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[10423] 文明の衝突と宗教戦争 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/09/30(Sat) 08:03   [返信]
イスラム原理主義の暴力については、宗教内の自浄作用が働かないな〜と
思ってましたが、一方で上座部仏教の方はどうなんですかね。

結局、宗教は宗教でイスラムも仏教も似たようなものなんでしょうかね。

[10422] 「ロヒンギャ」と仏教 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/09/30(Sat) 06:45   [返信]
ミャンマーでもスリランカでも、殺人を比丘が煽ってますが
どうなんですかね。

スマナ長老のお話でスリランカはすばらしいってのが初期にありましたが、
シンハラとタミルの殺し合いに比丘も関与してることを知ってたので
なんだかなぁと思って聞いてました。

自国を美化するのは当たり前ですね。
長老様もスリランカ人だなぁと。

「ロヒンギャ」も一方的な被害者というのも微妙で、
もともと英国の植民地支配の道具でやってきたベンガル人と
最近の経済難民のようですね。
それにイスラム原理主義者がいろんなところから紛れ込んでいる。
しかし、だからと言って殺しまくっていいわけはない。

このような問題を解決するのは政治や軍事などの世俗の分野で
宗教を持ち出すとおかしくなりますね。
あるいは人道支援だけに留めるべきかと愚蛙考します。

生きとし生けるものに幸いあれ

[10419] Re:[10417]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/24(Sun) 13:10   [返信]

> > >   そうではない という意味は、ここにはありません。
> > >   確かめられないので、「 可能性がある 」というのです。他にも、まだ、あるのかもしれないし、よくわからないからです。

> >   自ら 確かめたことを “正” とします

よくわからないことは  どう分からないかを確かめる前に
分からないことと 確定されています

> >   ( 確かめるまでもないことと  当然 “正” である    とすることは   あなたにもある )

 確かめるまでもないこと  と  (あたかも検証なしで) 当然 “正” である    とする   ことは  
というふうに 区切ります

「 言うまでもなく 」  とか 「 周知のごとく 」 とか
「 分かり切ったこと 」  とか
「 論を待たず 」 というふうな言い方で  確かめるべきことを おろそかにします

> > 確かめられないことは 信用できないことです

確かめるまでもないこと を  よくよく確かめるまで は
確かめられていない

生きている  ということは  確かめるまでもない( こととされて 検証でさえ 別の階梯で起きさせられる )

「生」 が あるから  「死」 が  (現前に)あるが ( 「生」 のみを 現前のこととする )
  それを見なければ 「 死 」 という 意味は わからず
縁起する 「 生 」 も 確かめられていない

どう生きているか が  死んでいないこと と  重なる

> > ただし  「信」 が 起きていれば  ( その 「信」 を )確かめることが  「神を裁くこと」 に なります
> > (  ナザレのイエスの言う 「神」 は 阿弥陀 です が 伝統的解釈では 全知全能の “存在” を いう  )
> > 「 信 」  とは 「真」 そのモノであり  「仏陀」 とも呼びます

仏陀  は 永遠 の 生  にあり
死んでいるモノ には 生  が ない

たとえ 物  であろうと  見るという 行いの意味は 見ることの前に 存在している

ただし 「 唯 見 」  「 揀択 」  というときは
「 揀択 」 を  見つめる( 慚ることを 自らを 鋤棒 に ユーガする  縄とする ) 永遠の生にある


[10418] Re:[10416]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/23(Sat) 09:36   [返信]

> 量子論つながりリンク
> 今日「東大が量子コンピューターの基本原理の開発に成功」ってニュースをやってました
> http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170922/k10011152541000.html

************

> どちらが どちらを 照らしているかは 縁起にあります
> 照らしだされるモノが変わるとき 照らすモノも変化している
> ( そういうことを 量子論 は 明かそうとしています )

量子力学  によって  
明かそうとする 「理」 は
釈迦牟尼によって 明かされていて  その  “明・燈” は ディーパ として あります

しからば  「明かす」 ということは  どのように明かされるか

言葉にある内は 「空」 です
行いに移ると  転じ 
   着目    “点”  を 起こすこともできます

言葉を知る のではなく
行いという 「智」 にある    ということが   理を明かすこと  です

論理は 生活において働いて  理となる
科学 というモノは  生きざまに働いて 科学足り得る

「 あなたは 何の為に 働くのですか 」         という 問いに 
「 給料を得て ( 少しでも安楽な )生活するため 」  と   答える

安楽  とは   給料を得る働き  の 中には ありませんか  ?

安楽を得る  働き  に  安楽を見出している
( 安楽  とは 何ですか ? )
     762
  他 の 人々 が「 安楽」 で ある と 称する もの を、 諸々 の 聖者 は「 苦しみ」 で ある と 言う。 他 の 人々 が「 苦しみ」 で ある と 称する もの を、 諸々 の 聖者 は「 安楽」 で ある と 知る。 解し 難き 真理 を 見よ。 無智 なる 人々 は ここ に 迷っ て いる。
     763  あっても、 それ を 知ら ない。
               ( 中村 元. 岩波書店. Kindle 版.  )
    

ここに 聖者の 楽 と 苦 が 起きます

「 量子力学  という 研究は 何の為か ? 」 という  問に どのように当てはめますか ?

衆生があって 仏 が ある
「 衆生本来仏なり 」
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%90%E7%A6%85%E5%92%8C%E8%AE%83
「 見ず の ごおり(合理) の ごとくにて 」

あなたの 読み方ではなく  白隠・春間 の 音じかたで 聞く時 聞こえる 毫釐
「  毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」   (  見なければ ゴオリ は ない  )

研究を楽しむ  ということに  “人々の 楽しみ” があり
                                 “聖者の 苦” が 起きる

「 楽しんで 何が悪いか ? 」 という 問に    “楽しんで”  聖者   は 答える 、、、、

文明 と 文化 は  西洋的論理に支えられている
真理 と 恩恵 は  カトリックの 占有物でもある

ナザレのイエス は  不平等に対して 平等  を 平等に説く
  けれども   
不平等にあるとき  それは 不平等の大地で 平等に働きを為させられる

************

何故 働き 生きるのか ?

行いが変わること  を 生が転じる  と 言い替えられる

どう転じているかを  真直ぐに見つめ  そこに集中して 「点」 となし  「 明=燈 」 を 点ずる 、、、、

三世に 点ずる


[10417] Re:[10415]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/09/23(Sat) 07:19   [返信]
>
> わたしに 必要が起きたので
>
> ( 必要があれば 削除した書き込みを 再度 UPします )
>

いやぁ、よかった。読んでいませんでした。
てっきり、再度アップされていると思って、何も言いませんでしたが、違うのだったのですね。

> > いや、その解釈の一つが通れば、そこで「 理 」が通ると判断します。
>
> 一つの理に  一つの解釈が起きる
> その解釈は どの解釈であろうと  必ず 通っています
> ( 無理にでも 通らせて、 解釈を成り立たせる )
>
> ( 無理 を指摘しても 無理を通すモノには 正理 が 無理 となります )
>
> この事は 正理 にも 同じ仕組みで 当てはまります
> (  無理を取る者が 正理 を指摘して 無理としても 正理を通すモノには その無理 が 正理 となります )
>
> > > 解釈の中で、そのうち一つも通らなければ、それは解釈が通らないということです。
>
> すべての道は 繋がっているから どの解釈でも 正道につながるが
> 局面を 取り上げて 云々するとき  転ずることなく 立ち止まる
>
> 金剛経で 点( 転 ・ 局面の一点 )心 を 説くのに  皆は 食うことに囚われる
> ( そこを穿る注釈には 自他を置く時 まだ他には見当たらない )
>
> > > 青目の注釈で気になるのは、そこなのです。
>
> 青目の注釈の 漢訳 を 部分的にしか読んでいませんが、
> わたしの気には 障らない
>
> 理 は 解釈を許容しません
> 理とは 常に “正”理 であり
> 生きている “生” であろうと  解釈の“局”面では 止まらざるを得ません
> ( 止まっているから 「転」 が あり  転がある限り  局→止 は あります )
> ( 局 は 曲がりくねって 細かく入り組んだ“ところ” を 指しますが 指すときそこは固定化される )
> 止まっているモノは 動かすと 止まっているモノ(解釈)  ではなくなる
>
> > > この解説で、誰か、納得できるのだろうか
>
> 少なくとも、 解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、青目 は 納得している
> 他の誰かが 納得しないかどうかは
> 青目の解釈を 成立させる 妨げとはならないから  そういう解釈が 蒼目に成立している
>
> それが 間違っている という  契機を  あなたに与える 、、、、、

ふうん、そうか。。そうなのか。
>  解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、

「無し」としなければ、微妙に絡みますね。蔓草が木にまとわりつくような感じです。

>
> >> “ 可能性 は(が) ある ”  という意味は  そうではない という意味が 支配している中の  許認可事項です
>
> > そうではない という意味は、ここにはありません。
> > 確かめられないので、「 可能性がある 」というのです。他にも、まだ、あるのかもしれないし、よくわからないからです。
>
> 自ら 確かめたことを “正” とします
> ( 確かめるまでもないことと  当然 “正” である    とすることは   あなたにもある )
>
> 確かめられないことは 信用できないことです
> ただし  「信」 が 起きていれば  ( その 「信」 を )確かめることが  「神を裁くこと」 に なります
> (  ナザレのイエスの言う 「神」 は 阿弥陀 です が 伝統的解釈では 全知全能の “存在” を いう  )
> 「 信 」  とは 「真」 そのモノであり  「仏陀」 とも呼びます
>
> > > 信を置いて それを使えば 事足ります
>
> > それを言ったら、おしまいだと思います。
>
> 信 が あるところは  返照  が 成り立つところ
> 金剛 があるところで  経 を 聞くところ
>
> お仕舞いがあれば 開かれて ほどかれていく理が 点(転)じている
>
> 止めると 解釈が起きている
>
> > 信じてない人が、対象になっています。
>
> わたしが 対象です
> あなた という   “あなた”個人 = わたしと呼ぶ∃ が 対象です
>
> 他の誰かを 仮定しても あなたの問題ではなく  わたしの問題とすることは出来がたい
> ( わたしが  “ 《他に》成り立たないこと ” について 問題化するとき 問題はそこ “ ” に起きる )
>
>
> 前後していて (あなたが) 脈絡を失う恐れを感じるけれど
> 何故 このように前後させるかが  語順(の問題)につながる
>

匂いで感じる今日この頃。

「間違っている」「正しい」ということを、ここまで考えているわけではありません。

匂いで感じる、というのは、そのあたりのことで、間違っているという匂いがしてくるか、正しいという匂いがしてくるか、その辺を嗅ぎまわっているようだ、と自分のことを理解しました。

さんきゅっ!

[10416] Re:[10415]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:おちゃらけ 投稿日:2017/09/23(Sat) 02:42   [返信]
なるほど、「転」の字はすでに出ていたんですね

量子論つながりリンク
今日「東大が量子コンピューターの基本原理の開発に成功」ってニュースをやってました
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170922/k10011152541000.html

0と1が同時に重なっている量子ビット
欲界のイチかバチ

なぜだか最後まで残る足場「慢(ナーマなマーナなマーヤ)」につながっちゃいました
我見がみえないからといって我がないってわけじゃないように(下分)、直に触(障)ってないからといってないってわけじゃない上二界(色と無色)のびみょーすぎる我(上分)

アドヴァイタ系(非二)の話を聞いているとどーにもモノ足りないのはここらへんです

[10415]   10406 ・ 10407削除分   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 16:07   [返信]

わたしに 必要が起きたので

( 必要があれば 削除した書き込みを 再度 UPします )


******** 



[10407] ここら辺りがわかると 仏法が 泳いでいる  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/14(Thu) 12:11 [返信]

通常は 校正するとき 下記のことを見出し
それを加入するべく 文章を練り直しています

( 加入注意点 )


変換 ミスから  自らのミスを見る機縁をいただく 、、、、


> 信 が あるところは  返照  が 成り立つところ

ここは 「 偏照金剛 」 です

ただし “照”らす は 照らし出される “返” を 縁起とします

どちらが どちらを 照らしているかは 縁起にあります
照らしだされるモノが変わるとき 照らすモノも変化している
( そういうことを 量子論 は 明かそうとしています )


> 金剛 があるところで  経 を 聞くところ

壊れないモノはない という “流転” が 壊れようがないけれど
解釈は 金剛を 成り立たせる

川岸が流転せず 船が 流転していようと 見る立場は 固定化されている


________________________________________
[10406] Re:[10405] 問 の 存在と 「空」 の 存在性  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/14(Thu) 11:52 [返信]

> > >   
> >    



> いや、その解釈の一つが通れば、そこで「 理 」が通ると判断します。

一つの理に  一つの解釈が起きる
その解釈は どの解釈であろうと  必ず 通っています
( 無理にでも 通らせて、 解釈を成り立たせる )

( 無理 を指摘しても 無理を通すモノには 正理 が 無理 となります )

この事は 正理 にも 同じ仕組みで 当てはまります
(  無理を取る者が 正理 を指摘して 無理としても 正理を通すモノには その無理 が 正理 となります )

> > 解釈の中で、そのうち一つも通らなければ、それは解釈が通らないということです。

すべての道は 繋がっているから どの解釈でも 正道につながるが
局面を 取り上げて 云々するとき  転ずることなく 立ち止まる

金剛経で 点( 転 ・ 局面の一点 )心 を 説くのに  皆は 食うことに囚われる
( そこを穿る注釈には 自他を置く時 まだ他には見当たらない )

> > 青目の注釈で気になるのは、そこなのです。

青目の注釈の 漢訳 を 部分的にしか読んでいませんが、
わたしの気には 障らない

理 は 解釈を許容しません
理とは 常に “正”理 であり
生きている “生” であろうと  解釈の“局”面では 止まらざるを得ません
( 止まっているから 「転」 が あり  転がある限り  局→止 は あります )
( 局 は 曲がりくねって 細かく入り組んだ“ところ” を 指しますが 指すときそこは固定化される )
止まっているモノは 動かすと 止まっているモノ(解釈)  ではなくなる

> > この解説で、誰か、納得できるのだろうか

少なくとも、 解釈の 翻訳者の解釈を 無しとすれば、青目 は 納得している
他の誰かが 納得しないかどうかは
青目の解釈を 成立させる 妨げとはならないから  そういう解釈が 蒼目に成立している

それが 間違っている という  契機を  あなたに与える 、、、、、

>> “ 可能性 は(が) ある ”  という意味は  そうではない という意味が 支配している中の  許認可事項です

> そうではない という意味は、ここにはありません。
> 確かめられないので、「 可能性がある 」というのです。他にも、まだ、あるのかもしれないし、よくわからないからです。

自ら 確かめたことを “正” とします
( 確かめるまでもないことと  当然 “正” である    とすることは   あなたにもある )

確かめられないことは 信用できないことです
ただし  「信」 が 起きていれば  ( その 「信」 を )確かめることが  「神を裁くこと」 に なります
(  ナザレのイエスの言う 「神」 は 阿弥陀 です が 伝統的解釈では 全知全能の “存在” を いう  )
「 信 」  とは 「真」 そのモノであり  「仏陀」 とも呼びます

> > 信を置いて それを使えば 事足ります

> それを言ったら、おしまいだと思います。

信 が あるところは  返照  が 成り立つところ
金剛 があるところで  経 を 聞くところ

お仕舞いがあれば 開かれて ほどかれていく理が 点(転)じている

止めると 解釈が起きている

> 信じてない人が、対象になっています。

わたしが 対象です
あなた という   “あなた”個人 = わたしと呼ぶ∃ が 対象です

他の誰かを 仮定しても あなたの問題ではなく  わたしの問題とすることは出来がたい
( わたしが  “ 《他に》成り立たないこと ” について 問題化するとき 問題はそこ “ ” に起きる )


前後していて (あなたが) 脈絡を失う恐れを感じるけれど
何故 このように前後させるかが  語順(の問題)につながる


> 『大智度論』だと、あまり悩んでいる様子はうかがえないですが、『十二門論』と『中論』には、なんとなく ためらい を読んでしまいます。

論じ方の違いが あるからですが
論じることの  “為” は 変わらない

自らという 個が 他によって 支えられているからこそ
自らが 「縁起」 を 実践することになります

他の為と 限る “行い” ではなく ( もしそうであれば 無明に起きる行です )

限りない 「 空 」 に 溶け込む 行いです


[10414]   般若 心境  上の空    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 16:02   [返信]

さきに 般若心経についての 言及を成しましたが
少しだけ( サワリ ダケ ) オヒロメ しておきます

鳩摩羅什の翻訳になる 般若波羅蜜多心経  は 正確なものは残ってはいません

玄奘の訳とされるモノは 「雁塔聖教序」 として 慈恩寺大雁塔 に 褚遂良の書で 残っている

玄ム が 将来した 訳経 は それに準じている

玄ムの時代 天皇は 聖武 であり  聖武 は 天智の血統的権威 を 用いた
( 保立道久 「歴史学を見つめなおす」23p )

いわずもがな 玄ムは 阿刀氏であり、空海は同族でもあり
東大寺、その隣の 渡来系藤原氏の 氏寺 興福寺 に 両者は深く関連している
( 近年 興福寺南円堂の文が 空海筆と断定されている )

空海の時の 桓武は 百済系です ( 高野新笠 ) 

桓武の次男の嵯峨(賀美能親王)の乳母は大秦公忌寸浜刀自で賀美能宿祢です
続く親王の 淳和(大友皇子と同族の乳母) は 王位継承の正当 を 桓武より保障されていました

空海の 留学費用の出自は 百済系からです

空海は 当然のごとく 隅寺心経 を 用います
( 空海が 用いるからには サンスクリットの裏付けを見逃してはいない )

「 一切 」 が あろうと 、  あるから には 空海が必要とする 意味がある

あなたが 否定するなら  空海(!)を 論破しなさい
(  「 弘法には 筆の誤りがない 」  )

間違ったものは 広がらない ( 広がるとは どういう展開を言うか あなたが自説を広げる )


以上  障り  です


[10413] Re:[10412] おちゃらけ様へ    投稿者:おちゃらけ 投稿日:2017/09/22(Fri) 15:40   [返信]
> 削除 分  は 読みましたか ?

ココにないのは読めませ〜ん


> 読んでいなかったり
> よく記憶に残っていなければ

すんませ〜ん どんな内容だったかさっぱり覚えていませ〜ん


> 再度アップ します ( したいのです )

「したい」が「したい」にリンクする限りにおいてプリーズ


> 記録してあれば 
> べつの 要請がない限り このままにしておきます

「べつ」の話なら「 言いたくないこと は 異常 」なんでそ?

[10412] おちゃらけ様へ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/09/22(Fri) 15:18   [返信]
削除 分  は 読みましたか ?

読んでいなかったり
よく記憶に残っていなければ
再度アップ します ( したいのです )

記録してあれば 
べつの 要請がない限り このままにしておきます


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