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[10444] Re:[10441] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/12(Thu) 13:48   [返信]
>
> あなたの場合は
>
> > 触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
> > 触れる主体が 明確になります
>
> ということを 承認 出来ない でしょう

わたしのことかな?
実は、とても、乗りにくいお話です。

そもそも主体は説かないし、「触れられる」「触れる」というのも、エルンスト・マッハに合わせているだけなので、本当は、

触があるとき 受がある
触がないとき 受がない

と言って、済ませたいところです。

むしろ、仏教の「触」という方に興味があります。これは、とても不思議な言葉だと思っています。「触れる」「触れられる」という、普通のことばとも異なって用いられます。

ブッダが、さかんにサーリプッタに向かって、「触」を意識せよと教えているように見えます。

[10443] πドン 鈍 MY   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/12(Thu) 08:57   [返信]

プラトン (にかせられる著作) に 「パイドン」 が あります

    そこに 置かれた 問  です

一本の棒  があり もう一本 を   足す と 二本 となります
その
一本の棒  を    半分   に   切る と 二本 となります

合わせること と 分けること  という 正反対の(思考)操作から 
同じ 「二」 が 生じます
  ( 同じ 「 二 」 ではない  とするなら 概念の 構成要素の 定義を 変えなければなりません )

こういうこと(を 究竟する) には 哲学する者に ある種の 資質を 要求します


[10442]    「 縁起 」 は 「理」 で とらえられるか  ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/12(Thu) 08:39   [返信]

家 というものを “立て”  (仮に建立する)
そこを 認識の  場所であり 主体(仮和合)   と  します

ドア があり 
そこから 侵入者  を設定します
感覚 です (おかしな話になるのは 想定済みです 感覚は 五蘊です)

家を出る     という  感覚 は 
触れる    に 相当させます
家に入ってくる  という   感覚 は
触れられる に 当てます

>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、
>     これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。

触れる  は 誰でも(どの主体にでも) 触れる時に起きますが
触れられるという感覚が  “同時に 感じられる ” という 概念(感覚の意識化)は
触れる者と   触れられる者との        合一において
   初めて   (同じ) “五蘊” (認識を持つ家)    に    存在します

触れる者  と   触れられる者    とは  同一“者” に 存在する
 と     いうことは
存在者(唯一なる五蘊の存在) を   個別の存在 として  存在させなければ
成り立ちません

( また 同時  という 概念も 詳細なる考察を要します )
触れる のと 触れられる のとが  たとえ 同時に起きていても
その感覚の 意識化は 同時には操作されず 順を追っています

この場合には “順序”が あっても “同時” と される のが  あなたの認識です
それは 受者 と 授者 とが 一体化されているということです ( 縁起に沿います )

《《 縁起の理   を  《 沿う(と知った)からといって 》   知った  と  早合点してはしけない 、、、、 》》

ここまで 記述をしても  感覚の授受 は 同一  ですか


だったら 認識に 順序があろうと 現象は 順になく “同時” にある

出入りの現象と 家が建つ場所に起きる世象 と それを支える 世間の認識 は  “同時”  ではないですか ?


これが  「 永遠 」 に    どうつながるかは
あなたの生きざまにおける   探求(究竟)    です

繋がれば 同ジ(時・自) は  
起きていて も   不思議ではない(思議に上らせることができている)


[10441] Re:[10440] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:43   [返信]

あなたの場合は

> 触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
> 触れる主体が 明確になります

ということを 承認 出来ない でしょう

これは
 触れられる  と 触れる  とを  入れ替えても 論理的には 成立する構文ですが
わたしには 
どちらも 成立させることができなく
接触  だけが 宙に浮きます
(  もちろん 接触感触  は 脳に(?) 起きています が 認識の主体が  ない  )


[10440] 触れる 触れられる 同一個体に存在できますか ?   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:34   [返信]

[10439] Re:[10437]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:31

> > > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
> >   他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

観察する 主体 ではなく
触れられた 主体 が 観察するわけです
( あなたの場合には ) 
観察する主体 も 触れられた主体も  主体の所属  で   “ 同一 ”  主体となります
( そう わたしは 観察します )

> >  触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます
>    そうなんですか??
>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。


エルンスト・マッハ  は 西洋的な 論理を 排除できる面を持っています

触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
触れる主体が 明確になります

> 自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

触れる  と 触れられる   と( の間 )で
自他は区別  されます

( 特殊な場合 = わたしの感覚 を 除いて )
自らが 自らを 触れる時は 自他 というふうに 区別は しないものです
( わたしは そのとき 感覚においても すでに 自己を 懐失 して いるのです 、、、、 )

あなたは 触れる と 触れられる  とを
 同一個体= 自分 に (独立の触感として それぞれを区別しつつ)共有できますか ?


あなたが出来ても  “  わたし には 出来ない  ”


わたしに出来ないことが  あなたに出来るということは  不思議にあり  思議できません
( これは 聖者の 苦楽 とは “趣” を変えます )



[10439] Re:[10437]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/11(Wed) 20:31   [返信]

> > > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
> >   他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

観察する 主体 ではなく
触れられた 主体 が 観察するわけです
( あなたの場合には ) 
観察する主体 も 触れられた主体も  主体の所属  で   “ 同一 ”  主体となります
( そう わたしは 観察します )

> >  触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます
>    そうなんですか??
>     『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。


エルンスト・マッハ  は 西洋的な 論理を 排除できる面を持っています

触れられる ということを 除外できる時のみ( 自己というものが起きていて )
触れる主体が 明確になります

> 自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

触れる  と 触れられる   と( の間 )で
自他は区別  されます

( 特殊な場合 = わたしの感覚 を 除いて )
自らが 自らを 触れる時は 自他 というふうに 区別は しないものです
( わたしは そのとき 感覚においても すでに 自己を 懐失 して いるのです 、、、、 )

あなたは 触れる と 触れられる  とを
 同一個体= 自分 に (独立の触感として それぞれを区別しつつ)共有できますか ?


あなたが出来ても  “  わたし には 出来ない  ”


わたしに出来ないことが  あなたに出来るということは  不思議にあり  思議できません
( これは 聖者の 苦楽 とは “趣” を変えます )



[10438] 縁なき衆生 投稿者:莓箭毒蛙 投稿日:2017/10/11(Wed) 19:31   [返信]
もはや、マニカナHPと掲示板の内容から落ちこぼれて久しいです。
阿修羅之間の議論も用語すらわからないっす。縁なき衆生ですね。縁なき蛙か。

空の人たちと梵我一如の人たちのマウンティング合戦のようですが、
まったくわからない。

空が好きな人は空が好きでいいし、梵我一如が好きな人は他人に迷惑をかけなければ
それで幸せならいいのではないですかね。

空にも梵我一如にも興味がわかないです。
二諦とかなんだかなぁと。

愛の反対は憎しみではなくて無視らしいですが、ほんとその手の世界観に興味がない。

[10437] Re:[10436]  Re:  自他 の コンリュウ   投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/11(Wed) 19:25   [返信]
>
> > >     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
> > >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> > > としています
> > 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
>
> 触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます

そうなんですか??
『認識の分析』では、「自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる」と言っているとありますが、これは、「触れる主体」を、置いているのではないのですか。

自他を区別する時点で、すでに「触れる主体」が想定されているような感じがします。

[10436]  Re:[10435]   自他 の コンリュウ   投稿者:  春間 則廣   投稿日:2017/10/10(Tue) 08:29   [返信]

> >     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
> >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> > としています
> 自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?

触れる主体 を 置くと  同じ感覚を意識できます

> 自らの体に触れると、「触れられた」という感覚はありますが、他の体だと、「触れられた」という感覚はないですね。
> >     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる

触れられたという 感覚を、
 触れるという   感覚と  同じ個体(自分)に 感じられるということです

(ちなみに わたしの場合は、 右左 の 手の 甲と掌 との間に
  温度差があるとき それらを左右を 上下に重ねても、両方の感覚を共有することはできません)

> 「触れた」という感覚は、どちらにもあります。

それは “自ら” という主体が
他 にも ( 他が対面する 他と 同様に )起きているということです

> やがて接点だけを意識すれば。。どうなるのかな?

わたしの場合は 接点しかありません

> 触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

よく観察 してみて ごらんなさい

わたしだけに特有なことではないと分かります
( たとえ 分かりたくなくて、分からなくても、
   あなたにとっての     他であるわたしの接点は あなたの他 に 存在する )

わたしの言葉から わたしの接点が 触発されます
あなたは それを 自分というものを置いて 他と峻別し
自他の 間に(間という接点ではなく、自己という確立させたこの意識に) 
それぞれの 意識の違いを置きます( 置くところは あくまでも 自己意識の内です )

自己の意識を 他に及ぼし 他を自己に取り込む
(  自が 他に 取り込まれると 庭の石  と なります  )

リョウアンジ  は  リュウアンジ  とは  読みません
立案      と   量案       とに  考察できます
思量 を 暗示しています
立つところ(存在の住処) を 公案します( 妙心寺派 です )

織田家は 曹洞宗(万松寺) ですが 信長を諌めた 正秀(正秀寺) は 臨済宗で
ともに 大須 に “立・リュウ”寺 しています
妙心寺派の(元)管長 河野太通 が  説法に来続けています
新管長は  徳源寺師家 で  岐阜大学出身 でした

はなしが それているとするなら  それていないところを 見失っています
( どうそれていないかを 説明しているのですが
         それているところを 述べていると
   自らの手の感触を 掌・甲 を一つにし 共に自らにあるとする )

この(先のあなたの記述した)疑問符 ?  は 
誰に向けられているかを 特定できますか ( 特定してはいませんか ? )

>  触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

これでは 生滅 を 説くことにはなりません
触 が 生じないのに   受 が 生じている
触 が 滅しているのに  受 は 生じている

自己の内には 蝕は ありません
( “当然” の こと として  ある とし  存在を 究竟することがない
    そこにおける “当然” の 帰結   そして 起きている 自己の存在は 確定している )

経を読んでも 経を知らず ( ここにおいて わたしという個 は 経を読めていなくて 聞いてもいない ということが “当然” の 帰結として 量(リュウ) 解  される )


[10435] Re:[10434] 『十二門論』における論法の用語をめぐって の UPありがとうございます。 投稿者:管理人エム 投稿日:2017/10/10(Tue) 03:26   [返信]
> 自らの為に 書いた  と  はっきり理解します
>
> わたし  と あなた  との  差異を 規定してください
>
> エルンスト・マッハ は 
>     自己を 他と区別 する点は 自らが 自らの体に触れると
>     他の物体に触れる時と 違う感覚を観察できる  ( 「認識の分析」 法政大学出版局 6p. )
> としています

自らの体に触れるのと、他の体に触れるのとでは、違う感覚ですか?
自らの体に触れると、「触れられた」という感覚はありますが、他の体だと、「触れられた」という感覚はないですね。

「触れた」という感覚は、どちらにもあります。

やがて接点だけを意識すれば。。どうなるのかな?
触が生ずるから、受が生ずる 触が滅するから、受が滅する

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