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[11032] 台風と地震 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/09/30(Sun) 15:19   [返信]
昔から台風と地震の関連性について注目しているのですが、
急激な気圧の変化が影響する場合もあるのでしょうかね。

中国の内陸部の地震はダム建設が原因。
アメリカはシェールガス採掘のようです。

[11031] Re:[11030] アナッタン 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/29(Sat) 09:45   [返信]

 「 縁起 」  ということは 「空」 であり 「 無我=非我 」 であるということで
どちらから関連を求めても
同じことです

哲学 という言葉も 「空」 です

それ( 「空」 なるもの )  を基にした 
哲学(それ)に対しての 論評も 空 です

終りのない論争は
終りがない という 決定(揀択) に 起きる事です

起こすところに 執着の無い想い が 起きる 

哲学 という言葉でとらえようと
 「 縁起 」  と 知ろうと
知るモノ と 捉えるモノ とは
捉えられないところで 同じで 「 平等 」 である
ということが 捉えることが出来れば
捉えることによって、
捉えられるモノ  の 存在が 消滅しています

この事が 理ではなく 行いとして 顕われているのが
仏陀の言葉ですが

あなたはそれを 言葉として聞く


[11030] アナッタン 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2018/09/28(Fri) 19:35   [返信]
アナッタンはアートマンの哲学的な議論よりも、
五蘊がわたしの所有物であるという思い込みの否定と
とらえる方がいいのではないかと思ってます。

まるで近代法の所有権論みたいな直接性、排他性、絶対性、永久性みたいな誤解。現代法では所有権があったとしても何をしてもいいわけじゃないということになっている。

無明のひとつは、自分の所有ではないものを自分のモノだと思うこと、ひいては自己の部分と錯覚することと言われますね。

色受想行識、たしかに自分の絶対的な所有物じゃないですよね
自分らしさというのもあやしい。
愛やら忠誠心やらもなかなか微妙。

「わたしのモノ」という切り口で五蘊なりアナッタンを見ていくと平易な感じがします。少なくとも印哲の面倒な議論には巻き込まれないで幸せ。

五蘊ひとつひとつが「わたしのモノ」じゃないとすると、じゃあ「わたし」ってなんなのかいなと思いますよね。
そこから安易に模範解答らしきものに飛びつかない。
飛びつくと終わりのない印哲地獄に巻き込まれてしまいます^^;

[11029] Re:[11028]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/28(Fri) 09:18   [返信]

> > “ 取るに足らない真理も 重大な真理もない ”
> > ( 真理に 軽重はない )
> > “ 取るに足らない真理の逆は重大な真理だが、重大な真理の逆はまた真である ”

>   ニールス・ボアのことばが重大な真理なら、それを否定しても重大な真理ということになりそうですね。述べているとおりなら。

真理ではなければ
どうなりますか ?

よく考えて 思考をまとめてください

>   述べているとおり 
という “通り” は、 あなたが歩んでいると 思い込んでいる通り の “通り”  です

“ その通り ! ”  と 足下の通りを 顛倒する

>  こういう考え方に立つと、神の位置に自らの身を置くことになりそうです。

神の位置に いつも人は立つから
分からない  という 判断を 断定できてしまう

**********

そう思う そこに “神” が 自分の姿を借りて 存在する
( 神は 自分を神だとは思わないが、 仏 は 仏と知る → 「 唯仏与仏 乃能究尽 」 )

仏 は 姿を借りることはないが
人は 権現 と 知る

>  科学者がもつ思想的なものは、観察や実験などを基礎に置く分、逆に思惟を遊ばせる自由度に欠けるような気がします。観たものを信じてしまうのです。

>  観ている自分は疑えない、とか思ってしまうのだろうか。

Cogito ergo sum ( ego cogito, ergo sum )  『方法序説』

疑うから 自己が起きる

疑いがなければ、 仏に見舞っている

> 『スッタニパータ』877. (第十一経第16偈)
> これらを知って、聖者は、『依止にいたった』と知って、依止するところを省察します。知ったのち、(それから)解脱して、争論に行くことはありません。賢者は、様々な生存に至ることはないのです。」

> ブッダのこのことばを聞いて、はじめてほっとしました。「依止するところ」については、自らそれが真であることを証明できない、というゲーデルの証明があるのですが、世間では忘れられています。ブッダだけが目覚めています。

論理的に成り立たない 文章です
あなたが目覚め(てい)ない 限り  仏陀は 目覚めない
( 目覚めていようと あなたは 観心覚 に 起きず 伏せて 闇の中 )

http://www.geocities.jp/murasehirosi_home/kakumusho.pdf#search=%27%E8%A6%B3%E5%BF%83%E8%A6%9A%27

だから、 法蔵 は 歩むのです

> しかし、こういったことは、ボアには「取るに足りない真理」の方に入るかもしれないですね。

ボア ではなく
あなたにどう起きているかで、 ボア の 功徳は 起きようとしてある

> いろいろ読んでみて思いました。どうやら、どんなことも最後は何か残るとすれば、「信念」とでも名づけられるものに行きつくしかないようだ、って。

読みようによって
科学者の生きざまは 揀択される

そのように 揀択を起こすと
あなたに対する揀択は
あなたが正当だとする 論理構造 と 寸分違いなく
「正理」  となる

争うかどうかで 「淨論」 かどうか は 決められない

争いという概念は あなたに起きて あなたの周りに波及していく

> インド思想を読んだ後の読後感とは、大きくちがいます。
> 中でも、ブッダの法を読んだ時の読後感は全然違います。カスが一つもないです。

わたしには それ( カスが一つもない )が  “ カス” だと する
思いも起きてくる

> 「依止するところ」が一つもない思想(?)というのは、すばらしい。

そこに「依止」 すると
「依止するところ」 は 最初の一つとして 頭を持ち上げる


[11028] Re:[11027]   取るに足らない 問題   投稿者:管理人エム 投稿日:2018/09/28(Fri) 07:50   [返信]

> 物理学者 の ニールス・ボア の言葉が引いてある

ニールス・ボア。。なつかしい名前だ。
昔、科学哲学ものを読んでいたときに、よく出てきました。でも、みんな忘れてしまっています。
>
> 「 取るに足らない真理と重大な真理がある 」
> 「 取るに足らない真理の逆は真っ赤な嘘だが、重大な真理の逆はまた真である 」
>
> その言葉に対する、著者の(デイヴィッドの)注 は
> “ ふざけた質問  − ボーアの主張が重大な真理だとしたら、その逆は何だろうか ? ”

なるほど。そう来ますよね。
>
> “ 取るに足らない真理も 重大な真理もない ”
> ( 真理に 軽重はない )
> “ 取るに足らない真理の逆は重大な真理だが、重大な真理の逆はまた真である ”
>
> これは
> 正しいかどうかを問いたい
>
> あなたなら ( 管理人エム 様 なら )
> 逆を どう捉えるかな ?

ニールス・ボアのことばが重大な真理なら、それを否定しても重大な真理ということになりそうですね。述べているとおりなら。

こういう考え方に立つと、神の位置に自らの身を置くことになりそうです。

科学者がもつ思想的なものは、観察や実験などを基礎に置く分、逆に思惟を遊ばせる自由度に欠けるような気がします。観たものを信じてしまうのです。

観ている自分は疑えない、とか思ってしまうのだろうか。

『スッタニパータ』877. (第十一経第16偈)
これらを知って、聖者は、『依止にいたった』と知って、依止するところを省察します。知ったのち、(それから)解脱して、争論に行くことはありません。賢者は、様々な生存に至ることはないのです。」

ブッダのこのことばを聞いて、はじめてほっとしました。「依止するところ」については、自らそれが真であることを証明できない、というゲーデルの証明があるのですが、世間では忘れられています。ブッダだけが目覚めています。

しかし、こういったことは、ボアには「取るに足りない真理」の方に入るかもしれないですね。

いろいろ読んでみて思いました。どうやら、どんなことも最後は何か残るとすれば、「信念」とでも名づけられるものに行きつくしかないようだ、って。

読み終わって、しばし置いて、自分の中に何が残っただろうと振り返ると、たいていその科学者の「自我」みたいなものが残りカスのように残っている、というのが多かったです。

インド思想を読んだ後の読後感とは、大きくちがいます。
中でも、ブッダの法を読んだ時の読後感は全然違います。カスが一つもないです。

「依止するところ」が一つもない思想(?)というのは、すばらしい。

[11027]   取るに足らない 問題   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/27(Thu) 18:56   [返信]


 「直観を科学する―その見えざるメカニズム 」 デヴィッド・G. マイヤーズ 麗澤大学出版会
を  読み返している

物理学者 の ニールス・ボア の言葉が引いてある

「 取るに足らない真理と重大な真理がある 」
「 取るに足らない真理の逆は真っ赤な嘘だが、重大な真理の逆はまた真である 」

その言葉に対する、著者の(デイヴィッドの)注 は
“ ふざけた質問  − ボーアの主張が重大な真理だとしたら、その逆は何だろうか ? ”

“ 取るに足らない真理も 重大な真理もない ”
( 真理に 軽重はない )
“ 取るに足らない真理の逆は重大な真理だが、重大な真理の逆はまた真である ”

これは
正しいかどうかを問いたい

あなたなら ( 管理人エム 様 なら )
逆を どう捉えるかな ?


[11026]  ( ポルコ )愚 君 の 顛倒   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/27(Thu) 09:00   [返信]

> そう自分に言い聞かせながら、励ましている、今日このごろです
・・・なんとしても突破せねばなりません・・・

それは無理だ
( 正理 に 乗っていない )

すでに煩悩を認め
その存在を 自分というところに 確立している
確立したモノ = 自性

それをなくすこと 
それ自体 が
煩悩となっている

突破した先に 突破する者が 常に 常住する


[11025]  少し分かり易く  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/26(Wed) 23:35   [返信]
「  そういうこと。スリッパ脱ぐのも坐禅の姿や。
スリッパ揃えるのも当たり前てこちゃ。
スリッパがゆがんでおったらほってほけないんじゃ。スリッパがいがんでおるということは
自分がいがんでおるんや。自分がいがんでおるからいがんだやつが直せないんだ。
だから物をおいても、ちぐはぐに置くのと真っ直ぐ置くのと、
すべて心が現れておるんや。 心が現れておるんだから、
心が真っ直ぐであったらすべてのものを真っ直ぐにする必要がある。  」

「 直心是道場 」   維摩経( 浄名 )

すべてのモノが 道にある
心も 然り
曲がったモノは 何処にあるや

真直ぐな心に 曲がったモノがある

“ 自分がいがんでおるから スリッパがいがんでおる ”
スリッパがいがんでおるのか
自分がいがんであるのか

恁麼 (これいかに)

[11024]  宮崎奕保(禅師)   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/09/26(Wed) 23:27   [返信]

「  そういうこと。スリッパ脱ぐのも坐禅の姿や。スリッパ揃えるのも当たり前てこちゃ。
スリッパがゆがんでおったらほってほけないんじゃ。スリッパがいがんでおるということは
自分がいがんでおるんや。自分がいがんでおるからいがんだやつが直せないんだ。
だから物をおいても、ちぐはぐに置くのと真っ直ぐ置くのと、
すべて心が現れておるんや。 心が現れておるんだから、
心が真っ直ぐであったらすべてのものを真っ直ぐにする必要がある。  」

「 直心是道場 」   維摩経( 浄名 )

すべてのモノが 道にある
心も 然り
曲がったモノは 何処にあるや

真直ぐな心に 曲がったモノがある
恁麼 (これいかに)


[11019] Re:[11018] マルチレス 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/09/26(Wed) 04:55   [返信]
苺屋毒蛙さま おはようございます。

> > かの『ミリンダ・パンハ』にあるような、「歯、皮膚、骨、肉などなどなどなどによって、ナーガセーナと呼ばれる名称が起こる」というような解釈です。
> >
> > 因果としては、少しちがう印象をもたれるかもしれませんが、「法(ことば)」ということを考えると、こうなるのかな、と思います。
>
> なぜにミリンダパンハかと。

あ、やっぱり言われちゃったわ。
>
> 「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死など、もろもろに条件的に依存し、呼び名・標識・記号として成り立つもので、苦の実在などというものはない」
>
> 要素還元説もいい感じですね。使えそう^^

なるほど、とわたしが言ってどうするの。

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