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[53] 素粒子空さま、No.75のお返事です。新たにスレッド作りました
日時: 2014/12/09 05:47
名前: 管理人エム ID:EzAYSqio

素粒子空さま おはようございます。

> 相手を利するにしても、相手は、因果法則でそれを喜ばない場合もある。すべての条件を捕捉することは人間には無理でしょう。たとえブッダでも。

そうそう、それは言えます。涅槃に行くものもいれば、行かないものもいる、それをわたしがどうしようか、と、述べていますね。道を教えるだけだよ、と。

> ・南伝では、菩薩は、あくまで仏ら向かう修行者、涅槃しらない
> ・北伝大乗では、菩薩は、仏と同格の場合もあり、多義的。法蔵菩薩のガン、自未得度、先度他は、一回涅槃に達した菩薩の可能性もあります。

このあたりの違いですね。大乗の見方は、時を語る「縁起」にしたがう南伝仏教の見方とは少し違っています。因果的な見方で、大乗を見ると、おかしな感じがします。

>> この意見を受け入れると、これで、無事に、衆生を救っていくには、すでに自分が相当高い境地に達していて、目的の涅槃をしっかり確保している必要がありそうですね。
>  ・私の考え方は、そうですね。そして、なんとか気づいてもらいたいと、慈悲るんですが、
> これがなかなかうまくいかないから、今の地球の状況でしょう。

> ●おっしゃるとおりかもしれません。しかし、地球上の人が皆気づいていないのに、どうして、
> 宝蔵菩薩は、阿弥陀仏になったんでしょうね。

そこで、現在多仏といいますか、仏国土という空間が登場することになるのでしょう。
南伝の時間の因果を、大乗は、空間に置き換えて、空の見方に転換していったように思います。だから、時間の解釈が消えて、極楽浄土のような世界が生まれてきます。
一つの世界に二人のブッダは出ない、と、サーリプッタに述べたブッダのことばが、根拠になっていると思います。
だから、みんなで、極楽浄土に往生願うことになるのでしょう。

> 仏になれば、自我、渇愛の制止は、完璧で、目的論も因果法則も名前だけで、完璧、因果とサティ
> で行動するはずです。

それが、極楽浄土ということになるのかな。

> ●この世一切は、名色しかないんで、個人は、名色。どうコロンだって、名色の体験しかないのですが。輪廻の原因は、渇愛ですから、渇愛を制止すれば、輪廻しません。これは、現世輪廻でも死後
> 輪廻でも同じではないでしょうか。

渇愛を断てば、死後はないですよね。不死ですから。

>  渇愛は、原始脳にあり、摘出できない以上、渇愛神経回路の制止です。仏陀でさえ、完全には滅するということは、生物学上あり得ないので、たまには薄く渇愛の神経回路が起動したと思われます。そのとき、何らかの状況で突然死すれば、仏陀でさえ、死後輪廻するかもしれません。

渇愛を滅することは可能だと思いますが。ブッダがみずからそう言っているので、そうでしょう。「生物学上ありえないこと」が起こっていると思います。滅尽定も、生物学的にはありえないんじゃないかと思います。生物学は、仏教を量る手段としては、ちょっと役不足かと思いますが、どうでしょう。
こういうと、信仰の世界に入っていくように読めるかもしれません。

「信仰」というのは、わたしとしては、「智慧」とほとんど同義です。そこで、大乗では、般若波羅蜜が説かれることになる、と思っています。

>> 現地をふまえている、ということを示す理論が、阿弥陀仏という仏の登場になるのではないかと思います。因果的には、先のことはわからないだろうと見る見方は、ありえそうですが、しかし、「縁起」というブッダの法からすると、「滅するものは行である」というブッダ最期のことばによって、そこで、涅槃が出現することは確約されているので、むしろ、因果を疑う方が、釈迦牟尼の教えをちゃんと受けとめていない、ということも言えるかもしれません。

> ●なるほど。確約ですね。信仰に近くなりませんか。仏陀の偉大なのは、信仰せよ、信仰を捨てよ、
> とスッタ・ニパータでも言ってるし、カーラーマー教では、鵜呑みにするな確かめろ、と言っていることです。まさに宗教ではなく、科学。

「確約」は、「滅するものは行である、怠ることなく修行しなさい」という、仏教徒の真理のことばです。
「滅するものは行である」は、二種に解釈できます。
1  滅するものは、諸々のできごとである
2  滅するものは、志向作用・意志である
1でも2でも、同じことばで説かれています。1は、真理と見えるのでは?
2は、悟っていない人には、ブッダの「確約」です。あるいは、疑って自分で確かめてみることでもいいかもしれません。あら、でも、確約と同じような意味になりますね。
比丘たちも、この確約を信じて修行するのでしょう。これを疑って修行してもいいけど、どっちにしても、比丘たちと菩薩たちは行為としては同じことをすることになると思います。

>  大乗は、信仰がメインになりますね。特に浄土など架空の土地と、架空の仏ですから。

それは、どうかなあ。信仰なのかもしれませんが、ちょっと違うような気がします。
前の方で、わたしにとっては「信仰」とは、「智慧」ということだ、とお話したように、信仰から入るのが仏教ですが、それは、智慧から入るということと同じです。
もしかして、それは、正しいのかもしれない、と理屈に興味を惹かれたところから入っていくからです。
だから、スマ長老さまのおっしゃるように、「疑ってかかりなさい」ともいうわけです。自分で確かめてみなさい、ということですよね。この論理のあり方に気づいていくと、仏教から離れられなくなりますね。

法蔵菩薩も、阿弥陀仏も、極楽浄土も、どうして、説かれたのか、わかってくるようになります。わたしは、そう思うということですが。それは、パーリ語経典の中に全部あることだと思います。その構造と理論とが、すでにブッダを通して示されていると知っていきます。『大般涅槃経』あたりで、説かれていることが、わたしにはヒントになるように思われます。

> 徹底、決定論だと思います。偶然に見えるモノも、原因条件で結果したのだ。しかし、未来は、読めませんね。

ウン、決定論と言える強さがうれしいですが、しかし、未来は読めない、という謙虚さもありがたい。
たまにですが、縁起に非常に敏感になると、次に起こることがわかる時がありますね。
何か「来るぞ」と思っていると、それがやって来るみたいな。このとき、自分の「行」ははたらかないです。つまり、思い通りにはならないということで、しかし、縁(パッチャヤ)だけは効いていることが見えているのです。
これが、聖者は、きっとふつうに見えているのだろうと思ったりもします。

> ●なるほど。前もっての思案ではないと言うことですね。その場に臨んで、対機的にできた、といことですね。

そんな感じです!

> まず、データですが、五人の比丘の前に、二人のサマタの師に気づきを伝えようとした。
> 五人の前にウパカに出会って、法を概略説明したが、理解を得られなかった。
> 五人は、戻ってきた釈迦を非難しようとしたが、その姿を見て、偉容に打たれ、ほとんど非難できなかった。
> 私は、前の私ではない。ソンシ、如来と呼びなさい、五人に語っています。
> 五人とは、実は釈迦の父親浄飯王我派遣した監視役なので、五人のうち、二人くらいは、釈迦について、監視を継続していたかもしれない。
> ざっと、データは、こんな感じで。

> 釈迦は一度ウパカで失敗してます。一度失敗した安倍総理のようなもので、そこから学んで、やはり思案したと思います。どう、伝えるのかと。モノがいいからといって、受ける人が、ハイハイ
> 分かりました、とはいきませんよね。学校のような知識伝達ではなく、智慧の伝達なので、相手にも体験してもらわないと、どうしようもない。
> でも、もちろん、渇愛、自我抜いた、知性とエム先生ご専門の仏陀論理での思案です。思案したと言っても超短時間でしょう。時間的に言えば、考えなかったといえるくらいでしょう。

ウパカとのやりとりも、わたしは好きで、ずいぶんここも検討しました。ブッダは、かれには説法をしているわけではないですね。つまり、教えを求められていないのです。
ウパカは、ブッダの輝くばかりの清らかさに打たれて、「誰を師として出家したのですか、先生は誰ですか、教えは何ですか」とたずねます。

失敗ではなくて、ウパカは、尋ねたことに、きちんと答えをもらっていますので、これでいいのだと思います。誰も師としていない、自分一人で悟った、と答えています。渇愛を滅して一切勝者となり、一切智者だと述べています。

> 12因縁で悟って、最初の説法は、四聖諦ですから、それを臨機の対機で、組み上げるというのは、いくらなんでも、難しいのではないでしょうか?

わたしも、最初、そう思ったのですが、それが、案外そうでもないのではないかと読んでいくうち思いました。
五比丘に必要な要点のみが抜かれています。
まず、苦楽二辺の中道で、比丘たちの疑問をばっさり切り捨てますよね。当然、それじゃ、その中道ってなんだ、となります。すると、即座に、八正道が説かれるのです。一気に悟りへの方法です。わかっていなければ、こんなことはできません。最後に、四聖諦という理論が、聖なるものとして教えられる、ということは、対機しているからこそ、この順序で説かれることになったと思います。

ふつう、頭で考えていたら、まず、四聖諦あたりの話しから、いくはずだと思います。
一応、中道は説くかもしれません。苦でもない楽でもない、と話したところで、比丘たちの話しをさえぎって、まあ、わたしの話を全部聞きなさい、ややこしいんだから、とか、ごちゃごちゃ理論構造あたりを説明しようとするのが、頭で考えたやり方ではないでしょうか。ところが、そうはしていません。

話しのながれ、比丘の疑問の流れに沿って、どんどん話しをつなげています。そして、あっという間に、核心のすべてが、説かれてしまうのです。
悟ったのはほんとうだ、と、比丘たちにわかるように、まったく長老さまの言うところの「妄想」「思考」を入れずに語っているのです。
だから、比丘たちは、たちどころに納得し(=ここで「確約」を得たとも言えます)、しかし、話しとしてはほんとうらしいとわかったけれど、自分の悟りは、聞いてわかるほど簡単ではないので、それから、また何日もかけて了解・納得していったのでしょう。


> ●そうかもしれません。それなら、いっそ、ブッダになって、慈悲で、自然に他を化していくというほうが、スッキリします。その点、大乗の菩薩は、曖昧ですよね。

たしかに、これはおっしゃるとおりですが、ブッダになるのは、そうそう簡単ではないので。。。そこが、大乗仏教の、悲しいところです。ゴータマ・ブッダに、だっこにおんぶで成りたつのが大乗なので、その点を突かれると、弱いですね。


> 自然に他を化していく、というのも、教えるということにこだわったら、ダメで、
> まさに無執着の指導というか、脱力教授法とか、言うモノでしょう。
>  説法とは、説法ではないから、説法である。のようなものです。
> 禅でいうと、入テン垂手、手を垂れるというのは、何もしない、という意味だそうですが、
> それで布袋腹つきだして、酒とっくりを下げて、魚屋、飲み屋など訪ねた先々で、自然に人をして気づかせしめる、というのですね。

自然にそうなる、というのが、また、難しいですよね。
常不軽菩薩の道かなあ。
でも、ブッダにも、そういうところがありますよね。酒とっくりはさげてないけど。
メンテ

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一人二人親鸞 それを構成するのは、一人の“あなた”  ( No.6 )
日時: 2014/12/10 07:49
名前: 春間 則廣 ID:QeWGLYw6


> 一人と二人と三人と。。。ブッダと(一人ふやしました)

今ま、で何度も書き込みましたが
理解に乗らないので、(私の乗り物に)また乗ってみる


臨末の言葉

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。 」

極まるとは、決めるということ
寄せる = 来る  ・  帰る = 戻る
同じことは二度起きない

「 一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」

ブッダにまみえることは、自らにまみえること
真 見える = 真 理に 出会う ( 出会うから見える )

どのような理でも、その時のそこでの真理

真理に違いがないということは、人が平等であるということに端を発する

端があれば、きわまりたるところもある

出会う発端が、極まる臨末

どう関連するかがわかるかな ?

解説は “六つかしい” こと ではない
解説から解を得ることは、説によるわけではない
行いを照らし合わせなければ、根拠がない
メンテ
個別性の世界と全体性、一般性の世界がある。どちらも大切。 ( No.7 )
日時: 2014/12/10 08:17
名前: 素粒子空 ID:w4QPZxdk

(引用開始)
「一人六根の範囲とする」のが、一切世界なら、個人個人に六根があるので、六根をもつ生き物の数だけ、別々の世界がある、とみてよいことになります。(引用終了)

私は、そう見ています。五根までは、そんなに違わない。まあ、感受性が鈍い、敏感の範囲はある。行為というか、運動能力も違う。しかし、文化というか環境というかで、「意」で大きく違ってくる。
個的にみるなら、そういうことで、上記引用のとおり。

 しかし、個はそもそも何か、というと素粒子であり、それは、宇宙と同じ、ということは、個が主体でも何でも無く、宇宙素粒子が主体で、個であると思っていた、一切万物は、実はなくて、つまり、私も、エム先生も、春間氏もブッダもない。生きていないし、死んでいない。何もない、無自性空で、素粒子空である。表現悪いが味噌も糞も素粒子。あるのは、生きているのは、宇宙素粒子のみ。それが因果で、個別が生まれて、われわれを惑わしているだけ。因果は無人。
 宇宙因果が本流という、事実です。個別性は、共通、一般、普遍性としてみるなら、以上のとおりです。

メンテ
親鸞の歌二種 ( No.8 )
日時: 2014/12/10 08:36
名前: 素粒子空 ID:w4QPZxdk

臨末の言葉

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。 」

これが親鸞の辞世ですか。波と親鸞は同じ。無常である。無価値である。無我である。

親鸞の出家の歌は、まだ7、8のはず、

明日有りと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは
                
無常にせっつかれているけれど、素晴らしい。   

                      
メンテ
 わかるかな ?  ( No.9 )
日時: 2014/12/10 08:48
名前: 春間 則廣 ID:QeWGLYw6

> 無常にせっつかれているけれど、素晴らしい。

十年早い という言葉が似合う

業の限り、劫 を繰り返し、尽くして

やっとわかるかどうか 、、、、

いつであろうと、無限の時にあるから、素晴らしい
メンテ
信は、信仰ではなく、納得という意味らしい。シャカは信仰嫌い ( No.10 )
日時: 2014/12/12 13:05
名前: 素粒子空 ID:dP.hEKbI

パーリ経典のうち、サダーは信と訳されている。これは、本当は、納得とい意味で、
信仰という意味ではない、とユーチューブのスマ長老法話で聞いて、納得した。

やはり信仰は、ないのだ。少なくとも南伝には。

五力

信力(巴: saddhā、梵: śaraddhā)

精進力(巴: viriya、梵: virya)

念力(巴: sati、梵: smṛti)

定力(巴: 梵: samādhi)

慧力(巴: pañña、梵: prajñā)

メンテ
「信」とは? ( No.11 )
日時: 2014/12/14 05:40
名前: 管理人エム ID:fXXHLCbk

> パーリ経典のうち、サダーは信と訳されている。これは、本当は、納得とい意味で、
> 信仰という意味ではない、とユーチューブのスマ長老法話で聞いて、納得した。

「納得」というのは、わたしが、「智慧」と呼んだのと同じことですね。
グルグルまわっていますね、「信」と「智慧(納得)」は。

納得したのは、スマ長老さまの話を聞いたからでしょう。

「どうして聞いたのですか」と尋ねてみると

「信があるからです」
という答えになるのではないでしょうか。

そうでなければ、最初から話しを聞こうとする気は起きないでしょう。
何を言っても、聞く耳を持たない人もいます。
五比丘も、最初は話しを聞こうとしませんでした。沙門ゴータマは嘘をつかないと、知ったとき、「信=納得」が起きます。「尊師よ」という言葉が出てきて、聞こう、という気持ちが起こります。

だから、最初に、音が耳に入ってきたということは、すでに信が起きている、という風にもとれます。

また、音が耳に入って、それに納得したから、そこでさらに聞こうという「信」が起きる、ということもありますね。

「信」は、「智慧(納得)」と分かちがたく結びついて、「聞法」を醸成していくように思います。

メンテ
あなたは苦を楽(しみ)とする    ( No.12 )
日時: 2014/12/14 08:17
名前: 春間 則廣 ID:aZh0Yk.2

> 最初に、音が耳に入ってきたということは、すでに信が起きている

耳に音が入る  ということを 正しく知る者は、
真理を知る

真理は信と同じものです

何を真理とするか、
何を信じているかは、
自らが顛倒する その顚倒に沿って、展開する

無明に起きていないと知れば、仏です

仏は、あなた( “わたし” )の
信 に 沿って そのありよう  を 決めている
メンテ
  唯仏与仏  一つの世界に二つの仏    ( No.13 )
日時: 2015/01/07 13:20
名前:   春間 則廣    ID:yKI7Yfog


> そこで、現在多仏といいますか、仏国土という空間が登場することになるのでしょう <

仏国土は空間ではありません

空間にいる者には、空間(という名称)を持ちいて 名称とするだけです

空間の中の空間は、空間と同じですか ?

同じ とは、 同時 でも あります ( 同じ = 同時 )

(このことを受け入れがたければ、同じと同時の違いを論理づけなさい)
( やってみればわかってくる 、、、、  同じことだと 、、、、  )
( わかるまでやらなければ、わからない )
(わかっていること で すべて = 世界 を 構成するから、世界は世間(虚仮)となる )

同時に、“二つ”の空間があって、その二つは同一ですか ?
同じなら、一つだけです

認識を起こす空間は あなたに一つではありませんか ?
一つの認識に、一つの仏国土

阿弥陀仏の仏国土(浄土) に むまれる  由縁です

あなたの認識において
同時に起きていることは、同じことですか ?

>  南伝の時間の因果を、大乗は、空間に置き換えて、空の見方に転換していったように思います。だから、時間の解釈が消えて、極楽浄土のような世界が生まれてきます。
一つの世界に二人のブッダは出ない、と、サーリプッタに述べたブッダのことばが、根拠になっていると思います。  <

知ったようなことを言うんじゃない
メンテ
時間・空間 ( No.14 )
日時: 2015/01/08 13:57
名前: 管理人エム ID:KZWTJCLA

> 仏国土は空間ではありません
> 同じ とは、 同時 でも あります ( 同じ = 同時 )
> 一つの認識に、一つの仏国土

認識の形式が、時(間)と空(間)ということで、述べています。

同じ = 同時  

と、示されましたね。「同時」は時間、そうですよね。

同じ = 一つ (同じなら、一つだけです)

と、示されましたね。「一つ」は空間、そうではないですか。
メンテ
  即今   引っ付いて離れないのが 速   ( No.15 )
日時: 2015/01/08 14:57
名前:   春間 則廣    ID:mgpN7cgI

>> 同じ = 一つ (同じなら、一つだけです)

一つでも、同じでないと同じの二つが “ 一つ ” にある

> と、示されましたね。「一つ」は空間、そうではないですか。

上の答えを読んでも、
空間 かな ?

「一つ」 と “ 一つ ” が 「二つ」 に ならざる を 得ない


空観 をなせば、 「一つ」 ではなく、 “ 一つ ” に なれる
メンテ

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