Magical Board


[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ
参照先
削除キー (英数字で8文字以内)   クッキー保存
画像認証 (右画像の数字を入力) 投稿キー
Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |

[10451] 論理哲学論考 全集1  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/11/14(Tue) 09:46   [返信]
「 ブッダの論理 」 と どう関連しますか ?

4.024

命題を理解するとは、それが真であるとすれば起きることはなにかを知ることである。
(それゆえ、実際に真かどうかを知らなくとも、命題を理解することができる。)
その構成要素が理解されれば、命題は理解される。

参考 
論理哲学論考
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html

[10450] アップロードしました。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/11/04(Sat) 11:06   [返信]
「心にしみる原始仏典」
三つアップしました。

「縁」(『サンユッタ・ニカーヤ』12.20)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/paccaya.html

「縁起」(『ウダーナ』1.1-1.3) 
http://manikana.la.coocan.jp/canon/bodhi.html

「慈経」(『スッタ・ニパータ』1.8)
http://manikana.la.coocan.jp/canon/metta.html

[10449] Re:[10448]   チュウドウ ハンパ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/29(Sun) 09:38   [返信]

> 自他に分かれたときには、言葉が必要になります。言葉を使うか、あるいは、体験を言葉化させるか。

言葉が 生まれるときには
神が生まれ出る

神 という言葉が 不適当とするなら 「自己」 が 起きる
「自己」 が 起きるには 「他己」 を 縁起とする

自他に分かれるという認識は  自に起きる

自が起きる時に 「縁起」 の 理を見失うと
他が起こしていると 知ることはない

自他に分かれる前に 「自我」 が 起きだし 顔を出し  口を尖らしている 、、、、

自他に分かれる前に 起きるのは 何か 何故か ?

************
> > 彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
> > わたしには 照合 は 不要で
> > 彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
> > ( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
> > ( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
> >     悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )
************
これは ポルコ愚ロッソ と なのる 輩が わたしに 体験を言語化してのべよ と 言った時のことです

>  そんなことは全く言っていません。どうして、そんなところをはずすのか、わかりません。

どうして あなたが こう外すかを わたしは 探りましたが
ここでは 手の内を 広げません( 注意深く 精進すれば 広げないから 広げている  と  わかる )

>  わたしが、悟りに 段界をおいているなら、それは、サマーディのことかもしれない、とは言えますが。

この 文言 は 不明です


>  わたしが悟っているのか、春間さまさまが悟っているのか、どちらでもかまいません。
>  どうやって何を知ったのか、    どのように何を見たのか、     そして、その中に何があるのかを探るのは、            わたしの仕事になります。

あなたと わたしが 未分 であれば  “わたし”の仕事です
> 自他に分かれたときには、言葉が必要になります。
わかれているという前提で 他人ごとを 量ります
未分であれば 自分事


未分という  見ず  の なかでも
 渇きがあるから ミズ を 指摘するわけではない



[10448] Re:[10447]   チュウドウ ハンパ    投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/29(Sun) 08:07   [返信]

> なぜ 禅 が 「不立文字」 というかは
> みずから に 分からせる必要がないからです 、、、、、
> ( 自他が 未分である時には 分からせる必要がない )

自他に分かれたときには、言葉が必要になります。言葉を使うか、あるいは、体験を言葉化させるか。
>
> 言葉から 体験を探ろうとする ポルコ愚ロッソ は 体験に囚われている

「体験に囚われている」というのが、言葉ですね。そこを得たのは、体験なのか言葉なのか。どちらでもない中道と言えるのかもしれませんね。
>
> 彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
> わたしには 照合 は 不要で
> 彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
> ( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
> ( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
>     悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )

そんなことは全く言っていません。どうして、そんなところをはずすのか、わかりません。
わたしが、悟りに 段界をおいているなら、それは、サマーディのことかもしれない、とは言えますが。

わたしが悟っているのか、春間さまさまが悟っているのか、どちらでもかまいません。
そこは、そんなに興味があるわけではなく、いったい何を「悟った(知った)」のかに興味があるのです。いや、どんな風に「悟ったのか」に興味がある、といってもいいかもしれません。

「悟った」というから、こだわることになるなら、「知ったのか」でもいいのです。
「見たのか、知ったのか」と、ブッダはたずねています。そこを、ただ問題にしているのです。知ったのなら、どうやって何を知ったのか、また、見たのなら、どのように何を見たのか、そして、その中に何があるのかを探るのは、わたしの仕事になります。

そういうことは、春間さまも、そうしています。

> (  「平等」 にあって 「平等」 を 知ることがない ことを
>     白隠は 「 たとへば “見ず” の 中に居て
>           カツ を 叫ぶがごとくなり     」  と語る  )

「平等」は、ここでは使えないと思います。そもそも、みることにかんして、春間さまが、春間さまとわたしを分けています。わたしは、そういう意味では、春間さまとわたしを分けていないですが、春間さまの語る言葉を聞いています。言葉とそれをとらえる働きとは、分けています。考えることについては、分けているといってもいいと思います。

どっちにしても、分けて見たり、分けて考えたりしているのです。そんなにすぐ「平等」の境地はやってこないでしょう。

見ることについては、考えて確認がいるし、考えることについては、見て「確信」しなくてはなりません。

> 「洲 に ある」 ということが いつも   ミギ の 左にある
> ( ミギ  は いつも 未義 であるが あなたは 未疑 にある )

「 あなたは 未疑 にある 」というのは、見たのでしょうか、知ったのでしょうか?

[10447]   チュウドウ ハンパ    投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/28(Sat) 08:53   [返信]

体験の言語化から
自らの体験との照合を為す
体験自体は言語化できないが
(それを)語るときには 言語で語る

照合は 誰でも 他の存在を認める時に 行う作業であり
その作業には 「平等性」 が あり

釈迦牟尼と あなたと わたしとの 間に 差異はないが
照合する 体験には 違いがある
( たとえ 用いられる 言葉が同じでも その体験という “いきざま” は 違う )

そういう意味で 違う体験の主体は 置かれ得て、自他 は 区別しうる
ただし   シャカ無二 と 同じ体験をする時
不一  であり  無二   である

同じであるとする  体験の主体があるときには  無二 ではない
不一  でもなく   同一  であると 迷誤し    顛倒 に     迷い込む


すべての人は 「平等」 にあり  同一 の 世界 を 共有するから 自他に区別が起き得ず
自他不二 と される

( 「自」  というものは 囲いをつくって 区別するときに起きる )


行ったり来たり(右往左往) とは
  世間 と 出世間  とをいう

行ったり来たりする自分を 見失うことを 自我を見失うという
行ったり来たりの 自分を見据える “洲にある”  とき
そこに 自我(顛倒・夢想)を 遠離する

だれでも 行ったり来たりしているが  いつも居るところが 行ったところであるから
判断の 自我という“巣” から 抜け出せない
( 判断・揀択  が  自我 です )
自我 にあるときは  いつも 「我」 は 正しい判断にある
( その正しさのありよう   が  「平等」 にあるから
   顛倒 が 菩提  となり   「煩悩即菩提」 と 言い表わされる )



即座に分かるが 分かることを 自らの体験の範疇に入れて 入りきるかどうかで
正(否) の 確信を持つ
( 俺は正しい  から  あいつも正しい  おれが正しいから あいつは正しくない )
何故  どちらも “否” であるかは
「 非 」 の 理 を 知らなければ 「空」 に 羽ばたけない

知るということは “ 対面する相手に対して 知らしめる ” ということ です
対面する相手が 自分=我 であれば 「 自業自得 」 です

なぜ 禅 が 「不立文字」 というかは
みずから に 分からせる必要がないからです 、、、、、
( 自他が 未分である時には 分からせる必要がない )

言葉から 体験を探ろうとする ポルコ愚ロッソ は 体験に囚われている

彼は わたしに その体験を 述べさせ 自らの体験と 照合 せざるを得ない
わたしには 照合 は 不要で
彼の 体験なるモノが いかなる体験かを 即座に知る
( この知るという 構造は ポルコ愚ロッソ と 釈迦牟尼 とに 「平等」 に あるのです )
( しかし  あなたは 「平等」 に あると  “見ず”
    悟りに 段界 を おく    →     わたしは悟ってはいない )

(  「平等」 にあって 「平等」 を 知ることがない ことを
    白隠は 「 たとへば “見ず” の 中に居て
          カツ を 叫ぶがごとくなり     」  と語る  )

悟っている 「 勝 」 を 劣っている  ミズ という 「見」 と 同一に見る 、、、、

行ったり来たり  が  どこから 判断できるかを 知るとき
いつも 行ったところにいる   という意味 を 知る

「洲 に ある」 ということが いつも   ミギ の 左にある
( ミギ  は いつも 未義 であるが あなたは 未疑 にある )

さらには
 「 中道 」 は 右の 左にあり
           右の 更なる  右にある


[10445] Re:[10444] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/20(Fri) 14:38   [返信]

> 触があるとき 受がある
> 触がないとき 受がない

触があるとき 受がある
けれども 

> と言って、済ませたいところです。

受がない と 済ませたい
ない と 同じくらいに 済ます
( 毫釐の差は 毫釐にすぎない )

> むしろ、仏教の「触」という方に興味があります。これは、とても不思議な言葉だと思っています。「触れる」「触れられる」という、普通のことばとも異なって用いられます。

蝕がないから 済ましていられる

> ブッダが、さかんにサーリプッタに向かって、「触」を意識せよと教えているように見えます。


サンガ での 話 です

ここでは 基準が( 対話者が 低いレヴェルに )  据えられる


[10444] Re:[10441] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/12(Thu) 13:48   [返信]
>
> あなたの場合は
>
> > 触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
> > 触れる主体が 明確になります
>
> ということを 承認 出来ない でしょう

わたしのことかな?
実は、とても、乗りにくいお話です。

そもそも主体は説かないし、「触れられる」「触れる」というのも、エルンスト・マッハに合わせているだけなので、本当は、

触があるとき 受がある
触がないとき 受がない

と言って、済ませたいところです。

むしろ、仏教の「触」という方に興味があります。これは、とても不思議な言葉だと思っています。「触れる」「触れられる」という、普通のことばとも異なって用いられます。

ブッダが、さかんにサーリプッタに向かって、「触」を意識せよと教えているように見えます。

[10443] πドン 鈍 MY   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/12(Thu) 08:57   [返信]

プラトン (にかせられる著作) に 「パイドン」 が あります

    そこに 置かれた 問  です

一本の棒  があり もう一本 を   足す と 二本 となります
その
一本の棒  を    半分   に   切る と 二本 となります

合わせること と 分けること  という 正反対の(思考)操作から 
同じ 「二」 が 生じます
  ( 同じ 「 二 」 ではない  とするなら 概念の 構成要素の 定義を 変えなければなりません )

こういうこと(を 究竟する) には 哲学する者に ある種の 資質を 要求します


[10442]    「 縁起 」 は 「理」 で とらえられるか  ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/12(Thu) 08:39   [返信]

家 というものを “立て”  (仮に建立する)
そこを 認識の  場所であり 主体(仮和合)   と  します

ドア があり 
そこから 侵入者  を設定します
感覚 です (おかしな話になるのは 想定済みです 感覚は 五蘊です)

家を出る     という  感覚 は 
触れる    に 相当させます
家に入ってくる  という   感覚 は
触れられる に 当てます

>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、
>     これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。

触れる  は 誰でも(どの主体にでも) 触れる時に起きますが
触れられるという感覚が  “同時に 感じられる ” という 概念(感覚の意識化)は
触れる者と   触れられる者との        合一において
   初めて   (同じ) “五蘊” (認識を持つ家)    に    存在します

触れる者  と   触れられる者    とは  同一“者” に 存在する
 と     いうことは
存在者(唯一なる五蘊の存在) を   個別の存在 として  存在させなければ
成り立ちません

( また 同時  という 概念も 詳細なる考察を要します )
触れる のと 触れられる のとが  たとえ 同時に起きていても
その感覚の 意識化は 同時には操作されず 順を追っています

この場合には “順序”が あっても “同時” と される のが  あなたの認識です
それは 受者 と 授者 とが 一体化されているということです ( 縁起に沿います )

《《 縁起の理   を  《 沿う(と知った)からといって 》   知った  と  早合点してはしけない 、、、、 》》

ここまで 記述をしても  感覚の授受 は 同一  ですか


だったら 認識に 順序があろうと 現象は 順になく “同時” にある

出入りの現象と 家が建つ場所に起きる世象 と それを支える 世間の認識 は  “同時”  ではないですか ?


これが  「 永遠 」 に    どうつながるかは
あなたの生きざまにおける   探求(究竟)    です

繋がれば 同ジ(時・自) は  
起きていて も   不思議ではない(思議に上らせることができている)


[10441] Re:[10440] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:43   [返信]

あなたの場合は

> 触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
> 触れる主体が 明確になります

ということを 承認 出来ない でしょう

これは
 触れられる  と 触れる  とを  入れ替えても 論理的には 成立する構文ですが
わたしには 
どちらも 成立させることができなく
接触  だけが 宙に浮きます
(  もちろん 接触感触  は 脳に(?) 起きています が 認識の主体が  ない  )


Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
記事No 削除キー

- LightBoard -