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[9967] Re: [9966] 縁起と空 没  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/17(Thu) 08:37   [返信]

> >   書けました!oさまが、「縁起も空も難しい。何度も何度も、師匠に聞いて、ようやく分かるもの」っておっしゃていたのが思い出されます。ほんとそうだなぁって…。

分かって から(いて)  分かるということについて 述べなければ
分からないこと(分かってもいないこと)を 言っていることになり
分かったものは それを  どう  “ 分かるとする ” こと  とする ?
( 分かった者が 分かったこと を   分からないものは 分からない )

>  oさまのことばに、そのような内容があったのですね。思い出せるような思い出せないような。しかし、まったくそのとおりでもありますね。

あなたの その通りの  表現方法は
前に 道場に訪れていた    “  ”  の “ その通りです”  と 同じ構造です
“ そうです そうです その通り ”

>  今、『中論』を又最初から読んでいるところです。わたしの師匠だわ。何度も何度も読めて、その都度、大きく印象が違います。

縁起も 空も その(理の)何処にも 難しいことはない
なぜに 難しい こととなる  のか 、、、、
    難しい ことを考えて 難しいことをする
    行動が生む ( Su.762 )

大きく印象が違う のが 同じことを見ることです
違うから 同じことがいつも 一つで あり(真理として)続く

読み取るモノが違うのではなく
読み取る“ところ”が違うのです

あなたが “とどまっていれば” ヨミ は 一つです
字訓で 「よむ」 を ヨミ なさい
( よむ は 神霊に届く ヨミ は ヤミ にある 夜・世 は  ウツ ツ る  )

「 忙しくて いちいち そうはやってられない 」 と 全て大事なことに 順序をつける

全て大事と知れば 順序はないから どれから手につけるは 順にはない
すべてのことが “一つ=真理” に 繋がっていると知っている者は
そのつながりを 手繰りつつ 事に当たる
“ いちいち ” という 言葉は “ そこ( の “ところ” )においては ”
  見当たらない
位置(イチ=真理) が 二つあれば 分別が起きている 、、、、
顛倒 の 位(クライ=ヤミ) に 住む

楽であることを苦とするから 大きなことを小さく扱うのです

“忙しい” という 言葉には こういう  “正面”  が あります

>   「応援」ということばを、わたしが、ちょっと取り間違っている可能性がありますね

あなたは 取り間違えていないけれど
取り違えて使われている
(  わたし と あなた は 縁起にある  )

「縁起」 を  言葉で知っている ウチ( 縁起に“内外”がある内 ) は
あなた の こと が あなたにある
外に出ると やはり わたしのことはわたしにある
内外が 内(無い) と 知ると  内 に 居ても 自他不二 と 知る

ま 言葉で知っているだけでも “世間(虚仮)においては”
上下が起きて 上 出来です

>   平等に見る心があれば、「応援」でもいいかもしれません。必要なのは、平等な見方なのかもしれないです。

なのかもしれない し でもないかもしれない
どっちか 知れないことではなく
知れないこととするから 知ることがない
知ることであるとするときには  知ることは すでにある

ない かもしれない  ですか ?

>   立派な衣を着ててもダメです。ブッダは糞掃衣でした。

立派 を 立てるから   糞掃衣 が 起きる
糞掃衣 に“拘る”から  立派  が 起きる

暑ければ 衣を  軽く  するように
寒いところ、あって役立つところ では 重衣 に する

ジャイナ(ジナ)の 聖者 と 呼ばれるものは マスクだけで過ごす
レイ も ある


>   ではでは、わたしも、ぽち。

わたしは ぼつ


[9966] Re:[9958] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/17(Thu) 06:58   [返信]
PLさま おはようございます。

> > oさまのことばに、そのような内容があったのですね。思い出せるような思い出せないような。しかし、まったくそのとおりでもありますね。
>
> あ、先生のサイトではなく、また別のところでおっしゃっていたので、先生は知らない…はずです。

あら、そうだったのですか。道理で、記憶にのぼらないと思いました。あぶない、あぶない。

> > 今、『中論』を又最初から読んでいるところです。わたしの師匠だわ。何度も何度も読めて、その都度、大きく印象が違います。
>
> おお、そうですか。そうなってるときは、まだまだ、研究や修行が進んでいきそうですね(^。^)

もう何でも参考になりますね。今は、道元さんも師匠です。
こういう風に読むのかぁ、っていう、驚きの連続ですね。もう信じられません。
それに比べると、龍樹は、少しなれてきた感じもします。龍樹パターンってのも、ないようであるなあと。
>
> > > そうだ、僕も、お坊さん業界について、非難したくなるような気持ちが何回も起こったのですが、応援するような気持ちを持てばいいのでしょうか。

ここなんですが、以下を拝読しますと、「応援」ということばを、わたしが、ちょっと取り間違っている可能性がありますね。

おそらく、PLさまとしては、いわゆる「応援する」というふつうの意味ではなくて、もう少し、何と言うか、「慈悲や憐れみをもって」くらいのほのかな感じを意味しているようですね。
慈悲喜捨の四つでいえば、慈・悲ということで、捨ではない、というくらいの意味でしょうか。

> そうか、滅を見据える…ということは…、変な聞き方かもしれませんが、たとえば、「お坊さんよ、うまくいってくれ、そして、その状態がどうか永遠に続きますように。」と考えてしまうと、滅を見据えていないような応援になってしまう、とも言えるのでしょうか。無常なるものにしがみついているようになってしまって。

そうですねぇ。「その状態が永遠に続きますように」と思う必要(?)があるのかな、という気はしてしまいます。
ちょっと、おっしゃりたいことがつかみにくいです。慈悲の心はずっと持ち続けていていいわけですし、悟っているなら、もはや何も言うことはありません。

> 「応援の心は空である」、といったのは、まさに、その、認めてもらおうとか、伝わって欲しいとか、余計なお世話感にいかないような心、という意味でした。「非難したくなった」と僕が述べたのは、その、「伝わってほしい」とほぼ同じ意味です。
>
> 「応援」ということばを使ったのはですね…会社の、いわゆるイジワル上司と言われてしまう人をみていて、どうして後輩がついてこないのかなっと見ていたのですが、端的にいって、後輩のことを、応援してないように見えたのです。後輩が仕事できなくてもおもしろくない、かといって、できたらできたでおもしろくない…。

慈しみや憐れみなどの心に乏しいのですね。ブッダがハッタカに語った四摂事を思い出しますね。その上司の人は、自分のことで精一杯で部下を思いやる余裕がないのかもしれませんね。

> あと、政治家批判も、同じように思いました。僕は政治については全くの無知ですが、たとえば、そうですね、安倍総理の見解に反対する人も、安倍総理を、応援することはできると思うんです。その、阿部さんが、みんなのために、少しでもよい意思決定をできますように…ということを祈る心です。その意思決定には、総理の辞任など、ありとあらゆることを含みます。なので、「支持する」ということとは、違うものです。

政治の場合は、ほんとうに国民のために考えているのかどうか、ということが問題になりそうですね。その視点で、いろいろ問題が起こっていくかもしれません。ちょっと、このあたりPLさまの意図がうまくつかめていないかもしれないな。
>
> お坊さんに対する応援の心も、そのような意味でした。応援っという言葉がまずかったかも。

「応援」ということばが、少し「(応援したい)そちらの方に傾く」ような感じがあるからかもしれませんね。
平等に見る心があれば、「応援」でもいいかもしれません。必要なのは、平等な見方なのかもしれないです。
>

> > この辺、PLさまの言いたいことが、うまくつかみづらいのですが、まず、見解は拒否できます。
>
> ああ、すみません、えーと、その、最近の知識のあり方とか、正当化の手続きというのを考えていたのです。「仕送りくれる親に感謝すべき」といった、倫理的なものもそうですが、たとえば赤ちゃんが笑ってるのをみて、「それは社会的微笑といってね、みんなに好かれることで生き残るためにしている笑みなのだよ」とか、まあ、理屈はわからんでもないけど、我が子の笑顔くらい、好きに解釈させてくれんかね?(+_+) って、不満を言ってもいいと思うんですよ(笑)。これが、見解の拒否なのかなぁって。実感として、赤ちゃんがそういう狙いで笑ってるように見えるかと聞かれると、ひとっつも、見えないですしね。

ああ、なるほど(笑)
邪気のない赤ちゃんの笑顔に、何か解釈をつけてしまう大人の意識が問題でしょうか。
そう言えば、関係ないですが、アメリカのマンガやコメディにありそうですね。大人より賢い赤ちゃんが、いろいろ騒動を起こして、大人はそれに翻弄されて、赤ちゃんが最後にこっそり「にやり」としてるなんて図は。

社会的微笑も、説の一つとして言いうるかもしれませんが、それを主張してしまうと見解になりそうですね。断定的に押しつけられると、「そうかなあ?」くらいに濁して拒否することはできそうです。

> まさに、信じたくないが、信じることを強要してくるような知識が生まれてくる構造が、あるような気がするのです。

そうですね。どこかに誰かの利益がかかっているような意見は、何となく嫌なものですよね。原発の安全神話みたいなものもそうかも。クリーンで安上がりみたいなことも言われてましたっけ。世論を操作するようなものもありますよね。
>
> ここらへん、仏典の解釈にも関わりますよね。今回、先生がおっしゃった、「仮説」にも通じそうです。

ああ、なるほど。学者の説が、仏教理解の一つの常識みたいなことになっていったりもしますよね。

> > そして、自分は、反対意見はもたないならば、もたないということもできます。あなたとは争うことはしない、ということもできます。そうなると、どうなるかは、おおよそ想像がつくかと思いますが、そこでの仕打ちに耐えると、菩薩行ですね。
>
> え?えーと、「この臆病者!」とか、罵られるということですか?

まあ、そんなところかもしれません。
でも、そういう相手の反応を見ると、どれだけその意見を主張したいか、ということもわかってきます。

> > 倫理面でも優れているとみなされたいということもあります。ですから、PLさまが、ブッダの立場をよく知って、そのとおりに行うならば、自分が思っているより、意外な感じで、問題なくいく可能性はあります。ブッダに信をもつなら、そこから、願が生まれ、それがものごとを好転させていくかもしれません。まあ、どうなるかは、わかりませんが。
>
> ひょえ〜、思わず、にやっとしてしまいました。そうかぁ、どうかなぁ、プライドの高い人でも、倫理面でも優れているとみなされたい、というレベルの人は、個人的にはあんまり見たことないですね。大体、ごり押しで、優位に立とうとするところで、止まってしまっているような気がします。
>
> 個人的なことでいえば、僕は、そういう意味では半端じゃなくプライド高いことになるなぁ…(笑)

おお、良かったですね(笑)

> > プライドの高い人々は、ですから、ブッダの立場を理解しやすい人々である、とも言えるかもしれません。
>
> うん!プライドの高い人は、かっこつけたい人って言えそうですか。かっこつけまくって、ブッダを目指したりできないかな…。

いや、できると思います。動機は不純(?)でも、そのうち変わってきますから。
倫理的にもすばらしいと言われたいばかりに、はじめは本心からではなくても、だんだん人にも認められて、ほんとにそうなっちゃう場合もありそうですよね。わたしは、あると思っています。そうだ、できごころブッダ、って名づけておこうかな(笑)

> > ただ、結婚してない、とか、頭をそっていない、とか、そのようなことは、一般の人々は、それほど問題にもしていないでしょう。どれだけ、心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。どれだけ相手を害さずにいるか、ということでもあるかもしれません。やっぱり、「その人の人間性」ということになりますが、仏教的には、それは、諸法実相ということですし、空である、ということでもあります。
>
> ん、諸法実相とか、空であるような人間性を期待している、ということですか?

そんな感じです。
だから、正体が不明なのです。いろんな姿をとって、いろんな職業で、いろんなことを言えるのです。地位の高い人がそうとは限らないところが、おもしろいでしょう。立派な衣を着ててもダメです。ブッダは糞掃衣でした。

> そ、そういうことですか…!いや、聞けてよかったです。
>
> 少数とか無理数のように、領域が広がるのはまあいいとして(?)、「すべての自然数の和<すべての自然数の和の2倍」とか考えると、パラドックスに陥る…というのも、自然数を実在視することからきてるのでしょうか?仮説を超えて。あと、図形の辺は、幅を持つのかどうか…とか、線は点の集合なのかどうか、とか。

「全体」というのを実在視するからでしょうね。

『ブッダの優しい論理学』の中に「カラス」という節を設けたのですが、そこで、「すべてのカラスは黒い」という仮説を確かめたいとして、いちいちカラスを見つけて調べていくという話をあげました。「ヘンペルのカラス」として知られているパラドックスを取りあげたのです。
その時、一つの失敗は、「すべての」と言ってしまったことだとしました。
「すべて」ということは、龍樹は「喩え」としてとらえている、とも説明しました。実証できる問題ではないだろう、ということです。線が点の集合だというのも、「すべて」のヴァリエーションではないでしょうか。面積をもたない点がいくら集まっても線にはならない、とか、龍樹なら言いそうです。

> 龍樹が部派の人たちに語ったのも、一言でいうと、「仮説なんだぞ!」ってことなんでしょうか。それで、「ほら、仮説を超えて語ると、こんな矛盾が起こるんだぞ」っという風に展開され、二諦を説いたと…?

それは、とり方にも依るかと思います。
多くの学者は、実在視に陥った部派を批判するために、『中論』を著したとしています。
それは、そう取らないと理解ができないから、そうしているのだと思います。
また、同じように「仮説である」ことを明らかにしようとした、というのもありだと思います。おっしゃるように仮説を超えると矛盾がおきます。
ですが、それだけとも言えません。本来、「空である」ことを示したかったのだ、とも、また、言えます。
あるいはまた、ブッダの体系を明らかにしようとした、とも言えるかと思います。

龍樹の語り自体も空ですから、さまざまに受けとめられるのだと思いますね。


> > 仏法も同じようですね。もの(バーヴァ)という領域を認めると、このように語れる。ですが、法(ダルマ)という領域でなら、このように語りうる、というように、仮説(仮設)されて語られます。
>
> なるほど、ん、もの(バーヴァ)とは、なんでしたっけ?

もの(バーヴァ)というのは、生けるものを基本においた表現で、ふつう一般に「存在しているもの」くらいの意味にとっていいと思います。

仏教外の他の立場の人々の使うことばですね。あらゆる人が、ふつうに使うことばの代表例としてあがっていると思います。

> > ここも、先ほどの「仮設」ということを考えなければなりません。「時を入れて語ります」という条件を持つなら、そこから派生して出てくるものがあるかもしれません。その「時」というものは、こういうものです、と定義づけるなら、結果から原因に向かう論理も出てくるかもしれません。定義の仕方によっては、出てこないことも考えられます。
>
> なるほど、おもしろいです。
>
> 「その「時」というものは、こういうものです、と定義づけるなら」とは、どういうことですか?「因果の関係によって、時間の経過とともに話が進んでいく」というのは、時を入れた語りになっているということですよね?

「時」というのを、ブッダが『スッタニパータ』「八偈品」で説いているように、身体や心の中において、認識してきたものに「前」や「後」と順序をつけることなのだ、としてみると、又、話は違ってくるでしょう。

773.(第二経第2偈)
欲求に因って生存の快に縛られているものたち、かれらは解脱しがたいのです。なぜなら、他のものによって解脱することはないのですから。
(かれらは、)後(未来)をも前(過去)をも予想しながら、これら(現在)の欲望やまた、前述(未来と過去)の(欲望)を貪り求めたので(解脱しがたいのです)。

こう考えると、過去、未来、現在と分かれてきます。

> > > たとえば、魔がさして悪いことをしてしまったとき、これと同じ論理を使って、「私が悪いことをするのは、約束されていた」ということも、言えるのでしょうか。そうなると、「私は、あのとき悪いことをしないこともできたのに、してしまった」という後悔の念は、どういう論理によるのでしょう。

> あ、ごめんなさい、「これと同じ(ブッダの悟りは決まっていたという)論理を使って…」という意味でした。「これ」の指す内容は、魔がさして悪いことをしてしまった、ということではなく。紛らわしかったですね。
>
> ええと、こう聞けばいいのかな、「ゴータマの悟りは約束されていた」と語る人が、別のシーンで、「魔が差して悪いことをしてしまった」と語った場合、なぜ、ゴータマの悟りについては決定論的な見方をとっている(?)のに、悪い行いについては非決定論的な見方をとるのでしょうか、ということです。

ええっと、どうでしょう。ブッダの悟りは約束されていたと結果から見て語るのと同じように、悪いことをしてしまった結果から見て、「かれは魔がさすように(=悪いことをするように)なっていたのだ」と語るかもしれません。

アーナンダ尊者が、『大般涅槃経』の中で、ブッダが寿命を延ばそうと、ほのめかしているのに、気づかないで無視してしまう話が載っています。「ヴェーサーリーは楽しい」とか言って、さかんにほのめかしているのに、アーナンダは気づかないのです。そこで、とうとうブッダは涅槃に入ることを決意するのですが、それを知って、アーナンダは号泣します。
でも、もう悪魔と約束したから破るわけにはいかない、として、ブッダは、亡くなるのです。
これも、アーナンダはその時悪魔にとりつかれていたのだ、となっています。

わたしは、ここに同じような論理を見ます。アーナンダは、悪魔にとりつかれるようになっていたのだ、として解釈されてきます。

こうして、アーナンダの失敗を無にしないように、阿弥陀仏の四十八願が生まれてきます。

> > だから、部派と大乗は、分かれていくことになるのです。因果を主体にする立場と空を主体にする立場とです。きちんと使い分けできるなら、一切智者になるかもしれませんが、そうでなければ、どちらか一方でいく方が安全です。
>
> んーーー!?一切智者になることと、空を主体にすることって、同じようなことだと思ってたのですが、どうでしょ。あるいは、因果と空を使い分けできるときに、空であるということでは…?あ〜、でも…うーん…。

こんがらがりそうですよね。

一切智者ですと、空でもいけるし、因果でもいける、という感じがします。
適材適所に使い分けできます。たしかに、「空を主体にする」というのは、当たっていますね。空は、「一切」にも関わりますから、一切智者というように「一切」がついているので、空は欠かせないと思います。

ですが、その空というのも、因果を知らずには出てこない見方ですから、縁起を知るならば空を知り、空を知るならば、一切も知ります。

> 一応、確認ですが、「事実を観たから、そのとおりに語った」というのは、ブッダ論理学でいうところの、認識をことばにすることと、似て非なることですよね?

「事実」というものを他に認めて、それを根拠にみずからの認識を語るわけですからね。
みずからの認識を根拠にして、これこれのことが起こったことにするのだ、という、認識に信をおいて決めていく、という形を取りますね。すなわち、この認識は、仮説として語られているわけですよね。「事実」としてではなく、「仮説」として、ものごとが語られていきます。

> > 「何が起こったのか」ということから、決めていくのが、仮設をとる立場です。
> >
> > 「7歩歩いて天上天下唯我独尊と発した」ということが、起こった、としたのです。そこから、仮設された世界が一気に広がっていくのです。空ということが、すでに使われていることがわかりますか。
>
> なーるほど。後の先生のことばを読んでみて、なんとなく、雰囲気ですが、方向性が見えてきました。
>
> ・・・うん!ブッダのその唯我独尊のことばに、違和感を覚えなくなってきました!

お、よかったです!
>
> 前に、カレー日記で僕とパラドックスについてやりとりしてるとき、先生がおっしゃっていましたね。空中楼閣にいる間は、それはそのままブッダの世界で、疑うとそこから転落するようにできてる、みたいな。そことも、通ずるお話ですよね…?

ああ、な〜る。そうですね、まさしく。
>
> oさまに、浄土の世界ってどういうもんですかって聞いたら、今の肉体が滅んで死んだあと、六道の世界に生まれることなく、浄土の世界にずっととどまって、修行していくんだよっておっしゃっていました。それってまさに、このブッダ世界という空中楼閣に、居座り続けることに他ならないのかも!?

まあ、そんな感じですよ!
往相と還相があるのも、娑婆世界にしっかり又戻ってくる、というブッダ世界の領域を確認するためかもしれませんね。

> チベットの高僧もいってました。人は死んだあと、なんだか寂しくなって、また生まれたいって思ってしまうのだと。って考えると、浄土とか、ブッダ世界に安住することがどれだけ安心できるものか、分かりそうな。いろいろ、辻褄が合いそうですね。

ブッダの世界に憧れる人は、チベットに生まれるのかな。輪廻転生の思想がそのまま信じられている。

『チベット死者の書』を読むと、死者には語っていますが、まるきり仏教の教えそのものです。生きてても死んでても、仏法は教えられるのだなあ、って、感慨深いです。

> ありがとうございます。とりあえず、ここで、ぽちっと送信。

ではでは、わたしも、ぽち。

[9965] 吉祥( なる 縁起 ) お気楽 53862  投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/16(Wed) 07:20   [返信]

吉祥なる縁起  と 文字にあれば
その文字は   吉祥 ですか ?


縁起を知って 吉祥を知る


> > 悟りの証を取るか取らぬかは、その人次第です。

その人次第  という 次第 は ありません
あれば、 一つの世界に一人のブッダ  
ということが 成り立たなくなりませんか ?

悟りは 一つで それを悟るとき 一つになります
悟りの証 

>>  ほんとうのところは、龍樹に聞いてみなくちゃわからないけど

龍樹が どういっているかを 聞く
  龍樹ではない 存在があれば
  龍樹ではない 行いにある
聞いて 分かる 道理がありますか ?
為して 知ることが 為されたこととして 対象化(言語化)されます

表現が違っているかどうかは 行いを見る時に分かる
( わたしが 間違えているとき ブッダ も 間違いにある )

わたしはブッダではありません
悟り を 得ても(取っても)いません

そのこと(そういう仕組み)は あなた が 知ることです
わたし は “ 無チ ” にあるから 「 無 」 を 知らない
( わたし は 知っていることで出来ている )

聞いて分かること は ありません
聞く のは 行いにはならないのです
 ( 「如是我聞」 は 聞くのではなく、 説く という 行為です )
さらには
見る  ということも  行為ではありません
見て する  という  行為が 起きます
( 見て しない  という 行為は 起きません )
しないのは 見ないからです

鼻(華) が 美しいとみる
その 花は 煩悩の上に咲いている

煩悩の 立つところ が 中心 です
煩悩が 起きる “ところ” が ある 、、、、、

誰にでもあって、一つを 供“与”  “している”
( していないところが 中心です  −  中心があると 説かれていますか ? )

> > 自分が悟りに至るかどうかは、大きな問題ではなくて、衆生が救われるかどうかが、大きな問題だと思っていたのではないかと思っています。

自他は 一つです
衆生を救うために 菩薩が 存在する
  と 説かれていると分別にあっても
そう説かれているという こと(分別)が 行いになるとき
どう説かれているか が 決まります 

悟り に 前後左右中心 は ありません
悟った のちに ということはありません
「 悟りを取らず 」 ということはありません
取るか取らぬかは (取る者の)決めることではないのです
( 取った = 悟りにある  モノ が 決めます )
( モノ  は  用 を為す   )

法蔵菩薩 の 願 は 法蔵が知ることです

設我得佛
十方衆生
至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者
不取正覺

得とは どういうことか
“仏” とは 何か ?
十方 は 中心から 起きるのか ?
正覚 は 存在するかどうか ?

法蔵 が 知っています

>  「知ることで、心は変わってしまうのではないか?」

「 心 」 が 在る とします
「 仏法非遥 心中側近 」 と 説かれるから
 「心」 という文字は そこにあります
あるということ を どのように 知りますか ?

「 自他不二 」 について 述べましょう

“自” が “他” となるとき
“ た ” は “ じ ” ではありませんか ?

( 自 は 他 となることはありませんか ? )
自分を見失ったとき
見失っている者 は 自 ですか 他者 ですか ?
“ 自 ” は 二つに分けられますか ?
( 二つの存在が 別に存在するのなら その二つとも “自” ですか ? )

そういうことが
「 仏法非遥 心中側近 」 と 説かれます

(  どう 聞きますか ? )


[9964] Re:[9963]  管理人エム 様 へ 投稿者:管理人エム 投稿日:2016/11/15(Tue) 10:27   [返信]
>
> こちらには すでに 目を通していますか ?
>
> > [9957]  前後左右 は  中心にある 
>
> ・

眼でおってはいましたが、「通して(スルー)」しまっていたような気がします。

こうなってくると、中道へと進んできている感がありますね。


この前、道元に関する書物の中で、「鼻祖」という言葉を見つけました。

仏から仏へ、祖から祖へ、嫡嫡相承する縦の系譜を思い浮かべて、妙に納得してしまいました。

[9963]  管理人エム 様 へ 投稿者:  春間 則廣   投稿日:2016/11/15(Tue) 09:34   [返信]

こちらには すでに 目を通していますか ?

> [9957]  前後左右 は  中心にある 


[9962] 引っ越し 投稿者:pocket 投稿日:2016/11/14(Mon) 18:56   [返信]
掲示板が雑然としてきましたね。。。私はひとまず「新マジカナ道場」の方に移動しちゃいます。

エム先生、さらっと書きましたが、できればこいつ↓も忘れないでやってください(泣) 
(もちろんスルーでもOKですが、こちらも道場でお返事いただけたら幸いです
長年、マニカナに居付いていますが、いつも話の締めのタイミングに悩みます、うぅ・・・)

> > 縁起しているとも言えない世界を、その時その時「あるがまま」にとらえているわけです。諸法実相ともいわれるところです。

> これは不生不滅の説明ですか?
> 『ブッダと龍樹の論理学』を思い出しました

ではでは、PLさまとエム先生との『対話篇』がスムーズにいきますように(^^)v

[9961] Re:[9954] 縁起と空と大乗(続き)[9951]の続き 投稿者:PL 投稿日:2016/11/14(Mon) 16:40   [返信]
エム先生 さらに、続きを書きますね。

> 前の書き込みで、誤字や表現など管理者用のところから訂正しました。考える方に頭が向かうと誤字が増えちゃうなあ。変換ミスが起きても気が付きにくいです。

了解です。

> > > > 偏見をもって尋ねるならば、言語や思惟の領域で不生不滅ということを知って、生・滅の現象世界をよりよく生きることなんてできるのでしょうか。もっといえば、机上の空論世界で、頭だけで不生不滅だと知ったところで、生・滅の現象世界で溺れてしまわないだろうか、ということです。言語や思惟の領域と聞くと、実体験を離れた世界のことを指しているように感じられます。
> > >
> > > 思惟や言語の世界も、現象として見るならば、縁起します。
> >
> > そうですよね。ほんとに、おっしゃるとおりと思います。「思惟や言語の世界を、現象として見る」というのは、つまり、形而下だけで考えるために、必要なことですよね。神も数学も真理も、諸行(無常)の世界に落とし込んで考えるところに、仏教の特徴があるのだと思っていたので。
>
> そうそう。
>
> 上にある引用文はやりとりになっていますが、どっちが自分で、どっちがPLさまかわからない(笑)。

むふふ、前もテルゼさんに、エム先生と間違えられたことがあります。まあ、ことばづかいをちょっと真似してるところもありますかね〜。

> > > 机上の空論になるときは、思惟の世界の中で縁起していくものにとらわれて、それに振り回されて語るからです。思惟の世界では、不生不滅だとほんとうに!知れば、考えに流されていくことはないと思います。
> > >
> > > あるがままに見て語る、ということができるのではないでしょうか。それが、また、空ということだと思います。
> > > 思惟の世界と聞いて、実体験を離れて語ると思ってはならないと思います。そこは、「空と観る」というように「観る」といわれているからです。
> > > 「空観」というのは、実体験の世界でもありますね。
> > > 実体験を離れた空論世界で語ることになるのは、思惟の世界の中で縁起してしまうからではないでしょうか。だから、思惟の空回りのようになって、妄想がふくらんでしまうのだと思います。
> >
> > いや〜、おもしろいですね〜。ワクワクしますね。
> >
> > まず、思惟の世界の中で縁起してしまわないことなんて、できるのでしょうか。思惟の世界で縁起しないのでしたら、それって、法の実有へ、観念実在論へ、消えないことばへいってしまわないのですか?現象を離れたところでことばだけが浮いてしまいませんか?
>
> 縁起してしまいますよね、ふつうには。そこで出てくる秘策が、中道だと思います。

なぬー!なぬー!

> 思考がぐるぐる堂々巡りをしてしまうのも、縁起といえば縁起です。あれやこれやで悩んで決まらず、選択肢を上をゆれ動くのです。

そうそう、そうですよね。輪廻みたいなもんですね。

> その苦しみを逃れるために、中道という道があります。「生ずるもの」を考えすぎると、「生ずるものは、生じているとは限らない、すぐ滅するではないか、すなわち、生じていないのではないか」
> と、縁起していくこともできます。

なるほど、たしかに。

> また、理を用いて、ことばで「生ずるもの」と言ったからといって、現実にものが生じているわけではないから、「生ずるものは生じてない」と考えることもできます。

まあ、そうですね。

> また、「生ずるもの」というのは、滅しているとは言えない、と思って、「生ずるもの」から「滅してない(不滅)」を読み取る人もいます。

へ…?

> いずれにせよ、「生ずる」「滅する」にさんざん悩んだなら、「生じない」「滅しない」に思考が至ります。去る者は去らず、去ったものは去らない、などなどの表現が生まれます。

なるほど…。ふーむ、つまり、「生じない」「滅しない」というのは、思惟の中での縁起が止んでる状態、ということですよね。つまり、あれやこれやと思考がぐるぐるしているのを止めているとき、中道を行じている、ということですか?たしかにそうかも。


というか、そういうのが中道だって、前に何度も思ったことはあったのですが、結局、また疑いが起こって、おざなりになっていたというのが正直なところです。しかし、今回あらためて、このような観点から、中道に合流できたのは、とてもよかったです。


> > 先生のお話をたくさん聞いて、まさか今更、こんなことを聞くのもなんですが、思惟の世界、というのは、仏法の中で、はたして本当に位置づけられるのですか?という風に聞いてもいいかもしれません。たとえば、「PならばQ」形式の、了因の考え方も、思惟の世界での論理として位置づけられますが、しかし、実際にこの論理を使って考えるとなると、現象的に、順番をもって!思考は進んでいきますよね。
>
> そうです。果たして、ほんとうに位置づけられているのでしょうか。これは、PLさまに問題として出しておいてもよいかとも思います。このあたりになりますと、もう自由自在に考えて、PLさまなりに答えを導けるのではないかと思います。道は一つではないので、さまざまな方向からせめていけると思います。

あら、そんな感じですか。

> 了因の構造は、縁起のあり方のヴァリエーションで、「現象的に順番がある」と説くところを基礎に生まれてもきます。その了因のやり方を実践するときは、また、現象的に進むのです。ここに、思惟の世界と現象の世界を分けるのも、一つの設定(仮設)であることがわかるかと思います。しかし、分けないと、わかりません。理解するためには、分析は必要ですから。そこをどう考えるのか、どう考えたら、自分にとってわかりやすいか、ということですよね。それで選べると思います。

あ〜…。なるほど。

> > いろいろ考えると、「空と”観る”」が、PLにとってはキーワードになりそうですか?しかし、「観る」と聞くと、それは現象的なことがイメージされ、現象的なことについては、「無常」が連想されるんですよね。。。こういうわけで、「空と観る」ということばについては、先生から何度かお話されても、逃げてました。
>
> いいですね。現象的に「無常」が出てくると、どうなりますか。「無常」を「観る」ことになりますよね。そして、「無常」を観るとき、そこに見えているものはなんでしょう?そう言われても、ことばで言えるようなものではない気がするでしょう。それが、「ありのまま」ということになりませんか。
>
> PLさまが、「ありのまま」を観ているのだと納得するなら、その時、心(思惟の世界)はどうなっていますか?
> あら、からっぽですね。思惟の世界に残っていたことばを思い出します。たとえば、「無常」ってことばが、頭の隅に残っていたら、そのことばを取りあげてみます。
> 「無常」ってなんだろう、って思っても、何も出てきません。ことばとしては「空」なのです。
> PLさま的には、瞬間の「あるがまま」をとらえているだけ、とも言えます。
> もはや、他によることもない、縁起しているとも言えない世界を、その時その時「あるがまま」にとらえているわけです。諸法実相ともいわれるところです。
>
> 現象的には無常を観るなら、あるがままを通して、ことばとしては空を観る、というようにも説明することができるかもしれません。過ぎていく世界を見つめるならば、ことばにはならない、ことばの世界は空転します。

あ〜、はいはいはい、なるほど。そうですね。

> > あるいは、「あるがままに見て語る」とは、なんなのだろうって、もう1回考えた方がいいですか。まあ、そうですね、あるがままに見て語るなら、それは「法」って言っていいですよね。それだけでいえば、観念実在論にいくことなく、ことばを使うことはできる気もします。また、そのように使われたことばを、空であるというのも頷けます。しかし、「ことばの世界を考えましょう!それは、不生不滅ですよ!」、といってしまうと、有にいかない方法が、机上の空論に行かない方法がわかりません。
>
> 実践の道が欠けているからでしょうか。
> 「自己」ということが大事なのは、自分の中で確かめるということをしなければならないからです。
>
> 実際、不生不滅に至る説明は、さまざまにあります。その人の実践によって、決まってくるところだからです。

はい、今回、先生からいろいろお話を伺って、進展しそうなので、ちょっとがんばってみます。

> 『中論』を書いた人が、『大智度論』や『十住毘婆沙論』も書いただろうと思うのは、この説明が同じパターンだからというのもあります。まあ、何とも言えないかもしれませんが。
> このあたり、もうちょっと検討がいるかな。龍樹について考えるとき、似たようなことが出てくると、逆に不安になったりもしますね。

・・・?(・ω・)

> あら、いいえ、こちらも、けっこう時間がかかっています。

僕も、今日は午前中からずっとこれ書いてますけど、もう夕方だわ…(笑)

> 週の前半は講義で忙しく、後半は介護で奮闘中です。上腕が、痛いっす。

介護かぁ、えらいですね、先生。ファイト!

それでは、よろしくお願いします。

[9960] Re:[9951] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:PL 投稿日:2016/11/14(Mon) 16:22   [返信]
エム先生、続きです。

> > なんだか、故人のことを話した方が、遺族の方は喜ばれるのかな〜と思ったりもしたのですが…どうですかね(;´・ω・) (えび天サンバさま、ポケットさまも、どう思われますか?)
>
> 自分の経験では、個人的によく知らない人であれば、故人のことをあれこれ話さない方がいいかもしれない、という気はします。身近な人の死は、特別な思いがあるから、深入りして話してしまうと、違和感が残ってしまいます。
>
> その人との具体的な思い出があれば、話すと喜ばれるかもしれませんが、もし、ほとんど知らない人であれば、ちょっと触れるにとどめて、誰にでもあてはまる一般的なことを話す方が無難ではないでしょうか。
>
> 故人との関係は、参列しているその人その人いろいろあると思いますので、何を話すかはむずかしいですよね。

そっか、それもそうですね。


> > > 確かに、この論議領域を規定することは、最初に行わねばならないので、この天上天下…は必要な要素ですね。
> > > サハー世界において、論議の領域として一仏であることが、宣言されないと、ブッダの話は始まりません。生まれた時に話す必要があるので、そうしています。
> >
> > え、「論議領域を規定することは、最初に行わねばならない」とは、なんでしょう。どうして、ブッダの話は始まらないのでしょう。
>
> ブッダの教える「ものの見方(正見)」によって成り立っている世界に入っていくからです。
> 一つ一つ話されるたびに、ブッダ世界が決まってきます。それを受けとめるから、聞いている人たちの心も変わっていきます。そうして、苦しみのない境地へと目指していくのですが、そこで重要なのは、考える考え方やものの見方をみずから変革して、それを目指していくことだということです。
> 自分で変えなくちゃいけないので、自分がブッダの語りを世界とする、そういう世界に入っていくと見てもよいと思います。
>
> だから、論議の領域は早めに設定しておいた方が、混乱が少ないのです。
> 天上天下唯我独尊と言ったということを、抵抗なく受けとめられるなら、それから進んで説かれることばも受けとめられるでしょう。半信半疑の人も、興味がわくと、それをきっかけに仏法に入っていけるかもしれません。受け付けない人は受け付けないので、問題ありません。

なーるほどね!そういう方向性なんですね!なんとなくですが、わかる気がします。「ブッダの語りを世界とする」って、いいことばですね。エム先生っぽい表現(笑)で、好きですね。

えーと、その、唯我独尊にはじまるブッダの語った世界が、仮説の世界だということですか?つまり、入りたい人は入ればいいし、入りたくない人は入らなくてもよい世界、ということですか?おお!マントラでも、唱えて意味のある人は唱えて、意味のない人にとっては意味はない、このことは、真実である、とおっしゃっていましたけど、関係ありそうかな!?


また、「天上天下唯我独尊」別の観点から、思ったことを書いてみますね。その、今はもう、論議の領域の設定ということで、そんなに違和感ないのですが、最初、このことばをみたとき、ことあげのようにも見えたんですよね。ブッダの語りって、相手が納得できるところをスタートに語っていき、やがて、そのブッダのすごさが縁起的にあらわれ、それを見た人が「ああ、この人はブッダなんだ」と納得していく…このような順番だと思っていたので、最初に、「天上天下唯我独尊」といってしまうと、周りの人はびびってしまい、そこに慢心をみてしまうことにもならないだろうか、などなど、モヤモヤしてました。まあ、ちょっと意地悪な見方かもしれませんが(笑)


> > > ゴータマの人生の途中から、この世界が論理的にブッダの世界ということになったのではない。生まれた時にすでに仏世界として論理的にとらえられるのだ、ということだと思います。
> >
> > ふーむ、では、ゴータマが生まれる前は、仏世界としてはとらえられないのですか?それはなぜでしょう。
>
> 「ゴータマが生まれる前」というのは、歴史上の人物のこととしてとらえてください。
> 「悟りを開いてブッダになった」と説明されるなら、悟る以前はどうだったのだ、という疑問を抱く人もいるでしょう。
> ブッダが世に出現したとき、ブッダが世に出現していないとき、と、世界は二つに分かれます。
>
> このように考えると、一人の人ゴータマが悟りを開いたとき、そこにブッダの法の世界が出現したとも言えます。そうなると、法の世界の方から、今までの世界を設定し直すことも可能になってくるでしょう。
>
> こうして、生まれた時に7歩歩いたというような話も出てくるのだと思います。さらに、ほんとうはずっと前に悟りを開いていたが、…というような話も生まれてきて、久遠実成のブッダなどともいわれてくるようになるのでしょうね。

あ〜、なーるほど、そういうことですね、頭の中がこんがらがりそうになりながらも、なんとなくわかりました。

つまり、仮設の仕方で、どのようにでも秩序づけられる、っていう感じですか?もう少し、かみくだくと、ブッダ(仏法)に出会うまでは、限定的にしか世界をみれなかったわけですね。つまり、「まだ、仏法もブッダも出現していない」と。この時点では、仮設というものが仕えてないわけですね。そこで、ブッダに出会い、ブッダの語りの世界というのをものにすると、「起こった」と思っていた過去のことも、ブッダ論理によって、新たに秩序だてられ、自由に並び替えられる、と。

仮設ということばの使い方が、どうもミスってるような気がしないでもないですが、どうでしょう。



> > ここらへん、龍樹が、同じ人が書いてるとは思えないほど、いろんな著作を書けるのにも通じそうですね。まあ、人ではなく、ダルマ(無我)になってるという意味では、「同じ人が書いてるのではない」、というのは当たってるか(笑)
>
> ああ、そうですねぇ。PLさま、龍樹の論にも慣れ親しんで来ましたね。
> ブログでご紹介した『龍樹『根本中頌』を読む』の中では、龍樹が書いたのは『中論』のみで、他の作品はみな異なる人だろうという論を展開しています。
>
> こう言うのって、無駄な論のような気がしますよね。PLさまのように、ダルマの観点からみて「同じ人が書いているのではない」ともとるなら、議論にならないですよね。また、名前は龍樹として知られる人物が書いているのだということであれば、それだけのことで、その「龍樹」という名に実体を求めるから、「龍樹作と言われているが、この作品は龍樹ではない」などと論ずることになるのですよね。
>
> 仏法を知っていったら、出てこないような議論が出てきています。

まったく、そのように思います。龍樹作って書いてあるのに、それを否定してしまうと、おいおい、まさか、そこからかぁ…って、なります。

仏教について全くの素人のとき、『中論』と『宝行王正論』を見比べて、思いました。「こーんなに理屈っぽい人が、こーんなに倫理的なことも語れるなんて!」と。まったく別人が書いたような人を、同じ人が書いてるのならば、その人は、論理と倫理の極致に至ったのだろうとワクワクしたものです。

龍樹に同一性を認めたとしても、「同じ人から、それらの著作がすべて出てくるような論理があるということか」って、わからないなりに納得すれば、それで済む話でしょ。それを、「中論を書くような人じゃ、この著作は書けない」って言ったんじゃ、結局、「自分たち現代の学者が持っている論理や見方がすべてで、これ以上はない」って、表明してるようなもんでしょ。それなら、「菩薩とかいわれてるけど、龍樹も凡夫なんだよほんとうは」とか、さらには、「ブッダになることなんて、結局できないんだよ」と言ってることにもなりかねないレベルの話だと思いますね。もちろん、そういう人がいるのは仕方ないと思いますが、仏教学者がそれじゃ困りますよマジで。

多重人格と融通無碍、複数の理論を使うことと一つの理論で一貫してなんでも説明できること、これらをごっちゃにしちゃいけない、と思います。


> 「もちろん、「真理表」という表自体を考えついていたわけではないし、わたしのやったようにはやっていませんが、発想的にはこれでいけます。」
> ということです。

なるほど。

> 有と無にわけていき、その場合分けを全部あげて、その中に一切世界をおさめることができれば、有と無からなる世界がえられます。

うんうん。ここまでが、世俗諦で示される世界というわけですね。

> そして、その世界一切から出るなら、涅槃です。解脱すると涅槃です。
> 有にもよらず無にもよらない中道を進むと、やがてそこから脱することができる。

おお、そこで、その涅槃や中道の世界も、ことばにすることはできるわけですから、真理表の15や16という形で、位置づけることができるというわけですね。

> なんて、確実な世界なんだ、って感じがしてきます。

確実な世界…?

> > そのとき、すごいことと感じたのは、「こうなって当然だ、こうあるべきだ」という雑念があると、認めたくない(起こってほしくない)真理表の列にフタをしてしまっていた気がするのです。一寸先は闇なんだ、って受け入れられると、あるいは、一寸先に光もありえると知れるなら、照らされてなかった真理表の列が生じてくる、といいますか。
>
> ああ、それはすばらしい。発見ですね。
> 真理表の一列をものにするのは、世界がひっくり返るほどの大変革が必要なことだという気がします。
> >
> > 関係あるかわかりませんが、前に、oさまに仕事の愚痴をいったら、「うん、それは自分のせいだね。社会ってそういうところだから。」って言われて、そうあるべきでないと非難していたことが、急に、所与の条件の1つとして受け入れられるようになって、そこをスタートに、すっと楽になったということがありました。「あ、そういうもんだったのか〜」って。不思議な現象でした。むしろ、なんで、所与のことにならなかったんだっけ…という感触もあります。
>
> 視野がグッと広がりましたね。あるものを受け入れる、というのは、ほんとうに力量が要りますね。

ああ、ほんとにそうかも。「自分は正しいんだ」っというのを1個ずつ捨てないと、真理表は増えていかない、っということなのでしょうか? 真理表の一列をものにするコツって、なんなのでしょう。

ここで、ちょっと寄り道…「自分は正しいんだ」とこだわることと、「あ、そっか」って納得して、心の中のモヤモヤが止むことって、どちらもある種の「正しさ」に至っているのに、どうしてこうも、似て非なるのかなぁ、なんて、ちょっと興味深く思いました。

> 縁起を勉強すると、そういうことに対応する能力がつくかもしれません。
> 「<これ>があるとき<これ>がある」という式は偉大もので、原因の「<これ>があるとき」というのが、自分にとっては望ましくないものであっても、それに対して、どのように「<これ>がある」と、みずから反応していくかによって、結果的に、縁起の式を一つあらたに成立させうる、ということにもなります。

うーん?それはたとえば…そうですね、望ましくないことに出くわしても、それを、意志の力でどう解釈するかで、結果を変えられる、というほどの意味ですか?

> 諸縁が集まって一つの結果を生んでいきますから、自分の意思の力も、諸縁の一つになります。自在に考えられるようになっていきそうですね。

なるほどー!そういう仕組みですか。今更ながら納得です。どんなにおいしくないと感じたものも、味付け次第、みたいな?

変なこと聞きますが、諸縁の中でコントロールできるのは、自分の意志だけなのですか?


> と書いたものの、我が身に返ると、そんなにうまくはいっていないような気もしてきます。うーむむ。

前に、因果について、先生は、客観的にみようとすると、どこにも見いだせないし、意志だけでもダメって言ってましたね。意志だけでもダメって、がんばってポジティブに考えようとしすぎても、因果はコントロールできないときはできない…ということでしょうか。


> > ほんとに、そのとおりですね。重宝していたソフトも、開発者がいなくなると、アップデートできないので、使えなくなってしまって、困っています。
>
> 最近、ブッダ方式を採用しようと心がけてます。
> 「PCは壊れるものである」「ソフトはなくなるものである」「ファイルは消えるものである」と知って、それに頼らない、という生活をしようと考えなおしました。

そっかそっか、それも、真理表の列を1行増やすのに似てますね。なかなか、いつかは壊れる、なくなるって、目をそらしてしまうところですもんね。

「それに頼らない、という生活」って、うーん、無常なるものに頼らない、ということですか?
他によって浄まることはない、というお話とも通じるでしょうか。関係ないかな。

> 自分の中から湧いてくる智慧によって生きるなら、身体さえ残れば何とかなる、みたいな。
> ヴェーダの達人(ヴェーダグー)を目指そう。この場合、ヴェーダというのは、中から湧く智慧を指しています。

おお!『大乗への道』にありましたね、あの先生のヴェーダ解釈は、すばらしかったですね(笑)

中から湧いてでるように、あふれるように、暗誦しているように…って、いいですねぇ。ほんと、憧れます。すごいたのしそう!


> > > 法ということばが使われている文それ自体が、法の意味を表していくことになって、その文それ自体からそのまま理解されていきます。
> >
> > ぬおー!すごい。まさか、そういう方法で「法」を考えることができるとは、思わぬ報酬!そっか、僕はそんなにナイスアイディアなこと(法を無理に訳さず、読者に考えさせればいいということ)を言っていたのか(笑)
>
> わはは、よかったですね。
> これは、仏法の強みですよね。そのことばの意味するところは、話の文脈の中、そのことばを用いる文全体、こういったものから知られていきます。
> どんな人でも、理解してくれます。大人でも子供でも、誰でも。

ああ、まさに、わたしをみるものは法をみる、ですね。

あ、そうだ、前に、菩薩が筆をとって論書を書きはじめたその瞬間から、法が展開されはじめたのではない…と僕がいったのは、まさにそのことです。その論書を書くにいたるまでの生き方を含めた全体から、知られていきます、ということでした。なので、「法」は、「生じるものではない」のでは…、ということでした。論書の本文から近い所でいえば、「龍樹造」という冒頭の文字も、すでに論の一部なんだろうなって。


> > > これをダンマ・アヌダンマ(法随法)という実践の仕方で、仏教独特のものですね。
> >
> > うむ!この法随法とやら、おんもしろいですね。ほんとに仏教っぽいですね。語られなかったことも知れる、ということもあるのかな。法随法をずっと守っていければ、いいわけですね。
>
> そうです!そのとおりです!
> ブッダの勉強法です!

なるほど、だから、「消えないことば」に頼ってると、法随法にはならない、ということですね。流れていかないですね。

また、法随法は、「中道」を言いかえたものでもあるのでしょうか?


> > > そうかもしれません。「自分」「自己」というのは、仏教的には「ダルマ」にはなりませんが、誰でも使うことばです。「自己」というのは、仏教において大事なポイントになっています。
> >
> > そうなんですか。あれ、なんで大事なポイントなんでしたっけ?
>
> こだわりが強いからでしょうね。また、こだわる内容もいろいろなので、そこを解きほぐすと、あらゆることが見えてもきます。
> 「自己をよりどころにせよ」というところから始まって、次第に「自己」を探究して、やがて、「自己を忘れること」を学んでいきます。道元さん、ありがとう。
>
> 「自己」から広がるのは「世界」ですから、自己を知り尽くすと世界を知り尽くすことになります。

ほほほう…( ̄ー ̄)

> > > また、法(教え)を考えるときには、「心(チッタ)」ということばがポイントになるのじゃないかと思っています。このことばも、ちょっと気づきませんが「ダルマでないもの」の中に含まれると思います。途中で出てきても、やがて、最終的には消えてしまいます。
> >
> > ふーむ。気になるけど、なんて聞いたらいいのか分からない…(´・_・`)
>
> そうでしょう。「チッタ(心)」は、部派では大事なことばになっています。でも、これは、法としてブッダが規定していることはないと思います。
> わたしの理解ではそうなのです。
> あまり問題になったことがないので、あまり取りあげられたことがないのではないかと思います。

えーと、ダルマでないものに含まれてしまうのは、認識されたもので、心と呼べるものはないからですか?五蘊に解体されてしまって。


> > > たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
> > > しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
> > >
> > > 出来事としては、たきぎは燃えてはいになります。だから、「たき木、はひとなる」と書いてあります。そして、そのはいがまたたき木にもどることはありません。
> > >
> > > これを見てわかることとしましょう。五感でとらえられることです。
> >
> > うんうん、納得です。
> >
> > > そこから考えるのが、たき木がはいになって、またたき木になることがないなら、
> > >
> > > 薪はさきにあり、灰はあとである
> > >
> > > と、このように考えるのが、思惟の領域に入ってきている、ということを意味します。しかし、「薪はさきにあり、灰はあとである」と、考えてはいけないと言われています。
> >
> > ん、「考えてはいけない」というのは、「思惟の領域に入ってはいけない」ということですか?それとも、思惟の領域に入ることは、考えることではないのですか?
>
> いや、思惟の領域に、観たことをそのまま入れるとまずい、ということでしょう。
> たき木ははいになってしまうけど、「薪」が「灰」になってしまう、と、後先をつけて考えてはいけない、ということだと思います。

え?では、思惟の領域には、どういうことを入れればOKなんでしょう?
「薪が、灰になってしまったなぁ」であれば、セーフということですか?

そこから、「薪は先、灰は後」を導くことはできない、と言ってもいいですか?

> 思惟の領域に入ると、思惟の領域での順序がありますから。

ああ、これが、思惟の中で縁起してしまう、ということですか?順序があるわけですから。


> > > ことばとしては、断ち切られていること。ものとしては、さきとあとはあるので、たき木ははいになりますが、ことばとして、薪が灰になるとは言わない。
> >
> > なるほど、そういうことですね、ことばと現象をわけているのですよね。
>
> そうです!
>
> > うーん、「薪は薪の法位に住している」…どうかなぁ、その「法位」とは、「自性」とは違うのでしょうか?「去るものは去らない」がすごく思い出されます。
>
> おお、PLさま、鋭いですね。ヘタをすると自性のようにもなりそうですが、道元さんはけっしてそうはならないので、すごいですね。ことばの使い方なのだと思います。

ほほほう('ω')

> > 「前後は断ち切られている」というのは、単純にいって、「薪は薪、灰は灰、それらは別のことばです」というほどの意味でしょうか。
>
> そういうことですね。わたしの理解ではそういうことになります。

OKです。

> > また、今まで先生から学んできたことによると、ブッダ論理の醍醐味の1つって、ことばの世界と現象の世界を分けないことにあったのではないでしょうか。認識をことばにすれば、それらを分けないですむ、という意味で。しかし、今回の議論ですと、認識を離れたところで、「薪」や「灰」を考えているようで、ことばだけが一人歩きする観念実在論と似た印象を受けます。
>
> おお、ここもなかなか良いです。「薪」「灰」を法の世界に追いやって考えるとき、現象世界とつなぐことばが必要になってきます。それが、道元さんのやり方は独特なのです。ちょっとわからないところもあります。
>
> しかし、わたしの考えたところでは、この現象界と思惟界をつなぐ、あるいは、切り離すのが、中道や縁起だということが言えると思います。

ほほう…と、いいますと?(-_-) 大事なところそうですね。

「つなぐ、あるいは、切り離す」、ときましたか。どっちでもできるんですね。

> > ん…それとも…、「薪はさきにあり、灰はあとである」と考えることこそが、「薪」に「さき」という自性を、「灰」に「あと」という自性を認めることになってしまうので、それらを空とみよ、ということでしょうか。薪をみて、灰を期待するな、と。ちゃうかな。
> >
> このあたり、PLさまもいろいろアイディア満載ですね。「灰を期待するな」は、すばらしい表現だと思います。サンスクリット語でいうと「アペークシャー」ってことばが浮かんできます。

おお、そうですね。個人的には、「自性」ときくと、「期待」というのがイメージ的にしっくりきますね〜。ああ、これも1つの自性になってる(笑)

この「薪」ということばをみて、「灰」が出てくるのが、思惟の中での縁起と呼ばれるのでしょうか? 「仏教」と聞いて「最高だ」とか。

また、一旦きりますね。

[9959] Re:[9953] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:PL 投稿日:2016/11/14(Mon) 10:59   [返信]
> > > 心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。
> >
> > これは外見では見えないと思います。ざっくばらんな関係ではなく、基本的にアイドルとファンのような関係ですから
> > 私はこの人はユーモラスで面白い人だなあと思ったチベット人ラマが性的スキャンダルを起こし、告発動画がYouTubeにあがっているのを見た時は肝が冷えました。
> > とても著名なラマです。
>
> 魔がさした、ということになるのでしょうか。心が清らかであるかどうかは、いつも現在形で問われますから、たいへんです。
> 『スッタニパータ』の「ティッサ・メッティヤ経」を思い出しますね。
>
> でも、わたしが不思議なのは、スキャンダルということで終わってしまうのって、どうなんだろうと思います。
> 相手の女性を、人として見ていなかったということになる、っていうことなのかな、と。
> もしかりに、自分の汚点として後悔するだけだとすれば、出家の世界だけではなく世俗の世界においても、ちょっと考えちゃいますね。もつれるなあ。

うん、スキャンダルというだけで、そのラマへの信を失うのは、少し早いような…?

白隠禅師だって、赤ちゃんを預かって育てたら、弟子が失望して離れていったという話も聞いたことがありますが、そこで信を失っちゃダメでしょ…って、僕には見えます。

[9958] Re:[9947] 縁起と空と大乗(続き) 投稿者:PL 投稿日:2016/11/14(Mon) 10:45   [返信]
先生、こんにちは。

> oさまのことばに、そのような内容があったのですね。思い出せるような思い出せないような。しかし、まったくそのとおりでもありますね。

あ、先生のサイトではなく、また別のところでおっしゃっていたので、先生は知らない…はずです。

> 今、『中論』を又最初から読んでいるところです。わたしの師匠だわ。何度も何度も読めて、その都度、大きく印象が違います。

おお、そうですか。そうなってるときは、まだまだ、研究や修行が進んでいきそうですね(^。^)

> > そうだ、僕も、お坊さん業界について、非難したくなるような気持ちが何回も起こったのですが、応援するような気持ちを持てばいいのでしょうか。
> >
> > しかも、その応援の心は空である、ということなのですが。つまり、どのような形であれ!うまくいきますように、ということなのですが。伝わりますでしょうか。願といってもいいですが。
>
> もし、「応援する気持ち」があれば、空とは言えないかもしれませんね。PLさまも、お坊さん仲間ということになって、願をもつのですから、「行(サンカーラ)」があることになりますね。でも、その場合、願をもつなら、それの滅もしっかり見据えると、空がえられていくでしょう。

そうか、滅を見据える…ということは…、変な聞き方かもしれませんが、たとえば、「お坊さんよ、うまくいってくれ、そして、その状態がどうか永遠に続きますように。」と考えてしまうと、滅を見据えていないような応援になってしまう、とも言えるのでしょうか。無常なるものにしがみついているようになってしまって。

> 目的に達したら、願は滅する。すべての人の苦しみがなくなれば、PLさまの願は達成されて、解脱できます。
> こういう風に考えると、空にいけるかもしれませんが、「応援する気持ち」だけが先走ると、「余計なお世話」感が出てきて、相手にうまく伝わらないかもしれません。
>
> 「うまくいきますように」とも考えずに、その時点時点では、ただ遠い目標を自ら目指しながら、自分の善いと思うことをしていくならば、認めてくれる人もいるかもしれないです。あまり、人に認めてもらおうとか伝わってほしいとか思いますと、そこが、「欲」として強く出てきてしまいます。

「応援の心は空である」、といったのは、まさに、その、認めてもらおうとか、伝わって欲しいとか、余計なお世話感にいかないような心、という意味でした。「非難したくなった」と僕が述べたのは、その、「伝わってほしい」とほぼ同じ意味です。

「応援」ということばを使ったのはですね…会社の、いわゆるイジワル上司と言われてしまう人をみていて、どうして後輩がついてこないのかなっと見ていたのですが、端的にいって、後輩のことを、応援してないように見えたのです。後輩が仕事できなくてもおもしろくない、かといって、できたらできたでおもしろくない…。あと、政治家批判も、同じように思いました。僕は政治については全くの無知ですが、たとえば、そうですね、安倍総理の見解に反対する人も、安倍総理を、応援することはできると思うんです。その、阿部さんが、みんなのために、少しでもよい意思決定をできますように…ということを祈る心です。その意思決定には、総理の辞任など、ありとあらゆることを含みます。なので、「支持する」ということとは、違うものです。

お坊さんに対する応援の心も、そのような意味でした。応援っという言葉がまずかったかも。

> > で、で、こういうことも、パラドックスが残る体系は、信じたくないが、信じざるを得ないものが残ってしまう、というお話とも、関係するのでしょうか…?
> >
> > また、見解は、拒否できる!のですよね、龍樹によれば。受けとらないという意味で。
>
> この辺、PLさまの言いたいことが、うまくつかみづらいのですが、まず、見解は拒否できます。

ああ、すみません、えーと、その、最近の知識のあり方とか、正当化の手続きというのを考えていたのです。「仕送りくれる親に感謝すべき」といった、倫理的なものもそうですが、たとえば赤ちゃんが笑ってるのをみて、「それは社会的微笑といってね、みんなに好かれることで生き残るためにしている笑みなのだよ」とか、まあ、理屈はわからんでもないけど、我が子の笑顔くらい、好きに解釈させてくれんかね?(+_+) って、不満を言ってもいいと思うんですよ(笑)。これが、見解の拒否なのかなぁって。実感として、赤ちゃんがそういう狙いで笑ってるように見えるかと聞かれると、ひとっつも、見えないですしね。

まさに、信じたくないが、信じることを強要してくるような知識が生まれてくる構造が、あるような気がするのです。

ここらへん、仏典の解釈にも関わりますよね。今回、先生がおっしゃった、「仮説」にも通じそうです。

> 自分が受け取りたくないと思うなら、そこは、そう表明するとよろしいと思います。それは、自分の態度ですよね。

うんうん。

> そして、自分は、反対意見はもたないならば、もたないということもできます。あなたとは争うことはしない、ということもできます。そうなると、どうなるかは、おおよそ想像がつくかと思いますが、そこでの仕打ちに耐えると、菩薩行ですね。

え?えーと、「この臆病者!」とか、罵られるということですか?

> パラドックスが残る体系にある人は、いろいろ言うことでしょう。ですが、PLさまがそのような態度をとったということから、そこに変化も生じてきます。
>
> そこには、倫理的な問題も見えてくるからです。自分たちが我をはっているようにみられてもまずい、とか、相手も思い始めるかもしれません。プライドの高い人たちは、自分が優位にいないと気まずいのですが、ごり押しで、優位に立つのも望まないのです。なぜなら、プライドが高いからです。
> 倫理面でも優れているとみなされたいということもあります。ですから、PLさまが、ブッダの立場をよく知って、そのとおりに行うならば、自分が思っているより、意外な感じで、問題なくいく可能性はあります。ブッダに信をもつなら、そこから、願が生まれ、それがものごとを好転させていくかもしれません。まあ、どうなるかは、わかりませんが。

ひょえ〜、思わず、にやっとしてしまいました。そうかぁ、どうかなぁ、プライドの高い人でも、倫理面でも優れているとみなされたい、というレベルの人は、個人的にはあんまり見たことないですね。大体、ごり押しで、優位に立とうとするところで、止まってしまっているような気がします。

個人的なことでいえば、僕は、そういう意味では半端じゃなくプライド高いことになるなぁ…(笑)

> プライドの高い人々は、ですから、ブッダの立場を理解しやすい人々である、とも言えるかもしれません。

うん!プライドの高い人は、かっこつけたい人って言えそうですか。かっこつけまくって、ブッダを目指したりできないかな…。


> > そうですね、みなさん、お坊さんといえば出世間的なものを期待しますよね。とはいえ、具体的にいって、出世間という原則は、どのようであればクリアしたことになるのでしょうか。
>
> ただ、結婚してない、とか、頭をそっていない、とか、そのようなことは、一般の人々は、それほど問題にもしていないでしょう。どれだけ、心が清らかであるのか、というそこに尽きるのではないでしょうか。どれだけ相手を害さずにいるか、ということでもあるかもしれません。やっぱり、「その人の人間性」ということになりますが、仏教的には、それは、諸法実相ということですし、空である、ということでもあります。

ん、諸法実相とか、空であるような人間性を期待している、ということですか?

> どれだけ世間から遠離しているのか、でもいいのかな。
> 世間にあって世間に染まらない、ということなんですけど、わかりにくいですかね。

いえ、なんとなく、わかります。


> > 数学の証明とか、定理とかも、そんな風に、つまり、関係を規定し、そびえたつ見解のように見えるのですが、どうでしょうか。こう、演繹的に、ああなってそうなってこうなる、ほら、証明できた、だから、これからこれを定理として使いましょう、みたいな。でも、これも、法(ダルマ)と観念実在論の違いについて以前、先生とお話しましたように、数学のことば達が常にある、と考えるのではなく、何回も、その都度リアルタイムで証明を試みても、そのようになる、とみるのならば、数学も法っぽくなりますか…?いや、そもそも、「数」というものが、仏教でいうダルマではないのかな。。。ここらへん、ややこしくなりそうでしたら、無視しちゃってください。
>
> 数学者の人と友達なのですが、その人が言うには、数学も仮説なんだ、と言っていました。
> こういう条件を認めるとするなら、こういうことは言える、ということだけで、それが、実際にあるのだ、とか、そこまでは言わないわけです。
> 仮説を超えて語ると、それは見解になります。そこで、争いを招きます。自然数というのを認めましょう。そうすると、自然数の範囲内では、こういうことが言える、しかし、自然数を自然数で割るという作業を認めると、小数という数を認めなくてはならなくなる。
> 。。というようにして、無理数だの虚数だのという領域が広がっていきます。

そ、そういうことですか…!いや、聞けてよかったです。

少数とか無理数のように、領域が広がるのはまあいいとして(?)、「すべての自然数の和<すべての自然数の和の2倍」とか考えると、パラドックスに陥る…というのも、自然数を実在視することからきてるのでしょうか?仮説を超えて。あと、図形の辺は、幅を持つのかどうか…とか、線は点の集合なのかどうか、とか。

龍樹が部派の人たちに語ったのも、一言でいうと、「仮説なんだぞ!」ってことなんでしょうか。それで、「ほら、仮説を超えて語ると、こんな矛盾が起こるんだぞ」っという風に展開され、二諦を説いたと…?

> 仏法も同じようですね。もの(バーヴァ)という領域を認めると、このように語れる。ですが、法(ダルマ)という領域でなら、このように語りうる、というように、仮説(仮設)されて語られます。

なるほど、ん、もの(バーヴァ)とは、なんでしたっけ?

> > > まあ、何と言いますか、本来ですと、因果の関係によって、時間の経過とともに話が進んでいきます。だから、結末はどうなるのか、はっきり言えないことが多いのですが、この場合、ゴータマはすでに悟りを開いてブッダになったことがわかっています。
> > >
> > > そうなると、「すでにブッダとなった」ということがらを基点にものを考えることができます。過去をふり返ってみれば、生まれるという行為によって、すでに、悟りは約束されていると解釈することも可能になってきます。
> >
> > ははーん、そういうことですか。最後の1文だけ、どういうことでしょう。どんなことも、結果を基点にすれば、その結果に至ることは約束されていた、と解釈してもいいのでしょうか。
>
> ここも、先ほどの「仮設」ということを考えなければなりません。「時を入れて語ります」という条件を持つなら、そこから派生して出てくるものがあるかもしれません。その「時」というものは、こういうものです、と定義づけるなら、結果から原因に向かう論理も出てくるかもしれません。定義の仕方によっては、出てこないことも考えられます。

なるほど、おもしろいです。

「その「時」というものは、こういうものです、と定義づけるなら」とは、どういうことですか?「因果の関係によって、時間の経過とともに話が進んでいく」というのは、時を入れた語りになっているということですよね?


> > たとえば、魔がさして悪いことをしてしまったとき、これと同じ論理を使って、「私が悪いことをするのは、約束されていた」ということも、言えるのでしょうか。そうなると、「私は、あのとき悪いことをしないこともできたのに、してしまった」という後悔の念は、どういう論理によるのでしょう。
>
> 「魔が差して悪いことをした」という言い方を可能にする論理と、「魔が差して悪いことをしてしまった」という言い方を可能にする論理とは、異なっているのではないでしょうか。
>
> すでに決まっていれば、「魔が差した」とは言わないと思います。また、あらかじめ定まっていると思うなら、「悪いことをしないこともできた」という言い方は出てこないでしょう。
>
> ※もうちょっとつけ加えますと、未来について決まっていないと思う人は、あくまでも「魔が差して悪いことをしてしまった」と受けとめるでしょう。

あ、ごめんなさい、「これと同じ(ブッダの悟りは決まっていたという)論理を使って…」という意味でした。「これ」の指す内容は、魔がさして悪いことをしてしまった、ということではなく。紛らわしかったですね。

ええと、こう聞けばいいのかな、「ゴータマの悟りは約束されていた」と語る人が、別のシーンで、「魔が差して悪いことをしてしまった」と語った場合、なぜ、ゴータマの悟りについては決定論的な見方をとっている(?)のに、悪い行いについては非決定論的な見方をとるのでしょうか、ということです。


> だから、部派と大乗は、分かれていくことになるのです。因果を主体にする立場と空を主体にする立場とです。きちんと使い分けできるなら、一切智者になるかもしれませんが、そうでなければ、どちらか一方でいく方が安全です。

んーーー!?一切智者になることと、空を主体にすることって、同じようなことだと思ってたのですが、どうでしょ。あるいは、因果と空を使い分けできるときに、空であるということでは…?あ〜、でも…うーん…。

> 7歩歩いて天上天下唯我独尊と言った、と述べたとき、どのような論理によっているのかを表明していることになるのですから。

ふーむ。

> > ということは、起こったことであれば、なんでも「証明されたこと」と呼んでもいいのでしょうか。それとも、ゴータマブッダの成道のように、ブッダになることを宣言し、その宣言どおりになったから、「証明されたこと」と言われるのでしょうか。つまり、「証明しよう」という意志とセットなのでしょうか。
>
> 「いったい何が起こったととらえられたのか」というところから考えることにもなります。
> わかるでしょうか。

ドキドキ…。

> 「これこれが起こった」と観るとき、そのことは事実として語られることになります。
> 事実を観たから、そのとおりに語ったのだというならば、事実なるものが、そこに厳然として「ある」ことにもなりましょう。そうとらえると、実在論的な立場をとることになります。

なるほど、そういうことですね。了解しました。

一応、確認ですが、「事実を観たから、そのとおりに語った」というのは、ブッダ論理学でいうところの、認識をことばにすることと、似て非なることですよね?

> 「何が起こったのか」ということから、決めていくのが、仮設をとる立場です。
>
> 「7歩歩いて天上天下唯我独尊と発した」ということが、起こった、としたのです。そこから、仮設された世界が一気に広がっていくのです。空ということが、すでに使われていることがわかりますか。

なーるほど。後の先生のことばを読んでみて、なんとなく、雰囲気ですが、方向性が見えてきました。

・・・うん!ブッダのその唯我独尊のことばに、違和感を覚えなくなってきました!

前に、カレー日記で僕とパラドックスについてやりとりしてるとき、先生がおっしゃっていましたね。空中楼閣にいる間は、それはそのままブッダの世界で、疑うとそこから転落するようにできてる、みたいな。そことも、通ずるお話ですよね…?

oさまに、浄土の世界ってどういうもんですかって聞いたら、今の肉体が滅んで死んだあと、六道の世界に生まれることなく、浄土の世界にずっととどまって、修行していくんだよっておっしゃっていました。それってまさに、このブッダ世界という空中楼閣に、居座り続けることに他ならないのかも!?

チベットの高僧もいってました。人は死んだあと、なんだか寂しくなって、また生まれたいって思ってしまうのだと。って考えると、浄土とか、ブッダ世界に安住することがどれだけ安心できるものか、分かりそうな。いろいろ、辻褄が合いそうですね。


ありがとうございます。とりあえず、ここで、ぽちっと送信。

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