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[11042] Re:[11038]   取るに足らない 問題   投稿者:pocket 投稿日:2018/10/04(Thu) 08:07   [返信]
> > 深夜におこんばんわ
>
> 朝になってしまいました。おはようございます。

感謝いたします。

> > これはゲーデルの不完全性定理ですか?
>
> そうです。

ありがとうございます

>
> ゲーデルが実際に取り組んだのは数論でしたが、その考え方は普遍性があって、一つの理論体系を考えるならば、その理屈は適用されるはずであるという考え方から、論理についても同じように考えることができると思います。

ここが先生の仏教解釈学の核心でしょうか

しかしこれは自明ではないように思います。ここにもっと説明が費やされていれば不毛な論争が避けられるし、仏法が輝くのではないですか。それはまさに私が先生に期待しているところのものでした。しかし、先生は、あるいは論理学畑の学者たちもこの点については自らの信仰的立場から一歩も動くことなく、相手が間違っているという、部外者から見れば理解不能な次元で相手を判断してしまっているのが残念です。

> > 現にゲーデルは記号論理学における不完全性定理について何もいってなかったはず。
>
> 論理(法)という理論の構造を考えますと、その論理が成り立つところはどの場合をとっても成り立っていなければならない、ということが言えるかと思います。
>
> そこを考えますと、たやすく数論に移行させることができます。あるいは、数論から他の分野に移行させて考えることも可能です。
> 記号論理の世界では、数学的に考えますので、そのままゲーデルを応用しても問題無いと思います。

ラッセリアン不完全性定理とでも呼ぶのが適切ではないです。少なくともゲーデルはラッセルの記号論理学についてはいくつかの問題点の指摘もしていると思います。(私の英語理解が彼の論文について充分ならば)

> つまり、一つの命題なりテーゼなりが成り立つと認めるなら、それが、その体系の中ではどこでも成り立っていなければなりません。
>
> ブッダの場合も、ことばというものは、仮説であるとみますので、これを数学の体系に転換可能であると考えてもおかしくありませんし、逆に、数字をことばにすれば、ことばで記述することができるとみてもおかしくありません。自然数論の分野を、ことばの世界に広げてみると考えればよいと思います。

「法(ダルマ)」を「言葉」と見ていく見方はヴィトゲンシュタインに通じるものがありますね


> 例えば、ブッダの説く「諸行無常』を一つのテーゼと考えると、それは、一つの世界(=ブッダの説く世界)の中でつねに言えなければなりません。ブッダが論理を考えているとすれば、そうなります。

> そして、私は、ブッダはつねに論理を意識していたと思っています。有為の世界(領域)の中では「諸行無常」はつねに言えています。語る領域(論理世界)と語られることばとの関係を問題にしていることになりますね。法(ことば)と、それを語る領域(界)がつねに意識されているのが、ブッダの法(教え、理論)ですから。巧みですよね。
> 普通の人が気づかぬうちに論理的に語りうるように設定されています。
>
> それがきちんと明言され、限定づけられるなら、ゲーデルの理論は応用可能だと思います。
> 第1定理、第2定理の内容をつかんで語っているかどうか、が、意識にのぼることになります。

> 無矛盾な体系を考えると、その体系の中で、真とも偽とも証明できない文がある、ということ。
>
> 実際には、空に関して、龍樹とニヤーヤ学派による仮想の議論があります。
> 空であるのが一切なら、「『空であるのは一切だ』というこの文も空であるはずだ」を巡って、二つの派が「そうだ」「そうでない」と争う形が出現します。
> その上で、この議論を抜け出していることを、龍樹は、『廻諍論』『十二門論』などで明らかにしています。「争わない」という結論は、ゲーデルの定理を超えでていることを示していると思っています。
>
> もう一つは、無矛盾な体系があるとすると、その体系内では、その無矛盾性を証明できない、というものです。これを知って、ブッダは、『スッタニパータ』第四章の「大きな荘厳」経で、自分の体系が消えてしまうことを説いたと思います。完成すると同時にその体系が消滅すれば、その証明の必要性もなくなるからです。

自己言及のパラドックスではなく、ゲーデルの不完全性定理を用いる、ということは、ブッダの思想は論理的体系を持ち、なおかつそれは無矛盾であるということを含意している、と先生は考えるからでしょうか?

> ブッダはつねに真実語を語る、といわれるのは、こういうことを全部知って語っているからだと思います。一切智ですよね。

先生の一切智のニュアンスだと、
ブッダがタイムスリップしてきて(!)例えば現代の遺伝子やパーソナルコンピューターについて何か語るとしても、それは「作られたものは滅する性質のものである」等の語りの問題についてであって、全部知っているのではないと思うのですが。

[11041] 仏陀の道の端で 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2018/10/04(Thu) 07:59   [返信]
横レス失礼します。
pocket様、エム先生、おはようございます。

> ゲーデルの不完全性定理というのは数論(でしたっけ?)に関わるものであって、論理学の体系とは関係がないと思うのですが。。。

この点もう少し詳しくpocket様の考えを披瀝して頂けないでしょうか。
そもそも論理学の領域でゲーデルの定理を証明することは出来ていないと言うことでしょうか。

私もゲーデルの不完全性定理はあくまでも数論にかかわるものであって、
それを日常言語や論理学の領域に持ち出すと単なる譬喩にしかならないと考えていますが。
ゲーデルを譬喩にした柄谷行人の議論も退屈でしたね。
ゲーデルについて語るよりも、ゲーデルを譬喩とする病について語る方が、有益だと思います。

ゲーデルの定理は日常言語の領域ではそもそも成立しない、それでウィトゲンシュタインは「私の仕事はゲーデルの証明について語ることではなく、それを通過することである」と言っていると思いますが。
だから仏陀の語りにも、そもそもゲーデル的問題は無いのだと思います。

ここは先生と袂を分かつところかも知れません。

[11040] Re:[11039]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/10/04(Thu) 07:41   [返信]

> 今のところ、「一切智」は否定されないですよね。

否定する者がいても
それを受け入れる者が 続かない ということです

みなが受け入れる 必要 は    なく
いつも 独り だけ が 受け続けて  行く
あなたが 受けるかどうか の 問題です

「 仏に逢うては仏を殺 」 「殺仏殺祖」   臨済
殺されて 殺される者が 殺す者として 生き続ける
( 殺す = 殺し殺される 者 が 衆生 でもあり 仏でもあり )

> 私たちが成長していないのか、

成長していない という見方 は 成長しない
あなたは 成長していないから
成長している 者 を 規定できず
成長  も   規定できない

> 釈迦牟尼が久遠なのか。。。

誰でも 「 平等 」 にある
  ということは
釈迦牟尼が 説くことで 心中即近 にある

仮に “釈迦牟尼” という 概念が ゴータマ・シッダッタ という 個人を指すとしても
その人は 「平等」 を 説いて 自らの行いとしている
“平等” とは 平たきところにあって、
比べても アミタ ということです

牟尼 を 信じることが 立てば 自らが 立つ

真理(法) には
成長もなく、三世 も ないということです

[11039] Re:[11038]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/04(Thu) 06:09   [返信]
> ブッダはつねに真実語を語る、といわれるのは、こういうことを全部知って語っているからだと思います。一切智ですよね。

今から2600年くらい前に、2600年後に起こる話にも答を出しているのだから、
今のところ、「一切智」は否定されないですよね。

私たちが成長していないのか、

それとも

釈迦牟尼が久遠なのか。。。

[11038] Re:[11037]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/04(Thu) 05:59   [返信]
> 深夜におこんばんわ

朝になってしまいました。おはようございます。

> これはゲーデルの不完全性定理ですか?

そうです。
>
> ゲーデルの不完全性定理というのは数論(でしたっけ?)に関わるものであって、論理学の体系とは関係がないと思うのですが。。。

ゲーデルが実際に取り組んだのは数論でしたが、その考え方は普遍性があって、一つの理論体系を考えるならば、その理屈は適用されるはずであるという考え方から、論理についても同じように考えることができると思います。
>
> 現にゲーデルは記号論理学における不完全性定理について何もいってなかったはず。

論理(法)という理論の構造を考えますと、その論理が成り立つところはどの場合をとっても成り立っていなければならない、ということが言えるかと思います。

そこを考えますと、たやすく数論に移行させることができます。あるいは、数論から他の分野に移行させて考えることも可能です。
記号論理の世界では、数学的に考えますので、そのままゲーデルを応用しても問題無いと思います。

つまり、一つの命題なりテーゼなりが成り立つと認めるなら、それが、その体系の中ではどこでも成り立っていなければなりません。

ブッダの場合も、ことばというものは、仮説であるとみますので、これを数学の体系に転換可能であると考えてもおかしくありませんし、逆に、数字をことばにすれば、ことばで記述することができるとみてもおかしくありません。自然数論の分野を、ことばの世界に広げてみると考えればよいと思います。

例えば、ブッダの説く「諸行無常』を一つのテーゼと考えると、それは、一つの世界(=ブッダの説く世界)の中でつねに言えなければなりません。ブッダが論理を考えているとすれば、そうなります。

そして、私は、ブッダはつねに論理を意識していたと思っています。有為の世界(領域)の中では「諸行無常」はつねに言えています。語る領域(論理世界)と語られることばとの関係を問題にしていることになりますね。法(ことば)と、それを語る領域(界)がつねに意識されているのが、ブッダの法(教え、理論)ですから。巧みですよね。
普通の人が気づかぬうちに論理的に語りうるように設定されています。

それがきちんと明言され、限定づけられるなら、ゲーデルの理論は応用可能だと思います。
第1定理、第2定理の内容をつかんで語っているかどうか、が、意識にのぼることになります。

無矛盾な体系を考えると、その体系の中で、真とも偽とも証明できない文がある、ということ。

実際には、空に関して、龍樹とニヤーヤ学派による仮想の議論があります。
空であるのが一切なら、「『空であるのは一切だ』というこの文も空であるはずだ」を巡って、二つの派が「そうだ」「そうでない」と争う形が出現します。
その上で、この議論を抜け出していることを、龍樹は、『廻諍論』『十二門論』などで明らかにしています。「争わない」という結論は、ゲーデルの定理を超えでていることを示していると思っています。

もう一つは、無矛盾な体系があるとすると、その体系内では、その無矛盾性を証明できない、というものです。これを知って、ブッダは、『スッタニパータ』第四章の「大きな荘厳」経で、自分の体系が消えてしまうことを説いたと思います。完成すると同時にその体系が消滅すれば、その証明の必要性もなくなるからです。

ブッダはつねに真実語を語る、といわれるのは、こういうことを全部知って語っているからだと思います。一切智ですよね。

[11037] Re:[11028]   取るに足らない 問題   投稿者:pocket 投稿日:2018/10/04(Thu) 03:35   [返信]
深夜におこんばんわ

エム先生

> 「依止するところ」については、自らそれが真であることを証明できない、というゲーデルの証明があるのですが

これはゲーデルの不完全性定理ですか?

ゲーデルの不完全性定理というのは数論(でしたっけ?)に関わるものであって、論理学の体系とは関係がないと思うのですが。。。

現にゲーデルは記号論理学における不完全性定理について何もいってなかったはず。

[11036] 僕のママじゃない 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/10/03(Wed) 20:58   [返信]
マニカナ先生、こんばんは

> 「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> <これは、わたしのものである>
> <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> と見ることは、適当だろうか」
> 「適当ではありません、尊師よ」
> http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html 「五比丘」(『サンユッタ・ニカーヤ』22.59)

<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>

mama ahamasmi me attan ここいらの使い分けはよくわからないですね。
お釈迦様の歴史的事実としてのセリフがあった部分だと思いますが、ニュアンスがこれでいいのかどうか。

(色etc.は)わたしのモノではない
<<そうであるならば>>
(色etc.は)わたし自体ではない<<のは自明である>>
<<そうであるならば>>
(色etc.は)わたしのアートマンでないは<<のは自明である>>

とすると、僕のママじゃないって出発はとても重要ですよね。
色受想行識はみんなママじゃない。

ママを訪ねて三千里ですね

[11035] Re:[11030] アナッタン 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/02(Tue) 07:35   [返信]
> アナッタンはアートマンの哲学的な議論よりも、
> 五蘊がわたしの所有物であるという思い込みの否定と
> とらえる方がいいのではないかと思ってます。
>
> まるで近代法の所有権論みたいな直接性、排他性、絶対性、永久性みたいな誤解。現代法では所有権があったとしても何をしてもいいわけじゃないということになっている。

苺屋毒蛙さま
今頃で、すみません。
書く暇がなかったので、もどかしく思ってました。

わたしも、永遠不滅のアートマンの哲学議論へともっていきたがる癖は、無我や空の理解が、まだ未熟なためではないかと思ったりしています。すぐに「実体視する」ということば一つで片付けてしまおうとするのは、自分自身の問題としてわが身に引きつけて考えないためではなかろうか、と思ったりしています。
>
> 無明のひとつは、自分の所有ではないものを自分のモノだと思うこと、ひいては自己の部分と錯覚することと言われますね。
>
> 色受想行識、たしかに自分の絶対的な所有物じゃないですよね
> 自分らしさというのもあやしい。
> 愛やら忠誠心やらもなかなか微妙。
>
> 「わたしのモノ」という切り口で五蘊なりアナッタンを見ていくと平易な感じがします。少なくとも印哲の面倒な議論には巻き込まれないで幸せ。
>
> 五蘊ひとつひとつが「わたしのモノ」じゃないとすると、じゃあ「わたし」ってなんなのかいなと思いますよね。

そこをしっかりと説いているのが、実は、『中論』の第一八章ではないかと。

自己がないとするならば、どうして、自己にかんするものがあるだろうか。自己と自己にかんするものとが止息するから、わがものもなく、自我意識もない。//18-2//

わがものもなく、自我意識もないとする人は、しかし、またいない。わがものもなく、自我意識もないと見る人は、見ないのである。 //18-3//

外的なものであれ、内的なものであれ、「わたしのもの」とか「わたし」ということがなくなっていくならば、執着も滅する。それが滅するから、生まれることもなくなる。

『中論』では、「わたし」や「わたしのもの」という問題に注目して語っています。
「永遠のアートマン」という哲学議論は、もっとちがうところにあります。それは、ここだと思う。

「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html 「五比丘」(『サンユッタ・ニカーヤ』22.59)

この三番目にある「これは、わたしの本体(自己)である」という議論が、永遠のアートマンに関わる形而上学的な議論に導くと思います。

仏教では、三番目の哲学議論に行くより、一番目や二番目の「わたしのもの」や「わたし」という思いの方を扱うことが多いです。

> そこから安易に模範解答らしきものに飛びつかない。
> 飛びつくと終わりのない印哲地獄に巻き込まれてしまいます^^;

おっしゃる通りだと思います。概説書などがすぐに「実在であると考える者たち」を想定して、そういう実在論者を否定するのがブッダの説だと言いたがりますが、実は、本当にそういう場合は少ないです。

具体的に、ちゃんと了解して、そこまでの議論をしているのは、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派など、わずかな者たちだと思います。そこまで分かって議論に乗っている者たちでないと、三番目の「これは、わたしの本体である」という意味が理解できないだろうと思うからです。

つまり、ブッダは、執着とみて「わたし」「わたしのもの」と指摘したとしても、さらに理論に向かう者たちは、一つの概念や言語の中に、実在を示す原理原則をみて、例えば「牛には、牛性(gotva)がある」と理論を語ったりするので、それに対する対策もたてておかねばならない、ということで、第三番目の「これは、わたしの本体(自己)ではない」も説かれるのでしょう。
見解に向かう理論家のために、第三番目のフレーズがあると思います。それにあてはまる人は、実際はほとんどいないと思っています。
 

[11034] Re:[11033] 台風と地震 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/10/02(Tue) 06:59   [返信]
> >2018年10月1日 11時22分ごろ 胆振地方中東部 M4.9 震度4
> >2018年9月30日 17時54分ごろ 胆振地方中東部 M5.0 震度4
> >2018年9月29日 18時26分ごろ 胆振地方中東部 M4.2 震度3
>
> うーん、これは台風の影響というよりは単なる余震でしょうね
> 強烈な台風だったので震度5以上がくるかなと思ってましたが
> 注意しているときは災害は起きないの法則。

どうりで、猫がすぐ走り回ると思いました。
それに、何かゆれてる感じもしていたし。
最近、ひんぱんにミシッとかいうので、気にしなくなってきてしまいました。

確かに注意している時は、災害がこない。。ような気もします。

ゆれてるのか、めまいなのか、だんだん分からなくなってきた。

[11033] Re:[11032] 台風と地震 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/10/01(Mon) 23:05   [返信]
>2018年10月1日 11時22分ごろ 胆振地方中東部 M4.9 震度4
>2018年9月30日 17時54分ごろ 胆振地方中東部 M5.0 震度4
>2018年9月29日 18時26分ごろ 胆振地方中東部 M4.2 震度3

うーん、これは台風の影響というよりは単なる余震でしょうね
強烈な台風だったので震度5以上がくるかなと思ってましたが
注意しているときは災害は起きないの法則。

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