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[9977]  ( 校訂版 ) 順を置く と 順序が起きてくる  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/25(Fri) 07:59   [返信]

その順序は すべての最初におかれて
人  に    順をつける

********* ( 九 です )

なるほど  と 言えること(説かれたこと)に
順がある  としましょう
順次    言葉が並びます

なるほど
順がある
順次     と 並びます

説かれたこと を 説かれているよう に 如実に知る
説かれたこと   説かれているよう   如実    と並びます

この “順列”  の どこを最初に 目にしますか ?
目にしたもの(全体) の どこから 理解(憶測) を 始めますか ?

順を追って 理解するとは 理解に沿って 
“順という順列を認識方法として” 量測 することです

本 一つ とっても
まず 本を見ます 次に 開いたページ を 見ます
次に(読むのであれば) 最初に理解を始める 行を
選択します
次に 最初の手掛かりの 活字を 認識に乗せ 
続く 活字と 組み合わせを 選択の上 段落として 認識します
これらの “ 順 ” は 認識によって 
“ 順 ” に 当てはめられて 順序 立てて 認識に上らされます

見えているのは 順序ではなく 全体です
その何処をとっても 全体の 最初 という順にあるモノはありません
ブッダ という 概念が 最初として起きます
いわゆる 成道 です
 ( 成道前と成道後と 成道中 との間に 順があるのなら )
どこで区切りますか ?

人が ヒトリ で 生きているのなら
単細胞(単素粒子) で 出来ているのなら
一人の成道は あります

成道は 人社会において 人とのつながりの中で 縁起 しています
大乗の 起きる時に 成道が起きる

成道は 社会が 作り上げる

本は 思想は 社会の結実です
( 実が先ですか 根が先ですか 種から延びるのは
   順を追っているように思えますが  どこと どことの差異を見出し
   どこを どこと 区別して 順をつけますか  )

物事には順はありません
選択(認識・憶測)に 順が起きます

無量 ということを知りなさい
( 順があるのなら 無量を“最初に” 知って=置いて
   平等 = 平等 の大地に 押し ナベ られている
     と
    知って   何故 順を置くか を  知りなさい  )

ブッダ は 生きざまとして 言葉を並べます
並んで “全体で” 言葉であり 一つの生きざまにある 生 です
あなたが どう選ぶかは あなたが為すこと です

全部を知る か(それとも) 
順に沿って 一つ一つに あなたの 量 による 意味を当てはめ
全体を あなたの(培い育てた)経験 の “解釈”  =  量  
に 当てはめていく

全部わかって どんでん返しがないと知る
最後の一言で ひっくり返りうるのは
最初から 企てられています

最初と 最後は 順に企てられて  いた と 商量しますか ?


縁起 にある (縁っている) と 知るとき 「不生」 であると知る


あるとき と 知るとき と 縁起にあるとき とは 
同じとき(同時)    に あります
 >  「縁ったあとで、生じている」とき、「なるほど」となる、と気づきます。 
気付いたところに 順序があれば 順次があり 上下左右もあり 
気付く “中心” という “個我” が ある(起こされている)
起こしたところ から 前後 上下が起きる

「心中側近」 の 心 の 中 はたまた 近 は 
ある“ところ” の 差異 を 言っているのではありません
心中側近は 心の中 に あり (近いところも遠いところも 大きく乗っています)
その 中 とは 中心 の 中 ではありません
( 中心には 位置があるだけで 占める面積はありません
    一つの 人のある  という位置 でしかないのです )

順を追って 読まなければ 理解できないのは 
(如実たる真理に)順があるから ではなく
順を置く あなたの 認識(慮する選択)  に 囚われるから です

あるものはしょうがない と てをこまねきますか ?


[9976]  順を置く と 順序が起きてくる  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/25(Fri) 07:45   [返信]

その順序は すべての最初におかれて
人  に    順をつける

********* ( 九 です )

なるほど  と 言えること(説かれたこと)に
順がある  としましょう
順次    言葉が並びます

なるはど 順がある 順次 と 並びます

説かれたこと を 説かれているよう に 如実に知る
説かれたこと   説かれているよう   如実  と並びます

この “順列”  の どこを最初に 目にしますか ?
目にしたもの(全体) の どこから 理解(憶測) を 始めますか ?

順を追って 理解するとは 理解に沿って 
“順という順列を認識方法として” 量測 することです

本 一つ とっても
まず 本を見ます 次に 開いたページ を 見ます
次に(読むのであれば) 最初に理解を始める 行を
選択します
次に 最初の手掛かりの 活字を 認識に乗せ 
続く 活字と 組み合わせを 選択の上 段落として 認識します
これらの “ 順 ” は 認識によって 
“ 順 ” に 当てはめられて 順序 立てて 認識に上らされます

見えているのは 順序ではなく 全体です
その何処をとっても 全体の 最初 という順にあるモノはありません
ブッダ という 概念が 最初として起きます
いわゆる 成道 です
 ( 成道前と成道後と 成道中 との間に 順があるのなら)
どこで区切りますか ?

人が ヒトリ で 生きているのなら
単細胞(単素粒子) で 出来ているのなら
一人の成道は あります

成道は 人社会において 人とのつながりの中で 縁起 しています
大乗の 起きる時に 成道が起きる

成道は 社会が 作り上げる

本は 思想は 社会の結実です
( 実が先ですか 根が先ですか 種から延びるのは
   順を追っているように思えますが  どこと どことの差異を見出し
   どこを どこと 区別して 順をつけますか  )

物事には順はありません
選択(認識・憶測)に 順が起きます

無量 ということを知りなさい
( 順があるのなら 無量を“最初に” 知って=置いて
   平等=平等 の大地に押しナベられている と
  知って   何故 順を置くか を 知りなさい   )

ブッダ は 生きざまとして 言葉を並べます
並んで “全体で” 言葉であり 一つの生きざまにある 生 です
あなたが どう選ぶかは あなたが為すことです

全部を知る か(それとも) 
順に沿って 一つ一つに あなたの 量 による 意味を当てはめ
全体を あなたの(培い育てた)経験 の “解釈”  =  量  
に 当てはめていく

全部わかって どんでん返しがないと知る
最後の一言で ひっくり返りうるのは
最初から 企てられています

最初と 最後は 順に企てられて  いた と 商量しますか ?

縁起 にある (縁っている) と 知るとき 「不生」 であると知る

あるとき と 知るとき と 縁起にあるとき とは 
同じとき(同時)    に あります
 >  「縁ったあとで、生じている」とき、「なるほど」となる、と気づきます。 
気付いたところに 順序があれば 順次があり 上下左右もあり 
気付く “中心” という “個我” が ある(起こされている)
起こしたところ から 前後 上下が起きる

「心中側近」 の 心 の 中 はたまた 近 は 
ある“ところ” の 差異 を 言っているのではありません
心中側近は 心の中 に あり (近いところも遠いところも 大きく乗っています)
その 中 とは 中心 の 中 ではありません
( 中心には 位置があるだけで 占める面積はありません
    一つの 人のある  という位置 でしかないのです )

順を追って 読まなければ 理解できないのは 
(如実たる真理に)順があるから ではなく
順を置く あなたの 認識(慮する選択)  に 囚われるから です

あるものはしょうがない と てをこまねきますか ?


[9975] Re:[9974] ある筈のものが無いということが 還ってくる 言葉 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/23(Wed) 08:41   [返信]

> > ( 空手還郷 )

> 虚しく行って満ちて帰ってきた空海さんはしかし、中国密教以上のものを作ってしまった。

そのモノを そのママ 持ち帰ったのです
持って行った そのママ の “ところ” に

その “ところ” は どこの“ところ” かは 顛倒される
持ってい(ッ)た のか 持ち帰った のか 分別は不要

> 何故かというと、彼に足りなかったのは形式だけだったから。

見方によれば
「真言(宗)密教」 は 日本には まだなかった

一年で 八祖 となる ( 恵果に出あって半年で 真言宗の表裏を受ける )
(形式) 宗においての “タテカタ” を 受けたということです

> 道元さんもまた同じようにして、求法のために中国に行ったものの、必要なものは全て持っていた、

“ ジシン ” というモノはなかった
自らが 「洲」 であるとは “知って” は いたが
自らが 「洲」 に 在って “然り”  とは していなかった

仏法に 深浅がある と 疑っていた

> という感じもしますね。栄西さんの仏教もハンパではないでしょう。
> などと。

少し この意見(見解)からは離れますが

栄西 は 密教の修行者 です
道元 も “深く” 密教を学んでいます
さらに 付け加えれば
比叡山 は 遮那 と 止観 の 山です

そこで学ぶ 優秀な 頭脳は (例外なく)そのどちらも モノにします
( モノにできないようなら 優秀ではない )

道元も 法然も 親鸞も 日蓮も 
密教修行者で  止観の 達人 です
( 証例 は 揚げません   自ら当たれば おのずとわかる )

最澄 に ( 仏法に 深浅・上下 がある として なら )
  足りていなかった 深さ は
密教 です

止観と遮那 の 山に 遮那が(浅きモノとしてしか) なかった 、、、、

空海が (最澄が起こした)比叡山 の 上に 礎を 創ったのです
それは 「 光定戒牒 」 にて 読み取れます
( 光定戒牒 は 空海の筆 です )
( その頃 嵯峨天皇は 仏教のことについては “すべて” 空海に 頼っていました )


「光定戒牒」 については これは わたしの“見解”ではありません
どうしても “見解” としたいのであれば
事実(科学的根拠)に基づき 事実を正しく見るところによる 「 見解 」 だとしましょう

(自然)科学 とは 哲学・倫理・論理 テキ 検証に成り立ちます
ただし その中で “化学” については (見解は)変わり得ます
光定戒牒 が いかなる 筆・紙・墨・(筆法) によって なっているかは
変わりうる要素 です
( 筆法は それを取るとき 取りようについて 表わされます )

「光定戒牒」 によって 比叡山 において 大乗戒壇 が 
国家的に(国教 である仏教 として) 認められました
ある意味では 鑑真 の役割(唐招提)の一部が成就したということです
( 如宝の 築いた金堂は空海の助力です )

********

天童如浄 が 道元に 
あってすぐ その最初の時期から
どのようなときであろうと
その部屋への入室と 会話を 許したのは
仏法に接する大事を
 (如浄が)大事であると知りたかったからです

如浄は 生きた仏法 に 出会いを求めた

このことは 空海と恵果 の 関係  に 類します


[9974] Re:[9973] ある筈のものが無いということが 還ってくる 言葉 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2016/11/23(Wed) 04:40   [返信]
> ( 空手還郷 )

虚しく行って満ちて帰ってきた空海さんはしかし、中国密教以上のものを作ってしまった。
何故かというと、彼に足りなかったのは形式だけだったから。

道元さんもまた同じようにして、求法のために中国に行ったものの、必要なものは全て持っていた、
という感じもしますね。栄西さんの仏教もハンパではないでしょう。
などと。

[9973] ある筈のものが無いということが 還ってくる 言葉 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/21(Mon) 08:59   [返信]

( 空手還郷 )

> 言い換えると、
> 違う時があれば アートマン論者 です

言い換えると、
       ( 一度でも )
違う時があれば アートマン論者 です

( アートマン論者  は
   アートマン論者 ではないことによって成り立つ =成就 )

一度成り立ったことは 無いこと には なりません  (不成就)

状態は変わっていく ( いつも変わるというコウジョウにある )

恒常 = 常住  ということを 認めないのが 仏教 です

ブッダではない者が ブッダとなること はない
( ブッダは それ=真理 が ある ときに 永遠にあり 三世を超えている )

法蔵(ダルマカーラ)は 
ブッダ であって 
ブッダ ではない 菩薩(聖・悟 者)である

三世を超える意味を知るとき 三世を超えている

******

アートマン論者 は 常不軽 に 瓦礫を与えて 菩薩のなんたるかを示す
これ を 受けて(これ より 囚われより 遠離して)
常不軽 は 三世を超えることを世間において見 いだし 
(湧きで)いづ る 菩提に 礼拝(五体投地)する

( 無いモノ が 顕われることはなく あるモノ は 状態を変えていく )

恒常に囚われる 自身 が 菩薩を 構築する
( 自“身” が ないから 他 が あり 他があるから 他受容 があり
  四智 がある   四智 が あるから  自受容身 がある )

自受容心 は     五智 にあり     智は 語 にある
( 語  は 世間に 誤  となり     無明とあらわされる )


********

悟りを得じ  とは 悟りがないことには成り立たない
得るモノを 得て(存在の正見に)なければ 得るモノに言及できない

不取 とは  用 に(もちい) せず という意味です
用いないところで 用いず 生きる
( 用 に しない ところ が 世間 です )
  
( 仏 は 世間 に あって 世間 に あらず )

得るモノが何かを知らずに 何  を 不取か が 言えはしない
( 言ったところで   内 容  はない )
( ナイ外 が 無い “ところ” に あることが 悟り で その“ところ”には “なんでも・いくらでも 入っている ” )

その “何” が 悟りで 悟りを知って(得ている・用としている)者を
ブッダ と呼ぶ

自受容 と 他受容 との 「 智 」 を 見たかな 、、、、、


[9972] Re:  [9971] 縁起と空   (続き)   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/20(Sun) 06:04   [返信]

>  あはは、すみません。ひとり言風になってしまっていますね。

二人の会話 だと 思い違いすることは  
顛倒です

自分に語り、自分が聞く
これが “ 他に 起きる ” ということです

縁起を知るとき 自他を知る

>  いつも!自分を棚にあげている人は、アートマン論者として見てよいのではないかと思います

いつも   と いうことは 成り立ちません
いつであろうと そうあるとき は そう ということです

言い換えると、
違う時があれば アートマン論者 です

三論玄義  には
********

「 諸仏は二諦に依りて、
  衆生の為に法を説きたもう
  一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり
    若し人は二諦を分別すること能わずんば
    則ち深き仏法に於いて、真実義を知らず 」 

「 若し俗諦に依らざれば、第一義を得ず
  第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ざらん 」

( 聞いて 説くことが 起きる )

とある
俗諦については、 これが 俗諦であるとは示していない

「 一法なりとも窮めず (一言なりとも尽くさざれ)ば (則) 戯論滅せず 中観生ぜず 」
とある
「 正しく空を観ずる能わずんば、鈍根は則ち自ら害す 」

俗諦 は こういう“ところ”にある

こういう“ところ” が “わたし”にある

分かる気がないときには
分からないとする

***********

>  実践的に得ていく道なので、その獲得の仕方は、それぞれ異なっていると言いました。
>  そこは、禅宗風にいいますと、教化別伝とも言えるところかもしれません。

伝わることは 全て 教化別伝 です
何が伝わっているか( = 何を聞いているか ) を 顛倒する
それがある から 無明 が ある

ただし
聞いていることが、伝わっていることです
無明はない(顛倒して聞いてはいない)と 顛倒します
聞いて知る それ以外にも 知ることはある と 顛倒します
自得
であれば ブッダ です
>  つまり、悟った時、ブッダは、ウパカという行者に、無師独悟(先生なしで悟った)と答えているのです。

九九 は “窮めて” も 最後の一段で 落ち行く ( 堕智 ) 
百丈の先 とは 九十九 の 先
九九(81) は おぼえても 計算間違いは起きる

>  わかったその過程と、それを自分で納得するように説明するその道筋は、その人独自になっていることが多くあります。龍樹の場合、ことばは作用と絡めて説明されますね。

独自 ということはありません
在っても あると知るとき 古道がなぜできているかを知る 、、、、
たまたま 踏み入れるように 教えられている

「無師独悟」 を どう聞きますか ?

独語 が あるとき 「自性」 が ある
真理があるかどうかは 自性 にあると分かる
( この言葉を顛倒する → 顛倒がないとするところに顛倒がある )

ないモノを あるという時 あるモノは ないモノ のことになる
( あるモノ と ないモノ は 共に“一つの” 自性です 「 唯仏与仏 乃能究尽 」  )

>  去りつつあるものにとって、去ることが、どうやってありえようか。
>  その場合、去りつつあるものが、二つの去ることをもつことはあり得ない。(2.3)

>  ことばが、その働きを自性としてもっていれば、去りつつあるものが「去る」というはたらきをもつことになり、「去りつつあるもの」というだけで、去ることになるから、「去りつつあるものが去る」なら、去るというはたらきが二つあることになるだろう、という理屈です。

二つあっても 一つ(のこと)なら 問題はない( 理屈は通る )
「去りつつあるものが去る」  言葉の上では 何ら問題はない
去る者は 去って “いなくなっている”
「 去る者 は 去らず 」

ないモノ について 何を語りますか ?

“ テキリョウ を 馳せる(リョウス) ” とは ?
( 教外別伝 は ここにある )


>  そう納得してますが、しかし、若干龍樹っぽくないですよね。

その若干  が 毫釐 です
「 信心銘 」 に あり、道元が受けている
「  毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」

>  『十住毘婆沙論』の中にも気になるところがあったように思うのですが、ちょっと、今は、たしかではありません。記憶で書いているのであてにしないでください。

>  わたしの読みが甘いのか、それとも、何か意図があって、龍樹はこう書いているのか、ちょっと考えてしまいます。まあ、わたしの課題ですね。たぶん、間違っているとすれば、わたしの方ですけど。

たぶん の意味を タブン 間違えている可能性が 多分 にある
( 多い少ない を 「縁起」 と 知ることがない )

龍樹に意図はない
有れば  「 見解 」 です

それは あなたにあって わたしの 見解 となる
( こういうことを 「中論頌」 で 明かしている )


[9971] Re:[9961] 縁起と空と大乗(続き)[9951]の続き 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/18(Fri) 07:28   [返信]
PLさま 第三段目の書き込みにいきますね。

おはようございます。
ゆっくりですみませんね。

> エム先生 さらに、続きを書きますね。

それでは、参るとするか、PL殿(笑)

> > 上にある引用文はやりとりになっていますが、どっちが自分で、どっちがPLさまかわからない(笑)。
>
> むふふ、前もテルゼさんに、エム先生と間違えられたことがあります。まあ、ことばづかいをちょっと真似してるところもありますかね〜。

いや、ほんとにわからないですね(笑) 
そう言えば、テルゼさまとは、懐かしいお名前ですね。
テルゼさまは他人だからありうるかと思うけど、わたしは、会話してる一員ですからねぇ、ちょっと問題あるかも。


> > 縁起してしまいますよね、ふつうには。そこで出てくる秘策が、中道だと思います。
>
> なぬー!なぬー!
>
> > 思考がぐるぐる堂々巡りをしてしまうのも、縁起といえば縁起です。あれやこれやで悩んで決まらず、選択肢を上をゆれ動くのです。
>
> そうそう、そうですよね。輪廻みたいなもんですね。
>
> > その苦しみを逃れるために、中道という道があります。「生ずるもの」を考えすぎると、「生ずるものは、生じているとは限らない、すぐ滅するではないか、すなわち、生じていないのではないか」
> > と、縁起していくこともできます。
>
> なるほど、たしかに。
>
> > また、理を用いて、ことばで「生ずるもの」と言ったからといって、現実にものが生じているわけではないから、「生ずるものは生じてない」と考えることもできます。
>
> まあ、そうですね。
>
> > また、「生ずるもの」というのは、滅しているとは言えない、と思って、「生ずるもの」から「滅してない(不滅)」を読み取る人もいます。
>
> へ…?


ちょっと違いますが、龍樹の『宝行王正論』4.86には

大乗では、空性が「不生」として、他では「滅」として説かれます。
「不生」と「滅」とは意味が同一であります。そのことを心にとどめねばなりません。(瓜生津先生訳)

とありますね。


> > 実際、不生不滅に至る説明は、さまざまにあります。その人の実践によって、決まってくるところだからです。
>
> はい、今回、先生からいろいろお話を伺って、進展しそうなので、ちょっとがんばってみます。

お!それは、うれしい。どうぞ、がんばってみてください。何か出てきたら、又、ここに書き込んでくださいね。

>
> > 『中論』を書いた人が、『大智度論』や『十住毘婆沙論』も書いただろうと思うのは、この説明が同じパターンだからというのもあります。まあ、何とも言えないかもしれませんが。
> > このあたり、もうちょっと検討がいるかな。龍樹について考えるとき、似たようなことが出てくると、逆に不安になったりもしますね。
>
> ・・・?(・ω・)

あはは、すみません。ひとり言風になってしまっていますね。
実践的に得ていく道なので、その獲得の仕方は、それぞれ異なっていると言いました。
そこは、禅宗風にいいますと、教化別伝とも言えるところかもしれません。

わかったその過程と、それを自分で納得するように説明するその道筋は、その人独自になっていることが多くあります。龍樹の場合、ことばは作用と絡めて説明されますね。

去りつつあるものにとって、去ることが、どうやってありえようか。
その場合、去りつつあるものが、二つの去ることをもつことはあり得ない。(2.3)

ことばが、その働きを自性としてもっていれば、去りつつあるものが「去る」というはたらきをもつことになり、「去りつつあるもの」というだけで、去ることになるから、「去りつつあるものが去る」なら、去るというはたらきが二つあることになるだろう、という理屈です。

これは『大智度論』にもあります。こういうところは、会得したその過程や理由なので、相手に合わせて変わるというところではなさそうですから、似たような説明になっているのでしょう。

そう納得してますが、しかし、若干龍樹っぽくないですよね。

『十住毘婆沙論』の中にも気になるところがあったように思うのですが、ちょっと、今は、たしかではありません。記憶で書いているのであてにしないでください。

わたしの読みが甘いのか、それとも、何か意図があって、龍樹はこう書いているのか、ちょっと考えてしまいます。まあ、わたしの課題ですね。たぶん、間違っているとすれば、わたしの方ですけど。

>
> 僕も、今日は午前中からずっとこれ書いてますけど、もう夕方だわ…(笑)

あらぁ、そんな感じです。考えている時間の方が長いかもね。
わたしは、朝になって書くことが多いですが、朝の方が、まだ冴えているので、ミスが少ない可能性があるからです。
夜に書いたものは、ミスが多くなりやすいような気がしています。

> 介護かぁ、えらいですね、先生。ファイト!

おお、ありがとうございます。介護っていうのは大事です。
先日入院していたのですが、もう、寝たきりになって退院できないかと思いました。むりやり退院してきました。今は元気になってきています。ヘルパーさんからも、「今だから言えるけど、もう、戻ってこないと思いました」と言われてしまいました。

まあ、介護が大事でも、介護にとらわれるとダメかな。
介護してるか、されているかわからなくなる地点が、理想かもね(笑)
おや、ここにも中道がありますね(笑)

ではでは、コーヒーでも入れますか。

[9970] Re:[9969]  無茶 苦茶 続き   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/17(Thu) 23:10   [返信]

> > えーと、その、唯我独尊にはじまるブッダの語った世界が、仮説の世界だということですか?つまり、入りたい人は入ればいいし、入りたくない人は入らなくてもよい世界、ということですか?おお!マントラでも、唱えて意味のある人は唱えて、意味のない人にとっては意味はない、このことは、真実である、とおっしゃっていましたけど、関係ありそうかな!?

> ああ、そうですね。まったくそのとおりでよいと思います。

むちゃくちゃな 話です
ブッダは何も語りはしないけれど
聞く人はいます

どこから聞くか を 知る由にないから ブッダが語るとは言いません

仮説の世界 とは 世間 を 言います

入りたくない人がいる と いうこと を いう
( 誰でも入るところに 入りたくない人・入りたい人 の区別が ありますか ? )

誰でも悟るから
法蔵は 菩薩でありうるのです
悟りがあるから 菩薩がある
誰でもその世界に入りたいから 悟りを得る

誰もが菩薩であるから、 常不軽菩薩 は 礼拝する

瓦礫は 何に変わるか
信 に 変わる 

> すごいなぁ。説明が要らないですね。

説明をしても
説明に入りたくない人はいます

聞きたくない人がいる時に
聞く人がいる
( 少なくとも わたし一人は 耳を傾けている )

仏説 には 説明するところがない


[9969] Re:[9960] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/17(Thu) 12:08   [返信]
PLさま 今度は、こんにちは、ですね。

> > 故人との関係は、参列しているその人その人いろいろあると思いますので、何を話すかはむずかしいですよね。
>
> そっか、それもそうですね。

お坊さんのお話とは関係ないかもしれませんが、わたしも、講演などでお話しするとき、ブッダのお話しをすると、そんなにはずれない、という感じがあります。

何か、どこかに、人を惹きつける真実があるのだと思います。経典にあることを、そのまま話しても、それぞれの人がインパクトをもって受けとめてくれるところがあります。
わたしは、ひそかに論理の力だなと思っています。

でも、龍樹は、ダメです(笑)。絶対、文句がきちゃう。むずかしいって言われますし、仏教ではない人には反発が出そうです。そこもおもしろいなあって、思います。
>
> > だから、論議の領域は早めに設定しておいた方が、混乱が少ないのです。
> > 天上天下唯我独尊と言ったということを、抵抗なく受けとめられるなら、それから進んで説かれることばも受けとめられるでしょう。半信半疑の人も、興味がわくと、それをきっかけに仏法に入っていけるかもしれません。受け付けない人は受け付けないので、問題ありません。
>
> なーるほどね!そういう方向性なんですね!なんとなくですが、わかる気がします。「ブッダの語りを世界とする」って、いいことばですね。エム先生っぽい表現(笑)で、好きですね。

そうですか(笑)。勝手に出てきてしまうことばです。
>
> えーと、その、唯我独尊にはじまるブッダの語った世界が、仮説の世界だということですか?つまり、入りたい人は入ればいいし、入りたくない人は入らなくてもよい世界、ということですか?おお!マントラでも、唱えて意味のある人は唱えて、意味のない人にとっては意味はない、このことは、真実である、とおっしゃっていましたけど、関係ありそうかな!?

ああ、そうですね。まったくそのとおりでよいと思います。
すごいなぁ。説明が要らないですね。
>
> また、「天上天下唯我独尊」別の観点から、思ったことを書いてみますね。その、今はもう、論議の領域の設定ということで、そんなに違和感ないのですが、最初、このことばをみたとき、ことあげのようにも見えたんですよね。ブッダの語りって、相手が納得できるところをスタートに語っていき、やがて、そのブッダのすごさが縁起的にあらわれ、それを見た人が「ああ、この人はブッダなんだ」と納得していく…このような順番だと思っていたので、最初に、「天上天下唯我独尊」といってしまうと、周りの人はびびってしまい、そこに慢心をみてしまうことにもならないだろうか、などなど、モヤモヤしてました。まあ、ちょっと意地悪な見方かもしれませんが(笑)

そうそう(笑)、それ!
そこが、龍樹などが嫌われるところかもしれませんね。
また、『法華経』なども、良いという人は、絶対的な信頼を寄せますが、富永仲基みたいにダメとなったらまったくダメとされるところです。

最初に、結論から出してしまうので、そこで引っかかったらもう入っていかないところがありますね。

これを、龍樹は、『大智度論』でやっています。
『大智度論』というのは、じつは、外道(ニヤーヤ学派など)に向けた仏教指南書の役目をもっていると思っています。
龍樹は、この書の最初で、「天上天下…」の話を出しているし、懇切丁寧に議論に関わる第一義諦の真理を語っています。論議に強いプライドの高い人々に、ブッダの世界を「空」の立場から示していると思います。

ねらっているのは、チャラカあたりの弁の立つ論師たちでしょう。
かれらに向けたウパデーシャではないかと思っています。そうでなければ、ここまで哲学・論理学上の議論を最初から出すことはないと思うのです。『中論』もばりばり使っているしね。

いっそ、ドカンと体系を露わにして、そこから導こうとしたとも考えられます。
『中論』の注釈者青目なんていう人も、バラモンといわれています。ずいぶんたくさんの人たちを引き入れたのではないかと思いますが、そういう人たちは、かなり凄腕の論議に強い猛者ばかりだったのではないでしょうか。

ついていけない人は、もう、最初からパスするだろうと思うので、大乗になるとそういう一か八かみたいなケースが増えますね。

> あ〜、なーるほど、そういうことですね、頭の中がこんがらがりそうになりながらも、なんとなくわかりました。
>
> つまり、仮設の仕方で、どのようにでも秩序づけられる、っていう感じですか?もう少し、かみくだくと、ブッダ(仏法)に出会うまでは、限定的にしか世界をみれなかったわけですね。つまり、「まだ、仏法もブッダも出現していない」と。この時点では、仮設というものが仕えてないわけですね。そこで、ブッダに出会い、ブッダの語りの世界というのをものにすると、「起こった」と思っていた過去のことも、ブッダ論理によって、新たに秩序だてられ、自由に並び替えられる、と。

そういうことで良いのではないでしょうか。ある意味、時間がなくなってくるとも言えます。思考の順序はありますが、時系列は無視されてもかまわなくなってくるところがあります。ここが、西洋論理とも共通する世界です。
>
> 仮設ということばの使い方が、どうもミスってるような気がしないでもないですが、どうでしょう。

いや、大丈夫でしょう。西洋論理の場合は、その仮説を、仮説と思いながらも、そこを絶対視していく傾向が出てきてしまうので、融通が利かなくなってくるのではないかと思います。

> > 仏法を知っていったら、出てこないような議論が出てきています。
>
> まったく、そのように思います。龍樹作って書いてあるのに、それを否定してしまうと、おいおい、まさか、そこからかぁ…って、なります。

わたしも、この手の議論が出てくると、そのままスルーしてしまいますね。
今までも、ヴァスバンドゥ二人説とか、龍樹二人説など、ありましたが、その程度のことを述べている理解の段階では、どうせ決着はつくはずがないのだから、まともに取り合うと時間を無駄にすると思って、パスしてます。ずいぶんひどいことを言ってるかもしれませんが、空とか縁起とか勉強すれば、そういう考えは起きてこないと思うからです。
>
> 仏教について全くの素人のとき、『中論』と『宝行王正論』を見比べて、思いました。「こーんなに理屈っぽい人が、こーんなに倫理的なことも語れるなんて!」と。まったく別人が書いたような人を、同じ人が書いてるのならば、その人は、論理と倫理の極致に至ったのだろうとワクワクしたものです。

そういう風に考えられる方がすごいです。
論理的に極致に至ると、倫理的な側面も逆にはっきりと出てきますね。
善なるものを求めて出家したブッダは、論理を究めた。その態度は、どこまでも論理的です。
   スバッダよ、わたしは二十九歳の時に、
   善なるものを求めて出家した。
   スバッダよ、わたしが出家してから
   五十有余年の月日がたった。
   論理と法の地で活動してきた。
   これ以外のところには、沙門たるものはいない。
    (「大般涅槃経」『ディーガ・ニカーヤ』16.5.27

一方、龍樹は、最初に論理を求めた。それを究めてから倫理へと向かったので、倫理的な側面が強く出ています。『中論』→『ラトナーヴァリー』

> 龍樹に同一性を認めたとしても、「同じ人から、それらの著作がすべて出てくるような論理があるということか」って、わからないなりに納得すれば、それで済む話でしょ。それを、「中論を書くような人じゃ、この著作は書けない」って言ったんじゃ、結局、「自分たち現代の学者が持っている論理や見方がすべてで、これ以上はない」って、表明してるようなもんでしょ。それなら、「菩薩とかいわれてるけど、龍樹も凡夫なんだよほんとうは」とか、さらには、「ブッダになることなんて、結局できないんだよ」と言ってることにもなりかねないレベルの話だと思いますね。もちろん、そういう人がいるのは仕方ないと思いますが、仏教学者がそれじゃ困りますよマジで。

経典をそのまま書いてあるように受けとめてみる、というそこからボタンを掛け違っている感じです。
「『中論』を書くような人じゃ、この著作は書けない」と言ったって、そもそも『中論』に書いてあることもわかっていないわけで、何が書いてあるのかわかるならば、他の書も書けるかどうかがわかるのじゃないかと思います。

いずれにしても、決着はつかないことは、明白です。

> 多重人格と融通無碍、複数の理論を使うことと一つの理論で一貫してなんでも説明できること、これらをごっちゃにしちゃいけない、と思います。

「融通無碍」というのは、自分の中で体験してみないとわかっていかないもののようですね。わからないなら、せめて「信」をもって受けとめてみる、ということをしなければなりません、プライドを捨てて。
>
> うんうん。ここまでが、世俗諦で示される世界というわけですね。
>
> > そして、その世界一切から出るなら、涅槃です。解脱すると涅槃です。
> > 有にもよらず無にもよらない中道を進むと、やがてそこから脱することができる。
>
> おお、そこで、その涅槃や中道の世界も、ことばにすることはできるわけですから、真理表の15や16という形で、位置づけることができるというわけですね。
>
> > なんて、確実な世界なんだ、って感じがしてきます。
>
> 確実な世界…?

どのことばも、それが存在する根拠をもっている、ということになります。
必ずことばは、それが置かれる場所がある、ということでもあります。

そういう言い方をしても良いのか悪いのかわからずに言うのではなく、はっきりと言うことができることばだけを選んで意識的に語れるからです。
気持ちがよい世界ですよね。
>

> > 視野がグッと広がりましたね。あるものを受け入れる、というのは、ほんとうに力量が要りますね。
>
> ああ、ほんとにそうかも。「自分は正しいんだ」っというのを1個ずつ捨てないと、真理表は増えていかない、っということなのでしょうか? 真理表の一列をものにするコツって、なんなのでしょう。

どんな表現も、それが置かれるにふさわしい場面というのがあるのだ、とあらかじめ心に思っておくことでしょうか。
>
> ここで、ちょっと寄り道…「自分は正しいんだ」とこだわることと、「あ、そっか」って納得して、心の中のモヤモヤが止むことって、どちらもある種の「正しさ」に至っているのに、どうしてこうも、似て非なるのかなぁ、なんて、ちょっと興味深く思いました。

それはね、これではないでしょうか。

784.(第三経第5偈)
分別構想し作り出された諸法は清浄ではないのですが、それらを重視している人が、自分の内で利益があると見るならば、その存在(=人)は、動揺するものに縁っている寂静に依止しているのです。

「自分が正しい」と見る人は、どこかに自分の利益を見ている人ではないかと思います。だから、ゆれ動くものに縁って生まれた寂静にとどまるので、「正しい」という根拠がゆらぐと、また、自分の利益がなくなると、すぐ崩れていくのでしょう。
>
>
> うーん?それはたとえば…そうですね、望ましくないことに出くわしても、それを、意志の力でどう解釈するかで、結果を変えられる、というほどの意味ですか?

そういうことも言えるのではないでしょうか。というか、むりやり変えるのではなく、諸条件が集まって結果を生むという「衆縁和合」ということを考えると、自分の考え方(意思)も一つの条件になって、それは結果に必ず影響するのですから、そこをありのままに見つめると自然とふさわしい対応が生まれてくるのではないかと思います。

ブッダの対応を思い起こせば、どんなに不利に見えても、そこをチャンスとして法を説いて、相手を教化してしまうこともたくさんあります。
また、うまくいくように見えても、また、相手の受け入れ体勢のができていないと、空振りに終わることもありますね。これは、ブッダといえども、そういうことが起こります。

>
> > 諸縁が集まって一つの結果を生んでいきますから、自分の意思の力も、諸縁の一つになります。自在に考えられるようになっていきそうですね。
>
> なるほどー!そういう仕組みですか。今更ながら納得です。どんなにおいしくないと感じたものも、味付け次第、みたいな?

ああ、そうかも。また、他のものと組み合わせるとおいしく感じたりもしますよね。

> 変なこと聞きますが、諸縁の中でコントロールできるのは、自分の意志だけなのですか?

他の条件というのも、すぐには自分の力と関わらないかもしれませんが、そういう状況を導くのも日頃の自分の行いなので、日々の行いの積み重ねが諸縁に影響を与えている、とは言えそうですね。

生活習慣のよい人は、風邪にかかりにくい、なんてのも、諸縁を考える上でよい例になるかもしれません。
>
> > と書いたものの、我が身に返ると、そんなにうまくはいっていないような気もしてきます。うーむむ。
>
> 前に、因果について、先生は、客観的にみようとすると、どこにも見いだせないし、意志だけでもダメって言ってましたね。意志だけでもダメって、がんばってポジティブに考えようとしすぎても、因果はコントロールできないときはできない…ということでしょうか。

そうですね。因果というのは、みずから生ずるのでもなく、他から生ずるのでもなく、…という四句分別の否定によって示されますからねぇ。
>
>

> そっかそっか、それも、真理表の列を1行増やすのに似てますね。なかなか、いつかは壊れる、なくなるって、目をそらしてしまうところですもんね。

マイクロソフトの言うなりにはならないぞ、って思ったりしてます(笑)

最近、講義などでも、いろんな機材を使ったり、PCなどを用いたりする先生も多いようです。たくさん機具を持ち歩かなくちゃならなくなってたいへんみたいです。

それにも、抵抗しています。ノート忘れても、何とか講義できるようにとか、常に非常事態も想定して、講義の組み立てを考えたりしています。ブッダをお手本にしています。

ブッダは、何ももたずに語っていますものね。理想は、ブッダ。

> 「それに頼らない、という生活」って、うーん、無常なるものに頼らない、ということですか?

というか、無常なることを意識して、その時の学生の状態に合わせてある程度対応したい、というのが、ねらいなのですが、シラバスがあるので、どうしても一定の枠は設けなくちゃなりません。

> 他によって浄まることはない、というお話とも通じるでしょうか。関係ないかな。

ああ、どうかなぁ、微妙に通じているような気もします。何となく、こうなると自己責任で行う、というところにもつながるかもしれません。

> > ヴェーダの達人(ヴェーダグー)を目指そう。この場合、ヴェーダというのは、中から湧く智慧を指しています。
>
> おお!『大乗への道』にありましたね、あの先生のヴェーダ解釈は、すばらしかったですね(笑)

ありがとうございます(笑)
あれは、『スッタニパータ』の第三章あたりの訳をしているときに、出てきたものです。
>
> 中から湧いてでるように、あふれるように、暗誦しているように…って、いいですねぇ。ほんと、憧れます。すごいたのしそう!

湧いてくるものは良いですね。学生さんにはいつも言ってます。
知識は、失われる、すぐに古くなる、
でも
智慧は、中から湧いてくるもので、いつも新しい、って。


> > これは、仏法の強みですよね。そのことばの意味するところは、話の文脈の中、そのことばを用いる文全体、こういったものから知られていきます。
> > どんな人でも、理解してくれます。大人でも子供でも、誰でも。
>
> ああ、まさに、わたしをみるものは法をみる、ですね。
>
> あ、そうだ、前に、菩薩が筆をとって論書を書きはじめたその瞬間から、法が展開されはじめたのではない…と僕がいったのは、まさにそのことです。その論書を書くにいたるまでの生き方を含めた全体から、知られていきます、ということでした。なので、「法」は、「生じるものではない」のでは…、ということでした。論書の本文から近い所でいえば、「龍樹造」という冒頭の文字も、すでに論の一部なんだろうなって。

ああ、なるほど、天上天下…にも通ずる考え方ですね。
大乗だなあ(笑)


> > > > これをダンマ・アヌダンマ(法随法)という実践の仕方で、仏教独特のものですね。
> > >
> > > うむ!この法随法とやら、おんもしろいですね。ほんとに仏教っぽいですね。語られなかったことも知れる、ということもあるのかな。法随法をずっと守っていければ、いいわけですね。
> >
> > そうです!そのとおりです!
> > ブッダの勉強法です!
>
> なるほど、だから、「消えないことば」に頼ってると、法随法にはならない、ということですね。流れていかないですね。

そのとおりっ!!
>
> また、法随法は、「中道」を言いかえたものでもあるのでしょうか?

ううむ、どんどん鋭くなるなあ。法随法の実践の効果が、もう現れているぞ(笑)>
>
> > 「自己」から広がるのは「世界」ですから、自己を知り尽くすと世界を知り尽くすことになります。
>
> ほほほう…( ̄ー ̄)

あ、可愛いですね。

> えーと、ダルマでないものに含まれてしまうのは、認識されたもので、心と呼べるものはないからですか?五蘊に解体されてしまって。

そうですね。ブッダは、法(教え)としては使っていないですね。わたしの理解では、そうです。もう少し、しっかり見ないといけないかもしれませんが、今のところ、そう理解してます。
>

> え?では、思惟の領域には、どういうことを入れればOKなんでしょう?
> 「薪が、灰になってしまったなぁ」であれば、セーフということですか?

「薪に縁って、灰が生ずる」という言い方になるのではないでしょうか。
>
> そこから、「薪は先、灰は後」を導くことはできない、と言ってもいいですか?

薪は薪として、灰は灰としてある。前後裁断されている。しかあれども、薪は薪の法位にありて、さきあり、のちあり、だっけな。

そのように考えているかで、先とか後とかも生まれてくるでしょう。

薪があるなら、火が生ずれば、灰になるだろう、
と順序をつけると、後先が生まれてきます。

灰があるなら、ここには薪があったと言える。
と考えると、また、思惟の順序がついてきます。

考え方によって、あとさきも生じますから、その辺も考えなくちゃいけないと言っているように、わたしには聞こえます。
>
> > 思惟の領域に入ると、思惟の領域での順序がありますから。
>
> ああ、これが、思惟の中で縁起してしまう、ということですか?順序があるわけですから。
>
ああ、そうです、
>

> > しかし、わたしの考えたところでは、この現象界と思惟界をつなぐ、あるいは、切り離すのが、中道や縁起だということが言えると思います。
>
> ほほう…と、いいますと?(-_-) 大事なところそうですね。
>
> 「つなぐ、あるいは、切り離す」、ときましたか。どっちでもできるんですね。

できると思いますね。詳しく述べるとたいへんそう。
書いた時のことを、ちょっと忘れてきてしまいました。


> おお、そうですね。個人的には、「自性」ときくと、「期待」というのがイメージ的にしっくりきますね〜。ああ、これも1つの自性になってる(笑)
>
> この「薪」ということばをみて、「灰」が出てくるのが、思惟の中での縁起と呼ばれるのでしょうか? 「仏教」と聞いて「最高だ」とか。

ああ、そうですねぇ。。。どうなんだろうな。
概念的な思考へといってしまうと、パターン化されていきますね。

習慣的な思考は、その都度起こる縁起とは違うような気もしてきますが、その人のこだわりが生み出す思惟の縁起でもありましょうね。

「薪」と聞くと「灰」が出てくるだろうと思ってしまうのは、こだわりということになりそうですから。

[9968]   起信論 と 無量寿経   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/17(Thu) 09:53   [返信]
これは 道場にも置きます  

  起信論 と 無量寿経  

ダルマカーラ
法蔵菩薩と 菩薩発信修行趣向三種

無量寿経(得三法忍)には 
仏 が つくったもの 
が    在る 
となっている( 有為・サムスクルタ )

( 有為を 作り上げる仕組みを三つの在りようとして知るように )
と読む 偏 も ある
( この場合は 無明にあるモノが 作り出すものがある = 実体  となる )

有為 は 人が作ることは できない
人には 有為 しか作れない ! ( と 明かされているから 「 無明 」 とされる )

有為 が 存在するか どうかは
 それが “知る”という 行いにおいて
対象化される こと かどうか で 決まる
( 知る者が ブッダ です )

実体がない ということを 明かす のが 仏教です
有為に実体はありますか ?

仏教 が あれば(実体としての唯一成る真実がある) 有為がある
仏 = 仏教 =  “→” 有為


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