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[11053] Re:[11052] 無題 投稿者:おちゃらけ 投稿日:2018/10/06(Sat) 00:26   [返信]
あらら〜

「後から」春さんが使うんじゃないかと思って「三密」ということばを使わなかったのよ〜

[11052] Re:[11051] 無題 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/05(Fri) 23:55   [返信]

> 「その先」の出世間の真理(勝義)は学問というより修行の領域。

学問 の 定義しだいで どうにでも変わる

> 修行ってなるとどぉ〜うしても黙らなきゃなんない。

黙るのも 修行のひとつ

> なぜなら言語活動=概念=二種の極端(ディ・レンマ)=苦を滅していくことが必須だから。

言語活動を そこに限定するときには
そういう展開もある

> これがマニカナをながめていて(文章からではなく自分の中から)浮かんでくる違和感の因かもってのを見つけてしまったので、見つけてしまった以上、仏のおしえに信を立てる方を選ぶならば、次は黙ることを選ぶしかないなぁ〜と。。。

黙って座ればピタリとあたる  のは  金銭活動にのみ起きる

> 二兎を追っても(理と離における)利なし・・・てか。トホホ。

二元 を 追うのが 顛倒の最たること

一元をもって、 黙せば
一言 は 雷の如き


[11051] 無題 投稿者:おちゃらけ 投稿日:2018/10/05(Fri) 23:41   [返信]
もんのすんごいヨコカメですが、つらつらと醸していたらこんなのがヒットしました。

身口意は三「行」なのか三「業」なのか、ってか「諸行」と「所業」とか、「縁起支の行→識」と「五蘊の行・識」とかもすごく混同されてるかも、と思っていたところにヒント

十二支縁起説の成立と展開 : 行滅の用例を通して
唐井隆徳
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_BK002300009030
(PDFリンクは下の方)

四諦という真理の道を「行」ずるとき、出世間(解脱)を見据えなければ道が道として縁起してこないのが四諦八正道。

歯がゆいことに、学問上(=世間)で「記述」できるのは定理や公理「まで」はないかと。
「その先」の出世間の真理(勝義)は学問というより修行の領域。

修行ってなるとどぉ〜うしても黙らなきゃなんない。
なぜなら言語活動=概念=二種の極端(ディ・レンマ)=苦を滅していくことが必須だから。

これがマニカナをながめていて(文章からではなく自分の中から)浮かんでくる違和感の因かもってのを見つけてしまったので、見つけてしまった以上、仏のおしえに信を立てる方を選ぶならば、次は黙ることを選ぶしかないなぁ〜と。。。
二兎を追っても(理と離における)利なし・・・てか。トホホ。

[11050] はじめにロゴスありき 投稿者:苺箭毒蛙 投稿日:2018/10/05(Fri) 22:48   [返信]
ロゴスが親亀で言葉は子亀
ロゴスが親亀で数学は子亀
ロゴスが親亀で時空は子亀

ドゥッカの探求にはあまり関係ないか

ブッダが先かロゴスが先か、ロゴスでしょう

[11048]  言うまでもなく  という  言えないこと   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/05(Fri) 08:22   [返信]

>  顛倒するものに於いては   
    検証せずとも 真理足り得る

という検証 だけで
 十分 とされ、
   真理の検証 は 済まされている

( 真理は 検証して 確認する対象  ではない  とする 検証 )


[11047]  キリスト教  とは 何か   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/05(Fri) 07:54   [返信]

キリスト教 とは何かを 言う前に
キリスト教( その 内容 ) とは
あなたにどうあるか を 規定しなければならない

その規定に沿ってのみ
あなたの キリスト教は 存在の意味が起きる


**********


< フィリポによる福音書 > ( ナグハマディー文書 )

仏教徒(異邦人)は死ぬことがない
何故なら
  彼らはかつて生きていたことがないのだから、
  いつか死ぬということもない
真理を信じた 者(キリスト者) は 生きた
生きて 死の危機に瀕している
  彼は 生きているからである(故に)

*******

ここでは(この福音書においてでは) 生きるということについて
正しく規定されてはいない

ただ キリストを信じ
信じた者(キリスト)が 到来した時から
“ この世界に生きる ” ということが 起きていると される  為

この世界が
 キリスト が 到来した ということによってのみ 存在すると される  為

キリストの到来していない世界が 存在しないことになるのであれば
異邦人も 存在するところがない
存在しないモノについて
言葉を つけても  つくところがないから
言葉の意味は 成り立つところを失う

異邦人の存在も キリスト者に於いては 存在しないことになり
存在がないモノに 生死 はない

( 存在 を  生  とは  規定してはいない )

生きているということが いかに儚いかを 述べるのみ

仏教徒として 在る  ということをせず
キリスト者 として  在れ ということ

**********


この事は 十二縁起 より 導かれた 顛倒だが

信じるということを 顛倒するものに於いては
検証せずとも 真理足り得る



[11046] Re:[11045]  善男女    投稿者:pocket 投稿日:2018/10/04(Thu) 16:06   [返信]

> 菩薩でありたい・菩薩である と 自覚する者は
> 善男子善女人  であり  説かれることを 聞くほどに 生きざまとする
>
> 聞くだけの者を
> 衆生( 四衆之中 有生瞋恚 心不浄者 )  とする 
>
> 聞くだけで  それらの 衆中の者 は 瓦石・杖木をもってこれを “ 打ちたたく ”
> ( 常不軽 菩薩品 )
>
> この 言葉の意味を
> 取り違え
> 思うがままに 解釈し  聞き捨てる
>
> それが  “ 打ちたたく ”  という 意味です

私はエム先生を信仰しているわけではないので、先生の解釈に対して”打ち叩いて”みました。

それだけですね。
エム先生を論破してやろうという気持ちもないので、もうこれ以上何か言う必要は感じていません。

ただ、どうして西洋論理学の人とこうまで対話が成り立たないのか疑問に思っただけです。

エム先生は論理に優れているので、私のような素人がこれ以上どうこう言ってもなんの説得力もないし、また自分でそれだけのものを見出したわけでもありません。

これぐらいかな、ではでは。

春間さま、結構熱い人ですね!

[11045]  善男女    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/04(Thu) 10:42   [返信]

善男子善女人 (法師品第十)

kulaputra, kuladuhitrii  (skt.)

良家の男子、女子

ではあるが、
優婆塞、優婆夷  を言う

菩薩でありたい・菩薩である と 自覚する者は
善男子善女人  であり  説かれることを 聞くほどに 生きざまとする

聞くだけの者を
衆生( 四衆之中 有生瞋恚 心不浄者 )  とする 

聞くだけで  それらの 衆中の者 は 瓦石・杖木をもってこれを “ 打ちたたく ”
( 常不軽 菩薩品 )

この 言葉の意味を
取り違え
思うがままに 解釈し  聞き捨てる

それが  “ 打ちたたく ”  という 意味です


[11044] Re:[11042]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/04(Thu) 10:19   [返信]

> > > これはゲーデルの不完全性定理ですか?

> >   そうです。
> >   ゲーデルが実際に取り組んだのは数論でしたが、その考え方は普遍性があって、一つの理論体系を考えるならば、その理屈は適用されるはずであるという考え方から、論理についても同じように考えることができると思います。

>  ここが先生の仏教解釈学の核心   でしょうか
>  しかしこれは自明ではないように   思います。

答を得る前に
予想に基づき 推論を重ね

>  ここにもっと説明が費やされていれば不毛な論争が避けられるし、仏法が輝くのではないですか。それはまさに私が先生に期待しているところのものでした。しかし、先生は、あるいは論理学畑の学者たちもこの点については自らの信仰的立場から一歩も動くことなく、相手が間違っているという、部外者から見れば理解不能な次元で相手を判断してしまっているのが残念です。

言いたいことを 結論として置く

> > > 現にゲーデルは記号論理学における不完全性定理について何もいってなかったはず。

応用できない者は   モノに対面して
   応用せずに
ない  という

言葉の意味は 人生の積み重ねで 聞いて解釈する モノです

あなたの聞きようが 露呈する


> > 論理(法)という理論の構造を考えますと、その論理が成り立つところはどの場合をとっても成り立っていなければならない、ということが言えるかと思います。
> > そこを考えますと、たやすく数論に移行させることができます。あるいは、数論から他の分野に移行させて考えることも可能です。
> > 記号論理の世界では、数学的に考えますので、そのままゲーデルを応用しても問題無いと思います。

>  ラッセリアン不完全性定理とでも呼ぶのが適切ではないです。少なくともゲーデルはラッセルの記号論理学についてはいくつかの問題点の指摘もしていると思います。(私の英語理解が彼の論文について充分ならば)

> >  つまり、一つの命題なりテーゼなりが成り立つと認めるなら、それが、その体系の中ではどこでも成り立っていなければなりません。
> > ブッダの場合も、ことばというものは、仮説であるとみますので、これを数学の体系に転換可能であると考えてもおかしくありませんし、


> >  逆に、数字をことばにすれば、ことばで記述することができるとみてもおかしくありません。自然数論の分野を、ことばの世界に広げてみると考えればよいと思います。

数字は言葉にはなりません ( 数字は数字の 構造に立ち そこには “量” が 前提となっている )

言葉の世界に 数字によって構築していることを 表すことが
数式の起きる( 数式に係わる 「人生」 の )意味です
そこに起きる意味( 人の生 ) を 求めて
   人は( 善財は )        旅を続け  “量” を 重ねる  、、、、

> 「法(ダルマ)」を「言葉」と見ていく見方はヴィトゲンシュタインに通じるものがありますね

ダルマ は 言葉ではありません     
      (  「最初に言葉があった」 という 意味は
               存在を 存在させる のは 言葉ではない  ということです )

「 ダルマ は 言葉ではありません 」  と言う  こと  が 言葉です

言っているという  起きていること  は ダルマですが
言っていることの意味  は      ダルマではありません
しかし
それを ダルマ だと  捉える 姿は(仮和合) は ダルマの世界にあります

> > 例えば、ブッダの説く「諸行無常』を一つのテーゼと考えると、それは、一つの世界(=ブッダの説く世界)の中でつねに言えなければなりません。ブッダが論理を考えているとすれば、そうなります。
> > そして、私は、ブッダはつねに論理を意識していたと思っています。有為の世界(領域)の中では「諸行無常」はつねに言えています。語る領域(論理世界)と語られることばとの関係を問題にしていることになりますね。法(ことば)と、それを語る領域(界)がつねに意識されているのが、ブッダの法(教え、理論)ですから。巧みですよね。
> > 普通の人が気づかぬうちに論理的に語りうるように設定されています。
> > それがきちんと明言され、限定づけられるなら、ゲーデルの理論は応用可能だと思います。
> > 第1定理、第2定理の内容をつかんで語っているかどうか、が、意識にのぼることになります。
> > 無矛盾な体系を考えると、その体系の中で、真とも偽とも証明できない文がある、ということ。
> > 実際には、空に関して、龍樹とニヤーヤ学派による仮想の議論があります。
> > 空であるのが一切なら、「『空であるのは一切だ』というこの文も空であるはずだ」を巡って、二つの派が「そうだ」「そうでない」と争う形が出現します。

八つの詩句の章
 5 最上についての八つの詩句             
            796
 12 並ぶ応答
            884 ・ 890

> > その上で、この議論を抜け出していることを、龍樹は、『廻諍論』『十二門論』などで明らかにしています。「争わない」という結論は、ゲーデルの定理を超えでていることを示していると思っています。
> > もう一つは、無矛盾な体系があるとすると、その体系内では、その無矛盾性を証明できない、というものです。これを知って、ブッダは、『スッタニパータ』第四章の「大きな荘厳」経で、自分の体系が消えてしまうことを説いたと思います。完成すると同時にその体系が消滅すれば、その証明の必要性もなくなるからです。

証明できなくなる  けれど
出来ないとすると  「 縁起 」  に 起きてくる
( 証明できることだが 受け入れるかどうかで その 正否は決められる )

>   自己言及のパラドックスではなく、ゲーデルの不完全性定理を用いる、ということは、ブッダの思想は論理的体系を持ち、なおかつそれは無矛盾であるということを含意している、と先生は考えるからでしょうか?

> >  ブッダはつねに真実語を語る、といわれるのは、こういうことを全部知って語っているからだと思います。一切智ですよね。

ブッダが 何を知っているかは
あなたが 知っていることと同じこと でしかなく
あなたが知らないことを ブッダが知っていようと
あなたはそれに 懸念することもない

あなたが知るほど に  ブッダは 知っている

> 先生の一切智のニュアンスだと、
> ブッダがタイムスリップしてきて(!)例えば現代の遺伝子やパーソナルコンピューターについて何か語るとしても、それは「作られたものは滅する性質のものである」等の語りの問題についてであって、全部知っているのではないと思うのですが。

知るまでは
知らないことがないが
知らない内は
何を知るべきか  ということさえ  知らない

********

真理は 全てに通じて その根拠の唯一のモノである

その為に 人の思惟は 営まれる

[11043] Re:[11041] 仏陀の道の端で 投稿者:pocket 投稿日:2018/10/04(Thu) 08:14   [返信]
spinobuddhistさま

> > ゲーデルの不完全性定理というのは数論(でしたっけ?)に関わるものであって、論理学の体系とは関係がないと思うのですが。。。
>
> この点もう少し詳しくpocket様の考えを披瀝して頂けないでしょうか。

できるだけ言語化してみます。

> そもそも論理学の領域でゲーデルの定理を証明することは出来ていないと言うことでしょうか。

はい。「証明」することはできないと思います。そこだけですね。


> 私もゲーデルの不完全性定理はあくまでも数論にかかわるものであって、
> それを日常言語や論理学の領域に持ち出すと単なる譬喩にしかならないと考えていますが。

私もそう思いますが、ブッダ論理学は日常言語の領域にも関わります。

> ゲーデルを譬喩にした柄谷行人の議論も退屈でしたね。
> ゲーデルについて語るよりも、ゲーデルを譬喩とする病について語る方が、有益だと思います。

退屈というのはカルチュアル・スタディーズや構造主義でしたっけ、そのような立場は本当に不毛だと思います。
率直な印象を言えば彼らは真剣にものごとを語る人ではなく、衒学者だと思います。

> ゲーデルの定理は日常言語の領域ではそもそも成立しない、それでウィトゲンシュタインは「私の仕事はゲーデルの証明について語ることではなく、それを通過することである」と言っていると思いますが。
> だから仏陀の語りにも、そもそもゲーデル的問題は無いのだと思います。
>
> ここは先生と袂を分かつところかも知れません。

私はspinobuddhistさまに賛成します。

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