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[10771] Re:[10770]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/03(Tue) 09:13   [返信]


> だいたい話は最後まで来なければ、結論は出せないので。

起承転結  という言葉があります

生を受け(要請)て 死が起き(横たわり)ます

起きたところが
受けたところで
うけていることが 結びついて 今となります

出す・出さない は 機に応じ 商量されて 決められます
出さなければ 出せない
出せないのには 出さない理由が 商量されるのみ

> そこは待たなくてはならないと思います。

同じ仕組みで しなければならないことが ケツジョウ されます

思うことが 全て 無明に発すると知るのなら
シャク でも 釈(商量) を 捨てなければなりません

頭のよい者は 仏(仏説) でも 自分の思いで使いこなして利用する
「 念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、
   また地獄におつべき業にてやはんべるらん。 総じてもつて存知せざるなり 」
( 歎異抄 二段  )

存知しているから 使える
使えるから 使うのを待つ

いつまで待っても  今
今いるところから 移ろうことがないから  無常なのです


[10770] Re:[10769]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/03(Tue) 07:17   [返信]

> 知って使っているか
> 知らずに使っているかを
> 知らずに論評する

だいたい話は最後まで来なければ、結論は出せないので。

そこは待たなくてはならないと思います。

[10769] Re:[10768]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/02(Mon) 10:29   [返信]

> たしかに「龍(ナーガ)」だと思っています。

ディグナーガ という 名称を 得ているからには
ナーガ の 根拠もそこにあります
得たモノが “ある” のなら モノは 「自性」 を もっています
たとえ持っていても(そこにモッテイルときに、持っているという自覚があろうと)
自性と言うモノは 存在しません

龍は 龍であることを用いず
「 迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく 」   現成公案

> 行き詰まっているという見方をとるのは、「識」を認めて、それを中心に語っているのに、その構造に加えて、「わたし」という主体を導入してしまうように見えるからです。

自らにあるものしか見えない
だから 仏は 自証 できる →  「 自性 」

>  仮のものだということを知って使うなら問題はないと思いますが、

知って使っているか
知らずに使っているかを
知らずに論評する

>  五蘊の構造と、認識の主体・客体の構造とがかぶってしまうと、わけが分からなくなるように思います。危険な感じがするので、行き詰まっていると見るのです。

> > 行き詰ってはいませんが
> > 行き詰っているという 見方は
> > そこで行き詰ります

> 似たような感じでは、

それは あなたに起きている 事柄で 「 縁起 」 の理によって 知られることです

> アジタの問いで、スマ長老さまが、「世界」について聞かれているのに、「わたし」ということで説明しています。こういうところにも通ずるような、構造上の混乱に向かうのでは、という危惧があります。(わかって説明するならそれはそれでよいのですが)

スマナサーラ は 自性の “塊” です ( こびりついた 虚仮・コゲ です )
言っていることが 自性に基づかなければ
意味をなさない事を言う

>  ディグナーガは、「龍」なので、世間を行くものであり、執着をもたないところでは、唯識を知るものです。

どう 何を いかように知るかは
知る者が 知ることです
中途半端でも
知ることは成り立つから  あなたに ヤヤコシサ が 起きる

>  その辺を、どのようなバランスで解釈していくのか、もう少し知りたいなと思っています。

知ってしまったなら 知ることは(いまだ)起きていない
知っていないなら
なにを知るのか  ということが 起きてはいない
( そうであっても ハナハキケンニオフル  知ることが起きてくる 、、、、 )

いまだ
 イマダ 知らぬことが起きるのは 、、、、


[10768] Re:[10767]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/02(Mon) 09:40   [返信]

> ディグナーガについて知りたいのではなく
> ディグナーガ を どう読んでいるか について 知りたいのです

たしかに「龍(ナーガ)」だと思っています。
>
> 行き詰ってはいませんが
> 行き詰っているという 見方は
> そこで行き詰ります

行き詰まっているという見方をとるのは、「識」を認めて、それを中心に語っているのに、その構造に加えて、「わたし」という主体を導入してしまうように見えるからです。

仮のものだということを知って使うなら問題はないと思いますが、五蘊の構造と、認識の主体・客体の構造とがかぶってしまうと、わけが分からなくなるように思います。危険な感じがするので、行き詰まっていると見るのです。

似たような感じでは、

アジタの問いで、スマ長老さまが、「世界」について聞かれているのに、「わたし」ということで説明しています。こういうところにも通ずるような、構造上の混乱に向かうのでは、という危惧があります。(わかって説明するならそれはそれでよいのですが)

ディグナーガは、「龍」なので、世間を行くものであり、執着をもたないところでは、唯識を知るものです。その辺を、どのようなバランスで解釈していくのか、もう少し知りたいなと思っています。

[10767] Re:[10766]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/07/01(Sun) 13:52   [返信]

> > > ディグナーガで、最近重要だと思っているのは、
> > > 認識根拠を二種認めていること。

> > 認識根拠を二種認めるには
> > 認める根拠が 必要です

> ディグナーガについて知りたいのではないのですか。

ディグナーガについて知りたいのではなく
ディグナーガ を どう読んでいるか について 知りたいのです

> 認める根拠は、無明ということになるのではないでしょうか。

無明は 根拠になりません
なると思うの が  無明です

> 「認める根拠を必要とする」という考えは、あまりうまくないように思います。
> > 自我を見つめる 「 洲 = わたし 」 です
>    こうなりますよね。いつも行き詰まるのでは?

行き詰ってはいませんが
行き詰っているという 見方は
そこで行き詰ります

( 自ら = “わたし” が )
 洲にある  ということは
 洲にない者  には 説明できても 受け入れられません

洲になければ “わたし”が見る とか “わたし”が知る
ということは成り立ちません

> > 仮に 龍樹論理学 というようなものがあろうと
> 龍樹論理学というものがあるとするなら、
> > 自我を見つめる 「 洲 = わたし 」 です

> という、これを打ち砕いてくれるものです。

これに異論は唱えません
龍樹論理学があるとする者には
あるとすることがあり
それに 因り
打ち砕く モノ ( 洲 であり 念仏 ) が
我以外 に成り立つからです

( 我以外 は 他 ではなく  我そのものです )


[10766] Re:[10765]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/07/01(Sun) 10:49   [返信]
>
> > ディグナーガで、最近重要だと思っているのは、
> > 認識根拠を二種認めていること。
>
> 認識根拠を二種認めるには
> 認める根拠が 必要です

ディグナーガについて知りたいのではないのですか。
認める根拠は、無明ということになるのではないでしょうか。

「認める根拠を必要とする」という考えは、あまりうまくないように思います。

> 自我を見つめる 「 洲 = わたし 」 です

こうなりますよね。いつも行き詰まるのでは?

> 仮に 龍樹論理学 というようなものがあろうと

龍樹論理学というものがあるとするなら、

> 自我を見つめる 「 洲 = わたし 」 です

という、これを打ち砕いてくれるものです。

[10765] Re:[10763]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/06/30(Sat) 08:02   [返信]

> ディグナーガで、最近重要だと思っているのは、
> 認識根拠を二種認めていること。

認識根拠を二種認めるには
認める根拠が 必要です
自我を見つめる 「 洲 = わたし 」 です

根拠が 二つあるなら
幾つあっても 二つになる
( 幾つとは 一つも含む )
そこから 牟尼 は 「 縁起 」 に 触れていく
(  「 縁起 」 に 触れる者を 牟尼 と呼ぶ )

“ 「現量」  などと言うモノは 存在していません ”
存在するまで 存在がない

ないところから   存在 が 生まれる のは
生死 の 理    と     同じです

「無」 から 「有」 は 生まれない

根拠が一つだから 一つに集約でき
一つが 「 平等 」 を 顕わします

「平等」 には 「 不平等 」 が 起きている

> ですが、ディグナーガ自身にせまって研究をしたことがないので、全部仮の考え方として、自分では見ています。

いくら研究を進めても
究尽 は 究尽にしかない
“ 「現量」  などと言うモノは 存在していません ”

「道」 は 続くから 道 となる
道は 歩まれることによって 道となる
歩む人が 一人なら 「 道 」 ではなく
続く者が 歩みを重ねるから 「 道 」 と なる

その道に たまたま 歩みこんで その道にある 古城を見る
歩みこむところに
全ての道は繋がっている 、、、、、

全て “仮” ですから 「無明」 であり 「無常」 です

> 『因明正理門論』も、『集量論』も、私自身の読みというのはまだありません。
> 最近、もう一度しっかりディグナーガも読んでみたいと思っています。おそらく全然違う読み方になりそうな気がします。

論集部 の 方便信論 の “横” に 唯識がある


> 因明という論理学を打ち立てているというところが、龍樹の論理学の一側面を発展させていることは確かなことです。

確かなこと  は
確かめて  確か と される
確かめられている と
確かめないの    は  不確か の 証

仮に 龍樹論理学 というようなものがあろうと
わたし(  春間 則廣  ) に  ソレ  が なければ    
     ( あるかないか は あなたの決定事項 )
あるということは 不確かなことでしかない

オイ ソレ  とは 言えない 、、、、


[10764] Re:[10761] ゲルマン魂 投稿者:管理人エム 投稿日:2018/06/30(Sat) 07:10   [返信]
> 苦(ドゥッカ)なりとワールド(カップ)を観ぜよ
> 無常(アニッチャー)なりとワールド(カップ)を観ぜよ
> 空(スンニャー)なりとワールド(カップ)を観ぜよ


日本。自力か、他力か。。。

ここで「他力」という言葉が出るのかぁ〜〜、って、西野監督の言葉を聞いて思いました。
外国の記者向けには、なんて訳すんだろう。

日本人の中には、1500年間培ってきた仏教的な何かが染みこんでいるようにもみえます。
何とも言えないところを突いてきたなあ。

[10763] Re:[10762]    唯識     投稿者:管理人エム 投稿日:2018/06/30(Sat) 05:49   [返信]
>
> ディグナーガ(陳那) の 何を どう 読んだか
> 知らせてほしい

ディグナーガで、最近重要だと思っているのは、
認識根拠を二種認めていること。

直接知覚と推論です。信頼すべき人の言葉など、これも認識根拠にする場合もありますが、ディグナーガは認めていないところに、大乗の立場を見ています。つまり、自分の認識にすべてをかけているというところに、法随法の見方を入れていると知るのです。

後、「他者の排除(アンヤ・アポーハ)」の理論です。
他者の排除というかたちでしか、そのものを知ることはできない、という理論に、空を観ています。

> 集量論(PramaaNasamuccaya) は 読んではいないが
> 因明正理門論 は 何度も読んでいる

わたしは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派の書の中にあるディグナーガ批判を注目してきたので、ディグナーガに対する見方も偏っていると思います。
そういう立場で見ると、ディグナーガは、非常に概念的な論理学をもっているようにとらえられます。批判者のウッディヨータカラが、現象主義的な理論を構成するのに対して、ディグナーガは概念的・観念的な論理学の構造によって、世俗の言語世界を理解しようとしているようにみえることはみえます。

ですが、ディグナーガ自身にせまって研究をしたことがないので、全部仮の考え方として、自分では見ています。
『因明正理門論』も、『集量論』も、私自身の読みというのはまだありません。
最近、もう一度しっかりディグナーガも読んでみたいと思っています。おそらく全然違う読み方になりそうな気がします。

なので、これからディグナーガを読む場合の、自分のポイントとしているのは、唯識という立場を考慮して論法を見ていくことと、また、たしかに龍樹論法からも来ていると思うので、その点の影響関係を探るように見ていくことです。

因明という論理学を打ち立てているというところが、龍樹の論理学の一側面を発展させていることは確かなことです。

[10762]    唯識     投稿者:  春間 則廣   投稿日:2018/06/29(Fri) 07:08   [返信]

ディグナーガ(陳那) の 何を どう 読んだか
知らせてほしい

重要さは 否定しない
それは 玄奘 にも言える


集量論(PramaaNasamuccaya) は 読んではいないが
因明正理門論 は 何度も読んでいる

不完全を基にするから 不完全に行き着く(  舞い 戻る )
世俗義 で 真理 は 表わされ
なおかつ
表わされることでしか 真理は 得られない

表し方の 世俗での 表意 を 知るには
表わされることを 知っている前提がある

三原色も 一つの光にある
だからと言って 原色 を 否定することにはならない


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