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[81]   イトモカンタン  善い友感歎  感興の説き  
日時: 2015/08/05 08:22
名前:  春間 則廣  ID:tfYbnBY2

見る意図がいないと見るという行為の意味が起きない

同じを見たいとき、同じを見る
変わったことを見たい時だけ、変わったことを見る気縁にある

見るひとがいないと、参照数は増えない
見た人の中で、もう一度見る人は、
多くはない
(わたしは何度でも見る)
( 変わっている という 変わらない視点 を持つから )

多くはない  という時の 多少にある 縁起を見るから
書いた者 と 読み取る者 との 二者に立つ
その横に親鸞がいると知る
内参者にたつ ( ダイサンシャ ヲ オコス )
( 内外は 縁起 する )



新たな書き込みがなければ、(変わっている)見るべきところはない

変わっているかどうかは、ミルという行為にある
見なければ、見るという変化は起きていないともいえる
( “同じ”行為は、違った 地球の位置において 行われる )

自分が廻っていないと 顛倒する 者は
天 が 廻ると    天動する

地球が廻れば、自分もまわる
自分が廻れば、“不動のもの” など存在しなくなる
        ↓
       “この”存在  が すでに廻る

“不動のもの” は 動いていないという  
不動の立ち場にあって 不動と され(認識し)得る

みなが同じように動けば、そこには差異は見いだせない

見ても同じ  なのは、 内容  ではなく
“ 同じ内容 ” と 受け止める、自らの理解の仕方

自らのモノの見方が “変わる” と
見えていたはずのモノの姿が変わる
( 自らの   変わったところ   から、 物事を見ることができれば、
   物事の “側面” = 観側面 は   変わる            )

(自己という他を除く)他が動いていると見るとき
自己は見得た分だけ、動いていることを確認できる機縁にある
其処が見えないときには、他は動きにはない

ここは、 「縁起」 に 関わります
縁起を知る者は、自己を知る
自己を知る者は、真理は動くことはないという 不動のモノ(法)を知る

さて、

この書き込みは、誰によって読まれるかな ?

不動の自己を知る者は、書き込んだものが動きにあると知る


メンテ

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「自己を知る」 ( No.3 )
日時: 2016/08/24 16:16
名前: うにうに ID:IuEj7bEI メールを送信する

「 自己 を 知る 者 は 法 を 知る 」

どう質問すべきかさえわからないのですが、このことについて
あえてもっと近づきたいと考えています。

自己を知るということが、進められなくなっているのです。
自分の中の「自己を見ることができない」という説の縁っているものについて、
考えたくても、手掛りがみあたりません。

もしも、現代語で書かれていて入り口となるような書物がありましたら、
示していただけないでしょうか。

不躾なお願いですが、どうかお願いいたします。
メンテ
  縁起と平等   ( No.4 )
日時: 2016/08/24 19:26
名前:   春間 則廣  ID:8Pk1tTNg メールを送信する


>> 「 自己 を 知る 者 は 法 を 知る 」
>  どう質問すべきかさえわからないのですが、

質問が、正しくできる者には
すでに、答えが与えられている

何が どう 正しいか を  わたしはいつも問いかけています

法を知る者は ブッダである

> このことについて あえてもっと近づきたいと考えています。

遠近 は 「縁起」 におきます

法を知る者は 「 縁起 」 を 知る

> 自己を知るということが、進められなくなっているのです。

無常にあるということは、(悟りに向かって)進んでいるということです
どう進むかは、あなたが決めることではなく
あなたの進み方を、他人 が とやかく言うことでもない

わたしは  とやかく言っている  のではない  のです
( そう聞く者に、 “とやかく” が あるだけです )

> 自分の中の「自己を見ることができない」という説の縁っているものについて、
考えたくても、手掛りがみあたりません。

手掛かりがみあたらない  ということが、 手掛かりです
考えても どうしようもないこと であっても 、
考えるべきこと と、 考えないほうがよいこと とが、 あります
> もしも、現代語で書かれていて入り口となるような書物がありましたら、
示していただけないでしょうか。

現代語の書物には ありません
あえて言うなら
空海・道元・親鸞 の 残されている 文 を 読むとよいでしょう

書物でなくてもよいのなら、
わたしの 過去の書き込みを 丹念に拾って、読み込むとよいでしょう
わたしは、ほとんど、現代通用語で綴っています

ブッダとなるまでは 法を知ることはありませんが
法を知れば ブッダである と 、
ブッダ(諸仏)には わかります 、、、、

法を知る者が すでに 諸仏 であり
諸仏は 一つの世界に  それぞれ の  仏世界を 開花している

みずからが ブッダであると わかるときに、 他が ブッダである と わかる
《  他 が 誰(にあたるの)か  どういう存在であるか は、 ブッダが知る  》

一つの世界 を   あなた   が   “ すでに ”   保っている

仏教において、 「 縁起  」  は  「 平等 」 の  別の呼び名です

「平等」 ということは、 “同一である” ということで、
支えるものと、支えられるものと の間に  差異がないということで、
それが 「 縁起 」 の 基盤です


他が あれば、 自が  ある 
自  という   ジガ  ある


メンテ
空海・道元・親鸞 ( No.5 )
日時: 2016/08/25 08:08
名前: うにうに ID:7AUhqnT. メールを送信する

> あえて言うなら
> 空海・道元・親鸞 の 残されている 文 を 読むとよいでしょう

わかりました。まだ少しだけしか見てないので、これからも読んでみます。

> 書物でなくてもよいのなら、
> わたしの 過去の書き込みを 丹念に拾って、読み込むとよいでしょう
> わたしは、ほとんど、現代通用語で綴っています

はい、ときどき読ませていただいてます。


メンテ
 天地の隔たり   ( No.6 )
日時: 2016/09/01 08:56
名前:   春間 則廣  ID:i7GnwXAQ メールを送信する

はい、ときどき読ませていただいてます。


************

ときどきかどうかは、縁起によりますが
> > わたしの 過去の書き込みを 丹念に拾って、読み込むとよいでしょう
ということは、縁起によることと よらぬこととを含みます

過去現在未来 の 三世は 縁起によります
書き込み は  縁起して起きているけれど、存在自体に縁起があるわけではありません
丹念  は  縁起しないのです
( あなたにとって、 “丹念” は 固定化されているからです )

三世が 縁起であるということは、 今が 未来であり、過去である ということです
わたしの過去の書き込み  は   今にありますか ?

この書き込みは、 過去になっていませんか ?


丹念に読むという  縁起に起きないことを 起こす

今読むことが、 未来を読むことで、 あなたの過去が、今によって (未来に向けて) 決まっていきます

過去の書き込みを丹念に読む ということは その(今という仮称にある)書き込みを
丹念に読むということです

今をおろそかにするとき、
おろそかなる過去が 組上げられ(サンカーラ)、その上に、今という 未来が乗っていく

ありもしない 過去の書き込みを読むのなら、
今あるこの書き込みを “丹念に” 自らの 選択を離れて 好き嫌いを遠ざけて
何度も読み込むことです 、、、、

何度読んでも、同じことが読み取れる間は、同じことが 綴られているに過ぎない
何度も読んでいると、違うことに気付くようになる
( それが 悟りへの 一歩です )

同じことは 二度と起きない   それを  ブッダは 「無常」 と 知ります
常に新しい から     古いことが  存在しない
未来(新しきこと)さえ  存在する   根拠がない

>> まだ少しだけしか見てないので、これからも読んでみます。

少しも読んでいないと  知るとき
少し読んでいることが起きる

その少しが 「 毫釐も差有れば 天地懸に隔たる 」 となり

少しを知ることが、天上へ続く道を歩むこととなる


メンテ
感動してはいけない ( No.7 )
日時: 2016/09/01 18:22
名前: うにうに ID:ZOEDwS46 メールを送信する

> 三世が 縁起であるということは、 今が 未来であり、過去である ということです
> わたしの過去の書き込み  は   今にありますか ?

はい、今にあります。

> この書き込みは、 過去になっていませんか ?

夢の中で思いだしている自分は、この書き込みを過去とみるでしょう。
でも、何度でも、丹念に読み返すたびに今にある。

> 何度読んでも、同じことが読み取れる間は、同じことが 綴られているに過ぎない
> 何度も読んでいると、違うことに気付くようになる
>( それが 悟りへの 一歩です )

はい、読み返すごとの今のことは、ときどき感じるものがあります。

> 少しも読んでいないと  知るとき
> 少し読んでいることが起きる

読んでいない と知るまでは、読んでいるとすることで終わってしまっています。

なかなか、読んでいる ことにたどりつかないうえに、読んだことさえ忘れていることに
気付かされて、そんな自分を責めるという顛倒から抜けられない。
読んで、読んでいると知ったとき、そこに感動を感じてしまい、
その感動を読む目的などと顛倒していることから、なかなか抜けられない。
別の記事ですが、「感動してはいけないのです」という言葉に、強く動かされました。

喜び感動し楽しむことをもってストレスを逃れるなどという習慣にあり、
そのことから離れることがいかに難しいかが身にしみている、少し疲れている日常なのです。

人は育てられるなかでは、喜びや感動、楽しむことをあたえられていきます。
私には、それなしで育て、育てられることは考えられない。
そして、「生きる喜び」のためにあるとさえ思っていました。
そんな、あたりまえと思っていたことに対して、苦しいときには疑問が起きる。
喜びによって生きることが苦であるということについて考えることの悩みの深さが
地獄だなと思いつつ、そこから進まないところに、今があります。
メンテ
夢・希望・愛 ( No.8 )
日時: 2016/09/06 13:15
名前: うにうに ID:I00mbbaE メールを送信する

思いを通せば必ず通じる。こうなりたいと思った自分になれる。
そんな言葉を信じて育ってきたと思います。
今、そんな言葉が自分をむしろ傷つけているように思います。
この思い込みが苦なのです。この言葉は育てられる上での方便なのかなと。

「夢」とか「希望」とか「愛」ということが、ゴータマさんの法のもとでは
顛倒を含んだものにも見えてくる。
でも、否定したりするのでもなくて、まだ「違うみたいだ」ということで、
かと言って全てからっぽと言い放つには至ることなく、少しづつを続ける
ことになる今がある。

別に、ストイックになってるのでも、落ちこんでるのでもなくて、
喜んでるのでも、感動しているのでもない。怠ることなく少しずつ。
そう言いきかしている自分。

この先に、「願」を見ることができたら、とだけ今は見ています。
これだって、人が見たら顛倒なんでしょうけどね。
でも、そういう人の中の「うにうに」は私ではありません。
メンテ
 人は したいこと以外 は  しない !  ( No.9 )
日時: 2016/09/06 15:24
名前:   春間 則廣  ID:20QOs3Y. メールを送信する


何がしたいかは、
言いたいように言う


> 思いを通せば必ず通じる。こうなりたいと思った自分になれる。

これは、( 目標としての)  標語  ではありません
自分 というものを 得ていると思われる 他人を
観察して、与えた評価(結論)にすぎません

こうなりたいと  思って、 こうなっている自分がいるわけです

通す・通さない は (今ある自分に)全く関係がありません
通していないと評価する自分を 通しているから 今の自分があるのです
自分には、自分を通す以外の道はありません

> そんな言葉を信じて育ってきたと思います。

信じてきたのではなく
顛倒してきたまでのことです
顛倒する自分を 貫いてきたわけです

たとえ評価に値する 空海や道元であろうと
あなたと同じ構造で、
同じ価値を持つ、 平等 の(にある)、人の生 を 貫いています
( 釈尊であろうと、ブッダという概念を用いない限り、あなたと平等です )

> 今、そんな言葉が自分をむしろ傷つけているように思います。
> この思い込みが苦なのです。この言葉は育てられる上での方便なのかなと。

傷つけるのも、方便とするのも
自らに選択による 価値づけです

> 「夢」とか「希望」とか「愛」ということが、ゴータマさんの法のもとでは
顛倒を含んだものにも見えてくる。


あなたの元(にあるもの)以外に、あなたの 所(人生)には 存在が(起きる場所)ない

> そう言いきかしている自分。

子育てをすれば分かりますが
言い聞かせて、言うとおりになる子 には 育てることはできない
育つと、(必ず)  育てられ方 から 脱却する

> この先に、「願」を見ることができたら、とだけ今は見ています。

できたら 、、、、
ということが、できた実例はありません

できていることが積み重なって、 “できていること”  が 存在します
できたことの中には、できなかったことは存在していません
( それでも あると 強弁したいのなら )

好き勝手に 玉石を混交すればよいでしょう
何が玉かは、玉ではないものが存在しない限り 規定できません
何が必要不可欠かは

あなたが 好きに沿って 決めることです



メンテ
やっぱり、感動してはならない ( No.10 )
日時: 2016/09/06 18:44
名前: うにうに ID:I00mbbaE メールを送信する

> たとえ評価に値する 空海や道元であろうと
> あなたと同じ構造で、
> 同じ価値を持つ、 平等 の(にある)、人の生 を 貫いています
>( 釈尊であろうと、ブッダという概念を用いない限り、あなたと平等です )

ああ、感動してはいけなかったのに、ちょっと感動してしまった。
わかっていても怠ると顛倒が出てくる。まだまだ。

> あなたの元(にあるもの)以外に、あなたの 所(人生)には 存在が(起きる場所)ない

はい、ただ今と(ゴータマさんの法を使わい)以前とが違うということを知るのみです。

> 言い聞かせて、言うとおりになる子 には 育てることはできない
> 育つと、(必ず)  育てられ方 から 脱却する

はい、そう行うことに今があるかどうかですね。

しかし、すぐに怠ってしまうということが心配です。
法を見つづけ、法に帰依することに、今がある。
菩薩でも退転の恐れがあると、本「龍樹 - あるように見えても「空」という」に
出ていたので、私のような凡夫ならなおのこと、と心配になるのです。

でも、菩薩は退転しても涅槃に入るということは、法を外れるのではないのですね。

> できていることが積み重なって、 “できていること”  が 存在します
> できたことの中には、できなかったことは存在していません

はい、おそらく私の「好き」の中に既にあるのです。
ただ、それに対応する言葉は今はない。
言葉にできないそれを「ない」と思うことはやはり顛倒なのでしょうね。
おそらく将来言葉にするときのそれは、今あるところとは変わっている。
メンテ
 見てても 駄目 でみると 無 駄    ( No.11 )
日時: 2016/09/07 23:31
名前:   春間 則廣  ID:97Hfzx3. メールを送信する


菩薩の退転はあります
ありますが
誰がそれを認めますか ?

退転であると認めることができるには
退転が不可欠です
認めること(対象) は 退転であっても
認める(得る)こと( それを 得ている “境涯” )は 退転ではありません


両方が起きれば、最低限 イーコール です

イーコール = 平等  です

平等にあるのは 退転ですか ?

自ら認めなければ、 (自らに)退転はありません

あなたが他にそれを見ても、
あるかないかは 他が決め
他が(自ら) “対処” しなければ
  あろうとなかろうと  同じことです

他人ごとを見る前に
自分ごとに目を向けると
他にかま掛けて 見過ごしている 自らの退転があります

見たくないものは 見てもそれを認めない

認めても しない



メンテ
   どう ダメ で いかに ムダ か    ( No.12 )
日時: 2016/10/31 10:46
名前:  春間 則廣  ID:Z/nUmZ6Q


見てても 駄目 でみると 無 駄  

* 見てても
   駄目 でみると 無 駄  

* 見てても 駄目
   で  みると  無 駄  



>    見てても 駄目

見るところに居る限り
するところに居ない

見つつ する ことは 出来ないこと ではないけれど
出来がたい

できる時には する者がいる
為されたことがあり 成就者 がいる

成就する という 意味を 成就する


そういうことが出来ない と 差別をつける時に
「見」 という 有見 があり  揀択が起きている
そういう観点を用いて

>     でみると 無 駄 
 
という 言葉が生きてくる


メンテ

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