Magical Board


[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
おなまえ
Eメール
タイトル
メッセージ
参照先
削除キー (英数字で8文字以内)   クッキー保存
画像認証 (右画像の数字を入力) 投稿キー
Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |

[10316]  ナンボ ノ ホン  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/07/06(Thu) 02:20   [返信]

>  南条文雄 を 引いています

>>    「これである」「このようである」「このようなものである」「このような相である」「このような自性である」の5つが説かれています。

>  「何であるか」  「いかにあるか」 「何のごとくであるか」 「いかなる特徴を持つか」
>  「いかなる本質を持つか」  と 五つあるのは承知です

原本がなければ

国立国会図書館デジタルライブラリー
新訳法華経 : 梵漢対照 四〇  で 読むことができます
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943446/164

諸法において唯如来のみ現在の守護者なり  四一

「 唯仏与仏 乃能究尽 乃能究尽」

>  あなたの訳が絶対であれば わたしの挙げる 五つは 存在しない


[10315] Re:[10314]   言いつくした気持ちで 気持ちがよい   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/07/06(Thu) 01:49   [返信]

> > 仏陀 と キリスト  とは  矛盾しません
> > 何か不都合が起きますか ?

> > 「わたしは真理である」 と 言った人がいます
> >    ヨハネの福音書14―6
> > 「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

> イエスがブッダと言われましたが、イエスは、「神」、「神の子」とも呼ばれますか?

誰がどう呼ぼうと
真理にあるモノは ブッダ です


> わたしが道であり、真理であるなら、わたしを通して行くところの「父」って、それは何?

自らの言葉で 、 自らの言葉を用いる人に語る
ということです

> > 法華経 方便品 に 「 如是 」 として 十 挙げられます( 鳩摩羅什訳 )
> > 梵品 には 諸法を知る  とあり 諸法が 如何なるかは 述べられていません

> 述べられています。普通に読むと、10ではなく、5つです。

そんなことは知りません  と言うと思いますか ?
南条文雄 を 引いています

添品妙法蓮華経 にも 示されているがごとく 記述されています

> 「これである」「このようである」「このようなものである」「このような相である」「このような自性である」の5つが説かれています。

「何であるか」  「いかにあるか」 「何のごとくであるか」 「いかなる特徴を持つか」
「いかなる本質を持つか」  と 五つあるのは承知です
あなたの訳が絶対であれば わたしの挙げる 五つは 存在しない

> 植木さんは、「それらものごと(諸法)は、何であるのか、また、それらものごとはどのようにあるのか、…」という疑問文のように書いていますが、実際には、関係詞節なので諸法を、「このような(如是…)…」という言い方に直して表せます。植木雅俊訳『法華経』(上
)p.79

読んで 理解しています

> > 「如是」 と 示されても、
> >  示されている という 気分で は 如是に触れていません
> 如是に触れています。

どう触れているかを 如是 と 示せますか ?


> また、法華経の鳩摩羅什訳の、この個所は、『大智度論』の一節と関係するのではないかという話もありますね。

大智度論 は 法華経に則っています
則っていなければ 「経王」 という 呼称は 起きません

聖徳太子に始まり 興福寺で玄ボウに説かれ
空海も 梵本 を 知りつつ 鳩摩羅什 訳を用います

如是  って 動 如是 ?


[10314] Re:[10304]   言いつくした気持ちで 気持ちがよい   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/07/06(Thu) 00:12   [返信]
> キリスト教 (?)  は 一つの宗派 で 仏教です
> 仏教は一つです
> イエス(キリスト)が 真理を 知るから(知れば) 仏陀です

 イエスがブッダ。

> 仏陀 と キリスト  とは  矛盾しません
> 本当にあるモノを 「神」 と呼び 、 「神の子」  とも 呼びます
> 神 を 真理 と呼び換え
> 真理 を “真理と共に それを知りつつある者” 
>   と 呼びかえると
> 何か不都合が起きますか ?
>
> 「わたしは真理である」 と 言った人がいます
>
>    ヨハネの福音書14―6
> 「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

イエスがブッダと言われましたが、イエスは、「神」、「神の子」とも呼ばれますか?
わたしが道であり、真理であるなら、わたしを通して行くところの「父」って、それは何?


> 法華経 方便品 に 「 如是 」 として 十 挙げられます( 鳩摩羅什訳 )
> 梵品 には 諸法を知る  とあり 諸法が 如何なるかは 述べられていません

述べられています。普通に読むと、10ではなく、5つです。
「これである」「このようである」「このようなものである」「このような相である」「このような自性である」の5つが説かれています。

植木さんは、「それらものごと(諸法)は、何であるのか、また、それらものごとはどのようにあるのか、…」という疑問文のように書いていますが、実際には、関係詞節なので諸法を、「このような(如是…)…」という言い方に直して表せます。植木雅俊訳『法華経』(上)p.79

> 「如是」 と 示されても、
>  示されている という 気分で は 如是に触れていません

如是に触れています。
ただ、後半の如是因、如是縁などは見あたりません。
また、法華経の鳩摩羅什訳の、この個所は、『大智度論』の一節と関係するのではないかという話もありますね。

[10313] Re:[10312] さざ波 投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 19:59   [返信]
> その人は日蓮宗の人だったので、「宗派が違うとそれは難しいでしょう?」と聞くと、
> 「難しいって? 僕の友達はレベルが違うから。それに、そんなことを言うと彼は怒るでしょうね」って不愉快そうに彼は答えた。

東大の印哲ってそんなところか?

[10312] Re:[10310] さざ波 投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 19:48   [返信]
> 「そして恵果阿闍梨は「わたしは今度、日本に生まれて、貴方のお弟子になるだろう」って言ったのです」

「だけど、「空海ただ一人の弟子もおらず」って言って、誰にも第九祖を認めなかったので、真言宗は八祖で止まったままなのです」

ここまで話をして、彼は、
第九祖は、真理と繋がっているその親友の僧侶だ、みたいなことを言った。

その人は日蓮宗の人だったので、「宗派が違うとそれは難しいでしょう?」と聞くと、
「難しいって? 僕の友達はレベルが違うから。それに、そんなことを言うと彼は怒るでしょうね」って不愉快そうに彼は答えた。

[10310] Re:[10308] さざ波 投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 16:58   [返信]
> 「そこへいくと、真言宗にはインドからの教えが直接伝わっていますからね!」
>
> 紅潮した彼の顔。

「「遅かったではないか?」と、恵果阿闍梨は空海に言って、
まるで甕の水が一滴残らず次の甕に移されるように教えが伝授されたのです」

「そして恵果阿闍梨は「わたしは今度、日本に生まれて、貴方のお弟子になるだろう」って言ったのです」

[10308] さざ波 投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 13:19   [返信]
さて、彼はこう言った。

「浄土教なんて中国で作られた偽物だ!!!」

しかし、ある日、ある家に立ち姿の阿弥陀様が置いてあった時、

「立派な阿弥陀様でございますね」と言って、彼は
綺麗に合掌し、眼を閉じた。

〇 〇

「そこへいくと、真言宗にはインドからの教えが直接伝わっていますからね!」

紅潮した彼の顔。

[10307] Re:[10306]   言いつくした気持ちで 気持ちがよい   投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 11:31   [返信]
> 「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

「何が一番重要だとしたら、僕や僕の友達みたいに真理とつながっている人と切れないことですね」

[10306] Re:[10304]   言いつくした気持ちで 気持ちがよい   投稿者:みどり 投稿日:2017/07/05(Wed) 10:40   [返信]
> 「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

「そんな○○先生なんかは30代で若くして教授になって、人生を大成功させて、今は何もやることは無いのでしょう。」
「そんな先生は僕みたいな人間に会わないといけないのですよ」

「「あなたに真理の世界からの使いが来ましたよ!」っていう感じで(笑)」

[10304]   言いつくした気持ちで 気持ちがよい   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/07/05(Wed) 08:37   [返信]

浄土真宗は 一つの宗派で 仏教 です
キリスト教 (?)  は 一つの宗派 で 仏教です
仏教は一つです

一つとは 知った者が知るところの 真理 です
イエス(キリスト)が 真理を 知るから(知れば) 仏陀です

仏陀 と キリスト  とは  矛盾しません
( 矛盾があるというなら 神の国に 行って 見て 聞き耳を立ててごらんなさい )

あらためて お聞きします
仏教  とは どういうもので どのようにして 仏教としてありますか ?
イエス の 説く  「 神の国 」 を あなたは知っていますか ?

(本当に)知っているなら その知るところと 違う 表現を 違うと言えます

本当にあるモノを 「神」 と呼び 、 「神の子」  とも 呼びます
「人の子には枕するところがない」 とは どういう意味ですか ?

神 を 真理 と呼び換え
真理 を “真理と共に それを知りつつある者” 
  と 呼びかえると
何か不都合が起きますか ?

「わたしは真理である」 と 言った人がいます

   ヨハネの福音書14―6
「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

真理は 道として示され 歩むことによって 足下にあり(脚下照顧) 
歩む者を見ることに  道と 歩む者が あって 真理を見る

そのどちらを看ようと 一つでも見れば 歩む者を見る
 ( 歩んでいなければ 見るべき道はない )

言葉は いくつもの表現を持ちますが
いくつもの表現にあろうと 示すものは一つです
( 唯一のモノは “気分” を 排除する )

法華経 方便品 に 「 如是 」 として 十 挙げられます( 鳩摩羅什訳 )
梵品 には 諸法を知る  とあり 諸法が 如何なるかは 述べられていません
「如是」 と 示されても、
 示されている という 気分で は 如是に触れていません

触れていなくても 、 触れている気分になくても
「 仏法の 大海 」 で 漂っています

示していなくても 示した気分になれなくても
示した 気持ち に あろう と
居るところは変わりませんが
いるという気持ちは  変わります

気持ちは 変わる ( 気持ちは 「空」 である )
真理は変わらない (表現が変わろうと 変わることはない)  ( 真理は 「如実」 である )

気持ち  と 表わして 真理をあらわしていると 「如是」 ならば
なにも 問題とするところはありません


Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
記事No 削除キー

- LightBoard -