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[10440] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:34   [返信]

[10439] Re:[10437]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:31

> > > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
> >   他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

観察する 主体 ではなく
触れられた 主体 が 観察するわけです
( あなたの場合には ) 
観察する主体 も 触れられた主体も  主体の所属  で   “ 同一 ”  主体となります
( そう わたしは 観察します )

> >  触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます
>    そうなんですか??
>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。


エルンスト・マッハ  は 西洋的な 論理を 排除できる面を持っています

触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
触れる主体が 明確になります

> 自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

触れる  と 触れられる   と( の間 )で
自他は区別  されます

( 特殊な場合 = わたしの感覚 を 除いて )
自らが 自らを 触れる時は 自他 というふうに 区別は しないものです
( わたしは そのとき 感覚においても すでに 自己を 懐失 して いるのです 、、、、 )

あなたは 触れる と 触れられる  とを
 同一個体= 自分 に (独立の触感として それぞれを区別しつつ)共有できますか ?


あなたが出来ても  “  わたし には 出来ない  ”


わたしに出来ないことが  あなたに出来るということは  不思議にあり  思議できません
( これは 聖者の 苦楽 とは “趣” を変えます )



[10439] Re:[10437]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:31   [返信]

> > > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
> >   他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

観察する 主体 ではなく
触れられた 主体 が 観察するわけです
( あなたの場合には ) 
観察する主体 も 触れられた主体も  主体の所属  で   “ 同一 ”  主体となります
( そう わたしは 観察します )

> >  触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます
>    そうなんですか??
>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。


エルンスト・マッハ  は 西洋的な 論理を 排除できる面を持っています

触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
触れる主体が 明確になります

> 自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

触れる  と 触れられる   と( の間 )で
自他は区別  されます

( 特殊な場合 = わたしの感覚 を 除いて )
自らが 自らを 触れる時は 自他 というふうに 区別は しないものです
( わたしは そのとき 感覚においても すでに 自己を 懐失 して いるのです 、、、、 )

あなたは 触れる と 触れられる  とを
 同一個体= 自分 に (独立の触感として それぞれを区別しつつ)共有できますか ?


あなたが出来ても  “  わたし には 出来ない  ”


わたしに出来ないことが  あなたに出来るということは  不思議にあり  思議できません
( これは 聖者の 苦楽 とは “趣” を変えます )



[10438] 縁なき衆生 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/10/11(Wed) 19:31   [返信]
もはや、マニカナHPと掲示板の内容から落ちこぼれて久しいです。
阿修羅之間の議論も用語すらわからないっす。縁なき衆生ですね。縁なき蛙か。

空の人たちと梵我一如の人たちのマウンティング合戦のようですが、
まったくわからない。

空が好きな人は空が好きでいいし、梵我一如が好きな人は他人に迷惑をかけなければ
それで幸せならいいのではないですかね。

空にも梵我一如にも興味がわかないです。
二諦とかなんだかなぁと。

愛の反対は憎しみではなくて無視らしいですが、ほんとその手の世界観に興味がない。

[10437] Re:[10436]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/11(Wed) 19:25   [返信]
>
> > >     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
> > >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> > > としています
> > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
>
> 触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます

そうなんですか??
『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。

自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

[10436]  Re:[10435]   自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/10(Tue) 08:29   [返信]

> >     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
> >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> > としています
> 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?

触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます

> 自らの体に触れると、「触れられた」という感覚はありますが、他の体だと、「触れられた」という感覚はないですね。
> >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

触れられたという 感覚を、
 触れるという   感覚と  同じ個体(自分)に 感じられるということです

(ちなみに わたしの場合は、 右左 の 手の 甲と掌 との間に
  温度差があるとき それらを左右を 上下に重ねても、両方の感覚を共有することはできません)

> 「触れた」という感覚は、どちらにもあります。

それは “自ら” という主体が
他 にも ( 他が対面する 他と 同様に )起きているということです

> やがて接点だけを意識すれば。。どうなるのかな?

わたしの場合は 接点しかありません

> 触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

よく観察 してみて ごらんなさい

わたしだけに特有なことではないと分かります
( たとえ 分かりたくなくて、分からなくても、
   あなたにとっての     他であるわたしの接点は あなたの他 に 存在する )

わたしの言葉から わたしの接点が 触発されます
あなたは それを 自分というものを置いて 他と峻別し
自他の 間に(間という接点ではなく、自己という確立させたこの意識に) 
それぞれの 意識の違いを置きます( 置くところは あくまでも 自己意識の内です )

自己の意識を 他に及ぼし 他を自己に取り込む
(  自が 他に 取り込まれると 庭の石  と なります  )

リョウアンジ  は  リュウアンジ  とは  読みません
立案      と   量案       とに  考察できます
思量 を 暗示しています
立つところ(存在の住処) を 公案します( 妙心寺派 です )

織田家は 曹洞宗(万松寺) ですが 信長を諌めた 正秀(正秀寺) は 臨済宗で
ともに 大須 に “立・リュウ”寺 しています
妙心寺派の(元)管長 河野太通 が  説法に来続けています
新管長は  徳源寺師家 で  岐阜大学出身 でした

はなしが それているとするなら  それていないところを 見失っています
( どうそれていないかを 説明しているのですが
         それているところを 述べていると
   自らの手の感触を 掌・甲 を一つにし 共に自らにあるとする )

この(先のあなたの記述した)疑問符 ?  は 
誰に向けられているかを 特定できますか ( 特定してはいませんか ? )

>  触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

これでは 生滅 を 説くことにはなりません
触 が 生じないのに   受 が 生じている
触 が 滅しているのに  受 は 生じている

自己の内には 蝕は ありません
( “当然” の こと として  ある とし  存在を 究竟することがない
    そこにおける “当然” の 帰結   そして 起きている 自己の存在は 確定している )

経を読んでも 経を知らず ( ここにおいて わたしという個 は 経を読めていなくて 聞いてもいない ということが “当然” の 帰結として 量(リュウ) 解  される )


[10435] Re:[10434] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/10(Tue) 03:26   [返信]
> 自らの為に 書いた  と  はっきり理解します
>
> わたし  と あなた  との  差異を 規定してください
>
> エルンスト・マッハ は 
>     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> としています

自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
自らの体に触れると、「触れられた」という感覚はありますが、他の体だと、「触れられた」という感覚はないですね。

「触れた」という感覚は、どちらにもあります。

やがて接点だけを意識すれば。。どうなるのかな?
触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

[10434] Re:[10433] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/10(Tue) 00:06   [返信]


> >   “ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ”  
>      他者のために『中論』が書かれていることが、はっきりしてきましたね。

誰のために書かれたか を
はっきりさせるために
>   はっきりしてきましたね。
と 確認していますか ?

わたし (というものが存在するという仮定で) は
誰かの為に書かれたとは しません

自らの為に 書いた  と  はっきり理解します

わたし  と あなた  との  差異を 規定してください

エルンスト・マッハ は 
    自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
    他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
としています

感覚 は 熟達すれば 想念にも 適用可能です 、、、、

・ 

[10433] Re:[10431] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/07(Sat) 10:35   [返信]
> > >論争の中で反駁を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。
> > >論証の中で非難を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものも非難できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。
>
> その事が成り立つなら、
> それに反する ことも  
> “ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ” によって 成り立つ ( 縁起に類する )
> それは「 空性 」 を 持ち出すことになります


「空性」ということについては、この文章に集約されていますね。


> そういう仕組みを知って、 空性に関わる 成立すべきものに等しいものを “生じ” させているとき
> 生滅(無常) の 縁起   は そこにおいては 成り立たない
>
> 反駁 と 非難   は  “  (その語を使う人の)訳  ” における
>  用語 であって
> その用語    は  「名称」 であることを 知って
>  思考の上に 乗せることが
>  “ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ”  を 知ることになります


そうなんですよね。
「反駁」と「非難」は、チャラカの「論議道」から採った言葉です。ここに対機して語っていることが分かります。

>  “ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ”  

他者のために『中論』が書かれていることが、はっきりしてきましたね。

[10432] Re:[10430] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/07(Sat) 10:26   [返信]

> 『十二門論』は、全く読んだことがないのですが、UPされた、論文をみて思ったこと。
>
> 方便心論、ヴァイダルヤの頃は、【過時語】などといって、いきがっていたのに、
> いまは、
>
> >論争の中で反駁を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。
> >論証の中で非難を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものも非難できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。
>
> こんなことをいえるようになったんだね。
> 成長したね、おかあさん(?)うれしいよ。
>
> などという観想を持ってしまいましたw

ありがとうございますww
二つにしてみましたwウフッ

じつは、「こんなこと」は、『ブッダと龍樹の論理学』のころから言ってるのよ、おかあさんはね。

何でしょうね。。やはり、【過時語】などのように、時をかけて、こういうものを過ぎていかないと語れないものがある、ということかと。

『ブッダと龍樹の論理学』を書いたとき、(時代の趨勢より)ちょっと先取りしたかなと思いました。たぶん、龍樹の論調の「ここ」(=空性)までは追いついていかないだろう、という感覚があったのですが、今や『十二門論』にいたって、だいぶ浸透してくるだろうという感触があります。

無宗ださまに、

> 成長したね、おかあさん(?)うれしいよ。

こう言われているくらいですもん、やったぜ!イェィ〜 v(^^)!

[10431] Re:[10430] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/06(Fri) 11:11   [返信]

独白調  に関わります

論争 しようとするのではなく
断定しようとするとき、
独白   と 言い替えること も でき
御宣託  と  宮本氏 は  センタク します

> >論争の中で反駁を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。
> >論証の中で非難を行うとき、空性をもちだして語る人は、何ものも非難できていないのであって、ただ成立すべきものに等しいものが生じているだけである。

その事が成り立つなら、
それに反する ことも  
“ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ” によって 成り立つ ( 縁起に類する )
それは「 空性 」 を 持ち出すことになります

そういう仕組みを知って、 空性に関わる 成立すべきものに等しいものを “生じ” させているとき
生滅(無常) の 縁起   は そこにおいては 成り立たない

反駁 と 非難   は  “  (その語を使う人の)訳  ” における
 用語 であって
その用語    は  「名称」 であることを 知って
 思考の上に 乗せることが
 “ 同じ根拠 の 成立を構成する構造 ”  を 知ることになります

「 中論 」 とあるから 論じている  と 短絡するのは 自己 過信です
アナタ(?) に 論じているのではなく
(受ける)菩薩に 論を起こす (龍樹)菩薩の 所行です

アナタ ( 貴方・彼方 )に 菩薩があれば コナタ(龍樹) に 菩薩が 存立して
ナタ でもってして 煩悩を 断ち切る


菩薩が 仮に いないとするなら  どこにも論は 存在しないが
論争を起こすことは どこにおいてもできる ことです

( 形而上 の 組み立てですから 分かりにくい文章 となりますが
     しっかり と 読み取れば “ 御宣託 ” では なくなります  )


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