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[11759] Re:[11758] 19.09.29 16980 認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/09/29(Sun) 13:43   [返信]
> >>  無明と行が同時に消滅したり、同時に生じたりすると、本来ならば、先と後は生まれません。
> >>  「同時」ということは、「互いに関係しない」ということだと、龍樹も述べます。
>
> この引用の 箇所 は 今 思い浮かびませんが、
>     ( 中論頌 には なかったかと 思いますが 、、、、 )


分かりやすいところだったら、引用しようと思いましたが、かなりややこしいので、論書の題名だけをあげます。
『廻諍論』と『十二門論』です。しかし、『中論』においても、少し考えることができるならば、「同時」はない、と理解できるかもしれません。


去りつつあるものにとって、去ることがあるというならば、
去る動きなしでも、去りつつあるということに帰着する。
なぜなら、去りつつあるものは、去るから。 (『中論』2.4)


ここに「同時」ということの意味が潜んでいるのをみることができるなら、龍樹は一貫したことを説いているのが分かるのではないかと思います。
春間さまだから、これで何とかしてください。


「『十二門論』における論法の用語をめぐって」
http://manikana.la.coocan.jp/twelve/twelve1.pdf

==========

『廻諍論』では、 第20偈が、実在論者からの反論で、それに空論者は第69偈で答えています。

あらかじめ否定があり、あとで否定されるものがあるとするなら、それはありえない。
あとに(否定があり、先に否定されるものが)ある場合も、同時である場合もありえない。なぜなら、自性は存在しているからである。(20偈)

これは、実在論者が立てた反論です。否定と否定されるものの後先を、空論者のやり方に倣って、反論しているのですが、これは、69偈の龍樹の答えによって、否定されることになります。

三時に関わるものについての「理由」は既に応答されている。同じであるから。
  三時を否定する「理由」は、空論者にとってあてはまるのである。(69偈)

この詩に対する解説は、龍樹が次のように語っています。
====
三時にわたって否定されることを語る「理由」は、すでに(批判的に)答えられていると、考えなければならない。どうしてか。成立すべきものに等しいから※。
あなたの言葉のとおり、三時にわたる否定は不可能である。否定と同じように、否定さるべきものについても、同じことが言える。それゆえに、否定と否定さるべきものがないとき、「(空論者の説く)否定はすでに否定されて成立している」とあなたが考えるのは、正しくない。三時の否定を述べる「理由」こそ、空性の論者の到達するところである。(わたしたちこそ)一切のものの自性を否定するのであって、あなたのなすところではないからである。
=====

※ 「成立すべきものに等しい」というのは、「サーディヤサマ」の理由の誤りのことで、空論者も実在論者も、同じ理由を自分たちの論拠にしていることを示しています。
上にあげたわたしの論文でもいくらかみることができます。

つまり、空論者は、あえて、自分たちが論争に加わることで、「サーディヤサマ」の誤りを犯して、実在論者と空論者の両方の議論を無効にしてしまっているのです。

ですから、「否定」と「否定されるもの」が、前後や同時の順序をもつとするならば、自性をもつ場合(=実在論者の説)は、まったく成り立たないことになります。

で、空論者はどうかというと、三時の否定を述べる、その「理由」こそが、空性の論者の到達したものだとあって、結局、双方が論争に負けることによって、空を説く者たちは、、空性の実を得る(=自性をもつものではないこと)、という展開になっているのです。

おもしろいことです。

これを説いたのが、『中論』第4章の第8偈と第9偈です。

「自性を欠く」と「自性をもつものではない」は異なります。前者は、虚無論者のような展開になり、後者が空性を示しています。すなわち、「因と縁がそろえば、結果が生ずる」ということを「自性をもつものではない」としている、ということなのです。

[11758] 19.09.29 16980 認識は 「 同時 」 に 順をもって起こされる 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/29(Sun) 07:14   [返信]
こちらにも 貼っておきましょう

  *********

Re: ブッダが説いた縁起 -  春間 則廣  09/29-07:11 No.16980

>>  <これ>がないとき<これ>がない」という式を用いることによって、順番が出てくるのだと思います

ある・ない は 認識 の (世)界です
“式を用いること”  に於いては( =とは )  認識を起こす =  「 識 」 が起きる ということです
「 識 」 を 起こす限りに於いては、 “同時” ということはありません

人の 「 識 」  の 起る順に於いて  十二縁起 が 起きます

認識というモノは 順を追って 起きるのです

起こす対象 には 順はありません
 ( それが モノ であろうと 思考という  「 識 」 というモノ であろうと )

>>  無明と行が同時に消滅したり、同時に生じたりすると、本来ならば、先と後は生まれません。
>>  「同時」ということは、「互いに関係しない」ということだと、龍樹も述べます。

この引用の 箇所 は 今 思い浮かびませんが、
    ( 中論頌 には なかったかと 思いますが 、、、、 )
“「互いに関係しない」ということ”   は
そのどちらに於いても、  “「互いに関係しない」ということ” という 関係性にあります
( ここが 理解できないのは 止むを得ません )
(  ( “同時” に於いて )関係しているのですが 理解=認識 できません  )

認識 という 道具 に 拠ってでは、 道具 は 道具 と 同じなので、
同じサイズ で 同じモノを (より細かいサイズとは)量ることはできません
認識 を 知ることは 認識に拠ってしては 出来ない
( あなたは 自分の顔を  認識に拠ってでは 見ることはできない )
( 「 己事究明 」 は 認識に於いて為される と 
   認識するけれど 、 “ 為される ” ・ “ 怠りなき修行 ”  なのです )

“ 順 ” というモノ  は  認識に起きる
修行 は    ひとつ(し)つつ = ひとつづつ  ≠ ひとつずつ 、
 “ 一つの認識 = (し) の上 ” に、  “修行” と    “ 認識される ! ”


>> なるほど、それは理屈だと思います。
>>  しかし、どのくらいの差か、といわれますと、計りがたいのです。

計れないことに 順 を 計ってはいけない
計れないことは  「 無量 」 に 属するのです

計れ得ること であれば 縁起に於いて  “難く” なく “容易”  に 計れます

>>  、「笑顔」と「幸せ」は同時と見てもいいだろう、というかもしれませんが、しかし、やはり「同時」では、「どこか違うだろ」という気もします。

その “ 気もします ” という 気は “ 認識の 起こり始め ” に おきるのです

>>  現実にはドミノ倒しのようには行かず、一つの一つの因果の式を「<これ>があるとき<これ>がある」「<これ>がないとき<これ>がない」を用いて、確かめていくのだと思います。

ドミノ倒しのように 認識 して行くのです
現実は ( 一つ一つの 現実 は ) 一つのこと で
一つが全部で、 全部で一つ   です 

いくら 区切って 認識しようと、  「 生 」 から 「 死 」 に 至るコト は 一つのことです

しかし、 最初に 「 無明 」 が 起きること は、  大事  の ことです
( 大・小 は 縁起するから  大事にしなければ
   「 無明 」と 「 行 」 とに  区別がつかない → 認識の “ 分 ” が 起きない )

>>  ドミノ倒しのように全ての因果の項目が滅するとすれば、それは、ほとんど悟りの直前だと思います。あらゆる項目を全部検討し終わって、すべてがつながった十二の鎖を完成させたとき、最後に無明が消えると苦まで全部が消えていくのでしょう。ほとんど一瞬のことかもしれませんが、その時、その階梯全部を掌握して、解脱しているので、やはり順序が出るのだと思います。

最後 の ドミノ が 最初 の ドミノ です !

最初のドミノ を 倒すときに 悟り は ソコにある  ( ドミノの下にある )
最後のドミノ が 倒れた時に、 「 己事究明 」 は   ドミノの下にある 
( 上下左右 中心 は “執着” に 於いて 起き
 “ 終着 ”  には そのような執着 は ないから そのどれであろうと 起きることはない )
自己 を 倒したものを  (すでに)到達した者  と 言う

上下左右 は 中心(自我・自己) を もってして(握りしめて)  “ 計られる ”  認識  です


[11757] 三善行によってナーガ身を離脱する 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/28(Sat) 22:06   [返信]
ナーガを崇拝するのも結構だが、経典におけるナーガの扱いは、公平に見て次のようなものである。
相応部経典・ナーガ相応


以下引用




ガンダッバが善き転生先ではもっとも下位であるという記述があります。ガンダッバは線香の煙を食べる先祖霊のようなものだと思います。ガンダッバのパンチャシカがバッダーという天女を歌によって口説くくだりがあります。死後の世界にも地上に類似の性的欲求はあるようです。ガンダッバやナーガは四大王の配下にいる神々です。

 [四大王]
 東:持国天、ダタラッタ。ガンダッバ(香りを食べる)たちの大王。
 南:増長天、ヴィルーラ。クンバンダ(睾丸の大きい者)たちの大王。
 西:広目天、ヴィルーパカ。ナーガ(龍)たちの大王。
 北:多聞天、クヴェーラ。ヤッカ(神霊)たちの大王。

ですから、ナーガやスパンナへの転生を望むよりは、ガンダッバやヴァラーハカ以上の六欲天や梵天への転生を望んだほうが遥かに楽しみが多いと思います。聖なる信戒聞施慧の五財を備えたり、十善業道を行なう者が漏尽の倶分解脱を繰り返し繰り返し希望するならば漏尽の倶分解脱に達するという記述もあります。できる限りの高い志、「大志を抱く」にしくはないと思います。自分の利益を欲する人は。


[四相応のまとめ]

 龍 ナーガ    善悪双方を行なう者が転生  4種族 卵・胎・湿・化
 鳥 スパンナ   善悪双方を行なう者が転生  4種族 卵・胎・湿・化
 香 ガンダッバ  三善行を行なう者が転生  10種族 根・心・膚・皮・芽・
                           葉・花・果・液・香
 雲 ヴァラーハカ 三善行を行なう者が転生   5種族 寒・熱・雷・風・雨

 業成就:転生先が三善行が必要ならば三善行を成就する。   ← 戒財
 聞成就:その転生先について聞いて知識がある。       ← 聞財
 願成就:その転生先に転生したいと願う。          ← 信財
 施成就:その転生先に転生したいと願いつつ何かを布施する。 ← 施財

     五財:信財・戒財・聞財・施財・慧財



[ナーガ相応のまとめ]

 卵生のナーガ[下] → 三善行 → ナーガ身を離脱して転生
 胎生のナーガ[中] → 三善行 → ナーガ身を離脱して転生
 湿生のナーガ[上] → 三善行 → ナーガ身を離脱して転生
 化生のナーガ[最上]→ 三善行 → ナーガ身を離脱して転生
 善悪双方を行なう人 → 卵生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 → 胎生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 → 湿生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 → 化生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う → 卵生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う → 胎生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う → 湿生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う → 化生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う + 布施援助 → 卵生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う + 布施援助 → 胎生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う + 布施援助 → 湿生のナーガ に転生
 善悪双方を行なう人 +聞いて願う + 布施援助 → 化生のナーガ に転生

  聞:彼は聞く。「○○は寿命が長く、容姿が美しく、楽しみが多い」。
  願:「ああ、実に私は身が破れ死して後に○○の仲間に生まれよう」。
  布施援助:食物・飲物・衣・乗物・アクセサリー・
       香・塗物・寝具・住居・照明を布施する。
  善悪業:ある者は身・語・意によって善悪を為す。
  三善行:必ずや私は今から身善行・語善行・意善行を行じようというウポーサタ

[11756] Re:[11755] 高級トラップとしての「空」 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2019/09/27(Fri) 23:53   [返信]
> 波止場の哲学者エリック・ホッファーですか。

私の場合だが、クソ忙しく肉体労働をしていても、夜、読む時間くらいはある。そういう意味ですよ。

龍はスッタニパータを読めばよく出てくる。読まないと話にならない。

[11755] Re:[11752] 高級トラップとしての「空」 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/27(Fri) 20:11   [返信]
> > 大多数の下から見上げる読者には対した害を及ばさないが、先生の「空」は、高度な修行者に対して仕掛けられた極めて巧妙なトラップで、このトラップにはまると数劫の修行を無駄にすることになるだろう。
>
> > このトラップの背後には、「龍」なのかどうかよく解らないが、おそらく「魔」がいる。
> > 先生も「魔」に使われていると思われる。
>
> もう、何ですかね、「魔(マーラ)」はいますよ。
> 結局、「空」というのは、からっぽなのだから、相手を批判しているつもりで、はっと気づくと自分のことを一生懸命語ることになってしまっているのです。

議論を面白くするためには、こういう筋立てもあっても良いのではないですか。
>
> 戦う相手が違います。
> 自分自身と闘ってください。

護法神修羅は女神カーリと闘っています。

>
> 自分で自分に罠を仕掛けなくてもいいでしょう?

常に自己を苦境に追い込む癖があるので。

お互いの立場の違いも明確になったし、ここらでとりあえず区切りをつけましょうか。


>私自身もエリック・ホッファー的な探求者なので、地道に探求している人間に共感を覚える。

波止場の哲学者エリック・ホッファーですか。

そういえば私の俳句に、「波止場にて花火を仰ぐ禅定仏」というのがありました。

[11754] Re:[11752] 高級トラップとしての「空」 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/27(Fri) 18:39   [返信]

> >   もっともそのお陰で、今の学者としての地位を得たのだろうが。
>    いやはや。地位はないですが。

無冠 の 冠 を 身にする

地位がない ということは、 そういう地位にいるということ

取り立てて、 地位と言うほどの地位ではない
ということか 、、、、

所属する大学 は 哀れ 、、、、

> 他人にばかり目を向けながら、瞑想しても仕方がないのです。

そんなモノ は 「 瞑想 」 では ありません

自己 という 他 に 向き合うことが 「 瞑想 」 です

自己の中で 完結するから 「 一人行く 」 となるのです

ま、 犀の角 は 犀に同体ですが 、、、、

“ 犀の角のよう ”  は “異体” です 

この意味が分からなくとも、 
それをして  「 瞑想 」 に ない  ということにはならない

あるかどうかは、
    あったり・なかったり する時には
ないところで 「 識 」  に 上がる
    →   「 瞑想 」 に ない

常に そこ( 「 瞑想 」 )に ある時には 
「 瞑想 」 を 「 瞑想 」 と 知る(覚知する)こと は ないが

目を移しさえすれば そこに 「 瞑想 」 が あるかどうかは 分かる
自らの世界であるといえども、 松もあり  石もあり  智もある

他(仏法)によって 証される のです  →  万法すすみて自己を修証する

『 現成公案 』 ( 現成正覚 公案 )
「 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。 」


[11753] Re:[11750] 高級トラップとしての「空」 投稿者:えび天サンバ 投稿日:2019/09/27(Fri) 18:17   [返信]
> 大多数の下から見上げる読者には対した害を及ばさないが、先生の「空」は、高度な修行者に対して仕掛けられた極めて巧妙なトラップで、このトラップにはまると数劫の修行を無駄にすることになるだろう。
> だから私は、しっかり闘わなければならない。

極めて高感度な探求者の姿だ。私自身もエリック・ホッファー的な探求者なので、地道に探求している人間に共感を覚える。

しかし、学者などは所詮、上から批判されている存在だということはご存じないらしい。もっと批判したまえ。そうすれば自身のよって立つところも明らかとなるだろう。

[11752] Re:[11750] 高級トラップとしての「空」 投稿者:管理人エム 投稿日:2019/09/27(Fri) 14:50   [返信]
> 大多数の下から見上げる読者には対した害を及ばさないが、先生の「空」は、高度な修行者に対して仕掛けられた極めて巧妙なトラップで、このトラップにはまると数劫の修行を無駄にすることになるだろう。

> このトラップの背後には、「龍」なのかどうかよく解らないが、おそらく「魔」がいる。
> 先生も「魔」に使われていると思われる。

もう、何ですかね、「魔(マーラ)」はいますよ。
ラーダに尋ねられて、ブッダは、貪瞋痴の三つを挙げていると思います。
自己の中に潜んでいるのです。

spinobuddhistさまが、決して見ようとしないご自分の中にいるのではないかと思います。

「空」というのは、純粋に知ろうと思う人には有益ですが、不純な動機で近寄る人には、思わぬ反撃が来ることになる、と申し上げたでしょう。

結局、「空」というのは、からっぽなのだから、相手を批判しているつもりで、はっと気づくと自分のことを一生懸命語ることになってしまっているのです。
わたしは、「空」を用いていると申し上げたはずです。

わたしが空なので、spinobuddhistさまの批判は空回りしてしまって、風に逆らって投げる塵のように、全部自分に返ってくることになっているだけです。トラップでもなんでもなくて、ただの身から出たさびにすぎません。


> もっともそのお陰で、今の学者としての地位を得たのだろうが。

いやはや。地位はないですが。
>
> だから私は、しっかり闘わなければならない。

戦う相手が違います。
自分自身と闘ってください。

自分で自分に罠を仕掛けなくてもいいでしょう?

インドの哲学は、自己の探究なのです。
ブッダもそういっているし、ほかのインドの哲学諸派もみなそうです。
自己に深く迫るがゆえに、瞑想が有効なのです。

他人にばかり目を向けながら、瞑想しても仕方がないのです。

[11751] Re:[11750] 高級トラップとしての「空」 投稿者: 春間 則廣  投稿日:2019/09/27(Fri) 13:55   [返信]

> このトラップの背後には、「龍」なのかどうかよく解らないが、おそらく「魔」がいる。
> 先生も「魔」に使われていると思われる。

あなたの 「魔」 に 対応して   対応する“魔”  を  つくることが出来るのです
  ( 論じているのではない  ということは、 そういうことです )    
 
「魔」に使われているのは あなたで
“魔”を使って (!)
  「魔」に(使われる あなたに)対応しているのが、 
管理人エム 様 です

> だから私は、しっかり闘わなければならない。

「魔」ー 頑張りなさい
( しっかり闘わなければ という  “あえて”      闘いを起こす )          
  “あえて”     と      “ 頑張る前提 ”  には、 自己否定がある

あなたの魔 が あるが、 
あなたにある魔は 自己の魔によって 見えない

他にある魔 は 自己のモノ(自己の見解)として 見える


> もっともそのお陰で、今の学者としての地位を得たのだろうが

間違えてはいけない
敢えて 捨てたから  今の学者の地位 しか 得てはいないのです

得た のではなく
       ( ま、 自己都合で 得ているのには かわりはないが 、、、、 )
他者の都合で “ 得させられて 得ている ” のです


( ちょっと 持ち上げすぎかな ? )



[11750] 高級トラップとしての「空」 投稿者:spinobuddhist 投稿日:2019/09/27(Fri) 13:18   [返信]
大多数の下から見上げる読者には対した害を及ばさないが、先生の「空」は、高度な修行者に対して仕掛けられた極めて巧妙なトラップで、このトラップにはまると数劫の修行を無駄にすることになるだろう。
このトラップの背後には、「龍」なのかどうかよく解らないが、おそらく「魔」がいる。
先生も「魔」に使われていると思われる。
もっともそのお陰で、今の学者としての地位を得たのだろうが。

だから私は、しっかり闘わなければならない。

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