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[11769] Re:[11768] トーテム信仰 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/30(Mon) 09:37   [返信]

> > 人間目線ではないこと が  
> > この世 に 
> > 存在しますか ?

> 仮に存在しないと思っている人がいたら、かなりの自己中心主義ですね。

自己を中心とせずに 語ってください
もし語っているとするなら    
    >  かなりの自己中心主義ですね

> 猫には猫の目線があり、ヘビにはヘビの目線がある。
> 自明のことでしょう。

その 自明のこと は 誰の目に 明らかですか ?

少なくとも、 わたし(の目)には 明らかにはなってはいないから、
明らかなことではなく、 
( あなたにとっての )明らかにすることは
その自明 を 支える 自己を明らかにすること  です

> 地球には地球の目線があり、太陽系には太陽の
> 銀河系には銀河核の、それぞれ目線があるかもしれないし、
> ないかもしれない。

どっちか決められないのなら、
ない  と しなさい
決めているのなら、 嘘はやめなさい

> 物質世界のプログラマーやクリエイターの目線もあるかもしれないし、ないかもしれない。

そう考えるのは
あなたの目線です

あなたの目をもってせずに、
物事を眺めることはs出来ますか ?


ブッダの 目を持つなら
その目を持つ者が ブッダ です


ブッダ とは  「 法 」 であり、 「 真理 」  です

あなたの目は 「 真理 」 に ありますか ?


[11768] Re:[11767] トーテム信仰 投稿者:苺箭毒蛙 投稿日:2019/09/30(Mon) 09:11   [返信]
> 人間目線ではないこと が  
> この世 に 
> 存在しますか ?

仮に存在しないと思っている人がいたら、かなりの自己中心主義ですね。

猫には猫の目線があり、ヘビにはヘビの目線がある。
自明のことでしょう。

地球には地球の目線があり、太陽系には太陽の
銀河系には銀河核の、それぞれ目線があるかもしれないし、
ないかもしれない。

物質世界のプログラマーやクリエイターの目線もあるかもしれないし、ないかもしれない。

[11767] Re:[11765] トーテム信仰 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/30(Mon) 06:33   [返信]

>  人間目線でのものだと思います。大蛇は際限なく大きくなりますし、

際限があるから
大小が起きる

>  ゾウさんも大きいですよね

キリン と 比べて、 どのように 大きいかな ?

尺度 を 固定化しなければ、 量は 計れない

ナーガ は どのように大きい  のですか ?



> 神話や宗教は結局、作者の人間目線のものがほとんどでしょ。

このことが、 人間目線です

人間目線ではないこと が  
この世 に 
存在しますか ?


[11766] Re:[11764]   19.09.29 [16980 ]     認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/30(Mon) 06:24   [返信]

> これがまさに、Aと非Aの二項で堂々巡りするということである。

「 輪廻 」 に ある時  

堂々巡りする

「 輪廻 」 に なければ
一つ一つ 、 「 一つ 」 を 知る


  一つ   を  知らぬ者 は いない
           しかし
「 一つ 」 を  知る者  は いない


[11765] トーテム信仰 投稿者:苺箭毒蛙 投稿日:2019/09/29(Sun) 23:23   [返信]
ナーガとかはトーテム信仰の宗教版でしょう。
人間目線でのものだと思います。大蛇は際限なく大きくなりますし、ゾウさんも大きいですよね。大きいと天敵も少ないので堂々としているので、そういうものへのあこがれとか比喩でしょう。

キリスト教圏の蛇の悪魔化は発祥の地である中東や砂漠での毒蛇に対する敵対心の宗教化ですかね。毒サソリと同じ感じ。

神様に罰せられて手足をなくされたなんてジョークの類で、細い穴に入って行って獲物を取るのに便利になっただけかと。
手足がなくて醜いというのは人間目線で、彼らからしたら手足なんて飾りですって感じじゃないかと。

ドラゴンは中国とか欧州では、恐竜の化石を見た人でもいたのでしょうか。

日本では毒ヘビの害はそれほど多くないですし、お米を食べるネズミを食べる益獣扱いですので、偏見はない。

神話や宗教は結局、作者の人間目線のものがほとんどでしょ。

[11764] Re:[11763]   19.09.29 [16980 ]     認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/29(Sun) 23:08   [返信]

>   去る 、 去りつつある 、 去った   が    同時( 今 = 即今 )にある  ということ
>       は
>   去る 、 去りつつある 、 去った   が    即今 に ない  ということです 
>
これがまさに、Aと非Aの二項で堂々巡りするということである。

[11763] Re: [11761]  19.09.29 [16980 ]     認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/29(Sun) 23:02   [返信]

論を起こすのも 無駄に感じるが 、、、、


>>  去る 、 去りつつある 、 去った   が  同時( 今 = 即今 )にある  ということです

>  これはAはBかつCである、ということである。
>  つまり、存在論的三句分別である。

  去る 、 去りつつある 、 去った   が    同時( 今 = 即今 )にある  ということ
      は
  去る 、 去りつつある 、 去った   が    即今 に ない  ということです 

A は  Aではないことによって、 B ではなく  C であることもない
A は A ではなく 、 B は B であることで 、  C は Aであり B である   ということ

A は A であるから B であり、 A は B であることにより C ではない    ということです

存在がないところに  存在論はない

存在がない  というところの 存在があり、   そこに、 存在論が起きる

存在論を 起こすところに 存在はない



[11762] 無題 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/29(Sun) 22:36   [返信]


****************************************

ここで、『十二門論』で「同疑因」が最初に出る「観有果無果門第二」を検討してみよう。ここでの対論者の主張は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれる あるいは含まれない あるいは含まれかつ含まれない

 ただしこの「あるいは」は「ある時は」という意味であるから、次のような三句分別で表わせる。

 (ある時は)結果は原因に含まれる
(ある時は)結果は原因に含まれない
(ある時は)結果は原因に含まれかつ含まれない

これを形式化すると、次のように表記される。

 Aは (ある時は)Bである       1
 Aは (ある時は)Cである       2
 Aは (ある時は)BでありかつCである 3

 われわれはこれを、存在論的な三句分別と呼ぶことにしよう。これに対して、龍樹の反論は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれることはなく 含まれないこともなく 含まれかつ含まれないこともない

 これは、次のような形式の三句分別である。

 Aは Bでない       1
 Aは Cでない       2
 Aは BでもなくCでもない 3

 この三句分別は、BとCの可能性をすべて否定するものであり、虚無論的なものといえよう。それゆえ、われわれはこれを、虚無論的三句分別と呼ぶことにしよう。実際のところ、龍樹による否定論証のほとんど大部分は、形式的に見るかぎり、虚無論的な構造をもっているのである。
 とはいえ、石飛がいうように、龍樹の意図はもちろん、虚無論の主張にあるのではなく、対立する二つの主張を提示することによって、「理由」の不成立を論証することにある。ただその「理由の誤り」が、「同疑因(疑いに等しいもの)」なのか「成立(証明)すべきものに等しいもの」なのかが、ここで問題となっているのである。
 しかしながら、われわれがこれまで確認してきたことに従うかぎり、たんに存在論的三句分別に虚無論的三句分別を対置することは、「懐疑」を否定するには十分なものとなりえないのである。
 次に、『十二門論』で「同疑因」が二番目に出る「観三時門第十一」を検討してみよう。対論者の主張は、存在論的三句分別として、次のように示されうる。

 原因は結果より先にあるか、あるいは結果より後にあるか、あるいは結果と同時にある。

 原因が結果より先にあるとは、原因が「過去」にあることを意味する。原因が結果より後にあるとは、原因が「未来」にあることを意味し、「目的因」などに当たるものだろう。原因が結果と同時にあるとは、原因が「現在」にあることを意味する。
 ここで注意すべき点は、「現在」とは「過去でもなく未来でもない」ものではなく、「過去でありかつ未来である」ものである、ということである。これは、線形的な時間を考えるとわかりにくいが、「永遠の今」という哲学的主張を考えると、解りやすいだろう。過去を振り返ることも未来を期待することもともに現在においてある、ということである。
 この対論者の存在論的三句分別に対して、龍樹が示すものは「三時の否定」(三時門破)であるが、要はまたしても虚無論的三句分別なのである。すなわち、

 原因は結果より先にあるのでもなく、結果より後にあるのでもなく、結果と同時にあるのでもない。

 龍樹の主張がここにとどまるのであれば、われわれの「疑い」は、晴れることはないであろう。

*********************************

>去る 、 去りつつある 、 去った   が  同時( 今 = 即今 )にある  ということです

これはAはBかつCである、ということである。
つまり、存在論的三句分別である。

即今=「永遠の今」は、存在論の枠組みに収まるのである。

これに対して三時門破は、虚無論的三句分別である。
虚無論的三句分別は意味論的三句分別の対偶だが、この二つの対立を弁証法的に止揚したものが懐疑論的三句分別で、さらにこの懐疑論的三句分別を否定することで矛盾的三句分別が導出される。
つまり、この導出は「論証的」(無時間的)になされるのではなく、「弁証法的」(時間的)になされる。
「同時」すなわち「AはBかつCである」は、最後の「AはBでないのではないかあるいはCでないのではない」で「否定」される。

結局対論者は実在論者だから、虚無論的三句分別をもってきても、使いこなせない、ということだろう。
空論者はそれを使いこなす、つまり、「使って棄てる」のである。
そのことが、最後の矛盾論的三句分別によって示される。
そしてこの矛盾的三句分別は懐疑論的三句分別の対偶(否定)であるから、「一切の疑いが晴らされる」。
これは「決断」である。 

******************************

三句分別の分類


肯定(1あるいは2あるいは3)                      否定(1かつ2かつ3)


《存在論的三句分別》                           《不可知論的三句分別》 
 Aは Bである       1                      Aは Bでない     1
 Aは Cである       2         ←(対偶)→        Aは Cでない     2
 Aは Bであり かつ Cである 3                    Aは Bでないか あるいは Cでない  3


《意味論的三句分別》                           《虚無論的三句分別》       
 Aは Bである       1                      Aは Bでない     1
 Aは Cである       2         ←(対偶)→        Aは Cでない     2
 Aは Bであるか あるいは Cである 3                Aは Bでなく かつ Cでない  3


《懐疑論的三句分別》                           《矛盾論的三句分別》
 Aは Bである       1                      Aは Bでない     1
 Aは Cである       2         ←(対偶)→       Aは Cでない     2
 Aは Bでなく かつ Cでない 3                    Aは Bでないのではないか あるいは Cでないのではない 3


《認識論的三句分別》                           《観念論的三句分別》
 Aは Bである       1                      Aは Bでない     1
 Aは Cである       2         ←(対偶)→       Aは Cでない     2
 Aは Bでないか あるいは Cでない 3                Aは Bでないのではなく かつ  Cでないのではない  3


       六入 → 名色 → 識 → 行

(肯定)  存在論 → 認識論 → 意味論 → 懐疑論

(否定)  不可知論→ 観念論→ 虚無論→ 矛盾論




(注)C に「非B」を代入するのは特殊形。

*******************************************

3句分別は、A、B、Cの三項でないと成立しない。
A、Bの二項だと、Aと非Aの堂々巡りになる。
これは四句分別に寄りかかった思考である。

[11761] Re:[11759] 19.09.29 16980 認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/29(Sun) 19:52   [返信]

> 『廻諍論』と『十二門論』です。しかし、『中論』においても、少し考えることができるならば、「同時」はない、と理解できるかもしれません。

あなた  “ そのように 理解した ” という意味  ですね ?

“ 「同時」はない ”  と いう 理解

> 去りつつあるものにとって、去ることがあるというならば、
> 去る動きなしでも、去りつつあるということに帰着する。
> なぜなら、去りつつあるものは、去るから。 (『中論』2.4)

この句の意味は 同時である ( すべて 一時 ) という意味です

去りつつある ということは 成り立たない ということです

去りつつある者(こと) に、 去る こと(者)は ない   ということです

去る ということがある時に、 去りつつある ということがある
去ってはいない者 に、 去る者 が 重なることはない

去る 、 去りつつある 、 去った   が  同時( 今 = 即今 )にある  ということです

> ここに「同時」ということの意味が潜んでいるのをみることができるなら、龍樹は一貫したことを説いているのが分かるのではないかと思います。
> 春間さまだから、これで何とかしてください。

何ともなりません

何とか するもの(為しつつあるもの)に  何とか なる(為す) ということがあるならば
何とかする(為す)動きなしでも、何とかしつつある( 何とか為し動く ) ということに帰着する。
なぜなら、何とかしていくものは、 何とか 為す  から。


おかしいかな ?


[11760] 無題 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/29(Sun) 18:30   [返信]
> > 「自性を欠く」と「自性をもつものではない」は異なります。前者は、虚無論者のような展開になり、後者が空性を示しています。すなわち、「因と縁がそろえば、結果が生ずる」ということを「自性をもつものではない」としている、ということなのです。

これは既に私が説いたところである。「自性をもつもの」を「縁起ではないもの」とすれば、「自性をもつものではない」は「縁起ではないものではない」となる。
これはたんに「縁起である」=「自性を欠く」ものとは異なり、「勝義の縁起」である、と。
以上を私は、三句分別の弁証論的展開から導出した。
三時の否定とは、「三句分別」なのである。
一般に勝義諦、すなわち言葉で語りえない境地は四句分別で示されるように考えられているが、実は三句分別こそが重要なのである。
「論理学教室」の「石飛道子『十二門論読解(1)』解題」を読んでもらえば分かるが、一応以下に引用しておこう。

*************************************************

われわれは先に、次のような三句分別を、仮に「矛盾的三句分別」と呼んだ。

 Aは Bでない                    1
 Aは Cでない                    2
 Aは BでないのではないかあるいはCでないのではない 3

 今ここで、龍樹の言う「八不」を、上の命題に当てはめてみよう。すると、次のようになる。

 A は 不生不滅 かつ 不生でないかあるいは不滅でない
 A は 不常不断 かつ 不常でないかあるいは不断でない
 A は 不一不異 かつ 不一でないかあるいは不異でない
 A は 不去不来 かつ 不去でないかあるいは不来でない

 以上において、「不生(不常・不一・不去)でないかあるいは不滅(不断・不異・不来)でない」という二重否定を肯定に戻せば、「生(常・一・去)かあるいは滅(断・異・来)である」となる。これは「縁起」に他ならない。つまり、上の四つの命題は、『中論』「帰敬偈」において示された、「八不の縁起」に他ならないことが、理解されるのである。
 ただし、石飛が指摘するように、インド論理学においては、否定の否定は肯定とはならない。したがって、「八不の縁起」は、「縁起でないのではないもの」として、言いかえれば「幻」のようなものとして、立ち現われるのである。これを「勝義の縁起」と、呼んでもよいだろう。
 とはいえ、一般に「八不」は「八不中道」などと呼ばれ、縁起と切り離して理解される。しかしながら、ここで注意すべきことは、「中道」は上の個々の命題によって示されているのであって、八不そのものが「中道」であるわけではない、ということである。かといって、たんなる縁起すなわち生滅や去来が、中道であるわけでもない。ただ、八不かつ縁起であるときにのみ、中道が成り立つのである。

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