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[104] 石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解
日時: 2018/01/10 19:48
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

1.
 石飛道子は、『十二門論』においては、本来「成立(証明)すべきものに等しいもの」であるはずの表現が、青目=鳩摩羅什によって「同疑因(疑いに等しいもの)」に置きかえられている点に着目し、ここから次のような結論を得ている。

  簡単に言うなら、青目にとって、空は、一切の論法を超えて成り立つ、賞賛される理論であ  るようだが、『十二門論』作者や『廻諍論』作者にとっては、空は、「成立すべきものに等  しい」という理由の誤りによって見解を捨てる道なのである。

「成立(証明)すべきものに等しいもの」は、例えば次のような形で示される。

  虚空は常住である、触れることができないから、意識のごとくに。

 しかしながら、同じ内容は、「同疑因(疑いに等しいもの)」によっても、次のように示されうる。

  「虚空は触れることができないが、恒常なのか無常なのか」と疑うとき、他の人が、  「虚空は触れることができないから恒常である」というようなものである。

 問題は、この二つの「誤った理由」の違いから、石飛のいうような結論が、論理的に導き出されうるのか、ということである。
メンテ

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石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解8 ( No.7 )
日時: 2018/01/10 20:11
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

8.
 外縁起を譬喩(実例)として内縁起が把握されるとは、具体的にはどのようなことなのだろうか。外縁起とは、われわれを取り巻く環境世界(器世間)における、物理的・心理的あるいは社会的な、因果関係の網の目である。したがって、外縁起を譬喩(実例)として内縁起を把握するということは、われわれの周囲で刻々と転変していく経験的事実を譬喩(実例)として、内縁起を把握するということである。これは逆にいえば、われわれの日常生活における経験的事実をすべて、宗教的価値観に基礎付け、意味づけていくことである。つまり、日常生活の宗教化である。
 しかしながら、このような日常生活の宗教化は、近代以前においては、特定の宗教組織が規定する信仰や信条と結合して、宗教的偏見や先入観を形成し、社会的発展の停滞や混乱をもたらしていた。西欧近代が打破したのは、まさにこのような停滞や混乱である。
 しかしながら、近代西欧文明は、確かに宗教的先入観を打破し、社会に技術的革新をもたらしたとはいえ、同時にみずからを宗教的道徳観や自制からも解放した。その結果、植民地主義・資本主義・共産主義などの、暴力と破壊を世界にもたらしたのである。
 この近代西欧文明を担い、科学的探求を行なう主体は、デカルトの方法的懐疑によって初めて明確に規定された。「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)である。このコギトは、疑う主体である限りにおいて、形而上の命題について判断を保留したが、逆にそれによって、例えば「杭か人か」というような形而下の疑いに対しては、経験に即して純粋に探究することを可能とした。セクストスもまた、近代以前の懐疑家であるとはいえ西洋文明のなかにあったので、日常生活では医者として活躍し、経験主義者を自認していた。
 つまり、彼らは、程度の差こそあれ、ともに外縁起から内縁起の譬喩(実例)としてのステータスを剥奪することによって、証明されるべき経験的命題の主語を同一的なものとして安定的に追求することを可能とし、またこれを追求する主体としての自己の同一性をも安定的に確保することに成功したのである。
 だとすれば、今われわれに問われていることは、刻々と変わりゆく経験的事実をこのように単なる科学的対象におとしめることではない。かといって、それらに様々な宗教的理由を与え、世界をブラフマンの多様な現われとして崇めることでもない。今われわれに問われていることは、ただそれら刻々と変わりゆく経験的事実を譬喩(実例)として、内縁起に絶えず向かい合い続けることである。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解9 ( No.8 )
日時: 2018/01/10 20:13
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

9.
 なお、私は先に、龍樹は、何かの恒常・無常の不成立を問題にしているのではなく、何かに恒常・無常を述定する「理由」の不成立を、問題にしているといった。ここで、「理由」というものが十二支縁起において占める位置を、確認してみよう。 
 『蘆束経』において、識から始まる十支縁起が示され、そこにおいて識と名色が相互依存の関係にあることが示されている。「理由」というものは、この「識-名色複合体」において成立するものであると、考えることが出来るだろう。位置的にいっても、外縁起(すなわち「実例」)と、内縁起(すなわち「主張」)の中間に位置しており、両者に対して媒介的に働くものと、見ることができるからである。
 そしてまた、龍樹が「戯論」(プラパンチャ)と呼ぶものも、この「識-名色複合体」において成立するものであると、考えてよいだろう。というのも、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、外縁起すなわち外界の事物を否定しているのでもなく、また逆に、内縁起すなわち超越的理念を否定しているわけでもないからである。かといって、もちろん、両者を肯定しているわけでもない。前者に関しては、いわば「幻」のようなものとして肯定し、後者に関しては、「無記」(語らない)というかたちで肯定するのである。恐らく「理由」を滅尽しさえすれば、両者は自ずとそのようなものとして立ち現われるのだろう。
 例えば、次のような俳句を作ることも、外縁起を譬喩として内縁起を把握することになる。

 秋風に身を託したる流れ雲

 とはいえここには、「理由」はない。「理由」がないので、哲学的言明あるいは論証にはなり得ない。しかしながらわれわれは、常に理由なく生きているわけではない。むしろ逆にわれわれは、日常生活において自らの行動に様々な理由を与え、「目的」に向かって自らの将来を「設計」し、行動している。そしてこのような日常生活の理由付けが、おそらく哲学的な言明に対する理由付けの、基盤ともなっているのである。
 したがって、龍樹が戯論の寂滅を説くとき、それは、なによりもまず「理由」の滅を説いているのだと、考えるべきであろう。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解10 ( No.9 )
日時: 2018/01/10 20:15
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

10.
 今ここで、

 A は B あるいは C か

という「疑い」を、論証式によって表わすことにしよう。とはいえ、疑問文や命令文や感嘆文は、真偽値をもつ命題にはならない。したがって、この「疑い」を平叙文に変換すると、次のようになる。

 A は B あるいは C である

 確かに「杭か人か」というような経験論的な疑いであれば、これを「これは杭かあるいは人である」と言いかえても、なんら問題が生じることはない。もちろん杭でも人でもない可能性はあるが、しかしそれは実際に確認して検証することができるからである。
 しかしながら、哲学的な疑いについては、そうはいかない。哲学的・形而上学的な「疑い」に関しては、そのように疑問文をたんに平叙文に変えるだけでは、石飛が指摘するように、例えば「因中有果か無果かについて「疑い」があるという意味なら、有果か無果かのどちらかは成り立つはずであると、相手論者はせまる」ことになってしまうからである。
 したがって、哲学的・形而上学的な「疑い」は、真偽値をもつ命題としては、必然的に次のようなかたちをとることになるだろう。

 A は Bである あるいは Cである あるいは BでもなくCでもない 

 このようにすれば、AはBでもCでもない可能性が確保されるので、「疑い」は少なくとも「判断保留」としては、成立しうることになる。逆にいえば、われわれは、哲学的・形而上学的な疑いをもつとき、つねにこのような「BでもなくCでもない」を想定している、ということがいえるだろう。
 なお、選言命題には、選言肢のうち少なくとも一つが真であることを立言する非排反的選言の場合と、選言肢の一つがそして一つのみが真であることを意味する排反的選言の場合とがあるが、上の命題は排反的選言命題となる。
 それでは、今ここで、この懐疑論的命題を否定してみよう。

 「A は B あるいは C あるいは BでもなくCでもない」のではない

 ド・モルガンの法則により、「BかつC」の否定は「BでもなくCでもない」とはならず、「BでないかあるいはCでない」となる。逆に、「BあるいはC」の否定は、「BでなくかつCでない」となる。したがって、この否定命題は、次のような連言命題になる。

 Aは Bでもなく かつ Cでもなく かつ BでないのではないかあるいはCでないのではない

 そしてこの複合命題を、三つの命題に分解して並置して表記すると、次のような三句分別になる。

 Aは Bでない                    1
 Aは Cでない                    2
 Aは BでないのではないかあるいはCでないのではない 3

 これは明らかに、矛盾した内容をもつように見える。それゆえ、われわれはこの三句分別を、矛盾的三句分別と呼ぶことにしよう。
 この矛盾的三句分別こそが、懐疑論の否定であり、「中道」なのではないだろうか。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解11 ( No.10 )
日時: 2018/01/10 20:18
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

11.
 ここで、『十二門論』で「同疑因」が最初に出る「観有果無果門第二」を検討してみよう。ここでの対論者の主張は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれる あるいは含まれない あるいは含まれかつ含まれない

 ただしこの「あるいは」は「ある時は」という意味であるから、次のような三句分別で表わせる。

 (ある時は)結果は原因に含まれる
(ある時は)結果は原因に含まれない
(ある時は)結果は原因に含まれかつ含まれない

これを形式化すると、次のように表記される。

 Aは (ある時は)Bである       1
 Aは (ある時は)Cである       2
 Aは (ある時は)BでありかつCである 3

 われわれはこれを、存在論的な三句分別と呼ぶことにしよう。これに対して、龍樹の反論は、次のように表わされる。

 結果は原因に含まれることはなく 含まれないこともなく 含まれかつ含まれないこともない

 これは、次のような形式の三句分別である。

 Aは Bでない       1
 Aは Cでない       2
 Aは BでもなくCでもない 3

 この三句分別は、BとCの可能性をすべて否定するものであり、虚無論的なものといえよう。それゆえ、われわれはこれを、虚無論的三句分別と呼ぶことにしよう。実際のところ、龍樹による否定論証のほとんど大部分は、形式的に見るかぎり、虚無論的な構造をもっているのである。
 とはいえ、石飛がいうように、龍樹の意図はもちろん、虚無論の主張にあるのではなく、対立する二つの主張を提示することによって、「理由」の不成立を論証することにある。ただその「理由の誤り」が、「同疑因(疑いに等しいもの)」なのか「成立(証明)すべきものに等しいもの」なのかが、ここで問題となっているのである。
 しかしながら、われわれがこれまで確認してきたことに従うかぎり、たんに存在論的三句分別に虚無論的三句分別を対置することは、「懐疑」を否定するには十分なものとなりえないのである。
 次に、『十二門論』で「同疑因」が二番目に出る「観三時門第十一」を検討してみよう。対論者の主張は、存在論的三句分別として、次のように示されうる。

 原因は結果より先にあるか、あるいは結果より後にあるか、あるいは結果と同時にある。

 原因が結果より先にあるとは、原因が「過去」にあることを意味する。原因が結果より後にあるとは、原因が「未来」にあることを意味し、「目的因」などに当たるものだろう。原因が結果と同時にあるとは、原因が「現在」にあることを意味する。
 ここで注意すべき点は、「現在」とは「過去でもなく未来でもない」ものではなく、「過去でありかつ未来である」ものである、ということである。これは、線形的な時間を考えるとわかりにくいが、「永遠の今」という哲学的主張を考えると、解りやすいだろう。過去を振り返ることも未来を期待することもともに現在においてある、ということである。
 この対論者の存在論的三句分別に対して、龍樹が示すものは「三時の否定」(三時門破)であるが、要はまたしても虚無論的三句分別なのである。すなわち、

 原因は結果より先にあるのでもなく、結果より後にあるのでもなく、結果と同時にあるのでもない。

 龍樹の主張がここにとどまるのであれば、われわれの「疑い」は、晴れることはないであろう。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解12 ( No.11 )
日時: 2018/01/10 20:21
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

12.
 われわれは先に、次のような三句分別を、仮に「矛盾的三句分別」と呼んだ。

 Aは Bでない                    1
 Aは Cでない                    2
 Aは BでないのではないかあるいはCでないのではない 3

 今ここで、龍樹の言う「八不」を、上の命題に当てはめてみよう。すると、次のようになる。

 A は 不生不滅 かつ 不生でないかあるいは不滅でない
 A は 不常不断 かつ 不常でないかあるいは不断でない
 A は 不一不異 かつ 不一でないかあるいは不異でない
 A は 不去不来 かつ 不去でないかあるいは不来でない

 以上において、「不生(不常・不一・不去)でないかあるいは不滅(不断・不異・不来)でない」という二重否定を肯定に戻せば、「生(常・一・去)かあるいは滅(断・異・来)である」となる。これは「縁起」に他ならない。つまり、上の四つの命題は、『中論』「帰敬偈」において示された、「八不の縁起」に他ならないことが、理解されるのである。
 ただし、石飛が指摘するように、インド論理学においては、否定の否定は肯定とはならない。したがって、「八不の縁起」は、「縁起でないのではないもの」として、言いかえれば「幻」のようなものとして、立ち現われるのである。これを「勝義の縁起」と、呼んでもよいだろう。
 とはいえ、一般に「八不」は「八不中道」などと呼ばれ、縁起と切り離して理解される。しかしながら、ここで注意すべきことは、「中道」は上の個々の命題によって示されているのであって、八不そのものが「中道」であるわけではない、ということである。かといって、たんなる縁起すなわち生滅や去来が、中道であるわけでもない。ただ、八不かつ縁起であるときにのみ、中道が成り立つのである。
 これに反して、いわゆる空論者は、八不を縁起から独立させ、超越化して、これを「空」と呼びならわす。なぜなら、「空」は「他によらない」ものだからである。
 しかしながら、対立する具体的な各項をもたず、抽象的な「有」と「無」のあいだで成立するような中道が、果たして真に「中道」と呼びうるようなもので、ありうるだろうか。
 さらに言えば、ここでいう「縁起」とは、「此縁性」(外縁起)などでは決してなく、あくまでも「十二支縁起」(内縁起)なのである。重ねていうが、「八不」が修飾するのはあくまでも「十二支縁起」であって、「此縁性」ではないのである。
 これは一体、どういう意味なのであろうか。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解13 ( No.12 )
日時: 2018/01/10 20:22
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

13.
 周知のとおり此縁性とは、「此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」という四句で表わされる。此(これ)や彼(かれ)は代名詞であり、任意のものを代入できる変項として働く。したがって此縁性は、彼(かれ)に「苦」を代入することによって「苦」を随観し、「苦」の生起と滅の条件を探るものであるとされる。
 それゆえ一般的には、これを縁起の基本法則とし、十二支縁起もまた、この此縁性を援用して導出されたものとされる。この場合、此縁性が祖型的かつ完全であるのに対して、十二支縁起はその応用であり、それゆえ被導出的・副次的・部分的なものである、ということになる。
 しかしながら、これほど転倒した話はないであろう。そもそも仏陀が言う法(ダルマ)とは、十二支縁起の各支を指す。此縁性の此(これ)や彼(かれ)は、そこから抽象され一般化された代名詞に過ぎないのであり、法(ダルマ)ではないものである。
 もちろん、十二支縁起も言語=記号によって表現される以上は、此縁性を援用して「確認」することは出来る。しかしながら、「導出」することは出来ない。なぜなら、十二支縁起は本来概念(記号)によっては把捉できない、微細なものだからである。
 それゆえ、逆に此縁性こそ、具体的・個別的な十二支縁起の各支を抽象し一般化することによって、十二支縁起から導出されているのである。スピノザも指摘するように、具体的・個別的な観念こそが十全なものであり、抽象観念は非十全なものにすぎないのである。
 また、仏陀や龍樹が「他を縁としない」と言うとき、この「他」もいわば不定代名詞であり、変項である。それゆえ、「他を縁としない」ということは、たかだか「此縁性によらない」ということを意味するに過ぎないのであって、十二支縁起によらないということを、意味するわけではないのである。逆に、「他を縁としない」ということによって、十二支縁起を「概念によらずに」直覚することが、示唆されていると考えるべきである。これを仏教では、「自内証」あるいは「自灯明」という。
 くり返していうが、此縁性は内縁起である十二支縁起から、言語表現に適応するよう一般化された、抽象概念・法則に過ぎないのである。したがってそれは、外縁起にしか適応されない。つまり、此縁性は、外縁起に適応するよう、十二支縁起から抽象された「方法」なのである。この「方法」を使って、十二支縁起を確認=復習することはできるが、「直証」することは出来ない。十二支縁起の直証が辟支仏(独覚)の道であると、いわれるゆえんである。
 仏陀がいうところの「あるがままに見る」とは、おそらくこの十二支縁起の直証である。
メンテ
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解14 ( No.13 )
日時: 2018/01/10 20:26
名前: spinobuddhist ID:1z11NTeY

14.
 私は、前節の最後、「仏陀がいうところの「あるがままに見る」とは、おそらくこの十二支縁起の直証である」という文のなかで、「おそらく」という副詞を使い、確言を避けた。もしも私がここで断言していたら、私は自分は悟っていると明言しているのだと、受け取られかねなかったのだろうが、いうまでもなくそんなことはないのである。
 同様に、私は、龍樹が八不の縁起によって疑いを離れた可能性を示唆したが、しかしだからといって、私自身が龍樹同様に疑いを離れたわけでもないのである。
 それでは、われわれは、何ごとをも、確信を持って語ってはいけないのだろうか。しかしそれでは、少なくともわれわれにとって日常生活は、成り立たないものとなってしまうのではないか。もしそうでないとすれば、われわれにとって、確信を持って、言いかえれば疑いを離れて語りうることとは、いったい何なのであろうか。
 確信あるいは確実性というものは、そもそも「知られる」、すなわち心の中に「与えられる」ものなのだろうか。この点にかんして、ウィトゲンシュタインは興味深い考えを示している。

われわれは、たとえば或る計算は、一定の状況においては充分にチェックされたとみなす。何がわれわれにそのようにみなす資格を与えるのか。経験か。それがわれわれを欺くことはありえないのか。どこかでわれわれは正当化を終らねばならない。そしてそのときに残るのは、われわれはこのように計算する、という命題である。(『確実性』二一二項)

根拠を与えることや、証拠を正当化することはどこかに終りがある。だがこの終りは、ある命題がわれわれに直ちに真であると思われることではない。すなわち、言語ゲームの根底にあるのは、われわれの側における何らかの見ることではなく、われわれの行動なのである。(『確実性』二〇四項)

私は次のように言いたい。人は或る時点で、完全な確実性をもって真なるものを知るのではない。そうではなく、完全な確実性とは、ただ彼等の態度の問題である。(『確実性』四〇四項)

私は完全な確実性をもって行動する。しかしこの確実性は、私自身のものである。(『確実性』一七四項)

知識の究極の根拠は承認にある。(『確実性』三七八項)


 要するに、仏教的にいえば、確実性の根拠は「識」にではなく、「行」にある、ということである。とはいえ、この「行」は、単なる「行」ではない。それは、自らの根拠を剥奪された、言いかえれば「無明」を奪われた「行」なのである。それゆえ、この「行」には、唐突感が必ず伴う。なぜなら、われわれは確実性を奪われなければ、確実性を選びとることなど出来ないからである。いうまでもなく、龍樹の否定論証の目的は、われわれの日常を支える確実性を、崩壊させることにある。
 それでは、われわれは、『十二門論』における龍樹に、このような根拠なき「行」を、確認できるだろうか。確かに、龍樹は、対論者との問答において、発話行為というパフォーマティブな場に終始とどまり続けていた。しかしながら、肯定命題に否定命題を対置するだけでは、それらに対する「疑い」は晴れず、なお「識」にとどまっていたと、いわざるをえない。逆説的にいえば、「疑い」の根拠は、確実性にあったのである。
 これに対して、石飛の次の言葉に、われわれは龍樹の根拠なき「行」を、確認することができよう。「論争からの離脱が、空論者の行いである。」すなわち、「成立(証明)すべきものに等しいもの」という「理由の誤り」によって、相手の主張とともに自らの主張をも無効化し、論争の基盤そのものを瓦解させることによって、論争から離脱すること、この「行」こそが「中道」なのだ、ということである。
 そして「疑い」は、晴らされることになる。

(了)
メンテ
「行」になくて 「行」を論ずる   どうしようもないかな ?  ( No.14 )
日時: 2018/01/11 11:08
名前:   春間 則廣  ID:h6gthmn.


> 仏陀がいうところの「あるがままに見る」とは、おそらくこの十二支縁起の直証である。

“おそらく” と 推測にある 事柄は あるがままにある という 姿勢からの 行いかな ?

“直証である”  というときに  “ 直証である ”  を
どのように 直証 している  のですか ?

ブッダ は 過去仏の歩み歩んだ 道を 歩んで 直証しています
過去仏があるから 古城はあります

そういう観点では 直証 は 成り立ちますが、
あなたの観点は 何処にあるかが 直証にありません( 直証の対象となりません )

自らにあって それと 見比べ 証す ということが起きます

あなたの思いは どこにありますか  ?

言葉 が 名称であるのは 行いと 一致していない(面が見受けられる)からです
( 見受けられない面を 顛倒の面  と よび 呼ぶことによって それを被り も します )

( 顛倒は 我にあって 見比べられうるから それと分かる )

あるものが あるものに あると指摘する
( 指摘の起こす指摘が どう起きるかは 他を 何と どう見比べるかで 決まってくる )


こういうことは 止観 になければ 見ることのないことです


************

以上を 記述して 
石飛道子『「十二門論」研究(1)』読解14   に移りました

一見 一読すると
同じ内容が 述べられていると 思う人もいましょう

違うところを 読み取ることが適う人もいるでしょう
そうかどうかは
この後に続く 書き込みによって 判断できます

あくまで 「知」 に 立ち 「行」 を 論ずる

「行」 に ない  ということを 「行にないところ」 に 立って 見比べています

この書き込みに 反論してごらんなさい
その時
論じてはいない  ということが 直証されています




メンテ
名色に先行する行とはいったい何なのか ( No.15 )
日時: 2018/01/11 19:46
名前: spinobuddhist ID:4r8ijHFU

春間様

上の読解のピークは12、13節辺りで、最後の14節はとりあえず結論をつけて丸く収めたかたちとなっており、行の分析としても不十分なことは自分でも自覚しております。

また私は、自分に行(修行)がある、悟りがある、持戒があるなどと、もともと全く考えていませんので、「行にない」と言われても至極納得するところであります。

「知に立ち行を論ずる」、というのも、納得ですね。

誰か聡明な方に、「名色に先行する行とはいったい何なのか」を、解明してほしいところです。
メンテ
愚底の低のわたしから 聡明を量る高所に立つ人を ノゾンデ ( No.16 )
日時: 2018/01/12 09:06
名前:   春間 則廣  ID:C0Nk4NAA


> 誰か聡明な方に、

聡明さ を 分かる聡明 を持ったものを 聡明なるものと呼ぶ

分かろうとする、分かるとする  その ”聡明さ” は どれくらい聡明ですか ?

> 「名色に先行する行とはいったい何なのか」を、解明してほしいところです

わたしには あなたの規定するところの 聡明さは ないとされますから
いくら 解明しても  あなたの明るさの中で 光を見出されることはないでしょう

あなたが 説かれたことを 説かれた通りだと 理解できる 「行」 にあるとき
あなたの「行」 に  説かれるというところの「行」  が  引き当てられて
あなたの言葉で理解され、その言葉を 意識化します

先行する 「行」 が すでになければ、 理解することはできません

諸仏 という 概念が起きるのは 釈迦牟尼は 諸仏に並ぶ(諸仏と同一) から です

言葉を聞いて 解脱したモノはいません
言葉を発する 「行」 と共にあって 「解脱」 と 共にあります

「  唯仏与仏 乃能究尽  」

修行  と言うモノは 解決されたところには ありません (不要です)
しかし
修行 そのモノが 解決  である時
修行の中に 解決の中に  その二つの “同一概念” が
  読み取りようによって、
違う名称で 呼び表わされます

「 修証一如 」
    一如   とは  唯我独尊  如来 (ありてそのもの) のことです

> 「知に立ち行を論ずる」、というのも、納得ですね。

その納得が 「顛倒」 「無明」 に 起きている

メンテ

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