 複雑性 です

> しかし手っ取り早い情報伝達方法が言葉だから  人はコピペを使わ、ざるを得ない…

思い違いが 使い間違い を  生みます
急がば 廻れ 
  手っ取り早い  方法 を 王道 といい 「 学問に 王道はない 」 と 戒めます

> 愛はコピペでしか表せないの真意ですかね。

終わり善ければ すべて  ・・・・  とは行きません
途中こそが 終りの連続 です

一時 一時  を 大切に 価値あることに つなげなければ 、、、、

>  心と体深い精神に伝えるには直接的な関わりが必要だと思いました

以上を 読んで  “ 自らの 短絡性 ”   を
  
            垣間見ることは出来ましたか ?

このようなことを
仏教では 「 瑜伽行唯識 」  という
 “ 学び ”   で 
自己を見つめる 階梯 としています 

( 実際に昇降 しなければ 梯子 の 階 はない )











****************

> オキシトシンというホルモンが分泌されます。
>  これは、他者から愛情を受けた(あるいは他者に愛情を与えた)しるしだと思います。

よく 愛( 仏教での愛ではありません)に に満ちたる母親 を  慈母 と 呼びます
愛( 仏教での愛ではありません) をもって 眺める母に対して 慈母 と 呼びます
( 仏教での 愛 は  トリシュナー = 執着心  という意味でとらえればよい )

キリスト教で 使われる LOVE は 愛 と 訳されますが
漢字の成り立ちでは
 哀 ( 切ない嘆き いっぱいになった 溢れる気持ち)とほとんど同じ
 だったり、
( 「論語」で使用される ) 恵 + 心  の意味の 別語 ( キ(既の旁)+心 )
 に 転用される 語 だったりします
( 既 は いっぱいになりつくす  という 意味が 本来です )

>  言葉にすると  【生きてていんだよ】  【生まれてきてありがとう】
>  という   生命・存在を肯定する感じですが…  
>  【言葉】だけでは   オキシトシンは分泌されない。

それは あなたが使う  言葉 上   の
(あなたの思う意向による働かせ方) 働き です

真心は 行いを通じても 伝わりますが
真心が 行いを 表現の一つとします
表現された 行動に 意味(価値)があるのではなく
真心  に  “真”価  が あります

触れるという 行為 は  同じでも
触れさせる  心  は  “ 違ったり ” します

>   真心の触合いがないと
>  他者の魂が納得しないのでは?

魂 などというモノは 存在しません
心 も 言い尽くすと 存在を失いますが
一応 「 唯識 」 でも  「 心 」  を 置いて 自らという “我心” を 分析し
瞑想によって 在るべき  トコロ   に  つなぎ止めます

あなたの思う “魂” や “心” は  “我心” です


>  つまり  体でオキシトシン【愛】  を感じる事はできない。   (頭では解ってるのにな、状態)

使いようを 混乱していますね
“ 心で 感じる 行いという 体での触れ合い ” という 意味ですね ?

>  愛は他者の生命を肯定的にとらえる  ぬくもりから生成される

命 という “ 有情 〔梵 sattva 生存するもの、の意〕 ” のモノ は
 ATP による 熱  です
太陽から 受ける 赤外線に 同じ作用をみます

ぬくもり は “有情” すべてに通じています から
 人間や動物など心・感情・意識をもつもの→衆生 に 通じます

>  他者の生命の肯定は、自己犠牲を含んでいる(例えば母が子に母乳を与える=命を削る)

自他 ということを 根本的に 間違ってとらえています
自他不二      とは 地球共同体  あるいは 宇宙共同体
  運命共同体   を   表す言葉です

>  これがコピペで愛は語れないの真意では

結論が 合っていれば(終わり善ければ) すべて善し
  ということにはならないのが  人生の 機微 で 複雑性 です

>  しかし手っ取り早い情報伝達方法が言葉だから  人はコピペを使わ、ざるを得ない…

思い違いが 使い間違い を  生みます
急がば 廻れ 
  手っ取り早い  方法 を 王道 といい 「 学問に 王道はない 」 と 戒めます

>  愛はコピペでしか表せないの真意ですかね。

終わり善ければ すべて  ・・・・  とは行きません
途中こそが 終りの連続 です

一時 一時  を 大切に 価値あることに つなげなければ 、、、、

>  心と体深い精神に伝えるには直接的な関わりが必要だと思いました

以上を 読んで  “ 自らの 短絡性 ”   を
  
            垣間見ることは出来ましたか ?

このようなことを
仏教では 「 瑜伽行唯識 」  という
 “ 学び ”   で 
自己を見つめる 階梯 としています 

( 実際に昇降 しなければ 梯子 の 階 はない )


[11127] Re:[11126] 廓然無聖 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/23(Tue) 22:55   [返信]


> ことばはむずかしいですね。そう言われると、そんな気がするから、困るわ。

下記参照

> 見たくない時のことは考えたことがなかった。
> おしゃかさんと聖徳太子は、同じ匂いがする。

釈迦牟尼に 出会った人は
 (見たこと)出会い を (見たまま)出会うまま に 語るから
語るまま に、 出会いを 見る ( ことも 適う  こともある )

出会いを 匂い と 言い替えてもよいが、
少しニュアンスは違います
出会い は  如実
匂い   は  気分(感官)

   どちらも 言語化 論理化はできますが 、、、、

> 彼女たちそれぞれの旦那さんは違う人だけど、二人の心持ちは共通しているような気がします。幸せな結婚をした人たち、っていうことばが出てきます。

幸せな 結婚  ってのは あなたの社会的基盤に於ける 判断

幸せなる出会い  なら  仏教に起きている 出会い

> 世間的には、一方は家出して、一方は先に亡くなったんだけど。。

両者とも 永遠になければ 同一性はなく
比較 対象化  が 起きる ( 共通・非共通 性 )

> > > 当時の人には、この世の救いに見えたんじゃないか、って思ってます。
> >      そう 見たかったから  そう見るが
> >      それは 見るがまま  ではない

> そうかな?
> では、どういうのが見るがままだと思います?

どう生きるのか が 見るがまま

お釈迦さん を 見たい人は
聖徳太子を通して 釈迦牟尼を見る

見たい と思う 方向で 方針に沿って 見る
生きるがままに 見る


> > 二諦 ではなく 一対で 一つ です
> > 片一方 では 諦  ではなくなる
> > 仏 は 世間に 起きているから 真理であって
> >  唯仏与仏 乃能究尽   では 真理は 存在しない

> はぁ〜、なるほど。そう言われると、そうですね。

そう言われない と  そうではない

と言っている   と  聞きます(読みます)

言おうと 言うまいと
出ようと (牟尼の)出現がなかろうと  すでに決まっていることです


[11126] Re:[11125] 廓然無聖 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/23(Tue) 22:16   [返信]
春間さま こんばんは。
>
> > いやいや、泥にはまったですね、わたし。
> > 「真理」ってのはまずかった。「聖者」は、顛倒を察知できるstageだと思います。
>
> 聖者 は “ stage ”  ではなく 真理 そのもの です
> それを あなたが 解釈 の stage  で 読み解く

ことばはむずかしいですね。そう言われると、そんな気がするから、困るわ。
>
> > 立派な人は、世の中、どこからでも出現しますよね。最近、聖徳太子を拝見していますが、おしゃかさんみたい、って思うことがよくあります。
>
> みたい  ってことは  見たい時に見る事  で 見たくない時は どうあるかは
> ( 見たくないことがなぜ起きるかという )別の階梯で 理解されることです

見たくない時のことは考えたことがなかった。
おしゃかさんと聖徳太子は、同じ匂いがする。

奥さんの一人だった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、聖徳太子の死を悼んで、天寿国繍帳をみんなで造ったこと。
何だか、ヤショーダラー姫のことを思い出しますね。
彼女たちそれぞれの旦那さんは違う人だけど、二人の心持ちは共通しているような気がします。幸せな結婚をした人たち、っていうことばが出てきます。

世間的には、一方は家出して、一方は先に亡くなったんだけど。。
>
> > 当時の人には、この世の救いに見えたんじゃないか、って思ってます。
>      そう 見たかったから  そう見るが
>      それは 見るがまま  ではない

そうかな?
では、どういうのが見るがままだと思います?
>
> 二諦 ではなく 一対で 一つ です
> 片一方 では 諦  ではなくなる
>
> 仏 は 世間に 起きているから 真理であって
>  唯仏与仏 乃能究尽   では 真理は 存在しない

はぁ〜、なるほど。そう言われると、そうですね。

[11125] Re:[11123] 廓然無聖 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/23(Tue) 08:18   [返信]

> いやいや、泥にはまったですね、わたし。
> 「真理」ってのはまずかった。「聖者」は、顛倒を察知できるstageだと思います。

聖者 は “ stage ”  ではなく 真理 そのもの です
それを あなたが 解釈 の stage  で 読み解く

> 立派な人は、世の中、どこからでも出現しますよね。最近、聖徳太子を拝見していますが、おしゃかさんみたい、って思うことがよくあります。

みたい  ってことは  見たい時に見る事  で 見たくない時は どうあるかは
( 見たくないことがなぜ起きるかという )別の階梯で 理解されることです

> 当時の人には、この世の救いに見えたんじゃないか、って思ってます。
     そう 見たかったから  そう見るが
     それは 見るがまま  ではない

> 世間虚仮唯仏是真
> 二諦になってるなあ。。。どうして、わかったんだろ。

分かった人が 読み取ると  分かった事が 読み取られる

二諦 ではなく 一対で 一つ です
片一方 では 諦  ではなくなる

仏 は 世間に 起きているから 真理であって
 唯仏与仏 乃能究尽   では 真理は 存在しない


[11124]   転記   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/23(Tue) 08:08   [返信]

シンプル原理考

No.17856              2018/10/23 08:02

> めのまえにあらわれるせかい…

>>No. 17854

> めのまえにあらわれるせかいは 僕がつくったものだ 

“ その 僕 ” を  否定するのが 仏教の 大事な出発点です 
「 無我 」 とか  「 非我 」 とか 言われて
“ 俎上に乗る ” 論 です

> だから  うまくすればすてきなせかいをつくれる それは僕がやってくるできごとをどのようにうけとめるかにかかっている

“うまくする”  のが  僕   だから
うまくいかない 、、、、
どのように 受けとめようと    それが(受けとめが)
“ 僕 ” の 為で  僕 を作り上げる 種  なら
今ある 僕 の 発展形に 育つ

うまい ・ まずい   は  “僕” の 価値判断に従って 展開されていく

そこに  “僕” が いなければ、 価値の判断は 起きず
そこに 「 平等 」 という 「 真理 」 が 起きている
そういうことを 「 禅 」 では     
     「 至道無難 唯嫌揀択 」  と 示し
自分の 価値判断を捨てることが出来れば 
道=如実なる真理 に 簡単に至ることが出来る    と教える

> いっぽうで
> やってくるできごと というのは僕のつくるせかいの そと でつくられた  
> 神さま ほとけさま うちゅう がつくったものだ  たぶんね


解釈される  “あなた”  は
あなたが作ってきた   “あなた”

あなた は  今の解釈で
  造り積み上げてきた  “あなた”   を
あなた で ある とする

解釈された  “あなた”   が  解釈するあなた  の  答  です

“ 如実にある 世界 ” を
見るままに 見たいままに 解釈する
   と  そこに
あなたの見る 世界 が 展開している ( と見る )

> たぶん   
という “ たぶん” は 存在のない “たぶん” です

ただし  宇宙( を モノ として)  その 構成物(の一つ) が あなたなら
あなたは  宇宙です

椅子の足は 机に接していても  椅子(の足) です

足のない椅子は 椅子とは呼ばない ( 座椅子は 足がない )
( 座椅子が 床に接していても 床 ではない )


椅子のどこを取っても それを指せば 椅子を指す
( あなた と 宇宙 の 関係性が 分かりますか ? )


あなたが “こうである”  と  決めれば
それは “そうである”   と  認識に乗ります


> 僕ってのは せかいの外にいるんだ

“ 僕 ” は 世界の 外( 境界 )  から “内” を 眺めている

そこは  外  でもあり  内  でもある ( 解釈によって 内外 は 揀択される )

弘法大師 の 著述 「 般若心経秘鍵 」 では
      「 仏法非遥 心中即近  」 と
      唐で学んだ 「 理 」 を 示します
         ( 卍続蔵1-41-4 「般若心経疏」 明コウ 著述 )

仏     とは 如実=真理=如来  です
非遥    とは  自ら=僕 から 離れた 存在箇所  です
心中    とは  自分という 境界 の 内側を 意味します
即近    とは  自分自身 = 僕  は 中心ではなく 
       その すぐ横に  離れず 密着していることを示します



[11123] Re:[11122] 廓然無聖 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/23(Tue) 07:59   [返信]
苺屋毒蛙さま おはようございます。

> 野良蛙のたわごとなので流して下さい。恐縮です^^;

いやいや、泥にはまったですね、わたし。
「真理」ってのはまずかった。「聖者」は、顛倒を察知できるstageだと思います。

> 中村元先生も正田大観先生も二諦説から逆流して訳していらっしゃるのでみんなそうなんでしょう。

そうですか。二諦説は、ことばで語る人が気をつけるべきものだと思います。虚妄から真実(真理ではない)への道筋を示していて、その先に涅槃が待っている、というところかな、と。段階としてはですが。

> どうしてそんなに二諦説がみんな好きなのか。

どうしてなんでしょうね。「聖なる」より語りやすい?

> 達磨さんはいいなぁ。なんかこう釈尊につながるものがあるような。

立派な人は、世の中、どこからでも出現しますよね。最近、聖徳太子を拝見していますが、おしゃかさんみたい、って思うことがよくあります。
当時の人には、この世の救いに見えたんじゃないか、って思ってます。

世間虚仮唯仏是真

二諦になってるなあ。。。どうして、わかったんだろ。

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