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[10791] Re:[10789] サティヤーグラハ 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/25(Wed) 10:15   [返信]
oさま

わたしも、こういうところで何か言えるようになりたいなとは思いつつ、まったく検討する時間がなくて、ただの物好きの意見になってしまっています。

> ですね。逆にいうと、今までの西洋的な自由・平等・平和運動で解釈するガンジーがつまらなすぎというか、結論が見えてしまってという。

逆にいうと、ガンジーが注目されるのは、西洋的な自由・平等の精神に合う部分があるからなのかもしれません。だから、そこにだけ目がいくのかも。。

しかし、かれの評価も、西洋的な見方で解釈できないところについては、何だかもやもやしているように思います。以前から、そこを知りたいなと思ってきました。

現代に近くなると、タントリズムは欠かせなくなってきますね。また、それを取り入れたヨーガも忘れてはいけないし、ヒンドゥーの正統としてはヴェーダーンタも意識しなければならない、となると、インドの思想の全体構造を知っておく必要が出てきて、すべての底辺に潜む仏教を解明しないといけなくなる。。たいへんですよね。
>
> 資料読んでも、結論は先行研究の方向に添っている、そういう研究が多すぎですね。

なんでしょうか、先行研究にしたがうということは、そこを頼りにすることにもなります。先行研究を知って、それを超えるところがほしいです。
仏教が、智慧の宗教・智慧の思想だということを、みんな忘れているのかな。
智慧ということは、方便ということでもありますが。

[10790] Re:[10786] 密教   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/25(Wed) 09:51   [返信]
oさま おはようございます。

> ご存知だと思いますが、pramanasamuccaya は註の梵本が見つかって、そういう意味では進んでいると思います。

ああ、そうですね。慎重に進んでいるのかもしれません。
>
>  管見では六大は弘法大師独特ではないかと思います。

そうですか。なるほど。チベット仏教は、五大でしょうか。六大を説くのは、道理だなあと思って、密教全体そうなっているのかと思いました。


>  一切智と密教といえば、『量評釈自註』で真言を論ずるところに一切智も言及されますね。そこで母タントラも言及されますが、この母タントラが仏教のものかどうかで密教史が大きく変わります。
>  現在、非仏教タントラへの言及という説が有力なようですが、聖者人為のサマヤが真言の原理となっていることが仏教タントラであることを支持するように思います。
>  真言、マントラが人為人造とするヒンドゥー・タントラというのはあるのでしょうか?

そうですか。ヒンドゥー・タントラは、ほとんど知らないので何とも言えません。この辺は、あれこれ探るのにも苦労しています。
しかし、論理から考えて、人為人造であれば、アパウルシェーヤ(人為ではない)とは言えないので、シュルティは排除されますね。まあ、タントラだからヴェーダの権威にはよらないでしょうけど、神にはよりますよね。そうなると、聖仙については、どうなっているのか、ですね。これを根拠にするものがあるのだろうか。。考える要因がいろいろあって難しい。

聖者人為のサマヤが、真言の原理なのか。。

真言については、わたしは『スッタニパータ』にある 「宝経」を基本的に知る手がかりにしています。たしかに、「聖者人為のサマヤ」と言われますと、そうだなと思います。そこに真実が現観されるわけですから、「法」ということになります。法=真実と見ますと、首肯できます。

[10789] Re:[10788] サティヤーグラハ 投稿者:o 投稿日:2018/07/25(Wed) 08:34   [返信]
エム先生、

> 論文のご紹介ありがとうございます。上のリンクの記事を読みました。
> タントリズムの解釈を、サティヤ―グラハに入れているのですね。「へぇ、そうなんだ」という感じで、とてもおもしろいですね。

ですよね。

> ハタ・ヨーガ(クンダリニーヨーガ)を入れた手法ですね。ブラフマチャルヤ(禁欲行)によって、シャクティを温存するという考え方は、タパス(苦行)の系統にもつながるかも、ですね。
>
> ガンディーについては、『バガヴァッド・ギーター』との関係も取りあげられたり、また、アドヴァイタ思想や『ヨーガ・スートラ』などにも親しんでいることも聞きましたが、タントリズムも関わっているのですね。
>
> 『ヨーガ・スートラ』に説かれる「禁戒(ヤマ)」の中の二つの項目アヒンサー(非暴力)」と「サティヤ(真実)」を実践するによって、インドを独立に導いたという意見を聞いたことがありますが、今、これを読みますと、それに加えて三つ目の項目「ブラフマチャルヤ(禁欲)」も行っていたことになるなあ、って、読んで思いました。
> ちなみに、ヤマは、おおよそ五戒と同じで、最後の「不飲酒」のところが「アパリグラハ(無所有)」になります。
>
> ハタ・ヨーガを入れすぎてしまうと、神秘主義に行きそうです。そうなると、ガンディーの政策や活動にも少し合わなくなってきそう。また、不可触民の人々をハリジャンとは呼んだけれど、それ以上の救済をとるという姿勢はなかった、と言われるところに、タントリズムからの距離感もあるかもしれない、などなど、いろいろ想像してしまいます。このあたりはまったくの想像で根拠なしですが、おっしゃるような「現地解釈」は、想像力をかきたてられておもしろいです。たしかに、そうなのかもしれない、と思わせますね。。

ですね。逆にいうと、今までの西洋的な自由・平等・平和運動で解釈するガンジーがつまらなすぎというか、結論が見えてしまってという。

資料読んでも、結論は先行研究の方向に添っている、そういう研究が多すぎですね。

[10788] Re:[10785] サティヤーグラハ 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/24(Tue) 10:51   [返信]
oさま

> サティヤーグラハといえば、こういう研究が出てきてます。
> http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=403
> https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E9%96%93%E6%B0%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E&range=0&count=20&sortorder=1&type=0
>
> こういう西洋解釈でなく現地解釈を目指している研究はいいですね。
> 梵行やタントラから解釈しているあたり、読んでみたいです。

論文のご紹介ありがとうございます。上のリンクの記事を読みました。
タントリズムの解釈を、サティヤ―グラハに入れているのですね。「へぇ、そうなんだ」という感じで、とてもおもしろいですね。

ハタ・ヨーガ(クンダリニーヨーガ)を入れた手法ですね。ブラフマチャルヤ(禁欲行)によって、シャクティを温存するという考え方は、タパス(苦行)の系統にもつながるかも、ですね。

ガンディーについては、『バガヴァッド・ギーター』との関係も取りあげられたり、また、アドヴァイタ思想や『ヨーガ・スートラ』などにも親しんでいることも聞きましたが、タントリズムも関わっているのですね。

『ヨーガ・スートラ』に説かれる「禁戒(ヤマ)」の中の二つの項目アヒンサー(非暴力)」と「サティヤ(真実)」を実践するによって、インドを独立に導いたという意見を聞いたことがありますが、今、これを読みますと、それに加えて三つ目の項目「ブラフマチャルヤ(禁欲)」も行っていたことになるなあ、って、読んで思いました。
ちなみに、ヤマは、おおよそ五戒と同じで、最後の「不飲酒」のところが「アパリグラハ(無所有)」になります。

ハタ・ヨーガを入れすぎてしまうと、神秘主義に行きそうです。そうなると、ガンディーの政策や活動にも少し合わなくなってきそう。また、不可触民の人々をハリジャンとは呼んだけれど、それ以上の救済をとるという姿勢はなかった、と言われるところに、タントリズムからの距離感もあるかもしれない、などなど、いろいろ想像してしまいます。このあたりはまったくの想像で根拠なしですが、おっしゃるような「現地解釈」は、想像力をかきたてられておもしろいです。たしかに、そうなのかもしれない、と思わせますね。。

[10787] Re:[10783]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/24(Tue) 09:24   [返信]
えび天サンバさま おはようございます。
昨日で、三講ぶつづきの講義が終わったので、気分が軽いです。
三講続けて講義をすると、完全に死にます(笑)。

> > 私の場合、どうしても、仏教は、批判から入っていってますね。龍樹もそうだし(笑)
>
> すご〜く興味のあるお話です。
> 先生は、対論者双方の文献とその背景の資料から、議論の全貌を浮かび上げるということをひたすらやってきましたもんね。

つらつらと考えますと、五世紀六世紀あたりの、この手の議論は、目先の(?)問題に注目するだけで、当面の議論が見えてくるので、手っ取り早く研究しやすいと言えます。

たとえば、中観派の研究は、ある意味やりやすいけど(と言ったら、怒られるかな)、それ以前にある龍樹の研究は、本格的に為されないようなものです。
龍樹と中観派の間には溝があって、研究という観点では、連絡されていないように見えます。今回、『十二門論』をやってみて、本気で思いました。研究者の中に何か壁があるような感じです。

龍樹とブッダの間にも溝があって、別のものだと思われています。龍樹は、般若経典を基礎としているように書かれています。そして、般若経典は、大乗仏教だから、ブッダの教えとは違うように思われています。

また、仏教論理学は、仏教論理学という分野で、独立しているように思われています。いたるところに見えない壁があって、ブッダの教えの広がりを細かな部屋の集まりにしてしまい、その中でみんな安住しているような印象がありますね。

どこに行っても、そんな感じです。壁に穴を開けようとすると拒否される。仏教という全体を見透すカギ、壁に穴を開けるドリルになるのが、「ゴータマの法」である「法随法の実践」だと思っています。

> 確かに戦線拡大となると、手がまわらなそうだ。

こういう時も、全体を見渡す目を持ちつつ研究しないと、すぐに些末なところに堕していきますね。

> ほとんど読めそうな本がない、という感じがしますね。

うーん、昔の本の復刻版みたいなのが、出ているということは、研究が進んでいないということか。。さびしい。
>
> 宮坂宥勝先生の訳した密教経典(講談社学術文庫)を読んでいても、やはり唯識が前提になっているんだろうなぁ、とか思いますが、いきなり出てくる感じなので、やはり時代的に先駆けている当時の基本的な考え方を知りたいと思ってしまいます。

だいたい、わかってきてるんですが、ちゃんとやってないので、何とも言えません。唯識は、ブッダの法から確実に出てきます。これも一つの「一切智」のあり方ですね。
密教では、六大を説きますよね。識を外界に移行させたので、転生などが説きやすくなったように思います。部派は四大、大乗は五大、密教になると六大と、次第に要素を広げて、一般の人々の願いに応えようとしていることがわかります。

部派から密教まで、実は、この、わずかな違い(?)によって大きく展開が異なってくるようにも思います。まあ、この辺は、はっきりとした根拠を示すまでにいたっていないのですが、「唯識」を「唯識」という壁で囲んで見ないで、仏教の中の、一切智の一つの展開として考えるならば、密教は、すでにブッダの教えの中に胚胎しているのを見ます。

『スッタニパータ』の中でも、ここから密教にいくなあ、という個所がいくつかあって、そういう意識で見るからか、ブッダが「ここに気づきなさい」と促しているようにすら見えます。

仏教の教えが、いかにインドの人々を魅了していたのか、ひそかにしかし素早く進展していった仏教の変容と拡大に感慨が湧きますね。ブッダもすごいけど、煩悩具足の人々のパワーもすごいです。

[10786] 密教   投稿者:o 投稿日:2018/07/24(Tue) 09:04   [返信]
エム先生、

> うーん、昔の本の復刻版みたいなのが、出ているということは、研究が進んでいないということか。。さびしい。
ご存知だと思いますが、pramanasamuccaya は註の梵本が見つかって、そういう意味では進んでいると思います。

> 密教では、六大を説きますよね。識を外界に移行させたので、転生などが説きやすくなったように思います。部派は四大、大乗は五大、密教になると六大と、次第に要素を広げて、一般の人々の願いに応えようとしていることがわかります。

 管見では六大は弘法大師独特ではないかと思います。

> 部派から密教まで、実は、この、わずかな違い(?)によって大きく展開が異なってくるようにも思います。まあ、この辺は、はっきりとした根拠を示すまでにいたっていないのですが、「唯識」を「唯識」という壁で囲んで見ないで、仏教の中の、一切智の一つの展開として考えるならば、密教は、すでにブッダの教えの中に胚胎しているのを見ます。

 一切智と密教といえば、『量評釈自註』で真言を論ずるところに一切智も言及されますね。そこで母タントラも言及されますが、この母タントラが仏教のものかどうかで密教史が大きく変わります。
 現在、非仏教タントラへの言及という説が有力なようですが、聖者人為のサマヤが真言の原理となっていることが仏教タントラであることを支持するように思います。
 真言、マントラが人為人造とするヒンドゥー・タントラというのはあるのでしょうか?

[10785] サティヤーグラハ 投稿者:o 投稿日:2018/07/24(Tue) 08:48   [返信]
エム先生、

> なんだかんだ言っても、非暴力・不服従というのは、驚嘆に値する思想だな、と。
> 非暴力は利他に通じ、不服従は自利に通ずるとも言えるなと思うことしきりです。

サティヤーグラハといえば、こういう研究が出てきてます。
http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=403
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E9%96%93%E6%B0%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E&range=0&count=20&sortorder=1&type=0

こういう西洋解釈でなく現地解釈を目指している研究はいいですね。
梵行やタントラから解釈しているあたり、読んでみたいです。

[10784] Re:[10783]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/24(Tue) 07:58   [返信]
えび天サンバさま おはようございます。
昨日で、三講ぶつづきの講義が終わったので、気分が軽いです。
三講続けて講義をすると、完全に死にます(笑)。

> > 私の場合、どうしても、仏教は、批判から入っていってますね。龍樹もそうだし(笑)
>
> すご〜く興味のあるお話です。
> 先生は、対論者双方の文献とその背景の資料から、議論の全貌を浮かび上げるということをひたすらやってきましたもんね。

つらつらと考えますと、五世紀六世紀あたりの、この手の議論は、目先の(?)問題に注目するだけで、当面の議論が見えてくるので、手っ取り早く研究しやすいと言えます。

たとえば、中観派の研究は、ある意味やりやすいけど(と言ったら、怒られるかな)、それ以前にある龍樹の研究は、本格的に為されないようなものです。
龍樹と中観派の間には溝があって、研究という観点では、連絡されていないように見えます。今回、『十二門論』をやってみて、本気で思いました。研究者の中に何か壁があるような感じです。

龍樹とブッダの間にも溝があって、別のものだと思われています。龍樹は、般若経典を基礎としているように書かれています。そして、般若経典は、大乗仏教だから、ブッダの教えとは違うように思われています。

また、仏教論理学は、仏教論理学という分野で、独立しているように思われています。いたるところに見えない壁があって、ブッダの教えの広がりを細かな部屋の集まりにしてしまい、その中でみんな安住しているような印象がありますね。

どこに行っても、そんな感じです。壁に穴を開けようとすると拒否される。仏教という全体を見透すカギ、壁に穴を開けるドリルになるのが、「ゴータマの法」である「法随法の実践」だと思っています。

> 確かに戦線拡大となると、手がまわらなそうだ。

こういう時も、全体を見渡す目を持ちつつ研究しないと、すぐに些末なところに堕していきますね。

> ほとんど読めそうな本がない、という感じがしますね。

うーん、昔の本の復刻版みたいなのが、出ているということは、研究が進んでいないということか。。さびしい。
>
> 宮坂宥勝先生の訳した密教経典(講談社学術文庫)を読んでいても、やはり唯識が前提になっているんだろうなぁ、とか思いますが、いきなり出てくる感じなので、やはり時代的に先駆けている当時の基本的な考え方を知りたいと思ってしまいます。

だいたい、わかってきてるんですが、ちゃんとやってないので、何とも言えません。唯識は、ブッダの法から確実に出てきます。これも一つの「一切智」のあり方ですね。
密教では、六大を説きますよね。識を外界に移行させたので、転生などが説きやすくなったように思います。部派は四大、大乗は五大、密教になると六大と、次第に要素を広げて、一般の人々の願いに応えようとしていることがわかります。

部派から密教まで、実は、この、わずかな違い(?)によって大きく展開が異なってくるようにも思います。まあ、この辺は、はっきりとした根拠を示すまでにいたっていないのですが、「唯識」を「唯識」という壁で囲んで見ないで、仏教の中の、一切智の一つの展開として考えるならば、密教は、すでにブッダの教えの中に胚胎しているのを見ます。

『スッタニパータ』の中でも、ここから密教にいくなあ、という個所がいくつかあって、そういう意識で見るからか、ブッダが「ここに気づきなさい」と促しているようにすら見えます。

仏教の教えが、いかにインドの人々を魅了していたのか、ひそかにしかし素早く進展していった仏教の変容と拡大に感慨が湧きますね。ブッダもすごいけど、煩悩具足の人々のパワーもすごいです。

[10783] Re:[10782]    唯識     投稿者:えび天サンバ 投稿日:2018/07/23(Mon) 11:01   [返信]
エム先生

> 龍樹で手いっぱいで、ディグナーガまで到底手がまわりませんが、最近、また、こちらの方に目覚めてきています。
> 昔、ニヤーヤ学派を研究していたとき、ディグナーガ批判をウッディヨータカラがやっていて、それの関係で少々読みました。でも、その時はほとんど分からなかったです。
> また、ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダという人も、ディグナーガに言及しています。
> 私の場合、どうしても、仏教は、批判から入っていってますね。龍樹もそうだし(笑)

すご〜く興味のあるお話です。
先生は、対論者双方の文献とその背景の資料から、議論の全貌を浮かび上げるということをひたすらやってきましたもんね。
確かに戦線拡大となると、手がまわらなそうだ。

> 私が読んでた頃は、何十年も前になるので、何か出ているかなと思いましたが、翻訳とか出てないようですね。宇井先生のものか、北川 秀則氏の『インド古典論理学の研究』(鈴木学術財団、1965)がそうですが、今は手に入らないかもしれないです。これは『集量論』の和訳が中心になっているけど、全部ではありません。
> かつて桂先生がやっていた分野ですが、今は、どうなっているでしょうか。
> 仏教論理学という分野での研究が多くて、専門用語などの使用頻度も高いので、一般向けというのはないかもです。

ほとんど読めそうな本がない、という感じがしますね。

> 幅広く仏教という目線でディグナーガをとらえるとどうなるか、ということに最近関心が出てきて、唯識とか因明とかのレッテルを貼らないディグナーガに注目しています。いわゆる、ブッダの説いた「ナーガ(龍)」としてのディグナーガは、どんな仕事をしているのか、ということを考えると、けっこう注目度が高いのですが、こういう関心は、おそらく私だけだと思うので、ご期待に添えるような研究は、今のところないかもしれません。

このお話を伺うだけでも、今後のエム先生の動向を占えそうですね。

> 『スッタニパータ』から、唯識(大乗)も出てくるなぁと思って、そのつながりでディグナーガに関心が戻っていっているのですが、ディグナーガといえば、今までは因明ということで、ここだけ特殊な関心の持ち方をされています。いわゆる、インド論理学の扱いでくくられるので、論理の専門用語の研究のようになってしまっていると思います。

宮坂宥勝先生の訳した密教経典(講談社学術文庫)を読んでいても、やはり唯識が前提になっているんだろうなぁ、とか思いますが、いきなり出てくる感じなので、やはり時代的に先駆けている当時の基本的な考え方を知りたいと思ってしまいます。

> > お高いので庶民的ではないよな〜(´;ω;`)
> そうですよねぇ。一般向けにいろいろ書ける大家の先生はいませんかね。

そうですよねぇ〜。別に大家でなくてもいいんですがねぇ。( ^ω^)

[10782] Re:[10781]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/23(Mon) 08:20   [返信]
えび天サンバさま

> ものすごーく惹かれるのですが、最後の
>
> > 因明という論理学を打ち立てているというところが、龍樹の論理学の一側面を発展させていることは確かなことです。

龍樹で手いっぱいで、ディグナーガまで到底手がまわりませんが、最近、また、こちらの方に目覚めてきています。
昔、ニヤーヤ学派を研究していたとき、ディグナーガ批判をウッディヨータカラがやっていて、それの関係で少々読みました。でも、その時はほとんど分からなかったです。
また、ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダという人も、ディグナーガに言及しています。
私の場合、どうしても、仏教は、批判から入っていってますね。龍樹もそうだし(笑)

> これ。
> これでデイグナーガの株が一気に上がってしまった。
> というか、暑さのせいかもしれないですね?
>
> で、宇井伯寿の『東洋の論理 空と因明』という本、
> これには龍樹の中論の翻訳もあるそうですが、
> いかなる本でありましょうか?

私が読んでた頃は、何十年も前になるので、何か出ているかなと思いましたが、翻訳とか出てないようですね。宇井先生のものか、北川 秀則氏の『インド古典論理学の研究』(鈴木学術財団、1965)がそうですが、今は手に入らないかもしれないです。これは『集量論』の和訳が中心になっているけど、全部ではありません。
かつて桂先生がやっていた分野ですが、今は、どうなっているでしょうか。

仏教論理学という分野での研究が多くて、専門用語などの使用頻度も高いので、一般向けというのはないかもです。
幅広く仏教という目線でディグナーガをとらえるとどうなるか、ということに最近関心が出てきて、唯識とか因明とかのレッテルを貼らないディグナーガに注目しています。いわゆる、ブッダの説いた「ナーガ(龍)」としてのディグナーガは、どんな仕事をしているのか、ということを考えると、けっこう注目度が高いのですが、こういう関心は、おそらく私だけだと思うので、ご期待に添えるような研究は、今のところないかもしれません。

『スッタニパータ』から、唯識(大乗)も出てくるなぁと思って、そのつながりでディグナーガに関心が戻っていっているのですが、ディグナーガといえば、今までは因明ということで、ここだけ特殊な関心の持ち方をされています。いわゆる、インド論理学の扱いでくくられるので、論理の専門用語の研究のようになってしまっていると思います。

> お高いので庶民的ではないよな〜(´;ω;`)

そうですよねぇ。一般向けにいろいろ書ける大家の先生はいませんかね。

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